中臣家の受難。焼栗と榊の枝と、武甕槌命(タケミカヅチノミコト)。~春日大社へ長いながい旅
武甕槌命(タケミカヅチノミコト)が常陸の国(茨城県)の鹿島神宮から奈良の今の春日大社がある御蓋山(みかさやま)
へ旅をした
ときのお話です。
白鹿の上のタケミカヅチと、鹿島神宮の神主の中臣時風(なかとみのときかぜ)、秀行(ひでゆき)の一行。
伊賀野国の夏身(名張市夏見)の薦生山(こもうやま)で休息をとったときの話です。
タケミカヅチは、時風と秀行に、焼栗を分け与えました。
おいしそうな焼栗です。
ヾ(@^▽^@)ノ
あーんと、いただこうとしたところ、タケミカヅチはいいました。
「その栗を植えて、もし芽がでたなら、お前たちの子孫は末永く栄えるだろう。」
あんぐり。
。(´д`lll)
・・・なんという無茶ぶりだろう。
・・・鹿島くんだり、このような遠方までつきあってきたというのに。
・・・お腹すいているのに
(T▽T;)
・・・焼いた栗が芽をだすはずないでしょ。
などと思いつつ、二人は、なくなく焼栗を植えました。
ところが、なんと芽をだしたのです。
そんな神様が祀られているのが、パワースポットでも有名な「春日大社 」です。
・・・
タケミカヅチの神様に子子孫孫の繁栄を約束された中臣の二人でしたが・・・
果して御蓋山におさまったタケミカヅチ。
ほっとしたのも束の間、二人は、はたとタケミカヅチに問いました。
「あの、ところで、わたしたちは、この後どうしたらよいのでしょうか・・・」
タケミカヅチはエッとなります。
( ̄□ ̄;)
・・・あ、かんがえてなかったな。
・・・鹿島くんだり・・・ブツブツ・・・
ポンとタケミカヅチは手をうち、手近にあった榊の枝をかざしました。
「今からこの榊の枝を投げる。これが落ちたところに住まうがよいだろう。」
・・・おー、そうきたか。神託っぽいが、くるしかね?
( ̄Д ̄;;
タケミカヅチは、渾身の力をこめて、榊の枝を投げました。
びゅーんっと、あたかも矢のように空の彼方に飛び去って行きました。
・・・おい、飛ばしすぎだろーーーっ
。(;°皿°)
榊の枝は、春日大社から西南約5キロメートル先の、奈良市杏町(からももちょう)へ落ちていました。
以後、中臣のふたりはそこに住むようになりました。
・・・ここから通えってか?祀れっていうわりには、遠くね?
( ̄Д ̄;;
それからというものの、二人はがんばってタケミカヅチに仕えたそうです。
そんな神様が祀られているのが、パワースポットでも有名な「春日大社 」です。
・・・
春日大社の森があるすぐそばに、志賀直哉旧居 がある町、高畑町。
その付近の古い土塀は、その昔、春日の神主が住んでいた社家町の名残です。
ふたりの子孫は、さすがに不便でしたので、春日大社の近くに引っ越したのでした。
春日の社家では、その昔、神様がなげた榊の枝が落ちたところから一族がはじまったことから、
毎年正月に神棚にむかって
「榊の枝はいずくにそうろう」
「さればその御ことめでとうそうろう」
という問答を交わすしきたりが今ものこっているそうです。
・・・
そんな神様が祀られているのが、パワースポットでも有名な「春日大社 」です。
なんだかんだと春日大社におさまったタケミカヅチ。
さて、その後は?
「称徳女帝と武甕槌命~春日大社に四柱祀られているわけ 」へつづきます。
そんな春日大社、ぜひみなさんいらしてください。
(=⌒▽⌒=)
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白鹿の上のタケミカヅチと、鹿島神宮の神主の中臣時風(なかとみのときかぜ)、秀行(ひでゆき)の一行。
伊賀野国の夏身(名張市夏見)の薦生山(こもうやま)で休息をとったときの話です。
タケミカヅチは、時風と秀行に、焼栗を分け与えました。
おいしそうな焼栗です。
ヾ(@^▽^@)ノ
あーんと、いただこうとしたところ、タケミカヅチはいいました。
「その栗を植えて、もし芽がでたなら、お前たちの子孫は末永く栄えるだろう。」
あんぐり。
。(´д`lll)
・・・なんという無茶ぶりだろう。
・・・鹿島くんだり、このような遠方までつきあってきたというのに。
・・・お腹すいているのに
(T▽T;)
・・・焼いた栗が芽をだすはずないでしょ。
などと思いつつ、二人は、なくなく焼栗を植えました。
ところが、なんと芽をだしたのです。
そんな神様が祀られているのが、パワースポットでも有名な「春日大社 」です。
・・・
タケミカヅチの神様に子子孫孫の繁栄を約束された中臣の二人でしたが・・・
果して御蓋山におさまったタケミカヅチ。
ほっとしたのも束の間、二人は、はたとタケミカヅチに問いました。
「あの、ところで、わたしたちは、この後どうしたらよいのでしょうか・・・」
タケミカヅチはエッとなります。
( ̄□ ̄;)
・・・あ、かんがえてなかったな。
・・・鹿島くんだり・・・ブツブツ・・・
ポンとタケミカヅチは手をうち、手近にあった榊の枝をかざしました。
「今からこの榊の枝を投げる。これが落ちたところに住まうがよいだろう。」
・・・おー、そうきたか。神託っぽいが、くるしかね?
( ̄Д ̄;;
タケミカヅチは、渾身の力をこめて、榊の枝を投げました。
びゅーんっと、あたかも矢のように空の彼方に飛び去って行きました。
・・・おい、飛ばしすぎだろーーーっ
。(;°皿°)
榊の枝は、春日大社から西南約5キロメートル先の、奈良市杏町(からももちょう)へ落ちていました。
以後、中臣のふたりはそこに住むようになりました。
・・・ここから通えってか?祀れっていうわりには、遠くね?
( ̄Д ̄;;
それからというものの、二人はがんばってタケミカヅチに仕えたそうです。
そんな神様が祀られているのが、パワースポットでも有名な「春日大社 」です。
・・・
春日大社の森があるすぐそばに、志賀直哉旧居 がある町、高畑町。
その付近の古い土塀は、その昔、春日の神主が住んでいた社家町の名残です。
ふたりの子孫は、さすがに不便でしたので、春日大社の近くに引っ越したのでした。
春日の社家では、その昔、神様がなげた榊の枝が落ちたところから一族がはじまったことから、
毎年正月に神棚にむかって
「榊の枝はいずくにそうろう」
「さればその御ことめでとうそうろう」
という問答を交わすしきたりが今ものこっているそうです。
・・・
そんな神様が祀られているのが、パワースポットでも有名な「春日大社 」です。
なんだかんだと春日大社におさまったタケミカヅチ。
さて、その後は?
「称徳女帝と武甕槌命~春日大社に四柱祀られているわけ 」へつづきます。
そんな春日大社、ぜひみなさんいらしてください。
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鹿島立つ武甕槌命(タケミカヅチノミコト)。鹿島神宮から春日大社へ長いながい旅
前回の「なぜ武甕槌命(タケミカヅチノミコト)は、奈良にきたのでしょうか?」のつづきです。
むかし、奈良に都・平城京ができたころのおはなしです。
常陸の国(茨城県)に、武甕槌命(タケミカヅチノミコト)を祀ったの鹿島神宮があります。
神主の中臣時風(なかとみのときかぜ)、秀行(ひでゆき)は、タケミカヅチノミコトのお告げをうけます。
それは、奈良の都にいきたいということでした。
ふたりは神様を白鹿にいただき、奈良へむかって鹿島神宮を出立しました。
伊勢の国(三重県)の名張郡夏見の郷を通っていきます。
山辺郡の波多野(奈良県山辺郡山添)へ来られました。
そこをいまも春日といいます。
それから安部山(奈良県桜井市)へ到着。
そこから山辺の道を通って、夜都伎神社(やとぎじんじゃ:天理市)の東にある大きな石でお休みになられました。
その石には今も白鹿のあしあとといわれるくぼみがのこっているそうです。
豊田町に西森があり、そこで白鹿の角がおちました。
それからというものの、その場所を「つのの森」と呼ばれるようになりました。
・・・
ようやく平城京をみおろす御蓋山(みかさやま)に到着しました。
すでに御蓋山には、山の主(地主の神様)がいました。
この山の主は耳が遠く、
「この山を三尺(1メートル)ばかり借り受けたい」
と申し出ると、広さ三尺と勘違いし、細かいことを問いたださず、こころよくききいれたのでした。
ところが、それは山全体、地下までいれて三尺でした。
この山の主は、現在の春日大社楼門の西方、回廊の軒したにある摂社・榎本神社で祀られています。
明治ごろまで、参詣に来た人々は、柱を握りこぶしで、トントンと何度もたたきます。
そして「春日さん、まいりましたよ」と告げてから本社へお参りをしたそうです。

長い旅を経て、こうしてタケミカヅチノミコトは、春日大社四神の第一殿に祀られるようになったのでした。
奈良公園の鹿は、この白鹿の子孫だと伝えられています。
”鹿島立つ”とは、”旅立つ”という意味で、この伝説がもとになっています。
さて、鹿島からの長い旅の珍道中。
「中臣家の受難。焼栗と榊の枝と、武甕槌命」へつづきます。
意外とドラマチックな展開をする神様・タケミカヅチ。
さて、お付きの中臣家は・・・
(-^□^-)
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むかし、奈良に都・平城京ができたころのおはなしです。

常陸の国(茨城県)に、武甕槌命(タケミカヅチノミコト)を祀ったの鹿島神宮があります。
神主の中臣時風(なかとみのときかぜ)、秀行(ひでゆき)は、タケミカヅチノミコトのお告げをうけます。
それは、奈良の都にいきたいということでした。
ふたりは神様を白鹿にいただき、奈良へむかって鹿島神宮を出立しました。
伊勢の国(三重県)の名張郡夏見の郷を通っていきます。
山辺郡の波多野(奈良県山辺郡山添)へ来られました。
そこをいまも春日といいます。
それから安部山(奈良県桜井市)へ到着。
そこから山辺の道を通って、夜都伎神社(やとぎじんじゃ:天理市)の東にある大きな石でお休みになられました。
その石には今も白鹿のあしあとといわれるくぼみがのこっているそうです。
豊田町に西森があり、そこで白鹿の角がおちました。
それからというものの、その場所を「つのの森」と呼ばれるようになりました。
・・・
ようやく平城京をみおろす御蓋山(みかさやま)に到着しました。
すでに御蓋山には、山の主(地主の神様)がいました。
この山の主は耳が遠く、
「この山を三尺(1メートル)ばかり借り受けたい」
と申し出ると、広さ三尺と勘違いし、細かいことを問いたださず、こころよくききいれたのでした。
ところが、それは山全体、地下までいれて三尺でした。
この山の主は、現在の春日大社楼門の西方、回廊の軒したにある摂社・榎本神社で祀られています。
明治ごろまで、参詣に来た人々は、柱を握りこぶしで、トントンと何度もたたきます。
そして「春日さん、まいりましたよ」と告げてから本社へお参りをしたそうです。

長い旅を経て、こうしてタケミカヅチノミコトは、春日大社四神の第一殿に祀られるようになったのでした。
奈良公園の鹿は、この白鹿の子孫だと伝えられています。
”鹿島立つ”とは、”旅立つ”という意味で、この伝説がもとになっています。
さて、鹿島からの長い旅の珍道中。
「中臣家の受難。焼栗と榊の枝と、武甕槌命」へつづきます。
意外とドラマチックな展開をする神様・タケミカヅチ。
さて、お付きの中臣家は・・・
(-^□^-)
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なぜ武甕槌命(タケミカヅチノミコト)は、奈良にきたのでしょうか? ~ 春日大社 タケミカヅチ伝説
「汝がうしはける葦原中国は
わがみ子の知らさむ国と言よさし給えり」
・・・
春日大社。
第一殿に祀られる武甕槌命(タケミカヅチノミコト)。
彼が、奈良にきた理由についてお話しようと思います。
タケミカヅチノミコトは、
古事記では建御雷之男神、建御雷神。
日本書紀では、武甕槌、武甕雷男神と表記されます。
神話の神産み
イザナミが最後に産んだのが火の神・火神軻遇突智(カグツチ)によって命をおとします。
怒りにかられたイザナギが、カグツチの首を切り落とした際に生まれたのが、タケミカヅチでした。
一説では、飛び散ったカグツチの血が、十束剣・天之尾羽張(あめのおはばり)について生まれたので、父を天之尾羽張とされるとも言われています。
国譲りの神話
タケミカヅチは火と剣と雷の軍神として誉れ高い神様として敬れます。
天孫降臨の先兵として高天原(天上界)から葦原中国(地上)へ遣わされます。
葦原中国に荒ぶる国津神どもが跋扈していた時代。
高天原は、当時、大きな勢力を誇っていた出雲の大国主に目をつけました。
そこで外交官・天穂日と天若日子を遣わすが次々と調略されてしまいます。
次いで武闘派のタケミカヅチと経津主神(フツヌシ)が遣わされたのでした。
出雲の稲佐の浜で十束剣(とつかのつるぎ)を突きたて、その上に胡坐をかいた異様な格好で登場します。
そこで大国主に国譲りを迫ります。
大国主神に問いて曰く。
「汝がうしはける葦原中国は
わがみ子の知らさむ国と言よさし給えり」
・・・葦原中国は、あなたが私物化し支配しているが、
わが君のように民衆の心を知り、
民衆のために公平に治めるものと知りたまえ。
ここから彼の戦いの日々がはじまります。
大国主の息子・タケミナカタとの激しい戦いの末、諏訪の地に於いて降伏させるに至りました。
また神武東征において、熊野の神々に苦戦するイワレヒコ(後の神武天皇)を救うため、高倉下を遣わせ神剣・佐士布都神を授けました。
東国・蝦夷征伐
更にタケミカヅチは、東国の蝦夷征伐にでむきます。
鹿島にタケミカヅチ、香取にフツヌシが前線基地を設けます。
今の茨城県鹿嶋市の鹿島神宮と、佐原市の香取神宮です。
鹿島神宮が北向きに建てられているのは、北方の蝦夷を牽制するためと伝えられています。
そこでも熾烈な戦いが繰り広げられました。
国津神・甕星香香背男(みかぼしかかせお)の前に、二柱の軍神は苦渋の敗退を余儀なくされます。
タケハヅチの力を借りて、なんとか倒します。
・・・
永住の地をもとめ
神武天皇の子が代をかさね、ようやく世の中に平和がおとずれたときです。
タケミカヅチは、永住の地を求めました。
それが奈良の春日野でした。
春日野には母神の甕速日神(ミカハヤヒ)がおられたからです。
鹿島灘の荒磯を見つめ、戦いの日々をおくってきたタケミカヅチは、穏やかな地をもとめ、奈良へと移ったのでした。
・・・
そんな神様が祀られているのが、パワースポットでも有名な「春日大社」です。

鹿島立つ武甕槌命。
「鹿島神宮から春日大社へ長いながい旅」へつづきます。
>中臣家の受難。焼栗と榊の枝と、武甕槌命
>称徳女帝と武甕槌命~春日大社に四柱祀られているわけ
>春日の神々のたたり~鎌倉幕府の守護・地頭と、武家不入地
>仏教と武甕槌命~興福寺 神仏習合と春日大社
裏話「大国主と武甕槌。国譲りの神話」
国譲りの神話を、大国主の立場で描いています。
(-^□^-)
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わがみ子の知らさむ国と言よさし給えり」
・・・
春日大社。
第一殿に祀られる武甕槌命(タケミカヅチノミコト)。
彼が、奈良にきた理由についてお話しようと思います。
タケミカヅチノミコトは、
古事記では建御雷之男神、建御雷神。
日本書紀では、武甕槌、武甕雷男神と表記されます。
神話の神産みイザナミが最後に産んだのが火の神・火神軻遇突智(カグツチ)によって命をおとします。
怒りにかられたイザナギが、カグツチの首を切り落とした際に生まれたのが、タケミカヅチでした。
一説では、飛び散ったカグツチの血が、十束剣・天之尾羽張(あめのおはばり)について生まれたので、父を天之尾羽張とされるとも言われています。
国譲りの神話タケミカヅチは火と剣と雷の軍神として誉れ高い神様として敬れます。
天孫降臨の先兵として高天原(天上界)から葦原中国(地上)へ遣わされます。
葦原中国に荒ぶる国津神どもが跋扈していた時代。
高天原は、当時、大きな勢力を誇っていた出雲の大国主に目をつけました。
そこで外交官・天穂日と天若日子を遣わすが次々と調略されてしまいます。
次いで武闘派のタケミカヅチと経津主神(フツヌシ)が遣わされたのでした。
出雲の稲佐の浜で十束剣(とつかのつるぎ)を突きたて、その上に胡坐をかいた異様な格好で登場します。
そこで大国主に国譲りを迫ります。
大国主神に問いて曰く。
「汝がうしはける葦原中国は
わがみ子の知らさむ国と言よさし給えり」
・・・葦原中国は、あなたが私物化し支配しているが、
わが君のように民衆の心を知り、
民衆のために公平に治めるものと知りたまえ。
ここから彼の戦いの日々がはじまります。
大国主の息子・タケミナカタとの激しい戦いの末、諏訪の地に於いて降伏させるに至りました。
また神武東征において、熊野の神々に苦戦するイワレヒコ(後の神武天皇)を救うため、高倉下を遣わせ神剣・佐士布都神を授けました。
東国・蝦夷征伐更にタケミカヅチは、東国の蝦夷征伐にでむきます。
鹿島にタケミカヅチ、香取にフツヌシが前線基地を設けます。
今の茨城県鹿嶋市の鹿島神宮と、佐原市の香取神宮です。
鹿島神宮が北向きに建てられているのは、北方の蝦夷を牽制するためと伝えられています。
そこでも熾烈な戦いが繰り広げられました。
国津神・甕星香香背男(みかぼしかかせお)の前に、二柱の軍神は苦渋の敗退を余儀なくされます。
タケハヅチの力を借りて、なんとか倒します。
・・・
永住の地をもとめ神武天皇の子が代をかさね、ようやく世の中に平和がおとずれたときです。
タケミカヅチは、永住の地を求めました。
それが奈良の春日野でした。
春日野には母神の甕速日神(ミカハヤヒ)がおられたからです。
鹿島灘の荒磯を見つめ、戦いの日々をおくってきたタケミカヅチは、穏やかな地をもとめ、奈良へと移ったのでした。
・・・
そんな神様が祀られているのが、パワースポットでも有名な「春日大社」です。

鹿島立つ武甕槌命。「鹿島神宮から春日大社へ長いながい旅」へつづきます。
>中臣家の受難。焼栗と榊の枝と、武甕槌命
>称徳女帝と武甕槌命~春日大社に四柱祀られているわけ
>春日の神々のたたり~鎌倉幕府の守護・地頭と、武家不入地
>仏教と武甕槌命~興福寺 神仏習合と春日大社
裏話「大国主と武甕槌。国譲りの神話」
国譲りの神話を、大国主の立場で描いています。
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