伝わっていないと思うが
このブログはオートバイという乗り物からボクが感じるなにかを
何とか言語化しようという試みなのだとボクは考えている
ボクの主観を客観化しようということだ
けれどボクの主観が持つ「オートバイ」の概念は
曖昧で、とりとめがなく、不安定で
いろいろと手を尽くしてみるがどう表現してみても
結局「これだ」と見せられないものなのかもしれない、と感じてもいる
でもそれはボクの表現力に問題があるという事実もさることながら
そもそもオートバイの楽しさとはそのような類(主観的)のモノだ
ということなのかもしれない、と思うのだ
そしてたとえ「客観的」な概念でそれを表現できたとして
それはどこまでいってもボクの個人的主観でしかない
それは主観だからそうなのだろう、と主観は思うのだ
自分という特殊性、意識という特殊性は
人間には答えの出せない問題のように感じる
個人的な印象や経験のことを主観という
主観を言語化することなんてまともに考えれば不可能に思えるけど
実際には印象や感覚に関する概念、言語は多く存在している
柑橘類を口にしたときに感じる酸味を「すっぱい」と云うが
すごく甘いと云われて食べたキウィがものすごく酸っぱかったり
レモンの切り口を見ただけでそれをすでに酸っぱく感じる時もある
酸味を数値化することはおそらく可能だと思うけど
どこからどこまでを酸っぱく感じるかは人に依るし
酸っぱい感覚を場合によっては爽やかだと感じることもあるかもしれない
この逆が客観だ
客観とは文字どおり個人的な思いなしではない
データや第三者の視点で物事を一般的に見定めることだ
けれどこの客観は実に危うい
いったい誰がこの客観性、第三者性を保証するのだろうか
保障された客観性と云えばそれは科学だろう
客観性こそが科学の信憑性や社会性を確実に担保するのだと
多くの現代人は原理的に信じている
手にしたボールはどこで誰がそうしようと手から放せば下に落ちるし
次の皆既日食がいつどこで見られるかは計算可能なのだ
誰もがいつでも再現可能という客観性
暗闇で幽霊を見るのは錯覚という見間違い(思いなし)だが
隣の電車が動き出したのに自分の乗った電車が動いたように感じる錯視は
いつでもだれにも起こる心理学(科学)的現象だ
一方で科学ではある日突然その概念が入れ替わるような事態も起きる
それまでいくら同じ結果が得られていようが
たった一つの反証によってすべてが覆ってしまう
しかし、この反証可能性は科学の証でもある
完璧な客観性はかえって怪しく
反証の可能性を持つ客観性が科学を進歩させる
人の主観の怪しさもそうだけど客観だって完全な真ではない
脳科学ではその機能解析を進める中で
高次認知機能である人の意志や情動の解明にも踏み込んでいる
研究測定装置の目覚ましい発達に支えられて
急速にその解析は進んでいる
しかし、これは意識のハードプロムレムと呼ばれる特殊な領域だ
意識のハードプロムレムとは簡単に云えば(本当は簡単に云ってはいけない)
感じ方は「十人十色」という常識的な感覚を科学しようとすること
つまり「主観」を「客観」的に解明しようという自己矛盾
云わば無理難題だ
だから「ハードプロムレム」と云われる
客観的な主観、ちょっと何を云っているのか分らない
ルネ・デカルトが哲学に主体を持ち込んで以来
西洋では元々あった心身の二元論的な認識も手伝って
主観を中心とする考察が主流となった
しかし当のデカルトの意図は
科学的な客観性を真であると認めることができる、
という可能性を提示したに過ぎない
唯一明晰判明な主体の存在が同じように明晰判明にとらえるものを
真として良いのだというやや飛躍した考えを打ち出すことによって
当時ますますその存在感を増す自然科学が
旧来の歴史的宗教的世界観と対立することなく何とか融和できないものか
という思いがデカルトにはあったのだ
ニュートン力学が地動説を後押しし
物の動きが数学で説明可能となり
自然科学の客観性は疑う余地がないように多くの人が感じ始めていた
それの何が問題なのか、と思って欲しい
日本人にはあまり縁がない問題だから
当時の西洋では大地は海の上に浮かぶものだ
太陽や月などの星辰は空をめぐっているもの
この世界は創造主である神が作り
死んだあと人の魂は肉体から分離しやがて来る審判を受けるのだ
科学は違う
地球は球体で太陽の周囲を公転し
この宇宙はビッグバンという現象で生成され
やがて宇宙は消滅していく
つまりこれはキリスト教世界観の中では糾弾の対象だった
全知全能の創造主である神を冒涜することなのだ
自然科学を追求していくと宗教的世界観との避けがたい軋轢が生じる
むかしの話だと笑うなかれ
これを真っ向から打ち破ろうとすれば
恐ろしいことに死は免れないようなことだったのだ
けれど科学の客観性は日ごとに高まりその分野を広げ続ける
そしてイマニュエル・カントはそこへ楔を打ち込んだ
本来人間には理解できない物の世界(自然科学の世界)を
主観の持つ「形式」を用いれば理解可能だとする
いささか荒っぽい説(コペルニクス的転回と云われる)で
科学の客観性を信頼することが可能だと説いた
しかし裏を返せばこのことが人間にとって主観のみが確かなもので
自己の外に広がる世界とそこに存在するモノを
正しく認識することの困難を証明しているように思う
主観の中にある客観をボクはこんなふうに考えている
外界にあるであろうモノたちをできるだけ同じ種、同じ類に括っておかないと
新たに見るもの出会うものにいちいち驚き、疑い、見定める必要があって
それこそメンタルが持たない
ああ、これはあれとおんなじ類のモノだ、と客観視できそれを共有できれば
生きること生存することが少し、いや大分、楽になるよね、なのではないだろうか
云わば脳の省エネだ
しかしこれは浅はかなボクの直感に過ぎず
この主観と客観をめぐる問題は依然ハードプロムレムであり続けるのだ
視覚が人の行動に及ぼす影響は大きいだろう
外界を把握するためになくてはならない感覚器だ
人の視覚は一般的には精密で正確だと信じられている
けれど脳科学では視覚情報を脳が補完したり再構築したりしているという
人の網膜の中心付近にある錐体細胞は三種類あるが
そのうち一つでも欠けると構造上見えにくい色が生じてしまう
しかもこういう網膜を持つ人は想像以上に多い
日本人の男性には20人に1人の割合でいる(北欧ではさらに高い)
色弱(一般に色弱者と呼ばれるが、標準と違うと云うだけで弱者とか障碍者と云うのは本当に心苦しい、社会派ぶっているつまりは全くないが、むしろ標準とは何なのだろう)
に関するウェブサイトでその世界を疑似体験できるが
P型やD型を再現した画像を見ると(欠損のない)ボクにはかなりの違和感がある
けれどそれはもちろんボクが日常見ている世界と異なっている
と云うだけのことなのだ
例えばこういうこともある
多くの人間の視覚は400~800nmの電磁波を認識するが
多くの昆虫のそれは300~650nmと少し帯域が異なっている
300nm辺りというのは紫外線と云われる領域で人間には見えない
昆虫には紫外線の反射パターンが見えるのだそうだ
昆虫から見たらいらない色が見えて紫外線が見えないなんて
人間にはなりたくないと云うのかもしれない
アンミカさんには白は200種類見えるのだろうか
確かに見分けられる白も多くある
でも200は見分けられない
一般に白、を見たとき
網膜にとらえられた電磁波は電気信号に変換されて
視神経を伝わり間脳の視床を経て一次視覚野へ送られる
そこで処理された情報が頭頂連合野に向かうとなぜあの「白」の意識となるのか
物理刺激が化学刺激となり脳を伝わるうちに
主観的な経験(クオリア)が生成されるのだ
これは視覚だけでなくすべての感覚器とそのクオリアに見られる
指先を切った時あれほどの「痛み」が生じるのはなぜか
「痛み」という概念だけならどれほど楽か
正直、指先に痛みがあるな、という認識だけで十分だ
あの痛いという感覚は苦痛でしかない
しかしこれとてすべての人がまったく同じ痛みを感じているかどうかは
正直わからないし分かる訳ないのだ
人間の主観、意識と云うものは実は人にとって究極のフロンティアと云える
梅雨に入って「くすんだ」空模様が続く
雨が「しとしと」と降り続き「じめじめ」とする
こんな形容詞が人間の世界ではまかり通る
オートバイがその駆動力でリアタイヤを蹴り出すとき
「トラクションが掛かる」と云う
そしてライダーはそれを感じ取る時「トラクションを感じる」という
どんな感じ?
コーナリング中に「ハンドルから伝わるグリップ」を感じているだろうか
路面をグリップしているのはタイヤの接地面だ
そこではなくハンドルを握っている手の感覚器からの情報で
いったい何をどんなふうに感じるというのだろうか
科学で説明するとフロントタイヤに生じる復元力(セルフアライメントトルク)
という力をグリップ感と感じているらしい
なぜならコーナリングフォースが弱まるとこの復元力は消失し
途端にライダーは所在無げなハンドルからの感覚に不安に襲われるのだ
そのクオリアを持っているかいないかでライディングに大きな差がつくだろう
頭でタイヤの潰れ具合をいくら理解しても
その時にオートバイから伝わる感覚を感じ取れなくては
「分かった」とは云えないのだ
どんなにオートバイが面白い乗り物だと伝えても
いつまでたっても飯を食いに行くコミューター止まりだったり
群れの中心にあるシンボルという存在でしかない
もはや(否、元々か)乗り手本人の課題であるということだ
金子みすゞはこう残した
「みえぬけれどもあるんだよ、みえぬものでもあるんだよ」
そして星の王子様にキツネは最後にこう伝える
「じゃ、秘密を云うよ。簡単なことなんだ――
ものは心で見る。肝心なことは目では見えない」
ほら、やっぱりね
誰かが謳う楽しさなんてものに何の意味もない
楽しさは自分の主観でしかありえない
ボクが試みる主観の言語化が仮に上手くいったとしても
君だけが持っている君自身のクオリアにそれは到底及ばないのだ
だから目に見える他人の主観に囚われていないで
自分の楽しさに出会うべきなんだよ
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