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逆襲する日本! 日出ずる処の皇子 聖徳太子 と 法隆寺七不思議 ~算命学と奈良歴史 (再掲載)

連動企画【算命学で見た、奈良・歴史上の人物とミステリー】


第六弾、 聖徳太子 


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聖徳太子こと厩戸皇子は、少年時代、
大叔父で、仏教推進派の蘇我馬子と共に、廃仏派の物部氏と戦い勝利しました。
大豪族である物部氏が滅亡し、代わって蘇我馬子が朝廷での一大勢力を築くのでした。
「参考:奈良妖怪大戦争・蘇我・物部の抗争
その後、政治の根幹に根づいた馬子の傀儡政治がつづきます。
「参考:蘇我氏の時代(1)(2)(3)

姪で、聖徳太子の叔母を、大王(おおきみ)に推挙します。
日本史上初の女帝・推古女王でした。
「参考:蘇我氏の時代(4)(5)

ときに厩戸皇子は18歳。
女王の摂政として政治の世界へのりこんでいくのでした。
この日本と、海外・ことに大陸(シナ 中国)との交易が盛んになる時代でもありました。
 
 
■大陸の柵封体制倭の国
紀元前221年。
大陸の秦王が大陸全土を統一しました。
そして王の上に君臨する皇帝「始皇帝」と自称しました。
皇帝は、各国へ「柵書」という辞令を発し、皇帝の臣下の王であることを任命したのでした。
これを後に柵封政策といわれました。

その後、幾度もの戦争がおこり、国とともに皇帝は変わってゆきます。
国の王朝が代わっても「柵封体制」は引き継がれます。
それは海外へもおよびます。

古代日本も例外ではなく、後漢の時代、朝貢し印綬を与えられています。
1784年に志賀島で発見された金印です。

漢委奴国王」(― 漢の倭の奴の国王)。

「倭(やまと)の王として認める」という意味ですね。

しかし、「倭」というのは小人の意味であり、日本人を蔑視した言葉でした。

日本では、豪族たちの抗争が繰り返された中、
国の王として名乗り、国内で認めさせるために、大陸から官位を授かり、その権威にあやかっていたのですね。
これは、女王卑弥呼も、例外ではありませんでした。
三国志で有名な魏の国に朝貢した記録がのこされているのです。

しかし戦乱で次々と王朝が交代するため、倭国も、柵封体制からの離脱する願望が芽生えていました。
 
 

■隋の時代「日出ずる処の天子・・・」

607年。時代は隋。

とある小国の国書を手にした隋の皇帝・楊帝(ようだい)は激怒しました。

「日出ずる処の天子、

書を日没する処の天子に致す

恙無きや」

(日が昇る処(東の国)の天子より、日が沈む所(西の国)の天子へ、お元気ですか?)

大帝国を西の国と呼び、自らを東の国の天子と称し、対等の文面が突き付けられたのでした。

このとき、その場に居合わせたのは小野妹子
倭国からの遣隋使でした。

前回の遣隋使では、隋との国交を結ぶのに失敗しました。
その再起をかけての渡航でした。
小野妹子に書簡を託したのは、誰であろう、厩戸皇子でした。

ともすれば、小野妹子はその場で処罰され、小国・倭国も隋に攻めこまれるような事態を招くおそれもありました。

しかし、小野妹子は罰せられることなく、隋の遣い斐世清(はいせいせい)と伴って帰国したのでした。

当時、隋は隣りの高句麗と紛争していました。
隋としては、倭国が、高句麗側につく事態を避けたかったがため、容認せざる得なかったのでした。
厩戸皇子は、このような国際情勢をよんで、挑発的な書簡をおくり、
見事、隋との国交を開かせたのでした。

そして、次の朝貢のときには、

「東の天皇、敬みて西の皇帝に白す」と記してありました。

前回よりも比較的、一歩引いた表現となっています。
ここで史上初めて「天皇」という名称が登場したのでした。
だれであろう、推古天皇のことですね。

倭国では、大陸の顔色をうかがい、王の官位をさずかり属国になりさがっていきました。

ここではじめて官位とは異なる「天皇」を名乗って、隋の柵封体制に抵抗した外交を展開したのでした。


斑鳩遷都決行!?
太子は、政治から退いた後、晩年は仏教研究にそそぎます。
当時の都があった飛鳥から18キロも離れた斑鳩に居をかまえます。
それが斑鳩宮です。

一説では、大叔父の蘇我馬子の影響から逃れたとも伝えられています。
しかし、斑鳩には難波(なにわ:現在の大阪)の港へと通じる水路・大和川と、同じく龍田道と当麻道が交差する陸路がありました。
つまり斑鳩は、交通の要所だったのです。
海外からの輸入品、または物資は、斑鳩宮を経由して、都・飛鳥へ運ばれていったのでした。
これにより、太子は、蘇我氏とは一線を画した海外とのルートの確保を考えていたのではないかと伝えられています。


法隆寺
奈良県、生駒郡斑鳩。
飛鳥時代から栄える法隆寺を中心に、聖徳太子ゆかりの古寺や史跡が残っています。
今も大使の遺徳に満ちた場所です。


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斑鳩寺(いかるがでら)、後の法隆寺
聖徳太子が晩年、理想の仏教国を夢見て情熱をかけました。

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聖徳太子が推古天皇13年頃に建立したと伝えられています。
世界最古の木造建造物群としても知られています。

1993年に日本一番でユネスコ世界文化遺産に登録されました。



法隆寺の七不思議叫び
1法隆寺の伽藍には、蜘蛛が巣をかけないず、雀も糞をかけない。

2南大門の石段下の鯛石と呼ばれる大きな石がある。
  洪水がきても鯛石より上には水があふれなかったとあります。

3五重塔の九輪には、雷神除けの大鎌が取り付けられている。

4大湯屋表門前の通路に伏蔵が埋められている。
  大事のときに要だてられる財宝があるといわれています。

5因可池(よるかのいけ)のカエルには片目がない。
  聖徳太子が戯れで、池のカエルの片目を筆先でついたところ、池の全てのカエルが片目になったそうです。

6地面に雨だれのあとがあかない。
  
7夢殿の礼盤(らいばん)の下は、いつも湿気を帯び汗をかいている

みなさんも、奈良・法隆寺におとずれたら、確認してみようビックリマーク
 

 
 

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連動企画【算命学で見た、奈良・歴史上の人物とミステリー】


第六弾 「聖徳太子


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関連情報:


目紅星先生との連動企画で紹介した歴史上の人物はこちら。

 第一弾、豊臣秀長

 第二弾、筒井順慶

 第三弾、吉村寅太郎

 第四弾、菅原道真

 第五弾、中将姫


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日本史上初の女帝・推古天皇の誕生(2) ― 蘇我氏の時代(5)   【 聖徳太子 伝説 】

奈良飛鳥豊裏宮(とゆらのみや)。

宮中には不信感と動揺の空気で充満しています。

参内した臣下の一族には、蘇我の手のものも多くいます。
しかし、推古天皇即位を、不承不承、認めたものも少なくはなかったのです。
崇峻天皇の暗殺についての蘇我馬子への疑惑。
厩戸皇子を退け、幼い竹田皇子の中継ぎとして女帝を擁立した強引なやりくちに、更に拍車をかけていた。
また物部守屋の遠縁にあたる一族もここに招かれていました。
誅罰は免れたものの、敗軍の一族だけに受ける誹り、蘇我氏への恨みに暗い炎をもやしていた。


一様に儀式を終えた直後、

ビシャッ!
・・・・バリバリバリ!

轟音とともに辺りがまばゆく白色にそまりました。
近くに落雷したのです。

・・・た、たたりだ!

はたと誰かが叫びました。
それは女帝の即位、すなわち儀式全体を否定した叫びにほかなりません。
たちまち蘇我馬子は顔を紅潮させ、剣のつかに手をかけました。
厩戸皇子はヒッと息をのんだ。
一同の苛立ち、緊張が頂点に達した瞬間でした。

突如、推古天皇は座をたち、一直線に豪雨ふりしきる外へと飛び出しました。
何事かと、厩戸皇子、馬子、臣下のもの一同、後を追います。
瞬く間にぐっしょりとぬれぞぼる推古天皇に、厩戸皇子が駆け寄ります。
他のものは遠巻きにみつめるのみでした。

推古天皇は天に向かい、涙を流し、一心に懺悔の言葉を述べられたのです。

「わが父母、そして眷属たちは愚かでよこしまな誘いにのって、
三宝(仏法僧)を破滅焼流してしまいました。
わたしは後宮を尼寺とし、法師寺をつくり、仏像を二体つくりました。
これはひとえにこの功徳をもって、わが一族、眷属たちの罪をあがなうため。」

三宝(仏法僧)を破滅焼流したのは、物部守屋とその一党である。
「おおおお・・・」
声をあげたのは、物部ゆかりのものたちであった。
とりかこむ輪から飛び出し、地にはいつくばり、涙を流し推古天皇に土下座したのでした。

「もしもこの約束を違えば、この身に災いあたえたまえ。
もしも、信心篤く、修める心つよければ、仏法の加護を永遠にあたえたまえ。」

黒く厚い雲が割れ、日が差し込む。
雨により浄化され潤う大気に、光が踊る。

渾身の祈りをささげた推古天皇は、皇子の手をとって立ち上がる。
そして、一同に、まばゆいばかりの笑みをなげかけた。

一同は新たな王に誓う。
「今よりこののち、
左肩に三宝の法を、右の肩にわれらが国神おわしまして、
共に礼拝し、尊重し、供養しましょう。」
国神と仏教ともに両立し、これをもって治世にはげむ誓いの言葉でした。
神仏和合。ここに産声をあげた瞬間でした。

はたと厩戸皇子は、馬子の方を見ました。
馬子は、やれやれと脱力し、苦笑いを浮かべ座り込んでいます。
その姿に、皇子の頬に笑みが走った。

厩戸皇子、後の世の人が呼ぶ聖徳太子。
この頃18歳でした。


推古天皇は蘇我馬子の傀儡の天皇ともいわれています。
しかし、時代は、はるか大陸・朝鮮半島では不穏な動きをみせており、
内政においては地方豪族が分立し権力をもっていた時代でした。
まさに時代のターニングポイントを迎えるべくときに擁立された女帝でした。
中央政権の素地をつくりあげ、憲法を整備と、その功績は大きいのです。




今回の記事は、
746年につくられた元興寺縁起
「元興寺伽藍縁起幵流記」の一節をアレンジしました。

日本史上初の女帝・推古天皇の誕生(1) ―蘇我氏の時代(4)   【 聖徳太子 伝説 】

推古天皇

用明天皇の后。

592年。崇峻天皇が殺害され、次代を担うために、蘇我馬子の強い推挙により即位。

馬子とは叔父と姪の関係である。
まだ幼い竹田皇子が成長するまでのつなぎとしての即位であった。
日本書紀に「姿色端麗しく、挙措動作は乱れなくととのっていた」と記される。

奈良飛鳥・豊裏宮(とゆらのみや)。
推古天皇即位の日。
この日は、例年になくどしゃぶりの雨。
ときおり遠雷が聞こえる。

控えの間で推古天皇と、厩戸皇子(後の聖徳太子)が対峙していた。

「皇子は得心行かぬようですね。」
と推古天皇。
俯き、両の拳を振るわせている、その顔は幽鬼のごとく青い。
「先ほどの馬子どのをみる皇子は、まるで鬼ですね。」
「大叔父(馬子)は逆賊です!臣下の一の地位を手に入れながら、
崇峻天皇を暗殺し、尚、王家をほしいままにしようとしている。」
思わず声をはりあげてしまった皇子。
推古天皇は、かわらず静かに、
「崇峻天皇は癇の強いお方でした。
あのままにすれば、馬子どのと一戦を交えることとなったでしょう。」と答えた。
「それは・・・!」
「存じていましたね。
これ以上、王家と臣下が争いを繰り返せば、
どういうことになるか、民たちがどれだけ苦しむのか、
賢い皇子ならおわかりですね。」
「そ、それは・・・!」
物部氏と蘇我氏との抗争。そして大戦。
敵味方多くの屍を目の当たりにした。
こみあげる感情に吐き気をもよおしガックリと膝をついた。

「・・・我が子よ。」
エッと皇子は顔をあげる。
皇子の母親は穴穂部間人皇女の用明天皇を后の一人である。
よって推古天皇は、皇子の実母ではない。
「皇子は王たる資格をもっていた。
そなたは王になりたかったのか。
故に馬子どのをそしるのか。」
「いえ、わたしは・・・」
「ならば、願わくば、この母を助けたまえ。」
そうして推古天皇は、ふわりと皇子の頭を抱き締めた。

「さて、まいります。みなが待っています・・・」
推古天皇は即位の間へとむかった。


厩戸皇子、後の世の人が呼ぶ聖徳太子
この頃18歳でした。