『海の史劇』 | 元広島ではたらく社長のblog

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六本木ヒルズや、ITベンチャーのカッコイイ社長とはいきませんが、人生半ばにして、広島で起業し、がんばっている社長の日記。日々の仕事、プライベート、本、映画、世の中の出来事についての思いをつづります。そろそろ自分の人生とは何かを考え始めた人間の等身大の毎日。

『海の史劇』吉村昭 新潮文庫を読んだ。


今頃読んでしまった。もったいない。


日露戦争は、司馬遼太郎の長編『坂の上の雲』を読んだので、その一部分である日本海海戦を取り上げた、吉村さんの『海の史劇』は、読まなくていいかと思っていた。戦後の講和交渉の『ポーツマスの旗』も読んでたし・・・・。


しかし、『海の史劇』は、半分が開戦までの、バルチック艦隊第2太平洋艦隊の大遠征。残りが、日本海海戦と、ポーツマス講和交渉、講和内容の不満に対する日本国内の暴動という構成になる。


ロジェストヴェンスキー中将(出発時は少将)による、バルチック海からウラジオストックを目指す遠征は、出航時から、日本の水雷艇が夜襲をかけるという噂の影に怯え、薪や水の十分な補給が受けられず、艦の補修が十分受けられなかったり、本国の戦略変更に迷わせられたり、赤道付近では高熱になった艦内と疫病に苦しめられたりと苦難の連続であった。

日本はもちろん、大遠征をしてくる艦隊に奇襲攻撃をするといった物量的余裕はなく、対馬海峡で待ち構えるしかなかったが、ロシア国内やヨーロッパで革命分子を焚きつける明石元二郎の活躍や、各港に潜伏させた諜報員による情報かく乱、中立国に、ロシア艦隊への薪水供与を敵対行為として厳重通告をする外交努力等でバルチック艦隊到着までに様々な妨害をする。


司馬遼太郎の『坂の上の雲』は、秋山兄弟と正岡子規という、愛媛は松山の城下に育った幼馴染3人が、明治の山場とも言える日露戦争に深く関わるという基本の筋書きがあった(同じ幼馴染シリーズは『翔ぶが如く』)が、吉村さんは記録文学の名手というだけあって、緻密で、網羅的な記述が際立つ。日本海海戦、開戦までをじっくり書く事で、全く印象が違ってくる。海戦だけがクローズアップされ、日本が奇跡的に勝利したように描かれることがあるが、1万8000カイリの大遠征も戦争の一部として語られなければ、この戦争を知ったことにはならないだろう。


また、冒頭で、世界最強の艦隊を意気揚々と率いていたロジェストヴェンスキー中将の末路も描かれている。日本で捕虜となったあと、本国に戻るがシベリアを横断する際には、反帝政の暴徒を避けながら、逆に英雄として駅駅で称えられながらと、相手によって真逆の扱いを受ける。帝都帰還後も最初の同情的な雰囲気から、冷たく扱われ、軍法会議で無罪にはなったものの、官位剥奪、3年後には病没する。


吉村さんは、さらに周辺の記述を続ける。戦闘中、日本に流れ着いたロシア兵を手厚く救護する山口県や島根県の漁民。戦時捕虜を厚遇する松山やその後は全国にできた収容所の様子。ロシアに抑留された日本人や日本の民間人が残酷な処遇を受けてきたのと比較して語られる。


そして、ほぼ無傷で、大艦隊に勝利した日本艦隊の旗艦『三笠』が、戦勝の観艦式にはいない。


観艦式直前に佐世保軍港内で原因不明の爆発で沈没したのだ。海戦自体は107名の戦死者でありながら、爆発沈没事故は251名の犠牲者を出した。深夜信号用アルコールを飲もうと忍びこんだ人間が誤って引火、弾薬に誘爆が原因だったが、栄光ある三笠の船員はひとり残らず、忠勇の士であり、不名誉な真相が明らかになるのは、さらに時代を経てからである。

このエピソードは、その後の日本の軍隊の、名誉を重んじ不都合な現実、合理的な判断を軽視する思想を暗示する。このエピソードのみならず、この戦争は、東郷と乃木という2人の神を生む。(神様は人でなく柱で数えるのかな)


日本海海戦という、歴史上類を見ない大海戦でありながら、さらに類を見ない一方的な戦果を出した戦闘。この戦争が、のちのちの日本に与えた影響は計り知れない。


司馬さんは、日露戦争以後の日本を題材にしていない。これ以後の日本人に興味ある人がいないといったか、これ以後の日本人を書けないとかなんとか、言っていた。

吉村さんは、これ以降も、多くの日本人を描くが、そこには戦争に向かう中で、様々な組織が持つ矛盾や、不条理な出来事、そこに苦しむ日本人が次々に描かれる。


日露戦争は、司馬さんにとって『終着駅』だったが、吉村さんにとっては『始発駅』なのかもしれない。