リスニングで何を測りたいのだろう
ええと昨日のエントリのおまけで書くつもりだったのですが、力尽きて書き忘れた。(^^;;
# 土日の仕事がキツかったもので。
センター試験には、数年前から英語のリスニング試験があるのだけど、あれって何のためにやっているんだろう。
もちろん、リスニング能力を測りたい、というのはわかる。疑問なのは、「大学入試」において、「リスニング能力を測る」ということが一体どういう意味を持つのか、ということ。
大学の授業が英語で行われるのでリスニング能力がある程度ある人じゃないと受け入れられない、というのであれば理解できる。あるいは、英語のリスニング能力は、なにか別の能力を測る良い指標になっている、というのであれば、それも理解できる(実際どうなのか知りませんが)。しかし、単にリスニング能力を測る、というだけだったら、それは入試に必要なものなのだろうか?大学で学ぶために必要な能力なのか?
英語(に限らず外国語)を知識として知っておくのは重要だと思う。そこには、母語としての日本語や、言語と結びついた(自らを育ててきた)日本文化を相対化し、己を客観視する、という重要な役割があるだろう。無論、英語や英語に強く関連した学問分野を専攻したいのならばなおさらである。しかし、それはリスニング能力と関係があるのだろうか?
高校でやっているから、というのであれば、高校でやったことすべてを試験に課さないとおかしいし、それならば大学入試というより高卒相当能力の認定試験のようなものでやるべきだろう(やるならば、ということですが)。
センター試験でのリスニング試験は、様々な意味でコストが莫大にかかる。金銭的にはもちろん(ICプレーヤーやらなんやら)、人手の面でも騒音その他を異常なまでに排除しなければならないという環境構築や試験に関与する人々の精神的なコストもある。リスニング試験が無意味とは言わないが、コストに見合うものになっているのかどうか。
会話能力至上主義の人々や、ICプレーヤー絡みの利権などが背後にあるのでは、なんて思わず陰謀論めいた発想までしてしまったりするのだが、どうなんだろう。英語教育の分野などではなにか意見とか出されていないのかしらん。
# 土日の仕事がキツかったもので。
センター試験には、数年前から英語のリスニング試験があるのだけど、あれって何のためにやっているんだろう。
もちろん、リスニング能力を測りたい、というのはわかる。疑問なのは、「大学入試」において、「リスニング能力を測る」ということが一体どういう意味を持つのか、ということ。
大学の授業が英語で行われるのでリスニング能力がある程度ある人じゃないと受け入れられない、というのであれば理解できる。あるいは、英語のリスニング能力は、なにか別の能力を測る良い指標になっている、というのであれば、それも理解できる(実際どうなのか知りませんが)。しかし、単にリスニング能力を測る、というだけだったら、それは入試に必要なものなのだろうか?大学で学ぶために必要な能力なのか?
英語(に限らず外国語)を知識として知っておくのは重要だと思う。そこには、母語としての日本語や、言語と結びついた(自らを育ててきた)日本文化を相対化し、己を客観視する、という重要な役割があるだろう。無論、英語や英語に強く関連した学問分野を専攻したいのならばなおさらである。しかし、それはリスニング能力と関係があるのだろうか?
高校でやっているから、というのであれば、高校でやったことすべてを試験に課さないとおかしいし、それならば大学入試というより高卒相当能力の認定試験のようなものでやるべきだろう(やるならば、ということですが)。
センター試験でのリスニング試験は、様々な意味でコストが莫大にかかる。金銭的にはもちろん(ICプレーヤーやらなんやら)、人手の面でも騒音その他を異常なまでに排除しなければならないという環境構築や試験に関与する人々の精神的なコストもある。リスニング試験が無意味とは言わないが、コストに見合うものになっているのかどうか。
会話能力至上主義の人々や、ICプレーヤー絡みの利権などが背後にあるのでは、なんて思わず陰謀論めいた発想までしてしまったりするのだが、どうなんだろう。英語教育の分野などではなにか意見とか出されていないのかしらん。