玉陵記事から
第一尚氏
第二尚氏の言葉に出会い
それは
どうしたわけで そう呼ぶのか
調べました
私の覚書なので スルーしてもかまいませんよ
首里城の「歓開門」↓
15世紀初頭
第一尚氏の尚巴志(しょう はし)は
琉球国の 南・北の王を 制し始め
琉球に統一王朝を樹立しました
しかし
わずか 64年で伊是名島(IZENA-JIMA)出身の
金丸を 祖先とする
第二尚氏に 王の座を奪われました
出ました!第二尚氏
まぁ いわば秀吉と徳川の権力争いに似てますね
なるほどね
こういうことなんだ
1470年に
初代王 尚円(金丸)が即位し
第二尚氏王統が誕生です
尚円はなかなかの政治家で
中国とは
臣下の国家として朝貢や冊封関係を継続しつつも
1906年
薩摩侵略以降は
日本の幕藩体制下の国家として
400年以上の長い間 琉球国家を治めてきました
第二尚円は
アジア諸国と交流を持ちながら
とくに中国の皇帝とは深い関係を築き
高価な宝物が下賜されました
しかし
近年 尚王家の多くの伝来品が
ごく わずかなことがわかりました
それは
三度の大きな災難
一度目は 薩摩侵略
首里城に攻め入った時に
城内の宝物を戦利品とし国外へ持ちだしました
二度目は 廃藩置県
琉球王国は崩壊し沖縄県となり
首里城は明治政府が接収しました
この時の王が尚泰です 最後の王でした
華族(侯爵)となり東京へ住まいを移しました
三度目は 第二次世界大戦による沖縄戦です
多くの人命と共に王国が築いた文化遺産も消失しました
戦争(イクサ)は二度とさせてはならない
という県民の気持ちが痛いほど理解できます
尊い人命を奪い 家族離散・文化財消失
良いことなど どこにも見出せませんね
前に
友人が尚氏の祖先は「伊是名島」と言った意味がわかりませんでした
あの頃は 那覇の桃原(尚家)が なぜ伊是名?と考えました
第一尚氏から第二尚氏までの流れが理解できた今
やっと友人の言葉も納得です
話しは飛びますが 苦手な「日本史」でした
それがいま 歴史を学ぼうと努めている私です
歴史を知れば己のアイデンティティもわかる
なるほどです
琉球王国時代のお正月の宴の様子です
おもろそうし
尚清王(1531)~尚豊王(1623)にかけて
首里王府により編纂された歌謡集です
おもろ とは「思い」の意味合いで祭祀の祝詞です
そうし とは「草紙」大和の草紙から命名されました
ひらがなと漢字で構成されていて
琉歌の原点であり
今では使われない琉球古語が多く使われた歌謡集です
資料価値としては国の重要文化財で
沖縄県が所有し
沖縄県立博物館と美術館に保存されています
冬毛の番犬ラッキーでち
カットして今はさっぱりでち
冬毛もすてきだねー
あじぃでち すべるでち
そーでした 床を歩くのはハードル高かったね
素敵な日々をあなたへ
画像の一部は今年の正月に首里城へ行ったときのものです
系図はネットからお借りしました