ボクたち人間には道具を使うという特徴がある
他の生き物の中にもごくわずかにそれは確認されるが
ともあれ人間固有の能力と云ってもいいものだろう
云うまでもなく人が持つ高機能な脳と
複雑な動きが可能な手指がそれを可能にしている
箸や包丁など身近なものから
クレーンやロケットなど大きく精巧なものまで
ボクたちは実に様々な道具に囲まれて暮らしている
ボクが大好きなオートバイももちろんそのひとつ
箸に比べたらとても複雑で精密で凝った作りをしている
しているが、箸より便利かと云われるとこれがかなり微妙だ
道具は大抵どれもその目的に合った機能を持っているが
実は案外単機能だったりする
よく云えば特化していると云うことか
身近なので、箸を考えてみる
人間の暮らしの中に登場した時期については諸説あるようで
調理に火を使うようになった頃にはすでに
箸のようなものが使われていたという説もあるが
現代においてコメの文化圏に箸が一般に広まっていることを考えると
3000年くらい前の中国を起源とする説に蓋然性を感じる
けれどその箸を使って食事をする地域は世界全体の中では3割ほどだ
あとはナイフ、フォークなどカトラリーを使う地域が同じく3割ほど
そして残る4割はと云うと、手や指を主に使って食事をするのだ
現在カトラリーを使用する地域でも
ナイフとフォークをセットで使用するようになったのは
19世紀になってからというから
世界的に見れば食事は手や指でするものだったということか
日本人の感覚からするとちょっと驚くような実態だね
その箸
究極の単純さ
言葉は悪いが、棒っ切れが2本だ
さっきコンビニで買ったカップヌードルを山の中で食べようとしたら
箸もカトラリーもないことに気付いて
ああ!あのクソ店員がー!と下品なことを口走りながら
その辺に木の枝が落ちてないか探した経験、あるよね?
実はそれボクはよくやるんだけど
つまり棒っ切れがあれば事足りるような構造が箸
さっきも触れたけど中国から米の文化圏へ広がっていった
長い時間をかけて広い範囲に広まって行けば
一般には独自の変化を見せたりするものだけど
変化するにも箸には棒っ切れ2本という単純な基本構造しかなかったので
長さや素材に少し違いがみられるくらいで
パッと見で「箸」だとわかる範囲内の変化しか起きなかった
むしろ変わったのは箸を扱う習慣や作法の面の方が多くて
早い話「お国柄」が出たということなのかもしれない
例えば日本、島国でクセが強い民族だ
日本では箸は自分専用だ
茶碗や湯呑みも専用だけどこれは日本だけに出来た風習だという
また、箸というと日本ではマナーや作法にうるさいが
正しい箸の持ち方にこだわる国は他にはほとんどない
箸なんてご飯が食べられればどう使っても良いのだろう
箸の作法にまつわる言葉も日本語には多くあり今でも結構耳にする
差し箸、迷い箸、ほじり箸
寄せ箸、揃え箸、ねぶり箸
日本人なら何となくわかるニュアンスの言葉だ
でも一般論だけど
箸だけでなく道具はやっぱりうまく使えるほうが良い
それにどうせ使い方に慣れるのなら良いやり方で慣れるべきだ
その方が賢そうに見える
賢そう?どうでもいい?
いやいや、みんな大好きだよ
「スマート」いまやなんでもスマートじゃん
賢いっていう意味でもあるでしょ
なんて書いてるけどボク自身の箸の持ち方はヘンテコリンだ(なら云うな)
中指と薬指に箸が1本ずつ乗っかっていて人差し指はフリー
実は鉛筆も持ち方がおかしくて
書道の筆のように持っている(中指の腹で支えている)
だからこれも人差し指フリー
人差し指使いたくなかったのか……
でも箸の方は幼稚園の頃に父に厳しく躾けられた記憶があるのに
いわゆる間違った持ち方だなんてね、結構笑える
ともあれ道具を上手く使うということは
特にテクノロジーが身近となった現代人には必須の能力
最近よく云われるAIもそうだろう
道具としての機能を上げるのではなくてその使い方を工夫する
ただ「使う」ではなく「良く(善く)使う」
これは人の生き方にも通じる哲学だ
先に書いたようにオートバイも人の道具だ
箸とは比べ物にならないような複雑さ、精密さがある
アフリカ、インド、東南アジアなどではいまだに移動の手段だ
オートバイより高次元で移動運搬が可能なクルマがどんなに普及しても
オートバイの手ごろで気安いという特徴はまだまだ魅力がある
ではあるが道具としてのオートバイにできることはやはりあまりない
人を乗せて移動できるがそれだってせいぜい二人か三人だし
荷物の運搬も運べる物や量はかなり限られる
むしろ二輪車であるということの欠点の方が多い
雨が降ればずぶぬれになり
炎天下ではひどく暑い
バランスを崩すと転倒するし
しかも下手をすると死ぬというおまけまでついている
そもそも元々あった自転車に動力を付けたものとして生まれたオートバイ
基本はどこまで行っても自転車なのだ
クルマだって馬車から馬を無くした、といえばそれまでだけど
自転車ベースのオートバイの道具としてのレベルは残念ながら低い
箸の方がまだましなのかもしれない
なぜなら箸で人が死ぬことはほとんどないでしょ
人が死ぬような道具ならそれ相応のメリットがなければいけない
飛行機は落ちたらほぼ死ぬ危険な乗り物だけど
アメリカまで半日くらいで行けるというすごい魅力がある(実際には時差があるが)
スマートホンは購入にも維持にも相当にお金がかかるけれど
手のひらにエンターテインメントを持ち歩けるというメリットは大きいだろう
一方、最近のクルマは本来比較の中心となるべき動力性能よりも
安全と環境性能を高めることで
クルマで移動するということで生じるデメリットをできるだけ抑え
その社会的価値を高めることに開発の中心は移っている
クルマを使うことは地球環境を基本的には悪化させるが
内燃機と電動機を併用することで環境負荷を減らし
将来的には電動機を主流とすることで克服しようとしている
交通事故という社会問題へも積極的な取り組みを続け
事故に際しての乗員保護はもう当然だが
乗員ばかりでなく対人の事故での被害軽減をも考慮されている
また最終的には自動運転を視野に入れたアクティブセーフティの部分では
カメラやセンサーを使用した自動ブレーキや車線の逸脱防止装置など
すでに多くのクルマで装備されている
しかし問題もある
世界的なインフレ傾向や戦争による経済の停滞もあるが
クルマは年を追うごとに高機能となり結果的にどんどん高価になっている
道具の条件としてさっき書いた「費用」とそこから得られる「効果」が
アンバランスになってきている印象がある
高級車と云われるクルマがそうなることには何の問題もない
そもそも「高級車」というニーズだということなのだから
高級な、とかプレミアムな、ラグジュアリーな
といった付加価値をクルマに求める層に需要があるだろう
けれど軽自動車でそういった、装備を競い合う風潮は
なんとも馬鹿っぽい、とボクは思う
居室空間の広さ優先のあんなペラペラなボディ
クルマの走る曲がる止まる、という基本性能もそこそこに
人と荷物を乗せて走ればいい、のクルマなのに
200万円を優に超えるプライスタグを平気で付ける
メーカーに云わせるとニーズがあるんだそうな
500万円の普通車は買えないけど
200万円で同じような装備の豪華さを楽しみたいということか
だいたい日本人のすごいところでもあるけど
実はこれが悪いクセでもある
チープなものを重箱をつつくようにこねくり回し
あれやこれやと盛っていくことが大得意だ
そして人間という生き物はそんな精密な豪華さが大好きなのだろう
装備が付いているかいないかだけで精神的優位が保てる阿房が多い証拠だ
チープなものをそのまま作っていた海外のメーカーは淘汰され
やたら高価で精密で高機能なものを作る日本メーカーにやがて独占されてしまう
(いまはそうでもない、海外メーカーの方が最初から精密で高機能。でもそれって実はかつての日本メーカーの製品を研究してきたからだとも云われる、つまり日本は負けたのだろう)
自転車にエンジンを付けてみたオートバイ
そんなチープな道具だ
ヨーロッパでちまちまとやっていたオートバイのレースに
日本の企業が乗り込んできて
125ccエンジンで5気筒20バルブ、8速トランスミッション
なんていうエンジンをぶっこんでくる
それはそれでもちろん確かにすごい技術力だとは思う
それにこれはエンジン本体やトランスミッション
もちろんそれを支えるフレーム、タイヤなどの純粋な技術競争だ
そこに競争の比重があるうちは十分意味がある
でもエンジンをやりつくし
コンピューターを持ち込んだ今
オートバイの進化はいったい何の進化なのかが分からなくなった
クルマを移動や運搬の道具とするようになった先進国では
オートバイを日常の足として使う人が減った
家族を含めたパーソナルな移動の道具としてはクルマが断然優位なのだ
経済的な余裕が生まれれば必然的にクルマへシフトする
その代わりに二輪車を道具としてではなく
純粋に走らせることに楽しさを感じる人が出てきた
そしてオートバイは新たに趣味の乗り物という位置づけを得た
エンジンやフレーム、サスペンションに各社が工夫を凝らし
その違いを楽しむ
相変わらず多くの人がオートバイで死ぬが
もうそれをオートバイがなんとかできることは少ない
趣味としての楽しみだからリスクも折り込み済だ
道具ではなくなったオートバイには費用対効果はもう必要なかった
その効果は目に見えない「何か」なのだ
でもこの趣味の乗り物としてのオートバイに
大きな問題が残っているとボクは思う
けして難しい話ではないがこれに自信がある人は少ないと思う
また自信がある人でもそれが正解かどうかは正直結局わからないだろう
それはこのオートバイを操る方法のことだ
実はずーっと曖昧なままだ
人が運動(体を意図的に動かすという大きな意味)するときに
実際に脳が命じていること、そして感じていることを
具体的に言語で示すことができないという問題なのだ
概念は言語によってある程度の共通性を持つかもしれないが
完全ではない
自分が紫という色を人はすみれ色とか赤みを帯びた青と云うかもしれない
オートバイの工学的な動きを数学で説明できても
それを感じる人の感覚概念を示すことができない
トラクションをかける、はなんとなく理解できても
トラクションを感じる、は人それぞれの概念があるはずだ
荷重と加重、そして抜重
こういった言葉を曖昧に使っている似非専門家のなんと多いことか
道具を使う上で大切なのはこの言葉にできない部分を体得することだろう
スポーツとはそこを競い合うものだし、またそこを楽しむものだと思う
オートバイの面白さも絶対にそこにあるとボクは思う
正直、インストラクターとかいう人たち、元レーサーとか云う人たち
感じ方を誤っているとか
語彙力がないとか
身体工学的な裏付けに乏しいとか
どれもみんな一長一短
つまりみんなバラバラなことを主張している
肩を上げる、とか骨盤を起こすとかいうけど
その結果何が起こっているのか、何を求めているのか
みんな曖昧だ
クラッチが面倒くさいという前に
クラッチの使い方を覚える方が絶対におもしろい
もちろん操るテクニックだけでなく
路面を読んだり、天候を克服したり
そういったメソッドも楽しいのだ
けれどオートバイが工業製品である以上
製造会社は企業の存続という足枷を常にはめられている
より良いとは何かを考えながら
より受け入れられる、より売れる、モノは何かと考えてしまう
どんな道具にも使うにはコツがいる
もう一度云うけど、ここに楽しさ、面白さがある
たとえば金づちで釘を打ち込むという動作で体得すべきこと
目線の先の置き場所、関節や筋肉の使い方
金づちを持つ位置、振り上げる速度と角度
そんな人がいるかどうかは知らないが金づちを使うことを楽しむ人に
ハンドタッカーはどうなんだろうか
金づちを進化させた先がハンドタッカーだとしたら
それは純粋に作業道具としての進化であって
金づち本来の進化ではない
ボクたちが楽しむオートバイも単なる道具ではない
だからこそ享受する側が
オートバイを欲しいと思うユーザーの方が
もっとしっかりとメーカーに要求しなくては思わぬ方向へ進んでいってしまうだろう
オートバイに高級さや安楽さがどれほど必要なのか
クルマと同じ装備がなぜオートバイにも必要だなどと考えるのか
ADVやアエロックスの人気を見ていると
ここからオートバイが進んでいく先が
道具と化したオートバイにしかボクには見えない
これも小うるさい老婆心と云うものか
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