【加計勉と半田山の毒ガス】加計勉が購入した学校用地(半田山)は「毒ガス弾充填工場」跡地だった⁉️ | ☆Dancing the Dream ☆

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**2018年07月09日(月)【加計勉 経歴のウソ⁉️】 
 戦中、曽根の「毒ガス工場」の 教官だったのでは❓

**2018年07月16日(月)【加計と林原と恐竜ブランド】  
 破産した林原健を囲う死神ウヨ➡︎浜田マキ子〜安倍洋子〜加瀬英明

**2018年07月19日(木)【加計勉と毒ガス】 
 岡山進出の謎 / 忠海中学コネクション/池田勇人・宮澤喜一
 /大原に擦り寄る…

**2018年07月24日(火)【加計の泥船にのる天満屋】
 林原倒産→イオン進出→天満屋危機→加計と結託→安倍に連結



加計の裏歴史シリーズ、第5弾になります❗️

今回は、
戦中、「曽根の毒ガス工場」で働かされた子供たちの
引率教官をしていた疑惑が濃厚な加計勉が、
広島を離れ、学校法人経営者として第一歩を踏み出した土地、
岡山の半田山のお話。

加計勉が入手した
加計の本拠 岡山市の岡山理科大学 設置用地(半田山)には、
旧陸軍の「広島陸軍兵器補給廠 三軒屋填藥所」関連施設があった。
実は、ここは、戦争末期、運び込まれた毒ガスを砲弾に充填し、
秘密裏に毒ガス弾を作っていた…
故に、この曰く付きの広大な土地が、
旧日本軍の暗い機密を共有する人物、
加計勉の手に渡った可能性が高い…
そういう恐ろしいお話です。


◉加計勉が岡山で工業高校設置認可を得る経緯
by日刊ゲンダイ

《以下は、日刊ゲンダイ2017/7/17記事より認可を受ける経緯を要約)
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/52291?page=4

〜〜1960年夏、加計勉が、私財を投げ打って、
半田山の約5万m2 (約15000坪)を購入。
戦前戦中は旧陸軍練兵場が、戦後には自衛隊駐屯地が置かれていた。
この一帯は、当時は木々が鬱蒼と生い茂り、水はけの悪い原野だった。
1961年、加計学園理事長と名乗る加計勉は、
岡山県庁の私学担当係長だった畑忠雄氏の元を訪れ、
「岡山市内に電気関係の工業高校(岡山電機工業専門学校)を新設したい」
「工業立国日本の人材を育てたい」と力説したが、丁重に断られた。
再び加計勉は畑氏の元を訪れ陳情するも、
畑氏は、資金的裏付けが必要だと取り合わない。
ここで、加計勉は、啖呵を切った。
「私の理想とする学校を作り上げ、軌道にのせるためには、
一切の私財を投げ出す決心をしている、十分運営できると確信がある。」
と強い決意を述べ、このひと言が県庁を動かしたという。
前年に私費で土地も購入済みであった。
予備校の経営状況と資金繰りの調査、勉氏の身辺調査も済ませた後、
1961年9月、岡山県私学審議会会長の高畑浅次郎氏(ジブリの高畑勲氏の父)が
広島の英数学館本部を訪れ、私学審で検討の扉が開く。
私学審では、入学定員や申請内容の実現性を問題視され議論が紛糾するが、
結果的に、加計勉の情熱が買われて認可が下りる。〜〜

「日刊ゲンダイ」には、このように↑紹介されているが、
加計勉が力説した〈教育への情熱〉の言葉は、
果たして、自分自身のものだろうか?

◉加計勉の殺し文句
こちらにも書いたが、
加計勉は、戦中、旧陸軍の毒ガス兵器工場(曽根工場)の
動員学徒の教員であり、軍の機密保持者であった疑惑が濃厚であり、
従って旧軍部との関わりが深い。
さらに、加計勉は、自身の母校・忠海中学の先輩であり
同郷の池田勇人、延いては宮澤喜一(池田の元秘書官)などへの
政治支援を行い、中央政界の大物とのコネクションを作り上げていた。
岡山進出、土地取得において彼らの口利きが、
大きく物を言ったことは、想像に難くない。
加計勉が当該土地を入手した1960年は、
池田勇人が総理大臣に就任し、
池田内閣(1960–64)がちょうど発足した年である。

最高権力者と結び付いている加計勉にも
背後の協力者から魔法の言葉を授けられたのではないか?

加計が、獣医学部設置を求めて、
今治市と愛媛県職員と共に官邸を訪れた際に、
首相秘書官の柳瀬唯夫は、どうアドバイスしたか?
「やらされモードではなく、
死ぬほど実現したいという意識を持つことが最低条件」…

また、最近噴出した文科省の補助金取得を条件に、
局長の息子にゲタを履かせた東京医大の裏口入学問題では、
局長が授けた〈殺し文句〉は、
「新しい学問の領域を作る。これが最終目的です」
「要はどうやってだますかです」…

自分の差配で国民の税金をどうにでも動かせると考えている特権者の
このような〈殺し文句〉の伝授は、伝統化しているのだろう。



◉ドン山と呼ばれた半田山
1909年(明治42年)1月 - 岡山市半田山(現・岡山理科大学敷地内)に
午砲台(号砲台)が設置され、「ドン」と空砲を鳴らす報時業務を開始。
やがて「ドン山」と名付けられる。
2009年8月 - 岡山理科大学と同大学付属高等学校により
発掘調査が行われ、当時の遺構が検出される。

しかし…
○各地の軍跡の現地調査をしておられる[こちらのブログ]には、
号砲台のある土地は、岡山理科大学ではなく、
アイサワ工業が買い取ったとある。
○また、同ブログには、近隣住民による話から、
号砲台」の西側斜面下に、大東亜戦争末期、
陸軍が掘削した長さ10mほどの地下壕があったが、
「2、3年前(取材時 平成24年)役所が来て閉鎖した」とのことで、
現地の写真が掲載されていた。掘削した部隊、用途ともに不明。

http://shinkokunippon.blog122.fc2.com/blog-entry-1368.html

加計勉の土地取得経緯は、軍や政治家との繋がりを
利用したものと考えられるが、
それ以上に、アイサワ工業が絡んでいるという
増々の怪しさだ。

※逢沢寛(逢沢組創業者/第1次吉田内閣 運輸政務次官)は、
池田勇人の相談役だった。
寛の三男・逢沢潔(現アイサワ工業会長)の結婚式(1959)で
祝辞を述べている。その翌年池田は首相に就任した。
加計勉は池田勇人と交流があったのであるから、
この土地の売買のカラクリは、
裏の連携プレーで進められたのではないか…

◉「現・陸上自衛隊 三軒屋駐屯地」周辺の
旧陸軍用地の謎…範囲不明…

現在の陸上自衛隊・三軒屋駐屯地(JGSDF Camp Sangenya)は、
所在地 岡山県岡山市北区宿978。
三軒屋弾薬支処などが駐屯する陸上自衛隊の駐屯地。
駐屯地司令は、三軒屋弾薬支処長が兼務。
弾薬支処では、弾薬の出納、保管、補給、整備、検査や
火薬庫等弾薬施設の検査及び化学火工品の出納管理を担う。
https://mobile.twitter.com/kusanagi2665/status/737083228796817408
三軒屋駐屯地は、戦前の〈広島陸軍兵器補給廠 三軒屋填薬所〉の
跡地内にある。
三軒屋填藥所の正確な範囲については資料が無く不明。
「半田山歩兵・工兵作業場」「岡山東陸軍射撃場」があったが、
これらも詳細な範囲不明。
※「半田山植物園」水源地には、
全長約65mの前方後円墳「一本松古墳」があり、
周辺に数基の小墳を伴っていたが、現在2基の方墳しか残っていない。
一本松古墳の後円部上に、戦中の高射砲の陣地跡が遺っているが、
竪穴式石窟が破壊されている。
http://shinkokunippon.blog122.fc2.com/blog-entry-1366.html
http://shinkokunippon.blog122.fc2.com/blog-entry-1377.html?sp
http://shinkokunippon.blog122.fc2.com/blog-entry-1358.html

旧陸軍の軍用地は半田山 広範のものと思われるが、
資料が残っておらず、軍のエリアも各々の任務も判然としない。
従って、「日刊ゲンダイ」では、〈旧陸軍練兵場〉だと書いてあるが、
現 加計学園 岡山理科大学 付属高校中学校の
土地柄は、はっきりとしないのだ。
おそらく、軍が資料を破棄し、証拠隠滅したのだろう。


◉半田山の土地と軍の歴史
 岡山にある「広島陸軍兵器補給廠❓三軒屋填藥所」

注目したいのは、戦争末期、「岡山陸軍兵器補給廠」が、
「広島陸軍兵器補給廠」に改編されていることだ。

「広島陸軍兵器補給廠」といえば、
加計勉の母校 海辺の忠海中学から多くの学徒を動員した
「広島陸軍兵器補給廠 忠海分廠」毒ガス製造の〈大久野島〉である。
そして、大久野島から運ばれた毒ガスを充填していた工場が、
加計勉が教官として招集された可能性が高い
「曽根毒ガス工場」なのである。

「曽根毒ガス工場」は、表向きには火薬製造を主務として、
毒ガス充填砲弾を作っていたことは隠されていた。
化学兵器の製造、使用は国際法違反の戦争犯罪だからである。

加計勉は、忠海中学校、広島高等師範学校を卒業後、
1943年9月より兵庫県立姫路工業学校に教諭として赴任。
1944年9月、教育招集により陸軍へ。
福岡県小倉市(現・北九州市)の戦闘機工場で
生徒たちの引率責任者の任に就いたことになっているが、
これは虚偽である。
小倉には戦闘機工場はなく、あったのは「曽根毒ガス工場」であり、
そこに滑走路が作られ、毒ガス弾をそのまま戦地の中国大陸へ空輸する
空港があっただけである。

10代前半の子供たちまでも動員して働かせた「毒ガス工場」では、
多くが命を落とし、障害を負ったが、
加計勉は「毒ガス工場」の子どもたちの教官だったことを隠して、
戦後、教育者として、巨大な学校法人を経営していたということになる。

加計勉が、広島から別天地の岡山で、
取得した広大な半田山の旧軍部跡地が、
「毒ガス製造」を行なっていた「広島陸軍兵器補給廠」の
管轄であったということは、どういうことか?

想像するだに忌まわしい話だが、
加計勉の〈一条校を設置する学校法人〉への飛躍は、
まさに旧日本軍の国際法違反の機密に関わる
暗い《毒ガスコネクション》によるものだったのではないだろうか。

【半田山 土地の歴史/ 広島陸軍兵器補給廠 三軒屋填藥所】
・1939年大阪陸軍兵器支廠 禁野倉庫で発生した爆破事故を受け、
 陸軍省は安全対策として各兵器支廠の火工作業設備を
 住宅密集地から隔離する事を計画。
 岡山陸軍兵器補給廠は周辺を調査の結果、人家が少なく、
 細い谷地が数条に広がり天然の防爆土堤を形成している
 岡山東陸軍射撃場のある牧石村三軒屋(現、北区宿)を移転先として選定。
 第十師團経理部(姫路)がこの民間地を買収。
・1940年 竣工式。1942年3月、事務所、火工作業設備、
 洞窟式弾薬庫27基がおよそ竣工し、弾薬科設備を移転し、
 「岡山陸軍兵器補給廠 三軒屋分廠」(三軒屋部隊/矢野一三少佐)を開設。
 10月「岡山陸軍兵器補給廠 三軒屋填藥所」に改称。
・1945年4月、岡山陸軍兵器補給廠が、
 「広島陸軍兵器補給廠 岡山分廠」に改編。
 「岡山陸軍兵器補給廠 三軒屋填藥所」も移管され、
 「広島陸軍兵器補給廠 三軒屋填藥所」に改称
 8月15日 敗戦。
・敗戦に伴い三軒屋填藥所は操業を停止。
 応徴士、報国隊・女子挺身隊に勤務解除。
 11月「臨時陸軍殘務整理部令」により、
 三軒屋填藥所は新編された第一復員省陸軍兵器行政本部殘務整理部の
 「三軒屋出張所」となり、
 所長の國岡盛一少佐 以下復員官が残務処理に当たる。
 ※応徴士とは、被徴用者で管理工場または指定工場において総動員業務に従事するもの。
 ※報国隊とは、14歳以上40歳未満の男子と14歳以上25歳未満の独身女性を対象とした勤労報国隊。
 ※女子挺身隊とは、未婚女性が任務遂行のために身を投げうつ勤労奉仕。

・1945年10月 岡山に進駐してきた米軍に兵器・危険物を引渡し、
 海中投棄。施設は放置される。
・1946年4月、米軍に代わり英軍が岡山に進駐。
 旧三軒屋填藥所は接収される。
 1947年3月、英軍は呉に移駐するが、
 施設は引き続き連合軍管理下に置かれる。
・1948年4月、「御津郡牧石中學校」が旧三軒屋填藥所の
 南側(池より南側)に移転、
 1949年11月、「岡山県岡山種畜場」が上伊福から旧三軒屋填藥所の
 北側一帯(池から北側)に移転してくる。
・1953年4月、牧石中学校は「市立岡北中学校」に統合。
・1954年頃、岡山市は保安隊(現、自衛隊)の誘致を開始。
・1955年、防衛庁は岡山県に弾薬格納施設が遺る「旧三軒屋填藥所」の
 買収を打診、県議会による売却承認を経て1億9,000万円で購入。
・同年、隣接する「旧半田山歩兵・工兵作業場」は大蔵省より移管され、
 4月 水島駐屯地三軒屋分屯地が開設され、
 関西地区補給処三軒屋弾薬支処が編成された。
 1957年9月、三軒屋分屯地は「三軒屋駐屯地」に昇格。
 周辺整備に伴い用地を拡張し現在に至る。


◉環境省「旧軍毒ガス弾等の全国調査のフォローアップ調査」
政府は、1973年(昭和48年)に
「旧軍毒ガス弾等の全国調査」を行なっていたが、
2003年に、茨城県神栖町で有機ヒ素化合物で汚染された井戸水により、
住民がヒ素中毒を起こした事件が発生し、
旧日本軍の投機した化学兵器が原因ではないかと言われた。
環境省は、緊急対応策としてフォ ローアップ調査を行い、
国内における旧軍毒ガス弾等の基礎資料をまとめている。

さて、下の調書には、
岡山市の半田山、「廣島陸軍兵器補給廠 三軒屋填藥所」から、
「あか」「きい」など、
「毒ガス弾」が発見されたことが記されている。

これは、「廣島陸軍兵器補給廠 忠海分廠」
すなわち 大久野島で製造された毒ガスを
岡山の半田山まで運び込み「三軒屋填藥所」で充填して、
毒ガス爆弾を作っていたということだろう。
曽根毒ガス工場と同じように…。

この事は、殆ど知られていないのではないか。
おそらく、近隣の住民すら知らないだろう。

上掲の○2011–12年頃、役所が埋めて行ったという、
旧陸軍の〈10mほどの地下壕〉
というのは、
「毒ガス弾」の保管庫だったのかもしれない…。

加計学園の岡山理科大学の広大な土地に、
同じような「毒ガス保管庫」が、
眠っていないとも限らないということだ。

このような危険な曰く付きの土地の事情を熟知し、
旧日本軍の秘密を保持し、
自分の経歴も偽ってきた加計勉の手に、
この土地が渡ることは、
国としても好都合であったと言えるだろう。

https://www.env.go.jp/chemi/gas_inform/jisi_yoryo.html

「瓦斯」の読みは「ガス」↑


◉環境省 旧軍毒ガス弾等の廃棄・遺棄状況
http://www.env.go.jp/chemi/report/h15-02/005.pdf




それにしても、
まさか、岡山の岡山理科大学の土地に、
旧陸軍の隠匿された「化学兵器」保管豪がある可能性があり…
まさか、千葉科学大学に、毒学、BC兵器専門家のTu教授を招いている
危機管理学部がテロ対策組織をつくり…
まさか、今治の同大学 獣医学部で、
危険な細菌やウイルスを扱うBSL3を設置することなどあるだろうか…?


麻原も上九で妄想を膨らませたが、
半田山、いこいの丘、古墳の山の上、
これらの山坂…
まさか、現実化は、まさかの坂だと思いたいが、
安倍と安倍の腹心の友の
「BC兵器」への強い野望を感じずにはいられない。