「ところで中高生の皆さんに是非とも知っておいて欲しいことがあります。
 

元慰安婦や元徴用工の人たちへの謝罪や賠償の要求は、

韓国本国から出ているものであり

日本国内のいわゆる在日の人たちは

ありません。
 

在日コリアン1世の人たちは、

その多くが亡くなったりしていて、

今いるのは大部分が3世か4世にあたる人たちで、

この人たちは日本で生まれ育っているので、

実質的には日本人と変わらないのです。
 
1910年(明治43年)8月29日、

「韓国併合ニ関スル条約」に基づいて大日本帝国(日本)が

大韓帝国(今の大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国に相当する地域)を

併合して統治下に置いたのです。
これを、日韓併合(にっかんへいごう)、

あるいは韓国併合などともいいます。
これにより、

現地の人たちに日本国籍が与えられました。
こうして

日本人」となった人たちが日本にやって来て、

その子孫が今の在日コリアンの人たちなのです。
ただし、

戦争に負けた日本は、戦後、

この人たちの日本国籍を一方的に

剥奪してしまいました。
 
この人たちの中には、

戦時中に日本軍に入隊して、

日本のために戦った人も多くいたというのに、です。
 

その人たちは、

もう「日本人」ではないということで、

本来なら受けられるはずの元軍人や

戦傷病者らに対する補償を

受けることができなかったのです。
このことに関して、

在日コリアンの人たちが

日本政府を批判するのは

当然なのです。
 
だから中高生の皆さん、

在日の人たちに対して、

「そんなに日本が嫌いなら韓国に帰れ」などと

言うのは間違っていると

知ってください。
この人たちも同じ人間なのだということを、

理解してください。・・・・・

 

上の文は、

じろう丸さんの記事より一部抜粋しました。

 

ぜひご理解ください。

 

(リブログがうまくいかなかったので、URLを貼らせていただきます。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

日本に外国国籍の方がいると、なぜなのか

実はわたしも長いことわかりませんでした。

 

「日本には日本人が、アメリカにはアメリカ人がいるのがアタリマエ」

 

それこそが非常識な、誤った考え方でした。

 

アメリカにも、イギリスにも、フランスにも、

日本にも

 

さまざまな人種の人たちがいます。

国籍もさまざまです。

 

それこそが「アタリマエ」なことです。

 

日本には、韓国・朝鮮人だけでなく

中国人、台湾人、そしてブラジル人も住んでいます。

イスラム教文化の方も住んでいます。

 

さまざまな国と人種が住んでアタリマエ、

アタリマエな国であることができるように なりたいものです。

 

気に入らないことがあったら

「日本から出て行け」

ということを言えば

「ケンカや議論に勝った」

などと思うことは

恥ずべきことです。

意識してください。

・・・・・・・・・・・・

もうひとつ悲しいことがありました。

 

「韓国人」「在日コリアン」というハッシュタグをつけて、

自分もそのタグの記事を見てみたら、

 

韓国の人や在日コリアンの人について

デマを流すようなものがたくさんありました。

ひどい言葉で悪口を言うものも。

 

これらはヘイトスピーチではないのか?

アメブロに通報すべきでしょうね。

けど、そのままになっています。

 

韓国人の方も

在日外国人の方も、

このハッシュタグの記事は不愉快なので

付けない、書かないでしょう。

 

なので、

「韓国の友人」「日中友好」のハッシュタグに替えました。

 

「こどもたちの未来」「若者へのメッセージ」のタグも付けました。

このメッセージを、良き人が見てくれるといいですね。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

下、在日コリアンの方親子二代のご体験

FBの投稿より。

 

在日100年の暮らしの軌跡

朝鮮半島で農地を日本に奪われ

食えなくなった農民の多くが渡ってきた。

私のハラボジもその一人である。

特に炭鉱夫の仕事が九州では多く、

アジア侵略への戦争を行うために、

朝鮮半島の土地、そして

朝鮮人は低賃金で、

牛馬のごとく使える日本の労働力としては最適であった。

しかし、

渡日しても仕事にありつけず、稼ぎのないものは

廃品回収の仕事、糞尿処理の仕事、危険な土木作業の仕事などを

行って食いつないで生きてきた。まして、

朝鮮人という事で、住居の提供もされず、

橋の下、高架沿い、川べりなどにバラックを建てて生きながらえ、

日本社会では、人間扱いなされず、

家畜以下の存在中で暮らしてきたのが在日である。

戦争が激化すれば、

内鮮一体と称して、

朝鮮の若者を強制連行し、

男は前線に、

女は挺身隊として

従軍慰安婦として戦地に送った。

日本にとって、牛馬として、

女は性奴隷として重宝したのであった。そして、

アメリカに敗戦した後、

朝鮮半島から無理やり連れてきた朝鮮人が邪魔になり、

200万人の朝鮮人を強制送還してほしいと、

吉田茂がマッカーサーに嘆願するも

マッカーサーから

「日本は身勝手すぎると、断られた」。

 

よく言われた、

そんなに日本が嫌なら帰れと、

勝手に連れてきて帰れと、

ならば歴史の時計を、元に戻せと、

 

できない事を言う、

実に身勝手な国であって、

おもてなしの国と自負するのが実に滑稽である。

。。

祖父が辿った道を遡る旅に

「ナムウォンの道」

 

1919年、ハラボジは全羅北道南原郡朱川面から19歳で渡日してきたらしい。

名は曺秉元、

日本に来て中山八郎と名乗った。

何の意味も持たない。識字ができなかったので、日本の友人が役所に一緒に出向きつけたという。

故郷南原には二人兄弟の兄がいた。8歳上の弟には優しい兄だったという。南原では比較的豊な農家であって、

豊臣秀吉の朝鮮侵略時に

李舜臣将軍に村を上げて兵糧米を提供し、

協力したとこの村では今でも伝えられており、

昌寧曺氏の法事は

李舜臣将軍の法事より規模が大きかったと、

40年前に故郷を訪問した時に日本語に堪能だった、面長さんから説明を受けた。

さて、

私も今年で70歳になる在日三世である。

・・・

(祖父)ハラボジがなぜ、

日本に渡ってこなければならなかったのか、

ということを、

辿った道を辿り、記録しておきたいと、

数年前から思っていたが、

72才でこの日本で生涯を終えたハラボジの軌跡をたどる。

 

19日に上陸した福岡に入り、翌朝航路で釜山に、そしてその日のうちに南原にいき、順天、麗水、そして釜山に戻り、神戸に戻る。4泊5日の短期間であるが、わずかに残った身内を訪ね、族譜、面事務所に残る戸籍や、出生届などを調べてみたい。

そして、なぜ、日本に渡ってくる理由、故郷に戻ることなく日本で命を終えた思いなどが、少しでもつかめれば、私自身も自分がわかるような気がする。自分の命の歴史を辿る旅に出る。

。。。

16才の時、警官に止められ免許証の提示を求められた、

「お前。。人やな、外登出せ」と、

持っていませんと答えると、「何、

お前ら。。人と犬には鑑札が無かったら

捕獲する事になってるんや」と、

いきなり手錠はめられた事を思いだした。

 

名古屋入管の映像みて。当時

犬と一緒にされていたんや。

 

サムライなんかいません。

映画だけの話にしとき。

。。。

在日100年の長い道

 

祖父(ハラボジ)が全羅道北道南原から渡日してきて、今年で104年目になる。

1920年ごろ

19才の時単身で福岡の飯塚炭鉱で働くためにやってきたらしい。

正確な年限はわからない。

故郷南原では

 

田畑を日本に奪われ、小作人に転落してしまい、食えなくなったらしい。

 

家族が食えなくなってしまい、一番若い祖父が

日本の手配師の

「日本で一年も働けば、家の一軒も直ぐに建つ」。との言葉でもって、

飯塚炭鉱にやってきたらしい。

しかし、

炭鉱の労働はそんな甘いものではなかった。

月の休みは二回、朝は

夜が明ければ坑道にはいり、

坑内から出てきたときは日は沈んでいたという。

宿舎から外へは殆ど

外出は許されることはなかったともいう。

働いた給料は、

会社側が半分を強制的に

貯金をするという事で

支給されたのはいつも半分、それも

現金では至急されずに、

炭鉱会社の金券という形で支給され、酒、たばこなどの嗜好品はこの金券で買ったらしい。

こんな炭鉱暮らしに、嫌気がさし、

職長などに「辞めたい」と申し出た時には、

 

「お前たちにはすでに大きな借金があって、

その借金を清算しなければ、この炭鉱から出ることはできない。」と怒鳴られる。

そして、

更に嘆願した時には、

同胞の班長からよってたかっての暴行も受ける時が多くあって

あきらめるしかなかった。いわゆる一度入れば、

出ることのできないたこ部屋である。

それでも、一生懸命に働き、会社側を信用し、貯金をして故郷に送金しようとする者もいた、

ところが

 

さらに罠があって、

何の楽しみもない炭鉱飯場には、

ヤクザが外からやって来て、賭場を開帳する。

 

ほとんどの若い男たちは博打の興じ、やがて負けが込んで、

働いた金は負けの払いに回ってしまい、

炭鉱からは出ることができないようにする

巧みなやり方で、

朝鮮人の若い労働者が囲いこまれ、

あとは牛馬のごとく使われるという事になる。

 

当時の朝鮮から来た労働者は文字がほとんどわからないので、

最初の雇用契約書なるものに署名さされるが、

文字がわからないために、あら締め書かれた名前に

拇印を押させるといった手法もとったらしい。

 

借りた覚えのない借用書のようなものもあったという。

 

(祖父)ハラボジは、その後、炭鉱から抜けだしたという。

多くは語ることはなかったと、

年大正11年に生まれた私の(父)アボジがよく言っていたのは、

息子2人、娘4人に対して、とにかく勉強しろであった。

そして、

朝鮮人として生きるのではなく、

日本人として生きるていくようにと子供たちを教育していたが、

 

(祖母)ハルモニは反対に、

子供たちにはいつも朝鮮語を使い、

風習を教え、歌を教えるなどして抗い、夫婦喧嘩がたえなっかたという。

そして、

太平洋戦争末期の1944年昭和19年11月、日本は戦況が悪くなった。

 

父は徴兵検査を忌避した、しかし

弟の叔父は、特攻隊に志願した。

同じ兄弟でも考え方が大きく変わり、

やがてその兄弟の軋轢は、戦争が終わった後も、遺恨として残り、

兄は民族運動に、

弟はひたすら日本人に帰化しようと努力するが、

当時は朝鮮人が帰化するという事は、

簡単にできるものでなかった。

 

祖父が朝鮮半島から渡日していなければ、

我々、3世の孫もこの日本には存在しなかった。100年を経ても、

この国では民族を主張することは許さない、

そして

我々在日を人間として扱うことは、

元より考えてはおらず、

単なる労働力であり、活かすも殺すも

日本人の判断の中で行えるものと思っているのだろう。

我々を過去に牛馬もしくは奴隷のようにし、

使ってきたことが忘れることができず、

抗えば抑え込んでしまえばよいという思想から

抜け出すことが出来ない。

 

そんな、在日100年、家族の100年の歴史を辿る、祖父の歩いてきた道を遡る旅に、福岡から海路でさかのぼる。明日出発。

・・・

(私は)

建築設計を志して、50年が過ぎたよくきかれんるのが、

何故建築設計者になろうとしたのかと、問われる。2つの理由をいう。

 

(私は)元は、

機械エンジュニアに、なるのが幼いときの、夢だった、

それは当時の漫画の影響を受けた。

手塚治の鉄腕アトム、

横山光輝の、鉄人28号のなどの背景に出てくる町、

ロボット、そして未来都市の姿に憧れたことから、

中学を卒業して就職希望したのが、旋盤加工の会社であったが、どうやら、

 

朝鮮人の募集はしていないと、就職担当の教師から言われ、

君たちの場合は、土木関係か、在日が経営するゴム工場なら受け入れてくれると言われ

希望を、変えるようにと言う。

納得ができなかった。しかし、これはどうしようもないないとも言われ。

それほどまで言うなら、自分で探しなさいと。

(私は)

卒業式の帰り、もらつた卒業証書を川に投げ捨てた、

責めてもの抗議のつもりだった。

その後、大工になろうと思った、

何故なら、幼い頃から、バラック建の朝鮮人集落の暮らしを、

中学二年までした事で、

劣悪な住居の環境を直せるのは

大工になれば出来ると思った単純な少年の思いからだった。

しかし、夜間高校で勉強したかったか、

親方が、職人になるなら、学校は邪魔になるから、

どちらかを選べと迫られて、学校を選んだ。

そして、いつしか、

目的も無くしてしまい、学校にも行かなくなって、直ぐに金になる、

神戸新開地の立ちんぼと言われる、日雇い労務者と、なった。

 

その日に金をもらい、その日に、使ってしまう。

未成年で酒も、タバコも覚え、やがて、ドヤ街の簡易旅館での暮らしを始めた。

学校はいかなかった、ある日、

担任の教師がわたしをドヤ街まで探しならきてくれた。

学校に出て来るようにと。

しかし、行かなかった。もう、学歴や勉強などに何ら興味もなかった。

 

ある日、日雇い仕事で、その日会った、

在日コリアンの一世の父親と同年代の叔父さんと一緒に、現場片付けの仕事を、共にした。

仕事を終えて、新開地のドヤに戻り、屋台のホルモン焼きで共に酒を飲んだ。

「兄ちゃん、明日も、俺と組もうかと言う」。快く返事をした。

その日も同じ現場に二人で行った。

三宮の繁華街の飲み屋のビルの地下室の片付けの仕事だった。

 

上の階から、現場監督の声がする。叔父さんが、

朝鮮語訛りの日本語で、スイマシェンと何度も言いながら頭を下げていた。

そのとたん、かえって来た言葉は

「お前、○鮮人か、日本語わからんかったら、国帰れ」。と怒鳴る。

 

わたしはこの監督を鉄筋で殴ってやろうとしたが

その叔父さんからなだめられた。そして、

 

その監督を戒める人があらわれた、

 「君仕事している者に対して、そんなぞんざいな事を言うなど、許されない、君こそこの現場から出て行って貰う」。と言う。

救われた思いがした。

このビルを設計した建築士であるという。

 

その日、新開地に戻った。

叔父さんは、

「今日からお前は、酒などやめろ、

またこんな仕事もやめて、学校にもどれ、

俺たちの時代は教育がなかったから、

日本人からバカにされる。

お前たちがわれわれと同じ目にあってはならない」。と

父親のように私を説教した。

(私は説得された)

 

翌る日、(私は)

学校に行って、復学する事を告げに行き、

建築士を目指す決意を決めるきっかけとなった。

 

居住環境が及ぼす人間形成は実に大きい事が今持って思う。

・・・

祖父の生まれ故郷、全羅北道南原市

19才の時、日本に渡ってきたと聞く、

(祖父は)

福岡の飯塚炭鉱に入りあまりの過酷な労働と、

手配師と約束した賃金などが、一切払ってもらえず、

文句をいえば、殴る蹴るの暴行を受けたらしい。

 

一日、12時間労働だったらしい。

夜明け前に坑道に入る、出てくるときはとっぷりと日が暮れた。

同郷の者がいた、

二人で逃げようと、

計画し一月後、炭鉱の飯場から、夜中、交替の時間をかいまくぐり、逃げたのだが外は漆黒の闇で陽が昇りあたりを見渡せば、同じぼた山の周りをぐるぐる回っていたらしい。

 

そして、第一回目の脱走は失敗に終わり、

職長と言われる男たちにつかまってしまい、

二人ともリンチを受けて、

半殺しの状態にされたという。傷だらけの体に治療の薬もなく、

酔っぱらった見張りの男が、

「消毒してやると」。頭から小便を掛けられた。

この時の思い出を、

父には何度も話していたという。

・・・

我々孫には一切そんな話しはせずにに

「勉強をしっかりしなさい」とばかり言っていた。そして、

 

日本が悪いとか、日本が憎らしいなどの言葉も

祖父の口からはきいたことがなかったが、

息子の父には、

朝鮮人としての誇りを持て、

民族の精神を持てと、

幼い時から、絶えず言っていたらしい。

。。。

弘利さんのお話です。

 

神戸長田源平町・大橋FW 23.7.16・17

     資料2「米穀手帳」

 

 今から54年前.1969年の話である、

(私は)中学を卒業し、進学することなく就職することになった。

学校の就職担当の教師から、

「来週の月曜日に、就職の面接に必要なので、区役所に行って

米穀手帳の証明をもらって来い」。と言われた。

 

はて、何のことかさっぱりわからない、早速、

長田区役所の外国人登録課に出向き、

米穀証明書をくださいと窓口に尋ねると、

担当の女がけらけらと笑う。

笑いが終わったところで

 

「あのね、あんたら朝鮮人には米穀手帳などない。

日本人だけのものや、あんたらは

外国人登録証だけしかないから、帰り」。と言いながら、隣の職員に

 

「この子な、朝鮮人のくせして、米穀手帳出せやて、ほんまに笑かすやろ」。

と言ってまたけらけら笑っている。

 

この窓口の係の女性は朝鮮人が多く住んでいるここ長田区役所では

有名な今でいえばヘイトスピーチの得意な女性であった。

外国人登録を外人登録と言った。

そして、

この登録の在留期限の切り替えなどを遅れた者には、

「日本に住みたかったら、切り替えを怠るな」。

「役所のいう事が聞けんようやったら、国に帰り」。

など日常平気で言っていた女性である。

 

でも、我々にとっては区役所の窓口とは、

まさに入管、

警察の一歩手前のところだと思っており、言われるがまま、

我慢するしかなかった時代である。

 

その、米穀手帳とやらを調べれば

、太平洋戦争から1982年まで

コメの配給を受けるのに必要であった通帳。

ゆえに戦後、在日朝鮮人は外国人となり、

手帳は交付されず

闇米を購入するしかなかった。そして

闇米を買った売ったで、朝鮮人は犯罪を犯す人種だと。

1969年に自主流通米が出回るようになって

金さえあれば米が買えるようになった。

 

差別と人権侵害の制度であったと、

今も非難されている。

/・・

以上、

FB友の 曺弘利さんより伺いました。

(禁止用語は書き換えをしました)

(誰のことか理解しやすいように、

主語も書き足しました)

 

。。。。

(書籍「朝鮮史」(講談社)の裏付けだけでなく、

こうして在日コリアンの方の

証言を得ることができました。

朝鮮人が自分たちの「意思」で

日本に渡った理由は、

「日本による食料や生活手段の簒奪」

が理由であり、

決して「日本への憧れ」ではなかった。

 

炭鉱で働く人にも「借金があるから返せ」と

迫るやり方はまるで「遊郭制度」のようです。

「慰安所」も炭鉱も同じです。

あるはずもない借金を「捏造」するというやり方も

「遊郭制度」に似ています。

遊廓では「着物や装飾品」、

炭鉱では賭博なのでした。

日本人の雇用主が「貯金」と言って

賃金の半分を渡さないというからくりも

実在しました。

日本側はそういう「徴収」を

「朝鮮人は賭博で使ってしまうから」と

言い訳しますが、

ヤクザを招きいれて賭場を作ったのは

意図的な策略でした。

ずる賢いですね。

 

かっての朝鮮人に対するひどい扱いは

現在も外国人・アジア人労働者や入国管理局でも

見ることができます。

外国人・途上国の人は、手軽な労働力、

生殺与奪は日本が握っている、

それは変わらないのでしょうか?(ブロ主より)

 

 

。。。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

私が

「慰安婦」と「遊郭」について

「在日コリアン」「韓国問題」と

並列して書いてきたのは

日本人の「慰安婦」もいたから。

「慰安婦」と呼ばれて、

その境遇を選択したのが

「自分の意思」かのように言われ

「裕福」かのようにも 

言われていることに

反論するため。

 

「慰安婦制度」とは「遊郭」「奉公」「からゆきさん」と地続きの

「搾取制度」「奴隷制度」で

それを「身売り」という美名でごまかされてきたから。

 

が、韓国や台湾やフィリピンのおばあさんたちが

問題にし、告発し、抗議している理由は

「性暴力」だったから。

「職業紹介」という「騙し」による誘拐、

拷問やレイプだったから。

 

「抗日狩り」「ゲリラ討伐」という名のレイプだったから。

未成年者にも容赦をしない。

むしろ、「性感染症の恐れがないから」と

未成年や処女が狙われた。

 

「慰安ではない!従軍ではない!」「慰安婦と呼ばないでほしい!」

 

性暴力被害者たちの証言

台湾少数民族の被害

https://ameblo.jp/file9zyo/entry-12424048328.html?frm=theme

台湾・おばあさんの証言・講演

https://ameblo.jp/file9zyo/entry-12342777880.html?frm=theme

フィリピン少女の犠牲

https://ameblo.jp/file9zyo/entry-12344192031.html

インパールの「慰安婦」犠牲者

https://ameblo.jp/file9zyo/entry-12261812285.html

ビルマ戦線楯師団「慰安婦」女性への中傷

https://ameblo.jp/file9zyo/entry-12239278513.html

オランダ人被害者、オハーンさん

https://ameblo.jp/file9zyo/entry-12623145425.html

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