**2018年07月09日(月)【加計勉 経歴のウソ⁉️】
戦中、曽根の「毒ガス工場」の 教官だったのでは❓
**2018年07月16日(月)【加計と林原と恐竜ブランド】
破産した林原健を囲う死神ウヨ➡︎浜田マキ子〜安倍洋子〜加瀬英明
**2018年07月19日(木)【加計勉と毒ガス】
岡山進出の謎 / 忠海中学コネクション/池田勇人・宮澤喜一
/大原に擦り寄る…
あなたがグライダーに乗って
鳥人になったつもりで、
古代の東ユーラシアの上空を飛行してみたならば、
モクモクと色濃い緑の帯のような絨毯が見えるでしょう。
そして、夜になると、この緑の帯は、
テイタラボッチの散歩道となるのでしょう。
ブータンから雲南、華南、台湾、
そして日本南西部に帯状に広がっていた照葉樹の森…
照葉樹林は、雨水を吸収して水源を保ち、
川の流量を調節し、渇水を防ぎ、
災害にも強く、自らの蘇生力で深い常緑を保ちます。
年中 モクモクムクムク高木の枝葉の屋根を広げる照葉樹の森の下には、
低木の森、さらに下草の森…
森の下に幾重もの森を抱き、
深く暗い森は、ひとつの小宇宙のような
複雑で豊かな生態系を育んでいました。
宮崎駿の『もののけ姫』は、
東ユーラシア照葉樹林帯の東の端の
日本の中世・室町時代の西日本の中国山地を舞台としました。
そして、ニホンオオカミが生息するシシガミの森の木々を
盛大に伐採し、燃料とする《たたら製鉄》を描きましたが、
現在の広島県安芸太田町、
かつての山県郡加計村 《加計隅屋》鉄山は、
まさに『もののけ姫』のたたら場そのものと言えます。
鉄と稲作は、古代・弥生中期に、
朝鮮半島から、ほぼ同時に伝来したもの。
そして、加計隅屋(本姓・佐々木)は、元々、
朝鮮半島にほど近い島根の隠岐諸島の守護を任された
近江源氏(尼子)の系譜であるという…。
明治の平民苗字許可令・平民苗字必称義務令1875年(明治8年)以降に、
佐々木と名乗る有象無象の平民が増えたため、
自分たちは、〈加計〉に変名したと 加計隅屋・現当主は語っている。
本流の佐々木が、由緒ある佐々木姓を捨てて変名するのは、
どうも間尺に合わない話で、腑に落ちないが、
加計は、今も、佐々木氏の
鹿の子絞りの文様の「目結紋」を使用しています。
加計隅屋は、銀を採掘して儲けた金で、
加計本郷に製鉄のたたら町を作り、
太田川上流に精錬所を設けました。
製造した鉄を「加計船」と呼ばれた川船で広島まで運び、
さらに帆船に移し替えて 大坂まで運んで売り、
江戸期を通じて西日本の最大手の製鉄商人となり、
その経済力は広島藩だけではなく、
周辺の浜田藩や津和野藩にも重視され影響力を持つようになったと言う。
加計船は、森鴎外の小説『高瀬舟』の罪人を運んだ舟、
京都の高瀬川を往来した高瀬舟として名を変えて伝わった。
岡山県の三大河川、旭川、吉井川、高梁川にも、
同じような荷積み舟があり、
高梁川では、「加計船」と呼ばれる舟があった。
加計グループの吉備国際大学が高梁にあるのも、
この地が、鉱山師の加計にとって所縁のある場所だったことに
関係するのかもしれない。
http://kan-ootagawa.org/bunka_ootagawa.html
瀬戸内海には、南北朝時代から戦国時代にかけて
制海権を握っていた村上水軍が、
三つの島、能島(今治市)、来島(今治市)、因島(尾道市)を
根拠地にしていた。
山の加計の加計船は、操船に優れた海賊衆の紀氏系の技術で、
瀬戸内の水軍も紀伊水軍の分派が入ったと言われている。
加計隅屋が江戸初期から後期の200年の間に
採掘した鉄山は25にも上り、
広島の地形を変えるほどの自然破壊をもたらしました。
さらに、戦後の復興期は、急増する木材需要に応じ、
たたら場の燃料として所有していた山林で林業を営み、
生産性の低い広葉樹林から、
尽く生産性の高いスギなどの針葉樹林に変換しました。
1959年、加計は、
所有していた広島の中国山地の山林を、
生産性の低い広葉樹林から、
生産性の高い針葉樹の人工林に転換する事業を着手。
加計は、たたら製鉄から、林業に鞍替えし、
『日新林業株式会社』の経営に乗り出します。
加計学園の理事にも名を連ねている加計正弘は、
加計隅屋 24代当主であり 、
日新林業株式会社取締役社長ですが、
日清林業は、
ブナ・イヌブナ、ミズメ・ヤマザクラ・クリ・ホオノキ・ミズナラなどの
広葉樹を伐採し、跡地にスギ・ヒノキを主体とした
人工植栽をすすめ今日に至っているのです。
たたら製鉄から林業経営に移行した
加計の現在に至るまでの この営みは、
頻発する広島の土砂崩れ災害と決して無関係ではありません。
◇
岡山といえば、
桃から生まれた桃太郎が、
山で火を焚く鬼、あるいは鬼ヶ島の鬼を退治する
吉備の里の勧善懲悪の物語「桃太郎伝説」ですが、
現代の岡山では、
桃太郎(ヤマト王権)&猿 鳥 犬と、
鬼(温羅 たたら)は、腹心の友として結託して、
本来、豊かな土地の富を吸い上げ、
村人を虐げているという醜悪な話になっているんですね。
林原所有時代(2011年12月当時) 岡山イオンモール
◉岡山財界ドミノ
岡山駅の南側の広大な土地を所有していた
バイオメーカーの林原グループ(※林原健のその後 詳細)は、
不正経理が発覚、総額約1,400億円の負債を抱え、
2011年2月に東京地方裁判所に会社更生法の適用を申請し、
事実上、経営破綻した。
長年の間、このだだっ広い一等地は、
林原の本社と有料駐車場になっており、有効活用されず遊ばせていた。
夢見る林原は、百貨店、高級ホテル、恐竜の化石を展示する自然科学博物館や
美術館などの文化施設を設けた複合施設「ザ ハヤシバラ シティ」の建設を
構想していたが、意気込みだけに終わり頓挫した。
破産管財人のもと林原の会社更生計画によって、
林原所有の岡山駅南の当該土地は、売却が決定し、
2011年9月21日に入札が行われ、
イオンモールが約200億円で落札した。
そして、2014年11月、イオングループが岡山駅前に、
売り場面積約9万平方メートルの『イオンモール岡山』を出店した。
岡山の街づくりは、『天満屋』がバスターミナルを有し、
路面電車などの交通網が全て天満屋を中心に整備されており、
天満屋百貨店周辺に商店街(表町商店街)が形成されている。
天満屋は、地元商業の顔として君臨していたが、
岡山駅南の好立地、大型ショッピングセンターのイオン進出に、
不況の中で、いよいよ危機感を募らせた。
(※伊原木隆太 岡山県知事は、天満屋の6代目。大株主)
天満屋グループのスーパーマーケット部門の別会社、
『天満屋ストア』は、西日本での競争激化による売上の低調に苦しみ、
“敵の敵は味方”の論理で、イトーヨーカ堂の傘下に入る決定を下した。
2014年1月末、天満屋ストアは、大株主天満屋などが
イトーヨーカ堂に株式を売却し、
イトーヨーカ堂の持分法適用会社となった。
『天満屋ストア』と『天満屋』は、セブン&アイ・ホールディングスと
広範囲に及ぶ業務提携を結んだ。(資本業務提携)
さらに、天満屋は、創業以来、創業家社長を配してきたが、
2017年12月、かつての社長の現・岡山県知事 伊原木隆太の
いとこに当たる伊原木一朗が退き、
創業家以外からのトップを就任させた。
https://toyokeizai.net/articles/-/26232
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO25164610X21C17A2LC0000/
【天満屋 主要株主】
丸田産業(株) 36.41%
伊原木隆太 19.29 %
丸田ビル(株) 10.60 % (2011年2月28日現在)
【天満屋ストア 主要株主】
丸田産業 23.95%
イトーヨーカ堂 20.0%(2015年2月)
※丸田産業(株) 代表取締役 伊原木省五
http://www.maruta-g.jp/company/index.html
※丸田ビル(株) 代表取締役 伊原木 一 衛 (平成24 5月)
https://www.kabutec.jp/pdf/201205/140120120528042133.pdf
この状況を見ると、
伊原木一族は、百貨小売業から、
不動産業にシフトし幕内に入って金と情報の操作に専念するようだ。
そして、6代目は政治に進出する。
伊原木家の歴史については後述するが、
呉服商の伊原木家が、
隠した後ろ足に軸足を移すように
金貸しに転じたのに似ている。
◇
◉安倍印の加計泥舟に乗る天満屋
nemさんの調べによると、
天満屋企業、丸田産業(株)に、
今年5月30日、加計孝太郎と、大原謙一郎(加計学園元理事)が、
取締役に就任している。
つまり、天満屋は、加計を通じて、安倍政治にしがみつき、
岡山政財界は、一丸となって
安倍を支援するという図ができたということか…
たとえウソにウソを重ねる悪徳政権であろうとも。
戦後70余年の、もはや沈みかかっている
古いシステムの船の帆柱に、
必死にしがみついて、どうなると言うのか。
庶民を引っ張り込みながら、沈むのは勘弁してほしい。
この時期の加計を取り巻く状況を見ると…
4/10の朝日の愛媛文書スクープ。
5/21 新・愛媛文書スクープ。
5/26 加計FAXで報道に
〈2015年2月25日の加計孝太郎と安倍の15分会談〉は
作り話をしてしまったと詫び文提出。
5/30 丸田産業に加計孝太郎、大原謙一郎が取締役に入る。
5/31 渡邊良人事務局長が愛媛県庁を訪問。ニヤニヤ謝罪。
6/19、加計理事長が初会見。
7/5 西日本豪雨 警告。気象庁が異例会見。
広域な未曾有の大災害となった。(被害の全容は未だ判らない)
7/11 西日本豪雨で甚大な被害を受けた岡山の真備に、
対応の遅れを非難された安倍が視察に訪れた。
7/16 自民党岡山県議 36人中32人が
「安倍晋三首相を応援する有志の会」設立。
安倍のパフォーマンスに共演する伊原木隆太 岡山県知事
さらに、nemさん新発掘の登記簿によって、
孝太郎の長男・加計役は、 2014年以前から(2014年留任)2016年まで
岡山絵情報処理センター(天満屋100%出資)の
取締役だったことが判った。
孝太郎には二人の息子がいる。
※加計役(かけ・まもる)
千葉県柏市出身。米国フィンドリー大学経営学修士(MBA)取得。
2000年に加計学園に入り、2011年より加計学園副理事長就任。
広島加計学園理事長、吉備高原学園学園長なども兼務。
一般財団法人・世界で生きる教育推進支援財団理事も務めている。
※加計悟(かけ・さとる)
平成18年3月 鹿児島大学農学部獣医学科
平成18年9月 倉敷芸術科学大学生命動物科学科助手、
加計学園本部秘書室、千葉科学大学企画室参与
平成19年4月 倉敷芸術科学大学生命動物科学科助教
米国(テネシー州、オハイオ州、フロリダ州)出向
平成21年4月 倉敷芸術科学大学副学長(管理運営担当)
学校法加計学園法人本部事務局次長
加計役は、父・孝太郎の自邸隣家の岡山市津島福居の
大本組所有の邸宅に住んでいる。
息子のこのパラサイトぶりは異様だが、
永年、恩を売り合い、既得権者として生き残ろうとする
彼らの独特な寄生スタイルの一端が垣間見えたに過ぎないのだろう。
〜得になりそうな相手に恩を売って貸しを作る〜
これが加計のスタイルなのだろう。
天満屋 6代目・伊原木隆太が県知事選に出馬し、
自由民主党・公明党・たちあがれ日本の推薦、
地元経済団体の支援を受けて当選したのが、2012年10月。
同年9月に安倍晋三が、自民党総裁選出馬し、
石破を破って勝利。
同年12月 衆院総選挙で自民党が圧勝。
第2次安倍政権が誕生した。
加計は、2009年安倍が自ら総理を辞して初の
衆院総選挙に、半強制的に、学園の職員を
安倍や塩崎恭久の選挙事務所に派遣して、
職員から内部告発されているほどであるから、
安倍の返り咲きの選挙と、
地元岡山県知事選でも、大い恩を売り、
元々、岡山では後進の余所者・加計は、
岡山財界のドン・天満屋との関係を深めたことだろう。
孝太郎の次男・加計役の天満屋系企業の取締役就任という
縁組みも、その証しの一つなのだろう。
2012年は、安倍の復活によって
加計が地元で中央政治への口利き屋として力を持ち、
まさかの粉飾決算で破綻した林原の駅前一等地に
外来種のイオンが進出し、
それに恐怖する岡山のドン天満屋の伊原木がイトーヨーカドーと手を結び、
政治的補強を求めて加計と手を結んだ…
…という岡山財界のドミノの図が見える。
**https://mobile.twitter.com/yo_nem/status/1020151187000066048
…ふと、見ると、学校法人加計学園 役員一覧に、
いつのまにか、『天満屋』の伊原木一衛が
な連ねているではないか❗️
そして、こんなものを見つけた。
『セブン&アイ・ホールディングス』が、
天満屋ストア、天満屋との業務提携、
子会社のイトーヨーカドーが天満屋ストアとの資本提携をするという報告書…
https://www.7andi.com/dbps_data/_material_/localhost/pdf/20131210_02.pdf
…この文中の…
株)天満屋の大株主に名前を連ねている大本榮一とは、
大本組の先々代社長で、
現 社長・大本万平の祖父である。
大本組の一代目は百松。2代目 榮一。
三代目 百稔。4代目 百稔の長男・万平…
大本組は、アイサワ工業とは初代から
義兄弟の契りで結ばれているが、
天満屋とも結託しているようだ。
◉伊原木家とは?
伊原木家は、
幕末期から西大寺で商業を営み、小間物、雑貨の販売を行った。
西大寺は西大寺観音院の門前町として、
また、吉井川を往来する〈高瀬舟〉の港町として、
古くから栄えたその地の利を得て繁盛し、
明治に入ると、呉服の卸と小売を始めたほか、田地を集積し、
金融業にも手を広げ蓄財した。
天満屋初代、伊原木茂兵衛、2代伊原木藻平、3代伊原木藻平。
明治29年(1896)、2代目伊原木藻平は状況の悪化で呉服店を断念。
金融業に専念。を決意した。
甥の久三郎(3代目藻平)このとき、地元の西大寺で紡績社長をしていたが、
31歳のとき養父に「紡績はほかの人に任せ自分があとを継ぎたい」
と申し出て呉服店を譲り受けた。
久三郎はそれまで個人経営であった店を会社組織に変更、
合名会社伊原木呉服店(後の天満屋呉服店)を設立した。
当時同業者で合名会社組織、三越の前身・越後屋呉服店だけ。
さらに越後屋同様「一厘もまけなし」
「正札販売」の看板をかかげたという。
そして、この3代伊原木藻平(久三郎)「天満屋中興の祖」もまた
電鉄会社の一社員だった伍朗を養嗣子にし、後継者にした。
4代伍朗は長野県飯田市の出身。
伊原木家とは全く血縁関係はなかった。
呉服商店当時の店舗 西大寺 吉井川の高瀬舟
県北と県南、さらに内海航路を介して、岡山や京阪神への流通は、
江戸時代に盛んになった、河川を上下する高瀬舟が担っていた。
高瀬舟:浅海を航行するする為の木造船で、中世には船体が小さく、
底が深かったが、近世には、船体が大きくなり、底が平たく浅くなった。
帆走もしくは、馬や人間が曳いて運行され、
物資の輸送を主な目的としていた。
県下の三大河川(旭川、吉井川、高梁川)では、
室町時代末期頃から使用され始め、
江戸時代を経て、昭和時代初期まで使用された。
西大寺の高瀬舟は、吉井川の西大寺〜津山の
30里を上り下りしながら、
貨客を輸送するに使われた。
因みに、西大寺の吉井川沿いの西大寺観音院の
「会陽 裸祭り」は日本三大奇祭として有名だ。
吉井川の高瀬舟は、中世から運航されていたようで、
室町時代にすでに西大寺から吉井川中流まで通じており、
江戸時代に最盛期を迎える。
京都の高瀬舟のモデルになったと伝えられている。
慶長年間森忠政が津山に転封し、吉井川左岸に舟蔵や番所を設け、
船頭町の整備を行った。
江戸時代には、西大寺迄の72kmを下り2日、上り3~4日を要していた。
積載能力は下り6t、上り1t。
下りは、米、炭、瓦、鉄等、上りは、日用雑貨、海産物等であった。
船数は、松平藩時代は、舟株を持つ者(船主)に
高瀬舟の津山以南の運行が許され、
津山舟(54)長岡(柵原:116)、
田原(和気:16)計186隻が担っていた。
倉安川の開削により岡山城下への輸送も可能になった。
主な湊は、津山、林野、周匝、和気、西大寺、中でも津山は最大の基地。
中国鉄道開通後は、柵原鉱山の鉱石運搬が主となった。
※高瀬舟の隻数は明治には増加、又津山以北運行分を含めると増える。
◇
縁とは不思議なもので、
伊原木家のご先祖が、西大寺、吉井川を往来する
〈高瀬舟〉が運んだ物資で商売繁昌したわけだが、
その高瀬舟は、加計家のご先祖のたたら者が、
山地の太田川上流から河口まで鉄を運んだ〈加計舟〉が
源流だったのだ。
◉加計船
太田川、広島・可部間は勾配もすくなく、
潮の干満や南風を考慮すれば、安定した航路であったが、
可部からの上流は曲がりくねった流れに、急流が組み合わされ、
増水期渇水期があり、水量の変化も大きい難しい航路であった。
このためこの航路には「加計船」とよばれる川船が作り出された。
船の先端・ミヨシはゆるやかで、船の底板から船幅が広く
荷も人も水面下にはいっているように見えた。
積荷は平均的な船で10石、1500kgの掲載貨物の能力が
あったろうといわれる。
可部から下流へいれる船を「可部船」といって、
細めの高速走行タイプだといわれる。
川船は各地でいろいろな形状と呼び名があるようだ。
「加計船」は岡山の高梁川に使われる船の呼び名でもある。
一般的には「高瀬舟」とよばれる。