カナダでこともあろうに、名誉殺人というイスラム圏文化の殺人が起こりました。家族が家族を、驚くような些細な理由で殺すのです。イスラムの諸国では依然としてこうしたことが今でも名誉を守るという理由でかなりの数の人命が失われているそうです。実行犯は他人よりは、はるかに信頼を置いているはずの家族メンバーや親族であるとは。トホホになってしまう。

 

二カーブ(日本の忍者覆面と酷似)カナダでも見かけます。

 

カナダでの事件では、アフガニスタン出身の家族の娘19歳とパキスタン青年の交際が父親の逆鱗に触れたのです。

 

イスラム諸国では戸主である男性は絶対的な権力をふるいます。相手と自分との部族が違うので結婚はおろか交際もいけない。ということで結局、父親とそれに協力した他の家族メンバーによって、第一夫人を含めた家族の女性四人が殺される結果になったのです。

 

しかしこれが彼らの祖国のアフガニスタンであるならば名誉を守るためにしたことであるからと罪にはならないで済むのかも知れません。

 

けれどカナダでの文化ではそれは名誉でも何でもない、大変な犯罪です。文化の恐ろしい違いです。

 

初めから自分たちのアフガニスタンでの生活よりもカナダでの生活が良いということで母国を出てカナダへ移民させてくれと来た以上、カナダでの文化を尊重するのは当然だと思うのです。

西欧のカナダに来てまで、イスラム世界での男尊女卑文化の極めを実践されたのでは西側は肝をつぶす。そのような文化をカナダ人は持ち合わせていない。

 

しかしカナダでは死刑がありません。それで上記の犯罪者たちは四人の命を奪っても仮釈放なしの懲役25年の刑で済んだのです。一口に殺人と言っても、その内容は様々で中には同情すべき情状があったりすれば、その刑は軽くなります。

 

けれどこの四人の殺人での理由には考慮すべき情状などは無いと、先ほどの遠山の金さんも言うでしょう。金さんなら恐らくは獄門の刑ぐらい、言い渡すは必定。まさか娘達も実の父親にいずれつまらない理由で殺される運命になるとは夢にも思わなかったことと思います。

娘たちの前途が全て奪われました。彼らが主張する名誉がどういう名誉であるかがさっぱり分かりません。

 

目には目をがイスラム刑法の基本です。子供でも盗めば手首から手を切り落とす国もあります。

 

不倫をすれば女性は大抵、斬首、絞首、銃殺のいずれかという運命が待っています。しかし相手の男性の方はむち打ちのお仕置きで済むそうです。この違いはどういうこと?何というお上の裁き!

遠山の金さんが聞いたら‷手前ら人間じゃxx”と激怒するのは必定。

 

自分の子供がほっぺたを叩かれれば、イスラム教の父親は復讐して来い、と子供に厳命。キリスト教の父親は子供にその時は右の頬も出しな、と言う。月とスッポンの違いですね。

死の直前に見せた犬の不思議な力

 

この犬は持ち主さんの話によると17歳。犬で17歳と言えば、高齢も高齢という歳。家族の大切なその犬はすでに寝たきりで動けない上に目も見えなくなっていたそうです。

 

 

ところが

その日の朝、日光浴にと出されたわずかな時間の間に動けないはずの犬がいなくなった。寝たきりなので、首輪の紐もつけていなかった。

 

しかし実際は寝たきりの犬がその日、日光浴から立ち上がって歩き出していた。目も見えずにあちこちにぶつかりながら歩いていた。

 

 

犬はその日のうちに、ある人に保護された。

 

驚くことに、その保護された場所は犬の家からなんと10キロも離れていた!首輪から連絡を受けた持ち主が急いで駆けつけて家に連れ帰ったのですけど、犬はその翌日に死んでしまった。

 

人間でも長いこと病気で寝ていた人が死の何日か前に急に体調が良くなり家族と話をしたりしていたと思うと、その後に突然、容態が急変して亡くなってしまう、というような事をよく聞きますね。

 

自家製文鳥達
 

 

以前、日本で二匹の犬を連れて散歩へ出かけた時に、おかしな体験をしたことがあります。

 

家の近くで徒歩一分ぐらいのところにかなり開けた草地があったのです。ここへは毎夜、犬の散歩に行ってました。その場所は夜でもありますし、近くに街灯もなく、人通りなどはまず無いような場所だったので、犬を放すには良い場所だったのです。

 

その草地で犬達は互いにじゃれ合ったり、駆けたりで自由に遊んでいたのです。犬はオスのドーベルマンピンシャーとクリーム色のメスのスピッツ雑種犬です。

 

このド~ベルマンは私の少ないアルバイト料でためたお金をトホホ、、とはたいて買った犬で、警察犬訓練所にその子犬を頼んでおいて購入したものです。黒光りの精悍なオス犬で走る姿は鹿のように優雅でとても気に入っていたのです。

 

                  ド~ベルマンピンシャー

                      この写真は借り物ですけど、こんな姿です。

 

忠実というか頭の良い犬で私が‷待て“と座って待たせ、遠くへ離れて行っても、ヨシと言うまでよそ見もしないで、ジッと座ったまま動かないのです。すごい集中力を持っていました。

 

雑種の方は知り合いの若いカップルが可愛がっていたのですが、そのカップルが事情で別れることになり、犬を貰ってくれと言われて引き受けたものです。

 

散歩には草地に行くのに、ド~ベルマンは繋いで、スピッツの方は紐なしでトコトコついて歩いていたのです。

 

その夜、道から草地に入って行き、いつものようにド~ベルマンを放し、スピッツと遊ばせていたのです。犬達は適当に駆けまわったり、私は遊んでいる犬達を見たり、道に人は来ないかと暗い中で目を凝らして、交互に見ていたりしていたのですが、、

 

急に犬達が遊びを止めたのです。おまけにスピッツ犬が尻尾と頭を下げて、何かに怯えるようにスゴスゴと自分一人で勝手に帰ろうとするのです。他の私達を置いてです。確かにその姿は犬が何かに怯えている時にとか怒られた時に見せる様子なのです。

 

ド~ベルマンの方はどうかと見やると、その方は帰ろうと歩きだしているスピッツをジーと不思議そうに見ているだけでいつもとそうは変わりはない。私はもうすでにスタスタと怯える様子で勝手に帰ろうと歩いているそのスピッツを呼びとめた。けれど一瞬、振り返っただけで、また逃げるように歩き出す。

                            

 

遊び好きな犬がその途中で自分一人、帰ってしまうなんて、これまで一度も無かった。私は瞬間、、草地の闇の中に何かがいるかも知れないと思ったので、持っていた犬の革紐をびゅんびゅんと自分の身の回りに鞭のように力一杯振り回した。防御のつもりです。

 

急いでスピッツの後を追うように、途中でド~ベルマンを繋いで家に帰ったのです。

 

ところがこれで終わりでは無かった。

 

帰宅してしばらくして家族からその首の傷はどうしたのかと聞かれた。え、と驚いて何がと聞き返すと、右耳の後ろから下にかけて細い赤い糸のような線が10㎝ぐらいだろうか、ついていた。全く新しい傷で古傷にはとうてい見えなかった。

 

けれど皮膚が切れたりの傷にはなってはいないし、痛くも何ともない。爪かなにかで引っ掻いた覚えもない。赤い色は充血はしていたけれど、線そのものは細い糸ぐらいでまぁ、たいしたことは無いから、すぐにもとに戻るだろうと簡単に考えていた。

 

ところがです。またもやこれで終わりでは無かった。

翌日には赤みも引くだろうと軽く考えていたのですが、その線は日ごとに太くなり、とうとう何日か経つうちに、ついに水ぶくれまで持つようになってしまったのです。

 

水ぶくれまで持っては火傷みたいです。何だこりゃ、です。そうこうしているうちに、皮膚まで破れてぐちゅ、ぐちゅになってしまって、中々しつっこい傷になってしまうのです。治るのにひと月以上かかることになってしまいました。たかだか糸のように細かったただの赤い線がです。

 

この赤い線と草地での出来事と関連があるかどうかはいまだに正確には分りませんけど、あの時、何かが起こったかも知れないと疑ってはいます。

 

しかし翌日もまたいつものように、犬を連れてまたあの草地に行きました。今なら絶対に二度と行かないのですけど、、。しかしあの出来事のようなことは幸い、その後は一度も起こらずに済みました。

翌日に連れて行ったのですけど、スピッツの様子も通常と何も変わらない様子で遊んでいたし、怯えた様子も見せなかったのです。犬が勝手に一人で帰ろうとしたこともあれ一度きりで、以後は無かったのです。

 

私の手がけた手乗り文鳥
 

鳥の刷り込み

 

水鳥類では刷り込みと言われている習性がありますね。誰から教わった訳でもないのですが、卵からふ化してヒナが最初に見た動く物をその親と思い込んでしまうものです。

 

ある水鳥のふ化寸前の卵のそばへ風船を置いておくと卵からかえったヒナが傍に風船があるのをオヤッと見るんですね。これが親の始まりです。それから以後、ヒナは鳥の鳴き声を全く発しない風船でも、親と固く信じて疑わないのです。

 

風船が風に飛ばされると、慌ててお母さんどこへ行くの、とその風船を追いかける。風船が止まるとヒナも止まり、その体を風船にピタリとくっつけて安心するのです。

ヒナと風船が仲良く並んで、なんとも奇妙な親子の姿になります。

 

この刷り込みに関連して思い浮かぶのが、あの有名な進化論を書いたダーウインです。

アメーバのような低級な生物から進化して現在の人間が出来上がったという説です。

 

進化論を書いたチャールズダーウィンは全ての生物は自然界から生まれたとしています。

話がちょっとそれますけど、下に彼の写真を載せました。進化論を書き上げるのに彼がどれほどの苦労をしたかが分かるような気がします。

 

           

7歳の時のダーウイン        45歳のダーウイン

 

話をもとに戻しますが、考えると上のヒナの刷り込みはとても不思議なのです。ヒナは卵からふ化したのですが、卵の時はその内部で液体でした。そうです、液体だったのです。

 

液体であった時、すでに上で言った刷り込みという習性がその液体の中に存在していた。勿論、その刷り込みを誰かに教わったという可能性はゼロ。

 

この親なしのヒナだって、親に成長すれば誰に教わった訳でもないのに、卵をその巣に見れば、完全に親鳥に育てられたヒナと全く変わらずに卵を温める。卵は一定期間温めなくては、そのヒナはふ化しない。

どこから、そしてどのようにして、その一定期間あたためるという習性を獲得したのでしょうか?

 

また、その親と卵はどちらが先だったのでしょうか?このようなことが自然界からひとりでに出来上がるものであるのか、いろいろ考えると不思議ですね。

 

ダーウインはこれらの疑問にどう答えるでしょうか?私の個人的な思いですけど、私自身はダーウインの苦労の末の進化論についてはお気の毒ですけど、信じられないのです。上のような知的な内容が自然から生まれるにしては複雑すぎると思っているからです。自然界から自然に生まれるとするならば、それは単純であってしかるべきかという思いもあるのです。

 

ダーウイン氏の話はこのくらいにして、元に戻ります。

 

人間の子供でも多少、上のような事が起こり得るようです。

病院で未熟児の赤ちゃんが保育器の中である一定期間は育てられます。ところが実の母親が自分の赤ちゃんに会いに行くと、その赤ちゃんは母親から目をそらしたり、時には泣き出したりするそうです。母親にして見れば、わが子の冷たい態度にショックです。

 

ところが、母親がマスクをかけて会いに行くと赤ちゃんは安心して泣かない。看護師の方のマスク姿を覚えて、赤ちゃんはそれに自分の母親のような感覚を持ってしまうというものです。

 
 
 
下の動画は家で孵化して、雛から育てた手乗り文鳥、この鳥も私を親と思っているのでしょうか。
二回目
 
三回目
初めての手乗りのヒナ達
 
 

ガチョウ夫婦の悲しい最後の会話

 

     ガチョウの夫、、、、すまない、、ほんとにすまない、許してくれ。

 

          妻、、    いいえ、あなた、いろいろありがとうございました。

 

 

                   上の会話が下記の写真です。

 

ここでは人がガチョウのメスを食用のために縛って連れていこうと荷台に乗せたところへオスのガチョウが心配してメスのところへ来たところです。

 

オスのガチョウは危険を察して、メスが縛られる時にその嘴で突っついたりして、なんとかその紐を解こうとしたそうです。ですが人間の前になす術がありません。悲しい別れだけが残りました。

 

メスはこの後すぐに予定通りに、後になってオスも結局は食べられてしまうことになったそうです。

 

 

 

 
 

               嘘のような信じられない文化の違い

 

イスラム教文化を何も知らない頃ですが、イスラム教徒が祈りを捧げる姿が非常に信心深く印象的だったとの記憶があります。

 

中東と言えば砂漠の多いところです。昔はラクダがその交通手段のかなめでした。“月の砂漠”という歌の中でもお姫様と王子様が月の砂漠を進んで行くというのがありましたね。

王子様が道案内として先導し、やさしい愛である善がその後に続いて行くという、、良い構図です。

 

しかし現代はその交通手段は車です。砂漠出身の人達も車に、これは楽だです。

 

一度、エジプトの男性に質問したことがあります。カナダをどう思うかと。その人ちょっと考えて、子供の教育の為には良いという答えでした。そのちょっと考えた時間は子供の教育以外には良い答えが出来なかったのでしょうか。

 

良い答えが返ってくるかと期待したのですが考えてみるとイスラム社会は男尊女卑の社会ですからカナダの男女平等を目指すような社会とは違う。もろ手をあげて満足とまでは出来ないのかも知れません。

 

イスラムの人達の文化に断食というのがあります。飲まず、食べずで世俗の欲から身を清めるという目的かと想像します。ところが、ところがです。

 

断食は昼だけ、夜になれば食べたい放題、飲みたい放題のお皿叩いてチャンチキおけさ、、とまでいくかどうかは分かりませんけど、夜は暴飲、暴食も可能なのです。

 

 

夜のうちに食べるだけ食べれば翌日は食欲不振で断食の禁欲も楽だよ、、ということなのでしょうか。

 

中東にサウジアラビアというイスラム教国があります。ご承知の通り、世界一の産油国です。この国はある意味でイスラム教国らしい厳格な国なのです。

 

例えば、ここでの刑法によると、麻薬、強姦、殺人、同性愛においては死刑です。死刑と言っても斬首ですから、あのイスラム国独特の弓なり剣がビューッと振り下ろされます。窃盗においては手首切断と肉屋のおじさんがほほ笑むような刑罰です。

 

飲酒は鞭打ち刑、、これだって現実は悲惨です。また男尊女卑の決まりのもとに、結婚、就職、旅行などについては、女性は父またはその男兄弟、夫などの「男性保護者」の許可が必要であると規定されているらしい。女の道は険しいのです。

 

かってこの国のある家庭に出稼ぎに来ていた17才の女性がその家の赤ちゃんに飲ませているミルクを赤ちゃんの喉に詰まらせて、その赤ちゃんを死なせてしまった。その結果が大変なことになりました。

その女性はまだまだ若いのに、裁判で斬首刑を宣告され、後に公開処刑で実際に首をはねられてしまった。

その年でけな気にも頑張ろうと家族を離れて、他国まで来て斬首ではあまりに気の毒な結果。

家族の悲しみはいかほどのものだったでしょうか。

 

ところで、サウジアラビアは2015年に国際連合人権理事会の議長国となりました。

 

下は皆、家で卵から育てた自家製の手乗り文鳥
 
二回目の手乗り文鳥
 
 
下は私の最初の手乗り文鳥
 
 
 
 

 

 

 

幼女が死の直前にバイバイと母親に言って去った。

 

ある女性が一緒に連れて来た娘を嫌う内縁の夫との生活がスムーズに行かなくなっていた。

夫の我儘にその女性は追い詰められ末に思いつめた結果は、。

 

ご存知の方も多いとは思いますが、以下は朝日新聞での記事の主要な部分の抜粋です。

 

「この子をこのまま置いておくわけにはいかない」

不機嫌になっていく交際相手の男性の様子を見て、24歳(当時)の女性はそんな気持ちになっていった。

 

3歳の一人娘は、別れた元夫との子ども。同居を始めた男性は、徐々に娘の存在をうるさがるようになっていた。この朝も不機嫌になってトイレに閉じこもると、ドアを殴って壊した。

 

午後10時過ぎ。近くの川に架かる橋のそばに車をとめ、娘を両腕に抱いて橋の欄干に立たせた。車が通るたび、娘を欄干から降ろす。3度目、娘を抱く手を伸ばし、宙に浮く状態にしてみた。

川面からの高さは4メートル以上。娘はにこっと笑い、突然こう言ったという。

バイバイ」、、、、。

 

この後、幼女は母親の手から離れ川へ落ちていき亡くなってしまうのです。

 

この幼女にとって親は信頼そのものでまさか自分の愛する親が自分にこのような結果をもたらすなど想像すら出来なかったことでしょう。

 

この母親はその男の為に一瞬の魔がさしたのだろうと思いたい。幼女は女性にとっては大切な存在であったはずなのに。ここまで女性を追い詰めたのはその男です。

 

男は刑事上の罪は無いのかも知れないけれど、結果を引き起こした原因はこの男にある。

 

女性の本質は男性とは言うまでもなく違う。女性はほんの小さな子供のときでさえ、お人形を背中におぶったりなど、小さな生き物などにやさしい情をしめす。そんな幼い頃から自然に行動しているところを見ると、それは生まれ持った先天的なもののように思える。

 

男性には男性の良さもあるので男性を批判するつもりはないけれど、これに反して男性のもともとは冷たいのではないかと思う。

 

男性については残酷な事をいとも簡単に行うケースをかなりあちこちで見る。やさしさは男性にとって後天的にその成長に合わせて、徐々に獲得されるものであるのかも知れない。

 

上の記事のような出来事は社会から消えて欲しいと心から願います。

 

 

 

日本とは違ったカナダの話

 

カナダと聞けば、聞いただけで寒くなる国の印象があります。確かに寒いですねー。

 

 

 

日本から来られる人がまず初めに驚かれるのは、カナダ人は耳の無い人が多いということでしょうか。

よく言いますよね、”耳がちぎれるほど寒いって“、、これ冗談ですけど、本当に寒いですよ。先日は零下十何度です。これだと体感温度はマイナス二十何度にもなって、冷凍庫も真っ青になる程の寒さでした。

 

日本などで1度か、2度程度で、今夜は冷え込むでしょう。と予報はなるでしょうけれど、それだとこちらでは熱中症の注意報が出ると思います。これはちょっと大げさな言い方でしたけれど、そのくらいだと半袖とかノースリーブの目立ちがり屋さんの女性が見かけたりもします。

 

けれどカナダに慣れたせいか、そんな寒さでも“さて、犬の散歩に行ってくるかな、と出かけるのです。

 

路面は凍り付いて、犬は4本足の4輪駆動なので一本が滑っても残りの足で支えられますけど、人間は悲しいことにそうはいきません。一本が滑ればただでは済みませんから慎重に進みます。冷凍庫の中よりも寒い中を散歩しているようなもので、日によっては帰るまでに鼻から口まで凍えてしまい皮膚の感覚が鈍くなり。

 

鼻水が出ても分かりにくくなります。人の鼻水が出ているのを笑えません。自分も出ているかも知れないのです。

 

話が変わりますが、ある女子大学生がアイスクリーム店でアルバイトをしたのです。インド人のお客さんが来店して注文をするのですが、マクドナルド店みたいなもので、忙しい時にてきぱきと受け答えをしなくては仕事に支障をきたすので、仕事にスピードが乗り、自然にミスが出やすくなる。そのようなことは承知の上なので。ミスを防ぐために注文一つ、一つを注意深く確認をしている。

 

インド系の人達と言うから、パキスタンの人も同じだろうと思うけれど、この人たちの注文がとりわけ神経を使うらしい。

 

なぜかと言うと、はい、と いいえ、つまりYes, と No の身振りがまるで普通とは逆なのだそうだ。彼らは、ハイに対して首を横に振る。いいえに対しては縦に首をうなづく。

 

注文を間違えないように、店員は確認をしながら注文をとる。その時が問題なのだ。

 

例えば、バニラですね。と注文を確認すると、彼らは首を横にふる。これでインド人は、“そうです”のつもりだ。

 

しかし店員は首を横に振るから違うのかと思ってまた聞くとまた首を横にふる。その注文が正しいのかそれとも違うのか、確認をしようとすればするほど、分からなくなってくる。

 

カナダではへたに国籍などを聞けない。人種差別はここでは犯罪で、警察が飛んできて逮捕されてしまう。初めからインド人と分かれば、それなりに対処のしようもあるが初めは他の人達と同じように対処してしまうから、ややこしくなってしまう。

 

いろいろ文化の違いがあるのですが、ある大学教授の話です。数学試験の最中にインド人学生が手をあげる。何か質問かと思って行くと、質問ではなくて、自分の答がこれで良いのかと聞いてくる。

 

そこで教授がこれは試験だからあなたの質問には答えられないと丁寧に説明して終わる。学生が納得したかと思うと、説明の終わった途端に、またこれで良いのかと全く同じことを聞いてくる。振り出しに戻る訳です。これでは先ほどの説明は何だったのか。こんな例がいくつもあるそうだ。

 

同じ教授の話です。数学試験中にヒソヒソと話し声が聞こえる。よくあるカンニングです。注意すると

インド語でお祈りをしていたんだ。という答えが返ってくるのです。

 

カナダはいろいろな国の人々が住んでいるので、日本とは違ったいろいろな文化があります。

ある国の人間が他の国籍の姓名だけを見たのではその名前があらわす男女の区別もわからない。

 

ある時など、男子学生の代わりに優秀な女子学生が初めからクラスに身代わりとして出席して試験も受けていた例などもあります。

 

中には苗字がなく名前だけしかない人もいます。もっともこちらでは大抵は名前で呼びますが、また同じ実の家族メンバーでありながら、全員が全て違った苗字を持っている例もあります。好きな苗字をそれぞれが名乗っていると言うわけです。

 

もう亡くなった岡本太郎さんという芸術家が名前なんて無い方がいい、って言ってたそうですが、考えるとそうかも知れないなぁ、と思ったりもします。

 

日本でも名前のために昔は命まで失くした人達がいたと思いますが、国が違えばそういった価値観が全くない国もあるのです。人間死ねば、一体、価値あるものとして、何が真に残るのでしょうかね。

 

 

 

    

 

 

 

下は初めての自家製手乗り文鳥

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                 

 

動物の笑ってしまう視覚判断

 

 

動物の目は人間と違って、その目による判断能力はおかしくなるほどに貧弱のようです。

身近な例で、生後一年ぐらいの犬でもまだ風に飛ばされた枯れ葉を何か生き物ではないかと追いかけたりします。

 

人間なら見た瞬間に何だ、何だ枯れ葉ではないかと分かりますが。それが犬には経験を積むまでは、枯れ葉でも大変な生き物に違いないと思って追いかけてしまうのでしょう。

 

けれど動く物に対しては反対に非常に鋭い視覚能力を持っているようです。対象物が動いているか、いないかを見定めるのは速くて、猫でも犬でも、人間の目で追うのも大変な程のスピードのある獲物を逃さず捕らえることが出来るのです。

 

動物の視覚の貧弱さの例ですが、アフリカのある人達のダチョウを捕まえるやり方が面白いのです。

 

ダチョウの長い首から頭をまねて作った物を人間が頭にかぶってダチョウの傍に行くことが出来るのです。

 

その作り物のダチョウの首と頭は紙と糊でくっつけて作ったような代物なので、あまり上手な仕上がりとは思えないのですが、それでもこれが十分働くのですから面白いです。ダチョウの視覚にはそれでも仲間である見えるのです。

 

人間ダチョウがそろそろと近づいて行くのをダチョウの群れが初めは何かが来ると言うわけで、じっと見ているのですが、自分の仲間と同じの長い首を持っているので、仲間のダチョウかと安心してしまうのか、人がヒョッコ、ヒョッコと近づいて行っても、その長い首の人間を仲間と信じ込んでいて、それにはもう無関心でよそ見などを始めたりして全く逃げようとしない。

 

人間の目には、頭にかぶったまがい物の下は全てが人間丸出しなのですがダチョウ達の目にはこれが分からない。

そうやって十分に近づいた人間がソレっとダチョウの首をギュッと捕まえてはじめて、驚愕してバタバタ、逃げようとするのですが首根っこを押さえられてはもう鳥つく島もありません。

 

 

これと同じような別の例なのですが、今度はシマウマの反応です。

 

こちらの方は縞模様が上手に印刷されたシマ馬の頭をしたビニールを人間が被ります。

そのビニールを被った二本脚の人間が柵の中にいるシマ馬に向かって歩いて行きます。2本足と4本足の区別の数学などシマ馬は教わったことはありません。

 

シマ馬はその縞模様のある頭を被ったビニールシマ馬を人間とは思わず、背の低い子供のシマ馬ぐらいにしか思わない。自分たちとは違ったその4本足をこれまた仲間と固く信じて疑わない。

 

ある種の親近感を持つような様子でビニールシマ馬のいる方へ本物が近づいて来ます。偽物と本物の顔がくっつく程に接近します。本物さんがビニールの臭いを嗅いでいるので恐らく仲間とは違った臭いに気がついているはずなのですが、まさか人間とは夢にも思わないのでしょう。おかしい、どうもおかしいと思いながらも逃げるまではいかない。

 

 

 

そこで人間が頭からビニールをはがすのですが、シマ馬に無いはずの手が突然に頭へと出てくるので、いささか驚いて見ていますが、そのビニ-ルを剥がし、

 

いよいよ縞のない人間の頭になると,さすがに馬の様子が一変し、ワ~とばかりに、仰天して逃げ出すというものです。

 

これで実験は終わりなのですが、このシマ馬にもう一度、シマ馬ビニールで近づいて、また成功するかどうか試して見たらどうなるでしょうか。まぁ、多分だめでしょう。柳の下に二度目のドジョウはもういないと言いますから、。

 

下は私が生後二週間から最初に育てた手乗り文鳥

 

 

 

 


人間クローン試み、その後の現実、

 

 

 

少し前、羊などの動物のクローン作製が成功して世界が騒然としました。

このクローン作製は動物レベルでは成功したのですが、これが人間レベルとなると簡単にはいかないと思います。

 

成功すると、それはそれでいろいろ問題となります。

複製された人は複製された途端に人間としての基本的人権を有することになりますので実験室のモルモットのように籠の中でおもちゃの車でも回させて置けば良いだろうという訳にはいかないでしょう。

 

人間ですから戸籍での記載、住居、就職、その子供の血縁関係などの問題やらが当然起こってきます。羊のように牧場に放して、後は元気で生きるんだよ、と簡単に済ませてしまう訳にはいかないでしょうから。

 

このクローン作製の成功は科学者にとって当然大変な誉になるのではと思うのです。

しかし現在、この分野の科学者は一人もいないかのようです。竹林の中にいるかのようなこの静けさは一体どうしたことなのでしょうか?

 

作製には道徳上の問題があるという理由から、この分野の科学者という科学者がこぞって一時は大人気のこの分野から誰もが身を引いたのでしょうか? 

 

いえ、そうとは思えません。世界の誰かしらがその誉を得るために一番のりの雄たけびをあげる科学者がいても不思議はないと思うのです。

 

科学者はそれぞれにおそらく、我こそはと成功の一番のりを目指して大変な努力はしていると思います。

 

けれど残念ながら作製したくとも、それは絶対に不可能なのです、、、永遠に。

 

それは人間と動物は根本的に違うからです。肉体のレベルでは動物も人間も同じです。

 

けれど人間は霊的な存在なのです。霊という言葉に恐れる方もおられると思います。私も次元の違う未知の世界の話なのですんなりという気分ではなれないのですけど続けます。

 

霊の存在を暗示する言葉は私達の生活の多くの箇所に残って存在しています。ご霊前、霊感などなど、。

ある時は、人間が死ぬと、あの世に旅立つとも言います。これは肉体に宿る霊がその肉体から離れてどこかに行くことを意味しているものと理解できます。

 

もし人間に霊が存在するとなると、人間という存在はその肉体と霊とで成り立っているということになります。そうなると科学者はその片方である人間の肉体は作製できても、他方のその霊までは決して作製することは出来ないということになります。

 

 

 

人間から霊が離れると人間は死ぬということから考えると、人間の重要な主体はその肉体というよりも霊であるということになります。

 

肉体は霊がこの世で活動するための必要道具のような役割をしている。

例えば、肉体のどこにも異常がなく、脳も心臓も正常に機能しているにも関わらず、霊と肉体の二つの調和がなくては、植物人間のような状態になってしまうということも起こることになります。

 

その時、その身体は何かの理由で霊が機能出来ていないという状態だからです。

 

ということで、科学が人間の複製を羊のように成功させるためには、動物レベルでは考慮の必要がなかった霊の部分、つまりその身体と霊との両方を複製しなくてはならないということになります。これは無理です。

 

話が少し飛びますが、このようなことから、動物霊の存在は虚偽であったということになります。霊の複製が科学では絶対に不可能であるにもかかわらず、動物の複製が成功したということは動物の構成はその身体のみで、そこには霊が存在しなかったということを科学が証明した結果になるのです。

 

と言うわけで、人間のクローンは科学者の人達にはお気の毒ですけど、未来永劫にわたってあり得ないということになります。

 

これで終わりですけど、この内容の英語版を以前にyoutubeに載せたことがあります。基本的には同じ内容なのですけど、興味のある方は下のリンクからどうぞご覧になって下さい。

 

 

 
全て家で卵からふ化した鳥ですが、下は私の手がけた二回目の手乗り文鳥の動画です。可愛いですよ。
 
この下は私の手がけた初めての手乗り文鳥、上手くいったと思うのですが。
 
下が一番最近の手乗り文鳥