オートバイで走る楽しみ
それは勿論いろいろあるよね
けれど秋の山里を走る時がいちばんなのだとボクは思う
その理由についてはもう毎年書いていることなのだけれど
…それほど毎年どうしても書きたくなるようなことなのだけれど…
この時期のキンモクセイの芳香と云うものは
なにものにも代えがたい魅力があると思うからだ
はっ、とその香りに瞬間撃たれても
実はその姿を見つけることはなかなか容易ではない
姿は見えないのにその香りは周囲の空気を
まるですべて秋色に染めてしまうのではないかと感じるほど強く
しかもそれはあまりに純粋な甘い芳香にもかかわらず
そこにはなんの軽さや薄っぺらさも感じさせないのだ
自然の、天然のもたらす甘美なこの体験は
人間の感性の原始の部分に直に訴えかけてくるものなのだろうか
先週よりも一枚多く羽織って山へ走りに行く
ひと雨ごとに秋は確実に深まっていく
ボクはほとんど平日にしかオートバイに乗らないんだけれど
秋の野山にはさすがにオートバイも増える
大型オートバイが多い
同じくらい原2も見かける
オッサン、というかジィサンが多い
大型も原2もね
かえって若い人の方が中型乗っているのかな
「ダウンサイジング」と云いながら
一度知ってしまった大型オートバイの魅力には勝てないのかもしれない
前回、ダウンサイジングの最低ラインを
エンジントルクを基準に考えたらどうかと提案したが
実を云うとエンジンパワーや車重の軽さだけでは埋められないものがある
そしてそれはオートバイを趣味として走らせることにおいては
むしろこちらの方が重要な要素なんだろうと思われ
つまりこいつを無視すると途端にダウンサイジングは失敗と云うことにもなるのだ
何か?
それは「味わい」「テイスト」だ
とは云うもののこれを形にして見せることはまず出来ない
数値化どころか言語化すら困難な符号だ
本当に感覚の記憶でしかない
前にも云ったとおりボクはレプリカ世代だ
2スト250ccが多分一番好きだ
あのチープな排気音とエンジンオイルの燃える匂い
4ストの4発がレッドゾーンに向けて雄叫びを上げるあの瞬間もたまらないが
軽くて素早くスピードに乗せる2ストの走りは
何物にも代えがたい忘れられない記憶だ
けれど
こういった「印象」や「特徴」は実はテイストにはならないものだ
デザインが、とか
空冷のバーチカルツインが
といった視覚的なものではない
「テイスト」味わい
良く分からないけれど感覚的にはこうじゃないかな、というのはある
多分間違っていないと思うが
それは、乗った瞬間
「あーこれこれ、これだよ!」ってなるやつだ
そしてそれはもう「いつも何度でも」
「♪呼んでいるー ♪胸のどこか奥でー」
全くそのとおりなのだ
似たような感覚に初見(ぱっと見)の新鮮さがある
もちろんこれも人によって違うものなのだが
例えばボクの話をすれば
モトグッツィの縦置きVツインだ
低回転のもっさりした印象は少し回すと一変する
軽やかに回転を上げながら
ブロロロロロロロッーと甘美なエンジン音に包まれる
BMWのOHVボクサーの「回転なり」みたいなケチ臭さは微塵もなく
もっと、もっと、とオートバイがライダーを誘惑してくる
その楽しさと興奮はグッツィだけの個性で
初めて体験するともう一気にメロメロになること必至だ
そう、初見ではね
ところが、だ
これ、すぐに飽きる(ボクの話ね)
飽きるというか、慣れる
慣れると「誘惑」が面倒くさくなる
ハーレーダビットソンもそれに近い
走らせた瞬間はプレーリーを突っ切って伸びるハイウエイを
淡々と駆け抜けるアウトローになった気分だ
周りから受ける視線もすごくて、正直、バカな気分になる
けどね
慣れるね、すぐ
ステップが遠くて、ハンドルが遠くて
重くて、うるさくて
あーいやだ(ボクの個人的な印象ね)
2スト250が経験を伴ったリアルな嗜好だとすれば
ハーレーダビットソンは子供のころからの単なる憧れからくる嗜好だ
まあ「イージーライダー」の影響だな
小学生のくせにヒッピーになりたいと結構真剣に考えていた
なんと云ってもロングフォークのチョッパー
大人になって、あれは乗りにくいよね、とすぐに諦めはついたけど
それでも大型2輪の免許を取ってからは
頻繁にハーレーの試乗会に行ったりするくらい
乗りたいなっていう気持ちは正直かなりあった
でも試乗すればするほど違和感が湧くんだよ
そもそも、みんなあの音がいいっていうんだけど
ボクはあの排気音はデカすぎてうるさいと思うんだよね
それと排気量も大き過ぎだから
デケッデケッデケッみたいなズババババッみたいな鼓動も
間が抜けた感じで好きになれない(ボクの感想ね)
でもまあ
そこに「テイスト」を感じる人は多いということなんだろうね
本当に人それぞれの感性ということだ
もちろん自分の好み以外をディスっているわけではない
だってボクが大好きなフラットツインなんて
鈍臭くて地味臭くて、オェーっていう人もいるはずだから(多いかも)
「テイスト」ってそれくらい個性があると思う
逆にそれくらいじゃないと「嵌れ」ないね
つまりは究極の好き嫌いってことだ
でもそんな単なる好き嫌いではないよ、と感じるほどの熱量がある
「かっこいい」
「よく走る」
「扱いやすい」
そのみんなが当てはまる様なオートバイなんて実はいっぱいある
なのにわざわざ中古車を物色してまで手に入れたい何か
そこに「味わい」という感覚を考えざるを得ないのだ
でも本当にそれを「これ」と見せられるものがないし
何度も云うがそもそも言葉にできない
いや言葉にはできるけど所謂オノマトペの羅列になりかねない
「定速走行時に感じるエンジンからの感触はスーッに近いザラザラ」
「もちろんザラザラというほどの摩擦感ではなくあくまでスーッ」
「ゆで卵の表面のような平滑感と云えばいいか」
これが何を指しているのか全く伝わらない
もちろんボクの語彙力に問題があるんだけど
書いてるボク自身も書くほどに違和感が湧く感じだ
BMWのR75/5から始まる所謂R247系が好きだ
空冷の2気筒2バルブOHV水平対向エンジン
このシリーズが生きた時代はオートバイの性能が大きく進化した時代だった
そのためフラットツインの存続さえ危うい時期もあったが
最後のパラレバーサスを持つR100ミスティークへ至るまで
約四半世紀にわたって改良が加えられ
途中、アドベンチャーモデルの元祖
GSシリーズを生み出しながらその系譜は現在まで受け継がれているのだ
ボクが初めて乗ったフラットツインはそのあとのR259系だ
ツアラーのR1150RTだった
クルマが買えるほどの金をつぎ込んで手に入れたBMWは
予想に反して意外なほどの粗削りなキャラクターだった
そして一度走り出したら最後
どこまでも行ってしまいたくなる「駆け抜けるよろこび」に満ち溢れていた
今まで乗ったどのオートバイよりも疾走感があり
今まで乗ったどのオートバイよりも一体感があった
ちょうど10年間所有したがRTで文字どおり日本中へ走りに行った
当時はもちろんBMWのディーラーにお世話になっていたが
そんな付き合いの中でふいにR100RSとの縁ができた
RSに対する当時のイメージは
それは学生のころレッドバロンで現車を見たときのものだが
あの恐ろしく幅の狭いハンドルと
大した印象も抱かせないのになぞに圧倒的なその価格の高さが大きかった
ただ、もうひとつ
永山育夫の雑誌記事で見た
早暁の東名高速道路を九州へ向けて疾走するR100RSの写真と
「10時間後。関門海峡を渡った。20年前のBMWでもそれは造作もない。現代のオートバイで果たして同じことができるものが何台あるだろう。」
という一文が頭の片隅にこべり付いていたのも事実だった
ほどなくボクの元にやってきたのは
2本サスのR100RS(銀ジィ)だった
そうして始まったOHVとの日々だったが
正直に云えば当時のボクにはR100RSは少し手ごわかった
けれど乗り込んでいくうちに永山が残した雑誌記事の中の文章が
それほどの時間を要さずとも
ひとつずつ消化されていくのを感じた
「人間の乗り物であるということをBMWはつぶさに考えてきた。だからこそ、R100RSとしての威厳と機能と魅力は今でもまったく褪せていない。馬力やサスや防風性では解決できない何らかの存在を、R100RSは今でも示唆している。」
この永山の「預言」のような一言がボクの脳裏に刻まれ
BMWが示そうとした「必然」に強く惹かれていったのを覚えている
けれどその思いが確信となったのは
思いもよらずそのRSを手放すことになった後
いつも心の片隅に意識される残り香のようなものに気付いた時だ
それはオートバイに乗りたい
という思いよりはるかに強い
RSに乗りたい
OHVのフラットツインに乗りたい
という欲求に近い感情だったように感じる
それに気付いてしまってからのボクは
まるで何かに突き動かされて彷徨う夢遊病者のように
もう一度RSを、と強く願うようになった
「RS 再び」とこのブログの再開にもつながったのだ
この十数年で世界は大きく変化したようにボクは感じる
IT革命はやはり世界を変えた
変えたがそれは単にステージが上がっただけだとも云える
世界はヘーゲルが考えたようにはやはり行かないのだ
進化とは何だろう
新たな市場を生み出すことか
それゆえに工業製品は常に進化を求められてきた
そしてその進化に背を向ける行為はこの世界ではもはや「死」を意味する
消費者のニーズは重要だがそれだけでは市場は縮小すると考えているらしい
ただ「趣味」の分野では「嗜好性」が最も重要であるはずだ
どうかオートバイという乗り物の本質だけは維持してもらいたい
人がかかわる乗り物
人が乗らなくては倒れてしまう乗り物
エンジンを操りギアを駆使しながら走る
走り出せばそこは自分とオートバイだけの世界
最後にもうひとつ永山育夫の言葉を
「機械の進歩もほどほどにしたほうが、人間として長い付き合いができるような気がするのは私のようなひねくれた中年だけなのだろうか。…ほどほどに愛しなさい。長続きする恋とはそういう恋だ…とシェークスピアも若い二人を諭している」
どうかそんな1台に巡り合えるよう願っているよ
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