生の実感
生の実感
4月22日
二十日
朝ふとんの中でぼやっとする。自分の手で首をしめてみる。手をのどに当ててしばらくすると、ヒイヒイと息をする音がきこえ、もう一寸すると顔が充血する。思わず手をはなす。湯沸器のコードを首にまいて引っぱる。こんなことをして遊んでいる。・・・
国家権力と直接ぶつかっているとき、一番強く生の実感を感じるにちがいない。
高野悦子著『二十歳の原点』(新潮社)より引用
全共闘運動に生を見出し、行動した。しかし運動の停滞が以前記述した自傷行為と同じように首を絞めさせたのかもしれない。ストライキ
ストライキ
4月18日
彼女(牧野)からテレ。ちょうど人間はしんじられぬと思っていたところだ。人間、偽善家―彼女にあっても何もはなすこともないし、話し合う気も起こらなかった。
「独りである」とそう思いこんでいるだけなんだよ、と誰かがいった。しかし、昨日四条大宮からホテルまで牧野と歩きながら必死になって話したとき、彼女は困惑、軽蔑、恐れ、敵意の表情をみせたではないか。私が全力でうちこんでいる行動に対して、彼女でさえも、そうであったのだ。私が力んで話せば話すほど、彼女と私との距離は離れていくばかりだった。All or NothingのつまらぬさびしがりやのFahterコンプレックスの人間なのだ私は。
私は誰かのために生きているわけではない。私自身のためにである。ホテルのソファに坐りながら、自殺しよと思った。車のヘッドライトに向かって飛びこめば、それでおわりである。家の父や母は悲しむかな、テレしようかなとか、今日はペンと手帳を持っていないから遺書は書けないなあとか、本気になって考えた。けれども、死ぬっていうことは結局負けだよなあと思った。こう言葉で書くと平板になってしまうが、もっと新たな泥沼(血とくそ)の中に入っていこうということなのだ。
高野悦子著『二十歳の原点』(新潮社)より引用
アルバイト先のスト(日記の流れからストと考えられるが、全共闘運動かもしれない。あるいは両方)に関して、牧野さんと意見が違ったようである。これ以降ワンゲルと同様に牧野さんの記述はあまりない。牧野さんと距離が出来たのかもしれない。あるいは転居、全共闘運動、アルバイトの為かもしれない。またアルバイト先の鈴木さんへの憧れ、恋心もストを境に失望へと変わったようだ。I don’t know myself.
I don’t know myself.
4月15日
酔っているうち常に私は他者を他者として認めようとした。自己を自己として認めるといっても、肉体的には確かに存在しているが一体何なのかよくわからない。私は地道に追及していかなくてはならないと思っている。
後ろをふりかえるな。そこの暗闇には汚物が臭気をはなっているだけだ。
「ろくよう」に独りで呑みだしてから私はよく笑った。そして泣いた。泣き笑いのふしぎな感情ですごした。
あのウェイターのおじさんにDo you know yourself?と、いったらYes,perhaps,I know myself.-といった。私はI don’t know myself.と、いって笑った。・・・
お前自身は一体何なのだ
高野悦子著『二十歳の原点』(新潮社)より引用
前々回のブログと同じように、人間は不合理な存在なのかもしれない。自分自身を理解することも難しいのかもしれない。己れという固体の完成
己れという固体の完成
4月9日
空っぽだなあ。人からみると変わった生活をしていて彼らをせせら笑っているのに、せせら笑っている自分と自分との距離があることを感じる。その自分は何もない空っぽの自分である。独り、独りだと思っているのは錯覚なんだろうか。そのことで自分を防衛する殻に閉じこもっているのかもしれない。・・・
青春を失うと人間は死ぬ。だらだらと惰性で生きていることはない。三十歳になったら自殺を考えてみよう。だが、あと十年生きたとて何になるのか。今の、何の激しさも、情熱も持っていない状態で生きたとてそれが何なのか。とにかく動くことが必要なのだろうが、けれどもどのように動けばいのか。独りであることが逃れることのできない宿命ならば、己れという固体の完成にむかって、ただ歩まなければならぬ。「己れという固体の完成」とは何と抽象的な言葉であることか。悦子よ。おまえには詩も、小説も、自然も山もあるではないか。
高野悦子著『二十歳の原点』(新潮社)より引用
悦子さんは受動的な生(存在)から能動的な生(存在)に転換しようとしていた。混沌
混沌
3月16日
人間って一体何なのか。生きるってどういうことなのか。生きること生活すること、私はどのように生きていくのか、あるいは死ぬのか。今、私は毎日毎日広小路で講義を受けるがごとくアルバイトに通い働いているのだが。・・・
このノートも終わりである。いつまで続くか私はまだまだ果てしなく続いていく。私の生活が混沌としたものである以上、整理する必要はない。それどころか、私には混沌さが、まだ足りないのではないか。
(別の日の日記)
ランボーはいった。「私の中に一人の他人がいる」と。私としては私の中に他人がいるというよりも私というものが統一体ではなく、いろいろ分裂した私が無数に存在しているように思う。これが私だと思っている私は私でないかもしれない。人間はとかく都合のいいように合理化して解釈する。とにかく真の自分だなんて相手はこうなんだなんて思こんでいるものは、合理化によって作られた虚像にすぎないのかもしれない。
高野悦子著『二十歳の原点』(新潮社)より引用
人間は合理的な存在ではない。「生きている」実感がない
「生きている」実感がない
3月8日
ニ、三日前、太宰を二、三頁読んだ後で、ポットのコードを首に巻いて左右に引張ったりしましたが、別に死のうと思ったわけではなく、ノドを圧迫したときの感触を楽しんだだけでした、しめあげられたノドは息をするにもゼイゼイと音をたてまして、妙に動物的に感じました。
私はアフリカ的なジャズとか土人の叫び声が好きです。ミリアムマケバとかゴリラ、そしてコヨーテなどが好きです。彼らには強烈な「生」がある。私は生きているらしいのです。刃物で肉をえぐれば血がでるらしいのです。「生きている 生きている 生きているよ バリケードという腹の中で」という詩がありましたが、悲しいかな私には、その「生きている」実感がない。そしてまた「死」の実感もない。もっとも「死」が実感となれば生も死も存在しなくなるのですが。
アルバイトをしてウェイトレスに投げかけられた優雅な微笑に、恥ずかしげに嬉しげに微笑んで、生きる勇気が得られたと思っているチポッケな私であるのです。・・・
誰もいない
誰もいない 長い長い孤独の夜よ
寒い心に ひざかけ巻いて
宛名のない 手紙を書くの
目かくし鬼さん 手のなる方へ
うつろな目の色 とかしたミルク
小さい秋
小さい秋 見つけて
黙して笑う時
悲しさが全てを支配している時
深淵の暗さが 孤独の味気なさが
光なき世界の道標
全ての虚偽を微笑んで拒絶しよう
耐えて孤独者の長い道を
光りを絶って歩みゆかん
高野悦子著『二十歳の原点』(新潮社)より引用
3月の初めからプチブル性を否定するためアルバイトを始める。前半は前回の補足するものです。最後の詩は暗示なのかもしれない。「生きよう」とする衝動
「生きよう」とする衝動
2月24日
私には「生きよう」とする衝動、意識化された心の高まりというものがない。これは二十歳となった今でもズット持っている感情である。生命の充実感というものを、未だかつてもったことがない。
私の体内には血液が流れている。指を切ればドクドクと血が流れだす。本当にそれは私の血なのだろうか。
高野悦子著『二十歳の原点』(新潮社)より引用
悦子さんが日記に残した本質ではないだろうか。シュプレヒコール
シュプレヒコール
2月20日
八時頃、機動隊が西門から入ってきた。一メートルほどの距離にジュラの盾をもった機動隊に対して、私はスクラムを組んで「カエレ」のシュプレヒコールを叫んだ。声を限りに私は帰れのシュプレヒコールをあげた。しかし次第に私達はおされて後退した。後ろでノホホンと叫んでいるわけにはいかない。私は先頭に出て力一杯帰れ!と叫んだのだ。私を取巻く常識や風潮や政府の欺瞞性を「帰れ!」の一語にこめて叫んだ。しかし次第に押し込められてしまう。私は口惜しかった。涙がポロポロでた。しゃくだった。機動隊の腕のあたりをポカンとやったら、たちまち足げりがきて腰のあたりをやられてしまった。結局、私達は学外に追い出され柵を境に、学内には制服と特性ヘル、盾の機動隊が、学外にはヘルもゲバ棒も持たぬ学生がいるのであった。西門から入ろうとしたが、機動隊によって守られ(一体何が)入ることができず、私達は寺町通りと広小路で「機動隊帰れ!」のシュプレヒコールをあげた。
高野悦子著『二十歳の原点』(新潮社)より引用
前回の座り込み、そして今回の行動により、悦子さんは本格的に全共闘運動に参加する。座り込み
座り込み
2月15日
十三日
夜京都につく。立命に行く。明日の入試を控え騒然たる空気。その晩は学校に徹夜。
十四日
バリケード封鎖の行われている中川会館を眼前に、存心館の薄明かりに坐りこんで。・・・
ここにいる私の決意―機動隊(国家権力)の導入には反対します。
下宿に戻る途中、一寸立ちよるつもりが、どうしたわけか、地べたに坐りこみの徹夜、そしてきびしく自己批判している次第であります。
高野悦子著『二十歳の原点』(新潮社)より引用
この記述の数日前に、全共闘運動に参加することにより、迷惑を掛けないように下宿変更を決心した。そして西那須野に帰省後、夜を徹して座り込む。
ワンゲル
ワンゲル
2月8日
しっかりしろ 悦子
煙草と眼鏡は自由のしるしじゃないか
今日のコンパは一〇・三〇に帰ること
お酒を飲むのはやめにすること
独りになれ
きびしさは誰でももっているのだ
甘えるな
あせるなよ 疲れたら休めよ
自分に自信がないなあ
泣きたいなら泣けよ
寒くてふるえているんだな
耐えろよ
もう一回火の熱さを感じたら
「ファイト」?がわくだろう
さあ やってみろ
私は夏がいいなあ 冬は寒すぎる
全身の力が抜けて
歩いていけるのかなあ
私は生きているんだろうなあ
カミソリで指を切ったら
生々しい赤い血がながれるんだろう
下宿に帰っても どこへ行っても
これが生きているというなら
その意味は認めない
自殺でもしようかなあ
寒いなあ
こたつに入りこんで ぬくまりたいなあ
散まん! やめろよ
ホラ 前で話しているやつが
せせら笑っているよ
高野悦子著『二十歳の原点』(新潮社)より引用
この詩を記した後、ワンゲルの追い出しコンパに出かけている。『那須文学』に掲載された友人の記述によると、ワンゲル入部後毎週のように山に出かけていたようです。しかし『二十歳の原点』には、ほとんどワンゲルの記述はない。ワンゲルを離れ、全共闘運動やアルバイトを中心に生活していたからかもしれない。