サリンジャー死去
サリンジャーついに死去、ですか。91歳、と。未発表の遺稿がザクザクと出てきたりはしないのかなあ…なんて思ってしまうがどうなんですかね。「ライ麦畑」を読んだときは、ああもっと若い時に読んどけば良かった、なんて思ったもんですが(ちなみに村上版は未読)、それよりも『フラニーとゾーイー』とかシーモアの出てくるあのシリーズが好きでしたねえ。どういう気持ちで何十年も隠遁生活を送っていたのだろう。
サリンジャーといえば、もう随分前に中古CD屋で見つけて買った、The Wynona Riders の「J.D. Salinger 」というアルバムがある。どんなバカだコイツら、と思ってつい喜んで買ってしまったのだが、これがなかなか良かったので、いまでもたまに思い出して聴いていたりします。
サリンジャーといえば、もう随分前に中古CD屋で見つけて買った、The Wynona Riders の「J.D. Salinger 」というアルバムがある。どんなバカだコイツら、と思ってつい喜んで買ってしまったのだが、これがなかなか良かったので、いまでもたまに思い出して聴いていたりします。
- J.D. Salinger/The Wynona Riders
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シミュレーションと「程度問題」
kikulogで温暖化懐疑論が色々出されてて、その中で気候変化シミュレーションについてのコメントがあったのだが、(気候とか気象ではないしごくごく簡単なものだけど)シミュレーションをやったことのある者としてちょっとだけ。もちろん実際の気候変化シミュレーションが何をやっているかは知らないので、一般論でしかないのですが。
流体系で、しかも一種類の理想流体だけではなくて様々な物理プロセス(雲だとかエーロゾルだとか)が入っているようなシミュレーションは、そりゃ「きれいな」系の計算に比べれば不確定要素が大きく、信頼性に欠けるのは間違いない。雲やらなんやらをモデル化する際には不定なパラメータが入らざるを得ないし、流体それ自身を解くのにだって山岳だとか微妙な境界条件が効きそうではある。そもそも完全な連続体として解けるわけではなく、グリッドに切って解くのであるから、グリッドサイズ以下の小スケールからの影響がグリッドサイズ以上の大スケールに与える影響がないと言い切れなければ、当然に計算全体の信頼性、特に長期的な傾向についてはどんどん精度が落ちる。
じゃあいまの計算に意味がないかと言えば、当然そんなことはない。「不確定要素がたくさん入っているから信頼すべきではない」というのは、実は(大袈裟に言えば)物理のなんたるかをわかっていないと言っても過言ではない。いや結構専門家でも言っちゃうのだけれども、その意味は後述するようにおそらく二つあって、あまり真剣に受け取るべきではない。
政策決定のことを一旦忘れて、純粋な科学研究の側面だけを考えよう。その場合、シミュレーションを用いた研究で重要なことはなんだろうか?それは、不確定要素がどれくらい不確定なのかを見極めることである。たとえば、メッシュサイズを変えたらどれくらい結果が変わるのか、境界条件にどれくらい依存するのか、突っ込んだ物理プロセスに含まれるパラメータをどれくらい変えたら結果がどれくらい変わるのか。こういったことを定量的に把握するのが最も重要であると言ってもいいだろう。それ抜きに、「計算しました、こういう結果が出ました、以上」などとやられても、その結果を信頼するわけにはいかないのである。
困ったことに、おそらくどの業界でもそうであろうが、そういう類の研究報告はいくらでもある。でまあ当然ながらツッコまれるわけだが、分野全体としては、それでもお互い批判しながら進んでいって、色々な人の結果を見比べながら、こういうプロセスにはあまり依存しないからテキトーに扱ってもいいな、これはちょっと変えただけでも結果が大きく変わるから、もっと慎重に調べないといけないな、ということが徐々に見えてくるものだ。
もちろん、そういう相互批判が機能しない困った業界もあるのかもしれない。ただ、地球温暖化のような世界的に注目され人がどんどん集まっているような分野でそれがなされていないとはとても思えない。他人と違う結果を出して注目されたいのが普通なのだから。
では、専門家が「あまり信頼できない」というのはどういう意味なのだろうか。一つは、計算全体ではなく個別の点(たとえば雲のモデルだとか)を見て言う場合があるだろう。不完全なモデルに対してはツッコミを入れたくなるものだ。その分野の専門家同士ならばどんどん批判しあうべきだ。そうやってより良い計算になっていくだろう。注意しなければならないのは、それはあくまでも「まだ行われていないより良い」計算に対しては「より悪い」ということでしかない、ということだ。出てきた結果にどれくらい意味があるのかという検討ではない。
私が見聞きした範囲ではまったく別の理由が存在する。それはシミュレーションでブイブイ言わせている人々へのやっかみであったり、自分の手法(シミュレーションに限らず、たとえばシミュレーションの中では簡単化したモデルを使っているが、そのモデル化されているそのものを研究対象にしている人、とか)の方がより上等だと思いたい/思わせたいという心理だ。研究者といえども人間なのだから、それは仕方のないことだし、そう思うからこそ頑張るということもあるだろう。ただ、そういう立場で出た発言は真に受けるべきではない。まあこれは私が経験した範囲での話なので、気候変化シミュレーションの周辺でどうなのかはわかりませんが。
話を元に戻すと、不確定要素が含まれるから信頼できない、というのは、突き詰めれば、物理なんで所詮自然の近似なのだから信頼できない、というのと同じであろう。重要なのは、どれくらい信頼できるのか/どれくらい信頼できないのか、と「程度問題」として把握する、ということだ。そうではなくて、「こういう問題があるからシミュレーションなんて信頼できない」などという発言は、専門家同士の議論であるならばともかく、基本的には考慮する必要のないものだと言って良いのではないだろうか。
***
ちょっとまた忙しくてあちこちフォローできてないのですが、気になったので書き殴ってみた。ちょっと私情が入っているかも。(^^;;
流体系で、しかも一種類の理想流体だけではなくて様々な物理プロセス(雲だとかエーロゾルだとか)が入っているようなシミュレーションは、そりゃ「きれいな」系の計算に比べれば不確定要素が大きく、信頼性に欠けるのは間違いない。雲やらなんやらをモデル化する際には不定なパラメータが入らざるを得ないし、流体それ自身を解くのにだって山岳だとか微妙な境界条件が効きそうではある。そもそも完全な連続体として解けるわけではなく、グリッドに切って解くのであるから、グリッドサイズ以下の小スケールからの影響がグリッドサイズ以上の大スケールに与える影響がないと言い切れなければ、当然に計算全体の信頼性、特に長期的な傾向についてはどんどん精度が落ちる。
じゃあいまの計算に意味がないかと言えば、当然そんなことはない。「不確定要素がたくさん入っているから信頼すべきではない」というのは、実は(大袈裟に言えば)物理のなんたるかをわかっていないと言っても過言ではない。いや結構専門家でも言っちゃうのだけれども、その意味は後述するようにおそらく二つあって、あまり真剣に受け取るべきではない。
政策決定のことを一旦忘れて、純粋な科学研究の側面だけを考えよう。その場合、シミュレーションを用いた研究で重要なことはなんだろうか?それは、不確定要素がどれくらい不確定なのかを見極めることである。たとえば、メッシュサイズを変えたらどれくらい結果が変わるのか、境界条件にどれくらい依存するのか、突っ込んだ物理プロセスに含まれるパラメータをどれくらい変えたら結果がどれくらい変わるのか。こういったことを定量的に把握するのが最も重要であると言ってもいいだろう。それ抜きに、「計算しました、こういう結果が出ました、以上」などとやられても、その結果を信頼するわけにはいかないのである。
困ったことに、おそらくどの業界でもそうであろうが、そういう類の研究報告はいくらでもある。でまあ当然ながらツッコまれるわけだが、分野全体としては、それでもお互い批判しながら進んでいって、色々な人の結果を見比べながら、こういうプロセスにはあまり依存しないからテキトーに扱ってもいいな、これはちょっと変えただけでも結果が大きく変わるから、もっと慎重に調べないといけないな、ということが徐々に見えてくるものだ。
もちろん、そういう相互批判が機能しない困った業界もあるのかもしれない。ただ、地球温暖化のような世界的に注目され人がどんどん集まっているような分野でそれがなされていないとはとても思えない。他人と違う結果を出して注目されたいのが普通なのだから。
では、専門家が「あまり信頼できない」というのはどういう意味なのだろうか。一つは、計算全体ではなく個別の点(たとえば雲のモデルだとか)を見て言う場合があるだろう。不完全なモデルに対してはツッコミを入れたくなるものだ。その分野の専門家同士ならばどんどん批判しあうべきだ。そうやってより良い計算になっていくだろう。注意しなければならないのは、それはあくまでも「まだ行われていないより良い」計算に対しては「より悪い」ということでしかない、ということだ。出てきた結果にどれくらい意味があるのかという検討ではない。
私が見聞きした範囲ではまったく別の理由が存在する。それはシミュレーションでブイブイ言わせている人々へのやっかみであったり、自分の手法(シミュレーションに限らず、たとえばシミュレーションの中では簡単化したモデルを使っているが、そのモデル化されているそのものを研究対象にしている人、とか)の方がより上等だと思いたい/思わせたいという心理だ。研究者といえども人間なのだから、それは仕方のないことだし、そう思うからこそ頑張るということもあるだろう。ただ、そういう立場で出た発言は真に受けるべきではない。まあこれは私が経験した範囲での話なので、気候変化シミュレーションの周辺でどうなのかはわかりませんが。
話を元に戻すと、不確定要素が含まれるから信頼できない、というのは、突き詰めれば、物理なんで所詮自然の近似なのだから信頼できない、というのと同じであろう。重要なのは、どれくらい信頼できるのか/どれくらい信頼できないのか、と「程度問題」として把握する、ということだ。そうではなくて、「こういう問題があるからシミュレーションなんて信頼できない」などという発言は、専門家同士の議論であるならばともかく、基本的には考慮する必要のないものだと言って良いのではないだろうか。
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ちょっとまた忙しくてあちこちフォローできてないのですが、気になったので書き殴ってみた。ちょっと私情が入っているかも。(^^;;
リスニングで何を測りたいのだろう
ええと昨日のエントリのおまけで書くつもりだったのですが、力尽きて書き忘れた。(^^;;
# 土日の仕事がキツかったもので。
センター試験には、数年前から英語のリスニング試験があるのだけど、あれって何のためにやっているんだろう。
もちろん、リスニング能力を測りたい、というのはわかる。疑問なのは、「大学入試」において、「リスニング能力を測る」ということが一体どういう意味を持つのか、ということ。
大学の授業が英語で行われるのでリスニング能力がある程度ある人じゃないと受け入れられない、というのであれば理解できる。あるいは、英語のリスニング能力は、なにか別の能力を測る良い指標になっている、というのであれば、それも理解できる(実際どうなのか知りませんが)。しかし、単にリスニング能力を測る、というだけだったら、それは入試に必要なものなのだろうか?大学で学ぶために必要な能力なのか?
英語(に限らず外国語)を知識として知っておくのは重要だと思う。そこには、母語としての日本語や、言語と結びついた(自らを育ててきた)日本文化を相対化し、己を客観視する、という重要な役割があるだろう。無論、英語や英語に強く関連した学問分野を専攻したいのならばなおさらである。しかし、それはリスニング能力と関係があるのだろうか?
高校でやっているから、というのであれば、高校でやったことすべてを試験に課さないとおかしいし、それならば大学入試というより高卒相当能力の認定試験のようなものでやるべきだろう(やるならば、ということですが)。
センター試験でのリスニング試験は、様々な意味でコストが莫大にかかる。金銭的にはもちろん(ICプレーヤーやらなんやら)、人手の面でも騒音その他を異常なまでに排除しなければならないという環境構築や試験に関与する人々の精神的なコストもある。リスニング試験が無意味とは言わないが、コストに見合うものになっているのかどうか。
会話能力至上主義の人々や、ICプレーヤー絡みの利権などが背後にあるのでは、なんて思わず陰謀論めいた発想までしてしまったりするのだが、どうなんだろう。英語教育の分野などではなにか意見とか出されていないのかしらん。
# 土日の仕事がキツかったもので。
センター試験には、数年前から英語のリスニング試験があるのだけど、あれって何のためにやっているんだろう。
もちろん、リスニング能力を測りたい、というのはわかる。疑問なのは、「大学入試」において、「リスニング能力を測る」ということが一体どういう意味を持つのか、ということ。
大学の授業が英語で行われるのでリスニング能力がある程度ある人じゃないと受け入れられない、というのであれば理解できる。あるいは、英語のリスニング能力は、なにか別の能力を測る良い指標になっている、というのであれば、それも理解できる(実際どうなのか知りませんが)。しかし、単にリスニング能力を測る、というだけだったら、それは入試に必要なものなのだろうか?大学で学ぶために必要な能力なのか?
英語(に限らず外国語)を知識として知っておくのは重要だと思う。そこには、母語としての日本語や、言語と結びついた(自らを育ててきた)日本文化を相対化し、己を客観視する、という重要な役割があるだろう。無論、英語や英語に強く関連した学問分野を専攻したいのならばなおさらである。しかし、それはリスニング能力と関係があるのだろうか?
高校でやっているから、というのであれば、高校でやったことすべてを試験に課さないとおかしいし、それならば大学入試というより高卒相当能力の認定試験のようなものでやるべきだろう(やるならば、ということですが)。
センター試験でのリスニング試験は、様々な意味でコストが莫大にかかる。金銭的にはもちろん(ICプレーヤーやらなんやら)、人手の面でも騒音その他を異常なまでに排除しなければならないという環境構築や試験に関与する人々の精神的なコストもある。リスニング試験が無意味とは言わないが、コストに見合うものになっているのかどうか。
会話能力至上主義の人々や、ICプレーヤー絡みの利権などが背後にあるのでは、なんて思わず陰謀論めいた発想までしてしまったりするのだが、どうなんだろう。英語教育の分野などではなにか意見とか出されていないのかしらん。
センター試験
早速あちこちで話題になっているようですが(たとえばこちら-「幻影随想」
)、今年のセンター試験の「倫理」で科学や科学と社会に関する問題が出され、それがなかなか興味深い。
問題自体はたとえばこちらの『読売』のサイト でご覧になっていただくとして、第4問の問7で、伊勢田哲治『疑似科学と科学の哲学』から引用されている部分を、折角なので、省略されているところを補って引用してみよう。これはこの本の冒頭、「序章」にある文章である。p.5の末尾から。太字強調は引用者による。
以上の部分はセンター試験の論点ではないのだけれども、折角の機会なので強調しておきたい。
さて、これを受けての問7の問題文を見てみよう。
1は「血液型性格判断」が間違っていると理解した上で、話題として出すのはいいのではないか、ということなのだが、これは「ブラハラ(ブラッドタイプ・ハラスメント)」につながるものだ。また、そうやって話題に出していくことが、ステレオタイプを強化していくことにもなる。
3はまさに科学的態度であって、たとえばこのブログでも、血液型ステレオタイプが性格に影響を及ぼしているかどうかについて、示唆的ではあるがまだ確定とは言えないのではないか、というようなエントリを書いた。無論、どの程度「絶対視しない」かはグラデーションがあるし、またそのグラデーションを見極めることが本当は大切なのだけれども。
そういう意味で、3は4とセットになって理解されるべきもの。きちんとした研究結果は尊重されるべきであって、それを覆す証拠が出なければ、暫定的にはその結果を「正しい」と扱うべきもの。そして、「覆す」のも単に違う結果が出ればいいのではなくて、以前の「きちんとした研究」となぜ違う結果が出たのかがある程度は説明されなければならないだろう。
というわけで、社会的問題としては2だけではなく1も問題なのだけれども、そこはまあ問題がそういう問題だから仕方ない。
もう一つこの問題で注意すべきなのは、ここで書かれていること自体は、血液型性格判断を否定するものではない、ということ。あくまでも、「~否定されたとしても、~だから、正しいはずだよね」というロジックの組み立てが疑似科学的だということで、「否定されたとしても」という仮定のもとでの話(まあ逆の立場で仮定に基づく議論ができない人が約1名いて大変難儀させられましたが)。もちろん、それは「倫理」の問題だから、それで構わないのだけど。
しかしそれでも今回の問題に(「倫理」の学力判断とは別に)意義があるのは、漠然と血液型性格判断が正しいと思っている多くの人々に、「ん?ひょっとして、血液型性格判断っておかしいのかな?」と思わせるきっかけになるだろう、ということ。どれくらいの受験生が「倫理」を選択したのかわからないし、問解いた人の多くは内容を深く考えるというよりも、文章としてどうかというあたりの判断だろうから、このままほっとけば「そういやそんな問題もあったねえ」で終わってしまうだろう。だからこそ、こうやって話題にしていくことが重要なのだと思う。
問題自体はたとえばこちらの『読売』のサイト でご覧になっていただくとして、第4問の問7で、伊勢田哲治『疑似科学と科学の哲学』から引用されている部分を、折角なので、省略されているところを補って引用してみよう。これはこの本の冒頭、「序章」にある文章である。p.5の末尾から。太字強調は引用者による。
(…)とりあえず疑似科学の話を始めるために最低限必要な特徴づけだけしておこう。少なくとも、言葉の定義からして、疑似科学には「科学のようで」「科学でない」という二つの条件が必要である。後者の条件から考えてみよう。とても重要なのが、これは「定義」ではなく「特徴づけ」である、ということだ。それから、オカルト的な主張も、それだけで「疑似科学」とみなすことは(多くの場合)ないが、なんからの意味で「科学らしき装い」をまとうと「疑似科学」と呼べるように「見える」。例えば、「水伝(水からの伝言)」は多分にオカルト的要素を持つが、科学らしき装いをまとっているため「疑似科学」呼ばわりされる、というわけだ(繰り返すが定義の話ではなく、なぜ人々が「疑似科学」と呼ぶかを分析していけば、そのように特徴づけされるだろう、ということ)。
「科学でない」ことの一つの目安として、その分野の中心的な主張が正統科学(以下、この本では、だれもが認める科学、つまり現代の正統派の物理学・化学・生物学などをまとめて「正統科学」と呼ぶ)から否定されていることは疑似科学の重要な特徴だろう。この観点からすると、精神分析の仮定する心の深層構造などはぎりぎり科学の側に分類されるだろう。創造科学、占星術、超心理学、中国医学などはそれぞれ神による種の創造、惑星の位置と地上の出来事の因果関係、超能力の存在、気の流れによる人体の説明など、とても正統科学の考えと一致しないような主張をしているので疑似科学に分類することになる。
次に「科学のようで」という方だが、その分野の研究者たち自身は自分達のやっていることが科学的であると主張していたり、少なくとも科学の装いをまとっていたりすることも疑似科学の特徴として入れておきたい。正統科学が認めない主張はいろいろあるが、この用語法によれば、事故の現場に地縛霊がいるとか前世の記憶があるとかいう類いの主張は、それだけでは疑似科学ではない。しかし、そうした主張をある程度組織して科学らしき装いをまとった研究や宣伝がなされるようになると、疑似科学と呼べるだろう。さらに言えば、世界についての経験的主張でないものは疑似科学とは呼べないだろう。「経験」の内容は科学的な実験や観察に限らず、神の啓示だったり心霊体験だったりするかもしれないが、そのレベルの経験的裏付けすらないもの(純粋に空想によって書かれた小説など)はそもそも科学かどうかという議論の土俵に上がってこない。
言い忘れないうちに強調しておくが、以上の特徴づけは、これからどういうものを扱うかの目安であって、疑似科学の「定義」や、ましてや線引き問題の基準を意図したものではない(明確な線引きの基準などありえないというのが本書の最終的な主張なのでこの点はなおさらである)。
以上の部分はセンター試験の論点ではないのだけれども、折角の機会なので強調しておきたい。
さて、これを受けての問7の問題文を見てみよう。
どれが正解かは考えていただくことにして(^^)ってまあ載ってるんですけどね、それぞれ見ていく。
- 「血液型性格判断が科学的に否定された場合でも、ふだんの会話の中で盛り上がる話題としてそれを持ち出すのならば、全く問題はないよね。」
- 「血液型性格判断が科学の教科書で否定されたとしても、血液が生命を維持しているのだから、やはりそれは科学的に見て正しいはずだよね。」
- 「血液型性格判断がある種の研究者により正しいと主張されたとしても、新たな反証によって否定され得るので、絶対視しない方がいいよね。」
- 「血液型性格判断が現在までの研究で否定されたのなら、それを覆す明らかな証拠が出されない限り、科学の主張としては信用できないよね。」
1は「血液型性格判断」が間違っていると理解した上で、話題として出すのはいいのではないか、ということなのだが、これは「ブラハラ(ブラッドタイプ・ハラスメント)」につながるものだ。また、そうやって話題に出していくことが、ステレオタイプを強化していくことにもなる。
3はまさに科学的態度であって、たとえばこのブログでも、血液型ステレオタイプが性格に影響を及ぼしているかどうかについて、示唆的ではあるがまだ確定とは言えないのではないか、というようなエントリを書いた。無論、どの程度「絶対視しない」かはグラデーションがあるし、またそのグラデーションを見極めることが本当は大切なのだけれども。
そういう意味で、3は4とセットになって理解されるべきもの。きちんとした研究結果は尊重されるべきであって、それを覆す証拠が出なければ、暫定的にはその結果を「正しい」と扱うべきもの。そして、「覆す」のも単に違う結果が出ればいいのではなくて、以前の「きちんとした研究」となぜ違う結果が出たのかがある程度は説明されなければならないだろう。
というわけで、社会的問題としては2だけではなく1も問題なのだけれども、そこはまあ問題がそういう問題だから仕方ない。
もう一つこの問題で注意すべきなのは、ここで書かれていること自体は、血液型性格判断を否定するものではない、ということ。あくまでも、「~否定されたとしても、~だから、正しいはずだよね」というロジックの組み立てが疑似科学的だということで、「否定されたとしても」という仮定のもとでの話(まあ逆の立場で仮定に基づく議論ができない人が約1名いて大変難儀させられましたが)。もちろん、それは「倫理」の問題だから、それで構わないのだけど。
しかしそれでも今回の問題に(「倫理」の学力判断とは別に)意義があるのは、漠然と血液型性格判断が正しいと思っている多くの人々に、「ん?ひょっとして、血液型性格判断っておかしいのかな?」と思わせるきっかけになるだろう、ということ。どれくらいの受験生が「倫理」を選択したのかわからないし、問解いた人の多くは内容を深く考えるというよりも、文章としてどうかというあたりの判断だろうから、このままほっとけば「そういやそんな問題もあったねえ」で終わってしまうだろう。だからこそ、こうやって話題にしていくことが重要なのだと思う。
『ニューエイジについてのキリスト教的考察』(教皇庁 文化評議会/教皇庁 諸宗教対話評議会)
ニューエイジに興味のある人にはオススメ。コンパクトによくまとまっており、大変濃密である。難を言えば、訳がやや硬いことぐらいか(訳は「カトリック中央協議会」による)。詳細は、カトリック中央協議会内のこちらのリンク
をご覧ください。
リンク先を見ていただけば載っているのだけれども、どういう本かが端的に示されているので引用しておこう。
簡単に紹介したいところなのだが、あまりに濃密すぎるので、要約できない。というか、要約したレジュメのような本と言うべきだろうか。参考文献や用語解説を除くと、わずか100ページほどにニューエイジとはどういうもので、どのような問題を抱えているかがまとめられている(無論、キリスト教の側からニューエイジにはまりつつある人に対してどう働きかけるか、という話も載っていて、それはそれで立場は違えど参考にはなる)。
どれくらい濃密かというと、しばらく読み始めてこりゃいかんと付箋を貼りつけながら読んでいったのだが、ほぼ全ページにわたって付箋が貼られてしまった。
そういうわけなので、以下には、幾つか目についた点を引用することで、どのような内容なのかを想像していただくことにしよう。
また、個人の意識を変えることが世界を変えるための方法であるということに関し、
ついでに言うなら、この「融合」を得るための手段として薬物が使用されることを指摘しておくのはおそらく重要であろう(そのことも本文で指摘されている)。
最後に、「訳者あとがき」から、ニューエイジに関係した運動一覧を挙げておこう。
そういうわけで、宗教と科学の共同戦線と張るという意味でも、重要な文献であると思われる。それは世界観のたたかい以前に、どのような現実社会を構築すべきかという観点からの共闘がいま現在の課題だと思うからでもある。『水からの伝言』に魅かれてしまった教会関係者の方は是非読んでいただきたいと思う。
ちなみにクリスチャンでもない私がなんでこんな本を発見したかというと、観光でとある教会を見学した際に、カトリック中央協議会の出版案内のチラシが置いてあるのを発見したからだ(ちなみにそれは半年以上前で、この本があまりに濃密なため、最初の方だけ読んで積読状態になっていた^^;;)。同時に購入した『信教の自由と政教分離』(日本カトリック司教協議会 社会司教委員会・編)も面白い。いずれまた紹介できればと思います。
リンク先を見ていただけば載っているのだけれども、どういう本かが端的に示されているので引用しておこう。
近年日本においても、スピリチュアリティなどの呼称で顕著な拡大・発展が見られる宗教・文化現象であるニューエイジ。この潮流に関するカトリック教会の見解を示す文書です。その独自な思想基盤を概観し、キリスト教徒にとって受容不可能な要素を明確にした上で、教会がニューエイジに対応する際の勧めが述べられています。また、付録にはニューエイジ思想の要約や用語解説も収録されていますので、聖職者、研究者のみならず、一般読者にとっても興味深い内容となっています。というわけで、当然ながら、キリスト教の立場から見て受容できないニューエイジの思想というものを批判している本であり、また対象は「司牧活動を行う人々が、ニューエイジのスピリチュアリティを理解し、それに対応する上での導き」と本文に書いてあるように「司牧活動を行う人々」であるのだが、その批判の内容自体はキリスト教の立場に留まらない普遍的なものを含んでおり、大変参考になる。
簡単に紹介したいところなのだが、あまりに濃密すぎるので、要約できない。というか、要約したレジュメのような本と言うべきだろうか。参考文献や用語解説を除くと、わずか100ページほどにニューエイジとはどういうもので、どのような問題を抱えているかがまとめられている(無論、キリスト教の側からニューエイジにはまりつつある人に対してどう働きかけるか、という話も載っていて、それはそれで立場は違えど参考にはなる)。
どれくらい濃密かというと、しばらく読み始めてこりゃいかんと付箋を貼りつけながら読んでいったのだが、ほぼ全ページにわたって付箋が貼られてしまった。
そういうわけなので、以下には、幾つか目についた点を引用することで、どのような内容なのかを想像していただくことにしよう。
(…)(引用者注:ニューエイジへの)こうした転換の必要性については、次のようなさまざまな言い方がなされます。これだけでも『水からの伝言』がニューエイジの思想とマッチしていることがわかるだろう。
(1)ニュートンの機械論的物理学から量子力学への転換。
(2)近代的な理性重視から感性、感情、経験への転換(しばしば「左脳」の合理的思考から「右脳」の直感的思考への転換といわれます)。
(3)個人と社会における、男性支配と父権性から女性性への転換。
これと関連して、「パラダイム転換」ということばがしばしば用いられます。(後略)(p.28-29、引用にあたってニュートンの英語表記と年代を省略した)
また、個人の意識を変えることが世界を変えるための方法であるということに関し、
あるニューエイジ研究者は、ニューエイジにおけるこうした表面上の政治的無関心の背後に、権威主義の危険性を認めています。デイヴィッド・スパングラー(David Spangler 1945-)も、ニューエイジの問題の一つは、「自分の完全な人生を積極的に造り上げるのでなく、新しい時代(ニューエイジ)の到来を待つことを口実にして、無力感と無責任にひそかに身をゆだねること」だと指摘しています。(p.57)つまり、実質的に民主主義社会における自律的な主体であることを放棄するものである、ということだ(これはこのブログである種のニセ科学が持つ危険性の一つとして何度か指摘してきた)。なおスパングラーという人自体はニューエイジ側の人であることに注意。
ニューエイジ「運動」は市場原理に完全に適応しました。そして、ニューエイジがこのように広まった一つの理由は、それが経済的に魅力的な商品だったことにあります。少なくともある文化において、ニューエイジは市場原理を宗教現象に適用することによって造られた商品の名称と考えることができます。人々の霊的欲求から利益を得ることがつねに図られています。現代経済における他の諸要素と同様、ニューエイジも、マス・メディアの情報によって造られ、はぐくまれるグローバルな現象の一つです。(p.63)
ニューエイジが大流行したのは、それが信仰、セラピー、実践をゆるやかに組み合わせたものだからです。こうした諸要素は、しばしば、それらがもっているかもしれない対立や矛盾とかかわりなしに、好きなように選択され、組み合わされます。けれども、これがまさに「右脳」の直感的思考に自覚的に基づく世界観から期待されていることです。だからこそ、ニューエイジの諸思想の根本的な性格を発見し、認識することが重要なのです。しばしば、ニューエイジが示すものは、いかなる宗教に帰属することでもなく、ただ「スピリチュアル」だといわれます。けれどもそこには、多くの「消費者」が考える以上に、特定の東洋宗教との密接なつながりが見られます。このことは、だれかが「祈り」の集いへの入会を選択する際にとくに重要です。しかしそれは、企業経営にとっても深刻な問題です。生活と労働の中で瞑想を行い、精神拡張技術を用いることを労働者に求める企業が増加しているからです。(p.64、太字強調は引用者による)「絶対矛盾の自己同一」を地で行く感じだが、あらゆる問題は個人に無理矢理還元され、物言わぬ労働者を作り、経営者はやりたい放題である。日航再建に京セラの稲盛があたるとかいう報道があったが大丈夫か。
融合か混同か ニューエイジのさまざまな伝統は、相違が現実に存在することを、意識的かつ意図的にあいまいにしようとします。すなわち、創造主と被造物の相違、人間と自然の相違、宗教と心理学の相違、主観的現実と客観的現実の相違です。理想として目指されているのは、分裂の問題を乗り越えることです。けれども、ニューエイジの理論によって実際の行われるのは、西洋文化の中でつねに明確に区別されてきた諸要素をことごとく「融合」することなのです。この「融合」は「混同」と呼ぶほうが正確ではないでしょうか。ニューエイジは混同に基づいて発展してきたといっても、いいすぎではありません。(p.101)「創造物と被造物の相違」を除けば、ここで言われていることは、ニセ科学批判の文脈で言われてきたことと基本的に同じである。「水伝」に代表される価値と科学を混同させてきたニューエイジ的な「もの」は、まさにそのことにおいて、宗教の側からも科学の側からも批判されなければならない存在なのである。
ついでに言うなら、この「融合」を得るための手段として薬物が使用されることを指摘しておくのはおそらく重要であろう(そのことも本文で指摘されている)。
最後に、「訳者あとがき」から、ニューエイジに関係した運動一覧を挙げておこう。
ニューエイジは、1980年代以前から展開していたさまざまな運動を母胎として成長してきました。島薗進氏は「ニューエイジの周辺」の運動として次のものを挙げています(前掲『精神世界のゆくえ-現代世界と新霊性運動』36-42頁)。これらのうちのいくつかは本書の中でニューエイジの起源として取り上げられていますが、本書で言及されていないものもあるので、ニューエイジの広がりを理解するために、参考までにここに掲げます。…壮観ですな。聞いたこともないようなのも幾つか混じっているけど、大方はこの界隈で批判されてきたものである(「仏教的」がどの範囲を指すのかが明確ではないけれど)。
・ヒューマン・ポテンシャル運動(日本における「自己啓発セミナー」に相当)
・トランスパーソナル心理学
・ニューサイエンス、ニューエイジ・サイエンス
・ネオ・ペイガニズム
・フェミニスト霊性運動
・ディープ・エコロジー
・ホリスティック医療運動
・マクロビオティック
・超越瞑想
・神智学協会
・人智学協会
・クリシュナムルティ・ファウンデーション
・ラジニーシ運動
・グルジェフ・ファウンデーション
・仏教的瞑想・共同体
・レイキ
・気功・合気道
・UFOカルト
(p.161-163)
そういうわけで、宗教と科学の共同戦線と張るという意味でも、重要な文献であると思われる。それは世界観のたたかい以前に、どのような現実社会を構築すべきかという観点からの共闘がいま現在の課題だと思うからでもある。『水からの伝言』に魅かれてしまった教会関係者の方は是非読んでいただきたいと思う。
ちなみにクリスチャンでもない私がなんでこんな本を発見したかというと、観光でとある教会を見学した際に、カトリック中央協議会の出版案内のチラシが置いてあるのを発見したからだ(ちなみにそれは半年以上前で、この本があまりに濃密なため、最初の方だけ読んで積読状態になっていた^^;;)。同時に購入した『信教の自由と政教分離』(日本カトリック司教協議会 社会司教委員会・編)も面白い。いずれまた紹介できればと思います。
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