Calling!!!この声がきこえるか!? その名前は賀名生。 ~南朝三帝ゆかりの地 西吉野町
五條市の都市部・五条駅方面から、
車で国道168号線を山間部にむかって南下します。
いくつもののトンネルをくぐり、30分弱・約8キロほど走った先、
ポン
とトンネルを抜けたところに、
”賀名生”という名前を冠した看板がいくつも目につきます。
賀名生は、”あのう”とよびます。
・・・
”賀名生”の名前に興味をもたれた方は幸せです。
賀名生の里。
奈良県五條市、山間部に流れる丹生川沿いの谷。
ここには他に類を見ない深い歴史があります。
その昔、この一帯は「穴生」または「穴太」(”あなう”、または”あなふ”)と呼ばれていました。
元弘4年(1334)。
皇室が南北2つに分裂し、日本は動乱期を迎えます。
南朝に後醍醐天皇。北朝に光厳天皇。現在に伝わる南北朝時代の幕開けです。
延元元年(1336)。
北朝方に追われた後醍醐天皇は吉野へと逃げ込みます。
正平7年(1352)。
南朝第2代天皇・後村上天皇は、京都・政権奪還のため将軍・足利尊氏が京都不在の隙をついて吉野を発ちます。
そのときに後村上天皇は、「京都に帰る願いが叶ってめでたい」と仰せになられました。
穴生村「あのう」に”願いが叶うという”という思いから「加名生」(かなう)の字を下賜されました。
しかし地元の人たちは、天皇陛下から頂いた字をそのまま使うのは恐れ多いと「加」の字の下に「貝」を加えて現在の「賀」という字にしたそうです。
これが賀名生(あのう)村の名前の由来です。
しかし―
昭和34年。過疎化を理由に賀名生村、白銀村、宗桧村と合併し西吉野村となりました。
平成13年。西吉野村は五條市に編入。
賀名生村近辺は、”五條市西吉野町和田”となったのでした。
”賀名生”という名は各所で通称として残りました。
しかし”賀名生”という地名は、この世から消えたのでした。
土地の名を失うということは、郷土の存在と歴史を失うことに他なりません。
人びとは土地が存在したことすら忘れ去ってしまうでしょう。
・・・
平成23年4月1日。
賀名生の里の有志たちの働きかけにより、”賀名生”の地名が復活したのでした。
和田地区の
・賀名生皇居
・北畠親房公の公墓がある華蔵院
・賀名生の里歴史民俗資料館
この三か所にかぎり”賀名生”の地名を取り戻すこと成功したのでした。
たとえば、「賀名生の里 歴史民俗資料館」
”奈良県五条市西吉野町和田27‐1”は、
現在、”奈良県五条市西吉野町賀名生5”と住所変更となったのでした。
・・・
国道168号線を走る最中、”賀名生”の名前に興味をもたれた方は幸せです。
ここには他に類を見ない深い歴史と、郷土愛にあふれた人びとがいます。
奈良の南西部に位置する五條市は、古くから大和と紀州を結ぶ交通の要衝として栄えてきました。
賀名生の里は、南朝ゆかりの地、明治維新・天誅組ゆかりの地でもあります。
柿の名産地であり、
賀名生梅林は早春の山を彩ります。
■賀名生の里 歴史民俗資料館
南朝三帝ゆかりの賀名生皇居跡や、西吉野地区の歴史や文化を紹介しています。
営業時間:9時~17時
休館日:月曜日
入館料:大人300円、子供100円
■国重要文化財 賀名生皇居
現・堀家住宅。
北朝方の足利尊氏に京都を追われ吉野に落ち伸びた後醍醐天皇を手厚く庇護した郷士・掘孫太郎信増の邸宅。
その後、3代にわたり皇居されました。
・・・
賀名生の里の歴史について、ご教授くださいました
「賀名生の里 歴史民俗資料館 」のコゲ館長さんに感謝です。
「教えて!賀名生の里の不思議?? 」へつづく。
「天誅組史跡巡り 吉野郡五條市 2011.05.04 」より
車で国道168号線を山間部にむかって南下します。
いくつもののトンネルをくぐり、30分弱・約8キロほど走った先、
ポン
とトンネルを抜けたところに、”賀名生”という名前を冠した看板がいくつも目につきます。
賀名生は、”あのう”とよびます。
・・・
”賀名生”の名前に興味をもたれた方は幸せです。
賀名生の里。
奈良県五條市、山間部に流れる丹生川沿いの谷。
ここには他に類を見ない深い歴史があります。
その昔、この一帯は「穴生」または「穴太」(”あなう”、または”あなふ”)と呼ばれていました。
元弘4年(1334)。
皇室が南北2つに分裂し、日本は動乱期を迎えます。
南朝に後醍醐天皇。北朝に光厳天皇。現在に伝わる南北朝時代の幕開けです。
延元元年(1336)。
北朝方に追われた後醍醐天皇は吉野へと逃げ込みます。
正平7年(1352)。
南朝第2代天皇・後村上天皇は、京都・政権奪還のため将軍・足利尊氏が京都不在の隙をついて吉野を発ちます。
そのときに後村上天皇は、「京都に帰る願いが叶ってめでたい」と仰せになられました。
穴生村「あのう」に”願いが叶うという”という思いから「加名生」(かなう)の字を下賜されました。
しかし地元の人たちは、天皇陛下から頂いた字をそのまま使うのは恐れ多いと「加」の字の下に「貝」を加えて現在の「賀」という字にしたそうです。
これが賀名生(あのう)村の名前の由来です。
しかし―
昭和34年。過疎化を理由に賀名生村、白銀村、宗桧村と合併し西吉野村となりました。
平成13年。西吉野村は五條市に編入。
賀名生村近辺は、”五條市西吉野町和田”となったのでした。
”賀名生”という名は各所で通称として残りました。
しかし”賀名生”という地名は、この世から消えたのでした。
土地の名を失うということは、郷土の存在と歴史を失うことに他なりません。
人びとは土地が存在したことすら忘れ去ってしまうでしょう。
・・・
平成23年4月1日。
賀名生の里の有志たちの働きかけにより、”賀名生”の地名が復活したのでした。
和田地区の
・賀名生皇居
・北畠親房公の公墓がある華蔵院
・賀名生の里歴史民俗資料館
この三か所にかぎり”賀名生”の地名を取り戻すこと成功したのでした。
たとえば、「賀名生の里 歴史民俗資料館」
”奈良県五条市西吉野町和田27‐1”は、
現在、”奈良県五条市西吉野町賀名生5”と住所変更となったのでした。
・・・
国道168号線を走る最中、”賀名生”の名前に興味をもたれた方は幸せです。
ここには他に類を見ない深い歴史と、郷土愛にあふれた人びとがいます。
奈良の南西部に位置する五條市は、古くから大和と紀州を結ぶ交通の要衝として栄えてきました。
賀名生の里は、南朝ゆかりの地、明治維新・天誅組ゆかりの地でもあります。
柿の名産地であり、
賀名生梅林は早春の山を彩ります。■賀名生の里 歴史民俗資料館
南朝三帝ゆかりの賀名生皇居跡や、西吉野地区の歴史や文化を紹介しています。
営業時間:9時~17時
休館日:月曜日
入館料:大人300円、子供100円
■国重要文化財 賀名生皇居
現・堀家住宅。
北朝方の足利尊氏に京都を追われ吉野に落ち伸びた後醍醐天皇を手厚く庇護した郷士・掘孫太郎信増の邸宅。
その後、3代にわたり皇居されました。
・・・
賀名生の里の歴史について、ご教授くださいました
「賀名生の里 歴史民俗資料館 」のコゲ館長さんに感謝です。
「教えて!賀名生の里の不思議?? 」へつづく。
「天誅組史跡巡り 吉野郡五條市 2011.05.04 」より
天誅組の変 ― 明治維新発祥の地 櫻井寺 ~ 「天誅組史跡巡り 西吉野編」
吉野郡五條市。
国道24号線と168号線が交差する「本陣」交差点の傍に、櫻井寺(さくらいじ)があります。

五條市でも都市部になり、車の往来が多いところです。
現在、櫻井寺は新しく改築され鉄筋の建物になっています。
幕末(明治維新5年前)。
黒船の来襲により260年間続いた徳川幕府の政治がゆらいできます。
文久3年(1863)8月13日。
孝明天皇は、大和行幸を宣言されました。
その目的は、大和国畝傍山陵の陵前で攘夷断行の勅命を幕府に下すためでした。
攘夷派にとっては絶好の機会でした。
当時19歳の若き攘夷派の公家中山忠光が動きます。
徳川幕府を排し天皇を中心とする新しい統一国家をもくろみます。
中山忠光は、
吉村寅太郎(土佐:高知県)、松本奎堂(三河:愛知県)、藤本鉄石(備前:岡山県)の三人を総裁に、攘夷派一党約40名とともに「天誅組」を組織します。
一党は、堺港から大阪・千早を越え、五條に入ります。
同年8月17日。
五條代官所を襲撃し、櫻井寺(さくらいじ)に「御政府」の看板掲げます。
世に言う「天誅組の変」です。

櫻井寺には、「天誅組本陣跡」の石碑がたてられています。
天誅組は、初めての尊王攘夷派による討幕武装蜂起でした。
境内には、五條代官・鈴木源内の首を洗ったとされる石手水鉢がのこされています。

文久3年(1863)8月18日。
京都で薩摩・会津の公武合体派による政変がおこります。
天皇の大和行幸は中止。
尊王攘夷派である三条実美の公卿19名が参内停止となります。
天誅組の後ろ盾であった長州は京都を追われます。
世に言う「七卿都落ち」です
一転して、天誅組は賊軍として幕府に追われる立場となります。
・・・
「天誅組史跡巡り 吉野郡五條市 2011.05.04」より
櫻井寺
奈良県五條市須恵1丁目3-26
最寄駅:JR五条駅。
国道24号線と168号線が交差する「本陣」交差点の傍に、櫻井寺(さくらいじ)があります。

五條市でも都市部になり、車の往来が多いところです。
現在、櫻井寺は新しく改築され鉄筋の建物になっています。
幕末(明治維新5年前)。
黒船の来襲により260年間続いた徳川幕府の政治がゆらいできます。
文久3年(1863)8月13日。
孝明天皇は、大和行幸を宣言されました。
その目的は、大和国畝傍山陵の陵前で攘夷断行の勅命を幕府に下すためでした。
攘夷派にとっては絶好の機会でした。
当時19歳の若き攘夷派の公家中山忠光が動きます。
徳川幕府を排し天皇を中心とする新しい統一国家をもくろみます。
中山忠光は、
吉村寅太郎(土佐:高知県)、松本奎堂(三河:愛知県)、藤本鉄石(備前:岡山県)の三人を総裁に、攘夷派一党約40名とともに「天誅組」を組織します。
一党は、堺港から大阪・千早を越え、五條に入ります。
同年8月17日。
五條代官所を襲撃し、櫻井寺(さくらいじ)に「御政府」の看板掲げます。
世に言う「天誅組の変」です。

櫻井寺には、「天誅組本陣跡」の石碑がたてられています。
天誅組は、初めての尊王攘夷派による討幕武装蜂起でした。
境内には、五條代官・鈴木源内の首を洗ったとされる石手水鉢がのこされています。

文久3年(1863)8月18日。
京都で薩摩・会津の公武合体派による政変がおこります。
天皇の大和行幸は中止。
尊王攘夷派である三条実美の公卿19名が参内停止となります。
天誅組の後ろ盾であった長州は京都を追われます。
世に言う「七卿都落ち」です
一転して、天誅組は賊軍として幕府に追われる立場となります。
・・・
「天誅組史跡巡り 吉野郡五條市 2011.05.04」より
櫻井寺
奈良県五條市須恵1丁目3-26
最寄駅:JR五条駅。
虹を見た ~ 宇陀郡曽爾村 曽爾川 2011.05.05
「駆け巡る奈良! 屏風岩お花見~伝説のライターさんといくDeep宇陀紀行 2011.05.05」より
宇陀郡の曽爾村。
屏風岩から曽爾川をくだり、一時、三重県名張へとぬけようとしたときです。
「あ、虹がでてる」と声をあげたのは、確かかもすさんでした。
さっと反応されたのは運転手の旦那さん。
すぐに車をバックし、絶好のロケーションのところで停車くださいました。
・・・
山櫻を見ては声をあげ、野の山菜・わらび、ぜんまいに目を見張り、
めずらしい野草をみつけては、なんだろうと一行は首をひねり、
鳥の声に一同、耳をすまし、その姿を探し求める。
ただただ奈良の名物を追うだけの旅ではなく、
春を謳歌し、大きいものの威容と、
美しいもの、可愛いものを愛でる旅でもありましたね。
白い花弁のヤマザクラです。
ヤマザクラは個体毎に変異が多いのです。
開花時期、花のつき方、色の濃淡と新芽の色など様々な変異があります。
その中でも、白い花弁が見れるのはここだけだそうです。
めずらしいのですよ
さて・・・
宇陀の里山をひたはしっていたとき、同行者のひとりNECOさんがとつぜん、
「あーなんやろう
」
と声をあげられました。
それが、これでした。

道の辻の祠のそばに、なにやら不思議な穴があいています。
旦那さん、今しか見れないよといってとっさに、車をひきかえしてくださいました。
なんだろう、なんだろうと一行がやいのやいのいっていたら、
地元の老人が通りかかりました。
そこでうかがったところ、

なんと、防空壕の後だったのですね。
中は地下水がたまって危険なので、入口のそばまでふさいでしまったとのこと。
奈良の山奥です。
先の大戦のときには、宇陀の村まで、空襲が行われていたことに、一同は驚きを禁じえません。
防空壕、機銃掃射の跡など、この宇陀には残されていると老人は語りました。
・・・
さて、虹です。
通常の虹とは異なりますね。
一見、飛行機雲と交差するかのようにまっすぐにのびています。
これを「駆け巡る奈良! 屏風岩お花見~伝説のライターさんといくDeep宇陀紀行 2011.05.05」に掲載したところ、なんと、同じ虹を宮城、滋賀でも目撃されたとコメントをいただきました。
同じ虹をみるというには距離があります。
なかには日が異なり、3日に目撃されたともあります。
このような不思議な現象が、同時多発したのですね。
私が推察するには・・・
3日から5日にかけて、日本に黄砂がおとずれました。
このため空のある層に砂の粒子が滞留した。
または砂の影響で、異様に水分量が増した。
結果、太陽光線の乱反射を引き起こしたのではないでしょうか。
黄砂は広域に影響をおよぼしていたので、同じような現象が発生しやすい状況にあったと思われます。
虹は、直線というより、上へ反っていますね。
つまり、虹は、空におおきな円を描いており、人がみることができているのは、円の底のようです。
・・・
ま、理屈はなんとでもいえますが、
いろいろな地域で、おなじ現象を目撃したひとがいて、驚きを共感できたことに、私は感動を禁じえません。
宇陀郡の曽爾村。
屏風岩から曽爾川をくだり、一時、三重県名張へとぬけようとしたときです。
「あ、虹がでてる」と声をあげたのは、確かかもすさんでした。
さっと反応されたのは運転手の旦那さん。
すぐに車をバックし、絶好のロケーションのところで停車くださいました。
・・・
山櫻を見ては声をあげ、野の山菜・わらび、ぜんまいに目を見張り、
めずらしい野草をみつけては、なんだろうと一行は首をひねり、
鳥の声に一同、耳をすまし、その姿を探し求める。
ただただ奈良の名物を追うだけの旅ではなく、
春を謳歌し、大きいものの威容と、
美しいもの、可愛いものを愛でる旅でもありましたね。
白い花弁のヤマザクラです。
ヤマザクラは個体毎に変異が多いのです。
開花時期、花のつき方、色の濃淡と新芽の色など様々な変異があります。
その中でも、白い花弁が見れるのはここだけだそうです。
めずらしいのですよ

さて・・・
宇陀の里山をひたはしっていたとき、同行者のひとりNECOさんがとつぜん、
「あーなんやろう
」と声をあげられました。
それが、これでした。

道の辻の祠のそばに、なにやら不思議な穴があいています。
旦那さん、今しか見れないよといってとっさに、車をひきかえしてくださいました。
なんだろう、なんだろうと一行がやいのやいのいっていたら、
地元の老人が通りかかりました。
そこでうかがったところ、

なんと、防空壕の後だったのですね。
中は地下水がたまって危険なので、入口のそばまでふさいでしまったとのこと。
奈良の山奥です。
先の大戦のときには、宇陀の村まで、空襲が行われていたことに、一同は驚きを禁じえません。
防空壕、機銃掃射の跡など、この宇陀には残されていると老人は語りました。
・・・
さて、虹です。
通常の虹とは異なりますね。
一見、飛行機雲と交差するかのようにまっすぐにのびています。
これを「駆け巡る奈良! 屏風岩お花見~伝説のライターさんといくDeep宇陀紀行 2011.05.05」に掲載したところ、なんと、同じ虹を宮城、滋賀でも目撃されたとコメントをいただきました。
同じ虹をみるというには距離があります。
なかには日が異なり、3日に目撃されたともあります。
このような不思議な現象が、同時多発したのですね。
私が推察するには・・・
3日から5日にかけて、日本に黄砂がおとずれました。
このため空のある層に砂の粒子が滞留した。
または砂の影響で、異様に水分量が増した。
結果、太陽光線の乱反射を引き起こしたのではないでしょうか。
黄砂は広域に影響をおよぼしていたので、同じような現象が発生しやすい状況にあったと思われます。
虹は、直線というより、上へ反っていますね。
つまり、虹は、空におおきな円を描いており、人がみることができているのは、円の底のようです。
・・・
ま、理屈はなんとでもいえますが、
いろいろな地域で、おなじ現象を目撃したひとがいて、驚きを共感できたことに、私は感動を禁じえません。



