【加計勉と動物】旧軍毒ガス弾の埋まった半田山を購入➡︎ 天皇の実姉の池田動物園コミット狙い❓ | ☆Dancing the Dream ☆

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文科省の局長が、
東京医科大に、自分の息子を入試で合格させてもらった見返りに、
「私立大学研究 ブランディング事業」という
支援事業の対象校に選定し、受託収賄で逮捕されたが…

実は加計学園は、岡山理科大学、千葉科学大の2校が選定されていた。
同法人で2校も選ばれているのは加計だけだった。
最もブランディング事業の恩恵を受けていたのは加計学園だった。

しかも、加計の岡山理科大学の「恐竜研究」という
ブランディングとは、
独自に育てたブランドなどではなかった。

かつて岡山の名門 世界のバイオ企業として名を馳せた
「林原」が破綻し、
社長・林原健が行っていた(趣味的余業の)研究を
そっくり譲り受けただけの「棚ボタ」でしかないのである。

林原は、2011年に会社更生法を申請し、
化学専門商社長瀬産業の完全子会社になっているが、
「林原」といえば、
創立者の林原一郎が、終戦直後、
「隠匿物資摘発」から除外された、
甘味料の元となる大量のデンプン原料を保有し、
これを強みに、急激に日本一の「水飴工場」に成長させた会社だ。

戦後直後の林原の活況の頃、
極度のインフレで政府はインフレ抑制のために、
法人、個人を問わず預金を封鎖してしまう事態であった。
また、GHQが富裕層から財産税として財産を強制徴収した。
そこで、林原一郎は一か八かの勝負に出て、
大空襲で焼け野が原の岡山の土地の買収を開始した。
現在、岡山駅前に建つイオンの土地も、
林原が倒産の際に売却した土地だが、
林原の巨大な含み資産として貢献してきた一等地である。

また、林原一郎は、岡山城址 池田邸を購入
その地に、林原家の宝剣や能装束などの美術品コレクションを
収蔵した林原美術館を建てた。
この岡山市内山下の地は、
岡山藩主、旧候爵池田家嫡男の池田隆政氏が、
牛や豚、鶏などの家畜類を飼い牛乳づくりなどをしていた土地だった。
この池田産業動物園の経営難から、
池田家所有の岡山城の内堀の売却を考え、市や県に当たったが、
市は買取を渋り、県には値切られた。
池田氏は、一郎にも申し入れ、一郎はこれを高値でポンと購入した。
池田隆政氏は1952年10月に結婚。
妻は、昭和天皇の実子、今上天皇の実姉・厚子様である。

池田隆政氏は、京山の麓に池田産業動物園を移転(1953年)し、
「池田動物園」を開園(1960)した。
1956年には京山ロープウェイ遊園もできたが1998年に閉園となり、
岡山スカイガーデンとして再オープンしたものの、
これも2007年に閉鎖。半世紀に及ぶ歴史に終止符が打たれた。
池田動物園も、長年の経営難にあり、
園で誕生した日本最長寿のベンガルトラも昨年死亡し、
慢性的な閉園の危機状態にあり、
岡山市に対して、公営化を求める市民の声もあるが、
経営陣からのアクションはない中、
存続するには困難な問題が山積している。

「池田動物園」が京山にオープンしたのと同じ年
1960年夏、地元 広島から進出してきた加計学園の創設者・加計勉が、
私財を投げ打って、半田山の土地、約15000坪を購入した。
戦前戦中は旧陸軍練兵場が、戦後には自衛隊駐屯地があった場所だ。
「岡山市内に電気関係の工業高校(岡山電機工業専門学校)を新設したい」
「工業立国日本の人材を育てたい」「そのためには私財を投げ打つ」
と啖呵を切って、入学定員や申請内容の実現性を問題視した私学審の
固い認可の扉を開けたというのが伝承される表のストーリーだ。

【※加計勉の裏ストーリーは、(↓)こちらを参照して下さい】
**2018年07月09日(月)【加計勉 経歴のウソ⁉️】 
 戦中、曽根の「毒ガス工場」の 教官だったのでは❓

**2018年07月16日(月)【加計と林原と恐竜ブランド】  
 破産した林原健を囲う死神ウヨ➡︎浜田マキ子〜安倍洋子〜加瀬英明

**2018年07月19日(木)【加計勉と毒ガス】 
 岡山進出の謎 / 忠海中学コネクション/池田勇人・宮澤喜一
 /大原に擦り寄る…

**2018年07月24日(火)【加計の泥船にのる天満屋】
 林原倒産→イオン進出→天満屋危機→加計と結託→安倍に連結

**2018年08月09日(木)【加計勉と半田山の毒ガス】
 加計勉が購入した学校用地(半田山)は「毒ガス弾充填工場」跡地だった⁉️



それから58年後、加計学園は、
今治市に獣医学部を新設し、社会問題になっているが、
加計孝太郎のメッセージ(↓)によると、
「動物教育」への意思は、学園草創期からの
父・加計勉の思いを受け継いだものであるという。

加計勉が購入したのは、
戦中は旧陸軍の土地、
戦後は…一旦、その一部を県の岡山種畜場が入手し、
わずか6年後に自衛隊が弾薬保管地として買い戻した半田山の土地、
その大部分であり、
戦争末期には、地上戦に備えて〈毒ガス弾〉を運び込み、
砲座を据えた高台の地なのである。

この半田山の土地売買の経緯は、
GHQの調査を逃れた戦前の残留〈毒ガス弾〉の隠匿を
意味するのではないか❓

岡山種畜場を当該地に誘致した
当時の岡山県知事(西岡広吉)は、元・内務省官僚である。
内務省は国民精神総動員、翼賛体制の中枢組織として
GHQによって廃止されるが、
敗戦後の動乱期も、警察力の武装化と特高警察の拡充・強化を狙っていた。

そして、加計勉は、実は旧軍の毒ガスの秘密に深く関わった人物であり、
戦中に就いた兵役の任務内容を詐称している疑惑がある。
加計勉は「広島陸軍兵器補給廠 忠海分廠」毒ガス製造の大久野島
多くの学徒動員をした忠海中学の出身者であり、
大久野島から運ばれた毒ガスを充填していた「曽根毒ガス工場」に
加計勉は教官として招集された可能性が高いのだ。
さらに言えば、戦争末期、半田山の「岡山陸軍兵器補給廠」が、
「広島陸軍兵器補給廠」に改編され、三軒屋填藥所の関連施設に
毒ガス弾が運び込まれた。

彼らは、この土地の内情を知る
残留〈毒ガス弾〉の隠匿に最適な人選と言える。


加計学園の所有地となった半田山の南西の山は、
池田の殿様、皇族筋の京山であり、
加計勉が土地購入したのと同じ年に、
京山の皇族筋の動物園が華やかにオープンし、大きな話題となった。
しかし、池田動物園の前身は、新興企業に代々の土地を売るほど
資金繰りに困窮していたのである。

加計勉の「動物関連教育への関心」の発端は、
皇族筋の京山の池田動物園だったのではないか❓

加計勉は、
京山へのなんらかのコミットを狙っていたのではないだろうか❓
事業協力…あるいは…
林原が、岡山城 二の丸を買えるなら、いずれ京山を取得も…と❓

しかし、京山には、池田動物園に併設された池田動物園動物病院があるが、
ここは、イケダの名前を残したまま、
カバヤ食品 (代表取締役社長 野津基弘)によって運営され、
病院だけでなく、全国的に多様なペット関連の事業を展開して
順調に成長しているようだ。

【ライフパートナーイケダ 事業内容】
〜総合ペットショップ経営(全国11店舗)
愛玩用の動植物並びに飼育器具、飼料の販売、ペットの美容室
ペット用品の輸入販売・卸
動物病院(IKEDA広尾動物病院・IKEDA京山動物病院)〜
**ライフパートナーイケダ https://lifepartnerikeda.com
**イケダの歴史 https://lifepartnerikeda.com/company/history/








◉昭和天皇の実姉・厚子様ご夫婦が経営する
池田産業動物園の誕生とその行方

池田産業動物園(池田動物園の前身)が京山へ開園したのは昭和28年の2月。
戦後の日本にとって第一歩を踏み出した頃のことである。
開園の前年昭和27年秋に池田隆政 前園長と厚子夫人の結婚式が執り行われ、
昭和天皇の第四皇女順宮厚子内親王が岡山県民・市民になられた。
生来の動物好きの池田隆政(かつての岡山藩主、旧候爵池田家嫡男)氏は、
牧場主を夢見ており、祖父の地 岡山の内山下(現在の林原美術館)の地で
牛や豚、鶏などの家畜類を飼い牛乳づくりを行なっていた。

当該土地を林原に売却し、
結婚を機に家畜飼育事業を現在の動物園所在地に移転。
新たにトラなどの動物を加え牧場兼動物園を開き、
新居も動物園内に建てられた。

10年後の昭和37年には、有限会社 池田産業動物園は、
「株式会社 池田動物園」に改組された。

赤井克己 著『瀬戸内の経済人』


◉岡山理科大学のある半田山には
戦後の農業政策による岡山種畜場があった…

岡山畜産便り (岡山県畜産協会) 昭和24年(1949年)11月
岡山種畜場移転の計画と現況

http://okayama.lin.gr.jp/tikusandayori/s2411/tks16.htm
〜 戦後農業施営の改善と立体農業への移行を提唱され,その経営組織に於ける1要素としてこの畜産は,大きく取り上げられ,酪農経営と水田地帯との結びつき,果樹園と養鶏,酪農との結びつきや又桑園と畜産との共同経営,山間部への酪農の進出等に対する問題が喧しく検討されるようになったのである。種畜場の経営も従来通りの種畜種禽の配付,種付や試験研究のみではなく,その全能力を発揮して従来の業務を更に拡充し,経済農場的色彩を付与し,経営の部面に於ても更に進んだ研究を行う為,永年の懸案であった移転をこの際一気に実施することになり,御津郡牧石村三軒屋の地をとし,その工事を開始したのである。
 今回の移転地は岡山市に隣接し,その用地の一部は市内に有り,半田山と三野公園の間を北に入った谷で,旧陸軍東射的場のあった処で面積約93町歩(山林約55町歩,宅地約6町歩,雑地約21町歩,道路約6町歩,池約5町歩)建物約3,400坪でありましてその他に国有林を約50町歩借り受けることになって居る。〜

戦後極度な食糧難と,混乱した社会の中に,
連合軍総司令部による民主化が進められ,
政治経済などすべての面で画期的な改革が行われた。
昭和22年(1947)4月,最初の公選知事が生まれ、
初代岡山県知事は、内務官僚・西岡広吉(山口県柳井市出身)が
1期4年務めた。
戦時中からの懸案事項であった手狭になっていた岡山市上伊福の種畜場
(明治37年(1904)御津郡伊島村上伊福/現・岡山市上伊福に設置)の
移転問題が、県議会で承認され,
御津郡牧石村三軒屋(現岡山市宿)に適地を求めた。
しかし、ここに英印軍が進駐したためにこの計画は一頓挫した。
昭和22年(1947)8月に英印軍が撤収したので,
昭和24年(1949)11月に念願の移転を完了した。






◉戦後、半田山に移転設置された岡山種畜場の目的…
旧日本軍の武器 毒ガス弾隠し❗️

・教育に関連する事項
○畜産指導者並びに有畜農業経営(特に酪農に中心を置き)
中心人物の養成に画期的な努力を注ぐ。
○我が国農業の将来性に鑑み,水田酪農の経営,果樹園と畜産,
養蚕と畜産との結合等につき実地研究を進める。
○食生活の改善に大なる関係のある,畜産加工,貯蔵等の研究をして
農家の生活に直結した場とする。
○場内の池沼, 水田を利用し淡水魚を養殖し,水禽類等の研究を行う。
・軍事に関する事項
旧弾薬倉庫を利用しキュアリング(食物の保存処理)による
甘藷(さつま芋)の貯蔵を行う。→武器(化学兵器/毒ガス弾)の隠匿❓


**2018年08月12日(日)【加計と毒ガス弾と金❗️】
 無尽蔵な毒ガス弾処理利権が絡む地❗️千葉科学大の銚子606件更新中…



◉自衛隊が弾薬庫を必要とし半田山の土地買収❗️
岡山種畜場は津山市に移転

岡山種畜場は昭和24年(1949)11月に移転を完了したが、
ところが,その後 昭和30年(1955)に,
自衛隊がアメリカ軍から移譲された弾薬を保管するために,
場内にあった弾薬庫を必要として買収の申入れがあり,
1億9,000万円で移譲した。

これを資金として,昭和31年(1956)4月1日,
岡山県津山畜産農場に,乳牛その他の酪農関係の施設を移して,
岡山県酪農試験場として新発足した。
津山市に岡山県酪農試験場,同養鶏試験場,同和牛試験場の
3試験場が設ける形となった。
都道府県で畜産関係試験場を設けたのは,本県がはじめてであった。