遠い夏に想いを -73ページ目

遠い夏に想いを

アメリカ留学、直後の72年の夏に3ヶ月間親子でパリに滞在。その後、思い出を求めて度々訪欧。

 我が家の台所に、ガラスの器に水栽培で咲いていたもので、余りに奇麗なので水彩で描いてみました。静物画は滅多に描かないのですが、マンネリを脱すべく、水と絵の具をたっぷり使って、、、、結果は思い通りに描けませんでした。


ベコニア


 Viosan の「ミネソタの遠い日々」
1970年に私たち夫婦・子供連れでミネソタ大学(University of Minnesota)へ留学した記録のホームページ


 我が家のランタナは枝を払い落しても落としてもすぐに花をつけます。生命力が強いのか、まだ沢山の花を付けています。


ランタナ

 ランタナには種類があって、この黄色とピンクの花のランタナは上に向って伸びる種類です。他に下に向って咲くものがあり、紫の花の種類と白い花の種類がそうです。我が家にも紫と白の花のランタンはありますが、育て方が悪いのかうまく咲きません。


ランタナ白


ランタナ紫02

 市役所に行く途中の家には紫のランタナが豪華に咲き乱れています。鉢植えなのですが、かなり大きな鉢に植えているらしいです。

ランタナ紫


 うちのランタナには今年最後と思われる蝶が毎日やってきます。一般に花の時期が過ぎると、ランタナみたいに咲く期間が長い花には蝶が寄ってくることが多いです。

 黄色いアゲハや茶色のアゲハなど。薄緑と黒のアゲハはとっても綺麗です。うまく写真が撮れなかたけど、一応載せます。


蝶01


蝶02


蝶04


蝶04


 だんだん寒くなってきました。いまインフルエンザが流行り出しています。ノロウイルスにも気をつけましょう。


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 義理の弟がパソコンの操作が分らなくなったと言う。小田急線で4駅と近いから行ってみた。電車が駅を出ると、すぐに多摩川になる。空気が澄んで綺麗だ。パソコンの操作については、私もよく分らないことが多いのだが、役に立つかどうか不安でもあった。


多摩川

 電車を降りて、駅から彼のマンションへ行く途中に、初めて目にする光景に出会った。朝顔らしき花の蔓が道を挟んで反対側の電柱の天辺まで伸びている。


朝顔

 家に着くとソラがまた大きくなっていた。この猫の不思議な行動の一つに、書斎の窓から何時間でもじっと外を見ていることだ。外は通路になって、非常階段がそばにあり、誰も人が通らない。孤独を楽しんでいるとしか思えない。一年半前に、目の見えない頃に捨て猫で拾われて、親を知らないからにゃあ。猫にこんな習性があるのかって不思議に思った。


ソラ01
ソラ02

 パソコンの操作の件も何とか済んで帰ることにした。彼が借りている市民農園にミントが沢山生えていると云うので、行ってみることにした。家を留守にする時と夜間寝る時はケージに入れる習慣になっている。まだ小さい時にケージに入れずに外出したら、家の中が大変なことになっていたらしい。夜も同じで家じゅうを暴れまわるので、結局ケ-ジに入れられることになった。今では自分から入るから面倒はいらない。


ソラ03

 市民農園は2年ごとの契約で今年は場所が変わっていた。石垣の上にびっしりミントが生えている。ここは夏に市が雑草とともに刈り取ったらしが、またびっしりと生えていた。


ミント

 夕方になり、電車に乗って家路を急いだ。電車の窓から遠くに夕陽に浮かぶ富士山が見えた。


富士山

 走る電車からだから、ピンボケだけども、秋がらしい光景だ。


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 再び長文になりますので語学に関心のない方はスルーしてください。


 日本や日本人に対する当時のフランス人の感情は、現在のそれとは雲泥の差がありました。偏見というべきかもしれない。アメリカの中西部から来るとパリは偏見が渦巻く別世界でした。激しい差別はないのでまだいいのですが、パリに憧れるなんてまるでない。パリは大嫌いでした。じゃ何でパリに来たのか?妻のノッコがパリ大学の夏期講座に出るためです。フランス語教授法を学んで帰国し、小さな語学学校のフランス語の講師になりました。


 ホテル・コンデはサンジェルマン大通りのオデオン駅から坂を上り切った角にありました。真っすぐ進むとリュクサンブール庭園に行きつき、右に折れるとサンシュルピス通りです。


 写真の右側がサンシュルピス教会。ここのオルガンは美しい音色が有名で、時々練習を聞きに行きました。
通り


 ホテル・コンデは無星ホテルですから段違いに設備が悪い。エレべ-ターはなく、階段にあるミニツティエールというボタンを押すと1分間だけ階段の電燈が点灯します。部屋は5階だからすぐ暗くなり、途中でまた押します。トイレは各階に一つの共同で、用をたしに入ると裸電球がつき、出ると消えます。


 肝っ玉母ちゃんが受付台にいます。チャオがコップを割っちゃって、「割っちゃてご免ね」って英語で言ったら、おばちゃんが一言「カタストロフさ」って返事。びっくりした、英語でカタストロフって単語を子供に使うだろうか。物には「お終いがあるものさ」って意味で使っていたが、フランスではカタストロフを日常的に使うけど、英語ではそうはいかない。変なところで感心してしまった。


 ホテルにシャワーが有料で1か所。但し何故かビデだけは各室にあるのがいかにもフランス的です。印象派の絵にタライで水浴する女性が登場しますが、安アパートには浴室などないのが普通で、フランス人は風呂に入らない国民だと言われていました。香水が発達したのも、風呂に入らない体臭をごまかすためだとか。


 それでもドイツ人観光客が結構このホテルを利用していました。まさに質実剛健な国民ですね。当時日本人の観光客は殆どいなかったが、日本人観光客なら我慢が出来ないと思います。


絵本01  ある時、サンシュルピス教会の裏手の地下に本屋さんを発見。キリスト教関係の書籍を扱っているのですが、子供の本もありました。どうせ読めないけど、ママはチャオに「ティトゥーがお医者さんの所で」という絵本を買いました。






 その後も子供向けの小さな絵本を数冊ママはチャオに買いました。私は高校の課外授業と大学でフランス語を学んだけれど、忘れていたので、この子供の絵本が丁度よかった。語学力の低い人は子供向の絵本が最適だと思いました。チャオはフランス語は喋れなかったけど、ホテルでメアリーと英語で話せたので少しは気晴らしになったと思う。


絵本02
絵本03

 このホテルでも金銭的負担が大きかった。たまたま日本人の尼さんの紹介で、シテ・ユニバルシティの近くのモンスーリ公園の前にあるマリア会宿泊所に再び移りました。共有のシャワー室や台所があり、自炊が出来るので外食の必要もなく随分と楽になりました。チャオは英語を話す機会を失ったけどね。それでも、パリ大学でノッコが知り合ったカナダ人のマーク・グレイという男性が遊びに来てくれたので、ママはブッフ・ブルギニヨンを料理して楽しい一夜を過ごしました。チャオは英語で話せるので凄く興奮していたのを思い出します。


 モンスーリ公園の奥にあるシティ・ユニヴェルシテール駅(普段この駅は使わない)
大学町


 マリア会の宿泊所(通称 INODEP、但し今は引っ越した)。裏庭の教会前の広場から望む。

INODP

 結局、チャオはフランス語を話せずに終わり、フランスを後にしました。帰国後、小学校に入らなきゃならない。私はインターナショナル・スクールなど英語が話せる学校がいいと思ったのですが、アメリカに行く前に通っていたフランス・カトリック系(幼稚部に行っていた)の学校に入れてもらうことにしました。一年生からフランス語が必須で、途中編入でしたが、フランス語はあっという間に上達しました。


 9月に帰国して翌年の夏休みを経て9月に、夏休みの自由課題の宿題で、フランス語の絵本を描きました。ママは仕上がりを見て、ほんの少し手を加えたらしい。しかし8か月ばかりの間に、どうやってフランス語を覚えたのだろう、私は不思議に思いました。


 20ページの絵本「ルイとジャンが動物園に行く」(夏休みの自由課題)
宿題01
宿題02

 一般的に一つの外国語をマスターしてしまうと、同じ語族の外国語を覚えるのがはやいと言われています。チャオの場合は、フランス語の文法など殆ど知らない。ママは英語で教えたと言っていました。チャオの場合は日本語で教えるより遙かに効率的だったのでしょう。


 大人が学ぼうとすると文法から入るので、読むことはできても聞くことも話すこともできない。聞けて話せれば、読むことも書くことも直ぐにできるようになるはず。但し、言葉の習得も10歳以下でないと駄目らしい。残念ながら、その外国語を使わない生活を3か月ほど続けていると、覚えた言葉をケロッと忘れてしまいます。


 今は楽器や、スポーツ、芸能など全ての分野で子供の頃から始めないと駄目ですよね。外国語の場合は、実際に必要に駆られて覚える方法しかない。アジア、アフリカ等の植民地で旧宗主国の言葉を喋らなければ、覚えなければ生きて行けないという状況にいるとか。そんな極端なことでなくとも、実際のビジネスとかスポーツや海外で生活するとか、通訳なしで現地人と直接接さざるを得ない厳しい状況に身を置くことでしょうか。


 チャオ本人は私立の学校を嫌って、結局、都立の西高へ進学して、フランス語は役にたたずに終わりました。


 Viosan の「ミネソタの遠い日々」
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 フランス語について綴っているブログで、ある女性が子供向けの易しい仏語の本を紹介してました。


 読んでいて、私も思い出しました。息子のチャオの話です。


 外国語に関心のない方は、今回のブログは少し長くなりますから、スルーしてください。前篇と後編の二回に分けて書きます。


 昔、アメリカのミネソタ大学の大学院に家族連れで留学しました。チャオは5歳でした。新学期は9月に始まるので、住んでいる地区の小学校を見つけ出したら、この小学校には付属の幼稚園があり、小学生と同じようにスークルバスでの通学でした。


 初日は言葉で困っていないか心配でしたが、親の心配をよそに、帰宅した瞬間から「早く明日にならないかな、学校、楽しくって」といってウキウキしているので、「言葉は困らなかったの?」ってママが訊いたそうです。「全然平気だったよ」って、全く英語を喋れないのに、ケロッとしていたそうです。


 住んでから3か月くらいして、夜中にチャオが寝言を言ってます。よく聞くと英語で喋っています。もう大丈夫って確信しました。案の定、次の日からどんどん英語で喋り出したのです。まるでコップに水が一気に溢れ出るように。


 後は何の不自由もなく喋れるようになりました。必要のない単語は覚えない、知っている言葉は100%使う。表現は我々が中学校で習った英語とは違って、動詞ひとつ覚えれば副詞や前置詞などどんどん加えていきます。すると意味が変わるので覚える語数は少なくて済みます。聞くのも読み書きも勿論同年のアメリカの子供と同じレベル。文法も知らない、耳で覚えた英語です。


 パリで書いたウィークス家の子供たちに宛てた未投函の手紙。チャオがミネソタのエルモ湖に彼等と釣りに行った時の思い出が綴られている。
チャオ手紙

 この後、フランスへ渡りましたが、本人は相当苦労したようです。当時、英語で話しかけてもフランス語でしか返ってこない。殆どの人たちは英語は理解できるのに、フランス語しか話さない。フランス語にプライドがあるのでしょう。


 チャオにフランス語を学ばせようとアカデミー・フランセーズへ行きましたが、年齢制限があり、英語も喋れないからと断られる始末。遂に頭に来たので大喧嘩になった。英語なら担当の女性事務員より上手だよって怒鳴っても、ノンの答えしか返ってこない。イギリスの子供がチャオより小さのにOKがでたのだ。だからパリは大嫌いだった。


 パリに滞在中に、英国人の友人に会いにイギリスへ10日ばかり旅行しました。チャオにとっては最高に楽しい日々だったと思います。聞きずらいコクニー訛りの庶民の英語も聞く耳があるので大丈夫。フランスへ帰るためにヴィクトリア駅に行った時、ポツンと一言チャオが呟いた。
"I'll be in trouble again, when we are back in Paris. because I don't speak French"


 パリのホテル・ベルソリーズ・サンジェルマン
サンジェルマンホテル

 その後に移ったホテル・コンデ(現在は他人に譲渡してしまった)
ホテルコンデ

 パリには当初、オルセー美術館(当時は駅が廃止になって空ビルに)に近くのリル通りにあるベルソリーズ・サンジェルマンという三ツ星ホテルに泊まっていました。これはパリにいた妻のノッコの大学時代の友人が気を利かして3日間予約してくれたホテルでした。素敵な小さなホテルでしたが貧乏人が3日間も泊まるには贅沢だったので、オデオンにあるホテル・コンデという無星のホテルに移りました。そこの使用人がミネソタから来たメアリーだったのです。


(・・・続く)



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