この頃YouTubeを閲覧していると

 

老いたオートバイ乗りたちがこの先いつまで乗り続けられるのかという

 

悩みや迷い、またそれへの対処を題材にしたコンテンツをよく目にする

 

案外同じようなことに悩むおっさんはワールドワイドに多いのか

 

海外のチャンネルでもこの手ものは多くみられる

 

すでにその境地に入りつつあるボクも

 

同じようなことを考えていた時期が確かにあったが

 

今現在の感覚で云うと

 

「いつ(いくつ)まで(オートバイに)乗れますか?」というより

 

「いつ(いくつ)まで(オートバイに)乗りますか?」と

 

考えたほうが良い問題だと思っている

 

つまりこれは大方の人が想像するとおり「個人差」の大きな問題なので

 

おそらくは各自の主観的な判断に任せることになるのだろう

 

とは云え公道を走るという前提を持って云えば

 

もちろん客観的な判断も必要になる場合もある

 

多くの悩みや迷いの原因は多分そこにあって

 

分かってはいてもオートバイのない人生など想像できない

 

と、まだまだ健康な自分は思ってしまうものなのだ

 

 

ボクが40に差し掛かる少し前(アラ4だね)

 

雑誌で60過ぎのジイさん(以前は60はジイさんだった)が

 

BMWのツアラーR1100RTを乗りまわしている記事を見て

 

驚きと羨望を感じた記憶がある

 

当時のボクが具体的にいくつまで自分がオートバイに乗るのか

 

考えている訳などなかったけれど

 

そんなリアクションだったことを思えば

 

60歳でオートバイに乗っているとは考えていなかったのだろうと推察できる

 

実際の転機になったのは50になる頃だったか

 

ふとした折に車間距離が以前より大きくなっていることを自覚した

 

それはその頃乗っていたツインショックR100RSのブレーキが

 

あまり鋭い効きではなかった(握りこめば効くが自在感は乏しい)ことも原因だが

 

やはり反射神経の衰えを無意識に補正していたのだと思う

 

もちろんそれ自体は良いことなのだけど

 

自分の老いを目の当たりにしたようで少なからずショックもあったし

 

このまま大排気量のオートバイに乗り続けることが

 

当たり前のことではないのだという事実に気づいてしまった

 

 

そもそもオートバイを運転する必要条件とは何だろう

 

「免許」か

 

免許なら法律に基づいて公安委員会がその資格をチェックして発行している訳だから

 

単に高齢ということ自体とは関係ないはずだ

 

立法府の責任において運転者の条件は法律で規定され

 

公安委員会がその法律に基づいて免許を発行しているのだ

 

昨今の高齢運転者に対する免許返納圧力

 

もしくは高齢者各自の良心に働きかける免許返納キャンペーンは

 

公安委員会の自己否定か怠慢を公言するようなもののようにボクには見える

 

免許が下りたのなら運転する必要条件は満たしているし

 

満たしていなくてはおかしな話になってしまう

 

「認知機能が怪しいって感じたら免許を返してね、こっちではよくわからないから」

 

こんないい加減なことが通るなら

 

「運転できると思うから免許くれ」だって通ることになる

 

「事故が起こってからではお互い不幸だから早めに返してよ、あなたのためだよ」

 

では、運転免許制度とは何なのだ?

 

運転していい人とダメな人を見分けずに許可を出していると云っているのと同じだ

 

「この法律は、道路における危険を防止し、その他交通の安全と円滑を図り、及び道路の交通に起因する障害の防止に資することを目的とする」

 

道路交通法第1条の「目的」の定義だけど、ぜひそうしてもらいたいもんだ

 

 

まあいいや

 

実際には自分が高齢者と云われる年齢に達した時(いくつのこと?)

 

いくら必要条件としての免許を公的に受けていても

 

それが十分条件だとは云えないのではないか?と

 

優しいおっさんたちは容易く自己否定してしまうのだろうか

 

そもそも高齢者ドライバーへの偏見は

 

高齢者のペダルの踏み間違いや高速の逆走事案を

 

ことさらに取り上げるマスコミの印象操作によって

 

免許制度だけでは安全性を担保できない

 

と考える世論の圧力の高まりに原因がある

 

体力、認知力の衰えには個人差があるのだ

 

そんな当たり前の認識にフタをして

 

「交通安全のため免許返納を」と迫るのはファシズム的だ

 

運転する権利を求める裁判が開かれれば1日で終わる

 

「憲法違反」だからだ

 

加齢による「体力」の衰えというが

 

身長が160cmくらいで体重が45kgに満たない女性でも

 

大型オートバイを普通に走らせていることを見れば

 

それほどの腕力は必要ないということだろうし

 

「認知機能」だって

 

スマホ見ながら運転しているより若者より劣っていることはないだろう

 

小さな子供を乗せたお母さんよりは集中できていると思う(偏見かな)

 

やっぱりこの部分はあれほどの時間とコストをかけて実施されている

 

高齢者講習など免許更新時のチェックを信用するしかないのだ

 

つまり免許をもらっていれば必要条件は満たしているのだ

 

 

となれば高齢者本人が感じる体力や認知力などの

 

衰えの「自覚」が不安を呼ぶのだろうか

 

以前の記事でも書いたが認知機能の衰えが不安と云うのなら

 

対処は難しくない

 

スピードを落とすこと

 

車間距離を取り、薄暮時や夜間、雨の日の運転を避ける

 

周囲の交通の流れに乗って法規を守っていれば

 

認知機能が問題になるような事態には陥らないと考える

 

鍛えるべきは「集中力と自制心」

 

前をよく見て、スピードの誘惑に負けないこと

 

誰にでもすぐに出来る簡単なことだ

 

体力はどうか

 

先にも書いたが小柄な女性でも(この比較は差別的だが)

 

CB1300を乗りこなせるのだから

 

それほど極端な筋力は不要ということだ

 

大切なのはやはりオートバイを操る技術とバランス感覚(平衡感覚)

 

そうやって考えてみると

 

「いくつまでオートバイに乗るのか」は

 

結局のところやはり主観的な判断だし

 

本人の認識と努力にかかっている問題と云える

 

 

一方で「いつまで乗るのか」論争で必ず話題になるのは

 

「ダウンサイジング」だ

 

これは物理的な大きさのことを云っているのか

 

はたまた重量なのかそれともパワーなのかははっきりしないが

 

見ている限り、聞いている限り

 

ラインナップが充実してきてしかも新車でも価格が現実的な

 

原2バイクのことを指しているように聞こえる

 

しかもダウンサイジングと云いながら

 

ただ「買いたいだけ」なんだと思う

 

「新しいバイクが欲しい」という話だ

 

原2なら価格も手ごろで現実味がある

 

メーカーにとっても車検もなく税金も安い原2市場は

 

アジアの主力商品であり大量生産が可能

 

中古市場へは出回りにくく

 

セカンドバイクとしての購買欲を刺激すれば新車を売りやすく

 

しかも毎年カラーラインナップを換えるだけでも市場を刺激できる

 

「行く行くはカブにして」とか「スクーターにして」

 

という似非ブルジョアのファンタジーに乗じて

 

日本の中間層の金を毟り取る狩場と化している市場だ

 

まあ満足や喜びという幻想を求めてお金を使いたい人に何を云っても無駄なので

 

好きにしてもらうけれど

 

あなた方はそもそも本気で「ダウンサイジング」は考えてないでしょ?

 

 

結論を云えば

 

病気にかからない限りはオートバイなど乗れるだろうよ

 

ってことだ

 

現役世代が仕事に出払った平日の午前

 

そうだな8時半くらいかな

 

ガレージに眠る愛機に火を入れて

 

年金暮らしのロートルはニヤニヤしながら山道を流しに出かけるのだ

 

「いつまで乗れるかな」なんて気弱なこと云ってないで

 

毎日腕立てとスクワットでもやりなよ

 

そうだろ?

 

 

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云われるまでもないし

 

改めて云うことでもないのだけれど敢えて云わせてもらう

 

「暑いですね、毎日」

 

昔から夏になれば顔を合わせる人合わせる人ことごとく

 

「暑いですね」のミサイルを撃ちまくったものだ

 

あんまり暑いんで聞いてる方もうんざりしてきて

 

「暑いって云うごとに100円な」みたいなこと云ったりしたね

 

けれどいくら猛暑の昼下がりでも

 

田んぼへ出てみれば稲を揺らす風は案外強くて涼やかだったりする

 

稲はすでに穂が出て花を付けた

 

ことしは株も太く順調に見える

 

一方で作り手のいなくなった田畑はすぐに草木に覆われて

 

夏の炎天下、草いきれにむせるような独特の空気を発する

 

不快ではあるがどこか懐かしく嫌いではない匂い

 

巣立ったツバメたちがあちらこちらを飛び回り

 

いとしいような夏がここにはある

 

 

ボクの夏もいつもの夏で

 

暑い暑いと云いながら汗をだらだらと掻き

 

ちょっと強めの炭酸を作ってハイボールで一杯やるのが日課だ

 

日課と云えばもちろん夏がどんなに暑くても

 

用もないのにオートバイを走らせる

 

走り出して風を切れば案外涼しくて

 

峠を駆け上がるたびにクーラーが効いてくる

 

宮崎の集落から千万町(ぜまんじょ)へ向かう県道334号へ入ればもう涼しい

 

千万町から作手、段戸トンネルへと気温はどんどん下がり

 

トンネルの先の温度計は24℃だった

 

 

「暑いですね、暑いんですよ、身の危険を感じる暑さです」

 

この一辺倒から

 

「辞めないの?辞めるでしょ?辞めるっていってよ」

 

も交じりだしたこの頃のマスコミ(総理大臣ね)

 

そのマスメディアの本流とも云えるテレビ局って

 

なんとも危うい立場で物事を発信しているものだなと

 

ボクはかねがね思っていた

 

一応は彼らも自らの社会的責任を自覚しているのか

 

求められる役割を果たそうとしているようだがそれもまあポーズにしか見えない

 

なぜならその結果、本当に責任を追及されるのも大いに困るのだろう

 

マジョリティを担保にするか

 

もしくは過度に中立を意識しただから何だ?というような

 

無味無臭な内容に終始することがほとんどだ

 

責任を取りたくない

 

責任は放棄したい

 

と云うならば初めからしゃしゃり出てくるなよ、と思う

 

新聞社と違ってテレビ局はほぼすべての運営資金をスポンサーから得ているのだ

 

ネットメディアの優勢と云われてもいまだにそのテレビの影響力は甚だ強く

 

ネットの普及浸透により衰退したのはむしろ新聞の方で

 

テレビやネットが牽引していく今後のマスメディアには不安しか感じない

 

 

よく、無責任なことを云うな、と云うけれど

 

意見のすべてに引責を求められるのなら

 

議論など不可能だ

 

なぜなら意見などいわば選択肢の提示に過ぎないものなので

 

そこに言質を取られていては誰も何も云えない

 

中立公平と云えば聞こえはいいが

 

それを隠れ蓑にしているだけなのではないのか

 

それとも反対意見や批判を恐れているのか

 

はたまたただ単に絶対的な「いいひと」に成り(下がり)たいだけなのか

 

悪いものは悪い、良いものは良い

 

といった論調でしか声を発せないのだろうか

 

受け取る側だってなんでも真に受ける阿保ばかりでもあるまいに

 

思い出して欲しい、新型コロナに抑圧された3年間

 

世界は何を学んだのか

 

または何も学ばなかったのか

 

あの喧騒と熱狂は今ではもはや僅かな残り香さえ見いだせない

 

「あなたは何回コロナワクチンを接種しましたか?」

 

と問われて即答できる人がどれくらいいるのだろう

 

面会も制限されひとりで苦痛に耐え亡くなられた方々を思いながらも

 

当時の対応の検証がなされぬ今の社会に不信感は募るばかりだ

 

政府の「不要不急の外出制限」や「一部店舗の休業要請」という

 

人権にかかわる措置は法律に基づくもので

 

未知のウィルスの蔓延という状況では当然の対応だったのだろうとは思う

 

けれど本当はどうすることが必要で最適だったのかが

 

今になってもほとんど聞こえてこないのはなぜか

 

新型コロナが感染法上の2類相当から5類へ変更されてからも

 

5万人以上の死者が出ているのだ(2類時は約8万人)

 

こういった事実は新聞ではよく見るがテレビではほとんど見ない

 

なぜなら今テレビは毎日これに忙しいからだ

 

「異常な猛暑」と「熱中症」

 

 

 

「熱中症」

 

子供の頃、アメリカでは熱波でバタバタとお年寄りが

 

亡くなっているというニュースを見て

 

暑さで人が死ぬということが理解できずただ驚いたという記憶がある

 

あれから50年

 

日本でも暑さで人が亡くなる世界が訪れた

 

温室効果ガスの増加による異常気象ということらしいが

 

温室効果ガスの増加による地球の温暖化であるとか

 

地球の温暖化による記録的な猛暑との関連性であるとか

 

科学的な「裏付け」というキラーワードで思考を麻痺させ

 

新たな市場と新たな利益を資本家たちは奪い合う

 

そこはまだ大きくて深い「青い海」なのだ

 

そもそも資本家たちにとっては

 

猛暑の科学的根拠の議論などどうでも良いのだ

 

異常気象でもいいし温室効果ガスでもいい

 

暑ければ暑いほど

 

不安なら不安であるほど

 

消費を拡大させるための熱狂を演出しやすいという話だ

 

 

そもそも不慮の死みたいなリスクなら

 

話は猛暑でなくても他にも無限にある

 

たとえば交通事故で亡くなる人の方がはるかに多い

 

1990年代の毎年1万人から大幅に減少した現在でも2678人もいるのだ

 

単に人の命の話なら

 

暑いから外に出るな、よりも

 

クルマは危ないから外に出るな、の方が効果がある

 

こういう云い方をするとナンセンスだと不謹慎だと云われるが

 

ではなぜに今これほどまでに熱中症なのだろう

 

そんなこと云ってるボクも知らぬ間に熱中症になるというのだろうか

 

現在の健康状態は投薬治療のおかげで「数値的」には正常だ

 

マスク懐疑派だったけれどコロナにだってかからなかったし

 

インフルエンザだって中学生の時にかかって以来縁がない

 

今日も気温34℃の昼下がり

 

1時間ほどウォーキングしたけど汗かくのが気持ちいい

 

そりゃあ暑いよ

 

でも夏だしね

 

正直まったく暑すぎて危険という実感がない

 

白血球とか免疫グロブリンGとかNK細胞とかの値が異常に低いとか

 

もっと単純に自律神経の失調状態とか

 

加齢、過労、寝不足、深酒、脱水、等々

 

原因を探ればある程度のバイアスは見いだせるように思うが

 

具体的には何も教えてくれない

 

そうではなくて

 

誰でも(!)いつでも(!)どこでも(!)

 

熱中症は音もなく忍び寄り

 

はたと気付いた時には対処不能でそのまま死に至るものというのが彼らの主張で

 

警戒アラート出た時は老若男女もれなく室内に留まり(疑似行動制限)

 

しかもエアコンをかけ

 

充分に水分を補給する必要があるのだ

 

自律神経の調節が劣る子供や老人は特に注意が必要で

 

現に死者の8割以上は65歳以上だ

 

エアコンを使いたがらない高齢者は特に危ないらしい

 

みなさん大丈夫でしょうか?

 

心配しております

 

あなたも、あなたも、そう、そこのあなたも

 

気を付けてくださいましね

 

こわいんですよ、気が付いた時にはもう時すでに遅しなんです

 

熱中症ですよ、熱中症

 

いまはもう昔とは違う暑さなんです

 

地球温暖化による異常気象なんですよ

 

国連も認めています

 

認識を変えてくださいね

 

暑いくらいで死ぬもんですか、なんて云う天邪鬼の話を真に受けちゃダメです

 

……

 

やっぱり誰かにおカネもらってやってるとしか思えない

 

テレビって資本家の煽動装置と思って見た方が良い

 

(実際は熱中症で救急搬送される人が集中して増えることが問題で、救急や病院の対応がひっ迫し、他の緊急患者への対応に影響が出ているようだ。熱中症にならないように各自が気を付け医療機関にひっ迫を生じさせないようにしようという注意喚起の意味合いが強い。だからテレビ報道が単純に熱中症による死亡が増加することだけを問題にしている訳ではない、と一応断ってはおく)

 

 

山からオートバイで降りてきて

 

クルマも増えて流れが悪くなるともういけない

 

信号で止まるとヘルメットの中を汗が滴る

 

夏用のスカスカの手袋でももうじんわりと湿っている

 

鼻のアタマと頬っぺたが陽に焙られてヒリヒリしてきた

 

ああ、夏だな

 

生きてるなー

 

 

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17世紀フランスの思想家ブレーズ・パスカル

 

裕福な官職だった父親から幼少期より英才教育を受け

 

39歳で早逝するまでにその才能は多方面に発揮された

 

毎日耳にする「ヘクトパスカル」の「パスカル」とは

 

彼の名を冠した圧力(応力)の単位だし

 

わずかな握力だけでオートバイを止められる油圧ブレーキシステムは

 

彼のパスカルの定理によって説明できる技術だったりする

 

著書「パンセ」の有名な「人は、考える葦である」の記述からは

 

パスカルさんのヒューマンな人柄や態度が想像されるが

 

その実は、人のどうしようもない性を嘆く冷笑化の面もあったようだ

 

曰く「人間の不幸はすべてただひとつのこと、すなわち、部屋の中に静かにとどまっていられないことに由来する」云々

 

四六時中身を粉にして働かなくても日々の糧を得られるようになると

 

やがて時間を持て余すようになり

 

じっとしておれば良いのにその暇に耐えられず

 

戦地へまで自ら乗り込み身を危険に晒す人がいると云うのだ

 

部屋に一人でいることが退屈で堪らなくなり

 

運命的にわざわざ不幸を招きに出かけて行く

 

そしてタチが悪いことにそこには幸福があると信じている

 

 

釣りが趣味だという人はサカナが欲しい訳ではない

 

と云えばなんとなくわかるだろう

 

釣り船に乗る前の釣り人へ、釣りから帰ってきた釣り人が

 

「50cm越えの真鯛がたくさん釣れたから欲しいだけあげますよ」

 

と声をかけたところで誰も喜ばないだろう

 

パスカルさんの言葉を鑑みれば

 

釣りが趣味という人の目的は「サカナ」ではないのだ

 

枯れ葉のように翻弄され続ける小舟の上で

 

日がな一日、夏なら灼熱の太陽に焙られ、冬なら雪交じりの寒風に晒され

 

ただただ一心に竿を投げ指先に伝わる引きの感触を待つ

 

これくらいの心理的肉体的負荷がなければ

 

たかが釣りごときに熱中できない

 

サカナを手に入れたい食べたいというなら魚屋に行けば事足りる世の中

 

持て余す暇に耐えきれずサカナ釣りという試練に熱中しているに過ぎない

 

そうしてようやく釣り上げたそこそこの真鯛の釣果を

 

それこそ「尾鰭」を付けて自慢することで幸福を手に出来たと信じている

 

こんな「みじめ」(いやいやこれはパスカルさん自身の言葉だ)な運命を持つ

 

暇人たちのなんと多いことか

 

結果的に暇を持て余す人は不幸を求めるような行動しかできない

 

パスカルさんはそう云うのだ

 

 

オートバイに乗ることも釣りと同じで一般的には「趣味」と云われる

 

なぜオートバイに乗るのかという問いは

 

なぜ「趣味」に興じるのかという問いに等しい

 

暇を潰すためだけに苦痛にも近い負荷に身を投じ

 

その実本当に求めているものが何なのか本人にも良く分からない

 

にもかかわらず熱中してお金も時間も惜しみなく注ぎ込んでしまう

 

そんな状況を外から見れば確かに「みじめ」な人たちと映るかもしれない

 

パスカルさんの云うとおりこれは単なる人の悲しい一面なのか

 

実はこんな状況から逃れる唯一の方法をパスカルさんは明快に示している

 

「神への信仰」

 

まあ確かにそうなのかもしれない、という思いと

 

それを云っちゃあおしまいよ、という思い半々といったところか

 

 

私事を云わせてもらえば

 

今までに人生が暇で仕方がないと感じたことはなかったと思う

 

暇潰しに何かしたいと考えたことだってないし

 

もちろんオートバイに乗っていて暇がつぶれていいな、なんて思ったこともない

 

毎日やりたいことが一杯あって時間が足りないくらいだ

 

いつも書くことだけど

 

こんなにも長い年月数えきれないくらいオートバイに乗ってきたが

 

今でも乗るたびにいつも楽しいし

 

その楽しさの大きさにも変化はないと断言できる

 

パスカルさんにはそんな楽しみの経験がなかったのかな

 

そもそも17世紀にはオートバイはまだ発明されていなかったね

 

でもそのオートバイだって最初から「趣味」の乗り物だった訳じゃない

 

知ってのとおり移動や運搬の道具として生まれ

 

その後より高い次元で移動や運搬が可能なクルマにその役目はシフトしたが

 

発展途上国では未だにオートバイは本来の目的で使われている

 

一方先進国では大型化・大出力化することで

 

オートバイは趣味の乗り物へと変化していった

 

哲学的な分析は知らないけど

 

ボクがオートバイに乗りたいと思ったのは

 

単に「かっこいいな」と感じたからだ

 

それは主観的な意味より客観的な意味でそう思った

 

オートバイは完全にカッコよかった

 

そして実際に原付の免許を取って

 

親戚のおばさんに借りたロードパルで走り出した瞬間

 

オートバイはボクの運命になった

 

 

「出川哲郎の充電させてもらえませんか」にゲストで来るタレントが

 

あんなにもショボイ電動バイクなのに(失敬YAMAHAさん)

 

走り出した瞬間ほぼ100%の確率で

 

皆一様に「気持ちいい~」と口にするのを見ていると

 

やっぱり2輪車にはこの「気持ち良さ」があるのだと確信する

 

けれどそんな気持ち良さを忘れたのかな

 

と思うような状況がオートバイの周囲に蔓延していることが気になる

 

どこで喰っても大差ないラーメンが食いたいと山奥へ出かけたり

 

さほどのチャレンジでもない夕日ツーリングラリーのゴールを目指したり

 

大して興味もない神社へ刻印求めて集まったりするためにオートバイが使われている

 

これではオートバイに乗ることがただの手段と化してしまっている

 

次から次へと与えられる記号を消費し続けているだけで

 

これでは「楽しみ」とは云えず

 

単に消費社会に巣くう趣味産業の歯車に成り下がっているにすぎない

 

ただし別に悪いことではないよ、とあえて云っておく

 

自分のカネなのだ

 

いくらでも遠慮せずに好きに使えば良い

 

スマホホルダーやUSBソケットでは飽き足らず

 

スマートモニターまで付けてラーメンを喰いに出かける

 

万が一に備えてドライブレコーダーで危害を加えてくる輩に備え

 

Uターンが苦手、と臆面もなく云いふらしては

 

出っ張ったところにガードやスライダーを付けまくる

 

ああそうそうハンドルにつけるタッチペンなんてモノまであるな

 

本当に何でもかんでも好きにやって欲しい

 

消費に振り回されて求めた「楽しみ」なんて本当に暇潰しでしかない

 

「ここへ行ってあれを喰え」

 

「これを付けて快適になれ」

 

「君の求める楽しいオートバイライフはここにあるのだ」

 

これが本当にオートバイに乗りたいという思いの正体なのか

 

次から次へと稼いだカネを注ぎ込んで自己顕示欲は満たされても

 

求める楽しさ「満足」はいつまでたっても手に入らない

 

そんなモノより

 

心なのか脳ミソなのか身体なのかは知らんけど

 

この出何処すら判然としない魂の叫び

 

「気持ちいい~」の方が断然信じられるしこっちでありたい

 

 

けれどパスカルさんの言葉に立ち返ると

 

やっぱり「楽しい」だけではないのかもしれないとも感じる

 

そもそも感動することが「目的」ではない

 

オートバイに乗ると「自然に何か満足にも似た感情になってしまう」というだけで

 

「楽しくなりたい」「満足したい」からオートバイに乗っている訳ではない

 

オートバイに乗ってあの山奥の蕎麦を喰えば満足できるはず、よりはマシか

 

確かに趣味の目的が「楽しい」だとすれば

 

その行為のために日常的に人が死んでいっている事実は重い

 

1年間で登山では300人、オートバイ(原付も含む)では508人もの人が死ぬ

 

これではパスカルさんが云う

 

不幸な運命をも感じさせる気晴らしと云った方がピッタリだ

 

戦場へ赴き身を危険に晒すような狂気とも云える熱狂

 

馬を走らせて財産を賭けてみたり

 

朝早くから小舟で海原に漕ぎ出し延々とサカナを待ったり

 

そういうことだ

 

圧倒されるような山塊を前にして心がざわめくことや

 

頂上からの非日常風景の感動が目的ではなく

 

重い荷物を担いで自らの足で険しい登山道を辿り

 

その上天候の急変や自身の不注意で岩肌から滑落して

 

命を落としかねない状況に身をさらしてまで山に登ること

 

その身体的精神的負荷こそが人を熱中させる

 

その熱中のために人は命をも引き換えにするというのか

 

 

自分はどうだ

 

なーんの用事もないのに昨日もオートバイに乗って山へ行っていた

 

おまけに激しい通り雨に何度も打たれびしょ濡れになった

 

オートバイニ乗リタイ、デスカ?

 

ソレハ、ドウシテデスカ?

 

日常生活に満たされたボクは掴みどころのない退屈に焦燥し

 

結果的に不幸を招くとしてもオートバイに乗ることに熱中し

 

そこにこそ「満足」があると信じているのか

 

確かに思い当たるフシがある

 

ボクは知っているのだ

 

オートバイに乗ることを本心では「こわい」と感じていることを

 

オートバイに乗ることは死に直結する行為だ

 

いつ事故を起こして命を落とすのか分からず

 

しかもそれはいつも一瞬の出来事だ

 

明日遠出しようと考えているボクの心はなぜだかソワソワしているし

 

家を出る時誰にともなく「気を付けていってくるよ」と告げたりしている

 

ボクはオートバイに乗る時に感じるこの危うさを求めていると云うのか

 

衣食住に満たされた人類は無意識下になんらかの不安を抱えて生きている

 

それは一向に答えの得られない「生きる糧、目的、意味」

 

云いかえれば生存が満たされてしまった人間は

 

本当は何をすれば正解なのかを自問しはじめ結果泥沼に落ちる

 

それは実に空しくて愚かな考えだ

 

目的のない生を抱えて右往左往するばかりで

 

その実、毎日が途方もなく空虚で退屈だと感じている

 

そしてこの途方もない退屈は人間を不幸へと駆り立てる

 

なぜなら真の満足はその先にしかないはずだと考えてしまうから

 

もちろんそんなところに幸福などあるはずはない

 

ただしオートバイへの熱中は享受できるだろう

 

どんなにオートバイを乗り換えても

 

どんなにパーツをとっかえひっかえしても

 

ぜんぜん満足できず幸福にはたどり着けないが

 

自然からの容赦ない洗礼を受けつつ

 

死を隣に感じるこの乗り物で走ることで退屈を紛らわせる

 

人間とはなんと「みじめ」な存在なのだろう

 

 

それでも今日もボクはオートバイに乗る

 

パスカルさんがなんと云おうと

 

とにかく楽しいもんねー

 

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今年の北海道ツーリングにはクロ介で行った

 

いまさら説明不要かもしれないが

 

「クロ介」と云うのはボクの所有するオートバイで

 

真っ黒なネコやカラスのことではない

 

ドイツのBMWが1990年に製造したオートバイで

 

フレームには「made in W.GERMANY」と

 

歴史を感じさせる刻印がある

 

4年前にRS(BMW R100RS)への断ち難い思いから

 

たまたま出会った「R100トラッド」を購入したわけだが

 

 

その時もうひとつの思いとして

 

もう一度ロングウェイツーリングに出たいな、というものがあった

 

そしてそれはできれば北海道がいいなと

 

けれど購入してから実際に北海道へ連れていくまでに4年もかかってしまった

 

それは乗り手であるボク自身の問題と

 

クロ介のある事情によるものだったのだが

 

ではその全てがクリアできたのかと云えばそうでもない

 

結局最後は「エイ、ヤー!」的な勢いが必要なのだ

 

 

これも何度も書いてきたことだが

 

このクロ介はオートバイ屋の店先で20年以上店番させられていた機体で

 

走行距離こそ12000kmと少なかったのだけれど

 

動かしていなかったことによる劣化の状況が不明で

 

出てきたらその都度そこを潰していくという方法でしか

 

現実的に対処が出来ないモノだった

 

実際にいわゆる「定番」箇所からの劣化によるオイル漏れが順番に出た

 

前後のサスペンションのオイルシールやシフトレバーのシャフト

 

オイルプレッシャースイッチ、ニュートラルスイッチ

 

プッシュロッドチューブのシール等々

 

まあ実際これくらいで済んでいてメカ的な故障はいまのところ出てない

 

2、3年はかかるかなと当初考えていたので実際そのとおりだった

 

かと云っていつ走行が難しくなるようなトラブルが

 

起こってもおかしくないことにいまも変わりはなく

 

現に去年の年末ごろに電気系統のトラブルが出て焦った

 

オルタネーターのローターコイルが断線したことと

 

イグニッションコントローラーがパンクしたこと

 

どちらも出先が遠ければレッカーになるような故障だ

 

電気系は故障が突然出ることが多く走行不能になりやすい

 

正直このまま北海道へ連れて行って大丈夫なモノなのか

 

そんな不安はどこまで行っても払拭できないだろう

 

 

一方ボク自身の問題だ

 

それは加齢

 

そこまで老いているわけではないが

 

50代に入るころ明らかに反射神経が衰えていると自覚した

 

それは無意識に車間距離が伸びていることで気付いた

 

その時、このままオートバイに乗り続けることへの不安を感じたのだ

 

それで一度大型オートバイから離れることにした

 

もちろん鈍くなったと云っても長年鍛えてきた感覚は

 

オートバイ乗りでない人たちよりはレベルが上だという自負はある

 

けれど

 

この問題に対する解決方法は実に簡単だ

 

走行スピードを1割か2割落とせばよいのだ

 

そもそも法規にそったスピードで走るなら

 

どんなに老いていても正常なら(ボケていなければ)

 

反射神経の問題で事故を起こすことなどありえないだろう

 

だからクロ介に乗り始めた時から意識を変える努力をした

 

絶対に熱くならない

 

イライラしたり先へ先へと焦らない

 

法規を遵守する(当たり前か)

 

こんなくらいかな

 

スピードレンジを落とせたことで逆に運転が楽しくなったようにも感じている

 

 

けれど結果的に去年北海道へSR400で行ったのは

 

いちばんの理由はフェリーの航送運賃の問題だ

 

太平洋フェリーの運賃は

 

400ccと750ccそしてそれ以上という3段階の設定で

 

SR400とR100の運賃には9000円もの差がある

 

これはホテル1泊分に相当する金額

 

実際には往復なのでなかなか判断に迷う要素だった

 

 

しかし実際にSR400での北海道ツーリングを終えてみると

 

逆にクロ介で北海道を走りたいという思いがますます強くなったのだ

 

長い時間、長い距離を走ってもまったく問題なかった

 

雨や寒さへも対応できるメンタルも変わっていなかった

 

だから

 

予期せぬ故障を心配し過ぎるのはもう止めようと

 

どこまで整備を繰り返しても

 

壊れない時は壊れないし

 

壊れる時は壊れるのだ

 

(この云い回し実は千鳥の大悟のボケなんだけど、妙に納得してしまって以来気に入っている、でもホントなんでもそうだよ、分かる時は分かるし分からない時は分からない、起こる時は起こるし起こらない時は起こらない、全部それだ)

 

だから今年はクロ介で行くことにまったく迷いがなかった

 

そしてそれは間違っていなかったし、思いが叶ったという充実感に満たされた

 

クロ介で走る北海道の道は本当に最高だった

 

その理由はそりゃあもうたくさん有るけど

 

エンジンのトルク感とかストロークの長いサスペンションとか

 

フラットツインの低重心とかね

 

BMW空冷OHVボクサーのメリットを褒めることはいくらでもできる

 

でも本当の理由はクロ介が持つ「官能性能」だとしか云いようがない

 

いちばん嫌いな抽象的な表現で申し訳ないが

 

それは単に数値で表されるスペックではなく

 

作り手の哲学と確信をもって開発された性能とも云えるかもしれない

 

企業の利益という手段とは完全に別次元で

 

彼らがこの機械に込める存在理由(レゾンデトール)

 

そしてそれが「刺さる」人との間に生まれる価値を「官能性能」と呼ぶ

 

だからそれはむしろ乗り手側に委ねられる性能かもしれない

 

難しく書いたけど実際はもっとシンプルだ

 

走らせているとうっとりする、とか

 

気付けば唇の端に笑みが浮かんでいる、とかそんな感じ

 

クロ介はただただずっとずっとボクに刺さりまくってくるのだ

 

走りながら語り掛け、何度も会話を繰り返す

 

まさに「相棒」と呼べるオートバイだ

 

 

そんなクロ介くん

 

北海道3日目の朝

 

岩内から小樽をパスするために乗った高速道路を走行中にトラブルが起きた

 

視界の端に入っていたETCのインジケーターが点滅(起動チェック)していた

 

すぐにスタンバイの緑になったがおそらく瞬間的に電源が落ちたのだ

 

その時は「うん?」という感じだったが

 

間もなくもう一度ETCは再起動した

 

電圧計の針も一瞬引っかかったように降下しすぐに元に戻った

 

もうこうなると冷や汗もんだが

 

出口のETCゲートでなんの問題もなく

 

その日はそれ以降一度も同じ症状が出なかった

 

とりあえずETCカードの抜き差しとケーブルの取り回しを確認してみたが

 

まったく何も変わりはなかったので気にしないことにした

 

 

翌日、早朝宿を出て路地から国道へ出るときに減速したらストールした

 

エンジンがまだ冷えているのかなと思ったが

 

電圧計の針が起点に戻っていたような気がした

 

がすぐに再始動

 

でももう頭の中では「コイル」かな、交換したばかりの「イグナイター」かなと

 

悪いことばかりが浮かんでいた

 

電気系統のトラブルなら部品交換が必要になるがもちろん手持ちなどない

 

正直いまの状況でボクに対応できる感じはしなかった

 

救いは北海道に出発する直前に

 

ズットライドクラブの距離無制限ロードサービスに入ってきたこと

 

ZuttoRide Club(ずっとライド クラブ)| バイク盗難保険・ロードサービス

 

宗谷岬を後にして(よりによって日本の最北にいるわけね)

 

宗谷丘陵を駆け上る長い坂の途中でまたエンジンがストールした

 

クラッチを切ってそのままセルを回すと再始動

 

「これはもう認めなければいけない」レベルのトラブルだ

 

祈るような気持ちでとにかく走れるところまでは走ろうと

 

「クロ介、頼む」と何度も声をかける

 

ところがその後しばらく症状は出ない

 

 

そして忘れた頃にもう一回

 

国道の接続が悪い比布の町を高速道路でパスしようと

 

旭川紋別道に入った後だった

 

トンネルに向かう長い急坂を上っている時

 

エンジンがストールし電圧計が落ちた

 

今度はもうセルも回らない

 

と思った次の刹那電源が回復

 

路側帯に入りながらクラッチを切ってセルを回すと今度も再始動に成功した

 

その時はもうただただパニックだった

 

なぜなら目前のトンネルは対面通行で狭く長いトンネルだったからだ

 

層雲峡のコンビニで休憩しながら探ってみるがよく分からない

 

冷静にこれを書いている今ならなんとなくピンと来るけど

 

この先は北海道の中でもかなりやばいエリア

 

原生林を越えて士幌へ抜けなくてはいけない

 

ただ救いは何度止めても始動にてこずる様なことは一切なかったことか

 

結果的には然別湖を経由して士幌の町までたどり着くことが来た

 

が、宿に向かう前にオイルの補給をしておこうと道の駅に向かっていた時

 

今度も少し急な上り坂でエンジンが止まり

 

惰力も尽きてついに路肩に停止してしまった

 

メインスイッチを何度かグリグリし

 

キルスイッチもカリカリと何度か動かしているうちに電源が入った

 

エンジンも何事もなく始動(たすかった!)

 

道の駅からテックモーターサイクルに電話して気を紛らわせる

 

何となく想像していたとおりイグニッションスイッチかその配線

 

あとヒューズかその配線あたりの接続や捩れをチェックしてみたらと

 

アドバイスを頂いた

 

けどね

 

こういうのって不思議だけど「確信」をもって触ると当たるね

 

ビンゴ!だよ

 

イグニッションの4本ある端子の内ひとつがぐらぐらしてた

 

北海道って知ってるかもしれないけどものすごく道路が悪いのね

 

もうそこら中でオートバイがガタガタ揺すられまくる

 

多分それで緩んだんだろうね

 

端子をグイっと挿して応急的にテープを巻いておいた

 

 

 

今回の全走行距離は約2000km

 

燃費も随分良くて22km/ℓも走ってくれた

 

オイル消費はそれなりで2リットル持っていたけど

 

帰りのフェリーに乗る前までに1リットル強補充したかな

 

「とにかく1回はクロ介で北海道を」という思いだったけど

 

「北海道はやっぱクロ介」だなと今は考えている

 

来年もう一回行けるかな

 

行きたいねー

 

 

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知ってのとおり北海道は相当に広大な面積を持つ島だ

 

すぐ北にある樺太と比べてもひと回りは大きいし

 

アイルランド島とはほぼ同じ大きさで

 

世界20位と21位でランキングに並んでいる

 

何となく似た雰囲気のニュージーランド北島と比べても

 

それ程遜色のない面積なのだ

 

具体的に云うと83,424平方キロメートル

 

周囲を3つの大海に囲まれ

 

中心には雄大な大雪、日高山脈を張り上げる

 

北緯40度以上という緯度の高さも相まって

 

日本においては特別な雰囲気を醸し出している

 

 

北海道をオートバイで走っていて感じる気持ちの良さは

 

日本の他の地域ではけっして味わえないレベルのもので

 

その理由は

 

比べ物にならない規模の豊かな自然の存在が大きいのだろう

 

と先回書いた

 

それと少しかぶるけれど

 

ここが農業大国であることが

 

もうひとつの理由かもしれないと思うのだ

 

北海道の農地は現在114万haあり

 

その内訳として田んぼが22万ha、畑が42万ha

 

そして酪農地(牧草地)が50万haもある

 

つまり北海道の景色は一方で桁外れて牧歌的であるという訳だ

 

あんな寒いところに22万haも田んぼがある事に少し驚いてしまうのは

 

ボクのアタマが古いからなのだろう

 

それは米が夏の寒さに弱いというむかしの常識にまだ縛られているに過ぎない

 

けれど実際にコメ所として有名な新潟県の田んぼ面積は15万haというから

 

北海道にはその1.5倍もの田んぼがある事になる

 

以前見た新潟の田んぼの風景はそれはそれは印象的だった

 

見渡す限りの水田の中を新幹線と高速道路が一直線に伸びているのだ

 

「ああ、日本のコメはここで作られているんだな」

 

と妙に納得させられる景色だったが

 

なんのことはないそれより遥かに北海道の方が田んぼは広いのだ

 

 

収穫量でみても1位の新潟県(59万トン)についで全国2位の54万トン

 

云われてみれば「ゆめぴりか」「ななつぼし」「きらら397」など

 

北海道産の銘柄米はもう相当なじみ深い存在になっている

 

品種改良などの技術進歩なのか

 

はたまた昨今流行りの地球の温暖化なのか

 

日本人のコメ作に対する執念が垣間見えるような気がする

 

そもそも土地があるのだからコメ作りしたいというのは

 

農家から見れば当たり前のことでしかないのかもしれない

 

 

一方22万haの田んぼに対して42万haもある畑だ

 

じゃがいも、かぼちゃ、小豆、タマネギなど

 

全国シェアの高い作物が多くある

 

意外な作物としては

 

道外の人間には馴染みが薄い「甜菜(ビート)」がある

 

甜菜は国内では北海道だけで育てられる野菜で

 

5万haを越える作付面積があるのだ(ちなみに東京ドーム10,694個分)

 

テンサイは砂糖の原料で、北海道には大きな製糖工場もある

 

国内自給率の低い砂糖だけど国内産の8割を北海道で生産しているようだ

 

そして、やはり北海道と云えば「じゃがいも」だ

 

作付面積はテンサイと同規模の5万ha(収穫量全国シェア8割)

 

有名な小豆(全国シェア9割)は2万ha

 

全国シェア60%を越えるタマネギも1万5千haと

 

さすがの生産力だ

 

 

酪農は云うに及ばずだろう

 

2010年度から北海道産の生乳の国内シェアは50%を越え

 

いまも毎年そのシェアを伸ばし続けている現状だ

 

どこまでも広がる空と同じ規模で広がる緑の牧草地に

 

白い牛が点々と散らばる景色はまさに北海道を代表する風景ではないだろうか

 

 

そして忘れてはならないことは

 

これら見渡す限り広がるその畑や牧場が

 

明治以降ひとつずつ人の手によって切り開かれたということだ

 

無数に生える木々を1本ずつ切り倒し、根を掘り起こし

 

水を引き、柵を巡らし

 

厳しい冬をじっとやり過ごしてきた

 

そんな先人たちの想像を超えた辛苦を思う時

 

この北海道の景色はまた違った深みと重みを感じさせてくれる

 

 

こんなにも豊かな自然の中にあって

 

多くの場所で人の営みがちらちらと垣間見えるのだ

 

今は真っ平らに見える町もかつては深い森だったはずだ

 

強い意志とたゆまぬ努力がこの景色を形作っている

 

そういう目で改めて北海道を眺めてみると

 

偉そうなことばかり云う自分が

 

いままでこの社会のために何をしてきたのだろうかと

 

そんな自戒の念も湧いてくる

 

 

そしてそんな豊かな大地を生み出すために欠かせないのは

 

この広い大地を幾筋にも分かれて潤す川の存在だろう

 

それは北海道の中央に聳える大雪山の峰々に

 

たっぷりと蓄えられた大量の雪どけ水を源としている

 

その水は谷筋にジワリと染み出して

 

ひと雫、ひと雫と集めながら麓へ下るのだ

 

深い原生林を養い

 

平地へ向かい田畑を実らせ町を作らせる

 

日本の河川で100kmを越えるものは68本あるが

 

そのうち北海道の川は14本

 

どの川も想像を超えるスケールで

 

あらためて地図で確認して驚いてしまうようなレベルだ

 

 

例えば十勝から原生林へ分け入って三国峠を越えて進むと

 

大きなダム湖「大雪湖」を渡る

 

あのダム湖の水が層雲峡を経て旭川を辿りやがて空知の町々を潤しながら

 

札幌をかすめて日本海まで注いでいるのだ

 

これは鮭の遡上で有名な「石狩川」で延長268km

 

信濃川、利根川に次ぐ日本第3位の長さだ

 

層雲峡を穿つあの川が石狩川だと容易には結び付かない

 

単純な河川の長さだけでなく流域面積の広さで見ても

 

「石狩川」「十勝川」「天塩川」と3本の川がトップ10に入っている

 

去年滝川から芦別を抜けて十勝へ向かう折

 

たまたま石狩川の大きな支流である「空知川」をたどるルートを走ったが

 

山深い国道に沿って流れる空知川の豊かさにはかなり驚かされた

 

とても支流という規模ではないのだ

 

出来ればもう一度ゆっくり空知川をたどって走りたいな

 

と思っている程強い印象が残っている

 

 

足寄から池田へ向けて国道をたどると「利別川」の流れに沿う

 

利別川は十勝川の支流で池田で十勝川本流と合流している

 

池田の町で右折して行く国道を無視してそのまま直進すると道道882号線に入るが

 

西の十勝川と東の旧利別川に挟まれた広大な平地には延々と畑が続いている

 

おそらくは十勝川と利別川が何度も氾濫してできた沖積平野なのだろう

 

その痕跡なのか畑の中に妙な形の沼がいくつも散らばっているのが見える

 

さらに進んでいくと道道は豊頃の町へ出て十勝川を渡る

 

 

茂岩橋は1961年に竣工した古い橋だが

 

橋長が946mもある立派なトラス橋だ

 

水色のトラスが印象的だったので後で調べてみたら

 

はたして土木学会の土木遺産に指定されていた

 

なんでもあのカッコいいトラスが「変断面下路式ゲルバートトラス」という構造で

 

その構造の橋梁の中では最長ということだった

 

良く分からないが確かに土木建築のレガシー感は漂っている

 

橋から眺める十勝川はとても頼もしく穏やかな流れ

 

もう河口が近いのだ

 

時間があったので河口の集落「大津」へ行ってみた

 

ひっそりと静まり返った小さな漁村の集落を抜けると路地は高い堤防にぶつかった

 

脇にある細い小径を駆け上ると十勝川はまさにそこで海に注いでいた

 

 

十勝岳から集めた小さな雫が

 

こんなにも大きな流れとなって

 

いまボクの目の前で海に流れ込んでいる

 

太平洋から河口へ押し寄せる波は止めどなく

 

その砕ける音が断続的に響くだけで

 

川は静かに穏やかにその長い旅を終えていた

 

ふと喜納昌吉の「花」の歌詞が頭をよぎった

 

川は流れてどこどこ行くの……

 

人も流れてどこどこ行くの……

 

そこに花が咲いていると信じられるような風景だったよ

 

 

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