ほたるいかの書きつけ -25ページ目

Pink Floyd も6色だった!

 以前、このエントリ で、虹が7色であるというのはニュートンに起源を持ち、科学的には6色であるとするのが妥当である、アメリカでは第二次大戦中に理科教育の中から6色の方が良いという考えが出現し、現在ではそれに沿って虹の色数が教えられているのでアメリカ人は虹は6色であると思っている、従って、虹の色数は単なる文化によって決まるのではなく、科学的根拠に基づいた教育が人々の認識を大きく左右しているというようなことを書いた。

 で。ですよ。
 今日、何気なく Pink Floyd の「狂気」のジャケットを見たのです。この下のやつ。
狂気(SACD-Hybrid)/ピンク・フロイド
¥2,371
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拡大してみましょう。

ほたるいかの書きつけ

…わかります?6色なんですよ!!

Pink Floyd はイギリスのバンドだし、ジャケットはヒプノシスというイギリスのグループによるものだそうだ。イギリスでも虹は6色なのだろうか?

なんか面白かったので。

***

プログレつながりで。
『AERA』3/30号に、きくちさんが載ってたんですね。
テルミンを演奏するきくちさんの御尊顔が拝めます。(^^)
どうプログレとつながるかは見てのお楽しみ…ってもう売ってないですよね。King Crimsonつながりです。

メモ

最近の動きで色々と思うところはあるのだけれど、まとまって書く時間がないし、しかし書かないと深まらないのでとりあえずメモ。気が向いたら、後日エントリにしたいと思います。

○「ニセ科学」という概念はそんなに明瞭?「ニセ科学批判」が意味するものと、「疑似科学批判」が意味するものとはそんなに明確に違うのだろうか。中心課題は明らかに違うだろうけど(いや、「疑似科学批判」と言った場合はその意味するところも人によってかなり違うような気がするので、言葉だけでは判断できないな)、重なる部分もあって、それがまた議論に混乱をもたらしているような気がする。

○たとえば「ニセ科学」と「オカルト」は別物と言えるか?「占い」は?オカルトと言う人が多そうだけど、でもそれが「予知」「予言」的なものを含んでいたら、それは実証(検証)可能になるわけで、科学の俎上に乗っちゃうでしょう。逆に「水伝」だってその主張のコアはオカルト的な部分にあるわけで、そう考えると個別の「言説」について、ニセ科学かオカルトかと分けるのは意味がなくなる。さらに言えば「ルルド」みたいな話もあるわけで、宗教だって明瞭にラインを引けるわけではない(まあオウムだって宗教だったわけだし)。
 そういうわけで、ニセ科学の「定義」(括弧づきなのは勿論きちんと定義できる状況ではないからだ)として「科学ではないが科学を装うもの」というのは「標語」として機能はしても「そういうものがニセ科学だ」と言うには厳しいような気がする。ニセ科学がそうだ、というのは正しいと思うけど。
 あと「装う」の意味も、それこそ「誤読」されやすいのではないか。「意図」の有無がそこにあると誤解する人は多いような気がする。
 まあ「標語」だからいいんですけど。
 で、これは結局「科学」と「ニセ科学」の間のグレーゾーン、という問題にもつながる。「ニセ科学」と呼ぶことがレッテル剥しというのは一面正しくて一面では正しくない。なぜなら「それは非○○だ」というのではなくて「それは○○だ」と言うのであるから、そういう単純な(実に単純な)意味において、レッテル貼りである、という面はある(もちろんネガティブな意味で言っているのではありません)。単にレッテル剥がしだというのであれば、科学とニセ科学の間にグレーゾーンなんて存在しないのではないか(ここはもっと分析しないとわからないけど。確信は持てない)。

件のmzsmsさんのエントリ (どこにリンクするか悩みましたが私がブクマしたとこへ。なお、打ち消し線を引かなくてもいいのにと思います。論点としては重要なものが含まれていると思うので)については、気持ちとして共感するところもあるのだけれども、やはり「困った宗教」なりなんなりってのは科学の力を頼るのではなく、人間としてどうか、というところが本質だろう。これはブクマコメントで
fireflysquid fireflysquid ブックマークを削除する コメントを編集する 結局、「道徳」や「宗教」や「生き方」の問題として我々みんなが引き受けるべき問題について、外部(科学)が自分の代わりに「解答」を出してくれ、と言っているように見える。/「非科学」って、雑駁すぎ。 2009/04/11
と書いたし、また hietaro さんとこのコメント欄 でも書いた。で、この問題意識はT-3donさんのエントリ と重なる。
 ただ、じゃあそういうものに対して科学(あるいはニセ科学批判でもいいのだけれど、そういうと「ごっちゃにするな」とお叱りを受けるかな^^;;)が無力かというとそうではなくて、実証可能な部分についてトコトン攻めれば良い。で、実証不可能な部分(不可能なのが悪いと言っているのではなくて、ストレートに価値観が問われる部分)に彼らの主張を追いこめば良い。これは以前dlitさんが「水伝」と言語学の関係について書かれていたことと似ているのだけれど、たとえば「オウム」でもいいし「占い」でもいいのだけれど、客観的(科学的)に検証可能な部分については「それは間違ってるよ」と言えば崩壊する主張というのは多いだろう。それは「水伝」も同じで、「水伝」の場合は特に検証可能な部分がなければ主張全体が崩壊するので「オカルト的なニセ科学」というイメージが批判者の中にもあるのではないか。
 「客観的に検証可能」な部分を責められるということは実に強力な武器ではあるのだけれど、その使いどころを間違えると、それはものの価値という人間の高度な精神活動の所産が外部によって決定されてしまうという大問題を引き起こす。それは「水伝」が侵している誤ちに通ずるものがある。
 その意味で、今回、田部勝也さんがコメントされていた、mzsmsさんの主張が水伝のようなものに親和的、というのはわからなくもないのだけれど、しかしそれは「共通するものがある」というだけで、「親和的」というのは言い過ぎな気がする。なぜならば、それはmzsmsさんに限らず誰しもが陥りやすい誤りであると思うから。

○再び「占い」について。で、私は占いも批判する。批判するし、実証できないものをさも実証したかのような(たとえば「四千年の統計」みたいな)のはおかしいと批判するし、それは科学の面からの批判と言っていいだろう。だが、やはり本質はそこにはないのであって、己の人生をわけのわからん占いなんぞに頼るようでいいのか?という批判が対置されるべきなんだと思う。人として。

○我々はなにを目指しているのか?って「我々」ってナニ?となりますが、まあ要するにいわゆる「ニセ科学批判」の目的はなんだ?ということについて。これもまあ「色々」の一言で終わり、と言えばそうなのだけど、それでもまあ「完全撲滅」は実際問題不可能にしても、被害(詐欺から教育まで短中長期すべてにおいて)を極力減らしたいというのはそれなりに共通する気持ちなのだと思う。で、だとすれば、「どうすれば言葉が届くか」という問題は避けて通れないはず。
 で、これはJさん(Judgementさん)の問題意識 とも重なる部分はあると思うのだけれども、「水伝」を信じちゃうような、「ホメオパシー」にはまってしまうような、「EM」で環境問題は解決すると思うような、「マイナスイオン」で健康になると思ってしまうような、「血液型と性格には強い相関がある」と思ってしまうような人々(と考えていくと眩暈がするほど膨大な人数でしょ?)に、最終的には伝わらんといかんわけです。
 もちろん全員が伝える努力をする必要はないわけで、個別の問題についてどこがどう間違っているか詳細な分析をする人、なぜそれが広まるのかを分析する人、どう伝えるのか分析する人、どれくらい効果があるのか分析する人、それぞれがそれぞれの問題意識で深めていけばいいのだけど、大事なのは、「どれも重要で、発展させる必要がある」という認識を持つことではなかろうか。どうせ一人では全部できないのだし、自分が取り組めないところで頑張ろうという人がいれば、足をひっぱらずに支えられればいいと思う。だから、どうやって伝えるか、ということについて、「くだらん」と切って捨てるのはちょっと違うんじゃないか、と思う。
 もちろん(「もちろん」だらけですんません)、これは一面危うい部分もある。端的に言ってしまえば、相手を子ども扱いしていると取られかねないのだ。相手が大人であると信じられるからこそ、手厳しいことも言えるわけで、「厳しいことを言うと聞いてもらえなくなりそうだから遠慮しとこう」では本末転倒だし、どうやったら聞いてもらえるかに腐心することは、ある意味相手を信頼していないということにもなりかねない。
 で、そのハザマで悩むことになるわけだけど、こればっかりは相手のいることでもあるし臨機応変にやるしかない。ただ、本気でなんとか伝えよう、なにが問題で、なにが足りなくて、どうすべきなのか考えよう、という問題意識は大事にしたいと思う。
# このあたりは lets_skeptic さんの一連のエントリに色々あったはず(「はず」ってなんやねん>自分^^;;)。

このへん、「愛のあるS」としてのJさんに期待したいと思います。(^^)

というわけで、結論はJ(I)=S、と。(違
いやいや、まあ一連の流れを見ると、たしかにhietaroさん言うように「残念」という感想なんですよねえ。色々深めるべき天があるような気がするし。
 とりあえず書き殴った。独立したエントリには…しないかな。(^^;; まあでも今後なにかと反映されると思いますので、その際に。

招待された

とある「はてなグループ」に「招待」されたようなんですが、対応のしかたがわかりまへん。(^^;;
どうやってもトップ(http://g.hatena.ne.jp/)にリダイレクトされてまうんですが…待ってればいいのかな?
招待していただいた方、どういうグループなのかよくわかりませんが(名前から想像できますが)、どうもありがとうございます。ご教示いただけると幸いです。m(_ _)m
# このエントリは関係者以外には謎だと思いますので、解決したら消します。
# 業務連絡、ってことで。すんまへん。

気になること:「国策捜査」と「ミサイル」

 小沢氏周辺への捜査についての反応も一段落してきたようなので、ちょっと気になることを。
 民主党は、あれは「国策捜査である」ということで検察(及び与党)を批判する戦術をとっているようだが、どうなのだろうか。
 民主党は、明日にでも政権を取ろうかと窺っている政党であり、また多くの議員が実際に与党を経験している。当の党首からしてかつては政権の中枢にいたわけだ。そういう勢力が、疑惑をつきつけられた時に、ただ「国策捜査だ」ということで批判していて済むのだろうか?
 可能性としては3つ-(1)本当に国策捜査である、(2)国策捜査ではない、(3)その中間。まあそれ以外ないわけだが。で、現状では本当のところどうなのか、まだ明らかではない。万人を納得させるだけの証拠は出ていない。だから、どれも可能性がある。
 もし(2)だったとしよう。だとすれば、民主党は政権政党としては失格である。自浄作用が完全にないことを強く示唆する。(1)あるいは(3)だったら?それでも、証拠が出るまでは、検察批判は(してもいいけど)好ましいものではない。
 もし本気で自民党を追い込みたいんだったら、「我々は徹底的に自らを調べた。その結果、~である(疑惑が払拭できるような証拠があるなら出せばいいし、一部でも検察の主張を認めざるを得ないのであれば、認めた上でどう対策をとるかを言えばよい)ことがわかった。我々はこれだけやった。それにひきかえなんだ自民党は。」と迫るのが政治というものではないのだろうか。それでこそ、ああ、政権につく資格があるなあ、と国民に思わせる政党になるのではないのか。

 実際にやっていることは、単に検察を非難するだけである。自民党だって同様の疑惑は報道されているのに、自らに火の粉がかかるのを恐れてか、切り込もうとしない。結果的に、馴れ合っているだけだ。
 仮に、本当に国策捜査だったとしよう。だとすれば、それこそ与党の思う壺ではないのか。自分が追及されずに済むのだから。民主党が自らの疑惑を自分で晴らした上で(あるいは疑惑を認めた上で改善の方向性を示して)、与党の追及をするというのが、自民党が最も恐れる道ではないのだろうか。そこまでやっての検察批判だったら、誰しもが納得するだろうが、いまのままでは結局どうなのかが明らかにされないままズルズルと進んでいっているだけだ。疑惑が疑惑のままである以上、そんな政党に政権についてもらっちゃ困る、というのが常識的な発想だろう。

 いやもちろん私は民主党に政権についてほしいなんてこれっぽっちも思っていないのだが、現実に政権につく可能性のある政党が陰謀論めいたことをふりまいて、カネについてテキトーなことをやってもらってちゃ困るのだ。相手につけ入るスキを与えないよう万全の注意を払い、その上で切り返すのが正しい戦術ってもんではないのかなあ。これではまるで「批判対象についてロクに理解せぬままいい加減な批判をする(ごく一部の)ニセ科学批判」みたいだ。

 いちおう言っておくと、私は、民主党に政権についてほしくないのと同程度に自民党にはさっさと下野してほしいと思っている。つまり、どちらも同程度にいてもらっちゃ困る、ということだ。だって、どっちも同じじゃない。小沢氏なんて、ついこないだまで自民党の中枢にいたんだし。大体、彼が仕えた田中角栄はそれこそ金権腐敗で検察とはずっとやりあっていたではないか。単に自民党が肥大化して派閥が政党化しただけとみるのが最も素直な見方ではないかと思うのだが、どうだろう。
 両者で政権交代をしたところで(細かいところはさておき)政策なんてほとんど変わらないんだから(対立軸を作らないといけないなんて言ってる時点で発想が間違ってる。対立軸があるから異なる政党に結集するんだろうに)、財界・企業としては、両方に金やっときゃいいわなあ。国民から収奪して企業に分配するという構造が不変のものになるんだから。

 で、もう一つ、最近の北朝鮮の「ロケット」騒ぎとの発想の関連を見る思いがするのだ。国際的には日本に自重を求めるのが大きな流れになっているが、まあ政府やメディアの騒ぎようは異常だろう。まるで戦争前夜のようだ。
 国際的にもそうだし、国内でも、誰もがあれは実質的にはミサイルだと思っているというところでは異論はないだろう。問題は、ではそれを「ミサイル」という表現を使って批判するかどうか、だ。北朝鮮は「ロケット」だと言い張っているわけだ。だとすれば、こちらとしては、実質的にどうかはともかく、批判の上では「ロケット」ということにしておかないと、議論の入口でつまずくだけで、さらには向こうにつけ入るスキを与えるだけではないか。ロケットとして飛ばすつもりがまったくなかったという証拠なりなんなりが出たときに、「言ってることが違うじゃないか」とツッコめば良いのであって、それまでは相手の矛盾を突く形で批判していかないと、話は前に進まないだろう。

 で、こういうあたりが、安易に「国策捜査だ」と主張するメンタリティと通ずるものを感じてしまうわけですよ。

 ちなみに北朝鮮は何を考えているかわからん国家だから、とかいう話もよく聞くわけだが、だったら尚更こちらはロジックを通さないといかんだろう。同レベルで争って、どうやって国際的に支持される立場が得られると思ってるんだろう。

 というわけで、どうも、政界には、ロジックを重視する雰囲気が欠け、安易に陰謀論に飛びつく素地があるような気がするのだ。まあ民主党には陰謀論でその筋では有名になってしまった議員もいることだし、なあ…。

***

これとは関係ないが、エントリ起こすには至らないのだが別の気になること。
 ここのところずっと、毎日「奥健夫」での検索でやってくる人がいるのだ。最近何冊も本を出しているようだし、ちょっと浸透しつつあるのかもしれない。注意のレベルを上げておく必要がありそうだ。
 とは言え、まだ古本屋には出てないし…新刊で買うのもバカらしいからなあ。現役の物理研究者であるだけに、罪が大きい。まあ古本屋で見かけたら、少し高目でも入手して批判しておく必要があるかもしれない。
 やれやれ。

たまごたまごたまご~

たまご~を~たべ~ると~ じゃなくて。
『イケナイ宇宙学』をゲットしまして、始めのほうをつらつら読んでいたのです。いやあ、面白い。内容もだけど、文章自体も面白い。訳も苦労されたんだろうなあと思いました。まだ第一章しか読んでないのですが。

 第一章は、「キミ、だまされてない? 春分の日と卵の関係」。アメリカをはじめ、世界じゅうで、春分の日ごろに「卵を立てる」という儀式が行われる、というのである。まあ普通は「立つまい」と思うのだが、春分の日に限って「立つ」といので、テレビもこぞって子どもたちが立てる姿を報道するわけ。
 もちろん、春分の日に限らず、うまくやれば卵は「立つ」。地球と太陽の位置関係がどうの、とかいうのは間違いで、いつでも「立つ」、が結論で。問題は、春分の日以外にやろうとした人がいなかったので検証されてこなかった、いくら春分の日に「立った」と「実験」しても、それでは検証にはならない、それ以外の日に立たせることができれば、「反証」になるから、という話が展開される。
 著者は、講演では卵を立てる実演をするそうなのだが、ある教師からメールをもらったという。その教師は、実際に生徒たちと卵をたててみて、春分とまったく関係ない日に成功し、また一ヶ月以上ものあいだ、そのまま立っていたと報告してきたそうだ。その重要な教訓として、
これは、聞いたことを鵜呑みにしようとせず、自分で確かめようとする人の好例だ。それこそ科学の神髄なのである。
としている。
 ついでにもう一つ重要な言葉を述べているので、先回りしてそれを紹介しておこう。
科学のすばらしさのひとつは、みずからを改善していくところにあるが、もうひとつは、その改善のきっかけがどこから訪れるのかわからない点にある。私の場合、ミシガン州マンセロナ(引用者注:上記教師の在住地)からだった。
噛みしめたい言葉だ。

 でまあそのこと自体大事なことではあるのだけれども、ここで紹介しようと思ったのはそのことではない。
 まず一つ目。どうして卵が立つのか?著者はいくつかの仮説を立てた。そして、卵の底にある小さな突起のためではないか、と考えた。ところが、この教師の生徒たちは、卵のてっぺんを下にしても立てられたという。卵のてっぺんは出っぱりがないので、この説は間違いだと著者は結論づけた(結局原因はなにかは述べられていない)。ちなみにこのことが上で引用した言葉を言わせた原因になっている。
 二つ目。この話が流布したのは、『ライフ』誌の1945年3月19日号に、重慶の町で人々が繰り出し卵を立てているのを記事にしたことに始まるらしい(そもそも中国でどのようにしてそんな慣習が始まったかはわからないが)。中国では立春の日に卵を立てる慣習がある、ということなのだが、「立春」というのが「春分」に変化してアメリカに広まったらしい(直接関係ないが、私は戦史のことはよくわからないのですが、1945年の3月は、もう日本軍からは解放されていたのだろうか?ついでに、重慶といえば重慶爆撃 のことを、我々日本人は忘れるべきではないだろう)。

 さて、このあたりで、私は「どこかで聞いた話だなあ」と感じていたのである。で、思い出した。『中谷宇吉郎随筆集』に載っていた話ではないか(『雪は天からの手紙』にも掲載)。この本の終わりの方に、「立春の卵」と題したエッセイが載っている。「昭和二十二年四月一日」付けの記事だ。
 このエッセイ、次のような文章で始まる。
 立春の時に卵が立つという話は、近来にない愉快な話であった。
 二月六日の各新聞は、写真入りで大々的にこの新発見を報道している。もちろんこれは或る意味では全紙面を割いてもいいくらいの大事件なのである。
興奮が伝わってくる文章だ。さらに、
『朝日新聞』は、中央気象台の予報室で、新鋭な科学者たちが大勢集って、この実験をしている写真をのせている。七つの卵が滑らかな木の机の上にちゃんと立っている写真である。『毎日新聞』では、日比谷の或るビルで、タイピスト嬢が、タイプライター台の上に、十個の卵を立てている写真をのせている。札幌の新聞にも、裏返しにしたお盆の上に、五つの卵が立っている写真が出ていた。これではこの現象自身は、どうしても否定することは出来ない。
ということで、気象台でガン首揃えて卵を立てている場面が想像できて微笑ましくもある。
 ただ、次の文章を見ると、
上海ではこの話が今年の立春の二、三日前から、大問題になり、今年の立春の機を逸せずこの実験をしてみようと、われもわれもと卵を買い集めたために、一個五十元の卵が一躍六百元にはね上ったそうである。それくらい世の中を騒がした問題であるから、まんざら根も葉もない話でないことは確かである。
と書いており、中国全土で慣習になっていたわけではないことを示している。さらに、
 『朝日新聞』の記事によると、この立春に卵が立つ話は、中国の現紐育(ニューヨーク)総領事張平群氏が、支那の古書『天賢』と『秘密の万華鏡』という本から発見したものだそうである。そして、国民党宣伝部の魏氏が1945年即ち一昨年の立春に、重慶でUP特派員ランドル記者の面前で、二ダースの卵をわけなく立てて見せたのである。丁度硫黄島危しと国内騒然たる時のこととて、日本では卵が立つか立たないかどころの騒ぎでなかったことはもちろんである。さすがにアメリカでも伯林(ベルリン)攻撃を眼前にして、この話はそうセンセーションを起すまでには到らなかったらしい。
とのことだ。だから、「慣習」というほどではなかったのであろう。

 でまあ以上は細かいいきさつで、本質ではない。
 中谷は大いに興味を持ち、自分で実験してみている。理屈も色々考えている。しかも単に立っただけではなく、流動性との関係を調べるために、ゆで卵でも実験してみている(最初の卵がゆでる時に子どもに割られてしまい、近所に買いにいかせたがなかなか手に入らず、子どもが病気だからと嘘をついてやっとわけてもらったというのはまだ戦後2年もたたない時代を思わせる)。ゆで卵も無事立ち、さらにそれを切ってみて、重心の位置もなにも変わっておらず、要するに卵というのは立つようにできているのだ、と述べ、
この場合と限らず、実験をしないでもっともらしいことを言う学者の説明は、大抵は間違っているものと思っていいようである。
とおっしゃる。ああ、なんと厳しいお方よ。
 中谷はさらに考察をすすめ、卵がわずかに変形しているのではないかと考え、ヤング率を適当に与えて(樫の木程度に)、机との接触面積を求めている。計算によると、接触する円の直径は0.0022mmとなった。重心がこの範囲に入っていれば立つ、というわけである。しかし、あまりにも小さすぎないか?というので、次に考えたのが、『イケナイ宇宙学』の著者が「誤り」とした卵の表面の凸凹である。しかし中谷の凄いところは、見た目のざらざら・すべすべさだけで判断するのではなく、顕微鏡で見てみたところにある。そして、凸凹具合は0.03mm程度に過ぎないが、突起の感覚は0.8mmぐらいだったということだ。すると、半mm程度の精度でうまく重心をとれば、突起を支えにして卵は立つというわけである。
 もちろん中谷らが卵のどの部分を顕微鏡で覗いたのかはわからない。しかし、これは説得力があるように思われる。実際のところはどうなのだろう。
 最後はこう締めくくられている。
 人間の眼に盲点があることは、誰でも知っている。しかし人類にも盲点があることは、余り人は知らないようである。卵が立たないと思うくらいの盲点は、大したことではない。しかしこれと同じようなことが、いろいろな方面にありそうである。そして人間の歴史が、そういう瑣細な盲点のために著しく左右されるようなこともありそうである。
 立春の卵の話は、人類の盲点の存在を示す一例と考えると、なかなか味のある話である。これくらい巧い例というものは、そうざらにあるものではない。紐育・上海・東京間を二、三回通信する電報料くらいは使う値打のある話である。
 この中谷のエッセイと『イケナイ宇宙学』との間には60年の歳月が流れている。それにも関わらず、(詳細はともかく)なんと思考経路の似ていることだろう! これが科学的思考というものだろう。盲点の存在及びそれへの警鐘も含めて。卵の話それ自体も面白いのだが、この二つの話の存在がさらに面白かった。人間である以上、科学者といえども様々なバイアスは避けられない。それが社会構成主義のような相対主義的な科学の理解の支えになっている。しかし、それを当然に踏まえた上でいかに客観的真理に迫るかという実例を、同じ対象に対する時代も地域も異なる独立な事例を見ることで、本当の科学の営みというものを垣間見る思いがする。

 というわけで、これを見せられたら自分でもやってみないわけにはいかないだろう、ということで、家にある卵でやってみた。…ダメです、立ちません!! (^^;;
 これで卵が立ってる写真が載せられたら格好いいなあと思っていたのだが、どうも私には根気が足りないようだ。そのうち、表面がざらざらのいい卵を買ってきて、リベンジしたいと思う。
 ちなみに、中谷宇吉郎といえば、TAKESANさんも紹介している 『科学の方法』(岩波新書)がオススメです。
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