そろそろ1学期の成績と夏休みの宿題が出揃い、面談も行われる頃でしょうか。。。


こんばんは。

高校1年生の気持ちを代弁する家庭教師水田富美子です。


「分かるとできるは違う」とは、かなり言い古された言葉です。私も、よく使ってきました。

でも、最近、この言葉は、半分本当だけど、半分は嘘だなと思うようになりました。


一般的には、この表現で意図するところは、


「分かっただけで、できる気になるなよ~。分かってるだけじゃ、実際に問題が出たときに、解けないかもしれないぜ?」→要は、繰り返し問題を解く練習をして、解けるレベルまで理解を深めなさい。


ということです。



これは、「できる=問題が解ける」ようになるためには、「分かる=理解する」ことが必要である、ということが前提にあります。言い換えると、「できるってことは、分かってるってことだよね~」ということ。


これは、一見、真実のように見えます。「分かる→できる」という命題の「逆もまた真なり」ってやつです(マニアック?(-_-;)



でも!対偶は真ではありません!


間違った使い方かも、、、どうしても高1数学を使いたかったのです(笑)。


分かりやすく言います。対偶は真ではないとはどういうことか?



できないのは、分からないから、なのではない!のです。

できないのは、分からないせいではない!のです。


授業がもっと分かりやすかったら、できるようになる、、、のでもないのです。

塾の先生がもっと分かりやすく解説してくれたら、できるようになる、、、のでもないのです。

もっと分かりやすい参考書や問題集が見つかったら、できるようになる、、、のでもないのです。

塾に行く回数を増やしたら、家庭教師の先生に毎日来てもらったら、できるようになる、、、のでもないのです。


そこをいくら頑張ってもできるようにはなりませんよ。ということが言いたいのです。問題は、そこではない。



では、結論から言います。


分からないからできないのか?


違います。



できないのは、、、


キライだからです!その教科が。


それだけです(爆)。



キライなんです。

その教科が、その教科の先生が。


自分がキライな教科や先生に心を開きたくないんです。

自分がキライなものを吸収する気がしないだけなんです。

素直に吸収することは負けを認めることなので、意地でもいい成績を取るわけにはいかないんです。

プライドにかけて、悪い点を取ろうとするんです。


許可が出ていないんです。その教科でいい点数を取る許可が、自分に。



これが、何回分かりやすい解説をしても、生徒ができるようにならない理由です。



そして、これは、無意識レベルで起こっていることなので、理屈で説得してもムダです。

いかに今のままの成績ではヤバいかとか、テストでこれだけの点数を取らないといけない理由があるとか。


本人もそれは十分理解しています。頭では。

でも、無意識レベルでは、抵抗しています。



私は、その無意識レベルの抵抗に寄り添うように心がけています。

時間はかかりますが、必要なことだと思います。

自分という存在の外側に、正解がででーんと存在する、なんてこと、世の中に本当にあるのかしら?

いや、ない。。。と思う今日この頃です。



こんばんは。

高校1年生の気持ちを代弁する家庭教師水田富美子です。


小学校中学校高校の12年間、私たちがずっと慣れ親しんでしまうパターンがあります。

そして、あまりに慣れ親しみすぎて、自分がそのパターンに染まってしまっていることにもなかなか気づかないのです。


そのパターンとは、、、正解に自分を合わせにいくこと。


問題があれば、必ず決まった1つの正解が存在していて、問題を解いて、その正解を見つけられたらマルがついて、見つけられなかったらバツがつく。


自分が考えて出した問題に対する答えが、常に正解か不正解かで判断される。



それが、普通でしょうか?

違和感なんて感じませんか?



そうですよね。

英語や数学や理科や社会や国語にだって、正解は用意されていて、その正解にたどり着くことでしかいい成績はもらえないことが当たり前でした。



でも、そのパターン。。。


大人になった今も引きずっていませんか???



科目の勉強と、人生は違うのに。


科目の勉強に正解があったように、人生にも正解があると思っていませんか?


自分の人生に、AかBかの選択肢が現れたときに、どっちを選べば正解か?を無意識に判断していませんか?


Aを選べば、Aを選んだ結果としての経験が。

Bを選べば、Bを選んだ結果としての経験が。


それぞれ違う経験があるだけなのに。

どちらの経験も、経験すること自体が豊かなことなのに。


どっちかだけが正解で、どっちかは不正解だと思いこんでいませんか?

不正解(だと思いこんでいるほう)を選ぶ人生は、失敗だと勘違いしていませんか?



人生に正解がある、つまりは、人生には失敗があるというのが勘違いです。


その勘違いの前提からスタートしてしまうと、愛する我が子に、失敗してほしくないと思ってしまうのは当然です。正解を選ばせてあげたい、正解がどっちかを教えてあげたいと思ってしまうのは当然です。


それこそ、親の愛でしょう。


でも、勘違いなんです。


選択の違いは、得られる経験の違いなだけなんです。




だからまず、親が、12年間慣れ親しんだ、無意識にこびりついている、正解を求めるパターンに気づいて、そこから自由になりましょう。


そして、そのパターンを今まさに体にしみこませている我が子に、勉強には正解はあるけれど、人生に正解はないからね。あなたが思うように生きればいいよ。いつも見守っているよ!応援しているよ!と言ってあげられたらステキですね♪

私は、生徒に勉強しなくていいよ~と言うときがありますが、決して甘やかして放任してるわけではありません。


こんにちは。
高校1年生の気持ちを代弁する家庭教師水田富美子です。


私は、生徒に勉強させるという姿勢がないので、たまに言われます。

優しいですね。甘いですね。
もっと厳しく叱って勉強させてください。
甘やかさないでください。


違います。
私は、たぶんある領域においては、誰よりも厳しいと思います。

私は、去年、本気で、高校入試に不合格になって、浪人してもいいと思っていました。ご両親にも、そう伝えていました。
今年は、定期テストで欠点を取って留年してもいいと思っています。

その生徒に寄り添う覚悟はできています。
とことん付き合う覚悟があります。


それ(不合格・欠点・留年)が、生徒本人が、自分で選んだ行動の結果なら。


怠惰でもいい。
世間知らずでもいい。


勉強するしないを自分で選び、実際に行動を起こし、誰のせいにもせず、何のせいにもせず、100パーセント自分の責任として、その結果を引き受ける。

そのとき起こる感情や葛藤をとことん味わう。

私は、そこを重視しているのです。
そこしか見ていません。


受験や定期テストは、その練習材料でしかない。


そういう立場です。


だから、私にとっては、有無を言わさず無理矢理生徒に勉強させることのほうが甘やかしなんです。

そっちのほうがラクですよ?
生徒にとっては。

勉強さえしとけば、自分の弱さと向き合わなくていいのですから。

勉強に口うるさい親に反抗している間は、怠惰な自分から逃げていられるのですから。

私は、それをよしとしません。

だって、そこそこ勉強をクリアして、それなりに社会に出てから、初めて、自分と向き合わなくてはいけなくなって、やりたいことや自分の気持ちが分からず、苦悩している人たちをいっぱい…


だからこそ、テストのたびに生徒に問いかけるのです。

今回のテストと、あなたは、どう向き合うの?と。

勉強をするの?しないの?
どこまですることを選ぶの?

責任を持って、ここまではすると決めなさい、と。

その中身は何でもいい。

教科書の例題だけ解けるようになっておく。
教科書の英文の日本語訳だけ読み込んでおく。

それでもいい。


テストがあるから、受験があるから、範囲が決まっているから、合格点が決まっているからと、親や先生が、大人の判断で生徒を、そこまで持っていこうとするのは、私は反対です。

それは、子どもが自分で選んで、自分で決める練習のチャンスを奪っていると私は思います。


子どもが留年したり、浪人したりして、困るのは、親であるあなたですよね?先生であるあなたですよね?


勉強という親子共通の試練に向き合うとき、親は親でちゃんと自分と向き合いましょう。その姿を子どもに見せてあげてください。

なぜ自分は、子どもに勉強させないといけないと思っているのか?
何を根拠にしているのか?そして、それは果たして本当か?
自分の不安を子どもの将来を心配することにすり替えているだけではないのか?
自分の課題を子どもに投影して逃げていないか?


子どもが勉強しないといけないのだとしたら、同じだけ、親も勉強しないといけないのだと私は思います。