Tシャツとミニーの耳を買って、ミッキーとのツーショット。
仕事の都合で秋田へ一時帰省ができなかったが、妻が東京に来るというので、一緒にゴールドでも行こうかと思っていたら、いつのまにかディズニーランドへ行く、ということになっていた。ということで、人生初のディズニーを体験してきました。しかし、僕が知っているディズニーとはまったく違う世界だった。詳細はこのブログの後半で。
現在長期出張で国立市に住んでいるが、舞浜駅へいくルートを調べると中央線で国立→東京からの、京葉線乗換で舞浜。これしかでてこない。
しかし、中央線だとほぼほぼ座れない。ディズニーの往復では足を休めたいところなので、別な経路を探したところ、15分くらい遅いがバッチりなのがあるじゃないか。国立から一駅(2分)の西国分寺で武蔵野線の東京行に乗り換えれば、そこからは乗り換えなし。予想通り、ほとんど座りっぱなしで往復できた。
東京暮らしで知った2つのこと。
①中央線は、ちょうどよい時間より「少なくとも3本早く乗れ」とにかく直ぐに遅延が発生する。一度会議に遅れそうになったことがあった時、自殺したい気持ちになったので良く分かった。
②乗換案内のアプリやサイトがベストとは限らない。
さて、人生初ディズニーランドの率直な感想。人混みが苦手な僕ですら、また来てみたいと思えたくらい、楽しかった。電車で舞浜に向かいながら、どのように行動すればいいかを秋田のディズニー大好きさんから情報をもらいながら。
その教えの通り行動した。スペースマウンテンは凄かったなぁー。多分3分くらいのアトラクション。猛スピードで進んでいく。周囲が真っ暗なので、次はどっちにターンするだろうかと無意識に予測し続けてしまう。
右、また右、さらに右!からの「また右かよ!!!」と思うくらい、予測できないターンの連続で、アドレナリン分泌。興奮しました。
ショーなども含め大満足です。また来たいです。ですが、もし具体的な感想を求められたら、僕の感想としては
『アトラクションやショー・パレードが凄く楽しかった!』
ってことになるだろうなぁ。でもそれは僕が知っているディズニーではなかった。
20代半ばのころ、パーソナルトレーナーになろうとしていたい時に、どうやったらリピート率を高くできるかということもかなり情報を集めて勉強していたんですね。
リピートをキーワードに色々調べていると、ディズニーランドの話に何度も何度もめぐり合うんですよ。ディズニーの強さは、キャストの接遇と商品販売力によるものだと。その具体例を説明している人がたくさんいて、「これがディズニーの強さの秘密!」ってのをずっと知っていたんですよ。
15年くらい前だろうか。僕の中のディズニーランドはその状態で止まり続けていた。そして初めて足を運んで分かったことは、僕が知っていることは、もう何も存在していないということ。さすがにもはやかつての事だったのか、期待が大きすぎたのかも知れない。それともその日はたまたまだったのか。
ディズニーですらこのように変化するのだから。。。ま、この話はこの程度に。僕は、「次はシーに行きたい!」「スペースマウンテン、また乗りたい!」と思えましたよ。
次に感動したのが、ファストパス!あの仕組みはスゴイなーー、巧妙ですごい奥が深いですね。ちなみに順番待ちで一番時間がかかったのが、冒頭の写真で45分。ミッキーに会うのは並大抵ではないです(笑)
あと、最後に気になったのが、妻の口から何回かでたこの言葉。「さすが夢の島だねー」って。
「島じゃなくて、国じゃなかったけ?」と言おうか言うまいか、その言葉を聞くたびに迷った。。。どーでもよいですねwww
ディズニーに行ったことが無いと言うと、10人中10人から「ありえない!」って顔されてきた。いやもっとオーバーなリアクションかな。「え?人ですか?」みたいな雰囲気になってたけど、これでやっとか僕も人になれました。神様、ありがとうございます。

2日間の支配人会議に出席してきて、支配人の皆さんを見ててふと思い出した話。
もう2ヵ月くらい前の話ですが、偶然、新しい支配人が着任した店舗を転々とまわっていた時のこと。
『支配人は孤独だと聞いたんですけど、そういうものなんですか?』という、とある新支配人からの質問。
リーダーが現実を見て、全体的なことを考えて判断しても、メンバーの中には個人的な思いや理想、正しさだけで、異論を唱えたり、逆行する相手がいることもある。でもそこには責任感も覚悟もあまりない場合もあって、『やるべきこと』ではなくて、『やりたいこと、やりたいくないこと』だけで簡単に意見してくることもあります。
そういうことで悩んで、『メンバーが全員同じ方向を向いてくれない』ってことにフォーカスしちゃって『あぁ、リーダーは孤独だってこういうこかぁ』とか考えてしまうんじゃないだろうか。
でもそういう意味じゃなくて、自分が最終的な決断しなくてはいけない、責任は自分が背負う覚悟を持たなくてはいけないってことを「孤独」という言葉で説明しているだけがほとんどだろう。
本当の孤独ってのは、会社であれば職場に心を通わせる相手が誰もいないってことですよね。もしそうなのであれば、それはリーダーだからではなくて、その人の人間性の問題の方が大きくないかな。
自分が良いと思うことをメンバーに理解してもらおうと努力するのは良いけど、それをどう受け取るかはメンバーの課題であって、リーダーのではない。そこに踏み込むからおかしなことになったりする。相手がどう捉えるかを変えてやりたいと思ったら苦しくなる。
新たにリーダーの立場になった人には知っておいてほしい。リーダーになったからといって孤独だなんてことは決してない。相手の課題に踏み込まず、たとえ自分を理解してもらえなくても、批判を浴びようとも、それでもなお「自分から」相手との良い関係を築こうと努力したいところである。相手次第ではなく、常に自分からだ。実にシンプル。
ところでドラッカー先生はこう言っている。
「リーダーシップとは、組織の使命を考え抜き、それを目に見える形で明確に確立することである。」
自分が目指したいものもあるだろうが、「組織の使命」を一番に考えられないようではリーダー失格なわけですね。批判・異論を恐れずに使命を果たす勇気も必要。そういったことでは、正確な意味ではないが「孤独」と言いたくなるもの分からなくはない気もする。
そこで悩んで、使命を果たすことを躊躇したり逃げたくなったりする時があるのも、人間らしいと思える。
でも使命を果たさずに自分がやりたいことに傾倒となるとそれは単なるエゴですよね。マイナスになるのは、自分の預金口座ではなくて会社ですから。この感覚が麻痺したらもうお終い。
でも実際、この感覚ってのはなかなか難しくて、やっぱりより責任の重い立場とかを経験していくことも必要なのかも知れない。僕も未だにうっかりしていて上司からそこを気づかされることも少なくありません。
またドラッカー先生は、こうも言っている。
『リーダシップとは人を引き付け、人に影響を与えるものではない。』
組織の使命を果たすためには、メンバーを通して結果をだすことですよね。人を引き付け、人に影響を与える力はあった方がいいように思える。しかし逆にそれがあったからといって組織の使命を果たせるかどうかは別問題とういうのは事実。
ということを考えると、「なんで?どういうことなんだ?」と感じてしまうが、この疑問に対してもドラッカー先生は実に明確な答えをだしている。
「リーダーシップとは仕事である」
リーダーシップを仕事として捉えることが、リーダーの条件だといういことになる。決してカリスマ性だとか、資質によるものではなく、誰もがリーダーシップを発揮することができるということ。
改めてドラッカー先生に目を通すと、シビアな気持ちになり現実をしっかり見ることに自然と集中させられますね。
自分のビジョン、理想を打ち出し掲げることは良いけど、「組織の使命を果たす」、つまり、まずは責任ありき。
マネージャヤーとは『責任はあるけど権限はない』と思ってしまうようなことが多々起こる。これも本当にシビア。だが責任を果たしてこそ権限が生まれることには何ら異論はあるまい。そこが逆になったらもうビジネスではなくなる。組織の成果に責任を持てないリーダーなど話になりませんから。
ドラッカー先生も、組織社会における唯一のリーダー層はマネージャーであり、マネージャーとは「組織の成果に責任を持つ者」と定義している。「リーダーシップとは組織の使命を果たすこと」というのにも繋がっていますね。
その一方で「部下の責任を持つ者ではない」と言っているところも、いかにもドラッガー先生。これは先に述べた、「部下の課題に踏み込んではいけない」というのと恐らく同じ意味だろう。これについては、別な機会に。
この辺をしっかり理解せずに、「やりたいことと」と「やるべきこと」を混同してしまうとおかしなことになる。
責任を疎かにして、やりたいことをやろうとしたり、権限を得ようとすることに走ってしまうと、責任を問われた時に上司やメンバーを無意識に敵だと見なしてしまいます。
しかし本当の意味で原理原則を理解していればそのようなことは起こらないということなんですよね。『組織の使命を果たす』、それがリーダーシップという『仕事』なんですから。
こんなこと書いていると、やっぱりリーダーって孤独なのか?ってついつい自分でも考えだしそうです。孤独を受け入れないリーダーは2流だ!とか言っている人もいるだろけど、でもやはり僕はそんなこと決してないと信じている。
使命を果たすために進む時、ついてこられないメンバーがでたり、慕われなくなったり、批判も浴びてしまうかも知れない。でもそれは孤独とは違う、と言いたいのです。
相手と良い関係を築こうと差し出した手を、相手にはじかれるかも知れない。
そしたらその相手を仲間と見なさないのか?
自分のやることを批判するのなら、仲間ではないのか?
自分を支持してくれて、いつも助けてくれるから仲間なの?
自分と気が合うから良いメンバーなの?
それじゃただの交換条件じゃないか。助け合う、協力し合うのも仲間だけど、たとえ一方通行でも、自分が相手のことを仲間だと信じて、助ける、協力する、良い関係を築こうと努力し続けるのと、「あの人は、自分のことを嫌っている」と思って仕事を続けるのと、どちらが自分の人生にとって良いか。相手次第ではない、どちらかになるかは自分が選択できる。
相手に向けた指をグルリと回して自分に向けたい。孤独を感じるのは、相手が自分から離れていくからではなくて、その逆だと僕は思う。孤独かどうか?それは自分の主観で変えられる。
以上をドラッカー先生の言葉と融合させるとこういうこと。
『組織の使命を果たすことを最優先』なおかつ『周囲にいる全ての人は仲間だと信じること』
「支配人は孤独だって聞いたんですけど。。。」の話からだいぶ長くなりましたが、これが今日のまとめですね。
いやいや、そんなこと言ったって、相手から避けられたり、嫌われて、それでも仲間だと信じ続けることなんてできるの?と思われるかも知れない。
そんな人へ、僕が折に触れて読み返すようにしている言葉を最後に紹介します。
あのマザーテレサも引用したというケントMキースの『逆説の10カ条』の1つを。
人が本当に助けを必要としていても、実際に助けの手を差し伸べると攻撃されるかもしれない。
それでもなお、人を助けなさい。
『それでもなお』の意味は?
いや、そこに特別な意味も理由もない。だから良いのです。仲間だと信じることに理由などなくてもよいのです。それが良いことだと信じるならば、それだけが判断基準でいいじゃないか。僕はそう思う。


『この前、研修で教えてもらったこと、すごく大事だってわかりましたー!』
ジムを歩いていると、女性スタッフの1人が僕にそう話しかけてきた。
『ん?どんなことだっけ?』と僕。
『お客様との距離を縮めるって話ですよ。』
『あー、そのことね。何かあったの?』
『わたし、派遣もやっていて、スーパーで試食販売やってるんですよ。買い物中の人に試食を勧めるんですけど、この前、いつもよりもお客様にもっと近づいて試食をしてもらうように案内したら、全然反応が違くて、すごいいつもより食べてもらえたんですよー!それで、あーこういうことかーお客様との距離を縮めるのが大切って。それが分かったんですよー。』
『えーっそうなの!
『はい、でも本当に違うんですね、びっくりして嬉しかったです!』
『
という会話。
声をかけよう!コミュニケーションが大事!って言う人は多分たくさんいるだろうけど、それ以前にまず「近づく」ってことから教えないとダメなんですね。別に声をかけようとしなくても、常に「近づく」だけで、変わってくることが色々ある。
まず確実に変わるのが、お客様の方から話しかけれる頻度。心理学的根拠を持ちだすまでもなく、人は距離が近い人に親近感を持ちやすくなる、当たり前。これに礼が整ったキレイな挨拶をする。もうこれだけで相当違う。
ちょと話がそれました。まぁいろいろ言いたいことはあったものの、とにかくこのスタッフは実践して、そこから得たものがあったことは素直に嬉しい。
この時、面白いと思ったことが1つある。試食販売の仕事について話しながら「今日はそのおかげでメッチャテンションあがりましたーー」と僕に笑顔で話している様子からは、なぜそうしなくてはいけないのか?どのような効果があるのか?といったことまでを考えているようにはとても見えない。
そのような理屈やノウハウといったものはさておき。『やってみた』というだけのこと。やってみたら、なんかしらの結果がでた。
そんな様子をみながら、僕自身考えさせられた。いろんなこと勉強して知るようになると『言うことは立派だが、結果を出していない』とう人もでてくる。どうしても頭デッカチになりやすい。
そういった人間になってしまうとケツを叩かれても結果を出そうとしなくなるどころか、それを正当化する理屈を考えて予防線を張ろうとまでしてしまう。まさに「口だけ立派」の典型だ。
僕もどちらかと言うと、人知れず良い行いを積み重ねようというよりは、あえて自分がしていることや良いと思うことを表に出すことを意識している。
それを自覚しているだけに、「口だけ立派」になりつつないか?行動しているのか?周囲は行動していると認めているのか?そう考えるとサーーッと不安な気持ちにおそわれた。
理想、理論、理屈、原理、原則、ノウハウ、これらも大事だけど、結局やるべきことをやっていないなければ、ただの自己満足。そんなものは別に詳しくなくたって、このスタッフのように「やってみるだけ」で成果・結果は得られる。
ちなみにこのスタッフは、その2日後には、お客様から挨拶と笑顔についてお褒めの言葉をいただいていた。すごいなぁ、これは素直にそう思える。なぜそのようなことが起きたのかについて考える必要ないな。「ただ、やってみたから」それが答えだ。
成果に直結してないことをグダグダ言っている暇があるなら、このスタッフのことを見習って行動しなきゃね!ただやってみる。それが成果をだすための体質づくりだなぁやっぱり。分かっているつもりで、本当の自分はそうでもないかも。またそんなことを考えさせられた。

物事、なかなか自分が思うようには進まない。全てではないけど、そういうことの方が多い。世間一般的に成功していると思われている人達も、『こんな凄い人なのに?』と思うような失敗や挫折を経験している人の方が多くて、それを乗り越えて現在に至っていることもたくさん知っている。
そのはずなのに、自分が思うようにはならないことが多いのは当たり前だということを、実は表面的にしか受け止めていなかったことに最近気付くことができたように思う。
自分の過去を振り返りつつ、そんなことを考えていると、ふとあることに気づいた。
『そういえば、物事が自分の思うように進んでこなかったのは、悪いことや辛いことだけではなく、良かったこと、嬉しいことについても多いなぁ。』
仕事の面でも、私生活でも、良かったなぁ、嬉しいなぁと思えることには、自分が予想や期待してなかったこともたくさんあるじゃないか。
それなのに、都合の悪いことが起こった時だけ『思うようにいかないなぁ』と思っていた自分に気付いた。
『やりたいこと』と『やらなくてはいけないこと』の差。
『自分の考え』と『周囲の考え』の差
『望む未来』と『求められる未来』の差
良いことも、悪いことも、予想通りにはならないのに、人生経験を「それなりに」積んでいくと、自分が色々なことを「わかったつもり」になっている。それが原因じゃないかな。
「わかったつもり」が出来上がると、それが自分の物差しとなり、それで色んなものを測ることが身についてしまう。そして比べてしまう。比べるから苦しくなったり、悩んだり、不満を感じるようになる。そして見えない未来までその物差しで測ろうとしていたんだなぁ。
過去を振り返り、たとえば5年前の自分は未来についてどう考えていたかなぁと当時を思い起こしてみた。良くも悪くも、今の自分に至っている経緯は予想外のことの方が多かったかな。
現状を予想していたわけではないけど、振り返ってみると『なるべくしてなったなぁ』という気がしないでもない。
あの時、違う判断をしていたら、どこかで何かがほんの少しズレていただけで、現在は変わっていたかもしれないとか。
○○してたおかげで、こうなったけど、もとはといえば○○というきっかけが始まりだった。いや、そもそもそのきっかけというのは、あの人の存在があったことや、ちょうど良いタイミングだったのかも知れない。
などなど。過去をたどっていくときりがないほど、繋がっているように感じる。
全ては『縁』だ。人との繋がりだけではなく、起きた出来事や自分がいる環境、そこにいる人達、全ては『縁』。不思議なものだ。
その時々、「今、ここ」という「点」が積み重なり、それを振り返った時しか点と点が結ばれて「線」になることを知ることはできない。
いわば未来の自分が過去を振り返り結果論としてみているのが人生の「線」であり、現在と未来までの点を予め用意し、それを結んで「線」にするために生きているわけではないということ。僕はそう思う。
『未来を見て、点を結ぶことはできない。過去を振り返って点を結ぶだけだ。だから、いつかどうにかして点は結ばれると 信じなければならない。』
ご存じ、スティーブ・ジョブスの伝説のスピーチの一部。この言葉を改めて今思い出し、とても腑に落ちた。当時、このスピーチをyoutbeで見た時、どれほど勇気がわいたことか。
与えられているのは、変えることのできない過去でもなく、見えない未来でもなく、「今、ここ」という点のみ。そう考えると、自分にできるのは、その点がいつかどうにかして結ばれると信じることのみなんだということがよく分かる。
ということは・・・・?
そうか、予想していなかった出来事に気持ちが揺さぶられたり、現状に不満を感じるのは、今を一生懸命生きていない証拠じゃないのか?
自分の物差しを取り出すのは、逃げたいからだろう。自分が変わりたくないからだろう。現状に納得いってなくても、不満があろうとも、『現実的な努力』を自分に要求することに比べればその方が楽だ。その生き方には勇気も必要ない。
ジョブスが言っていた『点が結ばれると信じる』というのは、『今』を避けたり、逆らうのではなく、
『今』を活かすこと。
自分に与えられているのは、変えられぬ過去でも、見えぬ未来でもない、“今、ここ”だけでしかないのだから。そういうことじゃないのか?
『不満があるのは、今を一生懸命に生きていないからだ』
『今を活かそうとしないから、不満が生まれる』
比べず、測らず、今という一点に集中しよう。これは言葉でいうほど簡単じゃない。とてつもなく難しいぞ。だが、そういう心構えを持とうと努力し続けるのと、そうではないのとでは、明らかに人生は変わってくるんじゃないか?
“今、ここ”を一生懸命生きよう。改めてそんなことを考えて一日だった。
起きた出来事、すべてに意味があると僕は思っていた。でもそうじゃない、人生の意味とは、自分が与えるものだ。
これが僕の”勇気”の動画 ジョブスもアドラーの影響を受けている?
https://youtu.be/XQB3H6I8t_4

先日、同僚と飲み会の席で、ふとしたことからマクドナルドの話題となった時のこと。個人的にはJALの時以上に、どのようなリカバリー路線をいくのか?とても注目している。そんな話をした。
本当に突拍子もない素人考えかもしれないけど、「この方法がいいだろう」ってのを考えてみた。
直営店はどうしたらいいか分からないけど、FCの店舗はマクドナルドの看板をやめることです。リブランドオープン。
もう一度、認知・興味といった部分からスタートした方が近道じゃないかな。マクドナルドほどの規模を持っているからこそできることだと思うからなんですね。
新メニュー・サービス、品質改善、これらは絶対必要だけど、それをアピールしているだけでは時間がかかり過ぎる。飲食で、あれだけ顧客離れが起こって赤字に転落したら、リカバリーする前に潰れちゃう。
もっと強力なインパクトが必要だと思う。そのためには中身・内部的なことだけでなく、思い切って外観を変えて認知・興味という部分から。
①新メニュー・サービス導入、品質改善
思い切ってサンドイッチとか、低糖質スイーツとかをはじめるとか。品質改善についてはメディアや店舗内でアピール。
②看板を変える
①の準備をしっかり行っておいてから、いっせいに看板を変える。自宅の近くや、通勤通学途中とかで見慣れていたマックが、ある日突然違う看板になっていたらどうか?これは間違いなくかなりの話題になる。マックだからこそなる。
↓
③反応が起こる
「あれ?なんか変わったの?」「ちょっと行ってみようかな」という人が、最初は少ないかも知れないが必ずでてくるし、既存のお客様どうしでも話題になる。
↓
④口コミの発生
そこで新しいサービスやメニューだったり取組などを知ったり体験すると、良くても悪くても必ずその感想を周囲の人に話す。FBとかにアップする人が増えそう。
↓
⑤さらなる拡散
それを聞いた人は、同じように周囲の人に話す。「わたしの職場の人、新しくなったマックに行ってきて、○○だって言ってたよ。」てな感じで伝染する。
こんなストーリーだ。看板が変わる、周囲の話題になる、メディアも勝手に取りあげてくれる。というようにして、「世間がマックの変化に注目している感」を作ってしまえばいい。
そのための肝となるのが、看板。マックがマックじゃなくなったら、相当なインパクトだろう。イメージ回復では時間がかかり過ぎる、一気にイメージを「変える」しかない。
それでもやっぱり①は大前提だから、メニュー以外にサービス面で負荷価値もあった方がいい。特に郊外の店舗は、特定の客層に向けたサービスをできるように店舗主導を強化。
と、勝手に再生プランを考えてみました。
なんでこんなこと書いたかというと、以前の叩かれ方や、現状に対して、僕は同情してしまうところがある。
別にファンではないし、そんなに行っているわけじゃやないんだけど、これまでマックが応えてきた消費者のニーズってのは相当なもんだと思うんですね。
美味しくて、安い商品を、短時間で提供してくれる。これってすごいことだと思うんですよね。そういうニーズがどんどん増えてくれば、さらにそれに応えようとせざるを得なくなってくる。
できるだけ安くて、手軽だけど、おしいものが食べたいというのは、普通のことであるけど、頑張り過ぎて、一線を越えてしまった、というところだろう。しっかり限界の線を引くことができなかったとはいえ、結局それは消費者が求めていった結果でもあるんじゃないかなと。
ところが一般社会においては、それが見えない。「なに言ってるの?いくら安くて美味しいものを提供したいからって、あんなことありえんだろ!なんで消費者がそれに関係しているんだ?」と怒られそうだけど、そういうことではない。
安値で良いサービスが続くことを何も意識せずに普通に思っている時は、消費社会の裏側には目を向けず、問題が表面化してくると、一気にそこを非難し始める。そんなことが起こってしまった。
そういう叩き方は、まったくもって核心からそれていると僕は感じるのです。しかしそれはそれでしょうがないことなんだけど。だからこそ、そこから這い上がって、頑張ってほしいなぁと思ったのでした。
本当に突拍子もない素人考えかもしれないけど、「この方法がいいだろう」ってのを考えてみた。
直営店はどうしたらいいか分からないけど、FCの店舗はマクドナルドの看板をやめることです。リブランドオープン。
もう一度、認知・興味といった部分からスタートした方が近道じゃないかな。マクドナルドほどの規模を持っているからこそできることだと思うからなんですね。
新メニュー・サービス、品質改善、これらは絶対必要だけど、それをアピールしているだけでは時間がかかり過ぎる。飲食で、あれだけ顧客離れが起こって赤字に転落したら、リカバリーする前に潰れちゃう。
もっと強力なインパクトが必要だと思う。そのためには中身・内部的なことだけでなく、思い切って外観を変えて認知・興味という部分から。
①新メニュー・サービス導入、品質改善
思い切ってサンドイッチとか、低糖質スイーツとかをはじめるとか。品質改善についてはメディアや店舗内でアピール。
②看板を変える
①の準備をしっかり行っておいてから、いっせいに看板を変える。自宅の近くや、通勤通学途中とかで見慣れていたマックが、ある日突然違う看板になっていたらどうか?これは間違いなくかなりの話題になる。マックだからこそなる。
↓
③反応が起こる
「あれ?なんか変わったの?」「ちょっと行ってみようかな」という人が、最初は少ないかも知れないが必ずでてくるし、既存のお客様どうしでも話題になる。
↓
④口コミの発生
そこで新しいサービスやメニューだったり取組などを知ったり体験すると、良くても悪くても必ずその感想を周囲の人に話す。FBとかにアップする人が増えそう。
↓
⑤さらなる拡散
それを聞いた人は、同じように周囲の人に話す。「わたしの職場の人、新しくなったマックに行ってきて、○○だって言ってたよ。」てな感じで伝染する。
こんなストーリーだ。看板が変わる、周囲の話題になる、メディアも勝手に取りあげてくれる。というようにして、「世間がマックの変化に注目している感」を作ってしまえばいい。
そのための肝となるのが、看板。マックがマックじゃなくなったら、相当なインパクトだろう。イメージ回復では時間がかかり過ぎる、一気にイメージを「変える」しかない。
それでもやっぱり①は大前提だから、メニュー以外にサービス面で負荷価値もあった方がいい。特に郊外の店舗は、特定の客層に向けたサービスをできるように店舗主導を強化。
と、勝手に再生プランを考えてみました。
なんでこんなこと書いたかというと、以前の叩かれ方や、現状に対して、僕は同情してしまうところがある。
別にファンではないし、そんなに行っているわけじゃやないんだけど、これまでマックが応えてきた消費者のニーズってのは相当なもんだと思うんですね。
美味しくて、安い商品を、短時間で提供してくれる。これってすごいことだと思うんですよね。そういうニーズがどんどん増えてくれば、さらにそれに応えようとせざるを得なくなってくる。
できるだけ安くて、手軽だけど、おしいものが食べたいというのは、普通のことであるけど、頑張り過ぎて、一線を越えてしまった、というところだろう。しっかり限界の線を引くことができなかったとはいえ、結局それは消費者が求めていった結果でもあるんじゃないかなと。
ところが一般社会においては、それが見えない。「なに言ってるの?いくら安くて美味しいものを提供したいからって、あんなことありえんだろ!なんで消費者がそれに関係しているんだ?」と怒られそうだけど、そういうことではない。
安値で良いサービスが続くことを何も意識せずに普通に思っている時は、消費社会の裏側には目を向けず、問題が表面化してくると、一気にそこを非難し始める。そんなことが起こってしまった。
そういう叩き方は、まったくもって核心からそれていると僕は感じるのです。しかしそれはそれでしょうがないことなんだけど。だからこそ、そこから這い上がって、頑張ってほしいなぁと思ったのでした。
前回ブログの果糖のお話の続き。砂糖=ブドウ糖+果糖。果糖の甘さはブドウ糖の1.5倍とも言われており、脳へ快楽のシグナルを発して依存を発生させる。血糖値の上昇もさせずに満腹中枢を刺激するシステムをすり抜けてくる技も持っている。
血糖値を上げないのはいいことのように思えるが、そうではない。ブドウ糖は体内の至る所でエネルギーとして認識され消費されるのに対し、果糖はエネルギーとして利用されるよりも中性脂肪として蓄えられやすいから。
ブドウ糖と違って、果糖はそのほとんどが肝臓で処理される。その際には当然肝臓のエネルギーを奪うので肝臓の細胞は果糖によって疲弊する。そして肝細胞が崩壊し、核酸がでてきて分解され、尿酸の発生となるわけです。
尿酸値の上昇は、肥満、痛風、高血圧、動脈硬化、糖尿病など、ほとんどの成人病の原因ともなる。
このように果糖というのは実に巧妙にできているわけで、現代人の天敵ともいうべきですが、砂糖の摂取については、もっともっと見直されていかなくてはいけない。
糖質の摂取が糖尿病と関係していることは、ほとんどの人がご存じでしょうが、癌とも関係していることをご存じでしょうか。
簡単にいうと、糖質というのは癌細胞の唯一のエサです。また、カラダの免疫システムを弱らせることにも力を発揮する。糖尿病の人が傷が治りにくい、細胞が壊死する、脚を切断した、といったことになるのもそのためですね。
癌細胞のエサとなり、癌の天敵である免疫システムを弱らせるのですから、癌を支援する最強の存在です。そして上述の通り砂糖は脳へ「もっと欲しい!」を植え付けますから、糖質が人類をあの世へ送ると言ってもいいだろうか。
「ふん、何をそんな大げさな。」という言う人もいるだろうが、そう言ってられる人はまだいいだろう。健康的な被害がでていないのであれば。
しかし、それは100階建のビルの屋上から飛び降りて、70階を通過したあたりではまだまだ地上は遠くにあり、なんの恐怖もダメージもない状態だから言えるようなことであるのと似ている。
もともと人間はそういうものです。本当にカラダが悲鳴をあげるまで、自分がそんなことになるなどとは真剣に考えようとしない。やばい状態になってから、何とかしようとし始める。
さて、ここで話の視点を変えて、「なぜ、人間のカラダは果糖をエネルギーとして使うことより、脂肪として蓄えやすいのか?」ということを考えてみる。
血糖値を上げないのはいいことのように思えるが、そうではない。ブドウ糖は体内の至る所でエネルギーとして認識され消費されるのに対し、果糖はエネルギーとして利用されるよりも中性脂肪として蓄えられやすいから。
ブドウ糖と違って、果糖はそのほとんどが肝臓で処理される。その際には当然肝臓のエネルギーを奪うので肝臓の細胞は果糖によって疲弊する。そして肝細胞が崩壊し、核酸がでてきて分解され、尿酸の発生となるわけです。
尿酸値の上昇は、肥満、痛風、高血圧、動脈硬化、糖尿病など、ほとんどの成人病の原因ともなる。
このように果糖というのは実に巧妙にできているわけで、現代人の天敵ともいうべきですが、砂糖の摂取については、もっともっと見直されていかなくてはいけない。
糖質の摂取が糖尿病と関係していることは、ほとんどの人がご存じでしょうが、癌とも関係していることをご存じでしょうか。
簡単にいうと、糖質というのは癌細胞の唯一のエサです。また、カラダの免疫システムを弱らせることにも力を発揮する。糖尿病の人が傷が治りにくい、細胞が壊死する、脚を切断した、といったことになるのもそのためですね。
癌細胞のエサとなり、癌の天敵である免疫システムを弱らせるのですから、癌を支援する最強の存在です。そして上述の通り砂糖は脳へ「もっと欲しい!」を植え付けますから、糖質が人類をあの世へ送ると言ってもいいだろうか。
「ふん、何をそんな大げさな。」という言う人もいるだろうが、そう言ってられる人はまだいいだろう。健康的な被害がでていないのであれば。
しかし、それは100階建のビルの屋上から飛び降りて、70階を通過したあたりではまだまだ地上は遠くにあり、なんの恐怖もダメージもない状態だから言えるようなことであるのと似ている。
もともと人間はそういうものです。本当にカラダが悲鳴をあげるまで、自分がそんなことになるなどとは真剣に考えようとしない。やばい状態になってから、何とかしようとし始める。
さて、ここで話の視点を変えて、「なぜ、人間のカラダは果糖をエネルギーとして使うことより、脂肪として蓄えやすいのか?」ということを考えてみる。
ブドウ糖はエネルギーとして使われやすいのに、なぜ果糖はうまく処理することがでいないのだろうか?
これは、人類の生存過程で起こってきたことなのかも知れない。人類が穀物を食べるようになったのは人類歴史上で考えればごくごく最近のこと。それ以前は小麦も稲作も存在しなかった。狩猟生活なわけですね。
獲物が取れなければ、飢餓との戦い。それを乗り越えなくては生き残ることができなかった。そんな日常だったことでしょう。穀物は存在していませんでしたが、果実類はありました。それも食料としていました。
果実にはそれなりには糖質が含まれていますね。そしてその中には果糖ももちろん含まれている。果糖は脂肪として蓄えられやすいわけですから、飢餓から逃れるためには、大きな利点であったわけです。
つまりこういうことではないだろうか。果糖をうまく処理できない種は、メタボになることができたため飢餓による絶滅を免れ、それができなかった種は滅びたと。
飢餓と戦うために生きていたような時代はそれでよかっただろうが、決してそれは寿命を延ばすことに対しては適してはいない、「生き残り」のためだけの利点であった。それが人類に備わっている生存本能だったわけですね。
人間の食欲というのは、もともと生存のためであり健康を保つこととは無関係にできている。もしかしたら、サバイバルのために人類が果糖を甘いと認識するように味覚が変化しできたのかも?
これは、人類の生存過程で起こってきたことなのかも知れない。人類が穀物を食べるようになったのは人類歴史上で考えればごくごく最近のこと。それ以前は小麦も稲作も存在しなかった。狩猟生活なわけですね。
獲物が取れなければ、飢餓との戦い。それを乗り越えなくては生き残ることができなかった。そんな日常だったことでしょう。穀物は存在していませんでしたが、果実類はありました。それも食料としていました。
果実にはそれなりには糖質が含まれていますね。そしてその中には果糖ももちろん含まれている。果糖は脂肪として蓄えられやすいわけですから、飢餓から逃れるためには、大きな利点であったわけです。
つまりこういうことではないだろうか。果糖をうまく処理できない種は、メタボになることができたため飢餓による絶滅を免れ、それができなかった種は滅びたと。
飢餓と戦うために生きていたような時代はそれでよかっただろうが、決してそれは寿命を延ばすことに対しては適してはいない、「生き残り」のためだけの利点であった。それが人類に備わっている生存本能だったわけですね。
人間の食欲というのは、もともと生存のためであり健康を保つこととは無関係にできている。もしかしたら、サバイバルのために人類が果糖を甘いと認識するように味覚が変化しできたのかも?
現代人最大の難問かもしれない。
僕も砂糖を含む菓子類などを食べないわけではないけど、年齢とともに、この難問をまずはしっかり認識していかねばと思っています。
甘いものがなかなかやめられない、意思が弱くてダメ、という人は多いかも知れない。もしあなたがそうならば、今日の内容は少しは役立つかもしません。
甘いものがやめられない。この原因は「砂糖」です。甘い物が好きなのではなく、好きだと思わされていると言った方が正確でしょう。ある意味、中毒・依存といった状態になる。
砂糖というのは、ブドウ糖と果糖が1対1で結びついたものなのですが、問題なのは果糖です。果糖というのは非常に甘みが強く、それが脳へ「快」の信号を送るんですね。
「あまーーーい、おいしいーー、幸せーーーー」って。なりません?まさに快ですよね。脳へそのようなシグナルが送られると、快楽ホルモンであるドーパミンが脳内に分泌され、ますますハイになります。
これが依存をもたらすんですね。お腹空いているわけではないのに、「あーなんか甘い物食べたーい」って無意識に思っていることありません?それってよく考えると普通ではないですよね。
おもしろい情報があります。麻薬であるコカインを摂取した時と、砂糖を摂取したときのドーパミンの分泌のしかたは同等だというもの。
↓ご覧下さい、左が砂糖、右がコカイン。
これが、甘い物への依存を生んでいるんですね。
そして、もう1つ問題が。実は、果糖というのは満腹中枢を刺激しません。つまり果糖は食欲を制御するシステムをすり抜けてあなたのカラダに侵入し続ける上に、快の信号を大量にばら撒くことができてしまう。
お腹は一杯にならない、幸せな気持ちになるですから、問題は明らかですよね。
さらにもう1つ。ふつう糖質というのは、体内ではエネルギーになりやすいのですが、果糖にはこれが当てはまらない。人間の体は果糖をうまく処理できません。エネルギーとして使うよりも中性脂肪として体内に蓄えてしまう方を優先する。
果糖ってひどいですよね。脳内に快楽をもたらし、中毒にさせる上に、満腹にもなりにくい。エネルギーとして使われにくく容易に脂肪として蓄えられてしまう。これほど巧妙にできた毒はなかなか存在しないでしょう。
甘い物が食べたくなる原因は、今食べているその一口に含まれる砂糖(果糖)。たとえ食べ終わっても、それは次の甘い物へと繋がっている。
甘いものがほしーから抜け出すには、その繋がりを自分で断ち切るしかない。つまり「食べたいなぁ」と感じた時、その一口こそがやめられなくなる原因であると『確信すること!』ですね。
好きで食べているというよりも、なんとなく情緒的にやめられずにいる、食べてから後悔してしまう時がある人は、注意が必要です。甘い物は好きだけど、太ってるわけではない人にとっては理解できないだろうし、日本ではあまり認知されていないように感じますが、その症状は非常に危険なサインです。
『確信すること!』
それが唯一「自力で」その症状を改善できる方法だと、僕は思います。
甘いものがやめられない。この原因は「砂糖」です。甘い物が好きなのではなく、好きだと思わされていると言った方が正確でしょう。ある意味、中毒・依存といった状態になる。
砂糖というのは、ブドウ糖と果糖が1対1で結びついたものなのですが、問題なのは果糖です。果糖というのは非常に甘みが強く、それが脳へ「快」の信号を送るんですね。
「あまーーーい、おいしいーー、幸せーーーー」って。なりません?まさに快ですよね。脳へそのようなシグナルが送られると、快楽ホルモンであるドーパミンが脳内に分泌され、ますますハイになります。
これが依存をもたらすんですね。お腹空いているわけではないのに、「あーなんか甘い物食べたーい」って無意識に思っていることありません?それってよく考えると普通ではないですよね。
おもしろい情報があります。麻薬であるコカインを摂取した時と、砂糖を摂取したときのドーパミンの分泌のしかたは同等だというもの。
↓ご覧下さい、左が砂糖、右がコカイン。
ドーパミン
これが、甘い物への依存を生んでいるんですね。
そして、もう1つ問題が。実は、果糖というのは満腹中枢を刺激しません。つまり果糖は食欲を制御するシステムをすり抜けてあなたのカラダに侵入し続ける上に、快の信号を大量にばら撒くことができてしまう。
お腹は一杯にならない、幸せな気持ちになるですから、問題は明らかですよね。
さらにもう1つ。ふつう糖質というのは、体内ではエネルギーになりやすいのですが、果糖にはこれが当てはまらない。人間の体は果糖をうまく処理できません。エネルギーとして使うよりも中性脂肪として体内に蓄えてしまう方を優先する。
果糖ってひどいですよね。脳内に快楽をもたらし、中毒にさせる上に、満腹にもなりにくい。エネルギーとして使われにくく容易に脂肪として蓄えられてしまう。これほど巧妙にできた毒はなかなか存在しないでしょう。
甘い物が食べたくなる原因は、今食べているその一口に含まれる砂糖(果糖)。たとえ食べ終わっても、それは次の甘い物へと繋がっている。
甘いものがほしーから抜け出すには、その繋がりを自分で断ち切るしかない。つまり「食べたいなぁ」と感じた時、その一口こそがやめられなくなる原因であると『確信すること!』ですね。
好きで食べているというよりも、なんとなく情緒的にやめられずにいる、食べてから後悔してしまう時がある人は、注意が必要です。甘い物は好きだけど、太ってるわけではない人にとっては理解できないだろうし、日本ではあまり認知されていないように感じますが、その症状は非常に危険なサインです。
『確信すること!』
それが唯一「自力で」その症状を改善できる方法だと、僕は思います。
日本脂質栄養学会による2010年度版コレステロールガイドラインの序文より抜粋
『我々のガイドラインでエビデンスを示したように、総コレステロール値あるいは LDL-コレステロール値が高いと、日本では何と総死亡率が低下する。
つまり、総コレステロール値は高い方が長生きなのである。このことは専門家の間では 10 年以上前から分かっていた。なぜこのような単純で重要なことが一般には知らされていなかったのだろうか。』
コレステロール値が高いことと、死亡率は関係ないどころか、コレステロール値を下げたところで心筋梗塞などが防げるわけでもないとするデータも昔からたくさん存在する。
簡単にいうと、問題なのはコレステロール自体ではなく、コレステロールが酸化してまうことが悪いんですね。それはまるで腐った肉を食べて具合が悪くなったから肉は食べてはいけない、なんて言っているのと同じレベルなわけで。
なんでコレステロール悪玉説によって人々が洗脳され続けてきたのかと言えば、コレステロール低下剤は儲かるからです。日本だけでも国内では3,000億円市場ですからね。
低下剤であるメバロンチンが発売された時なんかは、その半年前にコレステロール基準値が引き下げられれて、一瞬にして2,000万人が高脂血症になってしまったのですから大繁盛です。
製薬会社が、コレステロール基準値を策定する人達へ研究費という名目で巨額の資金援助をすると、そのようなことも簡単にできてしまう。とにかくコレステロール低下剤というのはドル箱市場であり世界でもっとも売れている薬なわけです。
そういえば以前に、徳光さんがテレビCMで、高コレステロールを放っておくと自分のように心筋梗塞になる、と言っているやつがありましたねー。あれも、製薬会社のCMですからね。
さて、食事のコレステロール摂取量は体内コレステロール値に影響しないとう発表は、実は日本より先にアメリカでもされています。今まで散々コレステロール悪玉説を宣伝しまくってきておいて、人々を洗脳してきたくせに、国単位で、こんなにも簡単に手の平を返したような発表をしてしまうのですから露骨すぎますよね。
今まで、『コレステロールには気を付けてね』と患者様に言ってきた医師の方々も突然逆のことを言わなくてはいけないのですから、たまったもんじゃないでしょう。
国単位でこんなことやってしまったら、低下剤が売れなくなってしまうので、製薬会社が困るのではないか?といえば、実はそうでもない。
たしか3~4年くらい前から低下剤の特許切れがラッシュしていきている。ジェネリックが登場してくるので価格はどんどん下がり、もう以前のような「儲かる薬」ではなくなってきてわけです。
アメリカのファイザー社の低下剤売上はピーク時に世界で1兆円を超え。しかし特許切れによるジェネリックの侵食で2014年は5分の1にまで落ち込んでいる。これからも特許が切れる薬は増えるわけで、ドル箱市場はもう崩壊。御用学者へ資金を提供して、都合のいい発表をしてもらう必要もない。
今回の、コレステロール摂取量上限撤廃は、大儲けしてきた人達が、もう低下剤はもうからないから「コレステロールの真実をバラしてしまえ!」ってことにでもなったんではないでしょうかね。
『我々のガイドラインでエビデンスを示したように、総コレステロール値あるいは LDL-コレステロール値が高いと、日本では何と総死亡率が低下する。
つまり、総コレステロール値は高い方が長生きなのである。このことは専門家の間では 10 年以上前から分かっていた。なぜこのような単純で重要なことが一般には知らされていなかったのだろうか。』
コレステロール値が高いことと、死亡率は関係ないどころか、コレステロール値を下げたところで心筋梗塞などが防げるわけでもないとするデータも昔からたくさん存在する。
簡単にいうと、問題なのはコレステロール自体ではなく、コレステロールが酸化してまうことが悪いんですね。それはまるで腐った肉を食べて具合が悪くなったから肉は食べてはいけない、なんて言っているのと同じレベルなわけで。
なんでコレステロール悪玉説によって人々が洗脳され続けてきたのかと言えば、コレステロール低下剤は儲かるからです。日本だけでも国内では3,000億円市場ですからね。
低下剤であるメバロンチンが発売された時なんかは、その半年前にコレステロール基準値が引き下げられれて、一瞬にして2,000万人が高脂血症になってしまったのですから大繁盛です。
製薬会社が、コレステロール基準値を策定する人達へ研究費という名目で巨額の資金援助をすると、そのようなことも簡単にできてしまう。とにかくコレステロール低下剤というのはドル箱市場であり世界でもっとも売れている薬なわけです。
そういえば以前に、徳光さんがテレビCMで、高コレステロールを放っておくと自分のように心筋梗塞になる、と言っているやつがありましたねー。あれも、製薬会社のCMですからね。
さて、食事のコレステロール摂取量は体内コレステロール値に影響しないとう発表は、実は日本より先にアメリカでもされています。今まで散々コレステロール悪玉説を宣伝しまくってきておいて、人々を洗脳してきたくせに、国単位で、こんなにも簡単に手の平を返したような発表をしてしまうのですから露骨すぎますよね。
今まで、『コレステロールには気を付けてね』と患者様に言ってきた医師の方々も突然逆のことを言わなくてはいけないのですから、たまったもんじゃないでしょう。
国単位でこんなことやってしまったら、低下剤が売れなくなってしまうので、製薬会社が困るのではないか?といえば、実はそうでもない。
たしか3~4年くらい前から低下剤の特許切れがラッシュしていきている。ジェネリックが登場してくるので価格はどんどん下がり、もう以前のような「儲かる薬」ではなくなってきてわけです。
アメリカのファイザー社の低下剤売上はピーク時に世界で1兆円を超え。しかし特許切れによるジェネリックの侵食で2014年は5分の1にまで落ち込んでいる。これからも特許が切れる薬は増えるわけで、ドル箱市場はもう崩壊。御用学者へ資金を提供して、都合のいい発表をしてもらう必要もない。
今回の、コレステロール摂取量上限撤廃は、大儲けしてきた人達が、もう低下剤はもうからないから「コレステロールの真実をバラしてしまえ!」ってことにでもなったんではないでしょうかね。



