今日は、とてつもなく暑かったですね。

この暑さの中、グラウンドで部活をしている高校生を心から尊敬します。

そして、どうか熱中症になりませんように…お祈りしています。


こんばんは。

高校1年生の気持ちを代弁する家庭教師水田富美子です。


苦行が人生に必要かどうかというと、きっとないよりはあったほうがいいと思います。


ただし、適量で(笑)。



ただ、勉強がキライな子にとって、明らかに勉強は「苦行」でしょう(^^ゞ


その苦行である勉強を避けることもできず、日々直面させられ、やり続けないといけない。。。

本当に崇高な魂の持ち主だなと思います。


勉強好きな私には、学生時代、そんなに苦行と思えるようなことはありませんでした。

運動音痴な私にとって、マラソン大会とか、体育の授業くらいでしょうか(苦笑)。



で、自分が勉強が好きでやっていたので、すごくよく分かるんですが。



勉強がキライな子は、とてつもなく大きな勘違いをしています。



勉強ができる子が、勉強がキライな自分にはとてもできないやりたくない苦行を耐えに耐えて勉強をしていると!



これ、ほんとに勘違いです。



私はよく部活と対比して説明します。


あなたは好きでサッカー部に入っとるやん?

暑くても寒くても、グラウンドで練習頑張れるやん?

ケガしても、痛み止め打ってでも試合出ようとするやん?


ね?好きなことなら、勝手に頑張っとるやん?

よーし!やるぞ!!とかいちいち思わへんやん?



そゆことなのよ。


あなたにとってのサッカーが、私には勉強だった。

あなたは、勉強はキライで頑張れないかもしれないけど、私は逆に、サッカーは頑張れない。キライだもん!運動!


逆なだけ、逆。


たまたま、今の日本では、勉強のほうが大事っていう風潮になってるから、私はトクしただけ~。



つまり、成績のいい子は、苦行に耐えて勉強しているわけではありません。

勉強するのが苦ではないから、長時間取り組めたりとか、宿題をすればするほど理解が深まったりするのです。


もちろん、耐えて勉強をしている成績のいい子もいるかもしれませんが、耐えられる範囲の苦なはずです。



何が言いたいかというと、勉強がキライな子に、自分を責めてほしくないってことです。


勉強ができる子を見て、自分にはできない苦行を乗り越えている人だからスゴイ!それに比べて自分は…というふうに。


好みの違いなんだよってことですね。

なぜか最初に書いた記事は消えました(^^ゞ

モードがおかしかったので、修正が入ったということでしょう♫


こんばんは。

高校1年生の気持ちを代弁する家庭教師水田富美子です。



今日は、普段自分がなるべくそうならないようにしようというモードで授業をしてしまいました。

自戒の意味もこめて、書き残そうと思います。



授業の進行が、生徒の体験としての満足度優先か、教材の進捗優先か、両立するようで両立しません。



たとえば。

そこにレッスン3の2の英語長文があったとして。


新出単語の意味調べがなんだ!

不定詞の用法がなんだ!

5文型がなんだ!

全文和訳がなんぼほどのもんじゃい!



と、いつもは思っているハズなのに…



ついやってしまいました。

目の前に英文があると、、、


やっつけたくなってしまいました(笑)。



生徒は疲れ果てておりました。

全訳できて、予習ノートの問題も全部解けて。。。


だけども!


何も残らないんじゃないかなー?とまでは思いませんが。

疲れただけで、楽しくはなかったと思います。



今ごろから、教科書の英文を勉強したって、10月の中間テストの頃まで覚えているはずがない。


だからこそ!


体験というか体感を大事にしてあげたかった。



全部できた!訳せた!という英文ありきの英文主体で、自分の勉強をそっちに合わせていく方向ではなく。



楽しくレッスン3の2の長文に取り組めた!

大事なココだけは、私訳せる!


自分から、英文に対して、学びを取りに行ったという実感を持たせて終わりたかったな~と反省しています。



大事なのは、目の前の英語長文をやっつけることではなく、自分が勉強したという実感。

下線部しかちゃんと訳せていないという減点法的評価ではなく、下線部は全部ちゃんと理解したぜという加点法的実感。

和訳できてないところがある、ではなく、このレッスン3の2が何の話か分かっているぜという自信。


そういうことを大切にしたい。


それは、全訳をおろそかにするとか、文法をおろそかにするとか、文型をおろそかにするとか、とは全然違います。


最終的に、そこまでたどり着くことは目指すのだけれど、途中の生徒本人の実感を最優先するということです。



まだまだ学びも試行錯誤も続きます。

生徒と一緒に成長していきたいと思います。


勉強は、人生の縮図です。生き方あり方の練習です。

ということを、今日も実感しました。


こんばんは。

高校1年生の気持ちを代弁する家庭教師水田富美子です。



数学の問題を解くときに、問題を目の前にして、解く前に、解こうとする前に。。。



これ、解けるかな?解けないかな?と客観的に判断するのかと思っていました。


いや、何をもって客観的とするかは置いておいて。




先に決めていました( ゚Д゚)


解けないハズだと…



だから、白紙でした。

チャレンジすらしていませんでした。



でも、私が見ている前で解いてみたら、少なくとも(1)は、自力でスラスラ解けてたし(>_<)



本当は解ける(1)

解けないと決めて、チャレンジすらしていない(1)



この、「本当は解けるのに、チャレンジしない」という選択を人生で積み重ねたときに、人生で何が起こるのか?


そこを語れる師でありたいなと思います。

数学の問題の解き方を教えるだけではなく。ゴールは、そこではない。



チャレンジしないという選択は、チャレンジしてみたけどできなかったというプチ挫折を経験するかもしれない恐怖から逃げるためです。見たくないものを見なくてすむので、ある意味ラクかもしれません。


もしかしたら、解けるかもしれないのに。


その解けた喜びを得られるチャンスであるということよりも、できない挫折を味わうかもしれないという恐怖のほうが強いということ。

喜びを味わうことよりも、不安や恐怖を避けることを優先しているということ。



逃げることが悪いわけではない。その選択に責任をもって味わえばいい。結果を人生で引き受ければいい。



ただ、自分がどんな選択をしたのか?を自覚できるようにサポートすることは、大切にしたいなと思うのです。