17世紀フランスの思想家ブレーズ・パスカル

 

裕福な官職だった父親から幼少期より英才教育を受け

 

39歳で早逝するまでにその才能は多方面に発揮された

 

毎日耳にする「ヘクトパスカル」の「パスカル」とは

 

彼の名を冠した圧力(応力)の単位だし

 

わずかな握力だけでオートバイを止められる油圧ブレーキシステムは

 

彼のパスカルの定理によって説明できる技術だったりする

 

著書「パンセ」の有名な「人は、考える葦である」の記述からは

 

パスカルさんのヒューマンな人柄や態度が想像されるが

 

その実は、人のどうしようもない性を嘆く冷笑化の面もあったようだ

 

曰く「人間の不幸はすべてただひとつのこと、すなわち、部屋の中に静かにとどまっていられないことに由来する」云々

 

四六時中身を粉にして働かなくても日々の糧を得られるようになると

 

やがて時間を持て余すようになり

 

じっとしておれば良いのにその暇に耐えられず

 

戦地へまで自ら乗り込み身を危険に晒す人がいると云うのだ

 

部屋に一人でいることが退屈で堪らなくなり

 

運命的にわざわざ不幸を招きに出かけて行く

 

そしてタチが悪いことにそこには幸福があると信じている

 

 

釣りが趣味だという人はサカナが欲しい訳ではない

 

と云えばなんとなくわかるだろう

 

釣り船に乗る前の釣り人へ、釣りから帰ってきた釣り人が

 

「50cm越えの真鯛がたくさん釣れたから欲しいだけあげますよ」

 

と声をかけたところで誰も喜ばないだろう

 

パスカルさんの言葉を鑑みれば

 

釣りが趣味という人の目的は「サカナ」ではないのだ

 

枯れ葉のように翻弄され続ける小舟の上で

 

日がな一日、夏なら灼熱の太陽に焙られ、冬なら雪交じりの寒風に晒され

 

ただただ一心に竿を投げ指先に伝わる引きの感触を待つ

 

これくらいの心理的肉体的負荷がなければ

 

たかが釣りごときに熱中できない

 

サカナを手に入れたい食べたいというなら魚屋に行けば事足りる世の中

 

持て余す暇に耐えきれずサカナ釣りという試練に熱中しているに過ぎない

 

そうしてようやく釣り上げたそこそこの真鯛の釣果を

 

それこそ「尾鰭」を付けて自慢することで幸福を手に出来たと信じている

 

こんな「みじめ」(いやいやこれはパスカルさん自身の言葉だ)な運命を持つ

 

暇人たちのなんと多いことか

 

結果的に暇を持て余す人は不幸を求めるような行動しかできない

 

パスカルさんはそう云うのだ

 

 

オートバイに乗ることも釣りと同じで一般的には「趣味」と云われる

 

なぜオートバイに乗るのかという問いは

 

なぜ「趣味」に興じるのかという問いに等しい

 

暇を潰すためだけに苦痛にも近い負荷に身を投じ

 

その実本当に求めているものが何なのか本人にも良く分からない

 

にもかかわらず熱中してお金も時間も惜しみなく注ぎ込んでしまう

 

そんな状況を外から見れば確かに「みじめ」な人たちと映るかもしれない

 

パスカルさんの云うとおりこれは単なる人の悲しい一面なのか

 

実はこんな状況から逃れる唯一の方法をパスカルさんは明快に示している

 

「神への信仰」

 

まあ確かにそうなのかもしれない、という思いと

 

それを云っちゃあおしまいよ、という思い半々といったところか

 

 

私事を云わせてもらえば

 

今までに人生が暇で仕方がないと感じたことはなかったと思う

 

暇潰しに何かしたいと考えたことだってないし

 

もちろんオートバイに乗っていて暇がつぶれていいな、なんて思ったこともない

 

毎日やりたいことが一杯あって時間が足りないくらいだ

 

いつも書くことだけど

 

こんなにも長い年月数えきれないくらいオートバイに乗ってきたが

 

今でも乗るたびにいつも楽しいし

 

その楽しさの大きさにも変化はないと断言できる

 

パスカルさんにはそんな楽しみの経験がなかったのかな

 

そもそも17世紀にはオートバイはまだ発明されていなかったね

 

でもそのオートバイだって最初から「趣味」の乗り物だった訳じゃない

 

知ってのとおり移動や運搬の道具として生まれ

 

その後より高い次元で移動や運搬が可能なクルマにその役目はシフトしたが

 

発展途上国では未だにオートバイは本来の目的で使われている

 

一方先進国では大型化・大出力化することで

 

オートバイは趣味の乗り物へと変化していった

 

哲学的な分析は知らないけど

 

ボクがオートバイに乗りたいと思ったのは

 

単に「かっこいいな」と感じたからだ

 

それは主観的な意味より客観的な意味でそう思った

 

オートバイは完全にカッコよかった

 

そして実際に原付の免許を取って

 

親戚のおばさんに借りたロードパルで走り出した瞬間

 

オートバイはボクの運命になった

 

 

「出川哲郎の充電させてもらえませんか」にゲストで来るタレントが

 

あんなにもショボイ電動バイクなのに(失敬YAMAHAさん)

 

走り出した瞬間ほぼ100%の確率で

 

皆一様に「気持ちいい~」と口にするのを見ていると

 

やっぱり2輪車にはこの「気持ち良さ」があるのだと確信する

 

けれどそんな気持ち良さを忘れたのかな

 

と思うような状況がオートバイの周囲に蔓延していることが気になる

 

どこで喰っても大差ないラーメンが食いたいと山奥へ出かけたり

 

さほどのチャレンジでもない夕日ツーリングラリーのゴールを目指したり

 

大して興味もない神社へ刻印求めて集まったりするためにオートバイが使われている

 

これではオートバイに乗ることがただの手段と化してしまっている

 

次から次へと与えられる記号を消費し続けているだけで

 

これでは「楽しみ」とは云えず

 

単に消費社会に巣くう趣味産業の歯車に成り下がっているにすぎない

 

ただし別に悪いことではないよ、とあえて云っておく

 

自分のカネなのだ

 

いくらでも遠慮せずに好きに使えば良い

 

スマホホルダーやUSBソケットでは飽き足らず

 

スマートモニターまで付けてラーメンを喰いに出かける

 

万が一に備えてドライブレコーダーで危害を加えてくる輩に備え

 

Uターンが苦手、と臆面もなく云いふらしては

 

出っ張ったところにガードやスライダーを付けまくる

 

ああそうそうハンドルにつけるタッチペンなんてモノまであるな

 

本当に何でもかんでも好きにやって欲しい

 

消費に振り回されて求めた「楽しみ」なんて本当に暇潰しでしかない

 

「ここへ行ってあれを喰え」

 

「これを付けて快適になれ」

 

「君の求める楽しいオートバイライフはここにあるのだ」

 

これが本当にオートバイに乗りたいという思いの正体なのか

 

次から次へと稼いだカネを注ぎ込んで自己顕示欲は満たされても

 

求める楽しさ「満足」はいつまでたっても手に入らない

 

そんなモノより

 

心なのか脳ミソなのか身体なのかは知らんけど

 

この出何処すら判然としない魂の叫び

 

「気持ちいい~」の方が断然信じられるしこっちでありたい

 

 

けれどパスカルさんの言葉に立ち返ると

 

やっぱり「楽しい」だけではないのかもしれないとも感じる

 

そもそも感動することが「目的」ではない

 

オートバイに乗ると「自然に何か満足にも似た感情になってしまう」というだけで

 

「楽しくなりたい」「満足したい」からオートバイに乗っている訳ではない

 

オートバイに乗ってあの山奥の蕎麦を喰えば満足できるはず、よりはマシか

 

確かに趣味の目的が「楽しい」だとすれば

 

その行為のために日常的に人が死んでいっている事実は重い

 

1年間で登山では300人、オートバイ(原付も含む)では508人もの人が死ぬ

 

これではパスカルさんが云う

 

不幸な運命をも感じさせる気晴らしと云った方がピッタリだ

 

戦場へ赴き身を危険に晒すような狂気とも云える熱狂

 

馬を走らせて財産を賭けてみたり

 

朝早くから小舟で海原に漕ぎ出し延々とサカナを待ったり

 

そういうことだ

 

圧倒されるような山塊を前にして心がざわめくことや

 

頂上からの非日常風景の感動が目的ではなく

 

重い荷物を担いで自らの足で険しい登山道を辿り

 

その上天候の急変や自身の不注意で岩肌から滑落して

 

命を落としかねない状況に身をさらしてまで山に登ること

 

その身体的精神的負荷こそが人を熱中させる

 

その熱中のために人は命をも引き換えにするというのか

 

 

自分はどうだ

 

なーんの用事もないのに昨日もオートバイに乗って山へ行っていた

 

おまけに激しい通り雨に何度も打たれびしょ濡れになった

 

オートバイニ乗リタイ、デスカ?

 

ソレハ、ドウシテデスカ?

 

日常生活に満たされたボクは掴みどころのない退屈に焦燥し

 

結果的に不幸を招くとしてもオートバイに乗ることに熱中し

 

そこにこそ「満足」があると信じているのか

 

確かに思い当たるフシがある

 

ボクは知っているのだ

 

オートバイに乗ることを本心では「こわい」と感じていることを

 

オートバイに乗ることは死に直結する行為だ

 

いつ事故を起こして命を落とすのか分からず

 

しかもそれはいつも一瞬の出来事だ

 

明日遠出しようと考えているボクの心はなぜだかソワソワしているし

 

家を出る時誰にともなく「気を付けていってくるよ」と告げたりしている

 

ボクはオートバイに乗る時に感じるこの危うさを求めていると云うのか

 

衣食住に満たされた人類は無意識下になんらかの不安を抱えて生きている

 

それは一向に答えの得られない「生きる糧、目的、意味」

 

云いかえれば生存が満たされてしまった人間は

 

本当は何をすれば正解なのかを自問しはじめ結果泥沼に落ちる

 

それは実に空しくて愚かな考えだ

 

目的のない生を抱えて右往左往するばかりで

 

その実、毎日が途方もなく空虚で退屈だと感じている

 

そしてこの途方もない退屈は人間を不幸へと駆り立てる

 

なぜなら真の満足はその先にしかないはずだと考えてしまうから

 

もちろんそんなところに幸福などあるはずはない

 

ただしオートバイへの熱中は享受できるだろう

 

どんなにオートバイを乗り換えても

 

どんなにパーツをとっかえひっかえしても

 

ぜんぜん満足できず幸福にはたどり着けないが

 

自然からの容赦ない洗礼を受けつつ

 

死を隣に感じるこの乗り物で走ることで退屈を紛らわせる

 

人間とはなんと「みじめ」な存在なのだろう

 

 

それでも今日もボクはオートバイに乗る

 

パスカルさんがなんと云おうと

 

とにかく楽しいもんねー

 

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