みなさま、残暑お見舞い申し上げます!
毎日うだるような暑さがまだまだ続きますが、お変わりなくお過ごしでしょうか?
私は空元気ではありますが、父なる神様の憐れみと恵みによって生かされ、過ごせております。神様に感謝します。
ブログにたくさんのフォロー、いいね!、コメント及びメッセージをありがとうございます。
標記のことについて、聖書からメッセージをさせていただきます。
「何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになったからです。」(使徒の働き第17章25節)
天地創造のはるか前、永遠の彼方から、父、御子、聖霊の三位一体の神は、3つのご人格相互の、完全な愛の交わりの中で栄光に輝いておられました。神には欠乏というものは一切ありません。
神が人間を創られたのは、神の栄光のためです。
「わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。」(イザヤ書第43章7節)
私たちは聖書全体から神が人を愛しておられることを認めることができます。
「神は、実に、そのひとり子を与えるほどに世を愛された。それは御子(イエス・キリスト)を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネの福音書第3章16節)
愛は常に表現の対象を求めます。人が神の愛の対象として創られたとは聖書全体が語っていることです。「神は霊です」(ヨハネの福音書第4章24節)から人間のようなからだを必要としておられません。神が完全な人格的ご存在であられるのに似せて人間が人格的存在として創られました。
人間の人格、すなわち人間の知性、感情、意志の源は神のご人格であるのであって、進化論者のいうような下等動物から発展したものではありません。
人間は霊とたましいとからだで存在しています。動物はたましいとからだで存在します。人は霊によって神と交わります。たましいによっていわゆる精神活動を行います。肉体は霊とたましいの器です。肉体でこの地上に存在します。アダムが罪を犯したとき、アダムはその罪に対するさばきとして肉体的に死ななければならない者になりました。さらにエデンの園で持っていた神との親密な交わりをも失いました。神と人間の霊との交わりが断ち切られることを霊的死と言います。そして、人間の中に罪が入ってきて、人間性を支配しました。聖書はその人間性を肉と呼びます。ですから、聖書は次のように語っています。「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって・・・」(エペソ人への手紙第2章1節)、「ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にある」(ローマ人への手紙第3章9節)、「ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広かったのと同様に、・・・それというのも全人類が罪を犯したからです」(ローマ人への手紙第5章12節)
このように人は神から断絶した状態で、すなわち霊的に死んだ者として生まれてきます。生まれた時から人間性そのものが罪に支配され、神に対して死んだ状態です。「肉の思いは死です」(ローマ人への手紙第8章6節)
神は人間をロボットのような自由のない者にはお創りにならず、自由に自分の行動を選べる、すなわち自由意志を持った人間をお創りになったのです。ですから、アダムは自発的に神に従うことも、逆らうこともできたのです。アダムは他から強制されたからではなく、また、自分の中に罪に誘惑される罪深い性質があったからではなく、自分の決断に基づいて神の戒めを破る道を選んだのです。
今日も日本で、世界中で小さないのちが守られますように!
ひとりとして、一匹として苦しい思いをすることがありませんように。
最後までご覧いただき、誠にありがとうございました!