ボクたち人間には道具を使うという特徴がある

 

他の生き物の中にもごくわずかにそれは確認されるが

 

ともあれ人間固有の能力と云ってもいいものだろう

 

云うまでもなく人が持つ高機能な脳と

 

複雑な動きが可能な手指がそれを可能にしている

 

箸や包丁など身近なものから

 

クレーンやロケットなど大きく精巧なものまで

 

ボクたちは実に様々な道具に囲まれて暮らしている

 

ボクが大好きなオートバイももちろんそのひとつ

 

箸に比べたらとても複雑で精密で凝った作りをしている

 

しているが、箸より便利かと云われるとこれがかなり微妙だ

 

道具は大抵どれもその目的に合った機能を持っているが

 

実は案外単機能だったりする

 

よく云えば特化していると云うことか

 

 

身近なので、箸を考えてみる

 

人間の暮らしの中に登場した時期については諸説あるようで

 

調理に火を使うようになった頃にはすでに

 

箸のようなものが使われていたという説もあるが

 

現代においてコメの文化圏に箸が一般に広まっていることを考えると

 

3000年くらい前の中国を起源とする説に蓋然性を感じる

 

けれどその箸を使って食事をする地域は世界全体の中では3割ほどだ

 

あとはナイフ、フォークなどカトラリーを使う地域が同じく3割ほど

 

そして残る4割はと云うと、手や指を主に使って食事をするのだ

 

現在カトラリーを使用する地域でも

 

ナイフとフォークをセットで使用するようになったのは

 

19世紀になってからというから

 

世界的に見れば食事は手や指でするものだったということか

 

日本人の感覚からするとちょっと驚くような実態だね

 

 

その箸

 

究極の単純さ

 

言葉は悪いが、棒っ切れが2本だ

 

さっきコンビニで買ったカップヌードルを山の中で食べようとしたら

 

箸もカトラリーもないことに気付いて

 

ああ!あのクソ店員がー!と下品なことを口走りながら

 

その辺に木の枝が落ちてないか探した経験、あるよね?

 

実はそれボクはよくやるんだけど

 

つまり棒っ切れがあれば事足りるような構造が箸

 

さっきも触れたけど中国から米の文化圏へ広がっていった

 

長い時間をかけて広い範囲に広まって行けば

 

一般には独自の変化を見せたりするものだけど

 

変化するにも箸には棒っ切れ2本という単純な基本構造しかなかったので

 

長さや素材に少し違いがみられるくらいで

 

パッと見で「箸」だとわかる範囲内の変化しか起きなかった

 

むしろ変わったのは箸を扱う習慣や作法の面の方が多くて

 

早い話「お国柄」が出たということなのかもしれない

 

例えば日本、島国でクセが強い民族だ

 

日本では箸は自分専用だ

 

茶碗や湯呑みも専用だけどこれは日本だけに出来た風習だという

 

また、箸というと日本ではマナーや作法にうるさいが

 

正しい箸の持ち方にこだわる国は他にはほとんどない

 

箸なんてご飯が食べられればどう使っても良いのだろう

 

箸の作法にまつわる言葉も日本語には多くあり今でも結構耳にする

 

差し箸、迷い箸、ほじり箸

 

寄せ箸、揃え箸、ねぶり箸

 

日本人なら何となくわかるニュアンスの言葉だ

 

でも一般論だけど

 

箸だけでなく道具はやっぱりうまく使えるほうが良い

 

それにどうせ使い方に慣れるのなら良いやり方で慣れるべきだ

 

その方が賢そうに見える

 

賢そう?どうでもいい?

 

いやいや、みんな大好きだよ

 

「スマート」いまやなんでもスマートじゃん

 

賢いっていう意味でもあるでしょ

 

なんて書いてるけどボク自身の箸の持ち方はヘンテコリンだ(なら云うな)

 

中指と薬指に箸が1本ずつ乗っかっていて人差し指はフリー

 

実は鉛筆も持ち方がおかしくて

 

書道の筆のように持っている(中指の腹で支えている)

 

だからこれも人差し指フリー

 

人差し指使いたくなかったのか……

 

でも箸の方は幼稚園の頃に父に厳しく躾けられた記憶があるのに

 

いわゆる間違った持ち方だなんてね、結構笑える

 

ともあれ道具を上手く使うということは

 

特にテクノロジーが身近となった現代人には必須の能力

 

最近よく云われるAIもそうだろう

 

道具としての機能を上げるのではなくてその使い方を工夫する

 

ただ「使う」ではなく「良く(善く)使う」

 

これは人の生き方にも通じる哲学だ

 

 

先に書いたようにオートバイも人の道具だ

 

箸とは比べ物にならないような複雑さ、精密さがある

 

アフリカ、インド、東南アジアなどではいまだに移動の手段だ

 

オートバイより高次元で移動運搬が可能なクルマがどんなに普及しても

 

オートバイの手ごろで気安いという特徴はまだまだ魅力がある

 

ではあるが道具としてのオートバイにできることはやはりあまりない

 

人を乗せて移動できるがそれだってせいぜい二人か三人だし

 

荷物の運搬も運べる物や量はかなり限られる

 

むしろ二輪車であるということの欠点の方が多い

 

雨が降ればずぶぬれになり

 

炎天下ではひどく暑い

 

バランスを崩すと転倒するし

 

しかも下手をすると死ぬというおまけまでついている

 

そもそも元々あった自転車に動力を付けたものとして生まれたオートバイ

 

基本はどこまで行っても自転車なのだ

 

クルマだって馬車から馬を無くした、といえばそれまでだけど

 

自転車ベースのオートバイの道具としてのレベルは残念ながら低い

 

箸の方がまだましなのかもしれない

 

なぜなら箸で人が死ぬことはほとんどないでしょ

 

人が死ぬような道具ならそれ相応のメリットがなければいけない

 

飛行機は落ちたらほぼ死ぬ危険な乗り物だけど

 

アメリカまで半日くらいで行けるというすごい魅力がある(実際には時差があるが)

 

スマートホンは購入にも維持にも相当にお金がかかるけれど

 

手のひらにエンターテインメントを持ち歩けるというメリットは大きいだろう

 

 

一方、最近のクルマは本来比較の中心となるべき動力性能よりも

 

安全と環境性能を高めることで

 

クルマで移動するということで生じるデメリットをできるだけ抑え

 

その社会的価値を高めることに開発の中心は移っている

 

クルマを使うことは地球環境を基本的には悪化させるが

 

内燃機と電動機を併用することで環境負荷を減らし

 

将来的には電動機を主流とすることで克服しようとしている

 

交通事故という社会問題へも積極的な取り組みを続け

 

事故に際しての乗員保護はもう当然だが

 

乗員ばかりでなく対人の事故での被害軽減をも考慮されている

 

また最終的には自動運転を視野に入れたアクティブセーフティの部分では

 

カメラやセンサーを使用した自動ブレーキや車線の逸脱防止装置など

 

すでに多くのクルマで装備されている

 

 

しかし問題もある

 

世界的なインフレ傾向や戦争による経済の停滞もあるが

 

クルマは年を追うごとに高機能となり結果的にどんどん高価になっている

 

道具の条件としてさっき書いた「費用」とそこから得られる「効果」が

 

アンバランスになってきている印象がある

 

高級車と云われるクルマがそうなることには何の問題もない

 

そもそも「高級車」というニーズだということなのだから

 

高級な、とかプレミアムな、ラグジュアリーな

 

といった付加価値をクルマに求める層に需要があるだろう

 

けれど軽自動車でそういった、装備を競い合う風潮は

 

なんとも馬鹿っぽい、とボクは思う

 

居室空間の広さ優先のあんなペラペラなボディ

 

クルマの走る曲がる止まる、という基本性能もそこそこに

 

人と荷物を乗せて走ればいい、のクルマなのに

 

200万円を優に超えるプライスタグを平気で付ける

 

メーカーに云わせるとニーズがあるんだそうな

 

500万円の普通車は買えないけど

 

200万円で同じような装備の豪華さを楽しみたいということか

 

だいたい日本人のすごいところでもあるけど

 

実はこれが悪いクセでもある

 

チープなものを重箱をつつくようにこねくり回し

 

あれやこれやと盛っていくことが大得意だ

 

そして人間という生き物はそんな精密な豪華さが大好きなのだろう

 

装備が付いているかいないかだけで精神的優位が保てる阿房が多い証拠だ

 

チープなものをそのまま作っていた海外のメーカーは淘汰され

 

やたら高価で精密で高機能なものを作る日本メーカーにやがて独占されてしまう

 

(いまはそうでもない、海外メーカーの方が最初から精密で高機能。でもそれって実はかつての日本メーカーの製品を研究してきたからだとも云われる、つまり日本は負けたのだろう)

 

自転車にエンジンを付けてみたオートバイ

 

そんなチープな道具だ

 

ヨーロッパでちまちまとやっていたオートバイのレースに

 

日本の企業が乗り込んできて

 

125ccエンジンで5気筒20バルブ、8速トランスミッション

 

なんていうエンジンをぶっこんでくる

 

それはそれでもちろん確かにすごい技術力だとは思う

 

それにこれはエンジン本体やトランスミッション

 

もちろんそれを支えるフレーム、タイヤなどの純粋な技術競争だ

 

そこに競争の比重があるうちは十分意味がある

 

でもエンジンをやりつくし

 

コンピューターを持ち込んだ今

 

オートバイの進化はいったい何の進化なのかが分からなくなった

 

 

クルマを移動や運搬の道具とするようになった先進国では

 

オートバイを日常の足として使う人が減った

 

家族を含めたパーソナルな移動の道具としてはクルマが断然優位なのだ

 

経済的な余裕が生まれれば必然的にクルマへシフトする

 

その代わりに二輪車を道具としてではなく

 

純粋に走らせることに楽しさを感じる人が出てきた

 

そしてオートバイは新たに趣味の乗り物という位置づけを得た

 

エンジンやフレーム、サスペンションに各社が工夫を凝らし

 

その違いを楽しむ

 

相変わらず多くの人がオートバイで死ぬが

 

もうそれをオートバイがなんとかできることは少ない

 

趣味としての楽しみだからリスクも折り込み済だ

 

道具ではなくなったオートバイには費用対効果はもう必要なかった

 

その効果は目に見えない「何か」なのだ

 

でもこの趣味の乗り物としてのオートバイに

 

大きな問題が残っているとボクは思う

 

けして難しい話ではないがこれに自信がある人は少ないと思う

 

また自信がある人でもそれが正解かどうかは正直結局わからないだろう

 

それはこのオートバイを操る方法のことだ

 

実はずーっと曖昧なままだ

 

人が運動(体を意図的に動かすという大きな意味)するときに

 

実際に脳が命じていること、そして感じていることを

 

具体的に言語で示すことができないという問題なのだ

 

概念は言語によってある程度の共通性を持つかもしれないが

 

完全ではない

 

自分が紫という色を人はすみれ色とか赤みを帯びた青と云うかもしれない

 

オートバイの工学的な動きを数学で説明できても

 

それを感じる人の感覚概念を示すことができない

 

トラクションをかける、はなんとなく理解できても

 

トラクションを感じる、は人それぞれの概念があるはずだ

 

荷重と加重、そして抜重

 

こういった言葉を曖昧に使っている似非専門家のなんと多いことか

 

道具を使う上で大切なのはこの言葉にできない部分を体得することだろう

 

スポーツとはそこを競い合うものだし、またそこを楽しむものだと思う

 

オートバイの面白さも絶対にそこにあるとボクは思う

 

正直、インストラクターとかいう人たち、元レーサーとか云う人たち

 

感じ方を誤っているとか

 

語彙力がないとか

 

身体工学的な裏付けに乏しいとか

 

どれもみんな一長一短

 

つまりみんなバラバラなことを主張している

 

肩を上げる、とか骨盤を起こすとかいうけど

 

その結果何が起こっているのか、何を求めているのか

 

みんな曖昧だ

 

クラッチが面倒くさいという前に

 

クラッチの使い方を覚える方が絶対におもしろい

 

もちろん操るテクニックだけでなく

 

路面を読んだり、天候を克服したり

 

そういったメソッドも楽しいのだ

 

 

けれどオートバイが工業製品である以上

 

製造会社は企業の存続という足枷を常にはめられている

 

より良いとは何かを考えながら

 

より受け入れられる、より売れる、モノは何かと考えてしまう

 

どんな道具にも使うにはコツがいる

 

もう一度云うけど、ここに楽しさ、面白さがある

 

たとえば金づちで釘を打ち込むという動作で体得すべきこと

 

目線の先の置き場所、関節や筋肉の使い方

 

金づちを持つ位置、振り上げる速度と角度

 

そんな人がいるかどうかは知らないが金づちを使うことを楽しむ人に

 

ハンドタッカーはどうなんだろうか

 

金づちを進化させた先がハンドタッカーだとしたら

 

それは純粋に作業道具としての進化であって

 

金づち本来の進化ではない

 

ボクたちが楽しむオートバイも単なる道具ではない

 

だからこそ享受する側が

 

オートバイを欲しいと思うユーザーの方が

 

もっとしっかりとメーカーに要求しなくては思わぬ方向へ進んでいってしまうだろう

 

オートバイに高級さや安楽さがどれほど必要なのか

 

クルマと同じ装備がなぜオートバイにも必要だなどと考えるのか

 

ADVやアエロックスの人気を見ていると

 

ここからオートバイが進んでいく先が

 

道具と化したオートバイにしかボクには見えない

 

これも小うるさい老婆心と云うものか

 

 

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「梅雨明け十日」といって

 

むかしからこの時期の猛烈な暑さは別格だった

 

南海上の太平洋高気圧がぐんぐん勢力を強めると

 

それまで頑張っていた梅雨前線もズルズルと北へと押し上げられる

 

もうこうなればそれは絵に描いたような梅雨明け

 

同時にこれまた絵に描いたような夏が来るのだ

 

 

エアコンなんてものが家庭になかったころの日本の夏

 

みんな下着一枚みたいな恰好で夕飯を取り

 

終えるが早いか一目散に外へと飛び出し

 

軒先に並べた縁台で暑さをしのいだものだ

 

近所の人たちもみんな同じ

 

かたずけを終えたお母さんたちが出てくる頃には

 

ずいぶんあたりも暗くなって

 

蚊取り線香に火をつけ

 

風鈴の音に涼を求め

 

子供たちは子供たちで

 

女たちは女たちで

 

みんなゆるゆると団扇をあおりながら

 

とりとめもない世間話をして過ごすのだ

 

これがかつてのこの国の夏の宵の光景だった

 

どんなに暑いと云っても夜の空気は一味違うものだ

 

熱帯の夜のようなエキゾチックな趣がある

 

退廃的でとても淫らな匂い

 

夏の夜祭がなんだかワクワクさせるのは

 

それはもうこの暑さのせいだ

 

これくらいの余白を楽しんでもいいんじゃないか

 

どっちみち暑いってだけでしょ

 

 

でもね

 

そんなふうに云っちゃあいけない雰囲気だ

 

意味不明の同調圧力すら感じる

 

テレビでは朝から晩まで「暑い暑い」の連呼

 

気を付けてください

 

命を守る行動をとってください

 

現に亡くなる人がいる訳だからある程度は理解する

 

熱中症患者のために救急車が出ずっぱりで

 

救急病院も手一杯なんてことになったら

 

一刻を争うような患者の受け入れが難しくなることも考えられる

 

これは社会問題と云えるだろう

 

それにAIに聞いてみてもこう答えが返ってきた

 

「熱中症は予防が可能です」

 

つまり予防が可能な社会問題だから

 

大衆へ注意喚起することはマスコミの大切な役目なのだろう

 

毎日毎日、暑いですねと繰り返すのもやむなしということか

 

 

でもどんなに健康体な自分でも

 

毎日毎日こればかり云われ続けていると

 

ちょっと頭がボーっとして動悸がしただけなのに

 

なんだ?熱中症なのか?

 

こんな場所で意識を失って倒れたら死ぬんじゃないか?

 

なんてふと頭をよぎってしまうものだ

 

こうなるともうこれは一種のノイローゼ状態

 

ノイローゼだって自律神経がやられて同じような症状が出るでしょ?

 

出ない?

 

まあいいや

 

少なくともボクはノイローゼになったような気分になる

 

本当にもうこの連日の酷暑報道には辟易としているのだ

 

40℃だろうが50℃だろうがほんとどうでもいい

 

地球が暑くてそれに耐えられないなら死ぬしかない

 

焼けたアスファルトの上で干からびた哀れなミミズたちを見よ

 

それと同じだ

 

ミミズじゃないんだ、人間なんだから自分で気を付けるさ

 

ほっといてくれ

 

ああ、もう煩いったらない

 

 

 

……やっぱりノイローゼか叫び

 

 

 

週に4日くらいウォーキングをしている

 

気分転換と運動習慣のためだ

 

真夏でも真冬でも1時間くらい歩く

 

1時間なら気温が35℃くらいの夏の午後でも

 

気持ちいい汗が噴き出す程度だ

 

昨日は39℃を越えていたけど

 

脈拍を120回/分程度にコントロールすることは可能だった

 

天邪鬼みたいに聞こえるけど(天邪鬼ではあるけどね)

 

夏の暑さより真冬の2℃くらいの日の方がきつい

 

しかも北風が10m/s超で吹き付けばもう最悪だ

 

耳や顎がちぎれ落ちそうになる

 

オートバイでもそうじゃない?

 

真冬に装備を間違えた時

 

大袈裟でなくそれは死を予感させるよ

 

指の感覚がなくなるくらいならまだしも

 

震えが止まらなくて歯がガチガチと音を立てるなんてことになれば

 

もう低体温症一歩手前だ

 

実際統計的にも凍死(低体温)の方が断然多いよ

 

その割に真冬はさほど「寒い、寒い」とは騒ぎ立てないよな

 

どうしてなんだろう

 

おかしな世界だ

 

 

近頃はオートバイを運転する他人の服装を気にする輩がいるらしいが

 

ボクの夏の服装は大抵ペラペラのチノパンに半袖シャツ腕剥き出しだ

 

こんなことを気にしてくれる人いるんだ、しかも赤の他人様なのに

 

ありがたいことだな

 

いや、ほんとありがとう(ちがうか、ディスりか、知ってるって)

 

こんなボクだって若い頃はいろいろ装備してた時もあったけど

 

ライディングウェアってどれも非日常的でどうもしっくりこないし

 

もうどうでもいいやって云うのもあって

 

最近は気にしてない

 

気持ち良さ優先、でもないか

 

それでもブーツは履くしグローブも嵌める

 

操作するときそれで慣れているからかブーツとグローブがないと気持ちが悪い

 

グローブは外縫いしか使わない、とか

 

ブーツもつま先の厚みとソールの固さに結構こだわりがある

 

ヘルメットはジェットにアイウェアかゴーグル

 

今かぶっているアライのクラシックエアーはとてもよくできている

 

普通のジェットはシールドがないとスピードを上げたとき

 

空気が頭部とヘルメットの隙間に潜り込んでぼわーっとするが

 

クラシックエアーはヘルメット内部の空気を抜く構造になっていてそれが起こらない

 

そしてネーミングどおりエアーが流れてとても涼しい

 

どんな換気機構であってもフルフェイスヘルメットなんか比べものにならない

 

多分ヘルメットの中で一番涼しいね

 

シャツの襟元をハタハタとはためかせて走る夏が好きだ

 

走っていれば猛暑日くらいならまだ風が涼しい

 

山かげや木立の中ならさらにクーラーが効いている

 

でもね

 

夏の強烈な日差しに焙られる感じ

 

木漏れ日さす木立の涼やかな感じ

 

そういうのを楽しまないともったいないね

 

せっかく日本には四季があるんだから

 

 

川岸に少しできた余白にオートバイを停める

 

エンジンを切る前にホーンを2,3発

 

これ最近の習慣になった

 

クマへの牽制(になればいいが)

 

川筋はクマの通り道になりやすいから余計にね

 

小さなホイッスルも胸のポケットに入れている

 

周囲をよく見渡してから荷台に縛り付けた折り畳み椅子をほどいて

 

川岸にセットする

 

ここは背の高い木に囲まれていてとても涼しいところだ

 

川面からはひんやりとした空気が溢れて

 

猛暑日なんてこれっぽっちも感じさせないのだ

 

川には小さな魚がいっぱいいて

 

風に吹かれて葉っぱが落ちるとサーっとそいつらが集まってくる

 

ためしに水筒の水を手に取ってパラパラと投げ

 

水面に波紋作ってみたらやっぱり同じように魚たちが集まる

 

それが面白くて何度も何度もやってしまうんだけど

 

魚たちは飽きることなくその都度同じようにサーっと集まる

 

「いいかげんにしな」とは云わない

 

だから切りなくパラパラ水面を揺らす

 

そんなおっさんの今年の夏だ

 

 

これ

 

帽子買うと型崩れ防止なのか、こんなの入ってるよね

 

サイドバックの底に落としたままになってた

 

これをこんな風に畳んで

 

 

 

タンクとシートの隙間に挟んでみた

 

ぴったりポンだ

 

お試しあれ

 

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「雨の降る日は天気が悪い」

 

こう云ったのが誰かは知らなかったが

 

子供のころこれに勝手に節を付けて歌うことが好きだった

 

なぜって、あまりに当たり前なことを

 

これほどまでに真正面から云い放つ迫力に

 

子供ながらに感激したからかもしれない

 

改めて調べてみたら

 

詩人である英文学者の土井晩翠の随筆集の題目であった

 

土井晩翠と云えば「荒城の月」の作詞者だ

 

「分かり切っていることを並べ立てるのだから……」

 

こんなタイトルにしたのだそうだ

 

ボクが感じたままなのだ

 

どうして子供のボクがこの言葉を知ったのか分からないけど

 

初老になった今でも

 

雨の日に窓から外を眺めながら

 

「雨の降る日は天気が悪い」とヘンテコリンナ節回しで口ずさむのだ

 

そしてやっぱり恨めしく思う

 

梅雨なんて嫌いだ

 

 

天気がいいとか、わるいとか云うけれど

 

「いい(良い)」か、「わるい」か

 

そんなものは人によって変わるし

 

シチュエーションによっても変わる

 

なのになんで天気がいい、とか云うのだろう

 

天気がいい、と云えばふつうは晴れている様子の事だろう

 

晴れていてもすごく寒くて風が強ければ、いい天気とは云わないかな

 

逆に、良く晴れて猛烈に暑い日はどうだろう

 

やっぱりそんな日に呑気に「いい天気ですね」とは云い難い

 

でも、天気が悪いとも云えない

 

若いころ勤め先の部署のミーティングでこんなことがあった

 

部署のリーダーが「今週も雨が続くから……」と云い始めたら

 

同期の一人が「よしっ!」と小さな声で云った

 

この職場は雨が続くと全体の客足に影響するので雨はあまりよろしくないのだ

 

なのに「よしっ!」という声を聞いてリーダーは切れまくった

 

「何が良しなんだ、云ってみろ」と詰め寄る

 

「いえ、カッパが売れるかと……」

 

彼の担当は作業用のアイテムだ

 

カッパや長靴も扱う

 

「カッパの売り上げが全体に占める構成比はどれくらいなんだ?」

 

そんなに理詰めで責める話でもないが

 

リーダーは上がらない売り上げにイライラしていたからね

 

まあでも担当者からすれば雨は「(都合の)いい天気」な訳だ

 

けれどやっぱり大方は

 

土井晩翠が云うとおり、雨の降る日は天気が悪い、のだろう

 

分かり切っていることを……まあそのとおりか

 

          〇

 

今年の梅雨は台風の接近もあったりしてしっかりとした雨を降らせた

 

春先まで渇水が続いていた三河のダムもすっかり貯水量を取り戻したようだ

 

湿度こそ流石にそこそこ高いが比較的気温の低い日が多くて

 

幾分過ごしやすかったように思う今年の梅雨

 

けれどもうこれからは話が変わるだろう

 

日本の南にデンと居座る太平洋高気圧

 

高度を上げた真夏の太陽の強烈な日差しに焙られる

 

早く晴れないかな

 

梅雨が明けないかな

 

なんていう思いも

 

いざ雨が上がってみればもうそこは猛暑、酷暑の夏だ

 

日本のオートバイ乗りにとってはこのところ真夏はオフシーズン

 

今年もまたそんな感じなのかな

 

      〇

 

なんて書いていたのは雨の続く日々だった

 

それが夜のニュース番組を見ていたら

 

明日からはなんだか梅雨明けみたいな具合で

 

週間天気に「晴れ」のマークがずらりと並んでいた

 

しかも気温はうなぎ上り

 

38℃なんてヤツもある

 

まあ云うても7月の半ば

 

さもありなん

 

そうして一晩明けた今日は朝から日差しが強く差した

 

SR400のサイドバッグに氷を入れた水筒を忍ばせる

 

顔や首に日焼け止めを塗りたくり

 

ハーフスリーブのシャツとチノパンで走り出す

 

そうしたら意外にも空気はまだ少しひんやりとしていて拍子抜けした

 

というかハーフスリーブではサブかった

 

木立の中や川の際の空気はまだひんやりとしているのだ

 

それがじわっと流れ出してきているのだろう

 

いやいや、今日は日中30℃を超えるのだ

 

涼しいなんてことはいいことだ

 

サブいは良くないけど涼しいは歓迎だ

 

       〇

 

いつものように山へずんずん分け入っていくと

 

高度を上げれば上げるほど空気はさらにひんやりとした

 

千万町(ぜまんじょう)から切山へ抜ける峠は

 

確かに真夏でもひんやりと感じる場所なので(高度800m)

 

しっかりと梅雨明けしてない今頃ならそうなんだろう

 

剝き出しの腕にサブイボができる

 

 

ゴーグルを外してスピードを緩める

 

ゴーグルのレンズが濃いスモークなので外すと景色が一気に鮮やかになり

 

陽の光もパキッとする

 

ボクのSRは「グレイッシュブルーメタリック4」というカラーだ

 

晴れた戸外で見ると確かに少しグレーが入った青

 

水蒸気を多く含んだちょうど今の時期の空の色に似ているんだね

 

 

夏はやっぱり川沿いを走る道や山の木立の中を走る道がいいね

 

深い山の中の渓流にそって走る道が最高だ

 

そういうルートって実は何気ない脇道の先にある事が多い

 

そう思いません?

 

どこへ続くか分からないような脇道

 

気持ちよく走っていると時折目の端にチラッと写ることあるよね

 

なんとも云えない雰囲気の脇道への入り口

 

最近はグーグルマップのストリートビューが本当に隈なく網羅しているから

 

部屋にいながらにして脇道探検が可能になってしまった

 

でも、ダメだよ

 

オートバイは未知の脇道へ踏み込んでこそなんだよ

 

気になる脇道は胸にそっと秘めて

 

いつかの日におもむろに突入するのさ

 

今日は実はかねてからツバをつけていた「脇道」へ行ってみた

 

 

それは加茂広域農道の途中にある

 

広域農道はそもそもこういう脇道が多い

 

何処に繋がるんだろうと思いながら

 

大抵は農道の走りに没頭してやり過ごしてしまうんだ

 

何があるのか、どこへ抜けているのは知らないが

 

今日は「そこ(脇道ね)目的」だからもうワクワクしながら入り口を目指した

 

農道の走りなんて消化試合さ

 

 

この脇道の佇まい、たまらんねー

 

こういう時はさっきも云ったけどあえて事前に地図は見ない

 

人間にも残っているはずの地磁気を感じる野生と

 

あとはこのジジイに蓄積された経験的な勘

 

川の流れる向きとか影のできる向きとかね

 

それを頼りに走るに限る

 

 

脇道へ入ってすぐわかったけど

 

この脇道は予想外にしっかりしたルートだった

 

道幅は5~6mくらいある

 

入ってからすぐものすごい下りの勾配が続いた

 

細かくクネクネと斜面を切り返し

 

どこまで?というくらい下って行く

 

谷筋へ向かっているのだろう

 

途中で他のルートにぶつかるが道が下っていく方を選んで進んでいく

 

二つ目の合流を下って行くとふいに道は上りに転じた

 

ひとしきりそれを上り詰めると明るい峠を越えて集落に出た

 

バス停があって「奥平峠」とあり「おくたらげ」と振ってある

 

 

変な読み方だけど地名だからね

 

でもバス停をよく見ると「迷鉄バス」となっている

 

 

この辺りは「名鉄(名古屋鉄道)バス」のテリトリーだ

 

名鉄と書いて「めいてつ」と読むが、こりゃパロディか

 

もう少し下るとさらにひとつ迷鉄バス「萩の平(はぎのひら)」のバス停

 

 

集落の中ほどまで来ると公民館があった

 

「葛沢(つづらさわ)」というところだったみたい

 

ここにあったバス停は足助のコミュニティーバスのだ

 

だったらやっぱりあれは何だったのか

 

まあいいか

 

八幡社の灯篭が立つところに大きなスギが二本

 

 

すごっ!

 

古くから人が暮らす山里なんだな

 

 

葛沢という名のとおりでこの先深い谷を急流が下っていた

 

道路もまた急な下りになり右へ左へと折り返しながらさらに下って行く

 

下りきると大きな橋のたもとに出る

 

 

ここは見覚えのある場所だ、ああ、ここへ出るのか

 

国道420号だ

 

大見橋を渡ってすぐに左へ折れて県道364号線へ入る

 

ここは岩がゴロゴロの神越渓谷をたどって山へ分け入る

 

加茂広域農道が途中で接続しているので

 

三河のオートバイ乗りならみんな知っているルートだろう

 

 

神越のマス釣り場で県道367号線にスイッチした

 

364号はこの先神越峠で途切れて向こうへ抜けられないのだ

 

367号へ入ると道幅もそこそこに広がって

 

適度なワインディングが続きオートバイの切り返しが楽しい

 

あっという間に元の国道420号線に出てしまった

 

 

のんびりと走ったつもりだったけど

 

家に戻って走ったルートをグーグルマップでなぞると

 

見逃したところやもっと良いルートなんかが見つかってしまう

 

本当は走りながらこういう気付きがあるといいね

 

少しあっさりと走り切ってしまった印象があるからね

 

今日は渓流や深い山の中ばかり走ったから

 

そこまで暑くはなかったね

 

それとまだ梅雨が明けきっていないせいか

 

気温が上がれば上がるほど薄い雲が増えて日差しが少なかった

 

それでも湿度が高くて気温も33℃

 

明日はもっとやばいらしい

 

 

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伝わっていないと思うが

 

このブログはオートバイという乗り物からボクが感じるなにかを

 

何とか言語化しようという試みなのだとボクは考えている

 

ボクの主観を客観化しようということだ

 

けれどボクの主観が持つ「オートバイ」の概念は

 

曖昧で、とりとめがなく、不安定で

 

いろいろと手を尽くしてみるがどう表現してみても

 

結局「これだ」と見せられないものなのかもしれない、と感じてもいる

 

でもそれはボクの表現力に問題があるという事実もさることながら

 

そもそもオートバイの楽しさとはそのような類(主観的)のモノだ

 

ということなのかもしれない、と思うのだ

 

そしてたとえ「客観的」な概念でそれを表現できたとして

 

それはどこまでいってもボクの個人的主観でしかない

 

それは主観だからそうなのだろう、と主観は思うのだ

 

自分という特殊性、意識という特殊性は

 

人間には答えの出せない問題のように感じる

 

 

個人的な印象や経験のことを主観という

 

主観を言語化することなんてまともに考えれば不可能に思えるけど

 

実際には印象や感覚に関する概念、言語は多く存在している

 

柑橘類を口にしたときに感じる酸味を「すっぱい」と云うが

 

すごく甘いと云われて食べたキウィがものすごく酸っぱかったり

 

レモンの切り口を見ただけでそれをすでに酸っぱく感じる時もある

 

酸味を数値化することはおそらく可能だと思うけど

 

どこからどこまでを酸っぱく感じるかは人に依るし

 

酸っぱい感覚を場合によっては爽やかだと感じることもあるかもしれない

 

この逆が客観だ

 

客観とは文字どおり個人的な思いなしではない

 

データや第三者の視点で物事を一般的に見定めることだ

 

けれどこの客観は実に危うい

 

いったい誰がこの客観性、第三者性を保証するのだろうか

 

 

保障された客観性と云えばそれは科学だろう

 

客観性こそが科学の信憑性や社会性を確実に担保するのだと

 

多くの現代人は原理的に信じている

 

手にしたボールはどこで誰がそうしようと手から放せば下に落ちるし

 

次の皆既日食がいつどこで見られるかは計算可能なのだ

 

誰もがいつでも再現可能という客観性

 

暗闇で幽霊を見るのは錯覚という見間違い(思いなし)だが

 

隣の電車が動き出したのに自分の乗った電車が動いたように感じる錯視は

 

いつでもだれにも起こる心理学(科学)的現象だ

 

一方で科学ではある日突然その概念が入れ替わるような事態も起きる

 

それまでいくら同じ結果が得られていようが

 

たった一つの反証によってすべてが覆ってしまう

 

しかし、この反証可能性は科学の証でもある

 

完璧な客観性はかえって怪しく

 

反証の可能性を持つ客観性が科学を進歩させる

 

人の主観の怪しさもそうだけど客観だって完全な真ではない

 

 

脳科学ではその機能解析を進める中で

 

高次認知機能である人の意志や情動の解明にも踏み込んでいる

 

研究測定装置の目覚ましい発達に支えられて

 

急速にその解析は進んでいる

 

しかし、これは意識のハードプロムレムと呼ばれる特殊な領域だ

 

意識のハードプロムレムとは簡単に云えば(本当は簡単に云ってはいけない)

 

感じ方は「十人十色」という常識的な感覚を科学しようとすること

 

つまり「主観」を「客観」的に解明しようという自己矛盾

 

云わば無理難題だ

 

だから「ハードプロムレム」と云われる

 

客観的な主観、ちょっと何を云っているのか分らない

 

 

ルネ・デカルトが哲学に主体を持ち込んで以来

 

西洋では元々あった心身の二元論的な認識も手伝って

 

主観を中心とする考察が主流となった

 

しかし当のデカルトの意図は

 

科学的な客観性を真であると認めることができる、

 

という可能性を提示したに過ぎない

 

唯一明晰判明な主体の存在が同じように明晰判明にとらえるものを

 

真として良いのだというやや飛躍した考えを打ち出すことによって

 

当時ますますその存在感を増す自然科学が

 

旧来の歴史的宗教的世界観と対立することなく何とか融和できないものか

 

という思いがデカルトにはあったのだ

 

ニュートン力学が地動説を後押しし

 

物の動きが数学で説明可能となり

 

自然科学の客観性は疑う余地がないように多くの人が感じ始めていた

 

それの何が問題なのか、と思って欲しい

 

日本人にはあまり縁がない問題だから

 

当時の西洋では大地は海の上に浮かぶものだ

 

太陽や月などの星辰は空をめぐっているもの

 

この世界は創造主である神が作り

 

死んだあと人の魂は肉体から分離しやがて来る審判を受けるのだ

 

科学は違う

 

地球は球体で太陽の周囲を公転し

 

この宇宙はビッグバンという現象で生成され

 

やがて宇宙は消滅していく

 

つまりこれはキリスト教世界観の中では糾弾の対象だった

 

全知全能の創造主である神を冒涜することなのだ

 

自然科学を追求していくと宗教的世界観との避けがたい軋轢が生じる

 

むかしの話だと笑うなかれ

 

これを真っ向から打ち破ろうとすれば

 

恐ろしいことに死は免れないようなことだったのだ

 

けれど科学の客観性は日ごとに高まりその分野を広げ続ける

 

そしてイマニュエル・カントはそこへ楔を打ち込んだ

 

本来人間には理解できない物の世界(自然科学の世界)を

 

主観の持つ「形式」を用いれば理解可能だとする

 

いささか荒っぽい説(コペルニクス的転回と云われる)で

 

科学の客観性を信頼することが可能だと説いた

 

しかし裏を返せばこのことが人間にとって主観のみが確かなもので

 

自己の外に広がる世界とそこに存在するモノを

 

正しく認識することの困難を証明しているように思う

 

主観の中にある客観をボクはこんなふうに考えている

 

外界にあるであろうモノたちをできるだけ同じ種、同じ類に括っておかないと

 

新たに見るもの出会うものにいちいち驚き、疑い、見定める必要があって

 

それこそメンタルが持たない

 

ああ、これはあれとおんなじ類のモノだ、と客観視できそれを共有できれば

 

生きること生存することが少し、いや大分、楽になるよね、なのではないだろうか

 

云わば脳の省エネだ

 

しかしこれは浅はかなボクの直感に過ぎず

 

この主観と客観をめぐる問題は依然ハードプロムレムであり続けるのだ

 

 

視覚が人の行動に及ぼす影響は大きいだろう

 

外界を把握するためになくてはならない感覚器だ

 

人の視覚は一般的には精密で正確だと信じられている

 

けれど脳科学では視覚情報を脳が補完したり再構築したりしているという

 

人の網膜の中心付近にある錐体細胞は三種類あるが

 

そのうち一つでも欠けると構造上見えにくい色が生じてしまう

 

しかもこういう網膜を持つ人は想像以上に多い

 

日本人の男性には20人に1人の割合でいる(北欧ではさらに高い)

 

色弱(一般に色弱者と呼ばれるが、標準と違うと云うだけで弱者とか障碍者と云うのは本当に心苦しい、社会派ぶっているつまりは全くないが、むしろ標準とは何なのだろう)

に関するウェブサイトでその世界を疑似体験できるが

 

P型やD型を再現した画像を見ると(欠損のない)ボクにはかなりの違和感がある

 

けれどそれはもちろんボクが日常見ている世界と異なっている

 

と云うだけのことなのだ

 

例えばこういうこともある

 

多くの人間の視覚は400~800nmの電磁波を認識するが

 

多くの昆虫のそれは300~650nmと少し帯域が異なっている

 

300nm辺りというのは紫外線と云われる領域で人間には見えない

 

昆虫には紫外線の反射パターンが見えるのだそうだ

 

昆虫から見たらいらない色が見えて紫外線が見えないなんて

 

人間にはなりたくないと云うのかもしれない

 

アンミカさんには白は200種類見えるのだろうか

 

確かに見分けられる白も多くある

 

でも200は見分けられない

 

一般に白、を見たとき

 

網膜にとらえられた電磁波は電気信号に変換されて

 

視神経を伝わり間脳の視床を経て一次視覚野へ送られる

 

そこで処理された情報が頭頂連合野に向かうとなぜあの「白」の意識となるのか

 

物理刺激が化学刺激となり脳を伝わるうちに

 

主観的な経験(クオリア)が生成されるのだ

 

これは視覚だけでなくすべての感覚器とそのクオリアに見られる

 

指先を切った時あれほどの「痛み」が生じるのはなぜか

 

「痛み」という概念だけならどれほど楽か

 

正直、指先に痛みがあるな、という認識だけで十分だ

 

あの痛いという感覚は苦痛でしかない

 

しかしこれとてすべての人がまったく同じ痛みを感じているかどうかは

 

正直わからないし分かる訳ないのだ

 

人間の主観、意識と云うものは実は人にとって究極のフロンティアと云える

 

 

梅雨に入って「くすんだ」空模様が続く

 

雨が「しとしと」と降り続き「じめじめ」とする

 

こんな形容詞が人間の世界ではまかり通る

 

オートバイがその駆動力でリアタイヤを蹴り出すとき

 

「トラクションが掛かる」と云う

 

そしてライダーはそれを感じ取る時「トラクションを感じる」という

 

どんな感じ?

 

コーナリング中に「ハンドルから伝わるグリップ」を感じているだろうか

 

路面をグリップしているのはタイヤの接地面だ

 

そこではなくハンドルを握っている手の感覚器からの情報で

 

いったい何をどんなふうに感じるというのだろうか

 

科学で説明するとフロントタイヤに生じる復元力(セルフアライメントトルク)

 

という力をグリップ感と感じているらしい

 

なぜならコーナリングフォースが弱まるとこの復元力は消失し

 

途端にライダーは所在無げなハンドルからの感覚に不安に襲われるのだ

 

そのクオリアを持っているかいないかでライディングに大きな差がつくだろう

 

頭でタイヤの潰れ具合をいくら理解しても

 

その時にオートバイから伝わる感覚を感じ取れなくては

 

「分かった」とは云えないのだ

 

どんなにオートバイが面白い乗り物だと伝えても

 

いつまでたっても飯を食いに行くコミューター止まりだったり

 

群れの中心にあるシンボルという存在でしかない

 

もはや(否、元々か)乗り手本人の課題であるということだ

 

金子みすゞはこう残した

 

「みえぬけれどもあるんだよ、みえぬものでもあるんだよ」

 

そして星の王子様にキツネは最後にこう伝える

 

「じゃ、秘密を云うよ。簡単なことなんだ――

 

ものは心で見る。肝心なことは目では見えない」

 

ほら、やっぱりね

 

誰かが謳う楽しさなんてものに何の意味もない

 

楽しさは自分の主観でしかありえない

 

ボクが試みる主観の言語化が仮に上手くいったとしても

 

君だけが持っている君自身のクオリアにそれは到底及ばないのだ

 

だから目に見える他人の主観に囚われていないで

 

自分の楽しさに出会うべきなんだよ

 

 

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天気予報を見ても、気象レーダーを見ても

 

雨が降るようなニュアンスではなかったんだけど

 

外へ出て見上げた空模様は実際かなりあやしかったのだ

 

それでもさして何も考えずに走り出し

 

国道を曲がって山へと向かい始めた途端

 

ヘルメットのシールドに細かい雨の雫が付き出した時

 

そう思い出したのだ

 

確かに空模様はあやしかった

 

カッパなんて持って来ていないけど、まだそこまでの雨でもない

 

しかしこの先の山には雲が湧きたって

 

案外降っているのかもしれないなと思わせた

 

さて、どうしたものか……

 

 

一昨年そして去年と続けてこの時期は北海道へ走りに行っていたが

 

今年はそうではなく九州をまわろうかと考えていた

 

それでフェリーの予約までしていたんだけど

 

なんとなく気が乗らない、というそんなショウ(仕様)もない理由で

 

ツーリングの計画をすべて止めてしまったのだ

 

まあ、あまり後悔はしていない

 

なぜならボクが予定していた工程はずーっと雨だったみたいなのだ

 

ツイてるかも、と正直いい気分すらしている

 

いや、それだけのこと

 

それでツーリングに使うはずだった予算が急に浮いた

 

なにー?予算が、浮いた?

 

そうするとおっさんの頭の中は悪いことばかりが次々浮かんでくる

 

わかるよね?

 

うんうん、そうなんだよ

 

 

それと云うのも少し事情がある(云い訳とも採れるが)

 

今乗っている、そして今後はこれだけになるだろうオートバイ SR400

 

早いもので国内の販売を終了してからすでに5年が経つ

 

とは云え部品の供給はしばらく大丈夫だと思うし

 

ヤマハ自体パーツの供給について何か施策があるようだから心配していない

 

だが当然と云えば当然だけど

 

純正アクセサリーの在庫が徐々に終了してきているみたいなのだ

 

しかもずーっと検討したまま踏ん切りがつかない2アイテムがやばくなってきていた

 

そのひとつ目はリアキャリア

 

オートバイに乗る時何かを背負っているのが嫌いだ

 

遠くに行くときは以前から持ってるシートバックを使うことが多い

 

シートにゴムひもで直に荷物を括るストロングスタイルも割と好きだ

 

それを目いっぱいシートの後ろに取り付けるが

 

どうしても微妙に尻があたる

 

あー、荷物しっかり乗ってるな、っていう安心感はあるけど

 

ライディングに集中したい時やはり苦になる

 

あと、椅子を持っていきたいときに括りつけるスペースがない

 

だから乗り始めてすぐ位からリアキャリを検討していたのだ

 

SR用に数種類がまだ出ている

 

ワイズギアから純正のリアキャリア、なぞのタイプ2

 

デイトナとかハリケーンとかシムズクラフトなんかのパーツメーカー製もある

 

純正以外はみなグラブバーを取り外して装着するタイプ

 

シートの座面と面一にしたいのはわかるが

 

その結果みんなどれも荷台の面が高すぎてシルエットがエビ反りになるのがイヤ

 

エンデュランスのなんておまけにゴリゴリマッチョでバランスもへったくれもない

 

一方、純正は段差は付くが荷台の高さは低く抑えられ

 

しかもここがポイント! キャリア後端がテールランプ後端と面一(ツライチ)

 

メッキの美しさも相まってデザイン的な統一感はさすが

 

グラブバーを残しているのでそのあたりが後付け感満載なのだが

 

しっかりとグラブバーを使えるのは意外に助かるものだ

 

 

このリアキャリア、アマゾンが安かったからリストに入れていたんだけど

 

気付けば品切れに

 

ちょっと焦ってウェビックを見たらこっちも品切れ

 

マジか、とワイズギアのホームページを確認したら「生産終了」の赤文字が!

 

幸い楽天市場には在庫があるショップがまだあった

 

しかしそのサイトにも「メーカー販売終了在庫限り」とあったから

 

早晩買えなくなるのだろう

 

もうこうなると躊躇も熟慮も意味はない

 

とりあえず買っておこう、買おうとは考えていたのだから

 

 

左側にサイドバック用のデイトナのサポートを付けている

(と云うか取り付いた状態でこのSRは売られていた)

 

実はリアキャリアとサポートは同時装着が推奨されていない

 

付属のボルトより10mm長いボルトに換えて自己責任で同時装着した

 

キャリアとサポートがほんのわずかに干渉するが

(溶接の盛り上がりが少し当たってサポートが歪む)

 

間に薄いワッシャーを入れて対処した

 

そんなに負荷がかかる場所ではないけどたまにチェックは必要かも

 

 

グラブバーとリアキャリアのパイプが2本並行だし

 

この不細工なブラケットは目立ち過ぎだが

 

さっき書いたとおりデザイン的な統一感は確かにある

 

荷台が低いことと後端が揃っていることでキャリアが悪目立ちしていない

 

デザイン的な統一感はやはりSRの場合大切な要素だ

 

実用上も目論見どおり

 

シートバックを乗せてみるとぴったりと収まる

 

が、キャリアにバッグを乗せるとかっこ悪いからバッグはシートが良いか

 

キャリアに少しかかるくらいにすれば尻に当たらないし荷台に椅子も括りつけられる

 

「旅感」も出て悪くない

 

 

もうひとつも純正のパーツだ

 

これは単に価格が相当高価なので二の足を踏んでいただけだ

 

欲しいんだけどマジで高い!

 

サクラ工業が作るプラナスマフラー(サクラと掛かったネーミングがおしゃれ)

 

(テールエンドのデザインがノスタルジックでかっこいい)

 

このマフラーは車検対応なのだ

 

そして何よりもマフラーのデザインが秀逸だ

 

純正よりかなり短くて全体のシルエットがスポーティーになる

 

ただ本当に高価(何度も云うな)

 

ボクが乗るインジェクションの後期モデルいわゆる5型は

 

規制の見直しを受けてマフラーの音量を上げているらしい

 

しかもECUのマジックで破裂音さえ演出してくれている

 

実際3000rpm辺りの音はかなり気持ちいいのだ

 

気持ちいいがゆえ逆に

 

もう少しメリハリのある破裂音があったらいいのに、とつい考える

 

最近のBMWフラットツインもそうだけど

 

排気音の演出が少々過剰に感じる

 

GB350もなんとなく「それらしい音」に聞こえてしまう

 

しかし街中で2,3度遭遇したSRのプラナスマフラーの排気音は

 

あきらかに演出感のない小気味良いものだった

 

SR400の鼓動や排気振動は紛れもなくエンジンが出している

 

しかもどうしようもなく漏れ出てくる類のモノだ

 

プラナスマフラーの音はこの「原音」をベースにしているため

 

音量は上がるがその音は上質で品があると感じるのだ

 

しかも宣伝文句には一応「全域でパワーアップ」と謳われている

 

けれど購入に踏み切れない一番の問題はその実価格というより

 

ボクがノーマルの現状に本当に不満がないことだ

 

 

しかしワイズギアのSR400のアクセサリーページを眺めていると

 

このプラナスマフラーももうこれ以上の生産はないと感じる

 

新車の販売が継続していたタイでも先ごろ「最終モデル」なるものが出た

 

新車が増えないのに後付けパーツを作り続けるとは到底思えない

 

不意に、今しかない、と誰かがつぶやくのを聞いた(誰かが?おまえだろ)

 

リアキャリアもそうだったけどこのプラナスも

 

市場価格がじわじわと上がってきている

 

と、もう心に火が付いたおっさんは何のためらいもなく

 

「この商品を購入する」ボタンをクリックしてしまうのだ

 

 

プラナスマフラーはヤマハのオートバイのマフラーを製造するサクラ工業製だ

 

エキパイ前半部分とのデザイン的整合性だけでなく

 

美しいステンレスの仕上げのクオリティもそのまま

 

全長が20cmくらい短くて精悍な印象

 

実は音だけでなくこのやや短いシルエットが一番気に入っている

 

取り付けはリアキャリアよりも簡単

 

気を付けるポイントは移植するマフラーブラケットの位置決めだけかな

 

面倒だけど一度全部ネジゆるめに組み上げて

 

ブラケットの位置を決めたほうが結局早いと思う

 

でも本当にすんなり付くよ

 

 

試しにエンジンかけただけでちょっとうれしくなる

 

とてもいい音だ

 

低い部分に少し芯があってスロットルを開けると抜けるように破裂音がする

 

排気漏れの気配はないけど

 

スロットルを戻した時に不正爆発のような音が出る

 

ある程度スピードが出ている下りなんかでスロットルを全閉すると

 

パルパルパスパスと小さく鳴る

 

接続部には問題なさそうなのでそんなもんかな

 

もちろんアフターファイヤーまではいかないくらいのかっこいいパスパスだ

 

ノーマルの時にも出ていたけど音が小さくて気付かなかったのかも

 

うれしいことにエンジンのトルク感は確かに上がっている

 

1速違う、とか云うレベルでは到底ないが

 

明らかに力強くなっている

 

それに伴うネガなのか

 

排気振動がやや大きくなったように感じる

 

排気の抜けがよくマフラーも大きく振動しているのかもしれない

 

パフォーマンスダンパーが働いてくれているはずだから

 

やはり振動の「角」は落ちている

 

 

いやー楽しいね

 

もっと早く換装すれば良かった

 

パフォーマンスダンパーとプラナスマフラーは付けた方が間違いなく良い

 

SR400の持つ性格をそのままに魅力を引き上げてくれる

 

ただし、燃費は悪くなるんじゃないかな

 

そう云う類の楽しさだからね

 

 

今日は変えたマフラーを試したくて走りに出たのだ

 

出掛けになんとなく嫌な空模様だと気付いたはずなのに

 

さして気に止めなかったのは「無意識」のワザとなのだろう

 

走りたくてうずうずしていたからね

 

結局、雨脚が徐々に強まってきてどうしようか散々迷ったけど

 

北の空は少し明るいのでそれを頼みに走り続けた

 

千万町(ぜまんじょ)から峠を越えて切山へ出ると

 

にわかに陽が射した

 

もちろん晴れている方がいいに決まっているんだけど

 

こういった雨が降ったり、それが上がって陽が射したりっていうのも

 

オートバイで走る楽しさでもあるよね

 

でも山の中はこの前の台風で散乱した枯れ枝がそのままで

 

濡れた木くずが泥のようになっている

 

おかげでSRはズタボロ

 

美しいプラナスマフラーも一発でドロドロという禊を受けた

 

まあ洗えば済む話なんだけど

 

でもすごいな純正パーツ

 

 

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