もじゃもじゃ頭のチビがロック歌手よろしく大音量でエレキギターを弾いた、と日本で悪意に満ちた報道があったことをよく覚えている。1965年ニューポート・フォークフェスティバルでトリを務めたボブ・ディランのことだ。映画A Complete Unknown名もなき者を見て、当然のことながら、悪意に満ちたのはアメリカでも同じだった。いや、このフェスティバルそしてボブ・ディランを育ててきたピート・シーガ-にとって裏切りそのものだっただろう。彼はギターもしくはバンジョー1本で弾くのが正しかるべきフォークソングという信念の人だから。事前に何度もディランに警告していた。「ここはあくまでもフォークソングのフェスティバルなんだ」と。ディランは育てられたのではなく勝手に育ったのだろうが、歌手デビューのきっかけを与えた(映画が事実を伝えているとすれば)。観客も騒然とし「ユダ」(裏切者)の声も飛ぶが、熱狂していた者もいたことは事実だ。
印象的なシーンがいくつかある。まず、1961年田舎からニューヨークに出て来て病床のウディ・ガスリーを訪ねるシーンだ。そして最後も病床にガスリーを訪ねるシーンで終わる。よほど尊敬していたのだろう。
出会って間もなく、ピートがタクシーの中でエレキギターやドラムのあるのはフォークソングとは言えないと言うのに対し、ジャンル分けなんて意味がない、とボブがうそぶくシーンも印象深い。初めからそうだったんだと納得できる。
ライブハウスで「フォークソングの女神」と言っていいジョーン・バエズが「朝日の当たる家」を歌う。アニマルズのヒットで有名になったが、詩の内容からは本来女性の唄だ。「朝日のあたる家」とは売春宿の名前であり、私はそこに堕ちてしまったという唄だから。(アメリカでは、歌い手が別の性の場合、詞の一部を変えて歌うのが普通。)バエズは歌い終えてライブハウスを立ち去ろうとする時、新人のディランが歌い出し立ち止まり演奏を最後まで聴く。明らかに才能に惚れたのだ。
そしてニューポート・フェスティバルではいろいろある。
誘われて見に来ていた恋人が、バエズとディランのデュエットの場面で二人の関係に気付き会場を去る。
ロックバンド編成を主催者やピートがやめさせようと必死となる中、ジョニー・キャッシュは「やれやれ」とけしかける。
ピートが強制的にやめさせようとするのを彼の妻が押しとどめるシーン。ピート・シーガーの妻が日本人とは今日の今日まで知らなかった。
主演のティモシー・シャラメ、よくもまあ、あの特徴のあるディランの声・歌声を出せる!と感服した。ただ、もじゃもじゃ頭までは真似できても、チビはまねできなかったが。(当たり前か。)
日本ではボブ・ディランをいまだにフォーク歌手と思っている人が多いが、紛れもなくロック歌手(今も)である。まあ、ジャンル分けは彼にとって(そして私にとっても)どうでもいいことだが。デビューする時フォークソングが一世を風靡していた。長期化(1955年~)するベトナム戦争(そしてキューバ危機、公民権運動、ケネディ暗殺ー映画でも時折テレビ、ラジオのニュースが流れた)の厭戦気分が生んだブームだ。彼はやりたい音楽をやる術としてフォークソングを選んだに過ぎない。フォークソングは現在事実上消えている。だが、そういう世界が存在したことはボブ・ディランという天才の存在によって世の人々に記憶されている。中でも、「風に吹かれて」は(ライブで観客がこの曲ばかりリクエストするのに幾たびも拒絶していても)。ノーベル文学賞の選考委員の頭にこの曲および詩があったのは間違いない。ボブ・ディランは、フォークソングにとって、裏切者どころか、最大の功労者なのである。(太字にした歌手は、何でも屋のジョニー・キャッシュを除いて、いずれもフォークソングの巨人と称される者だが、若い世代は、ディラン以外の誰を知っているか。)