先週、宮崎駿監督が引退を発表した。
長い間お疲れ様でした。
そして、残念。
アルプスの少女ハイジ、あらいぐまラスカルの幼児期。
未来少年コナン、ルパン三世を見てたころに、当然のように第一次アニメブームに引っ掛かり、当時アニメージュという雑誌があって、声優や監督といった裏方が特集され、わからないながらも、椋尾篁、長浜忠夫、杉野昭夫、金山明博といった人たちとともに、宮崎駿さんを知っていった。それからジブリ作品(映画は見ないけど、TVでたまに見る)と、宮崎駿さんとの付き合いは長い。
たぶん50歳以下のほぼすべて日本人が、その半生をかけて宮崎作品と付き合っているかも。
日本に突き付けられた戦後最大の難題は、米ソ冷戦をどう生きるか?だった。米ソの軍拡競争は、とどまるところを知らず、核兵器は人類を何度も殺せる保有数に至るもとどまることを知らなかった。
「猿の惑星」、ネヴィル・シュートの「渚にて」、小松左京の「復活の日」そして、ノストラダムスの予言等の終末論の流行で、人類はいずれ核戦争で絶滅することは、すでに織り込み済みだった。
そんな時代に「未来少年コナン」があった。超磁力兵器(核兵器を上回る架空の兵器設定)でことごとく大陸が沈んだ後の世界の、人類再生の物語。子供心に怖かったオープニング、そんなのを吹き飛ばす主人公の破天荒な活躍は、今でも宮崎アニメの最高傑作ではなかろうか?
80年代に入ると、米ソ冷戦は極地に達し、タカ派のレーガン政権、アメリカの宇宙学者カール・セーガンの「核の冬」理論の登場で、ついにヨーロッパの人々が立ち上がった。米ソが戦うとき主戦場になるヨーロッパ、次々に同盟国に持ち込まれる核兵器に危機を募らせた人々が、「反核ムーブメント」を始める。(日本では盛り上がらなかった)U2は「アンフォゲッタブル・ファイア」を歌い、映画「風が吹くとき」では老夫婦が、無残な姿に変わりゆく。欧米人が最も核戦争を身近に感じた瞬間だったかもしれない。
そういう時代に連載が始まったのが「風の谷のナウシカ」。すでにアニメを卒業した私は、映画化前にマンガの形式をとった「風の谷のナウシカ」を知らない。
その後「風の谷のナウシカ」は、映画化され繰り返し、TVでも放映された。私は「反戦とエコ」という単純なメッセージしか受け取らなかった。やがて、東欧革命、ソ連崩壊と時代は大転換を迎え、核戦争の恐怖は減っていった。そのころ、「ナウシカ」の連載がやっと終わったというニュースが流れ、遅ればせながら原作を読んだ。
ショックだった。
ナウシカも同じように、核戦争後の人類の話。さらに腐海という、瘴気を発する樹海に取り込まれ、わずかに残った人類すらも肉体を侵され、緩慢な死が物語を覆う。未来少年コナンや、同じく核戦争後の世界を描いたロバートマキャモンの小説「スワンソング」なら、そんな世界にも救いがあるのだが、「ナウシカ」にはそれがない。どこかよその星の物語と思わせていたが物語も、終盤に今の人類の延長線上にあることが明かされ、人類終焉の長い黄昏の時代を描く原作「ナウシカ」の持つ「暗さ」は重苦しい。さらにそんな状況であっても、せっせと戦争にいそしむ人類は限りなく醜い。監督の問いかけたものの正体がいまだにつかめない。
映画は原作の5分の一位を、強引に区切りをつけた感じで、もちろん、続編を期待させるような終わり方である。
その後トトロ、紅の豚・・・いろんな作品を手がけた宮崎監督だが、やはりいつかは、この「ナウシカ」を3部作くらいにして完成してほしかった。もう少し私たちにヒントを多めに入れて。
そうじゃなくっちゃ、長い間問いかけられたままの私たちはどうすればいいかわからない。
引退会見で監督は「この世は、生きるにあたいする世界なのだと子供たちに伝えたかった。」といっていた。たとえ、どんな過ちを犯し、どんな世界になろうとも、人が生きる以上、この世は生きるに値する価値がある、と。
未来少年コナンには、自分たちの過ちで世界を未曾有の災厄に巻き込んだ科学者が、コナンたち若い世代に未来を託し、自らは死を選ぶシーンがある。その科学者の一人が、宮崎監督にそっくり。
原作「ナウシカ」では、人類の組成をも造り変え、時間を超え未来の子孫をコントロールしようとする科学者が出てくる。ここに、主人公ナウシカは、「NO」を突きつける。
今、宮崎監督は、科学者や年長者の使命として、前者の科学者の気持ちでいると思う。「ナウシカ」は、結局、大いなる問いかけで終わり、それを解くことを私たちの宿題にしたのかもしれない。
お疲れ様でした。