冷戦後の世界はリベラリズムと資本主義が最終形態と予測した「歴史の終わり」で一躍脚光を浴びた米国の国際政治経済学者、フランシス・フクヤマの最新著。リベラリズムの歴史に始まり、近年のリベラリズムが直面している問題の分析と考察、解決への提言などが述べられている。
民主主義は国民による統治であり、複数政党の公正な選挙として制度化されているが、権力行使などに問題が起きる場合がある。リベラリズムは17世紀後半に生まれ、法により政府の権力を制限して個人の権利を守ることを主張し、平和と安全・人間の尊厳(特に選択の自由)・財産権と取引の自由と言う3つの重要な点を守ることで社会を正当化して来た。ナショナリズムや共産主義と闘い、第二次世界大戦以降は世界的な広がりを見せ、リベラリズムを採用した国々に発展をもたらしてきた。ところが、近年行き過ぎたリベラリズムと資本主義により、リベラリズムは一部の国々では後退している。
リベラルと言われて来た国々では、近年、資本主義的なエリートが支配し、消費文化を作り上げ、一般人をそのルールに従わせるよう仕向けたことで実際の社会はリベラルでなくなってきている。豊かな国でも低技能労働者はもとより一部の中産階級でさえ格差に不満を抱くようになった。小さな政府を好むリベラリズムであっても、チェックアンドバランスによる公正な権力と富の再分配が必要であり、実際、北欧では高税率でありながら医療・教育・福祉などに再分配され、リベラリズムの本質である個人の権利が守られている。
リベラリズムを生み出した個人主義は西洋の概念であり、他の諸文化の共同体に根付いておらず、西洋文化の押し付けは少なくない国々の反発を招いている。西洋の国々の内部でさえも移民の増加により同様の反発招いている。個人の自立性だけでなく、社会を構成する他の文化的集団の自立性も認めなければならない。
米国では民主党と共和党の2大政党が対立、共和党はリベラリズムとは相反するようなイメージを持っていたが、元々民主と共和は類義語として用いられおり、共に個人の権利を尊重する本質は変わらない。リベラル的な小さな政府を好むのは共和党、リベラル的な多様性を好むのは民主党であり、実際の対立は保守か世俗かの様相を呈しているようだ。保守派の不満は人種・ジェンダー・性指向と言った社会的に敏感なテーマに関する規則が、説明責任のない官僚機構や裁判所によって押し付けられていることである。この司法積極主義はEUの難民の地位についての決定でも同様に保守派の不満を買っている。
リベラルな社会は原則的に人種・民族・宗教的伝統など固定的アイデンティティに基づく集団を原則的に認めていないが、世界を国民国家に分割することと折り合いは付けられるのであろうか? 寛容や中庸と言う言葉がリベラリズム存続の鍵とされているが、う~ん、難しすぎる、、、