天忠宿のコゲ亭主

傷ついた吉村寅太郎が療養したと言われる杉本屋の4代目コゲ亭主が、賀名生や天誅(忠)組等の情報を発信します。

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天忠宿のコゲ亭主

6月1日は、丹生川上神社下社の例大祭の日です。

コゲ亭主の家から山道を走ること20分余り、8時過ぎに神社に到着です。

大祭の開始は10時からですので、

時間のある間の境内を散策。
天忠宿のコゲ亭主























天忠宿のコゲ亭主























東日本復興義捐金白馬献上記念写真のお知らせや、

南朝の後醍醐天皇御製の歌碑もあります。

天忠宿のコゲ亭主

さらに境内を奥に進むと、天誅(忠)組の志士橋本若狭の碑がたっています。

南朝といえば賀名生皇居、

天誅(忠)組も賀名生に立ち寄り、コゲ亭主の杉本屋で宿泊したりしているようです。

そのように賀名生と関係深いところですので、

以前天誅(忠)組記念館藤井寺展館長と二人でこの神社を参拝したことがあったのです。

その時に拝殿まで上がらせていただき、

権禰宜様から天誅(忠)組関係のお話をいろいろと聞かせていただきました。

話の中で6月1日は例大祭で、

普段は上がることができない階段を登って本殿で拝礼できるから

ぜひともお越しくださいとのご招待を受けていたのです。
天忠宿のコゲ亭主























天忠宿のコゲ亭主























天忠宿のコゲ亭主










































天忠宿のコゲ亭主























牛石に蛙石、こんなものも見つけました。

一般席に一番前に座っていたのですが、

雲一つない真っ青な快晴で、太陽がジリジリとコゲ亭主を焦がしていきます。

参列者の皆さんも日除けに苦労されています。

天忠宿のコゲ亭主

そんな時に現れたのが、
天忠宿のコゲ亭主










































下市町のマスコットキャラクター「ごんたくん」

女性に方たちは一緒に写真を撮ってもらっていたので、

コゲ亭主も挑戦しようかなと思ったのですが

一緒に写真を撮っている男性が一人もいなかったのでちょっと遠慮をしておきました。

天忠宿のコゲ亭主

しかし、このシールはしっかり2枚ゲットしたコゲ亭主でした。


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天忠宿のコゲ亭主

赤間神宮。

御祭神  人皇第八十一代 安徳天皇

御祭祀  八咫鏡(安徳天皇神鏡)


水天門の由来
天忠宿のコゲ亭主

(「赤間神宮略記」より抜粋)

寿永四年(1185)三月二十四日の壇之浦合戦に

平二位尼前は

 「今ぞ知る みもすそ川の おんながれ 波の下にも 都ありとは」と詠まれ

昭憲皇太后は、このことを深く思し召され明治九年に

 「いまも猶 袖こそぬるれ わたつみの 龍のみやこの みゆき思へば」

との歌を奉献なさいました。

このゆかりをかしこみ奉りて、昭和23年、世界唯一の竜宮造りにご造営

同年四月七日、昭和天皇皇后両陛下が神宮に御参拝、お通り始めを行われました。

その時の御製一首

 「みなそこに しづみ給ひし 遠つ祖を 悲しとぞ思ふ 書見るたびに」


御祭神安徳天皇は水天皇大神とたたえ奉り、

徳富蘇峰がこの奉建に際して

 「玉体を水底に鎮め給ひしも、御霊は天上にお在しまさば、

  此の神門を『水天門』と申し奉る所以なり」とせられたり。

その結構は壮麗雄大にして、古今無比、他に類例がなく将に天下第一の観たり

天忠宿のコゲ亭主
天忠宿のコゲ亭主





























天忠宿のコゲ亭主































800年前の昔、源平合戦の壇之浦の戦いで、

安徳天皇はわずか八歳にして、平家一門とともに壇之浦の海に崩じられ給うや

赤間関石山麓阿弥陀寺境内に奉葬し

建久二年(1191)、朝廷は長門の国に詔して、御陵上に御影堂を建立

建礼門院御乳母の女 少将の局命阿尼をして奉侍の上

勅願寺として長く天皇のご冥福を祈らしめ給う。

明治維新にいたって阿弥陀寺を廃し、御影堂を改めて天皇社と称せられ

明治八年勅命をもって官幣中社に列し、

地名により社号を赤間宮と定められ、社殿を造営せられる。
天忠宿のコゲ亭主


























天忠宿のコゲ亭主


























今、おりしもNHKの日曜日の連続ドラマで平家のことが取り上げられています。

栄枯盛衰、栄華を極めた平家一門も

五年にわたる源平の争乱(知承・寿永の乱)で

源義経らの活躍によって壇ノ浦まで追い詰められ、平家一門は壇ノ浦に入水して果て、

わずか20年余でその夢も破れたのでした。


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天忠宿のコゲ亭主
天忠宿のコゲ亭主





























天忠宿のコゲ亭主











































下関市中之町に鎮座なされている亀山八幡宮。
御祭神は
応神天皇、神功皇后、仲哀天皇、仁徳天皇。
平安時代の貞観元年(859)、
八幡神が大分の宇佐神宮から京都の石清水八幡宮に勧請される途次、
当時島だった亀山の麓に船を繋がれた。
その夜、
「此の山清浄なり、しばらく祭祀し奉りて路を進むべし」との神託により、
勅使は国主に命じて宮殿を造営させた。
以来、朝廷・大内・毛利藩主の崇敬厚く、
下関六十ヵ町の氏神、
「関の氏神」として奉斎されている。(「亀山八幡宮 略記」より)
天忠宿のコゲ亭主





























天忠宿のコゲ亭主






























世界一の「ふくの像」
河豚と福、きっと福を・幸せをもたらせてくれるのでしょう。
天忠宿のコゲ亭主










































天忠宿のコゲ亭主






























討幕への動き
桜田門外の変以後の政情は急速に幕府瓦解への道を進んだ。
京都は尊攘運動の中心となっていた。
長州藩は公武合体派の薩摩をおさえ、
三条実美らの公卿と結んで朝廷に働きかけ、
将軍の上洛と、攘夷の決行とを幕府に迫った。
幕府はやむを得ず家茂が上洛し、
文久三年(1863)五月十日を期して攘夷を決行する旨を諸藩に命じた。
当日、長州藩は下関海峡を通過する外国船に砲撃し(長州藩外国船砲撃事件)
攘夷を決行した。(「明成社版教科書「最新日本史」より)
この時に攘夷を決行したのは長州藩だけでした。

この攘夷運動には、天誅(忠)組の主将になる中山忠光公も参加していたのですが、
最期の結果を見ることなしに下関を後にします。
八月十八日の政変後、
幕府は諸藩に命じて元治元年(1864)八月に第一次長州征伐を起こします。
その時長州では先の外国船砲撃事件の報復として
英・米・仏・蘭の四国連合艦隊に攻撃されているときでした。
長州藩は、幕府に恭順の意を表し、尊攘派の弾圧を進めたので、
戦火を交えることなく長州藩は降伏します。
天忠宿のコゲ亭主

下関海峡です。
向こうに見える山は九州です。
この狭い海峡から四国連合連隊が砲撃をしたのです。
案内板には、
藩主は、亀山八幡宮に夷敵降伏の祈願をしたところ、
敵の弾は楼門をかすめただけで社殿、守兵とも損傷なく
時の人はこれを神威なりと
矢よけ八幡宮と称えたと書かれてありました。

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