学園闘争
学園闘争
いま学園は大変な状態である。何が大変なのか。私は学生としてどうあればよいのか。この機会を逃したら無責任でしかあり得なくなるという焦り。どうやっていけばいいのか、わからない。しかし「事態」は進展している。東大ははるか彼方ではない。現実に立命に起こっている。
何をすべきか!人間不信!恐れ!
こんな状態で家に帰れるのか。「緊迫した情勢」を逃れるのか。
(別の日の日記)
信じられないことが、次々と起こっている。立命の学生が角材とヘルメットを持ち、血を流し合っているという事実。彼らはもう感情的対立、憎しみでもって一触即発である。石油缶を投げたり、失明させたり、暴力は絶対に許されない。反民青の武装は反対、民青の自衛のための武装をも、学園内では絶対に許されない。
高野悦子著『二十歳の原点序章』(新潮社)より引用
1968年12月の日記です。この頃から立命館でも学園闘争が激化し始めたようです。以前私も立命館の全共闘運動(学園闘争)について関心を持ち、数冊の本を読みました。その中には『二十歳の原点』の中で、師岡問題と記されている師岡さんが記述した本を読んだ憶えがあります。(多分当事者の方だと個人的に思いましたが、事実と異なるかもしれません。また本の題名及びその本の正確な情報も他の本の情報と重なり、今では明確に憶えていません。)関心のある方は、書店・図書館等で探して読んで下さい。上記の様な状況を目の前にして、悦子さんは冬休みの帰省を遅らせています。自信と卑下
自信と卑下
嫌悪。自己に対する。自分が自分の行動に全く責任をもてなかったのだという自己喪失。非常に寂しい。誰かの腕に抱きついていきたい気持―「みんな信じていないふりをしながらも、信じあっているのだ」という、あの感情。
みんなバカなことをしているふりをしながら、自分のことを知っているのだ。何も知らないのは私だけ。子供!彼らわかっているんだ。「自分」というものをもっている。本当にバカなのは、私なのだった。他の人間が何を考え、何を思っているのかを知らずに、自分のことのみを考えている。よそう!卑下することから何が生まれてくるのか。いい加減にしろ。自分で自分をいじめて楽しんでいるのか。お酒を呑んで得たことは、そんなしゃっちょこばったものではなく、落ちる所まで、落ちて思ったことは「自分の行動に自信を持って!」ということだ。私のことを理解していようがいまいが、そんなことは恐れるな。自分の行動を大切にしろ。意志と行動を。そして自分をいじめることで快感を味わうな。卑下をするな。
高野悦子著『二十歳の原点序章』(新潮社)より引用
悦子さんは自信と卑下という感情を整理し、意志と行動を求めた。しかしその後の日記を読むと、整理できなかったようである。他人と比べて遅い出発
他人と比べて遅い出発
今まで何か勘違いをしていた。大きな勘違いを。他人とのかかわり合いにおいて、その他人とのかかわり合いをもつのは一部にすぎないということ。共通部分は部分であり、全体ではないということ。共通部分を持つことはあたかも全体を一致することのように思っていた。この誤解は言いかえれば、ある人間に自分を、自分にある人間を全く一致させることが無理であることを知ったということになる。大地に二本の足で立っている「私」は、自分自身の頭で考え二本の足を動かさねばならぬのである。
なぜ他の人間に自分を一致させることができないのか。それは他の人間も「彼」という独りの人間であり、自分も「私」という一個性人格をもつ人間であるから。
他の人間に甘えることは許されない。それは己の人格、個性をダメにする。二十歳を前にして、新しい出発。他人と比べて遅い出発である。しかし他人と比べるのはよそう。私は他でもない私なのだから。
高野悦子著『二十歳の原点序章』(新潮社)より引用
前回と同じように、悦子さんは本当に対人関係では苦労したようである。孤独とSOMEOME(親友、恋人)への想いで、揺り動いていたようだ。完全主義と対人恐怖症
完全主義と対人恐怖症
下宿から一歩ふみ出すと意識はかたばる。電車の中にもホームにもキャンパスにも、人、人、人だらけであるから。私は人がこわい。会う人会う人が、私の弱点を見すえているようなのである。いつからこんなになげやりで、陰険になったのだろうか。私はおっちょこちょいで、朗らかな女の子ではなかったのか。私の心はこのごろではいつでも沈んでいる。
往来を歩いていて、私と同じようなおどおどした臆病なまなざしをいくつか見つけて安心した。私のような人間が他にもおるんだと。生きることに強い欲望をもたず、かといって自殺する気もなく、波にゆられて小さな手をバチャバチャとさせて生きていく人間が。
生きていくよろこび、生きる価値あるいは自殺の意義と価値を見出さなくては。
(別の日の日記)
この一週間、私は非常にびくびくとした生活をした。人に会うのを極度にきらい、人と話すとき自分の浅はかさやエゴイズムなところを出すまいとつくろい、それらが出ると大失敗でもおかしたように、自分ではダメな人間だと思いこんだ。寝たり食ったりするだけに興味をもっている。精神的な高潔さはほとんどないつまらないバカな人間であることは百も承知のはずじゃないか。失敗をおかしてしまったことより、失敗を成功に変ずることを考えるべきだよ。
高野悦子著『二十歳の原点序章』(新潮社)より引用
悦子さんの中学・高校時代の日記を読むと完全主義者的資質を感じます。しかし完全な人間はいません。不完全(未熟)な自分を見られたくないということが対人恐怖症に結びついたのではないか。欲
欲
私は非常に欲のない人間である。欲望をもとぬということが一番の欠点なのかもしれない。欲望がなければ行動が起こらないし、やりとげるという喜びも知らない。みにくい存在として、人間を憎み愛することも出来ない。とはいっても全く欲のないということではない。いろいろおさえつけられ、あきらめさせられているだけなのである。
高野悦子著『二十歳の原点序章』(新潮社)より引用
上記の記述には、心臓弁膜症が関係しているのかもしれない。自身の存在を肯定できない。また高校時代のバスケットボール部退部などが影響しているのではないか。日記には優越感・劣等感等が記述されているが、これらも心臓弁膜症が影響しているのではないだろうか。親友
親友
牧野さん、彼女のもつ激しさと一途さに触れ、私はそんなに年をとったのかと思う。『魅せられたる魂』について話して、気まずいいままに部屋を出て以来、また「言語に対して素直ではない」とビシッといわれて、何となく気まずくなった。彼女は一途だから怒りをもってそれをそのままぶつけてくる。私は、それに対し何となく感情的になり、変に意識してしまう。しかし私と牧野さんとの友だち関係は、慣れ合いのものではないはずだ。そんな感情的なものは、吹きとばす力をもっているものだ。
(別の日の日記)
人と一緒にいるときはいつどもおどおどしている。通りすがりの人とすれちがうときでさえ何かを気にかけおちつかない。
高野悦子著『二十歳の原点序章』(新潮社)より引用
悦子さんの日記には対人恐怖症等記述されていますが、牧野さんは大学での一番親友です。
大学2回生の時には下宿を1年間共にしています。その後学園闘争(全共闘運動)に参加することにより、迷惑を掛けないように下宿を変更する。自己自身であること
自己自身であること
人間であることに徹せよ!
学生であることに徹せよ!
女であることに徹せよ!
自己自身であることに徹せよ!
自主性・主体性のある人間になれ!
生きることを楽しむことの出来る人間になれ!
高野悦子著『二十歳の原点序章』(新潮社)より引用
お母さんの手記に、「慣らされる人間ではなく、創造する人間になりたい、『高野悦子』自身になりたい」というような記述がありましたので、今回上記の詩を紹介しました。またその中で、悦子さんからこの点で影響されたと記述されていました。己
己
己をいつわらない 己にきびしく 己の生活をもつ
(次の日記の記述)
「生きることをいそがねばならない」
高野悦子著『二十歳の原点序章』(新潮社)より引用
明確化
部落研にいるとき私は部落研の立場をとり、ベトナム戦争反対の立場をとった。それが私であった。ワンゲル部において部落解放の、そしてベトナム戦争反対の立場をとらなかったなら“私”はどこにあるのだろう。その中に私が存在しとのだから、その中にいなければ私は存在しないのだ。ワンゲルにいると自己の立場を忘れやすい。ワンゲルの仲間達は人間的にみてとてもいい人たちばかりである。けれども自己の立場というものが全くない。疎外されているのを知りながら山を愛し、ワンダラーとしての誇りを何よりも強くもっている人たちである。けれどもその中には、労働者の立場にたつ自覚がない。私は私であるために、自己の立場を明らかにしていく必要がある。
高野悦子著『二十歳の原点序章』(新潮社)より引用
悦子さんは学園闘争(全共闘運動)の激化とともに、ワンゲルを離れ、学園闘争と同じ時期労働者としてバイトする。自らの立場を明確にする。十九歳のムジャキサ
十九歳のムジャキサ
話の中心でありたい
行動の中心でありたい
みんなよりも優れた存在でありたい
みんなからほめそやされたい
私は十九歳(私の精神は未発達のまま十九歳になってしまった)
気が小さくて臆病ものの私は
ジンセイケイケンがタリナカッタのかしら
卑屈になって優越感を感じ
皮肉でもって相手を見下し
にせのほほえみをなげかけ(偽善者め!)
世界の中心にいるんだという十九歳のムジャキサをもち・・・
高野悦子著『二十歳の原点序章』(新潮社)より引用
前回の補足です。自身を表しています。