世界的には、「人形の家」と聞けばイプセンの戯曲を思うのだろうが、日本では弘田三枝子の歌曲を思う人も多いのではないか。今日は弘田三枝子の「人形の家」の話だ。

半世紀以上前ヒットした時からこの曲は好きで今もカラオケで歌う。

 

顔もみたくないほど あなたに嫌われるなんて

とても信じられない 愛が消えたいまも

ほこりにまみれた人形みたい 愛されて捨てられて

 

男女の愛の歌としか誰がどうみても思えないこの歌詞が、作詞者は日本に帰国した満洲残留孤児の想いに仮託したものだという。先ほどやっていたNHK「映像の世紀」で知った。作詞者であるなかにし礼自身満洲からの引き揚げ者であり(これは知っていた)、彼らの日本での疎外感に共鳴したのだろう。それは、作詞者がタイトルをつける時意識したであろうイプセンの「人形の家」のノラのような自立をも包含するのだろうか。

 

国策で満洲開拓に駆り出されたが、原爆投下で日本の敗戦が誰の目にも明らかになった時、満洲は、日ソ中立条約を一方的に侵したソ連軍に攻め込まれる。彼らを守るべき関東軍は(家族も含めて)我先に逃げ出す。父親はシベリア抑留となり、彼らは「中国残留日本人孤児」となる。

一番、二番を通じ3度繰り返される最後の

私はあなたに命を預けた

 

この絶唱は別の意味を持って迫って来る。「あなた」とは祖国ーであったはずのー日本なのである。

標記の「日本は1930年代半ばの仏英となってはならないー中国は当時のナチスドイツだ」が、「文藝春秋」12月号の中西輝政危機の宰相チャーチル(生誕150年)の名言に学べ」から読み取った結論だ。中西は、当時の(ナチス)ドイツを中国、フランスを日本、イギリスをアメリカに見立ている。周辺情勢から見て必要以上の軍備拡張を進めているという点で、ヒトラー・ドイツと習近平の中国と酷似し、当時イギリスで主流だった対独宥和論(これはイギリスのノーベル賞作家カズオ・イシグロの「日の名残り」を読むと明確に理解できる)は、トランプの、米国の利益にさえなればディール(取引)で全てを解決しようとする姿勢に重なる部分が大きいとする。そして当時のフランス、第一次世界大戦後の人口減少、長きに渡る経済低迷、観念的平和主義、これらは全て現在の日本に共通する。ことに、観念的平和主義は日本の骨の髄まで浸かっており、このままでは、当時のフランスがナチスドイツにあっという間に侵略され占領されたのと同様の結果となってしまう。

現代の東アジア情勢は、安全保障の観点からすると、当時の欧州と酷似すると言わざるを得ない。当時のイギリスは1940年、徹底的にナチスドイツとの対決を唱えるチャーチルの首相就任によってようやく活路が開ける。翻って現代の日本。首相になった途端に過去の主張を全て引っ込めるような人物に何が期待できるか。チャ-チルは決して信念を曲げなかった。(ただ、中西はチャーチルがトルーマンに「原爆を警告なしで使用すべき」と主張したという新しい事実も書いている。これは日本人としては決して忘れれることはできない。)

12月号の「緊急特集」は「石破首相の煉獄 自民党崩壊」だが、ただ他の自民党議員が今は手を挙げるタイミングではない、と考えているだけで、いつがひっくり返ってもおかしくない石破政権など検討する価値もない。

 

 

 

 

小学生の頃から歌謡曲よりラジオから流れるアメリカン・ポップスが好きだったが、1つの転機となった曲がある。高校生の時、文通(今時存在しないでしょうな)相手が送ってくれたサイモンとガーファンクルの「ミセス・ロビンソン」だ。そのドーナツ盤(これも今の人にはわからないか)を送ってくれたペンパル(この語も死語か)は無論アメリカ人。このいかにもアメリカ的な軽快な曲に魅せられた。日本では、同じく映画「卒業」に流れた「サウンド・オブ・サイレンス」が先にヒットしていて私も大好きだった。

 

我が山荘は、場所をとる(1枚30㎝)、昔のLPレコード、レーザーディスクを集めている。LPレコードはアナログゆえその独特の味ある音が愛されて(細々と)生きているが、レーザーディスクは逆にデジタルゆえ完璧に消えた。(デジタルでも圧縮技術が無い故だ。)何年前だろうかレーザーディスクのプレイヤーが壊れてしまい、どのメーカーでも作っていないからハードオフで探し見つけた。その時は山荘へ行くタイミングが合わず買うことを断念(保証期間が3か月)したのだが、その後数年間全くハードオフに見当たらなくなってしまった。先日久々に出た(しかも一気に5台)。今度は即求め、聖山荘周りの紅葉狩りに持って来た。

大谷翔平のドジャースがワールドシリーズ制覇、を見届けて、レーザーディスクプレイヤーをアンプとTVに接続し、選んだのが「サイモン&ガーファンクル イン・セントラルパーク」。(セントラルパークとはニューヨークのまさに中央にある大きな公園で、そのまた中央にあるレストラン、タバーン・オン・ザ・グリーンで食事をした想い出がある。)その第1曲が「ミセス・ロビンソン」で終わりの方でジョー・ディマジオが出てくる。ドジャースの対戦相手ヤンキースのかつてのスーパースター(背番号5はヤンキースの永久欠番となっている)だ。このレーザーディスクには、3曲目「アメリカ」、9曲目「アメリカの歌」、12曲目「ハート・イン・ニューヨーク」とアメリカ、ニューヨークを冠した曲がやたら多いのも、この3日間ニューヨーク・ヤンキースタジアムからの中継を見続けた目からは何かの縁と感じる。

映画のミセス・ロビンソンは、大学を「卒業」する娘のボーイフレンドを寝取る女だが、曲中に出てくる先述のジョー・ディマジオは、グラウンドでの態度やファンへの誠実な対応で「野球選手の鑑」とされた。シーズンMVP3回、この辺も大谷翔平とダブる(間もなく発表の今年のシーズンMVPをとると確信しているから)。恋多きマリリン・モンローの夫の1人だが、彼女の葬儀に参列した元・夫はディマジオのみ。ディマジオの葬儀(1999年)にはポール・サイモンがこの「ミセス・ロビンソン」を歌っている。

サイモンとガーファンクルはベトナム戦争での厭戦気分からのフォークソングブームの中、出現したデュオだったが、ボブ・ディランの「風に吹かれて」に代表される反戦歌と明確に一線を画していた。アメリカの「シティ」を感じさせる曲・詞だった。ボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞するならポール・サイモンにすべきだったというのが個人的見解だ。「サウンド・オブ・サイレンス」の方が「風に吹かれて」より上と私は思う。もちろん、「風に吹かれて」も極めて優れた詞ではあるが(ことに、「答は、吹いている風の中に」というセンス)。ディランは後に完璧なロックミュージシャンとなり、批判されたが「私はロックを愛する。フォークは当時の流行りだったから世に出る手段」、と言ってのけた。

 

アメリカでは、黒人へのアファーマティブアクションにより、白人は黒人より遥かに大学入学、就職が難しくなっている現状がある。黒人はより低い成績でも入学・就職ができるし、奨学金も黒人の方が得易いという現状がある。そんな、差別されてきた人を救おうという理念が多くの人にあったことが、私はアメリカを尊敬してきた理由だ。単なる「アメリカ・シリーズ」を「ワールド・シリーズ」と僭称する傲慢さがあったとしてもだ。大谷翔平のようなアジア出身でも力があれば認めよう、というのが「偉大なるアメリカ」と私は思ってきた。ところが今、剥き出しのエゴを標榜し、理念なんか糞くらえという人物が再びアメリカのリーダーとなるかもしれない。数日後にはわかることだが。

 

 

生物学的性別より、自身が内面で感じる性自認を優先すべきという考え(これを「トランスジェンダー・イデオロギー」という)が進歩的で正しいとの動き(LGBTQの権利擁護)は世界的な風潮だ。ただ、これをスポーツ大会に認めたら、女子の大会は生物学的に男性ばかりとなり、競技を男女に分ける意味は存在しなくなる。

 

1月に「イスラムに生まれて」を貸してくれたいとこが今度は「分断国家アメリカ」(中公新書ラクレ)を進呈するというので貰った。今年の10月10日発売されたばかりの本だ。著者は読売新聞アメリカ総局である。著者の1人がいとこの子で、「イスラムに生まれて」執筆時は読売新聞エルサレム支局長で今はニューヨーク支局である。

近年よく言われるアメリカの「分断」を、その原因につき、

 

第1章「ブラック・ライブズ・マター運動で広がる分断」

ー黒人と白人の溝

第2章「青い(民主党が強い)州vs.赤い(共和党が強い)州」

ーその対立の原因はキリスト教、LGBTQ、気候変動など

第3章不法移民を巡る攻防ー国境の街と寛容な「聖域都市」

第4章国際情勢がもたらす対立

ーユダヤ・アラブ・アジアなど国際情勢から派生する攻防

 

という分析による章立てである。

これを具体的な事例で紹介しているから説得力がある。冒頭のスポーツ選手のトランスジェンダー・イデオロギーは、第2章で、全米大学選手権で優勝したリア・トーマスの事例を紹介している。2017年大学入学の際は男子選手として出場し、翌18年トランスジェンダーであることを明かし、2022年競泳女子500ヤードで優勝した。さらに問題となったのは、女子更衣室で他の女子選手がいる前で男性器を露出させて更衣したのだ。これが果たして進歩的で正しい行為と言えるのか(当然、訴訟国家アメリカでは訴訟となった)。

 

腰巻に「世界を先導してきたアメリカの民主主義と多様な社会はどこへ向かうのか」とあるが、この問題は、やはり今年7月25日発売の「アファーマティブアクション」(中公新書)の腰巻でも「(黒人)差別是正をめぐるアメリカの苦闘」とあり、2020年発売の「白人ナショナリズム」(中公新書)でも副題が「アメリカを揺るがす『文化的反動』」とあり、同様の問題意識を示している。10日後に迫った大統領選挙は間違いなく1つの方向を示す。

 

前回「メッツなど軽い」と書いたが強がりではない。しょせんポストシーズンでナ・リーグ第6シード(最下位)のチームだからだ。今ポストシーズン、逆転に次ぐ逆転で「ミラクル・メッツ」再び、と言われ短期決戦では勢いのいいチームが強いとの見方があったが、そう長く続くものではない。私の予想通り4勝2敗でドジャースが圧勝した。4勝は全て5点以上の大差がついた。

勝敗以外に注目したのは、リンドーア遊撃手だ。東海岸のメディアではナ・リーグMVPを大谷と争うとされていたからだ。ホームラン33本、91打点、打率.273、29盗塁、アメリカで最も重視されるOPSも.844とどれ一つ大谷を上回るどころか圧倒的な差がある。なぜこんな声が挙がるのか。それは、大谷が今年は打者専念のDHで守備でチームに全く貢献しておらず、それゆえ過去DHでMVPを獲得した選手は1人もいないからだ。

メッツはただ1人在籍する日本人・千賀投手が今シーズン故障で1試合しか登板せず(それゆえ)ほとんど見ていない。リーグ優勝決定シリーズでリンドーアを注目したが、その守備、確かに素晴らしい。

遊撃手の守備力がMLBと日本のプロ野球では(唯一)圧倒的な差がある、とは以前から書いている。体操競技で日本が世界1であることからわかるように、俊敏さは日本人アスリートの大きな特徴だ。ところがリンドーア、打球に対する瞬発力が抜きんでている上、スローイングの正確性、速さが素晴らしい。日本でもアメリカでも、遊撃手は野手の華だから、日本人に負けない俊敏さが有ると同時に、日本人には逆立ちしてもかなわない地肩の強さがある。

大谷翔平がMVPを獲ることは信じて疑わないが、リンドーアも確かに素晴らしい選手だということは確認できた。

さてワールドシリーズ、相手はヤンキースで相手にとって不足なし。共に2冠王でMVP最有力候補、大谷とジャッジの対決。直接対決する投手は山本。ヤンキース相手にMLB移籍後最高の投球(当然無失点)をした。第2戦先発も発表された。その再現を期待する。

NHKも力が入って(BSでなく)地上波での放送。それ以上に力が入っていたのが山本由伸。解説の武田一浩(彼の解説は率直で好きである。最初はアナウンサーにおもねないぶっきらぼうな喋りに違和感があったのだが)は「こんなに緊張した面持ちの山本は初めて見た」と繰り返す。このナ・リーグ地区シリーズの1試合目に先発し、3回5失点とKOされていた(試合は大谷の活躍でドジャース勝利)のに、この最終戦の先発を(さすがにドジャース首脳陣がすったもんだの検討の末)任されたのだ。武田が「見たことが無い」というのは当然で、昨年までの日本では3年連続沢村賞で、常に見下ろして投げていたのだから。

その山本、5回無失点(被安打2)で勝ち投手となった。MLB投手としては最高額(465億円)での契約をしたこともあって、中5日の先発(38歳のダルビッシュは中4日)もできないのかとメディア(米・韓)で揶揄されていたのが、手のひら返しをさせた。史上初のポストシーズンにおける日本人同士の先発となったパドレスのダルビッシュも、6回3分の2を2本のホームランのみによる2失点(被安打わずかに3)と負けずに好投した。私としては、ほぼ期待した筋書き(両投手が好投、ヒットはドジャースの打者ー大谷であることがベストーのソロホームランのみ)通りに試合が進んだことに安堵した、と言うより、大谷のドジャースが世界1となることが最も大きな期待だから、その第1関門突破に喜んだ。だからこの試合で大谷4の0(ダルビッシュが良過ぎた)であっても、次のステージに進んで大谷の活躍を見られる方が嬉しいのだ。このシリ-ズ2割しか打ってないが、こと得点圈では、前半戦言われたその打率の低さと打って変わって、ことごとく打っていた(気がする)。2敗を喫し「崖っぷちだが」との質問に対し「2連勝するだけのこと」と返した大谷の、一平事件発覚時以来わが胸に響くメンタル面を言い訳せず技術の未熟さとしてしまうプロ意識の強さに感動する。

ドジャース「世界1」のためにはパドレスが最も手強いと思っていた。後半戦だけを見れば30球団で最も勝率が高いからだ。MLBは日本と違ってリーグをまたいでの交流戦を年中行っているから、こと後半戦に関しては最も強かったことは確かだ。そのパドレスを破ったのだから次のステージ、リーグ優勝決定シリーズでのメッツ戦など軽い。千賀投手との対決の楽しみもある。

午後1時、NHKにTVのチャンネルを変える。共に論客で知られる石破総理と、立憲民主党野田代表の党首討論に興味があったからだ。舌鋒鋭く質問する野田に対し石破も一歩も引かずに応じていた。無論、質問は総裁選での「公約破り」の早期解散と裏金問題だから攻める側が有利なのは否めない。立憲民主党の代表が野田に決まったから、小泉でなく石破を自民党総裁に収まらせたとの見方があるのもむべなるかな、と思わせる程の迫力ある論戦だった。ルックスだけの小泉なら全く反論できずに無様な姿をさらしただろうことは想像に難くない。小泉が総裁選(1回目)で議員票を石破の倍近く獲得したのは「シャッポは軽い方がいい」との議員仲間の判断であることは確かだが、(往時、剛腕の自民党幹事長で海部総理に対し)この名言を吐いたとされる小沢一郎は、今回、立憲民主党の代表に軽くないシャッポである野田を選んだ。シャッポというカタカナ語、けっこう古いので若い人のために解説すると、フランス語で帽子を意味し、確かに重い帽子はいただけないし、トップは軽い方が扱いやすい。

この40分の「世紀の論戦」、夕方のニュースではほとんど触れられず、もはや解散・総選挙一色である。国会論戦は、官僚の作文を棒読みするだけ(昨日までの石破もそうだった)より遥かに、自分の言葉による石破vs.野田の党首討論が面白い。しかし、この石破の善戦も、自民党凋落をどの程度抑えることができたか。

月刊誌なのにさすがと思うのは11月号「緊急特集」が、(決まったばかりの)「新首相誕生」で「イシバノミクスはどちらだー経済か財政かーだけではない」と「『究極の選択』を決した岸田の一押し」だが、私は既に石破内閣は「終わりの始まり」に入っていると考えている。

 

最も興味深かったのは「脳科学から見た、良いボスとは?」である。考えようによっては上記「緊急特集」に入れてもいいくらいだ。岡藤正弘(伊藤忠商事CEO)、中野信子(脳科学者)、新谷学(文藝春秋総局長)による鼎談で、2023年5月号でこの3人に岸田前首相(当時首相)を加えた「日本復活への道」の後編というべきものだ。この記事の最後に「脳科学を含めた科学的な知見として、どういう人が尊敬されるかについては、既に結論が出ており、その1つは『暴力を持っている人』と中野が発言したところで終了している(究極のじらし)。今回、当然、もう1つが明かされ、それは「美しい人」と言う。尊敬されるためには、「暴力と美しさ」その両方を兼ね備えている必要があるという。岸田がこれを聞いていれば今も総理だったかもしれない。(中野は岸田の「美しさ」については認めていた。)脳の内側前頭前野では美しいかそうでないかを判定しているが、ここでは善悪の判断も行っているのだという。現実に、小さな子供に、美しい女性とそうでない女性でどちらの言っていることが正しいか問うと、美しい女性の方が正しいと判断するというデータがあるのだ。

「覇権」と「王権」この2つを兼ね備えるのがリーダーの条件と言え、「覇者」は暴力でねじ伏せるだけだから簡単だが、「王者」は難しい。弱い人に対し慈悲を持って接すること、即ち面倒見がいいことが求められるからだ。そして、面倒見のいいふるまいは「美しい」と感じる。

さて現総理、見た目も、3日前にも書いた(「どこへ出しても恥ずかしい?総理ー石破or小泉『軽いシャッポ』」)通りだ。ところが、石破総理、若い頃の写真を見ると今ほど酷くない。「男の顔は履歴書」と言った大宅壮一ならずとも、誰しも、年齢を経て立派な顔になる人がいることは知っている。議員仲間の圧倒的な低評価は何を物語るか。面倒見の悪さがその1つであることは間違いないだろう。

結城昌治「軍旗はためく下に」は1970年の直木賞受賞作で知ってはいたが今回初めて読む。

「敵前逃亡・奔敵」(奔敵とは、敵にはしる、の意)、「従軍免脱」(自傷して従軍を免れようとする)、「司令官逃避」、「敵前党与逃亡」(党与とは、なかま、の意)、「上官殺害」の5話からなる。いずれも戦時中(もしくは戦後暫くの間)軍法会議で処刑され(遺族が)恩給の対象から外された者の話だ。言葉のみ見れば、戦争遂行上いずれも罰せられるのが当然と思われるような罪だ。

しかし、語られるのは、密林や敵情のため帰路を失い、後日友軍にたどり着いても逃亡罪を着せられる;将校連中の不正(後方で酒食に浸る、前線で欠乏している糧秣弾薬の私物化など)を糺すために薬指を切って血書を認め師団長に直訴したところ従軍免脱とこじつけられる;死傷罹病続出し、補給も途絶し、死を待つばかりとなって、中隊長が飲み水のある地点まで部隊を一時退避させたところ、司令官逃避となり;小さな島でほぼ全員が栄養失調状態で食料自給の農園作業を休むと炎天下にドラム缶に入れて放置(当然、全身火ぶくれで死亡)し自分だけは非常用保管米を食うという横暴の限りを尽くした小隊長を殺害;ということだ。

今、我々はこれと正反対の事例として、上級将校ことに参謀将校が重大な軍規違反を犯しても、咎められずむしろ殊勲甲となったのを知っている。関東軍参謀石原莞爾の中央に諮ることなく柳条湖事件・満州事変を引き起こした例に象徴される。軍事的成功が功績とされ、それが敗戦に至る十五年戦争の端緒を為したことの責任は問われない。日本軍のほとんど(ことに南方)の兵員は飢餓・傷病といじめによる死(全て「戦死」と報告される)に常に向き合わせられていたことも、補給が絶えて占領地域の住民から強奪したことも、相当に読んだ書物によって知ってはいる。しかし、この小説ほど戦場のリアルを我が胸に伝えたものは無い。まさしく「文学」の力だ。著者は「あとがき」で、戦争の体験者よりむしろ戦争を知らない世代に読んでほしいとのことを述べている。私は辛うじてその世代であり、大切な知的経験となったと信ずる。

8年前のことだが、地元の衆議院議員小坂憲次の長野における「偲ぶ会」で、高校、大学の後輩にあたる石破茂が故人を「才色兼備」と褒めた。この語、女性以外に使われるのは、聞いたことも無ければ文書で読んだことも無い。その驚きと共に、自らの容貌にかなりのコンプレックスを抱いていることもわかった。

「どこへ出しても恥ずかしくない」というのが慣用句だが、石破先生の顰に倣って言えば、「どこへ出しても恥ずかしい」のがこの総理だ。一方、ルックス的に「どこへ出しても恥ずかしくない」のが小泉進次郎だ。ただし、環境相時代の国際会議での「セクシー」発言を今後も繰り返しては国益を損なう。石破総理、三白眼で怖い印象を誰にも与えていることは言うまい。しかし、総理になった途端に、史上最速での国会解散、裏金議員原則公認と、自らの信条破りで石破らしさは全く影を潜めた。この総裁選で石破の倍近くの議員票を集めたのが小泉で決選投票に残れたら小泉総理誕生だった。(ただし、彼の場合、シャッポは軽い方がいい、という同僚議員の思惑だろうが。)議員仲間の信頼が全くないのは、議院内閣制の下では「無能」と同意語なのだろう。何も成し遂げることなく終わるのか。日米地位協定の見直しに言及していたから、少しは期待したのだが。