結局独りであるという最後の帰着点
結局独りであるという最後の帰着点
6月3日
一抹の期待も抱いてはならないのだ。きっぱり訣別しよう。中村の好きなシャンソンの一曲「アデュー」を暗い夜空に向かってうたった。私はあの若人のもつ明るい笑い声をとうとう失ってしまった。そして、再び「結局独りであるという最後の帰着点」に私はいる。
高野悦子著『二十歳の原点』(新潮社)より引用
悦子さんの孤独は深い。どこからきたのだろうか。生きることは苦しい。
生きることは苦しい。
6月1日
姉の家を一銭も持たずにとび出し、東京のどまん中を二時間半も歩いた。お金がないということ、それは決定的だ。テレする十円さえもなくて、落ちていないかと路面ばかり見て歩いた。まさに乞食だ、ルンペンだ。
生きることは苦しい。ほんの一瞬でも立ちどまり、自ら思考の怠惰の中へおしやれば、たちまちあらゆる混沌がどっと押しよせてくる。思考を停止させぬこと。つねに自己の矛盾を論理化しながら進まねばならない。私のあらゆる感覚、感性、情念が一瞬の停止休息をのぞめば、それは退歩になる。
怒りと憎しみをぶつけて抗議の自殺をしようということほど没主体的な思いあがりはない。自殺は敗北であるという一片の言葉で語られるだけのものになる。
高野悦子著『二十歳の原点』(新潮社)より引用
悦子さんにとって生きることは本当に苦しかったのかもしれない。しかし私の存在の軸は何なのか。
私の存在の軸は何なのか。
5月28日
なんとなく学生となった自己を直視するとき資本主義社会、帝国主義社会における主体としての自己を直視せざるをえない。それを否定する中にしか主体としての自己の存在はない。外界を否定するのではない.自己をバラバラに打ちこわすことだ。なんとなく学生となった自己を粉砕し、現在の大学を解体する闘いが生まれる。
5月30日
はっきりしていることは、己れが存在し、矛盾と混沌に満ちておることだ。それは、己れがまた現代に生きる人間、もの、動物、すべてが商品となって非人間化、物化、機械化され、資本という怪物により支配されているという矛盾であり混沌である。考えることも感じることも、行動することも、支配されている現代の人間。いかにして現代社会から人間をとり戻すのか。いかにして己れの人間としての存在を、自らのものとして発展させるのか。方向は支配者との闘い、独占との闘いの方向にしかないことはあきらかなのだが。私の存在の軸は何なのか。
今日、東京に行ってくる。姉と話しあい、家族との訣別をつけるために。
高野悦子著『二十歳の原点』(新潮社)より引用
お母さんの手記によると、悦子さんが亡くなる約1週間前に、お母さんと悦子さんは京都で逢っています。本当に良かった。人間は結局死ぬんじゃないか。
自殺は卑きょうな者のすることだ。
自殺は卑きょうな者のすることだ。
5月13日
自己創造を完成するまで私は死にません。・・・
“学生であること”は、私にとり風のない空間に漂うちりのような存在でしかない。“不確実なもの”である。その“学生であること”に固執する自分の不安定さ、不確実さ。
どこかに勤めようかと思ったりする。メイン・ダイニングにでもと思ったのだが、仕事(水さし、片付け、デザートを運ぶ等々)が全然おもしろくない。責任ある仕事をやってみたいのに、どうでもよいような補助的な仕事のみ。
社会から全く疎外されている私、しかし私は今この時間、この空間に存在している。
自殺は卑きょうな者のすることだ。
高野悦子著『二十歳の原点』(新潮社)より引用
少し前のブログ『自己とは?自己とは?自己とは?』で、「私は外部のものに対しては決して負けはしないだろう。しかし、自己を支えているもが動揺し、内部のもの自体に不確実さを、非現実を感じると、どうにもならなくなる。」と記述されていましたが、関連があるのかもしれません。一年先には死んでいるかもしれぬ私なのに
一年先には死んでいるかもしれぬ私なのに
5月12日
ラジオをかければ恋のうたが
新聞映画をみれば恋のうたが
町を歩けば男女が手をつないで歩いているが
“寂しかったから口づけしたの”じゅんちゃんはうたう
愛との訣別を決意したのかしら 私は
今日 恒心館屋上で I want to meet him ―といったのに
風もない空間にある塵のような私の存在
こんなにしていると ますます
彼と一緒にいたくなる私
名も知れぬ彼と
男はどこにでも ころがっているのに
何故彼だけに愛の幻想をみようとするのか
一年先には死んでいるかもしれぬ私なのに
何故彼を欲しようと
むなしい試みをしているのか
高野悦子著『二十歳の原点』(新潮社)より引用
前々回のブログの「ぼんやりと何もない空間の私の世界。」、今回の「風もない空間にある塵のような私の存在」、そしてブログの題名にした6月22日の日記に記された「空っぽの満足の空間」という空間とは、どんな空間だったのだろうか。someone
someone
5月7日
どうしたって他者が気になる。「他者を通じてのみ自己を知る」か。どこかに、この広い宇宙のどこかに私をみつめているsomeoneがいるに違いない。会って話してみたいものだ。自分に対しての演技はできるが他者に対してはからっきしだめだ。
5月8日
あのね。今日ネ、バイトが終わったあとで屋上にいってね、星空を眺めながら煙草の煙を夜空にプウーッと吐き出しちゃった。それからネ 口から出まかせにいろいろとジャズッて足をカタカタバッタとならしてネ。楽しかったよ。そのとき思ったんだ。どこかにsomeoneがいつでもいるってね。
高野悦子著『二十歳の原点』(新潮社)より引用
死の直前まで、思いを絶つことができなかった中村さんへの訣別を決心した後に記された。
『おっとせい』の中で「何か私の全てを知っている存在、たとえばそれを神というなら神といってもよい。その存在があると思っているのか。」と記していましたが、通じるものがあるのかもしれないどうしてみんな生きているのか不思議です。
どうしてみんな生きているのか不思議です。
4月29日
よく人は、私が変わっているといいます。しかし私は、自分こそ正常な人間であると思っています。不正を憎み、なにより正義を愛しているやさしい人間であります。今の社会が偏見と不正で充ちていて不正常なのです。
どうしてみんな生きているのか不思議です。そんなにみんなは強いのでしょうか。私が弱いだけなのでしょうか。でも自殺することは結局負けなのです。死ねば何もなくなるのです。死んだあとで、煙草を一服喫ってみたいといったところで、それは不可能なことなのです。・・・
西那須野の家では連休を伊豆で過ごすという。私も誘われたが今ではあまりにも遠い世界となってしまった高野家のホーム。
文闘委の部屋のペットちゃんニャロメ(猫)とペソ(犬)おまえもうねむっているかい。
高野悦子著『二十歳の原点』(新潮社)より引用
前回のブログの補足。生きることが苦痛だったのかもしれない。自己とは?自己とは?自己とは?
自己とは?自己とは?自己とは?
4月24日
暗闇でもなく、明るい光線にみちあふれているのでもなく、ぼんやりと何もない空間の私の世界。国家権力、そんなものは存在しているかさえ定かでない。私自身の存在が本当に確かなものなのかも疑わしくなる。他者を通じてしか自己を知ることができぬ。他者の中でしか存在できぬ、他者との関係においてしか自己は存在せぬ。自己とは?自己とは?自己とは?・・・・・・
甘えてはいけない。他者を通してのみ自己を知ることができるが、自己の存在は自分で負わなくてはならない。生きていくのは自分である。他者の実存を実存として認めよう。
すべては夢であり、幻想である。現実などありゃしない。誰かが私を、気がおかしいのじゃないかといったが、これからますます気がおかしくなっていくように思う。狂人になり、精神病院で暮らせるようになれば幸い。そしたら私は全く自由になるだろう。・・・
なぜ私は自殺をしないのだろうか。権力と闘ったところで、しょせん空しい抵抗にすぎないのではないか。なぜ生きていくのだろうか。生に対してどんな未練があるというのか。死ねないのだ。生きることに何の価値があるというのだ。醜い、罪な恥ずべき動物たちが互いにうごめいているこの世界!何の未練があるというのだ。愛?愛なんて信じられぬ。男と女の肉体的結合の欲望をいかにもとりつくろった言葉にすぎぬ。しかし、私はやはり自殺をしないのだ。わからぬ。死ねぬのかもしれぬ。・・・
私は外部のものに対しては決して負けはしないだろう。しかし、自己を支えているもが動揺し、内部のもの自体に不確実さを、非現実を感じると、どうにもならなくなる。
高野悦子著『二十歳の原点』(新潮社)より引用
悦子さんを支えていたものが動揺し、死を選んだのだろうか。おっとせい
おっとせい
4月23日
闘ったところで何になる。微弱な風にとぶほこりに過ぎぬのではないか。いやあ ぼかあ こんなことで負けませんぞ。ぼかあ 闘ってますぞ(泣きそうな顔してんじゃないの
てめえは)
一体こんなことを書くことに何の意味があるのか。といいながらペンを走らせている。死にたい。しかし死ねない。未練があるのか、醜い恥ずかしい罪な世界に。何か私の全てを知っている存在、たとえばそれを神というなら神といってもよい。その存在があると思っているのか。・・・
おいら
おっとせいの嫌いなおっとせい
だが、やっぱりおっとせいはおっとせいで
ただ
「むこう向きになっている おっとせい」
・・・
一体これからどうしようというのだ。やはり、すべては信じられぬのであろうか。もちろん私を含めて、というより私を筆頭としてである。
高野悦子著『二十歳の原点』(新潮社)より引用
おっとせいは悦子さんの対人感を表しているのだろうか。以前中学・高校時代に2回教会に行っていると紹介しましたが、神のような絶対性を求めていたのかもしれない