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☆愛がいちばん!ネアカ椋田☆寅吉の本日完売ブログ☆(悲しんでいるようでもいつも喜んでいる人のブログ)☆

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私のブログは利益を目的としたものではなく、宗教や新興宗教及びその他の団体とも一切関係ございませんので、お気軽に、長いお付き合いよろしくお願いします。

みなさま、お変わりなくお過ごしでしょうか?

私はお陰さまで空元気ですが元気です。


前回のたくさんのブログ記事でも、たくさんのフォロー、いいね!、コメント及びメッセージをくださり、ありがとうございました!


標記のことについて、聖書からメッセージをさせていただきます。


「このわたし(神)が地を造り、その上に人間を創造した。」(旧約聖書イザヤ書第45章12節)


『人間には、一度死ぬことと、死後にさばきを受けることが定まっている。』(新約聖書ヘブル人への手紙第9章27節)


事故や病気で心臓が止まって、一度は『死んだ』状態であった人が、心臓マッサージや人工呼吸でまた脈がもどり、息を吹き返すことがあります。

こうした人々がその『死』の間に体験したこと、それを『臨死体験』と言います。


この臨死体験に関するレポートが、1990年にランセットというとても有名な一流医学雑誌に載ったのです。臨死体験をされた58人に聞くと、その体験はほぼ共通していて「自分が自分の体を離れたのがわかった」、「トンネルの先に光が見えた」、「思考力や五感がとぎ澄まされていた」だったのです。


そして58人の病状を分析すると、実際には命に別状はなかったというグループと、本当に危篤状態であったという二つのグループに分けらました。


すると、本当に危篤状態にあったグループの人々のほとんどが、「思考力や五感がとぎ澄まされていた」と、まるで意識があったような体験をしていたのです。つまり、危篤状態で脳も活動が停止しかかって、無意識であってもおかしくない人たちが、逆に意識があったような体験をしていたということです。


この臨死体験の原因が、救命のため受けた治療の影響であるとか、死にかけたというショックによる錯覚であると考えることもできるが、でもその考えを裏付ける証拠はありません。ただ言えることは、人間の身体機能の停止と意識の消滅が、同時かどうかは断定できない謎であるということです。




新約聖書をお持ちの方は、ルカの福音書の第16章19節から31節までを注意深くお読みください。


聖書には、死んで天国へ行ったラザロという人と、死んで地獄へ行った金持ちが記されています。金持ちはなぜ名前が出てこないのでしょうか。それは、金持ちの行き着く先が、あまりにも苦しみと悲惨であったからかもしれません。(金持ちは金持ちだったから地獄へ行ったのではありません。クリスチャンの資産家も存在します。この金持ちは、神の救いを信じ受け入れなかったので地獄へ行ったのです。)


そして、私たちが最も注目すべき点は、この話が宇宙の創造主であられ、万物のいのちの源であられる、全人類を造られた主イエスご自身によって語られたということです。ここを読むと、「死」とは、人がその意識を保ったまま、この世ではない所に移動するだけとわかります。しかも死んだ後、金持ちは『炎の中で苦しくてたまりません』と叫んでいたと書いてあります。


人は死んで終わりではなく、死んだ後に神様にお会いするとしたら、それが真実であるとしたら、私たちは、永遠の滅びから救ってくださる神イエス・キリストを信じて地獄から救われなければならないのです。私たちが死んでのち永遠が地獄ならば、そうして救われなければ、この世でいくら幸せを重ねても、私たちに本当の幸福はないのです。


主イエス・キリストは、私たちの罪のために十字架にかかり、死んで葬られたのち、3日目によみがえられたあなたの救い主です。



今日も、日本で、世界中で小さないのちが守られますように!


ひとりとして、一匹として、苦しい思いをすることがありませんように。



ご覧いただき、誠にありがとうございました!