【加計勉と毒ガス】岡山進出の謎 / 忠海中学コネクション/池田勇人・宮澤喜一/大原に擦り寄る… | ☆Dancing the Dream ☆

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◉少年少女を毒ガス工場で働かせた日本軍
最盛期の大久野島では、約6000人の人が働いていたと見られる。
その多くは、竹原・忠海を中心とする人たちで毎日連絡船で通勤していた。
一般工、徴用工、医師、看護士、戦争も終盤にかかると
動員学徒から学童までかり出された。
中級技術者養成のために島には養成所もあり、
近隣の学業優秀な小学校卒業者を集めて勉強させた。
これらの人たちは養成工と呼ばれていた。
ガス島全体が常に悪臭を放つ霧に覆われた状態で、
島にはいること自体が危険なことだった。
ましてや工室と呼ばれる生産現場で働くことは、「死」を意味していた。
実際、工室で長く働いていた人たちは
昭和30年までにほとんどなくなっている。
http://www.inaco.co.jp/isaac/back/002/002.htm

〜忠高ニュース(忠海高等学校HP)〜より
大久野島毒ガス障害者団体連絡協議会会長の
神明正明さんからお話を聴きました。
神明さんは,本校の前身である忠海中学在籍中に学徒動員として
大久野島で様々な作業に従事されたそうです。
現在は,高齢化が進む被害者団体8団体を一つにまとめ,
その連絡協議会の会長を務めておられます。

『一人ひとりの大久野島』行武正刀
〜(忠海病院の行武正刀 医師が、カルテに書き込んだメモ、
 毒ガス傷害者の証言集)〜より
【毒ガス患者の証言】
・高熱と激痛が起きた。やけどのガーゼを交換する時は、
 あまりの痛さに意識を失った。病院のベッドで『殺してくれ』と
 泣き叫ぶ状態が数十日続いた。
 〜戦後の工場解体作業で、毒ガスが漏れた海中で
 大やけどを負い80歳代で死亡した男性
・機械の故障で毒液が首や腕に付き、医務室に2日間入院した。
 全身に倦怠感が残り、せきやたんが出た。
 後に塩酸を頭からかぶって左目を失明した。
 〜イペリット製造に携わった元工員男性
・終戦前、工員12人が下宿していた。
  朝夕、せきをして入院する人もいた。戦後10年余りで全員が亡くなった。
 〜戦前、家が下宿屋をしていた男性
・工場での仕事は親兄弟にも一切話すなと言われた。
 退職の時は念入りに荷物を調べられた。
 〜動員学徒として従事した女性

〜イアン・ブルマ著『戦争の記憶 日本人とドイツ人』
村上初一(初代館長)と大久野島毒ガス資料館〜より
https://sites.google.com/site/tadanoumis/105
工場で働いていた生存者は、
その多くが慢性の呼吸器疾患に悩まされており、
1950年代にその窮状の認定を政府に訴えた。
だが、政府はその訴えを退 けた。この労働者たちに補償をすれば、
日本陸軍が不法な事業に携わっていたことを公式に認めることになるからだ。
教科書に化学戦争にふれた記述がちょっと でもあれば、
文部省はたちどころに削除させた。
それでも毒ガス工場の記憶を完全に消し去ることはできなかった。
1975年、毒ガス障害であることを証明できた生存者に
なにがしかの補償金が支払われることになった。
1985年、戦時中ここで死んだ労働者をいたむ小さな記念碑が建てられた。
1988年には、生 存者たちの努力が実って、
小さな資料館、そこのパンフレットによると
「真実を後世に語り継ぐ」ために建設されたのである。

**昭和48年の「旧軍毒ガス弾等の全国調査」フォローアップ調査報告書
 平成15年11月28日 (平成16年3月31日更新版)環境省


◉加計勉と2つの毒ガス工場❗️
『大久野島毒ガス工場』と『曽根毒ガス工場』を結ぶ教師

加計勉(1923 - 2008)には、経歴詐称の疑惑がある。
1944年、加計勉は、招集され、
九州小倉の「戦闘機工場」で
生徒の引率責任者だったことになっているが、
小倉には戦闘機工場などはないのだ。
小倉には『曽根毒ガス工場』のそばに滑走路が作られ、
毒ガス弾をそのまま空輸した空港があっただけである。
つまり、加計勉は、
『曽根毒ガス工場』(東京第二陸軍造兵廠 曽根製造所)で
学徒の指導をしていた可能性が高いのだ。
曽根毒ガス工場では、
『大久野島 毒ガス工場』で製造された毒ガスを運びこみ、
砲弾に充填する作業を行なっていた。

この件は、すでに、ここに書いたことだが、
ひとつ、後になって気づいた重要なことがある。

大久野島の毒ガス工場の正式名称は、
『東京第二陸軍造兵廠 忠海製造所』である。
所在地は、広島県竹原市忠海町大久野島〜
そして…
加計勉は、広島県立忠海中学校(現 広島県立忠海高等学校)を卒業している。
その所在地は、広島県竹原市忠海床浦四丁目〜

→忠海中学から大久野島毒ガス工場に学徒動員。
→大久野島で作った毒ガスを 小倉の曽根まで輸送。
→曽根毒ガス工場で砲弾に充填。
忠海中学、大久野島、曽根、この3点をつなぐ行程の中で、
忠海中学卒の中学校教師・加計勉は、
なんらかの任務で生徒を引率する教官としては適任だっただろう。

大久野島 :竹原市忠海町から南方3km
忠海中学には、1918年(大正7年)から「理化学教室」を増設していた。

◉加計勉 1961年 広島から岡山へ❓
1964年 一条校への大ジャンプの謎…

加計勉は、終戦後、
1946年、広島文理科大学理学科数学(広島大学理学部)に入学し、
1949年、卒業後、広島大学附属中学の教諭となり、
1955年に大学受験予備校の広島英数学館(広島市中区小町)を設立。
(孝太郎4歳)
1962年、広島から岡山へ進出。
岡山市の半田山の山麓(岡山市北区理大町)に、
学校法人加計学園、岡山電機工業高等学校を設立した。
1967年には高梁市の共同出資(第三セクター方式)によって、
学校法人・高梁学園(順正学園/歴代高梁市長が理事)の
順正短期大学と順正高等看護専門学校が設立された。
 ※鈴木雄祥 元 高梁市長(1961年~1972年)
  実家の高梁市曹洞宗雲泉寺(住職)
  元読売新聞社記者。(1961)第二代高梁市長となる。
 (1972)7月未曾有の大洪水が起きその心労もあり市長在任中没。
  学校法人高梁学園 順正短大の誘致。
 ※樋口 修 元 高梁市長(1984年~1996年)
  高梁市鈴木市政において企画財政課に勤務し、
  高梁学園設立の実務を担当した経験を元に、4年制大学誘致。
  吉備国際大学の設立。

私塾から発展させた予備校は、
順調な経営だったが、代ゼミ・河合塾などの大手の進出により、
生徒を奪われて、やがて、経営不振となり、
1962年、一家は、広島から岡山へ拠点を移すこととなる。
しかし、学校法人設立を目指すということならば、
なぜ、突如、ネットワークのある郷里を離れて、岡山に移ったのか?

◉「大久野島毒ガス傷害研究会」発足…
加計勉は、元毒ガス工場学徒の告白を恐れた❓

以下からは、推測だが…

ひとつには…
毒ガス工場のかつての学徒たちが、
そこで何が行われていたか、
いかに生徒を騙し、いかに非人道なことを強いていたか、
医療調査の受け皿が作られると、治療や賠償を求めて口を開き始め、
自分が過去に国家の犯罪に加担した教師であることを
世間に知られることを恐れたにではないか?
旧陸軍人脈を頼り新天地を求めて、
広島から逃げ出したのではないか?ということだ。
ナチの残党が、戦後、身を隠したように。

毒ガス障害者への健康診断や後遺症の研究を行う
広島大学を中心とする組織「大久野島毒ガス傷害研究会」が
発足したのが、1961年。
加計勉の一家が岡山へ転出絵するのと同時期だ。

広大病理学教室、広大皮膚科学教室、広大健康管理センター、
忠海病院などの協力によって、
広大医学部第2内科教室(旧 和田内科教室)が設立した同会は、
竹原保健所でボランティアの救済活動を開始した。
元工員たちの毒ガス傷害が診断されると共に、
社会保障どころか国から口止めされていた
毒ガス工場の実情が語られはじめる。
…いずれ、予備校を経営する加計勉が、
学徒を曽根毒ガス工場に引率する教官だったことも、
人の口の端にのぼり、知れることになるだろう。
加計勉は、それを恐れたのではないか?

◉加計勉と政治家 (池田勇人、宮澤喜一)
忠海中学&同郷コネクション

…そして、もう一つには、
軍都広島の伝統校「忠海中学」コネクション、
同郷コネクションで繋がった中央政治家との関係が、
加計勉をフォローし、押し上げたのではないか?という推測である。
加計孝太郎を安倍晋三が、優遇したように…。

加計勉は、池田勇人と交流があり、
宮澤喜一の後援会長だったと言われている。

池田勇人 広島県立旧制忠海中学(→旧制五高→京大法→大蔵官僚)
1949年の衆議選に旧広島2区から出馬し初当選。
57年第1次岸内閣 大蔵相→ 58年第2次岸内閣 国務相。
そして、1960年7月19日に内閣総理大臣に就任。

池田の蔵相秘書官は、大蔵官僚・宮澤喜一であった。
宮澤喜一は、東京生まれ東京育ちだが、
父の出身地、広島県福山市を本籍に置き、
池田の強い勧めで1953年参院選に
広島県選挙区から出馬し当選した。
1962年第2次池田改造内閣では経済企画庁長官として初入閣。

池田勇人が政界入り初当選した1949年の衆議選は、
その年の1月に行われた。加計勉は、26歳。
旧日本軍の機密保持に協力した教員は、
広島文理大に進み、卒業を目前した学生だったが、
地元選挙区から出馬した同じ忠海中学校卒の先輩の
偉人とあっては選挙応援に関係していても
おかしくはない。

そして、加計勉は、
のちに宮澤喜一の後援会長になったというのであるから、
1953年参院選、宮澤喜一の初出馬にも、
教員公務員法などの政治活動を規制する法の範囲で、
選挙応援することはできただろう。

あるいは、加計勉個人だけでなく、
一族も彼らを支援していたのかもしれない。

教員公務員を辞めて、私塾、予備校の経営に乗り出し、
そして、39歳にして、広島から別天地 岡山へ。
半田山の広大な旧陸軍練兵場跡地を取得し、
一条校の設置者となる。
このホップステップ…大ジャンプの背景に、
同郷の大躍進した有力政治家の下支えがあったのではないか?

池田勇人が総理大臣となり、宮澤喜一が閣僚入りし、
権力を握るのと時期を同じくして、
加計勉は、学校法人・加計グループをスタートさせたのだ。

◉加計勉の野望❗️功名心が狂わせた経営…
大原孫三郎の猿真似で
吉備国際大をハイデルベルグ大学のように❓



予備校の広島英数学館を設立してから、35年後、
加計勉は、地元の「名士」の一人になろうという
功名心に駆られていたのではないだろうか。
例えば、大原孫三郎のような…。

『「備中高梁」に学ぶ』の中では、
平成2年に開校した吉備国際大学について、
加計勉は次のように述べていた。

「吉備国際大学のある高梁市を
 ドイツの古都”ハイデルベルク”のような学園都市にしたい。」

「吉備国際大学をハイデルベルク大学のような
〈世界的レベル〉の大学に成長させたい。」

ハイデルベルグ大学とは、ドイツ最古の大学であり、
ハイデルベルグは学問の町として知られている。


『「備中高梁」に学ぶ』著者 吉備国際大学「備中高梁学」研究会 (編)
2008年4月発行

※因みにnothigcatさんのブログによると
 〜〜平成2年(1990)に加計学園とは別(学校法人 順正学園)
 加計孝太郎の実の姉が理事長を務める吉備国際大学が創立。
 番頭ワタナベさんによれば、
 この辺りから創始者孝太郎の父、勉の
 学校経営が狂いだしたとのこと。
〜〜
 https://blogs.yahoo.co.jp/nothigcat2000/29384437.html

〈高梁をハイデルベルクのような町に〉
〈吉備国際大学をハイデルベルク大学のような大学に〉という
加計勉のアイデアは、
彼自身のオリジナルではなく、
おそらく、大原総一郎氏のアイデアに準じたものだろう。
大原総一郎氏のような地元の名士になりたいという功名心が、
堅実な経営を狂わせたのか?

大原総一郎は、昭和13年(1938年)、ドイツに留学中、
中世の古典的な町並みを残すローテンブルグに魅せられ、
《倉敷を日本のローテンブルグにしよう》と提唱していた。

倉敷美観地区の町並み保存は、
ローテンブルグの木組み屋敷が建ち並ぶ中世の町並みを保存したように、
白壁なまこ壁の屋敷や蔵が並ぶ江戸時代の風情を残し、
大原総一郎の描いたヴィジョンが大きな影響を与え、
大成功したのである。


◉大原家とは?
大原孫三郎は、
戦災をまぬがれた倉敷の町並みを文化的な遺産として後世に残そうと、
倉敷市出身の建築家・浦辺鎮太郎らと協力し合い活動を開始した。
昭和24年(1949年)に倉敷民芸館長・外村吉之助ら地元の有識者により、
町並み保存の意識が芽生え、「倉敷都市美協会」が発足。
伝統的な美観をそのままに残す倉敷の民家・土蔵等の活用が、
早い時期から始められ、日本中から人々が訪れる観光地となった。
倉敷では、日本の伝統美を残した町並み保存に尽力し、
『大原美術館』を創設した大原家が、
名実共に、町一番の功労者であり、
大原は、倉敷のブランドだ。
大原が中心となって倉敷という町のブランディングにも成功した。

大原家のルーツは、
綿仲買商人として、元禄時代に
児島の灘崎から倉敷(岡山県窪屋郡・都窪郡倉敷村)に移住し、
新興してきた家であった。
移り住んだ倉敷は、江戸早期からの古い庄屋ら(古禄派)が牛耳り、
古禄派が握っている既得権益を巡って争いが起こり(新禄古禄騒動)、
これに勝利した新禄派の中でも最も裕福な庄屋となったのが大原家だった。

特に、大原孝四郎に優って孫三郎の代、明治以降に目覚ましく繁栄し、
倉敷紡績、大原美術館、倉敷中央病院の残した業績は大きく、
大原家は、財力の蓄えと共に各地名家との姻戚関係を結び、
閨閥を作り上げていった。
※大原総一郎の妻・真佐子は、華族・野津道貫侯爵の孫。
大原総一郎の長女・麗子は、元総理大臣犬養毅の孫犬養康彦の妻。
大原総一郎の次女・泰子は、正田美智子(妃殿下)の実弟・正田修の妻。
大原財閥 家系

現在の観光名所のひとつ、アイビースクエアは、
大原の倉敷紡績(クラボウ)の跡地で、
今も残る赤い煉瓦塀は、
工員が逃亡しないように高く積み上げられたとも言われ、
かつての工員たちのきつい労働を物語る。
クラボウの社員寮内で感染病が発生し、
死者をだした責任を取る形で父・孝四郎が辞任して、
後を継いだ大原孫三郎は、労働環境改善に努めた。
孫三郎は、孤児院を開設した石井十次に感銘を受け、
社会福祉に心を寄せる素地があったのだ。

驕れる者久しからずや〜と言うが、
孫三郎のように、ピンチから再建を、
人道に反する思い上がった経営の過ちを改め、
軌道修正して人々の信頼を回復するよう努めなければ、
大ブランド大原は存在しなかっただろう。

大原孫三郎は、美術にも造詣が深く、
パトロンとして児島虎次郎に蒐集させた一級の美術品を収蔵する
イオニア式神殿の様式美を取り入れた重厚な石造りの『大原美術館』は、
倉敷美観地区の中心的な存在である。

◉大原に擦り寄る加計
倉敷川沿いの 月とスッポン❗️『大原美術館』と『加計美術館』

…そして、大原とはまったく比較にならないが、
『大原美術館』と同じ並びの倉敷川沿いに『加計美術館』がある。

加計美術館は、元々、1972年、
京都の古美術研究家・蜷川明・岸子夫妻が
蒐集したローマ・ギリシャ美術コレクションを展示した
私設の『蜷川倉敷蜷川美術館』の跡地である。
蜷川明氏は、蜷川式胤の孫、一休さんのアニメにも登場する
足利家に仕える蜷川新右衛門を先祖に持つ。
『蜷川倉敷蜷川美術館』2000年仮差押え(東海銀行)、
2001年、加計グループが、土地・建物を2億7千万円で購入した。
(蜷川氏のコレクションの方は、1997年から
財団法人式胤記念館が運営管理する『京都ギリシアローマ美術館』が
設立され、倉敷蜷川美術館が閉館する2000年までは
実質上の2館体制となっていた。)

因みに、「大森貝塚」を発見したアメリカの動物学者、
エドワード・S・モース東京大学理学部の初代動物学教授の助手で、
日本での標本の採集や整理をし、日本中の旅に同行した人物が、
〈忠海中学校の初代校長〉だった。
名前は種田織三。
種田織三は、日本で初めてダーウィンの『種の起源』を読み、
英語教育にも尽力したと言われる。
そして、モースは、貝塚から出土した陶器に興味をもち、
蜷川式胤に日本の陶器について学んだという。

忠海中学校が結ぶ縁が、
『大原美術館』の並びに位置する土地建物の取得に、
功を奏したかどうかは判らないが、
現在、倉敷市の美観地区内の倉敷川沿いにある
『加計美術館』は、蜷川式胤を先祖にもつ、
京都の蜷川明・岸子夫妻のコレクションを収蔵していた
『蜷川美術館』の跡地にある。


nemさんが、『加計美術館』についても
抜かりなく調査して下さっています。↓

〜〜nem@yo_nem
てんさんのブログで加計美術館にも触れていましたので上げておきます。
加計学園と順正学園の共有となっています。
倉敷美観地区内で思いっきり観光地なのですが
学校用地に地目変更、非課税とするのに抜かりありません。〜〜

大原財閥を中心として成り立つ倉敷の美観地区に、
余所者の加計が入り込み、
『大原美術館』の並びに、美術館をもつには、
大原との良好な関係性が必要だろう。

当代大原謙一郎のテーマは文化と芸術。
加計は、1995年に倉敷芸術科学大を設立し、
大原財閥3代目の大原謙一郎を客員教授として迎え、
時期は定かではないが、加計学園の理事にも就任している。


そして…
なんとなんと!
nemさんのスクープ‼️

今年5月30日に、大原謙一郎、加計孝太郎が、
丸田産業(天満屋系/伊原木一族)の取締役に
就任したというではないですか!

ちょうど、その頃、加計は決定的に世間に恥を晒し、
教育機関として、益々、信頼を失う轍を踏んでいた。
4/10に朝日の愛媛文書スクープに続き、
5/21 新・愛媛文書が公表され、
5/26 加計がFAXで報道に対し、
〈2015年2月25日の加計孝太郎と安倍の15分会談〉は
作り話だったと詫び文を出した。
5/31 渡邊良人事務局長が愛媛県庁を訪問。ニヤニヤ謝罪。


**https://mobile.twitter.com/yo_nem/status/1019109038154321920

ここで、Ryu-ronさんが一言❗️

〜〜Ryu-ron@RyuRz733375
返信先: @yo_nemさん
天満屋 おーイースト・サンではありませんか。
午後6:51 · 2018年7月17日〜〜



イースト・サンとは、
ずっとRyu-ronさんが、ブログで追いかけていた
怪しい監査法人のことです‼️

イースト・サンは、天満屋の監査人も請け負っていますが、
加計の監査人でもあると、
今治 加計獣医学部設置に係る調査報告書には書かれていますが、
加計の事業報告書や決算書の中には、
影も形もないのだと……。

今治第三者委員会の委員で
今治市大学設置事業専門委員会の公認会計士・森貴弘の
調査結果報告書に、
こうあります。↓


つまり、加計の会計監査人のイースト・サンは、
加計のお会計は、
「すべての重要な点において適正に表示している」と…。

しかし、加計追求チームは、
平成30年6月に出た
広島加計学園の資産総額変更登記、
債務超過額、約16億❗️
破産状態なのをすでにチェック済みです。

イースト・サンについての詳細は、
Ryu-ronさんブログ龍渓論壇の
「加計学園問題ー怪しい監査法人イースト・サンを追う」↓シリーズで❗️
①https://ryukei-rondan.blog.so-net.ne.jp/2018-02-17
② https://ryukei-rondan.blog.so-net.ne.jp/2018-02-19
③ https://ryukei-rondan.blog.so-net.ne.jp/2018-02-21

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次回は、伊原木財閥(天満屋)について書こうと思います。