• 17 Aug
    • file158 キツイ波を乗り越えた自覚が、自信になる<体験>

       本日、2017.8.17から、前1週間ほどは、私の住む神奈川県では、非常に気温が低くなり、雨が続きました。  そのような気象条件は、普通に体調を崩しやすくなるものです。  そういう時に、減薬を進めることは、当然ですが、もっと心身が不安定になりやすいものですから、離脱症状と呼ばれるものに翻弄されやすくなります。  それは、非常に実感しました。  しかし、今日は、天気が少しずつ、回復しました。  それと同時に、近所の緑の多い公園に足を運び、歩行瞑想を15-25分ほど行いました。  また、雨の時は乗れなかった、自転車に乗って、気分を変えました。  ここで、スイッチが非常に明確に切り替わった気がします。  気象を読むことは、生物にとって、非常に重要なことです。  当然、人間にとってもそうです。  ここ1週間ほど、ムクドリ(よくいる鳥の一種です)を普段見ない場所で大量に集まっていたりするのが見られたりして、何となく変な感じでした。  薬を減らす時も、そのような視点をもつことは、重要です。    天気が安定している時が、一番踏み込みやすく、普通の人にも苦痛である不安定な天気では、薬を減らすことが、負担になる事は多い傾向があると一般論ですが思います。  さらに、それと、自分をコントロールする、いたずらに、そのキツイさなかに自分を責めたり、怒りにはまり込んだりしないように、モニターできるようになっていることで、辛い時も乗り越えやすくなると思います。(それは増減を調整してでも、乗り越えると言うことで、我慢することではありません)  上記体験は、私の、一つのデータとなります。  また、次に同様なことが起きそうな時、早めに薬を飲むなり、「備える」こともできます。  そのさじ加減が分かってくると、主体的に、薬を減らしているという、満足感が出てきます。  そのためには、気象状況も含めて、いろんなことを見ておくことは必要だと思いました。 リボトリール減薬についてはこちらでも書いています ↓ file157 リボトリール減薬と離脱症状で陥りがちな状況とその対処  

      51
      テーマ:
  • 16 Aug
    • file157 リボトリール減薬と離脱症状で陥りがちな状況とその対処

      ベンゾジアゼピン系の薬である、リボトリールやランドセン(ジアゼパム)を減らすのは、人によって、大変な場合があると、医師から言われています。 私も、なんだかんだで、余力がある時は、減らすチャレンジをしています。 うまくいかない時は、薬由来の、身体的、精神的苦痛とその解釈それをどう受け止め、対処するかと言うことを明確に、できていないことが多いです。 陥りがちなことを、体験的にあげてみます。 <我慢すべきである>思考  薬を減らすと、不眠症状が出たり、苛立ちやすくなったり、刺激に反応しやすくなったり、筋肉が痛くなったりします。  これはよく知られていますが、どうしたらいいのかと言うことです。  この苦痛実際は、よく観察すると、4つに分けると、下記のようになります。    a 実は、心身に変化が起きているが、「全く気にならない」状態  b 心身に変化が起きているが、苦痛が小さく、「それほど気にならない」状態。  c 心身に変化が起きていて、自覚できているが、苦痛が大きく、「強い我慢が必要な」状態。  d 心身の変化が起きていて、「自覚できず」「我慢が大きく」、苦痛が大きくい状態  主観的な苦痛としてはa→b→c→dの順で大きくなります。  私の体験的には、Cの状態になったら→我慢せずに「薬を飲む」のが、楽です。  相当、苦しいのは、Cの状態なのに、踏ん張ろうとすることです。  さらに苦痛なのは、dです。  「自覚できず」「苦痛を我慢している」状態です。  abcd各段階は、減らして始めてどれくらいで、その状況になるかは分かりませんが、薬の量、速度、種類、天候、季節、体質、自分への自信いろんな要素で変わってくると思います。万人に共通する、画一的な、ルールというのは、無いのではないかと思います。  一番、よくないのは、cの状態に、はまり込むことです。  もっと言えば、cの状態であり、自覚が薄い時がもっとも辛いです。これが「d」にあたります。  気づいてないのです。  実際は、「減薬に伴う苦痛感を我慢すべきだ」とどこかの瞬間で主観的に捉えた時点で、かなりのの苦痛が生じているのです。  なぜなら「ab」のように、苦痛が自覚できているが、小さくて、気にならない段階もあるからです。  abの状態をうまく維持する力が付けば、薬を減らすのに余計な恐怖心は少なくとも減ります。  そして、時間がかかっても「楽に減らせる」という、嬉しいおまけが付いてきます。  そのおまけが欲しい場合、、cになった時点で、「減らすべきだ」「これぐらいの我慢すべきだ」という、ルールを課すことに、ほとんど有益性はありません。  むしろ、そのルールと自分の体験の狭間で消耗していくと思います。  これくらい、我慢できるはずだ、というルールには、実は根拠がないのです。  我慢が必要なくらい、辛い状態になっている現実がすでに生じているのです。   c段階に来ていることを教えてくれているのですから、それに従って薬を飲むのが、正解だと思います。  「ここまで(数日、前回は、他人は…)できたから次はこれくらい減らせるはずだ」というのは、どこに根拠があるんでしょうか?  実は、ほとんど根拠はないんです。  創作物だと思います。  むしろ、キツイ状態になっている自分をよく理解して、折角の実感を活用していく方が、楽に物事を達成する近道だと思います。    そこで、コントロールできないと、自分もそうですが、dの段階に突入していきます。    もちろん、d→c→b→aと戻ってくることもできます。    それには、自分の状況を、定期的に、モニターする癖と、方法が必要です。  それに利用しているが、瞑想体験です。    やっていると、どの段階にあるのか、分かることが増えてきます。l  うまく使えば、減薬それ自体が、成長と、自分の苦労を減らす実践になり得るのです。   気象と減薬と離脱症状については、こちらもどうぞ ↓ file158 キツイ波を乗り越えた自覚が、自信になる<体験>

      29
      テーマ:
  • 14 Aug
    • file155 うつ病・不安障害は、他者に共感してもらえると、抜け出しやすい(いい縁)

       うつ病や、不安障害とになってしまう人は、ほとんど幼少期に、いろんな家族以内の問題を抱えていることが多いようです。  親、お酒、アルコール、ネグレクト、身体、言語の暴力、不合理なローカルルールなどの中で、育ったことがよく見られます。  私自身も、そのような中で、育ちましたので、理論としてのアダルトチルドレンの話などを学ぶと、とても共感できるものがあります。  「気づきの瞑想」の指導を受ける前に、そのような個人的な問題に、個別に面談を通じてお話をする機会がありました。  その時に、私の話に、その方はとても共感してくれたという経験があります。  それが、「過去の苦労を認めてもらえて」それを前提として、それでも「現在の自分の苦労(すべき思考から始まる認知の歪み、感情の問題)については、「自分で解決可能である」という、ことを教えてもらえました。  2回ほど、面談の機会をもちました、それからは、瞑想の実践を通じたり、本を読んだり、現実の行動を通じて、自分の意識を変えていくことに専念するようになりました。  やっぱり、「過去の自分に共感してもらえた」→「それは子供のあなたは、混乱してもっともであるよね!」と認めてもらえたのは、非常に大きい体験でした。  それプラス、現実の自分を変えることに、自分で責任を持つことができることを、学び始めたのは大きかったと思います。  そのような、いい縁を持てることを、今苦しんでいる、気分障害の方にも、私は願っています。

      30
      テーマ:
  • 13 Aug
    • file154 完璧主義をやめるには「イメージ通りでなくても実行する」という方法も一法

       完璧主義というのは、自分を責め立てる、一つのってもやっかいなルールです。  これが、自分を苦しることは、よく聞くところです。  私自身も、まだまだでありながら、その克服はかなり進んでいます。  なぜなら、不完全でも、実行(アクション)していることが増えているからです。  それは、私にとっては、理想的な状態ではありませんが、実行することはできます。(多少の勇気、不快感が必要です)  実行すると、結果が付いてきます。  中途半端な実行であっても、それなりの結果が付いてくることが分かると、それを「時間」をかけ、「回数」を重ねることで、逆説的ですが、理想のイメージに近づくのが早いのです。  完璧主義(完全主義)の人は、頭の中の理想と、自分の活動が一致していないと、動いてはいけないルールがあるように見えます。  頭の中の理想は、誰が決めたのでしょうか?  他人がそれくらいできるから、同年代の人、仲間ができるから、ネットでは軽々やっている記事が書いてあるから、「自分もそれくらいできなければならない」というのが、理想を作り上げます。  しかし、それは、単なる創作のイメージであって、その周りの人や、同年代の人、ネットで軽々やっているように「見える」人も、別に、それほど最初から、軽々できたわけではないかもしれないのです。  要するに、程度の低いものを積み上げて、磨き上げるという方法もあるわけです。  完全主義の人は、失敗という一時的な概念に、強い拒否感や、恐怖感を味わいがちで、それを恐れています。  私の体験的には、そこを乗り越えられると、楽になります。  何でもいいので、「あなたが」やってみたいこと、「あなたの」体験として有意義そうなことに「着手」してみることが重要です。  あなたの想定している、「イメージ通りのタイミングと、チャンス」は、永遠に来ないかもしれません。  それならば、イメージ通りでなくても、その1/100であっても、やってみることができるようになると、楽になります。 <こちらの記事も完全主義について別角度から書いてます>  file134 完全(完璧)主義を手放すには   https://ameblo.jp/feeling-goodmood/entry-12289334198.html  

      13
      テーマ:
  • 10 Aug
    • file153 あなたは、何を手放しますか?

       私たちは、体が一つしかありません。    いろんなことを考えることはできますが、時間を今に限れば、やれることは、一つなのです。    その一つを行うためには、その他のことは、一度手放さなくてはなりません。  そこで、あれもこれもやろうとすると、行動に決着が付けられなくなり、不完全燃焼を起こして、充足感を味わえなくなります。  掃除機をかけながら、床を拭こうとするようなものです。  掃除機をかけてから、床を拭くことは、時間をかければ出来ます。  しかし、同時実行は、一人では無理です。  掃除機をかけている時に、床を拭こうとしようとしたら、掃除機すら満足にかけられなくなります。  これは、単純な例です。  しかし、実際、病気で苦しんでいる場合には、とてつもなく大きなものに、しがみついているのではないかと思うのです。  あなたをよく知る人からしたら、なぜ、あなたがそのようなものにしがみついているのかを、理解できないかもしれません。    そのような不可解なことが起きるかというと、あなたが、もっと力があることを、あなた自身が気づいていないからだと思います。  認知療法的に言えば、「自己評価が間違っている」、ということです。  下げすぎているのです。二流だと思っているわけです。  下げているのは、手放せない何かがあるんだと思います。  私が好きな質問の一つに「あなたが今、手放すとしたら、何を一番手放したいか?」という、質問があります。  これは、【すべきである】という単なる理念と、あなたが【したい】という尊重される意欲を明確にしてくれる、いい質問ではないかと思います。  地位、給与量、賃金、名誉、体験、評価、他人との比較、もの、知識、学歴、名誉、承認、完璧さ、愛情、優しさ、業績、栄光、様々なものが手放せると思います。  それを手放すことで、楽に生きられるなら、それが今一番大切なことだと思います。  環境を手放したら、新しい環境が、流れ込んできます。    全てを同時にもつことが無理であれば、どれを手放すのかを考える方が、迷わず、進めると思います。  迷っている状態が、一番苦しいと思うのです        

      51
      テーマ:
  • 08 Aug
    • file152 できないことを、やろうとするから苦しむ。(するべきだ思考)

       最近、他の方の病気の方のブログをよく読むようにしています。  自分の体験も併せて感じることは、標記のような、ことです。  「私は」  どうしちゃったんだろう。  気持ちが乗らない、意欲が出ない、ぐるぐる考えている。  会社に行きたくない。  仕事をしたくない。  苛立つ、腹立つ、情けない…。  いろんな表現で、多くの方の、いろんな苦労があります。  ここまで、他の方の日記や苦労を知る機会というのは、ブログなどで表現していただけなければ、およそなかなか普通の人は知ることができなかっただろうと私は考えます。   困っているひとって、こんなに、苦痛を感じているのだと、自分の苦難だけでなく他の方の苦難を知ることができる、現代の情報環境に驚くこともあります。  昔は、そんなに他人の内面を知る機会に恵まれているひとは、少なかったのではないかと思います。  ブログでは、宣伝や、広告、営業などの記事も多いですが、「体験談」「日記」の方が私には、貴重です。  ざーっと、拝見していくと、苦しんでいるひとの傾向というのがいくつか見えてきます。  「私は、こんなことになるはずではなかった」と言うことで苦しんでいるのではないかと思う節があります。  しかし、それは、誤解を恐れずに言えば、単に「できないことをやろうとして苦しんでいる」だけであり、 「私にはできるはずだ」「私はできなければならない」という、暗黙の仮定があるように見えます。  できることが他人より少なかったとして、それが、不幸なんでしょうか?  確かに、いろんなことが、どんどんできるようになって、結果も出せて、優れていたら、幸せになれるのかもしれません。  しかし、そのできるできない、ということ以上に「できるはずだ」という前提との葛藤で苦しんでいるように感じるのです。  他の方ができることが、自分には出来ないことなんて、どんな人でも、いくつでもあります。  それを、「ああ自分は苦手なんだな」と捉えて、「私それ苦手なんで」というスタンスを取る方が、自他共にわかりやすいと思うのです。  そこに、理念として、「できるはずだ」というルールを課すことが、自分を楽にさせるのであれば、良いでしょうが、逆に苦しむのではないかと思うのです。  いいじゃないでしょうか? 子育て苦手、仕事苦手、介護苦手、対人関係緊張だったとしても、それには生れてこの方の、その方独自の人生の中で、それなりの適当な理由があって、そうなったわけで、今ここでできることは、そんなに多くないのではないかと思うのです。  だから、できないなら、できないなりに、自分が自他に役に立つことを、探してやっていれば、自分がまず満足できると、私は考えています。     

      41
      テーマ:
  • 07 Aug
    •  file151 リボトリール(ランドセン)の5割減薬という結果(瞑想実践)

       ベンゾジアゼピン系の薬であるリボトリール(ランドセン)を、瞑想を習ってから、減らしています。 その記事はこちら。 ↓ file141 減薬の離脱症状を乗り越えられる(リボトリール・ランドセン) https://ameblo.jp/feeling-goodmood/entry-12296620762.html もう2週間ほど経ちます。 もう何年も飲んでいる薬であり、減らすたびに、不快なことが起きたり、情緒不安定になったりで、データとったり、悪戦苦闘して、仕事中も大変でした。 しかし、上記瞑想を行うようになって、離脱症状と呼ばれる、 不眠、不快、筋肉のこわばり、痛み、現実感の喪失などが起きても、 「ぶれなくなった」という感じがします。  また、適度に量を戻したり、減らしたりを適宜できるような、余裕があることに、気づきました。  先日、上記記事を書いた時に、もう、何かを達成したような気持ちになっていましたが。  実際、2週間ほど経過して、改めて、自分が減薬に耐えられる、力を身につけたと、 その瞑想・実践の結果を、しっかり喜ぶ、認めることを忘れていました。    自分でも、よくやったと思います。    ある種の頑丈さを身につけたと言っても良いかもしれません。    妻からも、ほとんど傍目には、薬を減らしていると分からなかったと言われました。  自分がこの減薬5割(リボトリール0.5mg→0.25mg)で、感じたことは、筋肉のこわばり、顎の痛み、クビの痛み、びりびりする感じ、そわそわする感じ、寝不足感、易刺激性らしきものがありました。  私が、とにかく実践したことは、可能な限り、気づきの瞑想(チャルーン・サティ)を、こまめに行いました。  具体的には、できる時間があれば1時間から2時間に一回、5~10分をくり返しました。  その時には、いろんな体験がありましたが、離脱症状も感じていたように思えますし、今のそうあるのかもしれません。  しかし、それで、いたずらに、慌てなくなった、恐怖に思わなくなった、薬のせいだと決めつけなくなった、ことが大きいと思います。  「痛み・寝不足・不快感・しびれ感」を可能な限り、受け入れたり、認めてあげたりしながら、生活の中でも気づきを大切にしようとしました。  これは、とても大きな成果です。  まだ、リボトリール0.25mgのほかにも、ベンゾジアゼピンの睡眠薬(ロヒプノール1.5mg)があります。  それでも、行けるような気がします。  そレは、チャレンジしがいがあるものとも言えます。  言い換えれば、その間は何も生産的でなかったとしても、、薬を減らせたと言うことが、一つのライフイベントですらあるのです。  飲まなくなれば、薬代はかからないし、体は健康になりつつあるし、肝臓だって、楽になるでしょう。  大切なことを見落としていました。 amazon↓      実践!マインドフルネス: 今この瞬間に気づき青空を感じるレッスン

      28
      テーマ:
  • 06 Aug
    • file150 苦しい時、「あなたは〇〇するべきだ」回路が動いている<体験>

      file150 苦しい時、「あなたは〇〇するべきだ」回路が動いている<体験>  瞑想を行っている時に、チャルーン・サティでは、 基本的には、ラベリングをしないで行うように指導があります。  瞑想中に起きる、自分の思考(ことば・おしゃべり)を「雑念」「妄想」という、言葉で処理しないで、ただ受け止めて、今に戻ると言うことです。  そのようなことを続けていたところ、「何かしら、不快な感覚とか、自分の心身に生じている何か動きなようなものを感じる」ことが増えてきました。  擬態的に表現すれば、「ぴりぴり」「ずーん」「きゅーっと」というような重苦しい、 自分の中で生じる何かの刺激です。  これらをはっきり確認できた時に、その上記表現されているものが「苦」であるとしたら 、それがどこから由来しているのかを、観るように努力するコツが分かってきました。  寝不足、二度寝、運動しすぎ、活動しすぎ、減薬の影響、気遣いのしすぎ、 自分を無視した活動といったような、ことが、今現在感じている、生々しい上記情動、感覚なのだろうと、思えると、気持ちがほっとするように感じます。  ここで、自分を責めるのでもなく、状況として、自分に起きていることを瞑想中に、 理解することができます。  そうすると、その自分を出発点として、「今日は、休息とろう」 「次回から人間関係で、工夫をしよう」「次回、同じ轍を踏まないようにしよう」といった、次への具体的展開が分かってくることが増えました。  以前だったら、 「何でこんなこともできないのだろう?(=自分はこんなことでは、疲れない強い人間であるべきだ)」といった、自責感が強く出てしまいました。    そっちにベクトルを向けてしまうと、自分が苦しい。  そこが、最近少しづつ、体験と、実践的に、できるようになってきた気がします。  上記、「ぴりぴり」「ずーん」「きゅーっと」というような重苦しい、自分の中で生じる何かの刺激というのは、私なりに一言で言えば「あなたは〇〇すべきだ思考の回路」が回ってしまっている状態のよう自己理解しています。   amazon↓     実践!マインドフルネス: 今この瞬間に気づき青空を感じるレッスン

      29
      テーマ:
  • 05 Aug
    • file149 強い感情、情動が収まるのを「まつ」という主体的体験《瞑想》

      file149 強い感情、情動が収まるのを「まつ」という主体的体験《瞑想》 「気づきの瞑想」を、一月以上、折に触れて行っています。  一度5分くらい、時間あればそれを2セットやってみたりしています。 いろんな体験をしながらも、「自分に起きている出来事を、明確にそのまま感じ、気づく」という作業をすると、自分の中で思考、感情、感覚などが、動いているというものが見える時があります。 それは、「今、ここ、自分」という体験から外れてしまうことに、ちゃんと気づいた時に分かります。 そういう体験をする中で、自分は、こんなに「強い感情・情動」があったんだ、ということを理解する瞬間も増えてきました。 喜びも、悲しみも、どちらも、あまりにも強すぎると、手に負えない感じがして、圧倒されてしまったり、手放したくないと、しがみつこうとして、ぐるぐるしてしまうこともあります。 その時に、「肯定も否定もしないで、収まるのをまってあげる」という、主体的な「不作為」体験が、有効であることも分かりました。 これは、下記本の中で、瞑想の章があるのですが、そこでも注意事項として書いてあったので、ふと思い出してやってみました。 何か喜び、悲しみ、強い情動体験というのは、なんとかしたいと慌てていたように感じます。 というか、その状態に自分があることすら気づいていなかったんだと、瞑想中に思いました。 一日の終わりに、いろんな気づきをまとめていますが、「新しく言語化できるようにもなってくる」ところが、面白さでもあるように思います。 それと、日常の中で、応用することの重要性と、難しさ、応用できている時の充実感が瞑想の実践を支えています。 是非直接ご指導を受けたり、本から学んだり、なさってみると、不安障害、うつ病の方などには役立つように思えます。 苦しまなくて、いいんだよ。

    • file148 今の住まいは、心身を健康にしてくれてますか?【すむだけで健康に】

       先日、自然の多い、那須塩原市に旅行に行ってきました。  2泊の予定でしたが、仕事がお休みなので、4泊まで延長してしまいました。  投宿して、暫く休んでから、外に散歩に行きました。  田んぼや、広々とした風景、土の臭い、適度な湿度に体が「ほっとする」ことを強く実感しました。  なので、自分の直感に従って、1日泊追加、もう1泊追加して、  近所を朝から、歩き回ったり、近所の定食屋でご飯食べたり、 部屋で涼んだり、駅の待合室でだらだらしたりしました。  体が何もしなくても、喜んでいるようでした。(ただ、お酒を飲んだ初日だけは、ダルくなりました)  帰京して、今の住ま井は、とても窮屈だなと感じるようになりました。  そこで、電動アシスト自転車を思い切って買ったので、とにかく自宅から、行ける場所を、自転車での走ってみることにしました。(そこで、自分に合った場所があるかもしれない、と、探しに行きました。)  すると、10年くらいすんでいる今の住居から、数キロ範囲に、いろんな場所があり、走っている時に、 「ああ、こういうところだと体が楽だなぁ」という、場所がいくつか出てきました。  やはり、緑が多くて、平坦で、人口密度が少ない場所でした。  畑も多い感じです。  そこに住むだけで、病気を治すだけでなく、さらに元気になっていき、薬の減薬も楽にできそうだなと感じました。  実際、減薬で、今離脱症状が出ていますが、そういう場所を自転車で通過していると、  顎のこわばりとかが、「すーっと」引いていくのです。  さっきまで、あんなにこわばっていたのに、急にどうしたんだろうと思いました。  これは実感です。  とはいえ、すぐに引っ越せるわけでも、妻の仕事の通勤距離や、私の通勤の問題もありますので、私の一存では決められないことです。  しかし、大切なのは、さらにその体験を、しっかり相手に伝えることです。  「こういうことをしてみて、自分の体に良さそうだ」  「こう言う場所で住みたい、自分にとって良い環境とは何か?」  「それは1年だけすんでみたって良いのです」  「結構、会社にいると、一年以内で引っ越す人だっているよ」、と妻は言っていました。  私が、今病気や、離脱症状で苦しんでいる人がいたら、住環境、ご自身に会った場所に住めば、それだけで、減薬はしやすく、健康になりやすい場所があるという可能性を感じるのです。    地の利を活かすことは、我儘でも何でもありません。  自分という、一つの生命を全うする上で、とても重要なことです。  何かの本で、「魚が、きれいな水を求めるのは、我儘でも、エゴでもありません」当然の欲求です。  という趣旨の文書がありましたが、それを自分に認めることが、とても大切だと私は感じました。 アマゾン 心を整える8つの脳開発プログラム 電動アシスト自転車;はこういうタイプのものを使っています。パナソニック 電動自転車 Panasonic(パナソニック) 2017年モデル ジェッター BE-ELHC44-N(フレームサイズ440mm) カラー:マットクラウディグレー 電動アシスト自転車 専用充電器付   など付けると、非常に、格好は悪いですが、荷物を背負わず便利です。 Panasonic(パナソニック) ジェッター/ラスティック/リトルビー/ハリヤ(2014年以降モデル)用 フロントバスケット NCB1853S

      11
      3
      テーマ:
  • 03 Aug
    • file147 「今、ここで、【私は】」 に、戻ること。  

      file147 「今、ここで、【私は】」 に、戻ること。    私は、瞑想を行っている時、「今ここにあらず」になってしまいます。    その時、手動瞑想であれば、【今ここの手】に、戻ることが出来ます。  そういう体験を、何度も続けている時に、「私」という、キーワードがわいてきました。  その時に、久しぶりに、熊野宏昭著による、下記本を思い出しました。     マインドフルネスそしてACTへ 二十一世紀の自分探しプロジェクト 単行本(ソフトカバー) – 2011/10/5 熊野 宏昭  (著) マインドフルネスそしてACTへ 二十一世紀の自分探しプロジェクト  これは、私が、興味を持って読んでいた本です。  薄い本ですが、とても面白く、本質的なことが書いてあるように、私は感じます。  この中で、「自分の視点というものが」常に、日本語では、省略されますが、「私は、今、ここで、○○がしたい」という、言語(表現)活動を通じて、自分の視点を作り上げてくると書いてあります。  それは、幼児であっても、大人であっても、表現されなくても「私は、今、ここで…。」と自分の欲求を明確にします。  反対に、他者(自分以外のもの)については、「あなたは、その時、あそこで」という、表現を用いて、他者(あなた)の視点を理解する。  つまりこれは、仮説ですが、 1 「私は、今、ここで」→自分の視点 2 「あなたは、その時、あそこで」→他者の視点 という一般的な視点を獲得していくという、理論があるようです。(行動分析学の立場)  これを活用した、自閉症の方へのプログラムがあるようです。  私が、これを読んで思うのは、不安障害、うつ病となる人は、自分という感覚が、明確ではないかもしれないという気がするのです。私の体験を大きく含みます。  自分に気づくと言うことは、「今、ここの、【自分】の手」を自覚する。  ということも含みます。  自分、私、俺、 という、主語が、日本語では表現されないことが多いですが、英語では、かなり使われます。  表現されないけれども、健康人は【自分】【私】という主語が明確に入っているのです。  病気になりやすい人は、主語が、曖昧で、自分の考えなのか、他人の考えなのかが、ぼんやりしていて、他者のルールなのか、自分の意欲なのかが、よく分からなくなっているのではないかと、言う、自分の体験を通じての考察があります。  例えば、【すべきである】という、認知療法における、すべき思考があります。  私は、仕事をすべきである。  私は、仕事をすべきではない。  私は、遊びに行くべきである。  私は、遊びに行くべきではない。  この日本語に違和感があるのが、普通ではないかと私は、感じるようになりました。  文語の助動詞べしの活用形である 「す(る)べき」というのは、ルール・義務・命令であり、主語は「あなた」「おまえ」「あんた」であるのが収まりが良いのです。  おまえは、○○すべきである。  あなたは、○○すべきである。  あんたは、○○すべきではない。  という使われ方が、収まりがよいとかんじます。・  もし、自分の思考の中に、「すべきである」というものがあったら、その主語は、「あなた」であるのではないかと思うのです。  なぜ、自分の中で「あなたは、○○すべきだ」という言い方になるのかが、とても重要であるように私は感じます。  これは、不安障害、うつ病になりやすい人に、「自分」という視点が弱いからという、私の推測があります。  これ以上は混乱の下になるので、また書く予定ですが、言葉の問題ですが、その背後にある、「自分とは何か」という、基本的な自己理解の程度が、健康な人とちょっと違うのかもしれないと私は、思うのです。  瞑想、こころが彷徨ったら、「今、ここ、私」に戻るように心がけています。  ツイッターを見ると、英語と日本語で、私とIの使われる量が違うことがよく分かります。  米大統領 トランプ氏  https://twitter.com/realdonaldtrump  日本総理大臣 安倍氏  https://twitter.com/abeshinzo?lang=ja    

      5
      テーマ:
  • 02 Aug
    • file146 気づく→嬉しい→手放す(私見)

      file146 気づく→嬉しい→手放す(私見)  「気づきの瞑想」を行っていて、感想を録音したりしてます。  一人での旅行先で、散歩と瞑想をしていた時に、  夕暮れ時に歩きながら録音していたことで、忘れていたことがあったので、 再度書いておこうと思いました。  手を動かす、足を動かすと言うことに、気づける、そして、感情、思考、感覚などが生れていることにもし っかり気づけることがあります。そう意識しています。  その時に、私なりに言えば、「嬉しい!」という感情が生じます。  「気づけた」ことに対する、喜びのようなものです。  しかし、それを、「しっかり手放さないと、苦しくなる」という、言葉にしがたい体験があります。  一回一回の動作で、気づけると、嬉しい、けれども、それを握りしめていると、次の新鮮な喜びに、 出会えなくなってしまうのです。  これは、私だけの独特な感想かもしれません。  喜びという感情は、非常に、単純で、「うまくいった」とか「できた」とか、「成功した」とか、「合格した 」と言う時に、必ず生じる快感のようなものです。  それをことさら、自分が手放していないと言う出来事を、すっかり忘れていました。  瞑想時に、できるようになれば、複雑な日常の中でも、活かせる可能性があります。   味噌汁を作る時、    味噌汁の味噌を溶く→確認する→嬉しい→それを手放す  としたいわけです。  また、一つの文章を作った→自覚→嬉しい→それを手放す  これが、一日が終わった→確認する→生きててよかった→嬉しい→それを手放す  ということをおおきなスケールにしたいのです。  逆に、手放せないとどうなるかというと、苦痛になります。  あの「過去(1秒前、10分前、1日前)の喜び」を味わいたい、味わい続けたい。  というのは、不可能なことです。新しく同じような、喜びに出会える可能性はありますが、   それは、過去のものと同じではないのです。  新しい、「過去に似た」「新しい」喜びです。    生れてきた喜びを手放すことが苦手なのは、私の育った環境に理由があるのかもしれません。  file137でも書いています。 http://ameblo.jp/feeling-goodmood/entry-12295407328.html  

  • 01 Aug
    • file145 全くの「無駄」なんて、ないのでは?

      file145 全くの「無駄」なんて、ないのでは?  世の中には、いろんな仕事があり、いろんな才能があり、特性がある人がいます。  お金を稼ぐ人、病気を治す人、事務仕事の人、他人を理解する力が強い人、弱い人。  Aさんには、得意なことが、Bさんには苦手であり、その逆もあります。  全てを完全にできる人間というのが存在しないということに理解が及べば、 どんな仕事や、役割にも、無駄という考え方はなり立たないと思うのです。    言い換えれば、「○○は全くの無駄である」ということを主張する人は、 その○○をやることの意味を見いだしていないだけで、 その主張する方にとって意味を見いだせてないだけだと思うのです。  結局、「無駄」であるということは、その人がやりたくないだけで、そのことは尊重されるべきですが、他 人に押しつけるものではありません。  私はやりたくない、やりたい人の気持ちが分からないというのが、正確なところなのかもしれなせん。  私が、接してきたいろんな病気の方には、多様な方がいました。    決まり切った仕事が好きな人、それでないと落ち着かない人、細かいことなんてどうでも良い、ダイナミッ クに動きたい人、それでないとストレスを感じる人、言葉の悪い人、言葉のいい人…、 それらの人は全て「人間である」という観点からすれば、 優れているとか、劣っているとかいうことはできないと感じるようになりました。  全ての人が、得意な部分を活かしていけることが大切ですし、 それを「良い」とか、「悪い」とか「無駄だとか「無駄でない」とか言ってしまう、 そういう文脈(ものの捉え方)こそ修正が必要なのではないかと、 瞑想の実践を通じて思うようになりました。 みんな頑張って生きているのです。  

      6
      テーマ:
  • 30 Jul
    • file144 「気づき」とは何か?その効用。

      file144 「気づき」とは何か?その効用。 気づきの瞑想(チャルーン・サティ)を実践して一月、気づきとは何か? ということに洞察を深めていく機会は無数にあります。  手の動き、足の動き、に気づきを維持するというのは、難しいことです。  どうしても、こころが、さまよい始めます。  (これが彷徨わないという場合、逆に、何かに固執している可能性があると、私の体験的には思います)。  感覚、感情、思考、将来、未来、アイデア、様々な意識活動が始まることを自覚できます。    それらは、否定することでも、肯定することでもない、、反対でも賛成でもない、評価しない、 「ちゃんと今起きていることを認めて、次に、今の手の動き、足の動きに意識を持っていくことをくり返します。  「何度でもさまよい、何度でも戻る」ということは、さまよっている自分に気づき、 「はっ」として、戻ろうとする自分に気づくということです。  これは、私見ですが「気づく」というのは、感覚でも感情でも、思考でも肉体反応でもないように思えます。  しいていえば「現在の自分をモニター(明確に観る)しようとする精神活動」という感じになります。  現在の自分の活動(生命の営み)を、さらに、モニターするというのは、非常に不思議なものだと思います。  「自分は悩んでいる」から、それが紛れもない自分である。と考えていた時代は長かったです。  しかし、その悩んでいる自分をさらにモニターすることができるということは、  その悩みは本当なのか?という、疑問が起きてきます。  その悩みは、単なる、思考とか感情の塊であって、自分の一部に過ぎないのではないかと、 何度も瞑想を練習していると思ってくるようになりました。    それと同時に、自分が元気になってくることに驚きました。   

  • 29 Jul
    • file143 完璧主義をやめるためには(成果より過程への「気づき」)

      file143 完璧主義をやめるためには(成果より過程への「気づき」)  認知療法の中核信念の一つに「完璧主義」があります。  『いやな気分よさようなら』(星和書店・ 野村総一郎訳)の中でも、一章を割いて、   の攻略方法が書いてあります。  手動瞑想(チャルーンサティ)を学び、実践するようになって「気づき」という観点から、 物事を捉える努力をするようになりました。  私自身、完璧主義な側面が、まだまだあります。  しかし、「気づき」をもって生きている時は、楽しい、ということが分かってくると いろんな変化があります。  1 結果を出すことより、やっていることに常に、「気づき」を維持することを目標とするようになる。  2 やっていることに「気づき」を維持するというのは、想像するほど簡単ではない。  3 その「気づき」を維持するという、精神活動は、ベースは瞑想にある。  4 ものごとの過程に、「気づき」を維持することができると、 結果がどうあれ、満足した営みがおくることができることを知る。    といったような、ことが分かってきます。  上記本の中で、私が一番印象的なのは、「完璧にやりたいという、欲求の背後には恐怖がある」ということです。  なので、CBTでは、反応妨害法などを行うことで、攻略します。  気づきという点では、料理を作っている時に、洗濯のことを考えたり、洗濯の時に、買い物のことを考えるというのでは、 「今ここ」にあらずです。  そう分かったら、目の前の、料理、その中でも「野菜を切る今!」に意識を戻すことができれば、非常に充実した料理タイムになります。  これは、全て、実践を通じて完璧主義をやめる方法です。  完璧にやりたい(結果を多く出したい)という衝動より、今ここの作業をまず完成させること、気づきをしっかり維持することができるようになれば、完璧さが文字通り、幻想であったことが分かるのです。    ブログの最新情報が知りたければ、ぜひツイッターをフォローしてください。

      10
      テーマ:
  • 28 Jul
    • file141 減薬の離脱症状を乗り越えられる(リボトリール・ランドセン)

      file141 減薬の離脱症状を乗り越えられる(リボトリール・ランドセン)   リボトリール・ランドセンというベンゾジアゼピン系の薬は、離脱症状がキツイということで、私自身、何度も減薬を断念してきました。 他の方のブログでもいろんな、報告が載っているので、よくご存じのかたもあるかと思います。 医師からも、人によっては、やめるのに時間がかかる場合があるという話をいわれていました。 実際、やめると寝られなくなる、筋肉がこわばる、現実感が喪失するといった、様々な不快症状がありました。 ただ、私の場合は、マインドフルネスの瞑想(特に手動瞑想/チャルーンサティ)を実践して、余力が出てきたな、「元気になってきたな」と思える状態(段階)になってからはは、以前に比べればかなりの速度で、減薬に耐えられるようになりました。 きつい時は、薬局で、粉薬にして貰ってで5%減薬で、チャレンジして、苦しくて頓挫することもありました。 しかし、自分の中で、不安障害とか、うつ病とか言われる症状を、明確に気づけるようになってくる変わりました。 なぜなら、減薬の症状らしき筋肉のこわばりや、睡眠の浅さによるだるさなども、観察対象にできるようになったからです。 もちろん、できない、離脱症状の負担が大きすぎると理解すれば、しばらく戻したり、いけそうだと思えば、思い切って減らしてみたりという、冒険もできるようになったのです。 そのためには、苦痛感を過剰に解釈したり、他の方のブログで恐怖をあおられたり、マニュアルチックに減薬する量ににこだわりすぎたり、しない柔軟性と、こころの余裕が必要です。  それを実現したのが、気づきの瞑想でした。。  苦痛感、寝不足感、痛みなどの出来事が生じるのは、事実です。これだけ、ブログ上で騒がれているということが、裏付けています。  反面、ブログなどに書いていないだけで、簡単に減らせられた人もいるのです。  私が、薬を減らせられるように「なった」のは、マインドフルネスの瞑想(特に手動瞑想/プラユキ・ナラテボー師指導)を直接学べたことが大きかったです。  関心があるかたは、ツイッターや、検索で「プラユキ・ナラテボー師」「手動瞑想」「チャルーンサティ」などで検索してみてください。  

  • 26 Jul
    • file139 私が、ブログを書いている理由(お役に立てれば何よりです)。

      file139 私が、ブログを書いている理由。  以前私が、書いていた闘病のブログ、「うつ病の振り返り」 http://nichinici.exblog.jp/  もありますし、現在はこのブログを書いています。  なぜ、ブログを書いているのかを書いてみようと思います。  それは、私のうつ病、不安障害という病気になりましたが、他の方で、同じような病気で苦しまれている方がいたら、是非治って欲しいからです。  また、病気である間も、書くことで、そういうこともあるもんだと言うことを知って欲しいからです。  精神疾患と呼ばれるものは、私が直接交流したことがある方でも、正直どこが病気だか分からないという人から、明らかに、意思疎通が難しい方、体の動かし方などの協調性が失われてしまう特性があったりする方など、様々です。  うつ病、不安障害というのは、案外簡単に治るようにみられますが、症状がでているとき本人の苦痛は相当なものです。  そういう中にいると、「治る」ということを、忘れてしまうことすらあります。  やっかいなのは、治るには、ある程度の主体性が必要ですが、過度に治ることにこだわりすぎると、それ自体が、苦痛になり、病状が悪化するということです。  治っているという(病気がだいぶ良くなったなという)イメージは、他人と自分を比較しない、自分が一日生きていて、寝る時に「ああ今日も良いことあったな」と思って、心地よく、床に横になり、まどろんで寝ていくという感じです。  眠剤を飲んで、嘘みたいに、パタンと寝てしまうと言うのではなく、寝る数時間前から、「今日も終わりか」「いろいろあったな」と、感慨深い時間を味わえると、それはかなり良くなってきています。  なぜなら、今日一日という過去と、明日という未来の間で、寝る前の「今現在」をとても味わえているからです。    そういう、明日への不安もなく、今日への罪悪感もない、そういうフラットな状態で、リラックスできるようになることが増えると、病気は良くなったなあ、と実感できると思います。  そういう体験を、現在苦労されている方にも、味わった欲しいと思っているので、お役に立てればと思って、記事を書いている次第です。    

      20
      テーマ:
  • 24 Jul
    • file138 あなたが、できることを、できる範囲でやれば良いのではないでしょうか?  

      file138 あなたが、できることを、できる範囲でやれば良いのではないでしょうか?  うつ病、不安障害なると言うことは、適当な理由(わけ)があって、そう呼ばれる状態があるという、だけのことです。    当然、そう呼ばれる以上ためには、「主観的に」、何かやりにくい、うまくいかないと不全感があるから、他人である、医師もそれを見て、ちょっと病気だなと、判断するわけです。  それは当てずっぽうで言っているわけではなく、医師なりの理由があります。  又、本人の主観的な「うまくいかない感じ」というのも、本人なりの理由があります。  それが、一致しているかは、分かりません。  病状が良くなったり、悪くなったりする時に、「できることをできる範囲でやれば良い」と言うことが分かっていない、場合があります。  昨日できたことは、今日もできるはずだ(すべき)と考えると、今少しはできていることも、無意味に感じます。  また、環境を変えれば、もう少し楽にできるのに、やり方にこだわってしまい、判断に固執してしまい、苦労していることもあるように思えます。  私の簡単な体験としては、歩行瞑想(歩いてやるマインドフルネス瞑想)を、近所の緑の多い公園で行っていた時に、気温が夏になって上がってきた時に、なんだか、いつも2周できるところが、1周で面倒に感じてきたことがありました。  それでも、2周できてたんだから、2周すべきだという、無自覚な理由で、2週頑張ろうとして、疲労していました。  数日経って、「ああ、暑いから、やるのがおっくうだったんだな」と気づきました。  ならば、エアコンの効いている室内で、やれば良いじゃないか。  それがつまらないなら、比較的涼しくなる、夜にやれば良いじゃないか。  それで飽きるなら、手動瞑想を主にやれば良いじゃないか。    というように、極めてシンプルに、目的達成の道が見えてきました。  この無自覚な「どんな状態でも2周すべきだ」というのは、理念であり、ルールでしかなかったのです。  または、「自分はどんな日本の厚さでも状態でも毎日2周できるはずだ」という、自信過剰さでもあるのです。  これは、一例であり、様々なことに応用できる体験だなと思いました。  上昇志向、頑張り屋さんは、常に、上乗せして自分を高めていこうとしますが、それは完璧主義に近いものがあります。  そうではなく、ここまで苦労して生きて来られたことは、今後、そんなに苦労しなくても生きていけると言うことを意味しているのだと思います。  なぜなら、苦労の原因はたくさんありますが、その一つに「○○すべきだ」と思いながら、行動を決めるという、健康人には理解しがたい信念を持って生きてきている可能性が、あなたにあるからです。  法律に従ったり、生命を殺さない、モノを盗まない、嘘を言わないというのは、道徳で、あり、守るべきだと思います。  しかし、あなたが、現在「すべきだ」と思っていることは、法律違反でも、何でもないと思います。  敢えて言うなら、単なる、常識違反といった感じでしょう。  その常識というのは、最低限守るマナーとか道徳ではなく、むしろローカル・マイルール的な色彩が強い思考です。  母はこうあるべきだ、父はこうあるべきだ、お金はこう稼ぐべきだ、人は親切にすべきだ…。  そのようなことを考えながら生き続けていく苦しさと言ったら、想像を超えたものだと思います。  元気な人は、「すべきだ」(つまりルール)と思ってやるのではなく、「やってみよう」「やりたい」という、動機でやっているのです。  ご自身が、今やっていることが、今日やったことが「すべきだ」と思ってやることが多ければ多いほど、疲れますし、不安になりやすいですし、やる気がなくなります。  はんたいに、「やりたい」と思ってやっている瞬間が多ければ多いほど、疲れにくく、元気で、ご飯も美味しく、寝るのも気持ちよく、楽に生活できたと思います。  自分が、どっちでやっているのかをモニターできるようになれば、後は、「すべきだ」という時はやめてみる、という方法がとれます。  しかし、モニターできなければ、永遠に、「すべきだ」と思って動いていることにすら気づかないで、一生を終えてしまう可能性があります。  モニターする能力を高める必要があると感じます。    

      7
      1
      テーマ:
    • file137 喜びの拡大解釈((楽しかったなー、と思った時はすでにピークを過ぎている)

      file137 喜びの拡大解釈((楽しかったなー、と思った時はすでにピークを過ぎている)  うつ病、不安障害の方の中には「嬉しいできごと」への、過度な執着がみられるように思います。  私自身、辛い感情に巻き込まれてしまい、反芻してしまうようなことも多かったです。  うつ病だったら、良い気分は嬉しいものです。  不安障害だったら、不安がないのびのびとしたリラックスは、快適なものです。  当然だと思います。    「気づきの瞑想」をはじめて、一月ほど経過して、自分の心の動きを、観察するよう努力していると、自分が、「嬉しい」「うまくいった」「成果が出た」「感動した」「気持ちいい」という、一般的に、良いとされる感情にも執着が起きることに気づきました。  これは、新鮮な出来事でした。  言い換えれば、良好な感情への、反芻とでも言いましょうか。  これが、どうして苦しいかと言いますと、その過去のいい体験、数分前のいい体験、思考。、喜び。しかし、それはすでに終わっている(ピークは過ぎている)という、現在の状況を比較してしまう可能性があるからです。 →つまり、行き過ぎると、あのときの気分は良かったのに、今はそれほど良くない。(普通) →何か自分におかしいことがあるのではないだろうか? →あのときの、良い気分を味わいたい。 →現在がつまらなく感じる。 →何か現在がおかしい。 といったような、「今ここ」での体験が、なおざりになっていく危険をはらんでいるのです。 過去のいい体験は、それ以上でもそれ以下でもなく、時間は流れていき、今現在自分がどう感じているかとは、区別して、捉える必要があります 「あのときの最高に、楽しい瞬間が、永遠に続きますように」。といった、理念は、味わいの浅いものであり、現在を見失うものであり、危険なものです。  これは、認知行動療法的に言えば、「喜びという体験を、拡大解釈、又は、過度に一般化している」といえるように思えました。  

  • 16 Jul
    • file136 認知療法の壁を越える。(マインドフルネスの瞑想又は気づきの瞑想)

      file136 認知療法の壁を越える。(マインドフルネスの瞑想又は気づきの瞑想) CBTの本 「不安もパニックも、さようなら---不安障害の認知行動療法:薬を使うことなくあなたの人生を変化させるために」 星和書店 デビット・バーンズ著  前書きで、野村総一郎先生のが、「認知療法がソクラテス問答という、西洋哲学の色彩が濃い部分が、日本人の自我に合わない部分を感じておいるが…。」と言うことを述べられています。  その点を、この本ではさらに東洋哲学的色彩を入れることで、乗り越えようとしていることを評価されています(受け入れの逆説)。  認知療法を、数年行ってきて思うのは、うまく反論できない時の不全感、感情的決めつけと呼ばれる、思考の歪みおいては、本当に、思考が先にあり、感情が後から付いてくると言う、モデルが合っているのかという、フラストレーションを感じることも多々ありました。  自我の構造というのは、私自身詳しく論じることはできませんが、発想の根源が、ソクラテス問答にあるものが、日本人の精神土壌に完全にマッチするかと聴かれれば、そう簡単にいかない「部分もある」ように思えます。  実際、”feeling good”(嫌な気分よさようなら) の英語のものを読んだりすると、英語と日本語で、こう違うのかという、印象を受けます。  認知行動療法は、うつ病不安障害の精神療法のの中で、広く日本では認知されている方法であり、わかりやすい方法ともいます。  しかhし、最終的に、精神が元気になるために、決定的な技法という点では、文化の差があるのかもしれないと思うことがあります。  例えば、「あなたにとって、何が一番の利益になるのか?」を考えることが、認知療法の一つの問いかけとしてあります。  ここに、答えることが、正直難しい病気の人も多いように思えます。それは、なんとなく、「自分の利益ばかり考えることは、悪いことである」ような気持ちになるからです。  それは、日本人特有の精神的な土壌があるような気がするのです。  そこを超えるようにすることができたのが、マインドフルネス瞑想技法(特に、手動瞑想/プラユキ・ナラテボー師の指導)でした。  機会が得られる人は、同師の本などもありますので、読まれると良いかと思います。          

      7
      テーマ:

プロフィール

テーマ

一覧を見る