メリーゴーランド
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青白いモノの在処

今日は夏休み前の仕事最終日。

と思いきや、明後日出勤することになる。

膨大にある見積書を7人全員でチェックするという、とても重要な作業をすることになる。

半笑い、半泣き。

仕事のことはこの辺で終わりにして、最近のことをメリーゴーランドする。

(そういえば、最近ブログをさぼってしまって、少し反省しています。)

先週の土曜日、ポスターの案を片手に、新宿で結婚式2次会の幹事会。

5案ほど持っていったポスター案を皆にみせ、1つに絞られる。

どれも多少なりとも思いはあったので、1つに絞られるのは少し悲しい。

しかし、決定された案は皆に共感してもらえたようで、なによりだ。

最近、キリンのビールだかなんかのCMで松本幸四郎・市川染五郎親子が共演しているものがある。

その時に松本幸四郎が

「夢は人の心意気」

というようなフレーズを言っていた気がする。

このフレーズが私はたまらなく、心を打たれる。

気構えであり、こころねである。

昔から職人であった両親の祖父を見てきたから、私は体験として様々な心意気を見てきている。

その体験を通して言えることは心意気は『こころ域』であり、『こころ息』である。

ココロイキを感じるような作品をいつか作りたいと心からそう思う。



話はそれてしまったが、これは私が書く文章だから仕方のないこと。

あんまり気にせずにブツ切りで次の話に移りたいと思う。




一昨日近くのコンビニに夜中歩いて向かっている途中に1匹の蝉に出会う。

蝉はアスファルトの上に身を横たわらせていた。

街灯に照らされたその身を震わせ、生命を賭して声を響かせる。

いつもの街灯と道路の上に蝉がいるだけで、その場はいつもと違っていた。

コンサートでスポットライトを浴びながら歌を奏でる歌手よりも遥かに幻想的に感じられた。



















グレーは繊細な凶器である。

今日は仕事が終わってから結婚式の2次会のフライヤーを作成する。

9月に以前バイトでお世話になっていた人の結婚式に参加することになった。

参加するだけならノンキだったのだが、2次会の幹事になってしまったのだった。
おかげさまで、休日返上で打合せ。

今週末も新宿で色々と話合わなくてはならない。

そして、議事録等色々と面倒なことが多い。

でも、バイトで本当にお世話になった人だからできるだけ、いい2次会にできればと思う。

フライヤーはある程度アイディアが出てきた段階。

なんとなくではあるが、参加する人たちが捨てずに飾っておけるものになればと思う。



結婚式の話はこれぐらいにしといて、今日をメリーゴーランドしてみる。

今日も特にこれといってあげられるものはないのだが、仕事中にふと思ったことを書く。

なんの話題のときに出たのか覚えていないのだが、誰かが『グレーゾーン』という言葉を口にした。

グレーゾーンって、つまりどっちつかずであったり、際どい状態にあるときのことを示すのだが、
このグレーという色の認識は日本と海外では違うようだ。

日本で代表的なグレーといえば、千利休のリキュウネズミである。
リキュウネズミとは、千利休が日本の侘び寂びを表現する為に、ねずみ色に青を混ぜたり、赤を混ぜたりすることで微妙な違いを表現する為に使った方法である。

海外では、あるドイツの写真家がグレーは無に限りなく近いものだと言っていた。
確か、人間の視覚という機能はとても曖昧なもの。
それはグレーに近い。

というようなことを言っていた気がする。


グレーという色自体が曖昧であるという認識は日本と海外で変わらないが、日本におけるねずみ色はとても多様であるのとは対照的に、海外では限りなくゼロに近いものだと考えられているようだ。

日本の文化の中にはこのような、曖昧なモノの中にある多様性、奥行きという概念がある。

最近、私が目指している職業でも、今活躍している若い人たちはこの概念を基礎とした作品を多く作っている。

でも私はその動きにとても恐怖を感じる。

曖昧なモノは多様ではあるが、とても繊細で脆い。

そして、それは破壊する行為になってしまう可能性がある。


曖昧になればなるほど、その職業の必要性は薄れていくのではないか。

また、空間というもの自体そもそも曖昧ものなのに、それをさらに曖昧にしたところでどうなると思っているのだろう。

そんなことしたら行き着く先は無の境地なのではないのだろうか。
そんな哲学的な話に興味はないし、私にはその行為が良く理解できない。


こんなことを仕事中にふと考えていた一日だった。

本当のアリスはどちらなのか。

今日はブログでなにを書こうかと考えながら、外に出て一服。

星を見ながら、今日一日のできごとをメリーゴーランドしてみる。

今日は結構なんでもない日だったなぁと振り返る。
昔、不思議の国のアリスをビデオで見たときのことをふと思い出す。

確か、なんでもない日も特別なのだから祝おう。というシーンがあった。

なんでもない日ってなんだろうか。

自分で今日はなんでもない日だったと書きながら、疑問に思う。

そんな中、日常という言葉が、開園前の静けさの中で観覧車がゆっくりと動き始めるようにじわじわと上昇する。

嵐のような毎日を生きている人にとっては、他人から見たら異常であってもその人にとってはなんでもないのだろう。

なぜ?


日常だから。

なんにもせずに毎日寝てばかりいる人も、寝ていることはなんでもないことなんだろう。

なぜ?

もちろん、日常だから。


日常的な世界ってたぶん本人だけしか感じることのできないものなんだろうな。

感動的だったり、日本的だったりなんでもいいのだが、そこらの○○的とちょっと違う感覚。


そこらの○○的は、少数であったとしても共感できる人が少なからずいる。

でも、日常的って本当に不思議な感覚。

先ほどのアリスのなんでもない日を祝う人にとってはとても日常的だけれど、アリスにとっては非日常的な体験になる。

しかし物語を進めていくうちにいつのまにかアリスもその世界の住人であるかのような振舞いを見せ始める。


不思議の国のアリスという物語を作った作家が意図しているか分からないが、あの物語は抽象としての日常的と具象としての日常的が往来することで、これら日常的が持つ反転性のようなものを描いているのではないかと私は感じた。

その瞬間、今日は私にとってなんでもない日ではなくなっていた。