近頃、WesleyanのFreeman Scholarたちとよくチャットをしている。

おっもしろいおもしろい。

マレーシア、シンガポール、中国、台湾、香港、韓国からアメリカを目指す彼ら。


言うまでも無く英語に問題はないのだろう。

少なくとも私よりはね・・・。


まだ雑談しかしてないからわからないけど(しかもわりとくだらない話・・・)

なんというか、とても楽しみな人たちだ。


アジアの優秀な頭脳が大量流出。

Freeman Scholarの場合は母国に帰ってくるからいいとしても、心配ですね~。


それにしても楽しみだ♪

早く会いたい。早く喋りたい。

お互いの国のご飯を作り合ったり、イベントを企画したり・・・

Hurray!!! 待ちきれないぞ!!


Wesleyanが誇るdiversityにどっぷり浸かって自分の頭を鍛え&磨きたい。

私も負けないぞっ。

ここ1年くらい、思い出したかのように頭にふわっと浮かんでは私の思考を独占したこと。


それは、家族のあり方。


家族ってなんだ?

血が繋がっているから家族?

いつも一緒にいるから家族?
家族は一番愛し愛されるべき対象?


最も確かな繋がりのように見える「家族」でさえ、

考えれば考えるほど掴めない不確かな存在のように思えてくる。


近頃、子が親を、親が子を虐待・殺害する事件を耳にすることは珍しくない。

血の繋がりに束縛されているようにでも感じるのだろうか。

いくら家族でも、みんな人間、相性が合わない人は合わないものなのだそうだ。

理解できるよう努力する根性とか、思いやる力が足りないとき、居心地が良いはずの「家庭」も崩壊してしまうのだろう。


一方で、不妊に悩む人は増加傾向にあるらしい。8組に1組とか。

私は絶対に子供が欲しい。不妊とかいう言葉を聞くと恐ろしくてたまらなくなる。

正直、願わくば血の繋がった子供が欲しいと思うけど、今の時代に他にも選択肢があることを心強くも思う。

代理母、体外受精、養子縁組などなど、簡単なことでも、自然なことでもないのかもしれない。


去年、向井亜紀さんの著書を2冊読んだ。彼女は子宮がんを患った後、アメリカに渡り、代理母出産に何度も挑戦した結果、双子の男の子が生まれた。

それまでの道のりが平坦なものではなかったことが、本を読めばわかると思う。


彼女は問う。

「お腹を痛めて生んだ子供だから」愛おしいのか?


必死になって命の誕生を追うことを、その手段ゆえに間違いだというのか?


代理母出産の是非は、倫理的問題も絡まってなかなか難しい議論である。

向井さんの場合はうまくいった。周囲の理解もあった。人柄のよい代理母に恵まれた。

しかし日本では認められていない代理母出産を、まわりにだけでなく、子供にも、隠しとおす人も多いという。


倫理的な議論に、出口は見えにくいもの。


だが、どんな家族の形でも認め理解できる社会は必要だ。

養子縁組だって、日本では成立に漕ぎ着けるのは難しい。国際養子縁組ならなおさら。

守ってくれる法律。周囲の理解。

政府よ、少子化に歯止めを掛けたいならもっと柔軟に考えろ。


技術の進歩とともに、人間は自然の摂理を都合の良いように操ってきた。

代理母出産や養子縁組も、その「不自然さ」ゆえに多くの物理的・精神的障害を伴うものには違いない。

しかしそこから生まれた可能性は、決して冷淡なものではないと信じたい。


そう、愛情の形が広がったのだと思えば。

血が繋がっていなくたって、愛情は生まれる。人一倍の愛情を込めて育てるのなら、そこから育まれる関係はむしろ、濃密なものになり得るのではないか。


家族のあり方。

一義的には定められないからこそ、ひとりひとりが探し求めて、それぞれの形で大切にしていければいいものなんじゃないか。


血が水より濃いとは決して思わない。

家族というぬくもりのある空間なら、そこに流れる温かみは、一緒だから。


をDVDで見た。


率直に言っておもしろかった。


1950年代のWellesley Collegeという舞台に興味を引かれただけだったものの、


ストーリー自体はとても楽しめた。ラストはちょっぴし泣けた。。


人生を変える教師との出会い。私が今までにしてきたもの、そしてこれからも待ち望んでいるもの。

それに、まぁまさか同じとは言えないだろうが、私の大好きな女子校独特の雰囲気(笑)

生徒と教授の交流を通して互いに成長し、信頼関係を築いていく姿は、とても微笑ましいものがあった。

こんな先生と出会えたらいいな~。


それにしてもWellesleyって昔はこんなにConservativeだったのか!と素直に信じ込んでしまったが、


どうやらそういうわけではないらしい。


Amazonのリビューでは、★★★★★を挙げる人が大勢いるなかで、

Wellesleyの卒業生が「そんなわけねーだろ」と批判を連ねていたのが目についた。

なぜかそのwebsiteを見失ってしまったけど、映画で描写されていたことをことごとく否定していた。


結婚にしか興味がないわけでは決してなくて、学部課程を終えても学び続けることの大切さを教授は説くし、みんな自分の意見を持っている。

全員が教科書丸暗記、決まった答えしか言わないなんて、ちょっとやりすぎだろう・・


そりゃもちろん映画というのはものごとを極端に描きがちなもの。

物語として楽しむのは良くても、その背景を全て信じこんじゃだめだけど。


私は50年代のアメリカをよく知らないのでだれがどれだけ正しいのかよくわからない。


保守的にも程があるのか、そんな時代が本当にあったのか。


所詮エンターテインメントの域、漠然とした感触しかつかめないものかな。

英語の勉強にもなるという言い訳ができるから、また借りちゃいましたけど、DVD。


にしてもWellesley College、キレイなとこだなーv

年度が始まるときの儀式(?)は今も同じなんだろうか。


学問の扉をたたくの。


とても印象深かった。かっこよかった。


くーーっ

早く大学行きてーー!!



とかいう本を母が図書館のリサイクル図書から見つけてきた。

図書館で用済みになったということは随分と古いわけで、91年までハーバード学長を務めていたDerek C. Bok氏によるものである。


高等教育機関の最高峰としょうされる(あくまで称される)ハーバード大学、やはり興味は尽きない。


教育の重要性を噛み締めている今だからこそ。新しい教育の場に飛び込もうとしている瞬間だからこそ。


とかなんとか言って実は、


まだ読み始めていないんだけどね~。

だからなにを論じているのかもわかっちゃいない。

頭痛くなりそうだけど頑張るぞ。


今は、The Bluest Eyeを読み終えようとしているところ。

この本、おもしろいよ。

文学としても、黒人の視点を垣間見るひとつの媒介としても。


Toni Morrisonを読みつくそうかと思っているくらいだ。

そういえばWesleyanのEnglishに


The Fiction of Toni Morrisonっていうコースがあった!


一人の文学者を1セメ学びとおすのって、すごいことかも。

それだけ深みがあり、収穫の多い作品なのだろう。

うーん、次は何にしようかなぁ。。。

ここ3,4日、久しぶりにたくさんの懐かしい顔に会えた。

人に会わない生活が続くと私はきわめて危ない精神状態に陥るわけで。

ちょっとリフレッシュできたのは良かった。

ほんと、ブログの更新もメールの返信も億劫極まりなくなっちゃうの。大丈夫かこんなんで。


27日は母校の体育祭。

私が生徒として参加した6回分の体育祭が、ひとつひとつに異なる感触と重みを持って思い出された。

作り上げる過程に力を注いだ最後の2回は特に、鮮明にフラッシュバックされる。

かけがえのない仲間と、居心地の良い空間と、人間としての大きな成長を私にくれた、大好きな役職。

今年も後輩たちが懸命に準備した体育祭は、無事成功を収めたようで、ほっと胸をなでおろす。


卒業生として存分に楽しませてもらったし、みんなに歓迎されてとっても嬉しかったけど、なんだかやっぱり寂しかった。

私たちの「白」はもう「私たちの」白ではない。

私たちはもうここに属さない。

学校の営みはまた1コマ進んで、新しい年は確実に落ち着きを見せはじめていた。


後ろ髪を引かれたままではいけない。私は私で進まなくちゃ。

みんな懐かしいけど、みんな大好きだけど、毎日楽しくてしようがなかったけど、

だけど、もう戻れないから。

卒業直後のような、心を引き裂かれるほどの切なさはもう感じないから、きっと大丈夫なんだろう。

自分がそう思ってしまうことが、また寂しい。


友達や先生としゃべった。たわいのない話でも、元気をもらった。心が和んだ。

みんな、私に期待してくれている。なぜか。でも、それがとっても嬉しい。

自分はつまらない人間だという思いに捕らわれて息が詰まりそうになっていた私にとって、

周りの優しさはなによりの救いだから。

ありがとうvvv


ところでうちの体育祭はおもしろい。

オリジナルの競技っていうのは他の学校にもあるものなのかもしれないが、

うちのは、名称から内容を思い浮かべることはまずできないと(私は勝手に)自負している。

たとえば去年私たちがアイディアを振り絞って作った新競技。


渚のカウボーイ。


謎でしょ?意味不明でしょ?

紹介したときのみんなの戸惑いは見ていておもしろいものがあった。

ほかにも、波乗りパイレーツ、ハングリーダッシュとか。

誰かのアイディアが生きつづけている。すごいことだなぁ。


完全に生徒主導で運営する体育祭は、それなりにトラブルも生じたりする。

でもそれ以上に半年の準備期間で得られるものは大きいことを、今年の子達も学んでくれたと信じている。

これからも、過保護な親に負けず、時代の移り変わりに左右されず、続けていってほしいなぁ、生徒主導。

いつになっても、本来の教育理念を揺るがせない学校であってほしい。


ほんと、良い体育祭でした!!楽しかったー!気持ちよかったー!

しばらく更新を怠っていました・・・。

ブログのネタにも困るほどつまらん生活を送っています。

このブログでどうでもいい私生活話をしたことがない気がするので、

増えつつあるJGviewerの為にもちょっぴし公開。

なんちゃって5月病→夏バテへと直行しかけているとしても、、とりあえず生きてるんでご心配なく。

心配してくれるなら連れ出してちょうだいなv


んで、なにをしてるのかって言えば


本や雑誌でリーディング、Harvardの講義が聴けるHPでリスニングの練習をしたり、

 (なによりも力を入れるべきなのはライティングなんだけど・・・)


バイト先のデパ地下で、渦巻く人間模様を観察したり、


スポーツジムに通って、泳いだり踊ったり踊ったり踊ったり。

 基礎っぽいジャズダンスやヒップホップが習えるんだけど、

 私が体操で培った筋力や体の使い方がことごとく否定された気がする。

 アメリカでもダンスやりたいけど、ついていけるのかなー・・?


あとは、日本の大学ツアーをちょこちょこ決行したりしてます。

今のところ行ったのはICUと慶應だけ。なので今の時点ではノーコメント。

もうちょっと増えたら記事にしてみよう♪


一人でいる時間が長いと考え事をしすぎてしまって頭が非常に疲れます。

たまにはどうでもいいことも書いていこーっと。




ということで、入る寮を選んだり、カタログを読んで選択する授業を考えたりと、

大学生活のイメージがやっと膨らんできた。

アメリカに行くのはまだまだだけどね。


寮は、ルームメイトが欲しいのでダブルを選びました 。

生活習慣や性格などで組み合わせを練ってくれるのかと思ったら、そんなことはなかった。

どっかの学校はそんなことをしてくれると言っていたのに。

完全にランダム・・・!いいのか・・・!?

まぁでも、運を天に任せて、新しい出会いを縁に任せて、楽しみに待つことにします。


それにしても驚いたのは、この選択肢。


・I would prefer a roommate of the same legal sex.


OR


・I would prefer that my legal sex not be considered in making my roommate assignment.


正直、心の性に対する配慮が寮にまで反映されているとは思っていなかった。


All assignments are made without regard to race, religion, national or ethnic origin, sexual orientation, gender identity  or gender expression. 

と言い切っているあたり、さすがアメリカというのか、さすがWesleyanというのか。


その下にしっかりと、legal sex と gender identity と gender expressionについての説明があった。

もちろん当人たち向けではないはず。

みんなに理解してもらおうとする姿勢に、性同一性障害に対して排他的な日本しか見てきていない私は、やはり感心してしまう。

最近では日本でも法的に認められつつあるものの、周囲の理解がなければ、カミングアウトすることすらできないのが現実ではないかと思う。


マイノリティの人々の住みやすさを確保するためには、法律などの形を整える以上に、社会全体からの見えない圧力をなくさなければならない


というのは性の問題に限らず当然のことだと思う。



っと、また話が重ーくなりつつあるな・・。

とにかく、そんなDiversityの中に飛び込める日が楽しみになる一方なのです。


Wesleyanに行く、アジアの子たちともいっぱいチャットして仲良くなっておく作戦 v

ま、彼らはフリーマンだけどねっ。

やはり悔しさを引きずっているのか、私。

よく考えてみたら1次選考で落とされてRegularで合格っていうことは

ハナから「日本の奨学生」としては枠外にいたわけで。

だからって、中国の奴らに立ち向かう勇気もなかったわけで。財力からしても即キックアウトでしょ。


つまり、私がWesleyanに入るためには、Regularで全額自己負担という道しかなかった。

いつか、自分が選ばざるをえなかったこの道に感謝する日が来ることを信じている。

今の私が、中国で生まれたことを、日本に来たことを、中高をJGで過ごしたことを、最高にラッキーな経験だと言い切れるように。



一人っ子政策のもとで生まれた私は、決して自分の子供を一人っ子にはしたくない。

だから、今の中国では子供を育てたくない。


でも、たとえ一人っ子政策が解かれたところで、今の中国では子供を育てられないとも思う。


中国の子供たちは苦労してるんだよ、という言葉の真意が、今回やっと少し垣間見れたんだ。

中学生のころから8時間授業。帰宅時刻は夜9時。

大学の競争率の高さは言うまでもない。


めいっぱいの期待を背負って、子供たちは、勉強にげっそり。

簡単には大学に入れないので、大人たちは、教育費にげっそり。


ほんと、半端じゃないだろうと思うよ。

子供には無駄な苦労をさせたくない。でも人間として成長する為に通過すべき関門はある。

何年後に直面ことになるかわからない葛藤だけど、

そのときには「どこの国で育てるか」という、環境の選択も強いられることを思うと、

世のお母さんたちの苦悩が目に見えるようだ。

与えられた環境の中でやりくりしていかねばならないんだからね。

強いなぁ。



そんな環境が人の心を歪ませるのか。

テレビでは、親の離婚を目前にした、小学生の女の子が映し出されていた。

彼女は泣きながら訴える。


「私が女の子だからお父さんは私を捨てるんだ。

 女の子は男の子に負けるから、
 いっぱいお金をかけても無駄だから。


 男の子だったらお父さんにもかわいがられて、大事にされたのかな。

 お父さんに遊んでもらったことなんて、一度もない。


 こんなの理不尽だよ。

 女の子だって男の子と同じくらいチャンスがあっていいはずじゃない。

 女の子にだってできることはあるんだから。なんで区別されちゃうのかな。

 認めてほしい・・・」


言葉が出なかった。

自分の子供は無条件にかわいい。

そんな感情を抱くのが当たり前ではない、という、実は当たり前なことに気づいて。


でも、女の子だからいらない、というのは、蹴り飛ばしてやりたいほど許せない言い分だ。

これは私が女だから思うことなのか。

人倫には限界があるのか。




初めての中高の同窓会。


そして私にとっては、あと4年は参加できないだろう同窓会・・・


なにがすごいって、白髪のおばあちゃんたちまでもがわざわざ足を運んでくることだよ。


そんな昔から学校があったことは知っていたけど、


そんな昔から愛されていたんだなという、当たり前かもしれないことに気づいて、


ちょっぴり感動してしまった。


この先輩たちはどんな人生を歩んできたのだろうと、興味がわいた。


力強い歩みに対する誇りが、講堂に充満している気がして、私もそれをわけてもらっている気分になった。


みんな、繋がっている。



2ヶ月ぶりに会った同級生たちは、もう大学生の顔をしていた。正直眩しかった。


いいな。早く大学生になりたいな。


そんな気持ちがむくむくと頭をもたげる。


「生徒か同窓生かわからない」といわれるくらい高校生くささが抜けてない私。


まだ制服の学生を見て「年下だ」と認識するまでには時間がかかってたりして。


だって今でも発作的に着たくなるよ?



なにはともあれ、大学に行くことを純粋に楽しみだと思えた日。


みんな、飲みすぎるなよ~~。

昨夜放送していた、「世界がもし100人の村だったら」という番組を不本意にも見てしまった。

世界の片隅で飢えや貧困に苦しんでいる人の為に働きたい、と私が思い始めたのも、思えば同名の本がひとつのきっかけだったから。

番組を見ながら私の頭は高速でまわり始めていた。いろんな考えが巡っていく。


私はこれを見てまた泣くの?泣いて、貧困の現状を目にしたとでも思ってそれで終わり?

たとえ現地に行って、彼らの生活をつぶさに見たからといって、涙を流すのは卑怯だ。

目の前で涙を流されたって彼らは嬉しいはずがない。

ゴミ山を仕事場にするのも、命を削りながら鉱山で働くのも、彼らの生きる術。気高いことだ。

生きることになんの代償も払わず、苦労も知らない私なんかが「感動した」とか言って泣くのはそれこそ自己満足にすぎない。

たとえ彼らの生活が安定を取り戻した形で番組が終わろうとも物語は決してそこで終わりじゃない。

同じことは世界のあちこちで、今までもこれからも繰り返されてきたんだ。
本当に、貧困や飢餓に苦しむ人を助けるために力を尽くしたいなら、どんなに酷い現実を目の当たりにしても動じない気丈さが必要なのかな。

でも・・・

私を駆り立てるのは、そういった熱い気持ちだったはずだ。

感情移入しすぎることが好ましくないのなら、なにを動機にすればいいんだ?

感情だけではものごとは動かせない。

でも、感情が先立って初めて意欲が生まれる。

それに私にはまだほどけきってない葛藤があった。

誰かが言っていた。ボランティアというのは、人を選んで助けているんだよ。

平等を目指して、偏りを無くそうとして頑張ったって、結局は一部の人しか助けられない。

そのことを知りながら携わらなければならない。

それは、だから、自分のしていることに矛盾を感じながら、決して見ることのできない出口を信じて歩き続けるようなもの。

なにを信じればいいというのだろう。

みんな助けられないなら誰も助けなくてもいい?

人間はもとから不平等にできているんだ。

貧困にあえぐ人たちの心は豊かで、その‘生’は私の何倍も輝いている。それもひとつの生き方。

だったら、そのままにしておけばいい?

そうは思えない。どうしても思えない。こんなの、論理とか根拠とかで説明できる気持ちじゃない。

理不尽な世界の秩序が生み出している、人の手による貧しさだから。

それを許せない、と思う気持ちは、どこからくるんだろう、本能的なものなのかもしれない。

人のため、なんてうそぶきたくはない。根本的なところでは、だれでもない、自分のためだ。自分が満足したいからだ。それでもいい。


今日もここまで考えて力尽きる・・・

弱っちくても、根拠なんてなくても、自分で答えを出さなくては。

なにが正しいのかなんてわからないけど、むしろわからないから、みんな自分が出した答えを信じるんだろうな。


社会の矛盾を目の当たりにしたとき、どうしたらいいのかわからないんだけど何かをせずにはいられない、という気持ちは、今だから抱くものなのだろうか。

若いから?世間知らずだから?

私の考えは甘ったるいかもしれない。青いのかもしれない。

だけど、世の中の厳しさなんたらを知って、諦めることを覚えるのが大人になるということなら、私は子供のままでいい。

こんな風に拗ねているあたり、ガキそのまんまだけどさ。