高野悦子『二十歳の原点』の「生は与えられたものである」
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訪問者の方へ

このブログは現在休止しております。このブログの構成は高野悦子さんの『二十歳の原点』『序章』『ノート』を時系列に紹介しております。最初の2つの記事は自殺原因の私的考察です。その後はほぼ日記の記述順となっております。詳しく理解したい方はアーカイブスから入り、最初からお読み下さい。尚、より詳細に理解したい方は、図書館の利用、書店で購入下さい。

ありがとうございました。

ありがとうございました。

高野悦子さんは1963年1月2日に14歳になり、その日から日記の記述を始めています。しかし1月28日の日記には、「今、自殺してもかまわないと思っている。残念とは思わない。」と記しています。なぜそう考えるようになったのでしょうか。そして予期していたかのように、数年後自殺してしまう。

悦子さんが残した本質とは、日記に「生は与えられるものである」と記述されています。これは生(存在)を受動的なものと考えていたことを表しているのではないか。また日記には「主体的、自己実現、創造する、高野悦子自身になりたい」と記述されています。これは受動的な生(存在)から能動的な生(存在)への転換を意味しているのではないか。その転換の中で、悦子さんは「なぜ存在する。あるいはなぜ生きなければならない」という生(存在)に対する真理、命題、疑問への答えを求めていたのではないでしょうか。そしてその真理、命題、疑問は、時代を超えるものです。そしてこのことが『二十歳の原点』『序章』『ノート』を残したい理由です。お父さんは出版に際し、他山の石あるいは足跡を永遠に残したいと記述していました。『二十歳の原点』『序章』『ノート』に影響を受けたものとして、石ころのひとつにでもなれればと考えて、ブログを始めました。

このブログの内容は4つのサイトで公表しています。ファン、読者に登録して頂いた方、コメントをお寄せ頂いた方、トラックバックして頂いた方、そしてこのブログを読んで頂いた方に感謝致します。また今後高野悦子さんあるいは『二十歳の原点』『序章』『ノート』のサイトが現れることを楽しみにしております。ではミラーサイト対策をした後、しばらく休止致します。





http://anpara.web.fc2.com/

生への未練がまだあるのです。

生への未練がまだあるのです。

6月22日

また朝がやってきた。十九日以来の、このどうしようもない感情、うさ晴らしに酔うだけ酔って、すべてを嘔吐し忘れた方がよかったのかもしれない。・・・

 このノートに書いているということ自体、生への未練がまだあるのです。ところが、では生きていくことにして何を期待しているのかといえば、何もないらしいということだけいえる。

 私が死ぬとしたら、ほんの一寸した偶然によって全くこのままの状態(ノートもアジビラも)で死ぬか、ノート類および権力に利用されるおそれのある一切のものを焼きすて、遺書は残さずに死んでいくかのどちらかであろう。

 買ってきた睡眠薬は不眠症には二錠が適量だという。それでは「不信症」には何錠がよいのだろうか。長期的治療には毎日三錠一ヶ月服用のこと、短期的治療には一時に三十錠、そうすればあなたの「不信症」は治ります。副作用のない安全な睡眠薬、赤ちゃんでも老人でも安心して飲める新しいタイプの睡眠薬、あなたも飲んでみませんか。九錠で一四〇円、二十錠入ったお徳用もございます。・・・

今や何ものも信じない。己れ自身もだ。この気持は、何ということはない。空っぽの満足の空間とでも、何とでも名付けてよい、そのものなのだ。ものかどうかもわからぬ。・・・

旅に出よう

旅に出よう

テントとシュラフの入ったザックをしょい

ポケットには一箱の煙草と笛をもち

旅に出よう


出発の日は雨がよい

霧のようにやわらかい春の雨の日がよい

萌え出でた若芽がしっとりとぬれながら


そして富士の山にあるという

原始林の中にゆこう

ゆっくりとあせることなく


大きな杉の古木にきたら

一層暗いその根本に腰をおろして休もう

そして独占の機械工場で作られた一箱の煙草を取り出して

暗い古樹の下で一本の煙草を喫おう


近代社会の臭いのする その煙を

古木よ おまえは何と感じるか


原始林の中にあるという湖をさがそう

そしてその岸辺にたたずんで

一本の煙草を喫おう

煙をすべて吐き出して

ザックのかたわらで静かに休もう


原始林を暗やみが包みこむ頃になったら

湖に小舟をうかべよう

衣類を脱ぎすて

すべらかな肌をやみにつつみ

左手に笛をもって

湖の水面を暗やみの中に漂いながら

笛をふこう


小舟の幽かなるうつろいのさざめきの中

中天より涼風を肌に流させながら

静かに眠ろう

そしてただ笛を深い湖底に沈ませよう

      高野悦子著『二十歳の原点』(新潮社)より引用

お父さんの「失格者の弁」によると、23日はバイトに出かけたそうです。そして帰宅後、24日午前2時頃「チョット外出します」と声をかけて出たそうです。悦子さんは線路の上で、何を感じ、考えていたのでしょうか。悦子さんは暗闇と静寂の中に消えた。

詩よ どうか私をなんとかしてくれ!?

詩よ どうか私をなんとかしてくれ!?

6月21日

何だか惰性でこのノートにむかうようで書くのがいやだが、まあ一応書いておくことにする。・・・

その何とかというやつにテレしたが、明日屋上に本をとりにくるということです。私は「本を渡したい」という、ただひとこと、それがいいたいことのすべてであった。相手に話をするひまも与えず切った。その何とかというやつへの伝言文に「これは私が信条としたいと思っているアナーキズムについて書いてある本です」と書いたが、この文自体にうそいつわりはない。アナーキズムに人間本来のあるべき姿があると思うのだが、しかし、一切の人間を信じない独りの人間が一体闘争などやれるのだろうか。やれる筈がない。

だだっ広い空間にポツンと独りでいる姿を思いうかべている。とにかく今は空っぽなのである。

詩よ どうか私をなんとかしてくれ!? アハハ

とにかく私は いつも笑っている

悲しいときでも笑っている

恥ずかしいから ごまかして笑うのか

怒るのが てれくさいから笑うのか

いつでも私は おかしくて笑っている

本当に何でもおかしい

・・・

明日もふたたびぼんやりと一日をすごすことでしょう。

      高野悦子著『二十歳の原点』(新潮社)より引用

己を律することができなくなってきたのかもしれません。

私は独りである

私は独りである

6月20日

このノートを書くことの意味―

これまでは、このノートこそ唯一の私であると思っていたから、誰かにこれをみせ、すべてをみてもらって安楽を得ようかと、何度か思った。しかし、今日ぼんやりしていたとき、このノートを燃やそうという考えが浮んだ。すべてを忘却の彼方へ追いやろうとした。以前には、燃やしてしまったら私の存在が一切なくなってしまうようで恐ろしくて、こんな考えかたはおもいつかなかった。現在を生きているものにとって、過去は現在に関わっているという点で、はじめて意味をもつものである。燃やしたところで私が無くなるのではない。記述という過去がなくなるだけだ。燃やしてしまってなくなるような言葉はあっても何の意味もなさない。

このノートが私であるということは一面真実である。このノートがもつ真実は、真白な横線の上に私のなげかけたことばが集約的に私を語っているからである。それは真の自己に近いものとなっているにちがいない。言葉は書いた瞬間に過去のものとなっている。それがそれとして意味をもつのは、現在に連なっているからであるが、「現在の私」は絶えず変化しつつ現在の中、未来の中にあるのだ。

私は人間どもをだましながら 己れを生きさせているのだ

だまされているバカなヤツラヨ

バカも愛をしているものに対しては

お互いに だましあいつつ生きてゆくのだ

「独りである」とあらためて書くまでもなく、私は独りである。

      高野悦子著『二十歳の原点』(新潮社)より引用

ノート(日記)だけが、友だったのかもしれない。

一切の人間はもういらない

一切の人間はもういらない

6月19日

一切の人間はもういらない

人間関係はいらない

この言葉は 私のものだ

すべてのやつを忘却せよ

どんな人間にも 私の深部に立入らせてはならない

うすく表面だけの 付きあいをせよ

一本の煙草と このコーヒーの熱い湯気だけが

今の唯一の私の友

人間を信じてはならぬ

己れ自身を唯一の信じるものとせよ

人間に対しては 沈黙あるのみ

・・・

サビシイデスネ―

二・三〇・深夜。

みごとに失恋―?

・・・

暗やみの中で 静かに立っている私

今日はじめて夜の暗さをいとしく感じる

暗い夜は 私のただひとりの友になりました

あたたかく私を つつんでくれます

夜は

己れのエゴを熾烈に燃やすこと!

己れのエゴの岩獎を人間どもにたたきつけ

彼らを焼き殺せ!

彼らに嘲笑の沈黙を与えよ!


ちっぽけな つまらぬ人間が たった独りでいる。

      高野悦子著『二十歳の原点』(新潮社)より引用

悦子さんは中村さんへの想いを最後まで絶つことができなかったようです。亡くなる直前、深夜に外出したのは、心の静けさを求めたからかもしれません。

人は何故生きていくのか考えてみました。

人は何故生きていくのか考えてみました。

6月18日

人は何故生きていくのか考えてみました。弱くて醜い人間が、どうして生きているのかって思いました。私はこの頃しみじみと人間は永遠に独りであり、弱い―そう、未熟という言葉があります―その未熟なのに、いやらしいエゴを背負って生きていくのかって思いました。私もどうし生きているのかと思いました。つまらない醜い独りの弱い人間が、おたがいに何かを創造しようと生きているのだと、今思いました。いろいろな醜さがあるけれども、とにかくみんなで何かを生み出そうとしているのです。何かを創造しようと人間は生きているのです。・・・


何かわからなくなってきました

彼に対して一体何をのぞんでいたのでしょうか

彼なんてどうでもいいのでしょうか

男なんてどうでもいいのでしょうか

永遠にこの時間が続けばよい

人々の中に入れば また

自分の卑小さと醜さと寂しさを感じるのだから


雲にのりたい

雲にのって遠くのしらない街にゆきたい

名も知らぬどこかの遠くの小さな街に。

雲にのろう

雲にのって ゆれ動く青空をながめよう

そこには小鳥のさえずりも深緑の木々のさざめきもないけれど

はてしない空虚な広がりがある。

雲にのろう

雲にのって ゆれ動く青空を ながめよう。


メモ(一九六九・六・一八)

さようなら

まずこの言葉をあなたに言います。(私がこの言葉をいうのに大きな勇気を必要とするのに対し、あなたがこの言葉をきいて何の驚きも感じないこと、それどころか重荷を下ろした気持を抱くことを、私とあなたとの関係がそれだけの事であるというくらいは、私はわかっているつもりです)

      高野悦子著『二十歳の原点』(新潮社)より引用

悦子さんは、全てのことから逃避したかったのかもしれない。

ああ、人は何故こんなにしてまで、生きているのだろうか。

ああ、人は何故こんなにしてまで、生きているのだろうか。

6月17日

中村の目の前で働きながら私は何もできなかった。中村にとり私がやっかいものの存在であるのは、私が中村に重苦しいものを求めているからであろう。今度会ったときは、楽しいおしゃべりで時をすごす方がよいかもしれぬ。友達のように、からかったり、だじゃれをいってみたり・・・・・。ふと思ったのだが、交通事故で怪我をしたら、新聞の紙面に一段ぐらいででるだろうか。それによって中村は私の怪我を知り、病院にくるだろうか。こないにちがいない。とにかく独りの人間の存在が、ちっぽけなものであるということを言いたかったのだ。ちっぽけなものに大きさを与えようと必死にもがいているわけなのだが。

ああ、人は何故こんなにしてまで、生きているのだろうか。そのちっぽけさに触れることを恐れながら、それを遠まきにして楽しさを装って生きている。ちっぽけさに気付かず、弱さに気付かず、人生は楽しいものだといっている。

      高野悦子著『二十歳の原点』(新潮社)より引用

「ああ、人は何故こんなにしてまで、生きているのだろうか。」は、悦子さん自身、我々に対する問いかけではないだろうか。その答えは?

生きるということは妥協の連続なのか。

生きるということは妥協の連続なのか。

6月9日

生きるということは妥協の連続なのか。大事なことはどこに妥協の接点を見つけるかということである。・・・

未熟である己れを他者の前に出すことをおそれてはならない。

マルクシズムのマの字をしらないからといいて、帝国主義の経済構造を知らないからといって、現在の支配階級に対する闘いができないという理屈にはならない。私の闘争は人間であること、人間をとりもどすというたたかいである。自由をかちとるという闘争なのである。人間を機械の部品にしている資本の理論に私はたたかいをいどむ。

その一方で私は私のブルジョア性を否定していかなければならない。

その長い過程で真の己れを発展させていく。それは苦しいたたかいであるが、それをやめれば私は機械になる。己れが己れ自身となるために、そして未熟であるが故に、私はその全存在をさらけ出さなければならない。

      高野悦子著『二十歳の原点』(新潮社)より引用

闘争は自己創造でもあった。

Swimming in the cloud

Swimming in the cloud

6月5

私は我(が)の強くない人間である。私は他者を通じてしか自己を知ることができない。自己がなければ他者は存在しないのに、他者との関係の中にのみ自己を見出している。

他者との関係において自己を支えているものは何なのか。私はよく「どうでもいい」という言葉を使う。ときとしてぼんやりと空でもみているとき、あるいは激しい行動のさ中、現実放れした真空の中にいるように感じるときがある。“Swimming in the cloud”そんな気持である。他者の存在が矛盾なく自己と同居している。そうした真空から脱したとき始めて、その矛盾に気がつくのである。

結論―私の自我はあまりにも弱い。

      高野悦子著『二十歳の原点』(新潮社)より引用

悦子さんの中には主体性の追及と自我の弱さが同居していたのかもしれない。
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