親友との決別! 奈良・大和 王道の武将、筒井順慶 その3 ~算命学 と 奈良 歴史 (再掲載)
「奈良・大和 王道の武将、筒井順慶 その2 」の続きです。
連動企画【算命学で見た、奈良・歴史上の人物とミステリー】
天正10年(1582)。
本能寺の変が起こった。
明智光秀が織田信長を討ち取った
各地に散った織田信長の家臣たちとの戦いを前に、当然、筒井順慶は、光秀から加勢するようにと誘われます。
中国から羽柴秀吉が大返しで迫ってくる中、順慶は少数の援兵を送りすぐ撤兵させるなど去就に迷っていたとあります。
大阪と京都の境にある洞ヶ峠へ、光秀が援軍の催促に向かうが、そこにいるはずの順慶の筒井一党の姿はなかった。
このことから「洞ヶ峠の日和見」の故事となって今日に残っています。
しかし、ここで異議があがっている。
世にいう洞ヶ峠で順慶が日和見したというのは事実ではない・・・と。
順慶は大和郡山城にあって軍議を重ねていた。
洞ヶ峠にいたのは光秀であり、大和郡山で動かない順慶に圧力をかけていたのだと。
しびれを切らした光秀は軍勢を下鳥羽にむけ、山崎での羽柴秀吉の軍と決戦を行い、惨敗を喫した。
どうあれ、順慶は明智光秀の誘いを断ったことには変わりはありません。
【順慶の王道】
松永久秀の覇道、そして覇道の王たる織田信長が明智光秀に討たれた。
果たして、親友であり縁戚関係にあった光秀に従軍しなかった順慶の胸に去来したのはなんであったのでしょうか。
それは、覇道に走った光秀の末路を予感し、彼が生粋に大和を鎮護する王道の武将であったからではないでしょうか。
彼の戦いには、常に大和の土地を安堵することにあったのではないかと、思えてなりません。
以後、順慶は、羽柴秀吉の元、他国での戦いに駆り出されます。
天正12年(1584)。
持病の胃浣痛のため、郡山城中で死去。
36歳でした。
【光専寺】
近鉄橿原線筒井駅より10分。
奈良県大和郡山市筒井町1533
かつての筒井城内に、光専寺があります。
筒井順慶の坐像を保管しています。
【筒井順慶墓所・五輪塔覆堂】
近鉄橿原線平端駅より10分。
重要文化財指定。
大和郡山市長安寺町
ランキングに参加しています。
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第一弾「豊臣秀長」はこちら
「奈良連動企画① 豊臣秀長 第74回 算命学で鑑定する!歴史上の偉人たち 」
「天下人の弟、豊臣秀長と大和郡山城 ~算命学 と 奈良 歴史 」
連動企画【算命学で見た、奈良・歴史上の人物とミステリー】
第二弾、 筒井順慶 その3
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天正10年(1582)。
本能寺の変が起こった。
明智光秀が織田信長を討ち取った
各地に散った織田信長の家臣たちとの戦いを前に、当然、筒井順慶は、光秀から加勢するようにと誘われます。
中国から羽柴秀吉が大返しで迫ってくる中、順慶は少数の援兵を送りすぐ撤兵させるなど去就に迷っていたとあります。
大阪と京都の境にある洞ヶ峠へ、光秀が援軍の催促に向かうが、そこにいるはずの順慶の筒井一党の姿はなかった。
このことから「洞ヶ峠の日和見」の故事となって今日に残っています。
しかし、ここで異議があがっている。
世にいう洞ヶ峠で順慶が日和見したというのは事実ではない・・・と。
順慶は大和郡山城にあって軍議を重ねていた。
洞ヶ峠にいたのは光秀であり、大和郡山で動かない順慶に圧力をかけていたのだと。
しびれを切らした光秀は軍勢を下鳥羽にむけ、山崎での羽柴秀吉の軍と決戦を行い、惨敗を喫した。
どうあれ、順慶は明智光秀の誘いを断ったことには変わりはありません。
【順慶の王道】
松永久秀の覇道、そして覇道の王たる織田信長が明智光秀に討たれた。
果たして、親友であり縁戚関係にあった光秀に従軍しなかった順慶の胸に去来したのはなんであったのでしょうか。
それは、覇道に走った光秀の末路を予感し、彼が生粋に大和を鎮護する王道の武将であったからではないでしょうか。
彼の戦いには、常に大和の土地を安堵することにあったのではないかと、思えてなりません。
以後、順慶は、羽柴秀吉の元、他国での戦いに駆り出されます。
天正12年(1584)。
持病の胃浣痛のため、郡山城中で死去。
36歳でした。
【光専寺】
近鉄橿原線筒井駅より10分。
奈良県大和郡山市筒井町1533
かつての筒井城内に、光専寺があります。
筒井順慶の坐像を保管しています。
【筒井順慶墓所・五輪塔覆堂】
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第二弾 「筒井順慶 」*☆*:;;;:*☆*:;;;:*☆*:;;;:*☆*:;;;:*☆*:;;;:*☆*:;;;:
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「奈良連動企画① 豊臣秀長 第74回 算命学で鑑定する!歴史上の偉人たち 」
「天下人の弟、豊臣秀長と大和郡山城 ~算命学 と 奈良 歴史 」大仏炎上! 奈良・大和 王道の武将、筒井順慶 その2 ~算命学 と 奈良 歴史 (再掲載)
「奈良・大和 王道の武将、筒井順慶 その1 」の続きです。
連動企画【算命学で見た、奈良・歴史上の人物とミステリー】
【大仏炎上】
永禄9年(1566)。
畿内の主導権をめぐり三好三人衆と対立した松永久秀は、三好を離反。
永禄10年(1567)4月。
久秀と、三好三人衆との戦いが大和で勃発します。
多聞城の久秀と、東大寺に陣をひいた三好三人衆が対峙。
久秀は、援軍の河内の畠山、紀伊の根来の到着を今かと待ちわびていました。
しかし、援軍は紀の川を進軍中、御所で行く手を阻まれます。
筒井順慶と一党です。
近畿を放浪していた筒井順慶と一党は、大和奪還を目指し三好と同盟を組んでいたのです。
筒井一党の活躍により久秀の援軍は、敗退を喫します。
更に筒井一党は、東大寺へと駆けつけます。
援軍を失い久秀は絶体絶命のピンチに陥ります。
永禄10年(1567)10月。
久秀はここで暴挙にでます。
深夜、子の刻、東大寺へ夜襲をしかけます。
突然の襲撃に、三好軍は総崩れになります。
このとき、久秀は大仏殿を焼き払います。
炎に包まれた大仏の首が溶解し頭部が背の裏へと落下します。
久秀は、上洛する織田信長に通じ、大和支配が認められてしまいます。
あわやのところまで久秀を追いつめた筒井順慶。
しかし、寸前のところで勝利は、久秀へ転がったのでした。
所詮は他所の国の武士たちの喧嘩である。
筒井順慶は、東大寺を焼き払われ、仇敵を討ち仕損じ、なおかつ、大和奪還も成り立たず、敗北感にうちふるえるのでした。
【大仏殿と多聞城跡】
近鉄奈良駅から徒歩15分。
観光で有名な”奈良の大仏”で親しまれる東大寺の大仏。
東大寺を遠方に眺める位置に、多聞城跡があります。
松永久秀が築いた多聞城には4階の櫓がそびえていたと伝えられており、近世城郭の先駆とも言われています。
多聞城は、久秀の死後、筒井順慶により破却されました。
多聞城跡は、現在、若草中学の敷地になっています。
【松永久秀の最期】
上杉、毛利、石山本願寺などの反信長勢力と呼応して、久秀は信長に反旗をひるがえします。
大和信貴山城に立て籠もり対決姿勢を明確にした。
筒井順慶は、明智光秀の仲介により、織田信長に久秀討伐の命を下されます。
筒井順慶は、信長の嫡男、明智光秀とともに、大和信貴山城を攻めます。
天正5年(1577)10月。
くしくも10年前、東大寺は大仏が焼き払われたと同日。
明朝、先陣に立った筒井順慶は、鬨の声を上げる。
いまこそ、大和奪還を果さんとばかりに、大和信貴山城を攻めます。
そんな中、天守に近い三の丸付近から一斉に火の手が上がります。
かつて筒井順慶の家臣・森好久が率いる鉄砲衆が反乱を起こしたのです。
一党は、筒井城落城後、牢人となり、久秀に仕官していましたが、
この再会によって、再び順慶方についたのでした。
松永久秀の最期。
久秀の軍は一挙に浮足立ちます。
君主を裏切り、将軍を殺害し、春日の神の山から木々を伐採し多聞城を築城し、大仏を焼き払うという悪行の数々。
ここに天命尽きる。
ドーーーーーーーーーン
爆音が生駒山系に響き渡ります。
城内の火薬に引火したのです。
松永久秀は城内で、自害、または爆死したと伝えられています。
【明智光秀との友情と、大和郡山城築城】
松永久秀の首は、安土へ。
遺体は北葛城郡王寺町の達磨寺に埋葬されました。
埋葬したのは、筒井順慶でした。
半生をかけた仇敵でしたが、武人として敬服する部分もあったのではないでしょうか。
筒井順慶は、織田信長の臣下となり、明智光秀とともに近畿を束ねる一翼として、大和の守護を委ねられることになります。
武骨者が多い信長の家臣の中で、数少ない教養人同士であった光秀と順慶は交友を深めていきます。
嫡男がいなかった順慶は、光秀の子を養子として迎えます。
天正8年(1580)信長の庇護のもと、大和の統一の拠点として、郡山城が築城されたのでした。
だが、それがまた、次の悲劇を生むことになるのでした。
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「奈良連動企画① 豊臣秀長 第74回 算命学で鑑定する!歴史上の偉人たち 」
「天下人の弟、豊臣秀長と大和郡山城 ~算命学 と 奈良 歴史 」
連動企画【算命学で見た、奈良・歴史上の人物とミステリー】
第二弾、 筒井順慶 その2
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【大仏炎上】
永禄9年(1566)。
畿内の主導権をめぐり三好三人衆と対立した松永久秀は、三好を離反。
永禄10年(1567)4月。
久秀と、三好三人衆との戦いが大和で勃発します。
多聞城の久秀と、東大寺に陣をひいた三好三人衆が対峙。
久秀は、援軍の河内の畠山、紀伊の根来の到着を今かと待ちわびていました。
しかし、援軍は紀の川を進軍中、御所で行く手を阻まれます。
筒井順慶と一党です。
近畿を放浪していた筒井順慶と一党は、大和奪還を目指し三好と同盟を組んでいたのです。
筒井一党の活躍により久秀の援軍は、敗退を喫します。
更に筒井一党は、東大寺へと駆けつけます。
援軍を失い久秀は絶体絶命のピンチに陥ります。
永禄10年(1567)10月。
久秀はここで暴挙にでます。
深夜、子の刻、東大寺へ夜襲をしかけます。
突然の襲撃に、三好軍は総崩れになります。
このとき、久秀は大仏殿を焼き払います。
炎に包まれた大仏の首が溶解し頭部が背の裏へと落下します。
久秀は、上洛する織田信長に通じ、大和支配が認められてしまいます。
あわやのところまで久秀を追いつめた筒井順慶。
しかし、寸前のところで勝利は、久秀へ転がったのでした。
所詮は他所の国の武士たちの喧嘩である。
筒井順慶は、東大寺を焼き払われ、仇敵を討ち仕損じ、なおかつ、大和奪還も成り立たず、敗北感にうちふるえるのでした。
【大仏殿と多聞城跡】
近鉄奈良駅から徒歩15分。
観光で有名な”奈良の大仏”で親しまれる東大寺の大仏。
東大寺を遠方に眺める位置に、多聞城跡があります。
松永久秀が築いた多聞城には4階の櫓がそびえていたと伝えられており、近世城郭の先駆とも言われています。
多聞城は、久秀の死後、筒井順慶により破却されました。
多聞城跡は、現在、若草中学の敷地になっています。
【松永久秀の最期】
上杉、毛利、石山本願寺などの反信長勢力と呼応して、久秀は信長に反旗をひるがえします。
大和信貴山城に立て籠もり対決姿勢を明確にした。
筒井順慶は、明智光秀の仲介により、織田信長に久秀討伐の命を下されます。
筒井順慶は、信長の嫡男、明智光秀とともに、大和信貴山城を攻めます。
天正5年(1577)10月。
くしくも10年前、東大寺は大仏が焼き払われたと同日。
明朝、先陣に立った筒井順慶は、鬨の声を上げる。
いまこそ、大和奪還を果さんとばかりに、大和信貴山城を攻めます。
そんな中、天守に近い三の丸付近から一斉に火の手が上がります。
かつて筒井順慶の家臣・森好久が率いる鉄砲衆が反乱を起こしたのです。
一党は、筒井城落城後、牢人となり、久秀に仕官していましたが、
この再会によって、再び順慶方についたのでした。
松永久秀の最期。
久秀の軍は一挙に浮足立ちます。
君主を裏切り、将軍を殺害し、春日の神の山から木々を伐採し多聞城を築城し、大仏を焼き払うという悪行の数々。
ここに天命尽きる。
ドーーーーーーーーーン

爆音が生駒山系に響き渡ります。
城内の火薬に引火したのです。
松永久秀は城内で、自害、または爆死したと伝えられています。
【明智光秀との友情と、大和郡山城築城】
松永久秀の首は、安土へ。
遺体は北葛城郡王寺町の達磨寺に埋葬されました。
埋葬したのは、筒井順慶でした。
半生をかけた仇敵でしたが、武人として敬服する部分もあったのではないでしょうか。
筒井順慶は、織田信長の臣下となり、明智光秀とともに近畿を束ねる一翼として、大和の守護を委ねられることになります。
武骨者が多い信長の家臣の中で、数少ない教養人同士であった光秀と順慶は交友を深めていきます。
嫡男がいなかった順慶は、光秀の子を養子として迎えます。
天正8年(1580)信長の庇護のもと、大和の統一の拠点として、郡山城が築城されたのでした。
だが、それがまた、次の悲劇を生むことになるのでした。
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第二弾 「筒井順慶 」筒井順慶の物語は、「奈良・大和 王道の武将、筒井順慶 その3 」へ続きます。
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「天下人の弟、豊臣秀長と大和郡山城 ~算命学 と 奈良 歴史 」宿敵襲来! 奈良・大和 王道の武将、筒井順慶 その1 ~算命学 と 奈良 歴史 (再掲載)
連動企画【算命学で見た、奈良・歴史上の人物とミステリー】
かつて奈良が大和とよばれていた時代。
大和国内では、有力武士たちの領主化が進み私合戦を繰り広げていました。
北大和で、筒井氏、古市氏、箸尾氏。
中南和で、越智氏、十市氏、楢原氏。
宇陀で、秋山氏、沢氏、芳野氏。
【赤ちゃん当主誕生】
やがて筒井氏と越智氏の力が強大になります。
正長2年(1429)大和永享の乱、筒井氏と越智氏の両陣営に国衆がわかれて抗争をくりひろげていました。
筒井氏によって大和統一が成し遂げられようとした時、天文19年(1550)筒井順昭が病死。
その子、順慶は、わずか2歳で、筒井家の家督を継ぐことになります。
叔父の順政を後見とし、幼い君主をまもる両翼として松倉重信(右近)、そして島清興(左近)がいました。
世は、応仁の乱を迎え、争乱の時代を迎えていたときでした。
【戦国の梟雄・松永久秀襲来】
永禄2年(1559)、順慶がまだ少年だったとき。
三好の家臣、松永久秀が大和に侵入。
大和国と河内国の国境にある信貴山山上に信貴山城を築き、大和攻略の拠点としました。
順慶の半生をかけて戦うライバルの出現です。
叔父の順政は松永久秀に抵抗するが、永禄7年(1564)、逃亡先の堺にて死去。
翌年、居城・筒井城は久秀によって攻撃され、炎上。
順慶はじめ、筒井一党は、城を追われます。
【大和郡山市、筒井城跡】
近鉄橿原線筒井駅。
大和西大寺からつづく近鉄橿原線の一駅。
ひなびた駅で、周辺は古くからの町並みが今ものこる閑静な住宅街です。
またその側には田畑がひろがっています。
この町いったいが、筒井順慶がいた筒井城の跡地になります。
筒井城が築かれた時期については不明です。
筒井城は、筒井集落全体を囲む外堀と内堀から構成され、
大きなところでは幅12メートル、深さ2メートル以上の堀が検出されています。
この堀は16世紀中頃、石垣を持たない城としては最大級と考えられています。
また、発掘調査から、堀斜面より鉄砲玉が多数出土しました。
筒井城落城の際に使われたとみられています。
松永久秀は筒井城を最新兵器の鉄砲を用いて攻略したと考えられています。
筒井順慶は、天正12年(1584)、大和郡山城で亡くなります。
翌年、息子の代になると、羽柴秀吉の命によりに筒井氏を伊賀上野(三重県)へ転封となり、滅亡します。
筒井順慶については、諸説いわれています。
しかし大和を守ることに生涯をかけいた武将と私はおもえてなりません。
未だに、かの武将を思い、親しまれ、町、駅、そしてお店などに”筒井”の名が残されています。
例えば・・・
「焼き肉 筒井」
近鉄筒井駅のそばにあります。
創業50年。
この界隈では有名な老舗の焼肉屋さんです。
残念ながら、今回、筒井順慶の人となりに触れる資料に出会えることはなかったですね。
親友である明智光秀が、羽柴秀吉と山崎の戦いで対決する際、日和見をきめたことから、”日和見”の代名詞的な武将としてさげすまれる一面もあります。
しかし、彼のこれまでの経緯を思えば・・・・
歴史をたどる際、文献のみに頼ると、往々にして誤解を招きます。
それは、勝者からの目線であることが多々あるからです。
一つの手掛かりとして、今回、紅星さんに算命学での鑑定をお願いいたしました。
さて、紅星さんの算命学による筒井順慶の結果は、如何に
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「奈良連動企画① 豊臣秀長 第74回 算命学で鑑定する!歴史上の偉人たち 」
「天下人の弟、豊臣秀長と大和郡山城 ~算命学 と 奈良 歴史 」
第二弾、 筒井順慶 その1
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かつて奈良が大和とよばれていた時代。
大和国内では、有力武士たちの領主化が進み私合戦を繰り広げていました。
北大和で、筒井氏、古市氏、箸尾氏。
中南和で、越智氏、十市氏、楢原氏。
宇陀で、秋山氏、沢氏、芳野氏。
【赤ちゃん当主誕生】
やがて筒井氏と越智氏の力が強大になります。
正長2年(1429)大和永享の乱、筒井氏と越智氏の両陣営に国衆がわかれて抗争をくりひろげていました。
筒井氏によって大和統一が成し遂げられようとした時、天文19年(1550)筒井順昭が病死。
その子、順慶は、わずか2歳で、筒井家の家督を継ぐことになります。
叔父の順政を後見とし、幼い君主をまもる両翼として松倉重信(右近)、そして島清興(左近)がいました。
世は、応仁の乱を迎え、争乱の時代を迎えていたときでした。
【戦国の梟雄・松永久秀襲来】
永禄2年(1559)、順慶がまだ少年だったとき。
三好の家臣、松永久秀が大和に侵入。
大和国と河内国の国境にある信貴山山上に信貴山城を築き、大和攻略の拠点としました。
順慶の半生をかけて戦うライバルの出現です。
叔父の順政は松永久秀に抵抗するが、永禄7年(1564)、逃亡先の堺にて死去。
翌年、居城・筒井城は久秀によって攻撃され、炎上。
順慶はじめ、筒井一党は、城を追われます。
【大和郡山市、筒井城跡】
近鉄橿原線筒井駅。
大和西大寺からつづく近鉄橿原線の一駅。
ひなびた駅で、周辺は古くからの町並みが今ものこる閑静な住宅街です。
またその側には田畑がひろがっています。
この町いったいが、筒井順慶がいた筒井城の跡地になります。
筒井城が築かれた時期については不明です。
筒井城は、筒井集落全体を囲む外堀と内堀から構成され、
大きなところでは幅12メートル、深さ2メートル以上の堀が検出されています。
この堀は16世紀中頃、石垣を持たない城としては最大級と考えられています。
また、発掘調査から、堀斜面より鉄砲玉が多数出土しました。
筒井城落城の際に使われたとみられています。
松永久秀は筒井城を最新兵器の鉄砲を用いて攻略したと考えられています。
筒井順慶は、天正12年(1584)、大和郡山城で亡くなります。
翌年、息子の代になると、羽柴秀吉の命によりに筒井氏を伊賀上野(三重県)へ転封となり、滅亡します。
筒井順慶については、諸説いわれています。
しかし大和を守ることに生涯をかけいた武将と私はおもえてなりません。
未だに、かの武将を思い、親しまれ、町、駅、そしてお店などに”筒井”の名が残されています。
例えば・・・
「焼き肉 筒井」
近鉄筒井駅のそばにあります。
創業50年。
この界隈では有名な老舗の焼肉屋さんです。
残念ながら、今回、筒井順慶の人となりに触れる資料に出会えることはなかったですね。
親友である明智光秀が、羽柴秀吉と山崎の戦いで対決する際、日和見をきめたことから、”日和見”の代名詞的な武将としてさげすまれる一面もあります。
しかし、彼のこれまでの経緯を思えば・・・・
歴史をたどる際、文献のみに頼ると、往々にして誤解を招きます。
それは、勝者からの目線であることが多々あるからです。
一つの手掛かりとして、今回、紅星さんに算命学での鑑定をお願いいたしました。
さて、紅星さんの算命学による筒井順慶の結果は、如何に

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