遠い夏に想いを -92ページ目

遠い夏に想いを

アメリカ留学、直後の72年の夏に3ヶ月間親子でパリに滞在。その後、思い出を求めて度々訪欧。

 昔は不思議な夢をよく見たものです。


 今では考えられないけど、昔は海外渡航が制限されていて、一度海外のある場所を訪れたら、二度とそこの友人に会えないだろうという恐れを抱いていました。皆さんにはそんな経験はないと思います。


 私はよくこんな不思議な夢を見ました。


 例えば、ミネソタから帰国した頃の夢はこうでした。94号線のハイウェーを友達の家に向ってドライブしているらしいのです。途中までは景色もそのままですが、段々様子が変わって来ます。最後は昼間なのに真っ暗闇の道を進み、行けども行けども友達の家に着きません。物凄く焦ってます。振り向いたら真っ暗な空を走っているのです。そこで夢から覚めます。寝汗をかいています。


 また、ある日、授業に出ようと大学に行きます。クラスで友人と待ち合わせしているのに、校舎じゅうを歩いて探してもクラスにたどり着きません。約束の時間がどんどん過ぎてゆきます。物凄い慌てようで、目を覚まします。


 ロンドンでも、パリでも、ヴェネツィアでも、帰国後には変な夢になって現れます。どうしてだろうか?そして昔訪れた海外の場所に15年以上経って再び行って帰国すると、そのような夢はピタリと見なくなります。

夢の絵
 この絵もそんなロンドンでの夢を以前思い出して絵に描いたものです。ロンドンの郊外にバックハースト・ヒルズという住宅地があります。そこにクイーンズ・ロードというメインストリートがあり、途中に文具・パソコンの店がありました。この店の前は細い路地になっています。この通りを右に行くとイギリス人の友人の家がありました。夢の中で散歩している時に現れた不思議な女性がこちらを見つめています。夏なのに厚いコートを着て、無言です。連れて行ってあげようと、誘っているような素振りで近づいてきます。慌てて無言で通り過ぎ、振り返ると、もうそこには彼女の姿はありませんでした。


 ロンドンでの夢は他にもあります。賑やかなオックスフォード通りを歩いていると、突然、通りから人が消えて、周りの建物が巨大化し、押し寄せてきて押しつぶされそうになります。その瞬間、夢から覚めるのです。


 しかし、もう一度訪れた後はこんな夢は見なくなります。人間の心って、人によって異なるでしょうが、不思議ですね。


 Viosan の「ミネソタの遠い日々」
1970年に私たち夫婦・子供連れでミネソタ大学(University of Minnesota)へ留学した記録のホームページにもどうぞ

 我が家はみなゼラニュームが大好きです。ところが長年挿し木で増やしてきましたが、段々少なくなり、遂に無くなってしまいました。


 先日、成城の駅前の花屋さん寄ってみたら沢山ありました。ヨーロッパでは家の窓辺やアパートのベランダに真っ赤なゼラニュームの花が咲いているのをよく見かけます。イギリスではペチュニアが窓辺を飾ることが多いです。


 但し、冬越えさせて一年中咲かせるのは、はかなり大変らしいです。下は買ったゼラニュームの花。


ゼラニューム
 今日、駅前通り商店街の花屋さんにゼラニュームを発見、と思いきや「べゴニアです」との返事。べゴニアも大好きな花なので買って帰りました。べゴニアには種類が沢山あって、これは余り見かけないべゴニアでした。エラチオール・べゴニアというそうです。一見ぜラニュームと見分けがつかない程です。下はベコニアです。花が落ちやすいとか。


ベゴニア



 とにかく赤い色が大好きですから、後1ヶ月もすれば出回る赤いポインセチアが待ちどうしいです。




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 その昔、ミネソタ大学に留学していた頃の生活を綴った「ミネソタの遠い日々」というホームぺ-ジに、セントポールの街に「NAGASAKI Rd」って道を発見したと書いておきました。


標識

 ミシシッピー川の縁にあるハリエット・アイランド・パークという中州にある道です。


map
 えっ、「長崎道路」って、何故なの?不思議に思いました。後で長崎とセントポールは姉妹都市(Sister City)って判りました。何が理由で姉妹都市になったのか不明でした。


 欧米の街は道路名で標示、だから地図に記載されています。日本は町名標示だから地図に道路名は記載されない。国道、県道は番号標示で、一般道には正式な道路名がない。最近は愛称名が使われているが、地図に記載がないので知らない人が多いようです。  


 1955年、日本で初めての姉妹都市だったらしいのです。セントポールにも長崎を記念するものがあるのだから、長崎にも何かセントポールとの関係を記念するものがあるのだろうか?そう思ってました。
 

 長崎在住のブログ仲間のナナイロさんは何時も長崎やその近辺を案内して素敵なブログ ここをクリック )を書いていますが、最近のブログで「長崎にもセントポールにまつわるものがあります」と初めて紹介してくれました。彼女も私のホームページ「ミネソタの遠い日々」を読んでくれていて、その疑問に応えるべく探してくれたらしいのです。下の2枚のセトポール道路の写真はナナイロさんの許可を得て、彼女のブログより拝借しました。


<長崎の原爆公園近くの通称セントポール通り>
長崎01

<ホテルセントポールの前にあるセントポールから贈られた木像(8メートルあったというミネソタの伝説のポール・バニャンの像か?)>
像
<長崎のホテルセントポール、姉妹都市記念で命名されたらしい.>
Hotel St.paul
 私は嬉しくなりましたが、長崎の方が姉妹都市を記念するものが多いので、ちょっぴりセントポールの方が情けなくなりました。


 しかし、どうして姉妹都市になったのか、彼女にも理由が判らないと言います。長崎に原爆が投下されて、原爆の日に平和を願う市民が黙とうするように、原爆の日にはセントポールでも人々が集まって黙とうするのだそうです。セントポール市の丘の上にはセントポール大聖堂が建っています。カトリックの教会ですから、同じく平和を願っているセントポールの人達が共鳴したのかも知れません。ミネソタの人達はみな優しいですから。


 長年の疑問は解消しました。経緯は不明でも事実は変わりないのですから。ナナイロさん有難う。


 ちなみに長崎の姉妹都市は7カ国の都市と結んでいるそうです。その中でセントポールが一番大きな都市です。


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 パリのリュクサンブール公園に「メディシスの泉」という小さな泉があります。昔、パリに3ヶ月ほど住んでいた時には、よく訪れていました。とても静かで優雅な長方形の泉です。


 マリー・ド・メディシスとはイタリアのメディチ家からフランス王アンリ4世に嫁いで来た女性で、イタリアでは名門ですが民間から嫁いできたフランス王妃です。


 1612年に彼女の命によってリュクサンブ-ル庭園が作られました。故郷のフィレンツェにあるピッティ宮の庭園に似ています。その後にこの泉が作られたらしいです。彼女の一生は波乱に満ちています。


 アンリ4世亡き後、幼い息子の王の摂政として政務を補佐し、さまざまな出来事を起こして、最後はベルギーに追放されて、ケルンで亡くなっています。


 ルーブル美術館にはルーベンスに描かせた「マリー・ド・メディシスの生涯」という24枚の連作があります。これを見た時の感動は忘れません。


 20年以上前にパリを訪れた際に撮ったメディシスの泉の写真をもとに水彩で描いてみました。ちょっと明る過ぎたかな、晴れた夏の日でも、もっと薄暗いです。ローマのトレビの泉みたいに、泉の底には小銭が光ってます。誰か投げ入れて行くのでしょう。

メディシス


 フランス王妃にはもう一人、メディチ家から嫁いできたカトリーヌ・ド・メディシスがいます。


 マリーより60年位前の女性ですが、彼女はフランスにフォークとナイフを持ち込みフランスの食文化を変えた女性です。それまでフランスでは女性も男性も手づかみで食事をしていたそうです。それを考えると箸の文化って素晴らしいと思いますね。


 彼女も夫君のアンリ2世の事故死の後、息子の摂政として政治に関与し、宗教戦争で悪名を残してしまうなど、彼女は波乱に満ちた人生を送ったようです。



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1970年に私たち夫婦・子供連れでミネソタ大学(University of Minnesota)へ留学した記録のホームページ

 今日が最後というので美術館に出かけました。オルセー美術館展です。


 オルセー美術館には思い出があります。今から40年以上も前に妻のノッコがパリ大学の夏期講座でフランス語教授法を学ぶためにパリを訪れた時のことです。


 パリに住んでいるノッコの大学時代の友人が初めてパリを訪れる我々のために「留学先のアメリカから来て、安宿じゃ侘しいでしょうから」と、リール通りの三ツ星のベルソリーズ・サンジェルマンって17世紀末に建てられた小さな素敵なホテルを予約してくれていた。貧乏な我々には3カ月もパリにいるのに、3つ星ホテルにはいられない。3日もいてリュクサンブール公園の近くの無星ホテルに越しました。


 このリール通りをホテルから4分程歩いた先に、大きなテントて覆われた建物がありました。中は何も見ることはできません。旧オルセー駅で廃駅になっていました。まだ利用方法が決まっていませんでしたが、体育館とか、美術館とか、色々な案がありました。


   <オルセー美術館>
オルセー


  <展示室、中央に駅の時代の大時計が>
内部
 1900年のパリ万博の際に建てられた由緒ある駅舎です。一時は取り壊しの案も検討されたらしいですが、1986年にオルセー美術館として生まれ変わりました。日本人が大好きな印象派を中心として展示しています。

 その後パリを訪れた際にオルセーに立ち寄りました。駅のホームを改良して展示スペースにしていますが、何か美術館としては違和感があるようです。


国立新美術館  今回の国立新美術館でのオルセー展には84点の絵画が展示されています。殆どの印象派をカバーしてますが、点描画のシニアックとかスーラが見当たりません。印象派に限らず世界の名画は世界中に散らばっているから仕方ないのかも知れません。ス-ラの代表作「グランド・ジャット島の日曜日の午後」など、昔シカゴの美術館で目にし「これがこんなとろにあるのか!」と驚いたことを思い出します。



絵葉書

  <グランド・ジャット島の日曜日の午後>
スーラ
 印象派とは1874年のアンデパンダ展にモネが発表した「印象・日の出」という絵に由来しています。印象派でも好きな画家がいるでしょう?私は、マネ、モネ、コロ―、シスレー、ピサロ、ティソ、ドガ、スーラ等が好きです。宗教的な匂いもなく、ジャポニズムの影響か我々日本人が親しみ易いのでしょう。


 当時は普仏戦争の時代(1870年ー)で、戦地で亡くなった画家や戦火を逃れてロンドンへ避難した画家、モネ。そこで出会ったコンスタブルやターナ―の絵に大きな影響を受けます。光を描く。正にターナーも印象派も光を追求した画家達です。



カンデスキー  同時に開催されているチューリヒ美術館展も見てきました。こちらは70点以上も展示されているのに大変に空いています。年代も幅が広くスイスの画家セガンティーニから印象派~シュルレアリスムまで、見応えのある美術展でした。スイスとの国交150年を記念して展示されています。色々な画家の絵が見られて楽しいだ時を過ごしました。こちらは12月15日までです。
チラシ



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