【タイトル】 グレース&グリット(上)
【著者】 ケン・ウィルバー
【ページ数】 399

 

 


【読むきっかけ】大半のウィルバーの本は読んでいたものの、理論的な本ばかりに注目していて、ウィルバー個人のラブ・ストーリーについてはさほど興味を持たなかったせいかもしれない。たまたま映画化されているものについて知り、読んでみようと思った。

【概要】 

「トレヤと初めて出会ったとき、二人とも何回も生まれ変わりながらお互いを探し求めていた、という実に奇妙な感覚に襲われた。」という文章に始まり、天才的な思想家のウィルバーがトレヤと恋に落ち、トレヤの死にいたるまでの物語。結婚するや否やトレヤの癌が見つかり、闘病生活とそれを支えるウィルバーの苦悩を赤裸々に語る。トレヤの日記や、そのやり取りの中で、ウィルバーの思想が散りばめられている。


【対象】ウィルバーの思想を物語の中で学びたい人。 不治の病や死に対してどのように向き合うか考えたい人。
【評価:★5段階で】
 難易度:★★★★
 分かりやすさ:★★★★★
 ユニークさ:★★★★
 お勧め度:★★★★★

【感想】禅僧を思わせるような風貌のウィルバーと癌によって頭の毛が失われたトレヤが一緒に写っている写真を見ると、いかにも世の中を超越した哲学者らしい気がするのだが、その葛藤・苦しみを見ると、やはり同じ人間だと認識させられる。ウィルバー自身も本書の中で、自分は執筆家であってグルではないと繰り返し述べている。高尚な他の書籍とは異なり、自身の弱さも含めて、すべて赤裸々にさらけ出しているのはかえって親近感を感じる。

トレヤの病気に向かうスタンス、西洋の正統な医学と、栄養療法、民間療法等様々な治療法をどのように選択したか、そして闘病生活の記録としてはあまり注目されない介護する側の苦悩を細かく描き出している。最終的には5年に渡る治療もむなしく、死に至るのだが、死への向き合い方、最後の別れ、感動的に描写されている。

 

その一方で、ウィルバーの思想が随所に散りばめられ、もし一番最初に学ぶのであれば、本書がよいのではないかとも思える。

【引用】


[ウィルバー]

現代物理学のパイオニアたちはだれ一人として、近代物理学が神秘的・宗教的な視点を支持するなどとは信じていなかった。彼らが信じていたのは、近代科学はもはや宗教的視点に敵対することはできない、ということだ。
これらの物理学の開拓者たちがみな神秘家だったのは、まさに彼らが物理学に内在する固有の限界を超え、内面に関わる神秘的な覚醒を求めたからだ。
特定の宗教の視点を近代物理学の解釈によって支持することではけっしてない
近代物理学は神秘主義を支持するものだと主張したらどうなるだろうか? 現代の物理学が未来の物理学にとって代わられるか置き換えられるとき、何が起きるのか? 哀れなブッダは、その悟りの価値を失うというのだろうか?


疾患 illuness:医学的科学的次元において特定される病気
病 sickness:病の持つ意味。社会的に判断。
この二つを分離すること

ホリスティック医療:ことを単純にとらえている。状況はもっと微妙かつ複雑。放射線治療が白血球を減らすのは事実だが、一時的なもので、長期にわたる現象でも免疫機能の低下に結びつくわけではない。

ダイモン:指導霊。内なる神が仕事にひらめきをもたらす。
デーモン:ダイモンの声を耳にしながらそれを無視すると悪霊になる。聖なるエネルギーと特質が退化して、自己破壊的な活動になる。

手放すこと対コントロールすること、もちろんこれは、存在行動の別ヴァージョンであり、また、無数の異なった形を取り、決して尽きることのない、の根源的極性である。陰陽のどちらが正しいとか、存在が行動より優れているということではなくて、これは正しいバランス、古代の中国人が言ったタオ、つまり陰陽の自然な調和を見つけ出す方法なのだ。

エデンから
四つの主要な歴史的エポックーー古代期、魔術期、神話期、心的時期ー-を追跡し、各々の局面において、人が「不死のシンボル」を打ち立てることによって、いかに死を回避しようとしてきたか。

 

[トレヤ]
死を恐れているなら、生きることに極めて用心深くなり、不安ばかり持つようになるだろう。なぜならきっと何かが私の身に降りかかるに決まっているのだから。だから死を恐れれば恐れるほど、生を恐れ、生き生きとした部分も少なくなるのだ。

生きることと、時が来れば喜んで生を手放すこと共に望むことができるのだ。

[ウィルバー]
全体部分は互いに排他的な存在ではない。神秘家も、やはり苦痛を感じ、飢え、笑い、楽しむもの。より大きな全体の部分となることは、部分の蒸発を意味するわけではなく、部分がその地盤なり意味を見出すということ。君は個人だけど、それでも家族という、より大きな全体の一部としての自覚を持っている。家族もまた、それより大きな社会という全体の一部だ。そのことは君も感じているよね。いくつかの、より大きな全体の一部だと自覚しているんだ。その全体が、君の人生に多くの意味を与えてくれる。同様に、神秘主義とはまさに、自分が宇宙全体の一部であるという感覚、すなわちいっそう大きなアイデンティティを持ち、一層大きな意味や価値を見つけ出すことなのさ。

自分自身の体験
遅かれ早かれ、自分自身の体験を信じざるを得なくなるんだよ。だって結局ぼくたちはそれだけしかもっていないんだからね。さもなきゃ悪循環に陥ってしまう。もし自分の体験を根本から疑うなら、その疑う能力さえも疑わなくてはならない。疑うということも一つの体験なんだから。

ヘーゲルによるカント批判
意識を疑うことはできない、何故なら携えている道具は意識以外にないのだから、という批判だ。ヘーゲルによれば、意識を疑うことは、濡れずに泳ごうとするようなものだという。人は意識に、体験にすっかり浸っており、ある種深遠なレベルにおいて意識とともに進む以外に選択の余地はないのだ。

介護
次第にぼくは、身を切るような方法で学んできたこの教訓に基づいて、「介護者たち」の代弁者か何かのようになっていった。人を助けることの利点と危険性に関する本を初めて出版したとき、ぼくと出版社の担当者は、その小文がきっかけとなって引き起こされた突然の大反響にびっくりしてしまった。ぼくは世界中から、苦しみに満ちたおびただしい数の手紙を受け取った。ぼくと同じような体験をしていながら、その役割が持つ過酷な性質について話し合える相手がいない人々からの手紙だった。

[トレヤ]
わたしたちは自分自身を信じられるようになる前に、まず誰か他人を信頼する必要があるのだそうだ。

[ウィルバー]
ーー瞑想は私的なものですが。
いいえ、そうではありません。それは数学が私的なものでないのと同じですよ。例を上げるなら、マイナスとマイナスをかけるとプラスになりますが、これを外界で証明することはできません。感覚や体験で、これを証明することはできないのです。マイナスの二乗がプラスというのは真ですが、それを証明するのは内的な論理によるしかありません。マイナスという概念を、この外界で見つけ出すことはできません。心のなかでのみ考えることができるのです。でもだからといって、その等式が誤っていることにはなりません。

ーーなぜそれらは「隠された」教えなんて言われるのでしょうか?
それは、自ら実験をしてみなければ、何が起こっているのかわからないからですよ。
秘教的宗教あるいは神秘主義は、自ら実験を行おうとしない人に対しては隠されている

神秘主義者とは、秘教的ないし「隠された」意味を神話に与える人のことです。そして、そうした意味は、魂の内面で瞑想によって直に見出されるものなのです。外面的な信念体系やシンボルや神話によって見出されるものではありません。

ユングの大きな過ちは、集合的なものとトランスパーソナル的要因を混同してしまったことにあります。私の精神が集合的な形態を継承しているからと言って、そうした形態が神秘的だとか、トランスパーソナル的だということにはなりません。

瞑想と心理療法
瞑想は精神分析のような「覆いを取る技術」ではない。その第一の目的は、抑圧のバリアを動かしたりシャドーを意識の表面に浮かび上がらせることにはありません。瞑想にはそういう効果もあるかもしれません。ですが、必ずしもそうであるとは限らない、という理解は大切です。瞑想の一番の目的は、主に心的ー自我的な活動を一時停止することで、それによって、超ー自我的、あるいはトランスパーソナルな意識を発達させ、徐々に<観照者>ないし大文字の<自己>の発見に近づいていくことなのです。

瞑想と心理療法とは、魂を対象にするという点は同じでも、その扱うレベルは全く異なっているのです。禅は必ずしも神経症を除去するとは限らないし、またそのために編み出された技法でもありません。

私のちょっと辛い個人的体験からも言えますが、禅は神経症とうまくやっていく上では大いに役立っても、それを根本から治療するには、まるっきり役に立ちませんでした。

世界の偉大な神秘思想や瞑想の文献を調べれば、ダイナミックな無意識、抑圧された無意識についての言及は厖大な数にのぼりますが、その中に、覆いを取る技術について記してあるものは、文字通り皆無です。これは近代ヨーロッパの、かなり独自な発見なのです。

こうした状態が起こるのには、何も自我のすべてがリラックスする必要はありません。ただ、<観照者>を表舞台に立たせるのに十分なだけ、自我に対する一般的な執着を手放せばいいのです。

瞑想は、観照する意識を確立するという点で、心理療法の手助けをします。また、何らかの精神的な問題を解決する助けになるかもしれません。そして心理療法は、意識を低次レベルの抑圧やもつれから自由にする点で、瞑想の手伝いをすることができます。しかしそれ以外では、狙いや目的、方法や力学が全く異なっているのです。

 

(<下>に続く)

 

前回からの続き)

 

 

 


◆心身問題

・どのように意識が脳から現れるか


心(意識、感情、思考、気づきなど=左側象限)は、右側象限の言葉(物質的な身体および脳)だけによって記述される世界の中には、自らの居場所を全く見つけることができない。心は「機械の中の幽霊」と化した。

私たちは、全く正しいと思われるのに互いに矛盾している2つの真実に直面する。一つは、直接体験という真実であり、意識は疑いなく存在している。もう一つは、科学という真実である。世界は基本となる構成単位(クォーク、原子、弦など)の組み合わせとして存在しているが、こうした構成単位には意識が存在しておらず、その配置をどれほど変えたとしても、心が生まれるとは考えられないのである。
客観的なシステムはすべて「それ(It)」の言語で記述されるのに対して、体験意識クオリアはすべて「私(I)」の言語で記述される。

心身問題について取り組んでいる有力な哲学者たちは、この問題が解決困難なものであることをかつてないほど確信するようになっている。どうすればこの「世界の結び目」をほどくことができるかについて、広く合意された解決策は存在していない。
コリン・マッギンは、どのようにして意識が脳から出現するのかという問題が解かれることは決してないだろうと述べている。そしてこれこそが、物理主義者たち自身の結論なのである!

これまで多くの解決策が提唱されてきた。そのうち最も影響力の大きな2つの立場を挙げると、二元論(dualism)(あるいは相互作用説)、および、物理主義(physicalism)(あるいは科学的唯物論)である。
 

・唯物論の立場

二元論的な立場は、近代の前半(デカルトからライプニッツにいたるまで)においては最も影響力のある見方であったが、その後は物理主義が優位を占めるようになり、今でも物理主義が圧倒的な支配権を握っている。「内面」とは単に幻想である(あるいは、よく言って副産物であり、そこに本当の実在性はない)とされる。唯物論的な見方をとる人々は、心を脳へと還元する。そして脳とは生物学的な身体の一部分であるから、ここに二元論は存在していない。こうして、心身問題は解決されたのである。
しかし、たとえ科学的唯物論者たちが二元論は存在しないと宣言したとしても、ほとんどの人は、そうではないことを知っている


・二元論の立場
二元論の立場をとる人々は、世界には少なくとも2つの現実──意識物質──が存在していると主張する。意識を物質に還元することも、物質を意識に還元することもできない。むしろ、意識と物質は「相互作用」しているのである(それゆえ、この立場を表すために「相互作用説」という言葉が用いられることも多い)。だが、ここで二元論者たちは、古くからの難問に直面する。「全く異なる2つのものが、一体どのようにして、互いに影響を与え合うことができるのだろう?」
二元論を主張する人々は、心は物質に還元されないことを示そうとした結果、そもそも心がどのようにして物質に作用しうるのかを示すことができなくなってしまったのである。意識と物質の両方を現実として認めているものの、大抵の場合、両者をどのように関係させればよいのかがわからず、途方に暮れてしまう。

・観念論の立場
観念論
のアプローチにおいては、心と身体はどちらもスピリット〔精神/霊〕の一形態であるとみなされている。それゆえ、心と身体は、互いに異質なものでもなければ、存在論的に異なる実体でもない。心と身体は単に、同一の事柄を構成する2つの側面なのである。もしスピリットの存在を認めるなら、これは採用しうる解決策の一つである。だが、近代および後‐近代の哲学者のほとんどは、スピリットの存在を認めておらず、それゆえ、こうした選択肢について論じられることはあまりない。

・身体の二つの意味
こうした困難の一部は、どちらの立場もフラットランドの言葉を用いて理論を展開しているという点にある。
心身問題のかなりの部分は、フラットランドの見方によって生み出されたものである。
」(mind)と「身体」(body)という言葉のどちらにも、極めて異なる2つの意味が存在している。

身体とは、生物学的な肉体のすべて(右上象限全体)。この意味において、脳は身体の中に存在している。
身体という言葉はまた、主観的な感情や情動、身体に生じる感覚などを意味していることがある。一般に「心が体と闘っている」と言われることがあるが、こうした表現によって指し示されているのは、自らの意志身体的な願望や欲求(例えば性や食べ物に関わるもの)と闘っているということである。言い換えれば、こうした用法において、身体とは、内面領域における低位の諸段階を指しているのである。身体という言葉を左上象限にも記している。
すなわち、心の中に身体がある〔心は身体を超えて含んでいる〕のに、身体の中に脳が存在しているのである。
ほとんどの人は、自らの心と内面的身体(すなわち自らの思考と感情)が異なるものであることを感覚として知っている。

 

・物理的な身体の上に心を配置する考え方

左側象限は、右側象限の高次の段階ではない視点〔内面〕をもっている主体が、視点をもたない外的な客体から生じることは単にあり得ない。内面と外面は互いに関係しながら同時に生起すると考えることで、この錯誤を回避している。

 

・現実的な二元論
実際、形式操作的な思考(あるいは合理性)の段階において、二元論的な見方は正しい。この段階において、内面外面というのは極めて現実的な二元論であり、こうした二元論を否定しようとする試みは、ほとんどすべての場合、単なる安直な意見、あるいは、言葉を用いた巧みなごまかしであるに過ぎない。なぜなら、そうした見方においては、主体と客体は一つであると言葉の上では主張されていながらも、「ここ」にある自己が「そこ」にある世界を見つめているという構造はこれまで通り変わっていないからである。


・後‐合理的な発達段階
そしてここにおいて、超‐合理的な段階への発達という視点が極めて多くの洞察を与えてくれる。例えば、「悟り」として知られている体験においては、主体と客体が、同じものの2つの側面であることが明らかになる。
内面と外面は、同じ「一つの味」を構成する2つの側面であることが明らかになる。
問題とは、こうした本物の非二元の解決策は、合理的な段階において十分に把握できるものではないということである。実際、「主体と客体は非二元である」と合理的な形で単に述べるだけでは、あらゆる種類の解決困難な問題逆説を生み出してしまう。
心身問題は、後‐合理的な発達段階においてのみ解決することができる。
非二元の意識段階へと発達した人々は、ほとんど全会一致で、次のことに合意している──意識物質内面外面自己世界は、同じ「一つの味」を形づくっているのである。主体と客体はどちらも、同じものを構成している2つの現実ないし側面である。真の「多様性の中の統一性」である。

ここで必要となる解決策は、「全象限、全レベル」のアプローチをとることである。そのことによって、心を内面的な身体へとつなげなおすとともに、外面的な身体とも深く結びつけるのである。そして究極的には、意識発達における後‐合理的な非二元の段階において、答えが明かされることになる。

・一元論と二元論
ここで述べている見方は、一元論でもなければ二元論でもない。なぜ一元論ではないかと言えば、「心と身体は、同じ一つの深層的な現実を構成する2つの側面である」と主張しているわけではないからである。究極の現実とは、形のないものであり、そこにはどのような特性も存在していない(むしろ、あらゆる見方の空性こそが、究極の現実であると言える)。加えて、心と身体は同一のものであると主張しているわけでもない。なぜなら、たとえ絶対的なものではなくても、心と身体はどちらも相対的な実在性をそなえており、そこには、互いに還元することのできないさまざまな差異が存在しているからである。さらに、伝統的な相互作用説〔二元論〕と同じものでもない。なぜなら、どちらの象限にも相対的な実在性がそなわっているものの、両者がマーヤー〔幻想〕の世界に属するものであることに変わりはないからである。心と身体が相互に作用しているという主張は、究極的な観点からなされたものではないのである。

・内面と外面
あらゆるホロンは、客観的な要素(外面物質)と解釈的な要素(内面意識)から構成されている。
あらゆる内面は、何らかの外面に「触れて」いる──何らかの外面を抱握している──のである。
内面ないし意識をどれほど「下方」にまで伸ばすかということは、人によって異なる。哺乳類まで伸ばす人もいれば、爬虫類まで、植物まで、あるいは原子まで伸ばす人もいる。これは全く相対的な問題だと考えている。

大いなる入れ子の低位の段階になればなるほど、そのホロンにそなわっている知覚的ないし感覚的な能力は小さくなっていき、やがて、私たちには検知することのできない暗がりの中へと消えていく。
細胞にも内面が存在しているが、その具体的な形態は、原形質的な「被刺激性」である。あるいは、量子力学によれば、電子にさえも、「存在への傾向性」があると言える。だが、これらはどれも、「」でもなければ、「感情」でもなく、「」でもない。そうではなく、これらは単に、内面の最も初期の諸形態なのである。さしあたり大事な点は、少なくとも私たちが人間になる頃までには、内面は疑いなく存在していたことである。

 

【感想】

心身問題は、古くから哲学的命題としてある。科学という一種の宗教的原理主義が跋扈している現代にあっては、物質から独立した「意識」の存在を言明することは、「非科学的」というレッテルを貼られかねない。とはいえ、誰もが「意識」「」という言葉は使う。なので、この問題に直接言及する思想家・心理学者はほとんどいない。一部の哲学者が詭弁を弄しているか、論理パズルで遊んでいるかどちらかだ。私個人はこれほど重要な問題はないと思っているが、もし唯物論の考えを徹底するのであれば、フラットランドに陥り、「意味と価値と深さと神性を完全に消し去る」ことになる。

ウィルバーがこの問題に直接詳細に言及するのは初めてではないかと思う。その点で大きく評価できる。

 

しかし、「超-合理的な段階への発達」によって解決されるというのは、もっともともいえる一方で、結局問題を回避しているともいえる。合理的段階以前の人が、合理的な内容を理解できないたとえと同様に、我々の理性ではこの問題の解決については理解できない、というのももっともに思える。理性は矛盾を理解できないし、解消もできない。弁証法は矛盾を統合するが、理性では統合するのには限界がある。

 

非二元的意識では、物質も心もマーヤーであると認識されるから、そもそも問題自体が生じない。ここでは、問題を解決しているわけではない。問題自体を見出していないだけだ。実際、非二元的意識は、ウィルバーの言う左上象限でのことであるから、右側象限は関係してこない。よって、心身問題は解決してない。

 

とはいえ、心と物質をそれぞれ別の実態と見立てて、相互作用で見るのではなく、4つの象限で、同じものが別々の側面として、内面外面として同時に現れるという考え方は全く適切だとい思う。

 

ただ、内面と外面という考え方を一般化し、すべてに適用して、細胞、分子、素粒子にも内面があるとなるともはや論理的に破綻するというか整合性が取れなくなる。人間自体が無数の細胞、さらには分子で構成されていて、そのすべてに内面がありつつ、実際人間の内面(意識)は一つだとすると奇妙なことになる。ウィルバーもこの点は整理できておらず、「人間になる頃までには、内面は疑いなく存在していた」としか言えない。それは結局、唯物論者の、脳が複雑になって意識が生まれたという説と大して変わらなくなる。この点は残念だ。

 

私は、細胞や分子・素粒子レベルに内面などないと思うし、あると仮定したところで、何の役にも立たない。むしろ、内面があるところには必ず外面があるとは言える。

 

前回からの続き)

 


◆4つの象限、ビッグスリー

●近代の価値領域の差異化(differentiation of the values pheres)
近代は、芸術倫理〔道徳〕、科学という3つの領域が分化し、どの領域も、他の領域によって不当に侵害されることがなくなった。

差異化(differentiation)という近代の素晴らしい成果は行き過ぎてしまい、分離(dissociation)(あるいは断片化、疎外)を生じるに至った。尊厳は悲劇に、成長は癌に。
価値領域が互いに分離し始めると、強大で攻撃的な科学が、他の価値領域の中へと侵入し、支配し始めるようになった。科学的唯物論の見方によれば、大いなる入れ子を構成する物質、身体、心、魂、スピリットはすべて、物質だけからなるシステムへと完全に還元することができる。物質(正確に言えば、物質=エネルギー)こそが、現実のすべてを構成しているのであり、そこに例外は存在しないのである。すべての「私」と「私たち」が、すべての「それ」=科学的観察の対象へと還元されたのである。

近代科学によって、意識という「超越的なもの」とという「物質的なもの」が密接に関係していることが明らかになると、伝統的な大いなる連鎖の見方は途方もない打撃を受け、その損傷から二度と回復することはなかった。もし意識という「あの世的なもの」が身体という「この世的なもの」と結びつているのなら、形而上学的なリアリティというのも、実際にはこの世界の一部なのではないだろうか?と。科学的唯物論および外面だけの全体論がもたらす焼けつくような日差しによって、内面のすべてを干上がらせてしまったのである。

こうしたアプローチにおいては、「すべての内面的な状態には、それに対応する外面的な事柄、客観的で物質的な内容が存在している」という見方が、いとも簡単に、「すべての内面的な状態は、物質的な変化であるに過ぎない」という見方へと変質してしまいがちである。
近代は、不注意にも、すべての内面外面へと折りたたんでしまったのである(これは最大級の悲劇である)。この悪夢を、フラットランドと呼んでいる。フラットランド(flatland)〔平板な世界〕とは、単に、右側象限の世界のみが現実であるという見方のことを指している。

●4つの象限
4つの領域とは、主観的(subjective)ないし志向的な領域〔左上象限〕、客観的(objective)ないし行動的な領域〔右上象限〕、間‐主観的(inter-subjective)ないし文化的な領域〔左下象限〕、そして間‐客観的(inter-objective)ないし社会的な領域〔右下象限〕である。

統合的なアプローチによって、外的な実体内的な状態を、一方を他方に還元することなく描き出すことが可能になる。慈悲は憎しみよりも道徳的に善いものであるが、セロトニンはドーパミンよりも善いものではない。もし意識を神経伝達物質へと還元するならば、私たちは、意味と価値を完全に失うことになる。言い換えれば、フラットランドの世界へと入り込んでしまうのである。左側象限におけるあらゆる意味と重要性は、無価値な事実と無意味な表面へと還元され、「ぼんやりとしていて、音もなく、香りもなく、色もない。ただ物質がせわしなく動き回っているだけであり、終わりもなく、意味もない」世界だけが残されるようになる。
脳波計に記録されるどんな情報も、あるパターンが別のパターンよりも善いことを示してはいない。もし私たちが喜びをセロトニンへと還元し、倫理〔道徳〕をドーパミンへと還元し、意識や気づきを神経のネットワークへと還元するならば、私たちは、このコスモスそのものから、意味価値深さ神性を完全に消し去ることになる。

左側象限における現実(意識発達の諸段階から道徳性の成長まで)はすべて、外的な対象を注意深く観察するだけでは見つけることができず、内的な領域そのものを調べることで初めて発見されるものである。
芸術作品そのものは、客観的で外的な世界の中に客体〔客観、対象〕として存在しており、科学的な方法によって調べることができる。だが、芸術作品の美しさと価値は、その作品を鑑賞している者の中に、どのような内面的で主観的な状態が生じるかという点にある。

●「世界観」(worldview)
それぞれの段階において、世界がどのように見えるか

もし私たちが感覚知覚衝動だけをそなえているならば、世界は古代的なものとして見えるだろう。そこにイメージおよび象徴を用いる能力が加わると、世界は呪術的であるように見え始める。さらに、概念および規則役割を用いる能力が加わると、世界は神話的であるように見えるだろう。形式的‐内省的な能力が出現すると、合理的な世界が視界に入ってくる。ヴィジョン・ロジックが出現すると、実存的な世界が前面に現れてくる。微細な意識が出現すると、世界が神聖なものとなる。元因の意識が出現すると、自己が神聖なものとなる。非二元の意識が出現すると、世界と自己が同じ一つのスピリットに他ならないことが明らかになる。

「世界観」とは、左下象限の内容を指し示している。
世界観の領域は特に重要である。なぜなら、あらゆる個人の主観的意識は、間‐主観的な構造によって生み出された空間の中で生起するからである。この点を認識し損なうことは、さまざまな形の精神的/霊的および超‐個的な心理学が陥っている主要な罠の一つである。特に、変性意識状態や非二元の意識状態だけに焦点を当てている流派においては、こうした罠に陥っている場合が多い。
人は、自分の好きなことを何でも「自由に」考えているわけではない。その思考の在り方の大部分は、そうした間‐主観的な構造によって規定されているのである。

●私たち
私たち」(We)が「」(I)にとって本質的な要素であると言えるのは、「私たち」が客体として抱握されるからではなく、「私たち」が主体の一部分を構成しているからなのである。言い換えれば、「私たち」とは、「私」にとっての単なる対象〔客体〕ではない。「私たち」とはむしろ、「私」の背景にある空間であり、この空間の中で、「私」が生起し、「それ」(すなわち客体)を抱握するのである。それゆえ、「私たち」の領域とは、この面においては、何よりもまず、主体の一要素として「私」の領域に入ってくるのであって、抱握された客体として入ってくるのではない。


●4つの象限すべてを見ること
ある象限において、何らかの病理あるいは病が生じると、その異常4つの象限すべてへと響き渡る。

個人の「病理」とは、実際には巨大な氷山の一角をなしているに過ぎず、自己の諸段階、文化的な世界観社会の構造存在の深みとの精神的/霊的な関わりの有無などのすべてが、その「病理」を形づくっているのである。とはいえ、このことは、個人を対象とする心理療法が重要でないという意味では全くない。ただ、多くの点において、個人の機能不全とは、世界(未だ統合的でない世界)そのものの機能不全の一部分であるに過ぎないということである。

もし自己を周りの文化へと適応させ、その文化の中で統合された存在にすると言っても、もし文化そのものが病んでいたら、一体どんなよいことがあるだろう?例えば、十分に適応したナチス党員になるとは、どういうことだろう? そこでは、本当に心の健康が実現されているのだろうか? あるいは、ナチスの社会のなかでは、不適応な人間こそが、健全な人間なのだろうか?

●4つの象限が4である意味
「4」という数字に呪術的な意味は何もない。4つの象限とは単に、現実の中に見受けられる最も単純な区別のいくつか──内側外側および単数複数──を表現したものである。実際には、他にも数えきれないほど多くの──おそらくは無限の──区別が存在している。多くの人々が四象限の見方を有益であると感じているのはただ、フラットランドの世界においては、こうした単純な区別でさえも尊重されていないからなのである。一次元的人間〔マルクーゼ〕だけからなるフラットランドの見方と比べれば、四象限は、よりよい複雑さをそなえた見方である。


◆現代の思想:ポストモダニズム、システム理論、現象学

●ポストモダニズム
現在、文化進化の最先端に位置しているのは、ポストモダニズムである。
多くの人々が、「ポストモダン」的な文章に出くわすと、嘆きの声を上げる。実際「ポストモダン語」は、極めて複雑で判読困難。だが、そこにはいくつかの重要な論点が存在している。以下の解説は、できるだけ苦痛が少なくなるように書く。

・多様性
近代をそれ以前の時代と異なるものにしている要因は、「ビッグ・スリーの差異化」〔価値領域の差異化〕である。
後‐近代を近代と異なるものにしている要因は、「包括的であろうとする態度」である。こうした包括的な態度は、多くの場合、「多様性」(diversity)である。

しかし、すべてを多元的に抱擁するという態度が、あらゆる質的な区別を無視するという態度に置き換わったとき、構築的ポストモダニズムが約束する明るい未来は、脱構築的ポストモダニズムがもたらす虚無主義的な見方へと姿を変えた。後‐近代は、フラットランドから逃れようと試みるなかで、多くの場合、フラットランドを最も卑俗な形で支持することになった。

・世界とは知覚ではなく解釈である
世界意識によって単に表象されているのではなく、意識によって共‐創造(co-create)されている。言い換えれば、世界とは単なる知覚ではなく、解釈である
ポストモダニズムは、認識論と存在論の両方、すなわち、知ることと在ることの両方において、「解釈」が中心的な役割を担っていることを明らかにした。ポストモダニズムの偉大な目標の一つは、解釈がこの宇宙に内在的にそなわっている性質であることを示すことであった。言語や文学における解釈とは、全体の中のほんの一部分であるに過ぎない。解釈は、コスモスそのものの深みと同じくらいにまで広がっている。

外面は見ることができるが、内面は解釈することが必要なのである。内面の出来事は、外面的ないし客観的な方法によって捉えることはできず、それを捉えるためには、内側を見つめること、そして解釈することが必要である。解釈とは、思考する能力が現れてからコスモスに付け加えられたものではない。そうではなく、解釈とは、内面領域の始まりとともに出現したものなのである。
必要なことは、単に客観的であるだけでなく、主観的および間‐主観的であることである。あるいは別の言い方をすれば、単に独白的であるだけでなく、対話的であることが必要である。私たちは、単に互いを客体〔対象〕として見つめるだけの主体ではない。私たちは主体として、互いに主体を理解しようとする。言い換えれば、私たちは間‐主観的な循環の中で生きているのであり、対話という名のダンスを踊っているのである。


・ポストモダニズムが拒絶しているもの
多くの点において、ポストモダニズムは、フラットランドおよびその悪しき遺産を捨て去ろうと試みる。それゆえ、後‐近代の哲学は多様な見方が複雑に集まったものであるものの、多くの場合、その主張者が何を拒絶しているかということによって、内容のほとんどを定義することができる。
 基礎づけ主義を拒絶し、本質主義を拒絶し、超越主義を拒絶する。
 合理性を拒絶し、真理の対応説を拒絶し、表象としての知識を拒絶する。
 大きな物語を拒絶し、メタナラティブを拒絶し、あらゆる種類の「大きな地図」を拒絶する。
 実在論を拒絶し、「終極の語彙」を拒絶し、権威的な説明を拒絶する。
というように。

・ポストモダニズムの3つの真実
ポストモダンの理論は一貫性を欠いているように感じられる(実際その通り)にもかかわらず、ほとんどのアプローチは、その核心において、3つの重要な前提を共有している。

(1)現実とは単に与えられているものではなく、いくつかの重要な点において、構築されたもの、解釈されたものである(こうした見方は「構成主義」〔構築主義〕(constructivism)と呼ばれることが多い)。
(2)意味文脈に依存しており、文脈は無限に広がっている(こうした見方は「文脈主義」(contextualism)と呼ばれることが多い)
(3)それゆえ、物事を認識するとき、どのような単一の視点も不当に特権化してはならない(こうした見方は「統合的‐非視点的」(integral-aperspectival)と呼ばれている)

極端なポストモダニストたちは、単に解釈が重要であることを主張するだけでなく、現実とは解釈であるに過ぎないと主張する。すべてのホロンには左側象限という重要な側面(解釈的な側面)が存在していることを指摘するだけでなく、右側象限(客観的な側面)の実在性そのものを丸ごと否定しようとするのである。
すべてのホロンには客観的な要素だけでなく解釈的な要素が存在しているからと言って、客観的な要素の存在そのものが否定されることにはならない。そうではなく、ただ、客観的な要素が、文脈の中に位置づけられるようになるだけである。

・言語論的転回
近代から後‐近代へ歴史的に見れば、構成主義〔構築主義〕、文脈主義、そして統合的‐非視点的な認識が前面に現れるようになったのは、哲学の分野において「言語論的転回」(linguisticturn)と呼ばれる変化が起きた頃のことである。
言語とは与えられた世界を単に表象するものではなく、世界を創造し構築することに関わっているものであるという認識に基づく。おおよそ19世紀頃であるが、哲学者たちは、言葉を用いて世界を記述するのをやめて、その代わりに、言葉そのものを見つめることを始めた

突如として、言語はもはや信頼に値する明確な道具ではなくなってしまった形而上学の全体が、言語分析へと置き換えられることになった。なぜなら、言語とはもはや、与えられた世界を素朴に見つめることのできる確かな手段ではないことが明らかになってきたからである。言語とはむしろ、スクリーンへと映像を投影するプロジェクタのようなものであり、私たちが最終的に目にしているのは、そのようにしてスクリーンに映し出されたものなのである。言語は世界を創造することに寄与しているのであり、ヴィトゲンシュタインが述べているように、「私の言語の限界が、私の世界の限界」なのである。

前‐近代および近代の文化においては、言語世界を捉えるための手段として素朴に用いられていた。だが、後‐近代の知性は、くるりと後ろを向いて、言語そのものに目を向けるようになった。こうした驚くべき言語論的転回が起きたことで、哲学者たちが言語を素朴な形で信頼することはもう二度となくなった。むしろ、言語こそが世界を創造しているのであり、こうした創造の中にこそ、力が秘められているのである。
もし現実を理解するための道具として言語を用いるのなら、まずはその道具がどのようなものであるかを注意深く調べたほうがいい。

・ほとんどの道はフェルディナン・ド・ソシュールに通じている
どんな語〔単語〕もそれ自体としては意味をもたない。なぜなら、全く同一の単語であっても、その単語がどのような文脈ないし構造の中に置かれているかによって、全く異なる意味をもつようになるからである。ソシュールによれば、あらゆる語のあいだの関係性こそが、意味を安定させる。それ自体としては意味をもたない要素が、構造全体の中に置かれることによって意味をもつようになる。これが構造主義の始まりであり、ほぼすべての学派が、大なり小なり、ソシュールにその源流をもっている。

あらゆる記号ホロンなのであり、「文脈の中の文脈の中の文脈」という全体のネットワークの中に存在している。個々の語がどんな意味をもつかということに対して、言語全体が関与している

ポストモダニズム(特にハイデガー以降)の見方においては、背景にある文化的な文脈が重要であることが非常に強調される。意味とは、広大な文化的背景のネットワークによってつくり上げられているものであり、私たちが自覚しているのは、そうしたネットワーク中のごく一部だけなのである。私が意味をつくり上げるのではなく、意味が私をつくり上げる。私とは広大な文化的背景の一部なのであり、多くの場合、そうした背景全体がどこからきたのかはわからない。あらゆる主観的な志向性(左上象限)は、間‐主観的あるいは文化的な文脈(左下象限)の中に位置づけられており、こうした間‐主観的な文脈が関与することで、意味はつくり上げられ、解釈されている。

こうした文脈そのものが、原理的には、無限に広がっている
究極的には、意味をとどめるための方法、意味を完全に制御するための方法は存在していない(なぜなら、現在の意味を変えるようなさらに広い文脈を想定することは常に可能だからである)。
ゆえ、脱構築とは、次の2つの原則から成り立っている。
 ・意味は文脈によって決まる
 ・文脈は無限に拡張されうる
文脈が無限に広がっているのは、現実とはどこまでも「ホロンの中のホロン中のホロン」という形で構成されており、そこにはどんな上限も下限も見つけることができないからである。
コスモスがホロンから構成されていると述べることは、コスモスは文脈から構成されていると述べることに等しいのであり、このことは遥か上方から、遥か下方にまで当てはまるのである。

・統合的‐非視点的な見方
意味が文脈に依存していること(ポストモダニズムの2つ目の重要な真実であり、文脈主義とも呼ばれている見方)は、すなわち、現実に対して多数の視点からアプローチすることが必要ということである。たとえどのような視点であろうと、単一の視点だけでは部分的であり、限界を抱えており、そしておそらくは歪んでいる。多様な視点と多様な文脈を尊重することによってのみ、知の探求は有意義な形で進展していく。そしてこの「多様性」こそが、後‐近代における3つ目の重要な真実なのである。

・ヴィジョン・ロジック
非視点的(aperspectival):どのような単一の視点も特権化されないこと。
ヴィジョン・ロジックはどのような視点を特権化することもなく、そこにあらゆる視点を付け加える。
ドイツ観念論において、単に形式的で、表象的で、経験的‐分析的な知性、すなわち「悟性」(Verstand)であり、もう一つは、弁証法的で、対話的で、ネットワーク的な知性、すなわち「理性」である。

技術‐経済的な構造が産業的な様式から情報的な様式へと変化することも大きな要因である。
本物の知とはすべて、コスモスが生み出した活動〔成果、作品〕である。だが、ヴィジョン・ロジックにおいて初めて、このことを自覚的に認識し、明確に表現することが可能になった。

ヴィジョン・ロジックの構造には、空想や情動や規則が伴っていないというわけではない。むしろ、こうした要素は全て、ヴィジョン・ロジックというさらに広大な空間の中で保持されているのであり、そしてそれゆえに、こうした要素のすべては、ヴィジョン・ロジックの構造を通して、その能力をさらに大きく花開かせるようになるのである。
 

・多元主義も文脈に拘束
多元主義において主張されている通り、どんなシステムも文脈に拘束されている。そこで、この見方をさらに押し進めてみよう。相対性や多元性そのものもまた、文脈に拘束されているとみるのである。言い換えれば、相対性や多元性そのものにも、さらに広く深い文脈が数多く存在しているのであり、こうした文脈によって、さまざまな相対性や多元性が互いに結びついて、さらに大きな諸システムが生み出されるのである。

それゆえ、こうした大きなシステムの存在を認めてみよう。そして、あらゆる相対性や多元性を互いに結びつける普遍的で統合的な文脈とはどんなものであるか、その大まかな姿を描いてみよう。
 

・表層のみ
ポストモダニズムは、表層を抱擁し、支持し、称賛するようになったのであり、そこにはただ表層しか存在していなかった。
シニフィアン(言語の表現面)の連鎖が滑走しているだけであり、物質的なテクスト〔物質的な解釈〕の外には何も存在していない。表層の下には何もなく、ただ表層だけが存在している。

ただ、シニフィアンが全ての現実を創造し構築しているだけなのである。だが、もしこのことが真実であれば、このことは真実ではあり得ない
 

シニフィアンの連鎖がどのように滑走し、浮遊するかを定めているのは、力〔権力〕偏見イデオロギー以外にはない。
統合的‐非視点的な意識は、フラットランドが発する強烈な重力によって、単なる「非視点的な狂気」(aperspectival madness)──どんな考えも他の考えよりも優れているわけではないという見方──へと転落してしまったのである。
内面もなければ、深さもない」。これこそ、極端なポストモダニズムに見られる信条を完璧に表現した言葉であろう。
各個人は自らの好きなように生きており、それぞれのやり方で、人生を精力的に歩んでいた。にもかかわらず、先にも述べたように、こうした在り方では、多種多様な声を最終的に解放することはできなかった。実際には、さまざまな声が孤立し、疎外され、断片化された世界の小さな片隅へと急ぎ足で走り去るようになっただけであった。

・発達の否定
ポストモダニズムは、後‐慣習的後‐形式的多元的意識という非常に発達した立場から──すべての人々に対して公平かつ公正に接したいという気高き願いをもって──発達の重要性そのものを否定し、どんな立場も別の立場よりも優れているわけではないと主張するようになった。
しかし、発達を否定するということは、多元主義そのものを否定するということである。

・ホロンの階層
本物の全体論へと到達するためには、ホロン階層を認めることが必要である。後‐近代は、ホロン階層を否定することで、全く効果的に、全体論を否定してしまったのである。こうして、ポストモダンの世界にもたらされたものは、全体論ではなく、寄せ集め論であった。多様性は手に負えないものとなり、多種多様な声をどのようにして結び合わせ、調和させればよいのかが全くわからなくなってしまったのである。

・脱構築的/構築的ポストモダニズム
ポストモダニズムは、フラットランドから脱出しようと試みていたにもかかわらず、全く逆の結果を生み出してしまった。脱構築的ポストモダニズム(deconstructive postmodernism)が、フラットランドを誰よりも声高に支持するようになったのである。他方、構築的ポストモダニズム(constructive postmodernism)は、多元主義によって解放された多種多様な文脈をとりあげながらも、そこからさらに一歩進む。そうした多種多様な文脈を互いに織り合わせ、相互に関係し合ったさまざまな網の目へとまとめ上げるのである。

●システム理論
システム科学において作動していたのは確かにヴィジョン・ロジックであったが、それは欠陥を抱えたヴィジョン・ロジックであった。
システム理論が主張していたのは確かに全体論であったが、それは外面だけの全体論であった。
後‐近代の運動において実現されたのは確かに新しい高次の理性であったが、それはフラットランドの中に捕らえられた理性だったのである。ポストモダニズムは、フラットランド型の全体論、物質的な一元論、あるいは独白的な狂気を少し別の形に書き換えただけであった。ポストモダニズムは、近代の悲劇を克服し、転覆させ、解体すると声高らかに宣言していたのであるが、実際には、近代の悲劇に屈してしまったのである。

システム理論は、原子論的な「それ」の代わりに、全体論的な「それ」を与えてくれるだけであり、この両方を、「」および「私たち」という内面の領域と結び合わせる必要がある。

単にシステム理論、新しい物理学、ガイアについて学ぶ、あるいは、単に物事を全体論的に考えるだけでは、私たちの内面的意識の変容が促されるとは全く限らない。なぜなら、これらはどれも、内面における成長や発達の諸段階を扱っていないからである。どうすれば自分自身および他者の中に、世界中心的で、地球的で、精神的/霊的な意識を真に育んでいくことができるのかが論じられていない。代わりに、そこでは次のように述べられるだけである。「現代の科学および母権的な宗教はすべて、私たちが大いなる生命の織物の一部分であることに合意している」。

システム理論は、あらゆる物事についての統一的な理論であると主張しているものの、実際には、すべての象限を右下象限へと還元することで、世界の「半分」(すなわち左側象限)を置き去りにしてしまっている。「それ」(It)の言語によって記述できる外面的なシステムのみを認識しており、「私」(I)および「私たち」(We)の言語によって記述される内面の諸段階が認識されていないのである。システム理論は、ティールあるいはターコイズ段階の思考に基づく見方であるものの、多くの場合、フラットランドの中に捕らえられてしまっている。システム理論は、自らが治療すると主張している病気の一部分なのである


●仏教でいう無我との違い
ポストモダニズムは、単に個々人の意識をその背景にある文化的文脈の中に位置づけるだけでなく、個人にそなわる主体そのものを完全に消し去ってしまったのである。「人間の死」「作者の死」「主体の死」──これらはすべて、主観の領域(左上象限)を間‐主観的な構造(左下象限)へと還元しようという露骨な試みであった。こうして、「人間」ではなく、「言語」こそが、歴史の主役となった。もはや、「私」という主体が話しているではない。ここあるのはただ、非‐個人的な言語だけであり、さまざまな言語構造が「私」を通して話しているだけなのである。
こうした見方は、仏教における「無我」や「無自己」の概念とは決して同じものではない。なぜなら、そうした仏教の見解においては、「私」が「空性」に置き換えられるのに対して、ここでは、有限な言語構造からなる「私たち」に置き換えられているからである。

●フェミニズム
多くのフェミニストが、こうした統合的アプローチを用いることに抵抗している。なぜなら、フェミニストの多くは、一つの象限だけを認める傾向にある(大抵は左下象限であり、ジェンダーが文化的に構築されたものであるという側面を強調する)からである。そしてその一方で、こうした人々の多くは、他の象限からの影響を否定してしまう(例えば生物学的な要因を否定する。なぜなら、そうした要因を認めてしまえば、「生物学こそがすべてを規定する」という見方を肯定することになりはしないかと疑っているからである。確かに、もし右上象限だけが存在する唯一の象限であれば、そうなるかもしれない。だが、生物学的な要因が具体的にどのような形で表現されるかということは、文化的な価値観、社会制度、個人の意識の在り方などによって、大きく異なるものとなる。それゆえ、いくつかの生物学的な要因を認めることは、性差別主義的なことではなく、現実的な見方なのである)。


●現象学の重要性と限界
現象学の方法論では、直接的な身体的感覚として現れない間‐主観的な構造について理解することができない。それゆえ、現象学では、意識や社会的世界の「発達」という側面を効果的にとり扱うことができない。
直接的な内観という手法は、それ自体として有益であることに変わりはないものの、間‐主観的な構造(こうした主観的な内観そのものが起きている空間)を見つけ出すことができないのである。

 

◆進化について

●進化に関する5つの原則
1. 進歩の弁証法を認識
 意識が発達し、開き出されていくにつれて、それぞれの段階は、前の段階において生じていたいくつかの問題を解決ないし緩和する。だが、今度は新しい段階そのものが、それまでには存在しなかった厄介な問題──以前よりも複雑で困難な問題であることもある──を生み出す。

2. 差異化と分離を区別
 進化の病理として最も典型的なものの一つは、差異化(differentiation)が行き過ぎて分離(dissociation)へと至る。差異化とは、統合への入り口であるのに対して、分離とは、悲劇への入り口なのである。

3. 超越と抑圧を区別
 進化は超越包含〔超えて含む〕のプロセスを通して展開していく。「超えて含む」場合、前の段階は仲間になり、統合され、大切に尊重されることになる。「超えて抑える」場合、前の段階は抑圧され、否定され、遠ざけられる。

4. 自然な階層と病理的な階層の違い
 正常で自然な階層が、病理的な階層──支配型の階層構造──へと転落することがある。
 驚くべき成長や進化のプロセスによって正常な階層が形づくられているということと、皮肉にもそうした成長のために病理的な階層が生じてしまう可能性があることの両方を考慮に入れる必要がある。

5. 高次の構造が低次の衝動に乗っ取られる可能性
 合理性によって生み出された高度な技術が、部族主義およびその自集団中心的な衝動に乗っ取られてしまうと、破滅的な事態が生じうる。

●進化、「文化」の発達に対する抵抗
リベラル派:こうした見方はさまざまな文化を周縁に追いやるものではないかと疑っている。
伝統主義者:近代的な「進化」の概念によって、宗教のほとんどの部分が時代遅れのものであるとみなされてしまうことに納得できない。
ロマン主義者:社会や文化は進化ではなく「退化」していると考えていることが多い。


●ミクロ発生、個体発生、系統発生
ミクロ発生個体発生を繰り返し、個体発生は系統発生を繰り返し、系統発生は宇宙発生を繰り返す。
ミクロ発生とは、ある発達領域が、一瞬一瞬、開き出されていくプロセスのことを表している。
一本の木を見つけて、そのことを私に伝えるとしよう。このとき、次のような一連のミクロ発生的なプロセスが生じている。まず、その木についての感覚が生じ、次に知覚が生じ...
こうしたミクロ発生のプロセスは、その人自身が個体発生においてたどってきた一連の段階(感覚、知覚、衝動、イメージ、象徴など)を反復するものである。例えば、もし私が具体操作的な段階までしか発達しないととすれば、私のミクロ発生のプロセスは具体操作的段階で止まる。他方、もし私が微細段階まで発達しているとすれば、微細段階まで続いていく。その木は、単に遠近法的な空間の中に位置している対象ではなく、スピリットの輝ける顕現であることが、直接に認識される
このように、その人が私のほうを向いて「木があるよ」と述べるとき、その単純な発話の中に、現在に至るまでのコスモスの全歴史が包み込まれている。

●トップダウン型の進行
意識の中で生起しているすべてのプロセスが「ボトムアップ」型〔下位から上位へ〕であるわけではない。実際、多くのプロセスは、「トップダウン」型〔上位から下位へ〕で進行していく。すなわち、意識に生じるプロセスの中には、現在の段階(あるいはそれよりも高次の段階)を起点として、そこから、大いなるホロン階層を下へ降りていくものも多いのである。例えば、私が創造的なヴィジョン(心霊段階)を得たとしよう。私はそのヴィジョンを、ヴィジョン・ロジック段階の言葉へと下降的に翻訳するかもしれない。あるいは、何らかの芸術として表現するかもしれないし、単純なイメージと象徴によって表現するかもしれない。
 

続く


 

【タイトル】 インテグラル心理学――心の複雑さと可能性を読み解く意識発達モデル
【著者】 ケン・ウィルバー
【ページ数】 720

 


【読むきっかけ】最近のケン・ウィルバーの思想について理解を深めようと思って。

【対象】 インテグラル理論・統合心理学に興味のある人。心理学を包括的な視点で、学術的な側面から深く知りたい人


【評価:★5段階で】
 難易度:★★★★★
 分かりやすさ:★★★
 ユニークさ:★★★★
 お勧め度:★★★★

 

【概要】 
 

「精神性/霊性なき心理学は、十分に包括的なものではあり得ない」
 

心理学の歴史に始まり、ポストモダンの思想や心脳(心身)問題も含めて、かなり広く扱う包括的なアプローチをとっている。
まず最初に、心理学を科学的なものにしようとした先駆者であるフェヒナーを取り上げている。フェヒナーは心を測定可能な経験的対象へと還元したと言われている一方、『死後の生』という書を著した。その中で、眠りから永遠の目覚めへの道が説かれている点にウィルバーは注目した。近代心理学の根幹にはスピリチュアルな伝統があり、統合的なアプローチがある。

とはいえ、様々な心理学を俯瞰して見るわけではなく、ほとんどが発達心理学とその周辺のものである。そのため、心理学の全体像というとかなり語弊がある。また全体の地図を提供しているだけなので、それぞれのメソッドの詳細は別途学ぶ必要がある。

本書は学術的な色彩が強く、様々な文献を根拠に論を展開している。そのため、文献の紹介の側面も大きい。インテグラル理論は、ケン・ウィルバーの、独自の視点はあるものの、これまでの多くの研究の上に立脚している。認知、自己、道徳性の発達のラインは、それぞれの専門の研究者による発達段階を整理したものである。

初めてインテグラル理論を学ぶ人にとってはかなり難解だと思われる。すでにケン・ウィルバーの他の本を読んだことがある人でないと難しい。『インテグラル理論を体感する』や『INTEGRAL LIFE PRACTICE』などの入門的な本から入るのがいいかもしれない。すでに学んでいる人にとっては、永遠の哲学やケン・ウィルバーのアプローチに対する、様々な疑問へ回答となっているため、非常に興味深く、理解を補填するためには必須ともいえる。私自身も、他の著書を読んでそれはないだろうと思った誤解がかなり解消された。大著ではあるが、『インテグラル理論を体感する』のような冗長さはないところもありがたい。

 

ポストモダンの解説は、哲学者が書いた入門書のようなものよりもずっと分かりやすく、本質をダイレクトに示している。哲学者はより広い地図を持っておらず、あくまでも日常の世界観から解説するのでどこに何のために向かっているのかが示されないのに対して、ウィルバーの解説では、それが明確に示されている。構造主義ポスト構造主義について、まとめの記事を書きたいと思っていたが、ウィルバーがきれいにまとめてくれるため、その必要はなさそうである。

本記事の「要約・メモ」、では、『インテグラル理論を体感する』『INTEGRAL LIFE PRACTICE』でまとめた内容は省いている。というのも、内容的にかなり重複しているため。

ただ、本書はひとつ前の、ウィルバーⅣ世代とも言うべきで、後‐後慣習的な領域に心霊、微細、元因、非二元の段階を置いており、最新の著作にあるような、意識構造意識状態を明確に分離していないのが注意点だろう。心霊、微細、元因、非二元などの主要な意識状態は、呪術、神話、合理、多元、統合などの意識構造に対して、「完全に同じ軸ではないけれど完全に別の軸とも言えない」ようだ。意識状態は内化(involution)によって、意識構造は進化(evolution)によって生み出されたものである。

・他の心理学との違い

通常の心理学では、異常正常の二段階しかない。異常な状態(疾患のある状態)を治療して、正常(健康)な状態にする。ウィルバーのような発達段階、レベル分けはしない。正常な状態となったら、自己のスキルを向上させる方向に利用するが、これはウィルバーが水平方向の成長と言っているもので、ウィルバーはあまりこの点は大きく扱うことはない。

発達心理学も、主に子供の成長が対象だが、最近は一生涯を通じた成長モデルが提示され、ウィルバーの理論は、その成長モデルに沿っていると言える。

【要約・メモ】

●統合心理学とは?
統合心理学とは、最も簡潔な形で述べるなら、段階領域状態自我スピリットからなる心理学である。
心理学の各学派は、意識の一つの側面だけをとりあげて、意識が驚くほど豊かで多面的な現象であることを見過ごしてきた。もしこれらすべての説明が、物語全体を構成する重要な一部分であるとしたらどうか? 人間の意識のさまざまな側面を、それが正当なものであればすべて尊重し、包含しようと努めること──これこそが、統合的心理学(integral psychology)の目標なのである。古今東西にわたるおよそ200名の理論家たちの議論を踏まえ、統合的な見方をつくる。本書の主たる目的は、議論を始めるのを手助けすることである。

●大きな地図
人間は、意味を求め、大きな地図をつくり出すよう運命づけられている。「反‐大きな地図」を主張する思想家たちでさえも、なぜ大きな地図はよくないのか極めて大きな地図で説明してきた。その内的な矛盾のために不愉快な事態へと陥ることになった。それゆえ、大きな地図は慎重に選んだほうがよい


◆発達段階

●発達段階
発達段階論のほぼすべてが、膨大な量の調査とデータに基づいて作成されたもの。
ただ、モデルの一つを見れば物語の全体がわかるということではないし、大半がわかるとさえ言えない。人生という大河の一部分を切り取ったスナップ写真に過ぎない。

●ピアジェの研究
ピアジェは、発達のそれぞれの段階において、異なる世界観、知覚、時間と空間の様式、道徳的動機づけが現れることを実証した。さらに、現実とは単に与えられているものではなく、多くの重要な点で構築〔構成〕されているものだということ(ある種の構造主義で、ここからポスト構造主義が生まれる)。
ピアジェの理論体系の主要な欠点は、認知的な発達(論理‐数学的な能力)だけが主要な発達のラインであるとみなしていること。

●後‐形式的(post-formal)な諸段階
抽象的で普遍的な形式主義(formalism)の段階を超えると、意識は初めて、動的な相対性および多元主義(pluralism)の観点を認識し始めるようになる(前期ヴィジョン・ロジックの段階)。さらにこの段階を超えると、意識は、統一性全体論や動的な弁証法、すなわち、普遍的な統合主義(integralism)の観点を認識し始めるようになる(中期および後期ヴィジョン・ロジックの段階)。それまでの段階よりも遥かに多くの視点が考慮されるようになる。
少なからぬ西洋の心理学者たちが、大規模な経験的および現象論的なデータに基づいて、後‐形式的(post-formal)な諸段階合理性を超えた認知的発達の段階)を見つけ出してきた。
他方、超‐心的な領域(心霊、微細、元因、非二元の領域、すなわち、超‐合理的超‐個的な領域)にまで調査を進めた研究者はほとんどいない。もっとも、ますます多くの研究者が、こうした高次の段階の存在を認めるようになってきている。
外的対象を心的ないし概念的に知るという意味で「認知」という言葉を用いているなら、こうした高次の精神的/霊的な諸段階は、認知的な段階ではない。なぜなら、こうした段階は、多くの場合、超‐心的、超‐概念的であって、外的な対象に関わるものではないからである。

※ヴィジョン・ロジック(訳者あとがきから)
矛盾をそのまま心にとどめることも、対立を総合することもできる。それは弁証法的であり、非線形的であり、ネットワーク的であり、一見したところ両立しがたい観念を、それぞれの部分性を否定しながら、積極的に寄与できる点を保存することで、新しい高位のホロンの中に位置づけ、織り合わせる。差異の中に同一性を見出すこと、多様性の中に統一性を見出すこと、木を見ると同時に森を見ること、文脈を自覚しながら思考すること。


●意識の構造と状態
構造」とは、何らかの段階、あるいは何らかの領域に見受けられるあらゆる安定的なパターンのこと。
状態」はすべて、一時的な現象、過ぎ去っていく現象である。すなわち、どの状態も、やってきて、少しの間とどまり、そして去っていく。たとえ循環的に繰り返し生じる状態であっても、そのことは変わらない。他方、意識の構造は、もっと永続的なものである。構造とは、意識や行動に関する極めて永続的なパターンなのである。発達の段階と領域のほとんどは、意識の構造から構成されている。すなわち、明確に判別しうる規範や体制や自律性をそなえた全体論的で自己組織的なパターンから構成されている。

●状況に応じて活性化
それぞれの段階は、私たちの生存環境に応じて活性化され得るものである。例えば、緊急事態においては、私たちはレッドの「力への衝動」を活性化させるかもしれない。大きな混乱が起きている状況では、アンバーの秩序を活性化させることが必要かもしれないし、新しい仕事を探すためには、オレンジの「達成への衝動」を活性化させることが必要かもしれない。あるいは、配偶者や友人との関係においては、グリーンの親密な絆を大切にするかもしれない。

●どの段階も利用可能
どんな人であっても、潜在的にはすべての段階を利用できる。自己は、退行して、存在と認識のホロン階層を下方に進んでいくこともあれば、螺旋を描き、再統合して、元の段階に戻ってくることもある。
自己の「重心」(center of gravity)と呼びうるものは、特定の時点において、ある一つの意識段階の周辺をさまよう傾向にある。

自由とは、意識のスペクトラムを構成するすべての段階へと接触できる自由である。すべての段階を利用できるようになるためには、成長や発達を進めていく以外に方法はない。

●発達のライン[領域]
20種類を超える発達のラインが展開していく。このとき、各ラインは、相対的に独立して発達していく
全体としての発達(すべてのラインの総和)は、少しも直線的なものでもなければ、順序立ったものでもない(この点こそが、ピアジェの見方がやがて否定されるようになった理由である)。

さまざまな「自己関連ライン」は、相対的に独立した形で発達していくということである。例えば、研究によって示され続けているように、認知〔気づき〕の発達は対人的能力の発達にとって必要であるが十分ではなく、対人的能力〔役割取得能力〕の発達は道徳性〔倫理性〕の発達にとって必要であるが十分ではなく、道徳性の発達は善の観念の発達にとって必要であるが十分ではない。


●発達段階と病理・対処法
〇第一層
・支点1:古代的段階(インフラレッド)
精神病・境界の欠如・自閉症:原始的なもので治療は難しい。投薬、退行療法

・支点2:呪術的段階ないし部族的段階(マジェンタ)
境界性障害:境界を構築し自我を強化

・支点3:呪術‐神話的段階(レッド)
神経症:暴露療法、シャドーの統合、インナーチャイルド

・支点4:神話的段階ないし伝統的段階(アンバー)
脚本病理:認知療法、スクリプトを修正

・支点5:合理的段階ないし近代的段階(オレンジ)
アイデンティティ危機(identity vs role confusion)

・支点6:多元的段階ないし後─近代的段階(グリーン)
実存的問題

〇第二層
・支点7:統合的段階(ターコイズ)
トランスパーソナルな領域の高次の病理

〇第三層
超-統合的段階

●防衛機制
自己の発達におけるそれぞれの段階では、異なる種類の防衛機制が見受けられる。自己は、そうしたどの段階においても、痛みや混乱から、そして究極的には死から、自らを守ろうとするのである。そしてそのとき、自己は、その段階において利用できるあらゆる道具を用いて、自らを守ろうとする。例えば、概念を用いることができれば、概念を用いて自らを守ろうとする。規則を用いることができれば、規則を用いて自らを守ろうとする。ヴィジョン・ロジックを用いることができれば、ヴィジョン・ロジックを用いて自らを守ろうとする。

●それぞれの発達段階における治療法
それぞれの段階は、質的に異なる立体構造をそなえており、それゆえ、自己の性質も、自己が陥りうる病理も、治療法も、段階によって質的に異なる。
ところが、あまりにも多くの場合に、特定の心理療法的なアプローチ(例:精神分析、ゲシュタルト療法、神経言語プログラミング〔NLP〕、ホロトロピック・ブレスワーク、交流分析、生物学的精神医学、ヨーガ)が、すべての種類の精神病理〔心の病〕に対して適用されている。そしてその結果は、多くの場合、不幸なものである
ほとんどの心理療法は、1つか2つの段階に焦点を当てており、そのため、そこから離れた段階であればあるほど、その心理療法を用いることの効果は減少していく。
認知療法が4の発達段階に焦点を当てていると言っても、認知療法が他の段階では効果をもたらさないという意味ではない。実際、認知療法は、他の段階においても明らかに効果をもたらす。

支点1および支点2における発達は、大部分において前‐言語的かつ前‐概念的であるため、考え方見方を修正するという方法では、この段階に対して直接に働きかけることはできない。他方、支点6よりも後の発達も、大部分において超‐心的かつ超‐合理的であるため、心的な領域を構築しなおすという方法は、それ自体としては、その効果に限界がある。

ある段階に焦点を当てている心理療法は、それよりも低次の段階を扱っている心理療法についてはその意義を認め、さらには活用することも多い一方で、それよりも高次の段階については、その意義を認めることがめったにない(実際、多くの場合、そうした高次の段階の存在を認めることは「病理」であるとみなされる)。古典的な精神分析では、本能や情動の働きが重要であることは認識されているものの、私たちがどのような認知的な脚本をもっているかということは、重要なことであると考えられていない。

クライアントは十分に発達しているので、9個か10個のどの支点において問題を抱えている可能性も考慮したほうがよい。

・共通の治療法
こうしたすべての治療法(精神分析、認知療法、人間性心理学、トランスパーソナル心理学など)に共通している事柄はあるのだろうか?
気づくこと(awareness)は、それ自体として、治療効果がある。
それまで遠ざけられていた側面、変質させられていた側面、歪められていた側面、無視されていた側面を、意識によって体験する(あるいは再体験する)ことを目指す。このような意識化の作業によって治療効果が生じるのは、そうした側面を完全に体験することで、意識はそれらの要素の存在を深く認められるようになり、そうした要素を手放せるようになるからなのである。そうした要素を対象〔客体〕として見つめることで、自らを差異化させ、埋め込まれた状態から脱し超えることが可能になるのである。
心理療法とは、隠れた主体を意識された対象に変化させる営みなのである。

もしセラピストが、単なる変性意識状態を奨励する一方で、クライアントの前面自己の発達にうまく目を向け促進することができないでいると、クライアントが高次と低次の領域を結び合わせ、全スペクトラム型の意識を永続的な形で実現することを困難にしてしまうかもしれない。それゆえ、たとえ粗大、微細、元因の認知および自己が、多くの点において互いに並行して存在しうるものであるとしても、それでもなお、意識の重心は、発達が進んでいくにつれて、究極の〈自己〉を構成するより深い層(自我から魂、そしてスピリット)へと向かってホロン階層的に移行していく。そして、そうした深い段階を中心にして、意識が組織化されるようになるのである。

ここが多くの理論家を混乱させる点なのであるが──個々の領域そのものは独立して発達していくものであるため、人は、ある領域については極めて高次の「スピリチュアル」な段階(後‐後慣習的)に到達していながらも、同時に、他の領域については極めて低次の個的ないし「心理学的」な段階(前‐慣習的、慣習的)にとどまっていることもあり得るのである。

さまざまな種類のスピリチュアルな発達は、さまざまな種類の心理学的な発達よりも前に起こることもあれば、並行して起こることもあれば、後に起こることもある


●次の段階の出現
特定の発達ラインにおいて、次の段階が安定的な形で出現するためには、そのラインにおける現在の段階の内容をどの程度まで達成することが必要か?
基本的な諸能力は、次の段階への安定的な発達が起きるために必要である
特殊化した能力は、次の段階への発達が起きるために必要ではない
それぞれの段階はその後の発達においても残り続け、それぞれの段階としてどこまでも無限に訓練し成熟させることができる。

●合理段階があれば、身心統合・ケンタウロス段階は不要では?
単一の「身体」と単一の「」が存在するわけではない。両者を統合するかしないかという二択問題ではない。こうした批判者たちが「身体」と呼んでいるものは、実際には5個かそれ以上の段階(例:感覚、知覚、外念、衝動、情動)から構成されており、「心」と呼んでいるものも、5個を超える段階(例:イメージ、象徴、概念、規則、形式、ヴィジョン・ロジック)から構成されている。
どの発達段階も、それ自身の限界の中で、かなりの程度まで「統合」を果たしている

各発達段階は「超えて含む」の原則に従う。例えば、形式的‐合理的な段階(この段階に「統合」の能力は存在しないのではと批判者たちは疑っている)は、さまざまな具体的操作、多数の異なる視点、さまざまな役割、可逆的操作、相互性などをすべて「超えて含んで」(つまり統合して)いる。驚くほど統合的な構造である。こうした形式的‐合理的な構造も統合的ではあるものの、さまざまな研究によって示されているのは、後‐形式的な認知(ヴィジョン・ロジック)は、それよりもさらに統合的なものだ。
もし発達論的な段階として「身体」「心」「身体と心の統合」だけを考えていると、こうしたすべての段階を見落としてしまう。
それぞれの段階は、前の段階よりも相対的に大きな統合の能力を示す。

●感じる意識
意識は「考える意識」というよりは「感じる意識」と呼べるもの。意識の諸段階とは、「感じる意識」の諸段階、あるいは生き生きとした体験の諸段階なのであり、これこそが、大いなる入れ子の中を進んでいくものなのである。

多くの人々が、後‐慣習的な意識における心の温かさ広がりを、単に感覚的な身体主観的に感じることと混同している。こうした「前‐後の混同」(pre/post fallacy)に捕らわれているために、高次の情動や感情を拡大する実践をおこなうことなく、ただ、〔感覚領域の〕身体的実践だけを推奨するのである。

●複数段階間の議論
複数の段階をまたぐ論争は、めったに解決しない。大抵の場合、すべての陣営が、自分たちの主張を聞いてもらえない、自分たちの主張を正しく理解してもらえないと感じる。それゆえ、第二層の思考をおこなう人々は、どうすればこうした発達の螺旋を展開させることができるかを探し出すことが必要となる。それは、優しく誘いかけることであるかもしれないし、意図的に不協和を引き起こすことであるかもしれない。

スパイラル・ダイナミクスおよび発達論的研究一般によって示されているのは次の点である。多くの議論の根底にあるのは、どちらのほうが優れた客観的証拠を提示できるかということではなく、議論をおこなっている人々の主観がどの段階にあるかということなのである。

●「深さ」「高さ」「上昇」「下降」などの比喩表現について
こうした比喩表現のすべてが有用なものである。どの表現も、意識の異なる側面を照らし出しているからであり、意識そのものは、どのような概念によっても捉えきることができない


◆自己、パーソナリティ

●自己とは?

全体としての自己は
近接自己(proximate I):「私」「観察する自己
遠隔自己(distal I):「私の一部」「観察される自己」(自分が見たり知ったりすることのできる客観的な事柄。
究極の目撃者:「私‐私
の複合体である。

全体としての自己には多くのサブパーソナリティが含まれているため、全体としての自己は、一連の順序に従って段階的に発達するわけではない。だが、近接自己は、かなりの程度まで、一連の順序に従って、段階的に発達していく。
近くにある「私」が遠くにある「私」へと変わるとき、分離(あるいは抑圧)が生じていると言える。他方、近くにある「私」が遠くにある「私の一部」(distal me)へと変わるとき、超越が生じていると言える。

●サブパーソナリティ
サブパーソナリティは、ほとんどどの支点においても形成されうるものである。
・古代的なサブパーソナリティ(支点0および支点1)
・呪術的なサブパーソナリティ(支点2および支点3)
・神話的なサブパーソナリティ(支点3および支点4)
・合理的なサブパーソナリティ(支点5および支点6)
・魂のサブパーソナリティ(支点7および支点8)

こうしたさまざまなサブパーソナリティもまた、相対的に独立した形で発達していく。
こうした状態はその人の人格の中へと入り込み、数分間あるいは数時間のあいだ、その人の人格を乗っ取る。しかしその後、その状態は、やってきたのと同じくらいの速さで消え去っていく。こうして、その人は、普段の平均的な自己(かなり高次の段階の自己であるかもしれない)へと戻っていく。

人は10個以上のサブパーソナリティを抱えており、極めて多種多様な種類と段階の欲求防衛機制病理(境界例的なものから、神経症的なもの、実存的なもの、精神的/霊的なものまで)を示しうる。そしてそれゆえに、私たちは、さまざまな種類の心理療法から、何らかの効果を得ることができるのである。

サブパーソナリティとは、その健全な形態においては単に、さまざまな種類の機能的な自己が表現されたものであるに過ぎない。こうした機能的な自己(例:父という仮面、本能的な自己、達成主義的な自己)は、特定の心理社会的な状況をうまく乗り切るために用いられる。サブパーソナリティが問題になるのは、近接自己からの分離の程度が大きいときだけである。

意識の奥底に沈められたさまざまな仮面たちが──そしてそれらと一緒に切り離されたさまざまな道徳欲求世界観などが──地下でこっそりと活動するようになり、さらなる成長や発達を妨害してしまう。そのとき、こうした要素は、意識を構成する「隠れた主体」であり続ける。自己がこうした要素から脱同一化できなくなってしまうのである。そうなれば、こうしたサブパーソナリティは、痛ましい症状という形で、自らの存在を象徴的に伝え続けるのみとなる。ここでもまた、治癒を促進する触媒となるのは、こうしたサブパーソナリティに気づきを向け、それらを意識の対象にするということである。

それぞれのサブパーソナリティは、意識に対して、異なった仕方で影響を与える。前‐言語的なサブパーソナリティは、多くの場合、さまざまな衝動や、言葉にできないけれど何かに駆り立てられる感覚として現れる。言語的なサブパーソナリティは、声に出して述べるのであれ、心の中で思うだけであれ、さまざまな物語として現れる。超‐言語的なサブパーソナリティは、輝き高次の認識超越的な感情(無上の喜びから宇宙的な苦悶まで)などとして現れる。

たとえサブパーソナリティがどれほどたくさん存在していたとしても、そうしたすべての声を、何らかの形で一つにまとめて、そこに調和をもたらすことこそが、近接自己が果たすべき仕事である。

全スペクトラム型の心理療法家であれば、身体、影、仮面、自我、実存的自己、魂、スピリットのすべてをとりあげ、そのすべてに気づきを向けようと試みることが必要となる。

●自我は消えるか、保持されるか
自我が、個的な領域の自己と排他的に同一化することを表すのなら、高次の発達において自我は失われる。他方、自我が、慣習的な世界と関わるための機能的な自己を表すのであれば、疑いなく自我は保持される(多くの場合さらに強力なものとなる)。
自我の重要な働きの一つを、現実を客観的に見つめる能力にあると考えるならば、疑いなく、そうした意味での自我は保持される。
もし自我とは、心にそなわる統合の能力であると考えるならば、自我は保持される(そして強化される)。

●基本構造に関わる欲求と自己に関わる欲求
自己に関わる欲求のほとんどは移行的なもの、一時的なものであり、自己が特定の意識段階に位置するときにのみ働き続ける。
自己は、衝動的な欲求から、安全の欲求、順応への欲求、そしてやがては自律への欲求の段階へと移行していくが、以前の段階における欲求は、次の段階における欲求によって置き換えられる傾向にある
それゆえ、全体として見れば、ある人の「全体としての動機」を構成するのは、それまでに出現した基本構造に関わる欲求(例:食物への欲求、性への欲求、記号によるコミュニケーションへの欲求、神との交わりへの欲求)のすべてに、現在の段階における自己に関わる欲求(例:安全への欲求、所属への欲求、自尊心の欲求、自己超越の欲求)を加えたものである。後者は、近接自己が、基本となる特定の意識構造ないし意識段階と排他的に同一化することによって生じる。

●欲求・動因・動機づけと病理
さまざまな欲求必要〕が生じるのは、次のような理由による。
あらゆる構造は、同じような段階にある他の存在との間で、ある種の「関係的交換のシステム」を形成している。それぞれの段階に対応する「食べ物」が存在することになる。言い換えれば、食物についてのホロン階層──物質的な食物、情動的な食物、心的な食物、魂の食物──が存在するのである。物質的な欲求には、私たちがこの物質的宇宙とどのように関係し、どのように交換やりとり〕をおこなっているかが映し出されている。情動的な欲求には、私たちが他の情動的存在とどのように関係しているかが映し出されれている。
欲求には多種多様な種類や段階が存在するのは確かである。だが、あらゆる本物の欲求はすべて、ホロン(何らかの段階に位置する)が自らを存続させるために、他の存在との間にどんな相互関係を築く必要があるかを示している。

物質的な欲求には、食物・水・休める場所への欲求などが含まれる。
情動的な欲求には、私たちが他の情動的存在とどのように関係しているかが映し出されている。そこでは、情動的な温かさ、性的な親密性、気遣いなどを互いに交換することなどが重要となる。
心的な欲求には、私たちが他の心的存在とどのように関係しているかが映し出されている。私たちは、言葉によるコミュニケーションを通して、さまざまな記号を交換し合っているのである(例えば、独身の誓いと沈黙の誓いの両方を立てた修道僧たちが伝えているのは、他者と話をすることができないことのほうが、性交できないことよりも遥かに辛いということである。心的な欲求もまた、本物の欲求ないし動因であり、他者との関係的交換に基礎を置くものなのである)。
精神的/霊的な欲求には、私たちが究極の源ないし基底とどのように関係しているかが映し出されている。こうした究極の源ないし基底こそが、私たちの「分離した自己」に対して、意味や赦しや救いを与えてくれる(このような精神的/霊的な欲求が満たされないことは、ある種の「地獄」にいることに等しい)。

こうした欲求動機づけが押さえ込まれたり抑圧されたりすると、他者との関係的交換の在り方が歪められ、さまざまな病理──物質的な病理、情動的な病理、心的な病理、精神的/霊的な病理──が生じる。


◆スピリチュアリティ

●注意=無知が苦しみの根本原因
二元論的な収縮のプロセスこそが、何かに注意(attention)を向けるという働きを可能にする。あるものに注意を向けて、あるものを無視(ignore)することができるようになる。伝統によれば、この無知(ignorance)──すなわち、非二元の基底を忘却した注意の働き──こそが、あらゆる苦しみの根本的な原因なのである。

この注意の根本的な原因は元因の領域にあり、究極のハートの周りで自己収縮の作用をもたらし、究極の目撃者として、対象世界から切り離された純粋な究極的主体として出現することになる。

こうした「堕落」を反転させるためには、個人はまず目撃する能力を確立しなおさければならない。すなわち、注意を向ける能力平静でいる能力執着しない態度を強化するということであり、別の言い方をすれば、意識のあらゆる対象──身体、自我、魂のすべてを含む──と脱同一化するということである。そして次に、元因の目撃者そのものを──そして注意という働きの根本的な原因を──溶解させ、純粋な非二元の「一つの味」と合一することが必要なのである。


●スピリチュアリティの実践
本物のスピリチュアリティには何らかの実践が含まれている。
本物の精神的/霊的な実践であるならば、どんなものでも構わない。ただし、適切な資格をもった師で、かつ、自分に合っていると感じる人物を見つけることは必須である。
単に信念や考えを変えることだけを勧めている精神的/霊的な道に対しては、常に警戒しておこう。本物の精神性/霊性とは、単に今までとは異なる仕方で世界を変換〔翻訳〕するだけのものではなく、自分自身の意識そのものを変容させるものだからである。

・伝統的な「存在の大いなる連鎖」の4つの欠陥
1. 4つの象限が十分な規模で差異化〔区別〕されていない。
 意識とは、身体と関係のない単なる超越的な実体ではなく、客観的な事実文化的な背景社会の構造などに深く埋め込まれたものである
 必要なことは、大いなる連鎖を構成する垂直的な段階のそれぞれを、少なくとも4つの水平的な領域(志向的、行動的、文化的、社会的)へと差異化〔区別〕するということである。

2. 心の領域そのものを細分化する必要があるということであり、具体的に言えば、初期の発達を捉えなおすことが必要である。
 多くの場合、こうした前‐形式的な諸段階後‐形式的な諸段階(心霊段階や微細段階)が混同されていた。この「前‐後の混同」(pre/post fallacy)〔前‐超の虚偽〕という事態は、永遠の哲学のほとんどにおいて見受けられる。そのために、永遠の哲学には、真に目覚めた知恵だけでなく、かなりの量の迷信が含まれている

3. 人間発達における初期の前‐合理的な諸段階への十分な理解をもっていなかったために、精神病理〔心の病〕にはどのような種類のものが存在しているのかを認識できていなかった。

4. 進化(evolution)についての理解が欠けている。これもまた、ほぼ近代西洋によってのみ明らかにされた内容である。
 永遠の哲学において、永久に変わることのない元型〔原型〕であるとみなされてきたものは、むしろ、進化のプロセスを通して形成されてきた「習慣」として理解するほうがよい。それは「コスモスの記憶」(Kosmic memory)なのである。

●真に発達したシャーマンなら
たとえ呪術的な文化であっても、真に発達したシャーマンであれば、さまざまな後‐慣習的な能力を身につけ、超‐個的な領域を本物の形で体験し(大抵の場合は心霊の領域であったと思われるが、時には微細、もしかすると元因の領域も体験していたかもしれない)、自己愛的ではない後‐慣習的な構造によってそうした体験を解釈することは可能であった。
ほとんどの場合、文化における平均的な意識段階と最も発達した意識段階の両方が、進化のプロセスを通して次第に深くなっていく。
真に発達したシャーマンであれば、言葉のどのような意味においても「本物」のスピリチュアリティを実現することができたと思われる。
現在入手できる証拠によれば、典型的ないし一般的なシャーマンの旅は、呪術的な構造に基づいて、心霊領域を至高体験していた。

●体験は発達段階によって解釈が異なる
至高体験は、大抵の場合、その人が位置している発達段階に基づいて解釈される。超‐個的な領域そのものに含まれている内容は、低位の構造が抱えている限界によって、ろ過され、希釈され、時には歪められた形で受け取られる。
呪術的な段階に位置する人(他者の立場に身を置くことが困難)も、微細な段階の至高体験(例:光り輝く神と融合する体験)をすることがあり得るが、この場合、その人は、自分自身にだけ当てはまるものとして、その人の自我は大きく肥大化することになり、精神病的にさえなる。
他方、神話的な段階に位置する人も、微細な神と融合する体験をすることがあり得る。その人は原理主義者として、世界全体を自分たちの神へと改宗させようとするかもしれない。
人は、心霊段階への永続的な発達を遂げることによってのみ、心霊領域を歪められていない形で体験できる。ある領域を基本的な構造として確立することによってのみ、その領域を本物の形で体験することが可能になるのである。

●合一体験
ある「合一体験」がどの領域との合一によるものなのか──粗大領域なのか(自然神秘主義)、微細領域なのか(神性神秘主義)、元因領域なのか(無形神秘主義)、あるいは本物の非二元の意識なのか(あらゆる領域の形態と純粋な空性が結合する)──を見分ける最も容易な方法の一つは、その意識が、夢を見ている状態および夢のない深い眠りの状態においてどのような性質を示すものであるかに着目することである。
もし目覚めている状態での「一なる意識」についてのみ著者が語っているなら、それは大抵の場合、粗大領域における自然神秘主義に対応するものである。
もしその「一なる意識」が夢を見ている状態においても持続するものであるなら──すなわち、著者が明晰夢について語っていたり、外面における粗大な自然だけでなく内なる輝きとも合一することを強調していたりしたら──それは大抵の場合、微細領域における神性神秘主義に対応するものである。
もしその「一なる意識」が夢のない深い眠りの状態においても持続するものであるなら──すなわち、目覚めと夢見と深い眠りの3つの状態すべてにおいて完璧に現前している究極の〈自己〉の存在を著者が認識しているなら──それは大抵の場合、元因領域における無形神秘主義(トゥリーヤ)に対応するものである。
もしそこからさらに、究極の形なき〈自己〉があらゆる領域(粗大領域、微細領域、元因領域)の形態と一つであることを見出しているなら、それは純粋な非二元の意識(トゥリヤティタ)である。

自然神秘主義者、エコサイコロジーの支持者、新異教主義の見方をとる人々の多くが、粗大領域のみに目を向け、目覚めている状態における自然との合一こそが、私たちが実現しうる最も高次の合一であると考えている。だが、自然との合一とは、基本的には、主要な四種類の神秘的合一体験のうちの一つ目である。

それゆえ、例えば、エコサイコロジーにおいて重視されている「深い自己」(deep self)を、禅における真の自己、ゾクチェンにおけるアティ、ヴェーダンタ学派におけるブラフマン‐アートマンなどと同一視することはできない

●意識の発達において、微細領域を完全に迂回することは可能か?
微細領域詳細に探求することはある程度省略しうるということであり、微細領域そのものを回避できるということではない。例えば一般的に言って、微細領域には、夢を見ている状態が含まれる。そして、完全に悟りを開いた人物でさえ夢を見ることに変わりはないが、そうした人々は、気づきを保ちながら夢を見ることが知られている(明晰夢や透明夢)。こうした人物においては、微細領域が意識にとっての永続的な現実として確立されている。

元因および非二元の領域を強調する流派において──実際に起きているのは、微細領域の詳細な探求にはほとんど関わることなく、元因の認知のラインおよび非二元の認知のラインを強調するということである。もちろん、そうした場合であっても、微細領域は現前している

●ボディワーク
フェルト・ミーニング」(ユージン・ジェンドリン)、「エンドセプト」(endocept;内念。シルヴァーノ・アリエティ)など。
身体的な感覚と心的な考えの間にあって、両者を結びつけているものであり、自らの情動的な影を探求するための入り口となる。ジェンドリンの「フェルト・ミーニング」は、しばしば、ケンタウロス的な意識と混同されている。だが、それは基本的には、テュポーン〔身体自我〕の段階に対応する(心身の差異化以前のものであり、差異化以後のものではない)。こうした混同が起きるのは、ヴィジョン・ロジックによってもたらされる俯瞰的〔パノラマ的〕な意識のうち、その認知的な要素を過小評価していることによる。内念の段階に対応する意識も、当然ながら、ケンタウロス的な意識の一部分であるが、両者は同じものではない

1960年代および70年代、ボディセラピー(例えばロルフィング)が向かっているのは、ケンタウロス段階であるように思われたが、ボディセラピー〔身体的療法〕の大部分は、前‐形式的な段階に対応する物理的および情動的な身体を扱っている。

さまざまな種類の身体的な療法──例えばウエイトリフティング、栄養療法、ロルフィング〔構造的身体統合〕、ソマティック療法、身体的実践など──はすべて、(支点1の物理的身体および支点2の情動的身体を直接に扱っているという側面においては)土台として極めて重要なものである。だが、ケンタウロス段階における後‐形式的な統合を果たす(例:レヴィンジャーの自律的段階ないし統合的段階へと到達する)ためには、こうした土台だけでなく、ヴィジョン・ロジックをとり扱い、その働きを強化しなければならない。

同様に、「心と身体」を扱うセラピーであると述べている流派のほとんど──例えばバイオエナジェティックスやフォーカシングー──において扱われているのは、大部分、心身の差異化以前の状態であり、心身の差異化以後の状態、すなわち、真に統合的な段階に対応するものではない。

●ユング派の心理療法、元型
神話的な元型のほとんどは、具体操作的な段階におけるさまざまな役割ないし仮面である。こうした元型は前‐形式的なものであって、後‐形式的なものではないのである。本質的に言って、ここに超‐個的な発達段階に対応するものは存在していない。だからこそ、多くの意見とは裏腹に、こうした神話的な役割を意識化することは、大抵の場合、支点4の心理療法なのである。
もっとも、支点4の段階で生じうるさまざまな病理を取り除くことで、(他のあらゆる優れた心理療法と同じく)高次の超‐個的な発達は起こりやすくなる。

このような種類のユング派の心理療法においても、時々、超‐個的な気づきがもたらされることがある。しかしその理由は単に、こうしたさまざまな神話的役割を対象化するというプロセスが、多くの場合、目撃者の視点を活性化させるからであると思われる。

共通」であることや「集合的」であることは、「超‐個的」であることを必ずしも意味しない。

そうしたを最も適切な形で解釈するために必要なのは、後ろを向いて、抑圧された幼児期の記憶を探ることではなく(それは「自伝への還元」である)、外を向いて、その夢と類似した神話的な諸形式(神話学によって詳しく研究されている)を探るということである。そのことによって、人は、[人間の集合的な条件という]鏡のなかで、自らを脱‐個人化して捉えるようになり得るのである。

意識は、さまざまな神話的元型と親しくなる〔含む〕とともに、そうした神話的元型による支配から自由になる〔超える〕ことで、無意識からの不可解な力によって妨げられることなく、その旅を続けられるようになる。

 

続く


 

前回の続き)

 


●段階7:統合的段階(ターコイズ

ティール段階を含む)

全体論的な段階」「戦略家の段階」「システム的な段階

全体的であることを動機として活動する。

第一層:グリーンまでの段階。「欠乏欲求
第二層:統合的段階。「存在欲求

第一層の段階は、部分的で、視野が狭く、排他的で、互いに孤立しており、その主な動機は、不足欠乏の感覚。それに対して、第二層の段階は、包括的で、インクルーシブで、統合的であり、豊かさや充足の感覚に基づいて活動する。

「多様性の中の統一性」は確かに存在する
グリーンの多元主義までの全ての段階は、自分たちの真実ないし価値こそが、世界で唯一正しい真実ないし価値であると考えている。この新しく現れた意識段階においては、過去の全ての段階が、重要な役割を果たしているとみなされる。

たとえどんな議論であっても、一方の主張だけが完全に正しく、もう一方の主張は完全に間違っていると考えることはあまりない。両方の陣営が真実のかけらをもっているのであり、もっと大きな見方に至ることで、両方の主張をともに包含することは可能。さらにあなたは、あらゆる物事のあいだにつながりを見出し、全てのものが他の全てのものと深く関係していることを見抜く。

自尊心の欲求が、自己実現の欲求へと道を譲る。これは、個としての本質をもっと実現したいという欲求であり、あらゆる種類の驚くべき潜在能力が開花するようになる。創造性が増大し、意識が拡大し、もっと多くのものを包含できるようになり、もっと多くの愛と気遣いを表現できるようになる。

統合的段階において初めて、考えることと感じることはひとつにまとまり、密接に結びつくようになる。

地球規模で起きている全ての事柄に、自然と興味を抱くようになる。

今日、統合的段階の意識に到達しているのは、世界人口の5パーセント程度であると推計されている。

進化のプロセスには終わりがないことを踏まえると、未来は常に存在しており、さらに高次の全体性、さらに高次の意識や包括性は必ず現れてくる。そのいくつかの可能性については後で検討するが、少なくとも実際的な観点から言えば、ターコイズの統合的段階こそが、現代の人間が無理なく到達することのできる最も高次の段階である。

これよりも高次の段階に位置する人間は、人口全体の0.1パーセントにも満たない

 

◆マインドフルネス

マインドフルネスの実践としては、この全体性という感覚、あるいは全体性という見方に対して、意識を向けてみる。全てが一体になっているという感覚、全てが欠けることなく含まれているという感覚そのものに、意識を向けてみる。

全体性にいつでも気づけるようになると同時に、全体性の感覚とだけ排他的に同一化することもなくなる。言い換えれば、あなたは全体性を「超えて含む」ようになる。
全体性という現在の状態を意識の対象にすると、意識の中に隙間ないし空間が生まれるようになる。やがて、その隙間の中に、さらに高次の全体性が出現し、あなたの存在の中を滝のように流れていくようになる。

 

●段階8:超‐統合的段階(ホワイト

高次の諸段階は、まとめて「超‐統合的段階」ないし「第三層」の段階と呼ばれる。
 

先見の明をもった人々の主張、および、各種の研究によって示されている証拠から判断して、第三層には4つの主要な段階が存在すると考えられる。
パラ・マインドの段階(インディゴ)、メタ・マインドの段階(ヴァイオレット)、オーバーマインドの段階(ウルトラヴァイオレット)、スーパーマインドの段階(ホワイト)からなる。

◆ウエイキングアップの段階

・5つの状態
状態‐段階の具体的な例は世界中に見受けられるが、多くの場合、そこには次の5つの状態が含まれている。

1 目覚めている状態
2 夢を見ている状態
3 夢のない深い眠りの状態
4 空なる目撃者の状態
5 そして純粋な非‐二元の状態

あるいは、
1 粗大な状態(物質的ないし物理的な状態)
2 微細な状態
3 元因の状態(極めて微細な状態)
4 トゥリーヤの状態(目撃者の状態)
5 トゥリヤティタの状態(非‐二元の状態、一なる意識の状態)

・二重の重心
一人ひとりの個人は、2つの道のそれぞれにおいて、異なる成長度を示す。インテグラル理論では、「二重の重心」(dual center of gravity)という言葉で表現する。グローイング・アップとウェイキング・アップのそれぞれの道において、主要な自己が今どこに位置しているのかを教えてくれる。

もしあなたが意識の中に生じるものを対象として認識し始めると、あなたが現在同一化している意識構造(グローイング・アップの段階)を手放し始めるだけではなく、同時に、あなたが現在同一化している意識状態も手放し始める。両方から脱同一化することによって、2つの道において同時に、高次の段階へと自分自身を開くことになる。

統合的アプローチにおいて理想となる目標は、両方の道において最大限に発達すること。最も高次の意識構造(現時点ではターコイズの統合的段階)を、最も高次の意識状態(非二元の状態)において実現すること。

主体の一部となっていた全ての意識状態が客体になると、ビッグ・マインドが実現される。主体の一部となっていた全ての意識構造が客体になると、スーパーマインドが実現される。

・状態と段階
最後の2つの状態も「常に現前している」のであり、ただ、多くの人々がそれに気づいていないだけである。
各意識状態に気づきを保ちながら入ることで初めて、状態は「段階」(すなわち状態‐段階)になる
意識を鍛えることで、夢を見ている状態、夢のない深い眠りの状態、空なる目撃者の状態、非二元の一なる意識の状態の中に、目覚めたままで入ることができるようになる。こうして、完全なる「目覚めた意識」が実現される。

・元因の領域
瞑想の実践が深まっていくと、夢を見ている状態に対応する微細な意識状態から、さらに高次の状態‐段階──夢のない領域、形なき元因の領域──へと移行する。
夢のない深い眠りの状態の中にも、非常に微細な意識が存在していることに気づく。
こうした「形もなく、夢もない状態」において感じられるのは、極めて深い自己の感覚であるといえる。この〈自己〉は、どのような対象とも同一化しておらず、根本的に自由で、解放されている

こうした最も高次の意識状態において、私たちはただちに、そして直接に、根本的で究極的な「至高のアイデンティティ」ないし「真の自己」へと触れられるようになる。エクササイズを行うことで、これらが常に現前しているものであり、今ここ、この瞬間にも、完全に現前していることに気づく。必要なことはただ、それを指し示すことだけである。

・トゥリーヤ:究極の目撃者

◆マインドフルネス

今ここで、あなたが「自分(自己)」であると感じているものに、気づいてみる。そして、「自分」の特徴であると思われるものを、簡単に言葉にしてみる。究極の目撃者を感じるエクササイズは、この準備作業をうまく実行できているほど、遥かに効果的に機能する。


このプロセスには本当は「2つの自己」が関わっていることに、注意を向ける。ひとつは、あなたが対象〔客体〕として気づいている自己であり、今述べたようなさまざまな特徴をもっている。こうした特徴は全て、あなたが見ることのできる対象である。
 しかし実際には、もうひとつの自己が存在している。それは、こうした特徴そのものを見ている自己、こうした問いかけそのものを行っている自己。これこそが、本当の見る者であり、観察する自己であり、目撃者である。この〈自己〉こそが全てを見ているのであり、〈自己〉そのものを見ることは決してできない

あなたはやがて、絶対的な自由の感覚に、絶対的な心の広がりの感覚に気づき始める。そしてそこに、絶対的な空間、絶対的な空白地帯が存在していることに、気づき始める。あなたはもはや、どんな対象とも同一化しておらず、全ての対象を目撃している目撃者である

 

目撃しているということは、それから自由である。あなたの中に感情が生まれても、その感情に気づいているならば、あなたは感情そのものではない。あなたの中に思考が生まれても、その思考に気づいているならば、あなたは思考そのものではない。

慣習的な自己有限な自己は、どの段階においても現れるものであり、この自己ないし隠れた地図を通して、目撃者が世界を見つめている。マインドフルネスによってそうした主体を客体にすると、次の段階の小さな自己、次の段階の隠れた地図が出現するようになる。
 このプロセスが繰り返されると、最終的には、全ての主体が客体になり、あなたは全ての隠れた地図から脱同一化することになる。そこにあるのは、ただ、純粋な見る者、真の自己、目撃者、絶対的主観性、根源的な心の広がり、根源的な空性、純粋な自由だけである。

この広がりの感覚こそ、途切れることなく現前している純粋な「私は在る」の正体である。それは常に現前する意識であり、あなたが気づいていようといまいと、常に(夢のない深い眠りの中でさえも)そこにある。「私は在る」こそ、私たちが常に経験している不変の体験である。

「私は在る」には、時間はない。それは時間のない現在
むしろ、あらゆる時間が、「私は在る」の前に現れている。目撃者は、時間に気づいているがゆえに、時間からは自由である。
本当の「時間なき今」とは、何かをしなければ実現できないものではなく、どうやっても避けられないもの──それは、あなたが気づいているもの全てである。本当の今は、過去と現在と未来についての思考すべてを、永遠の現在、無‐時間の現在の中に包み込んでいる)。

あなたがマインドフルネスの実践を通して、何らかの対象に気づきを向けるとき、あなたは実際には、純粋な目撃者の中に安らいでいる。あなたはただ、時間なき今を目撃しているのであり、その中で、さまざまな出来事が現れたり消えたり、訪れたり過ぎ去ったりしている。

この純粋な「私は在る」の感覚、この「在る」というシンプルで直接的な感覚こそが、あなたが今ここで気づいているものである。

たとえどんな対象が──心の内側に、あるいは、外の世界に──生起したとしても、その対象とただちに脱同一化する。

全てを起こるがままに任せて、ただ、あなたの本性である純粋な鏡のような心の中に安らぎる。

・悟りと進化
悟りとは「空性と形態がひとつであることを認識すること」(言い換えれば、形なき神と個々の人間がひとつであることを認識すること)であるとされる。
このとき、空性(emptiness)そのものは進化しない。空性には形がなく、属性もない。変化していく部分もなければ、有限なものとして顕現している部分もなく、進化しうるものがない。空性がどの発達段階においても本質的に同じものであるのに対して、形態(form。発達や進化のプロセスにさらされている)の姿は、絶え間なき生成の世界であり、進化している。それぞれの発達段階によって全く異なる。
悟りとは、進化のその地点において現れている最も高次の意識構造と最も高次の意識状態の両方とひとつになることである。
この「悟り」は、2000年前の聖者が到達した悟りよりも、さらに豊かで、さらに多くの形態を含んでおり、さらに包括的なものである。
進化によって、悟りは以前よりも豊かにはなったが、以前よりも自由にはなっていない(=過去の聖者や賢者たちに然るべき地位を与えると同時に、進化という現象に対しても然るべき地位を与える)。

・トゥリヤティタ:非‐二元の一なる意識
対象を見つめながら、観察する自己、あるいは見る者を溶かしてしまう対象そのものに完全に意識を向けることによって、見ている者であるという感覚を完全に手放する。

あなたがそれを見ているのではない。あなたは存在しない。何ひとつない澄みきった意識の場の中で、ただ、対象が生起しているだけであり、見る者は存在していない

実際、「そこ」にある世界そのもの──宇宙全体──が、あなたの顔のこちら側で、あなたの内側で生起している。宇宙全体が、「ここ」で、すなわち、自分の頭があると思っていた場所で、生起している。

「自分」の感覚は、空間全体へと拡張されることになる。「そこ」にあると思っていた巨大な空間は、もはや、あなたと完全にひとつになっている。

チョギャム・トゥルンパはかつて、悟りとはどのように感じられるのかを、「空一面が青いパンケーキのようになり、頭の上に落ちてくる」ような体験だと説明した。

・特定の発達段階にいることと進化
たとえこうした一なる意識の状態に到達したとしても、あなたは特定の発達段階に位置し続ける
あなたは自分自身の隠れた地図によって、すなわち、自分自身の位置する発達段階の論理に基づいて、さまざまな体験を「解釈」することになる。

こうした「一なる意識」の状態、すなわち、空性と形態が結びついた状態は、基本的にどの発達段階においても体験できる。ただし、そのとき、あなたが実際に合一できるのは、自分が気づいている世界全体だけになる。それよりももっと深く包括的な形で世界と合一することは可能であるが、そんなことには思いもよらない)。そしてだからこそ、私たちは、この顕現した世界、絶えず進化している「形態」の世界について、そのさまざまな側面を学び続ける必要がある。
これは終わりのないプロセスである。すなわち、私たちが歩もうとしている道とは、今ここに完全に現前しようとする道でありながらも、同時に、決して終わりがなく、絶えず拡大していく悟りを実現しようとする道でもある。

・原初の回避、自己収縮
私たちの根底にある意識は、全てを抱擁し、全てを包含し、あまねく広がっているのであり、たとえどんな物事や出来事であっても、それを意識の外へと追いやってしまうことはない。

よく注意して観察してみると、私たちはあまりにも多くの場合、何らかのものを「見たくない」と感じている。
ちょっとした不快な身体感覚、不愉快な考え方、見るに堪えない光景──何であれ、そのまま受けとめるにはあまりにも不愉快であったり、苦痛であったりすると、私たちは避けようとする。たとえほんのわずかな後退であったとしても、私たちはそうしたものから引き下がろうとする。そこから目をそらし、顔を背け、離れようとする。
 しかし、この動き、この最初の小さな動きこそが、人類のあらゆる苦しみの根底にあるものである。私たちは、天国から地獄へと、たった一歩で転落する。
この「自己収縮」(self-contraction)こそが、文字通り、全ての苦しみを生み出している。

このとき、私たちの人生は、気づき(awareness)ではなく、注意(attention)によって展開していくようになる。
 気づきとは、開かれていて、自由で、完全にくつろいだ状態のなかで、生じるもの全てを包含することを意味している。気づきは、無時間の絶対的な「今」において作用するものであり、現在から現在、そして現在へと展開する。
 他方、注意においては、一部のみに焦点が当たり、意識は縮小し、〈全景画〉そのものに気づくことは決してない。注意は常に、全景画の中の特定の一部分のみに向けられる。

こうした原初の回避によって、究極のスピリットが、自分自身を次々に「収縮」ないし「縮小」させていくことになる。

・内化と進化
こうした下向きの運動は、「内化」(involution)と呼ばれている。いったん内化が起きると、今度は、スピリットへ戻ろうという上向きの運動、「進化」(evolution)として知られている現象が起こる。

もっとも、一人ひとりの個人は、たとえ進化のどの時点であっても、ウェイキング・アップの道を自ら進んでいき、この帰還の運動を自分自身のペースで完了させることができる

進化とは、単に内化のプロセスを巻き戻すだけのものではない(こうした見方においては、進化のなかで出現する全ての事柄は、内化のプロセスを通して既に生み出されていたものであり、私たちがそれを「忘却」しているだけだとされる。私たちは、気づきに満ちた進化のプロセスを通して、それを「思い出す」〔想起する〕だけである)。
そうではなく、進化とはそれ自体、極めて創造的な力(まさしく「スピリットの働き」)である。

存在と認識の諸段階のことを、「神の心の中にある永遠のイデア」のようなものと考える必要はない。
そうした段階は、進化それ自体によって創造されたもので、前の瞬間のものを絶えず「超えて含む」ことで創造されたものである。

◆ショーイングアップ(体現)の道

意識にそなわるさまざまな「視点」(perspective)にも気づきを向けることによって、もっと信頼に足る形で、そしてもっと最大限にまで、日々の生活の中に現前できるようになることを目指す。

・四象限
四象限という見方を包含することで、グローイング・アップとウェイキング・アップの両方のプロセスに、もっと具体的な中身を与えることができる。そして、グローイング・アップの諸段階やウェイキング・アップの諸段階に触れたときと同じように、ただこうした要素のことを知るだけで、私たちの中のそうした要素が活性化し、目覚め、動き出し、それ自身の成長と発達を始めることになる。

宇宙に顕現しているあらゆるのもの──原子よりも小さな粒子から、顕現したスピリットに至るまで──には、少なくとも4つの象限(=視点/領域)が、その元々の特性として、その存在そのものの性質として、そなわっている。たとえどんな領域であれ、十分に理解したいと思うなら、その4つの象限全てに対して意識を向けることが、その領域の現実の中に、十分に「姿を現す」ための方法である。

哲学者および精神的伝統が主張しているのは、主体客体の区別が生まれることで世界が出現したということ。インテグラル理論も同意するが、宇宙が本当に動き始めるためには、「単数と複数」、あるいは「個と集合」という区別が必要になる。もし主体と客体というただひとつの境界だけが存在するのであれば、両者は永遠にそれぞれの道を歩み続けるだけ。ひとつの巨大な主体が、ひとつの巨大な客体を見つめているというだけである。しかし実際には、主体と客体はどちらも、個という形態でも集合という形態でも存在することができる。それゆえ、ただひとつの境界が、数えきれないほど多くの境界へと分裂するのである。


・マネジメント論の4種類(4象限に対応)
1. X理論 2. Y理論 3. 文化マネジメント論 4. システム理論

・人間関係のマインドフルネス

・事実・真理と好みの区別
」の領域だけでなく、「私たち」、さらには「私」や「私たち」に関係している全ての事実=「それ」の領域に対しても、マインドフルネスを行う必要がある。

カップル療法で最初に伝えられることのひとつは、自分の感じたことや思ったことを、「事実」として、すなわち「それ(It)」の言語によって伝えるのではなく、「私(I)」の言語によって伝えることが大事だということ。二人ともが、自分自身の「私(I)」の意見でしかないものを、事実(「それ(It)」の主張)として扱っている。そして、自分自身の主観的な見方でしかないものを事実として主張している限り、二人が合意に至ることは決してない。

 

◆マインドフルネス

あなたがもっている何らかの「好み」に、意識を向けてみる。例えば、「私はチョコレート味のシェイクよりもバニラ味のシェイクが好き」というように。このとき、その「私(I)」の感覚(「バニラ味のほうが好き」)は、客観的な言葉で「バニラ味こそ最も優れた味である」と主張することとは──すなわち、普遍的に正しい「それ(It)」の主張として述べることとは──全く異なる。それゆえ、ここでは、そうした「好み」の感覚に意識を向けてみる。

両方の対象あなたの選択あなたの好み──これら3つの要素全てに、意識を向ける。

 

自分の選択とは、あくまでひとつの好み、1人称的な好みであって、3人称的な「それ(It)」、すなわち、事実や普遍的真理とは異なるものであるということが、明確に実感されるようになる。別の選択肢もそこに存在しているのであり、他の多くの人々は、そちらの選択肢をとるかもしれない。

事実、「それ(It)」の真理に出会ったときに、どのような思いや感情を抱くか?
 簡単な例を、思いつくだけ挙げてみる。「水は100度で沸騰する」「独身男性とは、結婚していない男性のことである」「月は満月になることがある」などなど・・・・・・。
 こうした事実に触れて、どのような感じか? こうした事実に対して、どんな反応を起こしたか? ほとんど何の願望も生じなければ、好き嫌いの選択をすることもなかったのでは?

この極めて異なる2つの領域──「私(I)」の好みと「それ(It)」の事実──に対して、最大限にマインドフルな〔気づきを保持した〕意識を向ける。

それに対して、「それ(It)」の事実というのは、事実の「如性」〔あるがまま〕を直接に認識することであり、そこに選択の余地はほとんどない。
 自分の視点が一方から他方へと切り替わる様子を、注意深く意識してみる。特に、自分が「事実」だと思っている内容をよく調べて、その中にどれほど多くの「好み」が混ざっているかを認識する。


私たちは、「事実」についての解決不可能な論争を続けることをやめて、互いに歩み寄るための議論を始めることができる(なお、この論争が解決不可能なのは、そこで問題になっている内容は実際には「事実」ではなく「好み」であり、それゆえ、どちらが正しいのかを確かめるための情報源が存在していないから)。


・「私」と「あなた」が「私たち」をつくる
集団を構成する一人ひとりの個人は、有機体を構成する原子や分子や細胞と同じような存在ではない。集団の中の一人ひとりは、自分よりも大きな「私(I)」の部分ではなく集合的な「私たち(We)」のメンバーである。

 

◆マインドフルネス

「あなた」と「私」という2つの領域の違いについて、マインドフルな意識を向けてみる。「私(I)」の感覚と、「あなた(You)」の感覚に対して、交互に気づきを向けてみる。
「あなた(You)」の領域は、私によっては全く制御できない。相手が何を考え、感じ、言おうとしているのか理解するためには、相手の立場に身を置くことが必要である。
もし本当に「あなた(You)」となるためには、その人が「私たち(We)」の一部にならなければならない、さもなければ、その人に話しかけることも、その人と意思疎通することも全くできないのである。
私たちは、相手そのものを愛しているというより、相手と一緒にいるときに感じられるさまざまな内容を愛している。私たちが直接に愛しているのは、「あなた(You)」というよりは、「私たち(We)」である。
「私たち(We)」の領域と「私(I)」の領域をどれほど明確に区別できているか注意を向ける。「私(I)」の領域に対して、数分間のマインドフルネスを行いる(「私‐私(I-I)」すなわち目撃者の視点へと移行することがあるかもしれない)。それから、「私たち(We)」の領域に意識を向ける。

2つ以上の「私(I)」〔1人称〕が一緒になって、ひとつの「私たち(We)」をつくるのであり、その元になっているのは、「あなた(You)」〔2人称〕や「それ(It)」〔3人称〕ではない。あなたは、2つの「私(I)」の両方に対して、本物の居場所を与えられているか? それとも、自分自身の「私(I)」が、その「私たち(We)」の中の大半を占めているか? 相手の「私(I)」の視点に立って、相手が「私たち(We)」の領域をどのように体験しているかを、想像してみる。それから、相手にとっての「私(I)」の領域と、相手にとっての「私たち(We)」の領域を、何度も行ったり来たりしてみる。


こうした「視点移動」のエクササイズこそ、人間関係の領域における最も中核をなす実践となる。

相手が異なる発達段階に位置していることに気づいたら、発達理論の地図を用いることで、相手の特徴特性、大切にしていそうな価値などを選び出す。
発達段階は、人を一方的に判断したり、順位づけしたりするために用いられるべきものではない(こうした態度は統合的アプローチを間違って用いている)。
発達の諸段階とは単に機能的なものであり、どの段階も、深さと全体性を無限に増大させていくこの果てなき道の途中に現れた、一時的な段階にすぎない。私たち一人ひとりは、ただ単にある段階に位置しているのであり、そこには、どんな価値判断も、どんな善悪も存在していない

人間関係についての本物のワークを行えるようになるためには、そもそもその前に、相手の視点に立てるようになっていなければならない。言い換えれば、相手の視点に立つことこそが、特定のスキル(例えば非暴力的コミュニケーション〔NVC〕)を学ぶことよりも、基本にあることである。

◆オープン・アップ 発達のさまざまなライン:多重知能を探求する

4つの象限を無意識的な、隠れた要素として、見えない場所で生起させるのではなく、それらを意識化し、あなたの本当の自己(さらには真如)にとっての明確な客体にする。

私たちに本当に与えられている選択肢とは、世界を「単純に捉えるか、複雑に捉えるか」ということではない。そうではなく、こうした領域を「無意識のままにとどめておくか、意識にのぼらせるか」ということである。

私たちがAQALアプローチ(統合的アプローチ)を通して実行しようとしていることは、最も少ない要素を用いて、最も広い範囲の現実を捉えるということ。それゆえ、そうして得られた地図は、かなり単純なものでありながら、同時に、極めて包括的でインクルーシブな性質をもつものになる

・どうすればインテグラル・マインドフルネスを自分の人生全体に活用することができるのか
統合的フレームワークに含まれる何らかの要素が人生の中に現れたときにはいつでも、そうした要素に対してマインドフルネスを実行する。

・知性と感情を結びつけること
どれほど深い感情を経験しうるかということは、どれほど深い認知的発達を達成しているかによって決まる。
感情は、ただそれ自身を感じることしかできない。相手の立場に身を置くこと、すなわち、相手の立場に立って、相手が見たり感じたりしている通りに世界を見たり感じたりすることは、認知的な活動、精神的な活動である。もし私たちが心の声あるいは身体に根ざした感情に従うだけであれば、私たちは、自己愛的に、自己中心的に、利己的に、自分の感情を体験するだけに終わる。これは非常に低いレベルの感情的知能(レッド段階ないしそれ以下の段階)であるといえる。必要なのは、単に「心の声に従う」ことによって知性をあざむくことではなく、知性を感情と結びつけることである。

〇各ライン(領域)へのマインドフルネス

◆マインドフルネス

それぞれのラインの名称とそのいくつかの特徴を聞いたときに、どんな思考や感情が生じるかに意識を向ける。

1.認知的知能へのマインドフルネス
 自分自身の意識そのものを意識してみる。

2.感情的知能へのマインドフルネス
 自分自身が感じていることを、ただ率直に感じてみる。

3.内省的知能へのマインドフルネス
 ただありのままに、自分自身の内側を見つめる。「内側を見る」という感覚そのものに、その感覚の全体に、注意を向ける。

4.身体的知能へのマインドフルネス
 自分自身の身体を直接に、ただちに感じてみる。

5.道徳的知能へのマインドフルネス
 あなたが最近、道徳的なジレンマ〔板挟み〕に直面したときのことを思い出する。つまり、「この状況で、自分はどうするのが正しいのだろう?」と自らに問いかけたときのことを思い出す。
正しいことをする」という感覚は、どんな見た目で、どんな感じのするものだろう?

6.精神的/霊的な知能へのマインドフルネス
 自分にとっての究極的な関心事は何であるかということを、極めて注意深く、考えてみる。自分がそれを求めているという感覚(大切に思っている感覚)に注意を向けてみる。

7.意志の力へのマインドフルネス
 時計の秒針を見つめて、15秒間、自分の心をそこに固定する。そうしながら、自分の心が秒針の動きを捉え続けている力を感じてみる。見失うことなく特定の領域に注意を向け続ける自分の能力に気づきを向ける。
何かに焦点を当てる能力には、非常に肯定的な側面も多くある。しかし同時に、「気づき」を「注意」へと変化させ「原初の回避」を引き起こすものでもある。それゆえ、この能力そのものを対象として認識することで、「原初の回避」そのものを認識することも容易になる。

8.自己のラインへのマインドフルネス
 「自己収縮」の感覚に気づきを向けてみる。今ここで、自分自身の中にある、ごく小さな緊張の感覚に気づいてみる。

自分がこれまで無視してきた領域、否定してきた領域、見落としていた領域、軽視していた領域を探し求めるようにする。そうした領域にこそ、あなたの才能が眠っているかもしれない。

 

目撃者が世界を見つめるときには、与えられた「形態」を通して世界を見つめることになる。私たちは、自分自身の本当の自己、純粋な目撃者を、現在生起している象限やレベルやラインやステートやタイプ(すなわちAQALの各要素)と、誤って同一視してしまう。インテグラル・マインドフルネスを通して、AQALと特定の形で同一化することを避けることができる。AQALマトリックスの各要素と排他的に同一化するとき、AQALは閉じ込められている牢獄の見取り図となる


◆進化とは
それぞれの瞬間は、前の瞬間を超えて含む。以前の主体客体にする。過去が現在に影響を及ぼしているのは、現在という瞬間がその直前の瞬間抱握、すなわち直前の瞬間に触れているから。それぞれの瞬間はさらに、新しさや創造性をわずかに加えている。ありとあらゆる領域において、進化は「超えて含む」という原則に基づいて、全く新しい要素を創発させ続けている。

インテグラル・マインドフルネスによって──ひとつひとつの瞬間を超えて含むことによって──進化のプロセスを動かしている創造的な力と同調できる。

〇歴史に存在が刻まれる場所

もっと全体的で、包括的で、意識的で、愛情深く、気遣いと包容力に満ちた存在になろうという傾向は、この宇宙そのものに内在的に組み込まれている

ある時期、世界のあらゆる場所の人々が、新たな発達段階への準備を整えて、神話的段階という同じ段階へと発達を始めるようになった。

発達のパターンないし「」も、どこかに蓄えられていた
タンパク質が特定の形態をとるようになると、世界中のどこで合成されるタンパク質も、それと同じ形態ないしパターンをつくろうとする。こうした「形」の情報は、何らかの場所に保存されているはずだが、タンパク質そのものの中には見当たらない。だとすれば、一体どこにあるのか?
この「どこか」は、しばしば「形態形成場」(morpho genetic field)と呼ばれる。あるいは阿頼耶識、はある種の貯蔵庫であり、宇宙のあらゆる場所で生まれた「形」が蓄えられている(神智学のアカシック・レコード)。

「超えて含む」のプロセスによって新しいホロンが出現すると、今度はその新しいホロンの形が、この驚くべきコスモスの貯蔵庫の中に、蓄積されることになる

現在という時代は、統合的な発達段階がちょうど形成されつつある。個々人の行動によって、統合的段階の具体的な形が定まっていき、そしていずれは、その後の全ての人間の中に現れる。後から取り消せない形で、意識の中に統合的な対象をつくり上げているのであり、こうした内面的対象は、コスモスの貯蔵庫へと即座に蓄積されて、津波のように押し寄せているこの新たな段階を、さらにほんの数センチだけ大きくすることになる。

あなたは文字通り、これから生まれてくる全ての人間の思考や行動の一部分になるのであり、そしてこのことは、この世界が終わるまで、続いていく。

第二層の統合的段階は、世界の人口全体の5パーセントにも満たない。また実際には統合的段階に位置している人々の大半が、自分の位置に気づいていない。残り95パーセントの人々は、第一層の段階に位置し、積極的に「反‐統合的」な態度を示す。

歴史的には、人口のおよそ10パーセントが最先端の段階に位置するようになると、その文化は「臨界点」に到達し、その段階の価値が、文化全体を通して、ある程度まで認知され、受容される

選択肢は次の二つ。こうした要素から意識的に影響を受けるようにするか、無意識的に影響を受けるままでいるか。気づきを向けるか、目を塞いで翻弄され続けるか。

◆在るものすべての全景画

・一と多
あなたは、疑いもなく、なぜ自分がコスモスの全ての生命と絶対的にひとつであるのか、しかし同時に、なぜその合一の在り方が自分に全く固有のものであるのかを理解するようになる。この独自性こそ、あなたがここにいる理由である。コスモスに関するその独自の視点、スピリットとしてのその独自の視点を、認識し、体現し、表現し、伝達するためにこそ、あなたはここにいる。あなたこそ、スピリットがおこなっている活動なのであり、この宇宙を顕現させるためには、あなたが必要だった

あなたが別のあなた(汝)に出会うとき、その出会いが偽りなく本物の形で起きているならば、そのとき、あなたの中にある「私=スピリット」が、相手の中にある「私=スピリット」と共鳴する
あなたの独自の視点は、相手の独自の視点と一緒になり、2つの視点は、高次の一体性へとおのずと導かれる。

ただひとつのスピリットが、途方もない数の個的ホロンにおいて、自らを顕現させている。それぞれのホロンは、スピリットが自らを顕現させる全く同じ空間ないし場所であるが、にもかかわらず、そこには、それぞれのホロンに固有の視点や角度が存在している。2つの「汝」のあいだに生じる相互理解こそ、本当の意味での「多様性の中の統一性」をもたらすものであり、そこでは、「統一性」(ただひとつのスピリット)と「多様性」(途方もない数の独自の視点)の両方が、極めて現実的なものとして、等しく尊重されることになる。

私たちは、互いを完成させるために互いを必要としている。なぜなら、他者に固有の視点とは、まさに言葉の通り、その人にしかない視点だから。

左下象限(We)とは、他者とのどんな特定のやりとりにも先立って存在しているものであり、そうした特定のやりとりは単に、この最初から存在している次元に、細かな内容を与えるにすぎない。
私という存在は必ず物理的な形態すなわち外面として具体的な形をとる。この外面という空間においてこそ、私は他の生命に出会い、目を向け、触れるのであり、他の生命の内面が、外面において具体的な行動として表現されていることを認識する。「私」と「汝」が出会うとき、私たちは、物理的な空間の中で、極めて具体的な表現を通して、互いに出会っている。これは単に、ひとつの頭脳が別の頭脳に話しかけているということではない。ひとつの心身複合体が、別の心身複合体と一緒になってダンスを踊っている

「一」(One)は私に自由をもたらし、「多」(Many)は私に豊かさをもたらする。

 


【感想】

本書は、比較的最近のウィルバーの思想(第4期から5期)に相当するものである。『無境界』に次ぐ入門書・実践の手引き書とも言えるもので、ウィルバーの著作群からすると、理論的側面よりも実践的側面に重きが置かれており、説明としては、冗長であるものの非常に分かりやすい。

 

『無境界』が、本書で言うところの、クリーニング・アップやウエイキング・アップを説いているのに対して、本書では、グローイング・アップに力を入れ、さらにショーイング・アップにも力を入れている。そして、最後は、進化の意義、そして私たちがこの地上に現れた意味、他者と出会う意味について半ば詩的な感じで訴えてくる。

 

マインドフルネスは、もともとは仏教におけるウエイキングアップ[覚醒]への道で用いられた手法で、最近は、宗教性を取り除いたうえで、精神的な安定、集中力の強化、心理療法の一部として世の中に広まっている。ウィルバーは、前著までで、各段階で適用できる心理療法を解説し、各段階で共通して使える方法として、気づき、意識を向けることと説いた。本書では、各段階で、どのようにマインドフルネスを適用するのか詳しく述べている。

 

ウィルバーのモデルが本当だなと実感するのは、この世には、頭が柔軟な人は誰一人と言っていいぐらいいないということだ。程度はある。めちゃくちゃ硬い人とそうでない人の違いはある。しかし、完全に柔軟な人はいない。必ず自分がいるレベルに固執する。常に盲点があるのだ。それを突かれれば、柔軟と思われている人も途端に譲らなくなるだろう。


【批判点】
まず文章が非常に冗長であり、あちこちの章で重複が多い。もう少しきちんと編集してくれていたら、このまとめを書く際に、短時間で済んだのにと思う。

・成長の道は最近発見された?
内容として本書のポイントは、「成長の道は、既存のスピリチュアルな道にはない。近代発見されたもの」というところ。

これは賛成しかねる。覚醒の道成長の道は、どのスピリチュアルな教えでも必ず出てくる。
成長の道は、通常、受容の増大、精神性の向上、徳の増大、慈悲の拡大などを含む。しばしば、成長の道の延長線上に覚醒があると信じる人が現れて、その間違いを指摘する人が現れる。
確かに、ウィルバーや発達論者が言うような階層化はしていないが、近代それが言語化されたからと言って過去において、その状態に到達していないというのはいささか傲慢に聞こえる。民主主義は不完全ではあるが古代からある。ここで書かれている統合段階は、古代でも発達は十分可能だと思う。テクノロジーや心理学の進歩と、この成長の段階は必ずしも因果関係や相関関係があるわけではない。古代でも社会は発達しており、グリーンの段階で説かれるヴィジョン・ロジック、多様な視点や人間の平等性は十分認識できる。平等性などは、王が奴隷に転落するところなどを見れば、人間本質的に同じだということは、古代人でもわかり切ったことである。

また統合段階に到達している人が5%とはどのような調査に基づくのだろうか。多くの研究者による膨大な調査による結果、この発達段階がまとめられたとするものの、どのような過程でそう判断したのか知りたいところである。

・悟ったのに発達レベルが低い人
それから、仏教僧が戦争を勧めているところをもって、発達のレベルが低いとするのは疑問符が付く。平和主義であったとしても、相手の暴力に対抗しなければ、敗北・不平等がやってくる。自分の国が、アンバー段階の国から攻撃されたときに、統合段階の人なら、どのような綺麗ごとを言うというのだろうか?
そして、現代の様々な運動も、真の平等主義に根差した運動ばかりではない。単なる自分たちの主義主張を通したいだけ=アンバー段階の人がほとんどだろう。
つまり、外面的な言動、活動では、その人の内面の発達段階を推し量ることはできないと思う。

とはいえ、ウイルバーの問題意識としては、スピリチュアルを説く人の幼稚さ、悟ったと言われる人の醜聞をどう説明するのか、その一方で、科学を盾に、またそうした醜聞を元に、スピリチュアリティを否定する人々に対してどう対抗するのか、というのがずっと初期のころからテーマとしてあったものだと思う。その意味で、意識の構造状態を分離することは意味がある。

・階層の絶対性
ウィルバーは階層性に絶対性を持ち込んでいる。AQAL自体を大きな地図として絶対視しているようにも見える。確かにある視点からすれば、非常に役に立つ、妥当な地図ではあるものの、役に立たない場面やかえって問題が出る場面もあるだろう。
ウィルバー自身は、自分の思想を、「真実が部分的(true but partial)」だと思っているのか、聞いてみたい。まさか、グリーンの段階と同じ間違いは犯していないと思いたいが。

 

・以前のモデルとの違い

以前のモデルでは、心霊微細元因非二元の段階をグリーン(ヴィジョン・ロジック)の後に置いていたが、新しいモデルでは、グリーンの上に、統合段階として、ティールターコイズを置き、微細、元因、非二元の段階は状態-段階として、別の軸になった。しかし、結局第三層で、意識の状態として構造からは切り離したはずの、心霊(インディゴ)、微細(ヴァイオレット)、元因(ウルトラ・ヴァイオレット)、非二元(ホワイト)を持ってきているところを見ると、この辺は整理できていないのだろう。最新のReligion Of Tomorrowでも同様のようだ。

【NLPや他の心理学との比較】
ウィルバーの著書でNLPに触れている個所はほとんどない。メソッドの一つとして名前が出ることがあるぐらいで、おそらくほぼ関心はないのだろう。学術界からはNLPはほとんど相手にされていない。一方、ウィルバーの書籍はアメリカの大学で教科書として用いられていたりするので、学術界からも強く評価されている。

にもかかわらずだが、共通点はそれなりにある。これについては別の著書のレビューの時に論じることにするが、NLPや他の心理療法で、このような成長レベルを定義することはあまりない。発達心理学は子供の成長のためであって、大人の成長のためではない。

ヴィジョン・ロジックにおける多くの視点は、知覚ポジションに該当する。

またそれぞれの成長段階における、隠れた地図とは、ビリーフ[思い込み・信念]のことであるから、他の心理療法では、段階分けなどせず、単にビリーフへの固着と言って階層化はしていない。
 

【タイトル】 インテグラル理論を体感する:統合的成長のためのマインドフルネス論
【著者】 ケン・ウイルバー
【ページ数】 424

 

 


【読むきっかけ】前回のレビューに続いて最近のケンウィルバーの思想・方法論を学ぼうと思い。

【対象】 インテグラル理論や、人間の成長・発達に興味がある人。ケン・ウィルバーの最近の見解を知りたい人。精神的に成長したいと思う人。
【評価:★5段階で】
 難易度:★★★★
 分かりやすさ:★★★★
 ユニークさ:★★★★
 お勧め度:★★★★

【要約・メモ】

 

◆概要

本書は、インテグラル理論の最も深い部分を体感することのできる深遠な実践書で、原著が出版されたのは2016年で、比較的最近のウィルバーの思想を反映している。

1. グローイング・アップ〔成長〕
2. ウエイキング・アップ〔目覚め〕
3. ショーイング・アップ〔体現〕
4. クリーニング・アップ〔浄化〕

の4つの道について説かれている。大半のページは、1と2について費やされ、2種類の成長を、インテグラル理論と結びつけて、マインドフルネスによって行う方法論が説かれる。ラインの発達の部分では、オープニング・アップ〔開放〕という言葉も使っている。

マインドフルネスの実践として以下のものが紹介されている。

・自分が今位置している発達段階へのマインドフルネス
・過去のそれぞれの発達段階に対するマインドフルネス(特に「中毒」と「アレルギー」に気づくこと)
目撃者(と非二元の意識)へのグラウンディング
人間関係におけるマインドフルネス
・主要な8つの発達領域へのマインドフルネス

テーマとしては、
主体を客体にする
全体性を増大させる
多様性の中の統一性を尊重する
・自分自身の存在と認識の一部でありながら今まで意識されていなかった側面に気づきを向ける
ことに焦点を当てている。



〇インテグラル理論
人間が生み出した事実上すべての分野──例えば科学、倫理、文学、経済、スピリチュアリティ──には、何らかの真理が含まれているが部分的であるtrue but partial)。

人間がどのように「解釈」を行うか。そして解釈こそが、人間の条件を核心において規定している極めて重要な真理。科学でさえも、解釈に依存する

私たちが発するべき問いとは、「どのアプローチが正しいのだろう?」ではなく、「こうした全てのアプローチが真実の一部分を与えているこの世界とは、どういうところなのだろう?」。ある程度までは「誰もが正しい」(everybody is right)と考える。インテグラル理論が探求する問いとは、「どれが正しいのだろう?」ではなく、「どうすれば全てをひとつに織り合わせられるのだろう?」。


〇二つのスピリチュアリティ

1. 「神話的‐字義的」な宗教
神話的な物語は字義通りに〔文字通りに〕受けとられ、一字一句まで正しいもの、絶対的に正しいものだとみなされる。

2. 意識を変容させるための心理的技術
 何らかの信念体系ではない。この発見のプロセスは、宗教よりも、遥かに心理学に近い。
 多くの場合、こうした内容は、秘教的な知として内密に(つまり、一般の大衆に広く公開されることなく)伝えられてきた。ほとんどの人が知っているのは、世界の大いなる宗教の「物語バージョン」でしかない。



◆グローイングアップとウエイキングアップ、構造と状態

私たちは、極めて「成長」している(知能が高度に発達)けれど、少しも「目覚め」ていない(悟りを得ていない)という人々をたくさん生み出してきた。

ウェイキング・アップ〔目覚め〕の道
 5万年以上前──最も初期のシャーマンや呪術医が現れた頃
 「大いなる解放」や「目覚め」「究極のアイデンティティ」「悟り」
 近代以前には世界中の至るところにあり、最も広く知れ渡っていた地図である。
 西洋のどんな発達モデルにも含まれていない。
 「スピリチュアルな体験」(Spiritual Experience)〔精神的/霊的な体験〕

グローイング・アップ〔成長〕の道
 およそ100年前近代西洋における発達心理学の研究者が発見
 すべての学派に6つから8つの基本的な段階
 どうすれば成長できるのかを教えてくれても、どうすれば目覚めることができるのかは教えてくれない。
 東洋ないし西洋のどんな瞑想システムにも、グローイング・アップの諸段階は含まれていない
 「スピリチュアルな知性」(Spiritual Intelligence)〔精神的/霊的な知能〕

グローイング・アップの諸段階は、何か特別なことを始める必要はなく、ただ成長を続けていけば、8つの段階が自然と開き出されていく。ただし、自分がその在り方を表現していたとしても、あなたはそのことに気づかない
他方、ウェイキング・アップの諸段階は、各段階に到達すれば、その存在は明らかになる。この道は相当な努力と献身が必要で、結果を得るまでに何年もの時間がかかる。

統合的アプローチ
 この両方の道が初めて結びつく。歴史上初めて、グローイング・アップとウェイキング・アップの道が結びつき、意識構造と意識状態、豊かさと自由、熟練した方便と究極の智慧が結びついた。


〇意識の構造

グローイング・アップの発達モデルで扱うのは「意識の構造」(structure of consciousness)。「構造」とは、私たちが自覚なく従っている隠れた地図のこと。全ての人に百パーセント現前しているが、ほとんどの人が、その存在に気づいていない。誰もがルールに従っているにもかかわらず、誰もそのルールのことを意識していない!
こうした隠れた地図を人類が発見したのは、比較的最近の出来事。


〇意識の状態
意識の構造と対になるのが、「意識の状態」(state of consciousness)。意識の状態は、心の内側を見つめるだけで、見つけることができる。

〇瞑想や宗教ではグローイングアップはできるとは限らない

標準的な瞑想によって「保証」されるのは、意識状態の重心がさらに高次の段階(状態‐段階)へと変化を始めるということであり、あなたの意識構造は、同じ段階にとどまり続けるかもしれない
意識構造という隠れた地図は、世界中の大いなる瞑想的伝統のどこを探しても、全く見出すことができない。

極めて熟達した瞑想の師であっても、未成熟な見解(例えば同性愛嫌悪、権威主義、性差別主義、厳格な階級主義)に呑みこまれてしまうことがある。そうした師たちは、無意識のままに、歪んだ隠れた地図に突き動かされる。東南アジアにおいては、極めて好戦的な仏教運動が起きている。仮に本物の非‐二元の一なる意識を実現していたとしても、その意識構造の発達が自民族中心的な段階にある。Zenat War(『禅と戦争──禅仏教は戦争に協力したか』)では、最も尊敬されている禅の師たちが、純粋に自民族中心的な観点から、軍国主義や権威主義、殺人や戦争、あるいは偏見に満ちた他の見方を推奨していたことが述べられている。こうした禅師たちの悟りは、単にその自民族中心的な偏見を強化しただけだった。

どれほど内省し、瞑想し、心の内側を探求しても、たとえ悟りに到達したとしても、意識構造は依然として「隠れた」まま、無意識のままであり続ける。目撃者は、あなたが位置している段階の地図を通して、世界を見つめ、解釈し続ける。

ある言語がどんな隠れた規則に従っているのかを明らかにするためには、その言語を使用している多数の人間を客観的に調査し、その共通の特徴を調べ、どんな規則が人々の発話を実際に支配しているのかを推定する必要がある。さもなければ全ての単語や文章や文字や段落を目撃するだけであって、どのような文法に従っているのかを明らかにすることはない。

あなたが隠れた地図について具体的に学んでそれを探し出そうとしない限り、隠れた地図についての指摘を受けない限り──そうすることで、隠れた地図を意図的にマインドフルネスの対象にし、隠れた主体を意識された客体にし、それから脱同一化し、それを手放すのでない限り──グローイング・アップの次の段階、次の自己、隠れた地図が現れることはない。



◆グローイングアップの段階

発達研究者は、それぞれの段階は実際に異なる世界に接している、あるいは異なる世界そのものとも主張する。

どの発達段階も「素晴らしい」が、後の段階ほど「素晴らしい」。後の段階ほど、包括的で、全体的で、意識的で、高潔で、気遣いに満ちている。ヘーゲルが述べたように、どの段階も適切だが、高次の段階になるほど「より適切」である。

・2種類の階層
1. 支配型の階層構造
2. 成長型の階層構造

支配型の階層構造は、カースト制度、犯罪組織における階層など抑圧的で威圧的なもの
成長型の階層構造は、全く逆で、高い階層に到達すればするほど、包括的になり、思いやりが深くなり、愛に満ちるようになる。高次の段階は低次の段階を抑圧しているわけではない。高次の段階は、低次の段階を包み込んでいる。



〇マインドフルネスの応用

マインドフルネス
 心と身体に働きかけるトレーニング技法
 ストレスを劇的に減少させられる。静けさや落ち着き、心身が調和しているという感覚が増大し、不安や落ち込みの感情は和らぎ、痛みに伴う不快感は少なくなり、血圧は下がり、学習能力やIQや創造性が高まる。
 意識の高次の状態を目覚めさせる。
 人生全体をフロー状態へと変えてくれる。
 楽な姿勢で座り、心を落ち着かせ、どんなことが生起しても、現在の瞬間に意識を向け続ける。本質的には、行うことはこれだけ。

インテグラル・マインドフルネス
 通常のマインドフルネスの方法に、インテグラル理論が与える革新的な洞察を組み合わせる。
 瞑想的伝統においては全く知られていなかった内容に対して意識を向ける
 隠れた地図を明らかにし、その地図をよりよいものへと更新するために活用する。
 さらに多くの領域において、フロー状態に到達。

・隠れた地図の意識化と脱同一化、新しい段階への同一化

キーガンによれば、発達とは「ある段階の主体が、次の段階の主体にとっての客体になる」こと。
発達とは包み込むことで、より包括的、統合的になっていく。それぞれの段階は、先行する段階を超えて含むことで、次から次へと全体的になっていく。

隠れた地図に一貫して意識を向け続けることで、地図は明るみに出る。無意識の地図が意識化され、意識のもとにさらけ出す。主体ではなく客体となり、意識的にコントロールできるものになる。ある段階の自己は、次の段階にとっての道具になる。古くて一貫性のない地図を取り除き、その代わりに、新しくてもっと正確な地図を用いることによって、人生のほとんどあらゆる領域において、ただちに、重大な変化が生じる。

それぞれの発達段階は、前の段階を超えて含む(transcend-and-include)。新たな発達段階は、前の段階を包み込むと同時に、前の段階には全く存在していなかった新たな内容を付け加えている。次の段階が自己にとっての新たな隠れた地図になり、自己はこの段階を通して世界を見るため、段階そのものを見ることはできない。また超えて含むため、これまでに生み出されてきた全ての意識構造にもアクセスすることができる。

どの発達段階も、たとえその歩みを加速させることはできても、飛ばしたり避けたりすることはできない
大切なことは、各段階に対応するさまざまな「人生の停留所」(stations of life)を用意すること。わずかな例外を除けば、そもそもある文化が根づくためには、あたかも樹木の年輪のように、有機的なプロセスを通して一歩一歩成長することが必要である。

私たちは、自分自身の現在の「重心」よりも少し高次の段階について理解しようと努力することで、そうした高次の段階へと実際に成長し発達することを促される。


〇中毒とアレルギー
超えて含むの「超える」の面に失敗すると、一部分が、前の段階から抜け出せず、その段階に「固着」し続けるために、さまざまな「中毒」が発達する。他方、もし「含む」の面に失敗、つまりその段階を否定し、新たな段階から切り離してしまうと、そうした認めてもらえない、望まれていない側面に対する「アレルギー」が発達する。
中毒を終わらせるには「超える」ことが必要であり、アレルギーを終わらせるには「含む」ことが必要。



〇インテグラル・マインドフルネスの4つの基本的な手順

1.明るみに出す(unearthing)
自分自身の隠れた地図を明るみに出す。そうした地図が実は自分の中に存在しており、自分の行動や生活の多くの部分を突き動かしていたということを、包み隠さずに認識する。

2.注意を向ける(noting)
そのためには、各発達段階にどんな特徴があるのかに注意を向ける。自らの考えや行動とそうした特徴を比較して、自分はどの段階が最も当てはまっているかを判断する。気をつけるべき点は、人生の異なる領域では、異なる段階が活性化されているかもしれないということ。

3.録画する(video taping)
自分が基本的にどの発達段階に位置しているのか──自らの隠れた地図がどこにあるのか──を突き止めることができたら、その地図を意識の中に保持する。それを思い、それを感じ、それを見つめる。その内容にマインドフルネスを適用する。
自分が心の中に隠し続けてきたその地図に、意識を集中させる。自分の人生の大部分を突き動かしてきた根本的な文法規則に、意識を向ける。

感覚を、あらゆる角度から、撮影する。それはどんな? どんな? 身体のどこに位置? (頭、胸、腹、あるいは別の場所、あるいは複数の場所の組み合わせ)どんな気持ちになる? どんな見た目で、どんな匂い? どんな出来事があると、願望が生じるか?

たとえどんな内容、対象に意識を向けるときでも、それに対して何かをする必要はない
ただ、意識を向けるということそれ自体のために、意識を向けている。
この「意識の中にただ保持しておく」という点こそが、本質。ただ現在に気づいているということ、これこそがマインドフルネスの目標なのであって、それ以上でも、それ以下でもない。

やがて、あなたは隠れた主体との同一化を緩め、そこから脱同一化できる。すると、意識の中に、隙間ないし空間が生まれて、そこに次の段階の自己、次の段階の地図が現れる。
意識の中に、隠れた主体をただ保持しておくことによって、主体は客体となる。主体となっている隠れた地図を、意識の対象にする。その地図を、直接に見つめる。その地図を通して自己や世界や人生を見つめるのではなく、その地図を見つめる。

4.手放す(Letting go)
多くの場合、あたかも広大な海のような自由と解放の感覚を感じ始める。

意識の中に生じる「思考なき隙間」。この隙間こそが、あらゆる瞑想体系にとっての究極の目標

・「隠れた地図」と「動かざるもの」へのマインドフルネス
あなたの意識の中には、明瞭で、開かれた空間が生じることになる。そして、この空間の中でこそ、次の発達段階が自発的に現れてくる。

ただ、目撃する意識の中に、安らいでいる。実際、「隠れた地図」へのマインドフルネスと、「動かざるもの」への短時間のマインドフルネスを交互に行うことは、よい考え。そして、この「動かざるもの」とは、どんな限界も境界もない、純粋な意識そのもの。

例えばオレンジ段階の場合、「達成への衝動」に意識を向け続けたら、その後、その意識を脱落させ、純粋な目撃作用そのもの、純粋な無境界の意識へと注意を向け直す(意識されている内容ではなく、意識そのものへと注意を向ける)。あなた自身が今感じている「私は在る」(I AM ness)という偽りなき感覚に、ただ注意を向ける。その純粋な「私は在る」の中に、ただ、安らいでいる。生まれることもなく、死ぬこともなく、限界もなく、境界もない、その感覚の中に、ただ、安らいでいる。

こうした交互の実践を行うことで、真の自己への同一化が強まるだけでなく、同時に、偽りの小さな自己を手放すことも促進される。
1日に1回、20分をかけて──地図へのマインドフルネスを5分、「私は在る」へのマインドフルネスを5分、それを2セット──行いる。ただし、最初に意識を向けるのは「私は在る」のほうにする。



〇各段階の特徴

●段階1:古代的段階(インフラレッド

精神分析における「口唇期」、マズローの欲求階層の「生理的欲求」(食物、暖かさ、水、休める場所などへの欲求)の段階。飢えを満たすより重要なことなど何もない。世界とは食べ物、あなたとは口

もしあなたがこの衝動を十分に「超えて含む」ことができていない、この段階に対する何らかの執着が残っており、口唇期への固着があるならば、この衝動が自分の中に生じたとき、あなたはこの衝動に一時的に「乗っ取られる」。あなたが衝動を所有しているのではなく、衝動があなたを所有している。この衝動が、あなたの意識ないしアイデンティティの中に、「隠れた主体」として残り続ける。あなたの一部が、この段階に同一化し続けている。

脱同一化するだけではなく、そうした欲求や衝動をもつことそのものをやめ、自分から切り離し、抑圧してしまうと、「食物アレルギー」過食症や拒食症として現れる。

 

◆マインドフルネス

「食物への欲求」を扱う。食べ物を食べたいという欲求に、今ここで、触れてみる。もしお腹がすいているのなら、その空腹感に意識を向ける。もしお腹がすいていなければ、空腹のときの感覚を思い出す。ここにあるのは、深い、とても深い渇望であり、極めて原始的な衝動

そうした衝動は今もあなたの主体の一部であり続けているのであり、だからこそ、マインドフルネスによって客体として見つめることで、それを実際に手放し、それと「脱同一化」することができる。それによって世界を見るのではなく、それを見るようになり、それに所有されるのではなく、それを所有する。

感じながら気づくこと──それが「マインドフル」であることの意味──によって、直接に、その衝動を感じる。

そして、気づくこと〔意識すること〕そのものにも、「超えて含む」という性格がある。ある対象に気づくということは、その対象を超えたところに進むが、それと同時に、その対象を含むこと、その対象に実際に「触れる」──ちょうど鏡がそこに映すものすべてに直接触れているように──ことでもある。

もしあなたが「飢えの衝動」を捨て去り、否定してしまっているなら、優しく、注意深く、しかし直接に、この衝動を探し出して、ただそれに、揺らぐことなく気づく。感じながら気づく意識のなかで、ただ、その衝動を保持する。すると、そうした衝動は、あなたの「友達の輪」の中へと戻ってくる。

 

 

●段階2:呪術的段階ないし部族的段階(マジェンタ

衝動的段階」「呪術的段階」「情動的‐性的段階

自分の情動や感情と、他者の情動や感情のあいだに、基本的な区別をつけ始める。どこまでが自分自身で、どこからが自分をとりまく環境なのかを、本当の意味で区別し始める。

この段階では、物事を空想に基づいて考える傾向があり、どんな願望魔法のような力によって実現することができると信じられている。2つ目は、周囲の環境から自分自身を分離させ始めたばかりであるため、まだ少し自己と環境が混ざり合ったまま。自分と外的環境の区別がつかず、外的環境にも人間のような性質があると認識されている。

・アニミズム
問題は、自然の全てに対して、人間的な特質を見出していること。これは人間以外のものを「擬人化」する呪術的な思考にすぎない。現在でも、迷信や呪術的思考に基づく行動として、成人の中に現れている。

最近のスピリチュアルなアプローチ(例えば『ザ・シークレット』や『超次元の成功法則』)にも、呪術的な要素が大量に含まれている。そしてこうした要素は、私たちの中の自己中心的な側面、すなわち、自分の力を拡大したいという欲求に訴えかけてくる。

・本物の超常的能力
こうした幼児期の「ことばの魔法」は、本物の超常的能力(本物の超感覚的知覚(ESP)や予知や念力)とは全く異なる。空想による呪術と、本物の心霊的な能力には大きな違いがある。

・自己中心的な特別性と宇宙中心的な特別性
今ここでとりあげているのは、こうした特別性の幼稚な形態、自己愛的で自分本位で自己中心的な形態にすぎない。この特別性は、他者には同じような特別性はそなわっていない──私だけが特別!──と考えることによって成立している。他方、成熟した形態の特別性においては、あらゆる生命に「大いなる完全性」が内在している。これは自己中心的な特別性ではなく、宇宙中心的な特別性である。

一方、「私は決してそんなことは考えない!」というとき、呪術的な考えは「抑圧」され、無意識の奥底へと追放されて、大抵の場合、他の人々へと「投影」されるようになる──突如として、世の中の多くの人々が、馬鹿げた呪術的見解にとらわれているように思えてくる。そうなると、ありとあらゆるところに、呪術的な見解が現れ始める

 

◆マインドフルネス

あなたには、自分の力を拡大したいという動機がどれほど渦巻いているか?

自分が特別な存在であるという感覚に、じっと意識を向ける。

自分が世界に名を馳せているという感覚、その純粋な感覚を、意識の中に保持する。

 


●段階3:呪術‐神話的段階(レッド

自己防衛的段階」「安全の段階」「安心の段階」「力の段階」「日和見主義的段階

自分という存在がとてもか弱い存在であることを明確に意識するようになる。そして、危険がなく安全であるかどうか、自分を守るにはどうすればよいか心配し始める。それゆえ、この段階の自己は、さまざまな「力への衝動」を発達させる。

この段階の自己はまだ自己中心的で自分本位であるけれど、それと同時に、どうすれば力を確保できるかということで頭が一杯。この段階の在り方が不健全な形で成人まで残り続けると、犯罪行為を犯すことや、道徳的にひどく堕落した行動をとることも少なくない。この段階では、人々の行動は、力への衝動によって支配されている。

この段階の不健全なバージョンの例は、さまざまな犯罪組織、マフィア型の組織、腐敗した政府などに大量に見つけ出すことができる。世界とは適者生存の場所であり、最も大きく最も強い者こそが勝利する

こうした段階ではまだ、文字通り「他者の立場に身を置く」ことができない
私たちのほとんどは、こうした能力を、人間に生まれつきそなわっているものだと考えている。しかし実際には、相手が感じていることを本当に感じる能力や、相手の立場に立って物事を見る能力は、成長や発達を通して新しく出現する〔創発する〕特性である。

子どもは自己中心的であることを自ら選んだのではなく、それ以外に選択肢をもっていないだけ。他者の立場に身を置くという能力は、次の段階であるアンバー段階まで現れてこない。

このレッドの段階ではまだ、自分が全てであり、支配者であり、自分と自分の願望こそが最上位に位置づけられている──「よこせ/渡しなさい」と「俺のものだ/私のものよ」が、その行動原則。

そうした人々の隠れた地図ないし文法では、他者がそこにいるということを本当の意味で認識することができない。

呪術的であるか神話的であるかを決めるのは、主に、奇跡を起こす力の源がどこにあるかという点。呪術的段階においては、奇跡を生じさせる能力は自分自身の中にある。

歴史的に見ると、神話的段階が現れ始める頃までには、人類は、自分たちには本当は呪術を使う能力がないということを理解し始める。呪術を使える〔奇跡を起こせる〕のは、自分たちではなく、超自然的で、超越的で、神話的な存在者たち──神、女神、スピリット〔精神/霊〕。それゆえ、どんな儀式祈りや行動がスピリットを喜ばせることができるかである。

・この段階の中毒とアレルギー
力への中毒」(power addiction)
 自分自身の力をあらゆる形で見せつけることに夢中になる。

力へのアレルギー」(power allergy)
 自分自身の力を抑圧し、他の人々へと投影しているために、無力で意志の弱いママっ子やパパっ子になってしまう。このとき、力と思われるものは何でも、他の誰かに、あるいは他のすべての人に委ねてしまっているために、やがて、世界全体があなたをコントロールしようとしているように感じられてくる
 

◆マインドフルネス

人々に抑制なく力を行使することができるという感覚人々を思いのままに動かすことができるという感覚、自分が全ての主導権を握っているという純粋な感覚に対して、できるだけ直接に、ただ意識を向けてみる。あなたが全てを支配している!

こうした願望を、あらゆる角度から、ありのままに録画する。こうした感情衝動欲求に隅から隅まで親しくなれるまで、録画を続ける。隠れた主体としてあったそうした願望を、意識の客体にし、そのまま、揺らぐことなく、保持し続ける。それを通して世界を見たり感じたりするのではなく、それを対象として見る。

力への衝動が生じるたびに、それを「超えて含む」ようにする。直接に、ただちに、全神経を集中させ、それに意識を向ける。

力への過剰な衝動は、しばしば、私たちの心の中に「内なる批判者」あるいは「内なる支配者」として現れる。

支配者というサブパーソナリティ──に触れるためのひとつの方法は、ボイス・ダイアログと呼ばれる手法を実践すること。あなたの通常の自己と、あなたの中にいる支配者に話をさせ、その「内なる対話」の内容を書き留める

 ...内なる支配者が答える。「人生の全てを思い通りに動かしたいんだ」

こうした内なる批判者ないし支配者は、多かれ少なかれ、ほとんど全ての人の中に存在している。多くの場合、こうした声は、「投影」の逆である「取り入れ」という作用によって、過去に形成されたもの。
取り入れにおいては、本当は他の人々の一部であるもの──例えば他の人々の意見、批判、価値判断など──が自分の中へと取り込まれて、あたかも自分の一部であるかのようにみなされる。
ここではただ、内なる批判者〔批評家〕の存在に意識を向ける。隠れた主体であった内なる批判者を、意識の客体にする。

必要なことはただ、感じながら気づく意識によって、こうした隠れた主体を意識の客体にし、そして、途方もない悪影響を与え続けてきた自分の中のサブパーソナリティと、根本から脱同一化すること。

 


●段階4:神話的段階ないし伝統的段階(アンバー

順応的段階」「神話的‐メンバーシップ的段階」「外交官の段階」「所属の段階

この段階になると、自己は実際に他者の立場に身を置くことができるようになる。そのため、自己のアイデンティティは、自分自身から、自分の所属するさまざまな集団──例えば家族、氏族、部族、民族/国家、宗教、政党など──へと拡大することになる。

「自分中心」の見方から、「自分たち中心」ないし「集団中心」の見方へと切り替わる地点。これは非常に重要な変化。

他者の役割を引き受けることができるが、同時に、そうした役割の中に捕らわれてしまう。こうした見方は、よく「正しかろうと間違っていようと我が祖国」「正しかろうと間違っていようと我が宗教」あるいは「法と秩序」という言葉で表現される。
この段階では、ルール〔規則〕を厳格に順守することは極めて重要であり、歴史的には、かなり野蛮なやり方でルールが強制されることもあった。

集団への所属を特別に重視することは、この段階の特徴的な在り方である。
もしあなたが絶対的な信念、全くもって完全に疑う余地のない考えをもっているならば、この段階の在り方が活性化されている可能性がある。
もしある宗教が原理主義的な宗教であるなら、その宗教は主に、この絶対主義的な段階(神話的‐字義的な段階、アンバーの段階)の論理に基づいて形成されている。
もしある考えが、熱心に、絶対的に信奉されており、たとえ証拠があろうとなかろうと、文字通り正しい絶対的な真実であると思われているならば、そこには原理主義が生じている

もしあなたがこの段階のかなりの部分を隠れた地図として利用しており、人生の多くの領域がそうした隠れた地図によって方向づけられているなら、おそらく、マインドフルネス瞑想を実践する態度そのものの中にも、この段階の特徴が現れる
手順を大切にし、あらかじめ定められた方法を尊重し、その性質や方法を変えることなく、一連のルールに基づいて、安定して、継続的に、決まりきった実践をおこなっていく。「このアプローチこそがスピリチュアリティに対する唯一の正しいアプローチである」とさえ考え始める。実際、かなり高次の段階に位置している多くの人々が、何らかの実践や考え方によって自分の人生に素晴らしい影響がもたらされると、こうした絶対主義的な段階へと「退行」する。本物の「熱狂的信者」になり、そうした実践や考え方に対して、原理主義的な態度をとり始める。マインドフルネス瞑想のトレーニングも、例外ではない。現に、マインドフルネスの師の多くは「マインドフルネス原理主義者」であり、この方法が、そしてこの方法だけが、全ての究極的な問いに対して究極的な答えを与えてくれるものだと確信している。

科学者も、最初のうちは、科学に対して非常に合理的で客観的な見方をもっているが、徐々に、科学が自分にとっての「宗教」になってしまう。実際、典型的な科学者が絶対的に正しいと考えている見解のうち、かなりの見解は単なる神話であり、それを支持する証拠は全く存在していない
例えば「宇宙には創造性もなければ意識もない」「生命とは完全にでたらめなプロセスであり、どんな目的も方向性もありはしない」「現実とは全て、ただの物質である原子(あるいは素粒子)が配置を変えただけのものにすぎない」といったものを挙げることができる。しかし、どの考えについても、それを支持する証拠を全くもっていない。
こうした人々は、科学それ自身に対しても科学的な証拠が必要であるということを忘れてしまっている。

 

◆マインドフルネス

もしあなたの中に、大なり小なり、この順応的な段階の特性──例えば、集団に溶け込み、大きく目立つことも他の人と大きく異なったりすることもなく、周りから好かれたりよく思われたりしたいという願望があるなら、そうした考えを、ただ、意識の中に保持する。対象として見つめる。
そして、そうすると何が起こるかを観察する。
もし、そうした信念が恒久不変の価値に基づくものであれば、そうした信念はあなたの意識の中に残り続ける。しかし、もしそれが単に特定の発達段階への固着に基づくものであるならば、やがてその段階が消失し、次の段階へと置き換わるとき、あなたの価値はもっと広大で包括的なものへ。

自分が絶対主義的ないし原理主義的に物事を考えていると思われる領域に、注意を向ける。自分が正しいのだという感覚、絶対的に正しいのだという感覚に対して、意識を集中させる。
あなたが最近、物事に正しく対処することに成功し、上機嫌になり、「それ見たことか!」「だから言ったでしょう?」と言いたくなったときのことを思い浮かべる。あなたが正しく、そして他の人もみなあなたが正しいことを知っているということの嬉しさに、意識を向ける。

次に、こうした思考や態度に、そして、「私が正しい」という感覚に意識を向ける。マインドフルな気づきを与えながら、それを意識の中に保持する。それをあらゆる角度から見つめる。それはどれくらい大きい? どんな? 身体のどのあたり? (頭、胸、腹)そうした考え方をするとき、どんな感じか? どんなよいことがあるか?

今度は逆に、自分が間違っていると指摘されたときのことを思い浮かべる──特に、何らかの集団の中で、誰もがあなたに目を向け、誰もがあなたが間違っていることを知っているという状況を、思い浮かべてみる。私が正しいという感覚だけでなく、「私が間違っている」という感覚も。

そしてこのとき、「正しくなければならない」ために、自分がどんな行動を始めるのかに、注意を向けてみる。

正しくありたい、間違っていたくはないという隠れた価値システムが存在することに、注意を向けてみる。こうした偽物の文法規則が、あなたの行動を支配していることに、注意を向けてみる。

・この段階の2つ目の主要な特徴
1. 集団に所属しているという感覚
2. 「私たち」を形成しているという感覚

多くの場合、順応的な性格。この段階になると、2人称の視点をとれるようになるため、自己意識は拡大し、自己のアイデンティティは、自己中心的な「私(I)」から、自集団中心的な「私たち(We)」へと変化。この「私たち」という感覚に意識を向けてみる。

何らかの「私たち」の感覚、何らかの「私たち性」(we-ness)を共有している。そして、この「私たち性」こそが、内側から、その集団をまとめている。

自分がその集団と一緒にいると──例えば休みの日(感謝祭やクリスマスなど)に家族と集まっていると──どんなふうに感じるかを、今ここで体感してみる。家族がつくる「私たち」の感覚に、意識を向ける。

もしある集団の「私たち性」に意識を向けることが難しいなら、それは、あなたが内面的にその集団とあまりにも同一化しすぎているためである。それゆえ、その感覚を意識の対象にすることは、ますます重要な課題である。

あなたが自分自身の意思で参加した何らかの集団、何らかの「私たち」を思い浮かべる。そして、自分がなぜその集団に参加したのかということに、注意を向ける。

ほとんどの場合、あなたが重要だと考えている事柄や、強い思い入れを抱いている事柄が、その理由となっている。
それゆえに、いともたやすく、そうした思いや考えに対する絶対主義的原理主義的な態度に陥ってしまう。

この2つの価値をひとまとまりの感覚として感じてみる。要するに、あなたは、絶対的に正しい集団の一員。主体となっているこの強烈な感覚を、意識の対象にする。
 絶対的に正しいという感覚と、集団に所属しているという感覚を、意識の中に保ち続けて、まずは別々に、そして今度は、一緒に感じる。

 

●段階5:合理的段階ないし近代的段階(オレンジ

理性の段階」「合理性の段階」「形式操作の段階」「良心の段階」「達成の段階」「優秀さの段階」「自尊心の段階

私たちのアイデンティティは、ローカルで自集団中心的なものから、グローバルで世界中心的なものへと拡大する。

具体操作」と呼ばれる形態の意識から、「形式操作」(考えることそのものについて考える能力)と呼ばれる形態の意識へと移行。思考はついに思考そのものに気づけるようになり、内省的で良心的で普遍的なアイデンティティ──世界市民としてのアイデンティティ──をもつことが可能になる。

この段階5において初めて、人間としての普遍的な権利というテーマが前面に現れてくる。

自尊心の欲求がこの段階で現れるのは、3人称の視点によって、いわば自分自身から一歩引き下がり、自分を客観的に評価することが可能になるから。できるだけ肯定的な評価を確立したいと思うのは自然なことであり、そこに自尊心への欲求が現れる。
優秀であること、成果を出すこと、実績を挙げること、目標を達成すること、進歩することなどへの衝動も現れるようなる。

こうして、マズローの欲求階層理論で言えば、生理的欲求(インフラレッドおよびマジェンタ)、安全と自己防衛と力の欲求(レッド)、所属と順応の欲求(アンバー)、そして自尊心の欲求(オレンジ)までを見てきたことになる。

確かにこの段階は、アイデンティティが世界中心的なものへと拡大する段階だが、それと同時に、本当の意味での「個人性」が現れる段階でもある。前の段階における順応的‐集団主義的な役割から抜け出して、自由に自己内省を行える。自集団中心的な順応型人間を超えた先にこそ、世界中心的な個人型人間は現れる。

・歴史的な時間の認識
3人称の視点によって、現在という瞬間の外側に立てるようになり、歴史的な時間の流れを意識することができる。

神話的な時間は、具体的であり、自然の変化と結びついており、冬を超えるとまた春が訪れるように、終わることなく、何度も、何度も、何度も周りめぐり、永遠に繰り返されて、どこか別の場所に行くことは決してない。

3人称の視点という驚くべき能力が現れたことで、歴史的な時間そのものが新しく出現し、物事を改善することは可能であるという見方が生まれ、現在の状態がただ永遠に繰り返されるだけではないことが認識されるようになった。
そしてそれにともなって、成果実績進歩優秀さを求める衝動も現れる。

この時代を「理性と革命の時代」と呼ぶ。
まず、理性(「あたかも~のように」(as if)および「もし~だったらどうなるだろう」(what if)という思考を可能にする)によって、現在とは別の現実を心の中に思い描くことが可能になる。

突如として、集団に溶け込んでいたい、他の人と同じでありたいという強力な願望が衰退し始め、代わりに、周りよりも目立った存在でありたい、他の人と異なっていたいという強力な願望が現れ始める──集団への順応を重視する段階から、もっと根本的に個人を重視する段階への変化が起き始める。
 

◆マインドフルネス

合理的近代的達成主義的な心理を多くもっているなら、あなたは、目標を達成したい、優秀でありたいという衝動に強く突き動かされながら、マインドフルネス瞑想を始めるかもしれない。

マジェンタ段階での願望とは、今すぐに衝動を満足させること。レッド段階では、力への願望が生じる。そしてアンバー段階では、何らかの絶対的コミュニティに所属していたいという願望、あるいは、神から愛されていたいという願望。オレンジ段階になると、優秀であることや、何かを達成することそのものに、意識の焦点が当たる。

もっと多くのものを手に入れたい、もっと優れたことを成し遂げたい、もっと遠くまで進みたいという願望そのものに、意識を向けてみる。そうした願望を、できるだけ強烈に、感じる。そして、あなた自身がついに目標を達成したところを、想像してみる。

 

●段階6:多元的段階ないし後─近代的段階(グリーン

多元的段階」「後‐近代的段階」「相対主義的段階」「感受性豊かな段階」「個人主義的段階」「多文化的段階

4人称の視点とは、3人称の視点(例えば科学)そのものを内省の対象にし、批判できる能力のことを意味。そしてこの能力は、多数の異なる見方を、そして多元的な見方を生み出すことができる。

・「脱構築」と呼ばれる思想運動
過去の諸段階そのものを内省の対象とし、批判し、特にその「普遍性」を──根本的な限界や部分性を指摘する
ポストモダニズムはその極端に走り、深刻な自己矛盾を引き起こす。

相対主義」に陥り、世界には多様なアプローチだけが存在し、普遍的なアプローチ、全ての人に当てはまる「大きな地図」などは絶対に存在せず、どんな考えも、特定の地域だけに通用する、文化的に構築されたものにすぎないと考える。

あらゆる知は文脈に縛られており、しかも文脈は無限に広がっているので、知とは、私たちが物事をどう解釈するかによって変わってくる。

問題は、こうした主張そのものが、単に文化的に構築されたものではなく、多元的な解釈のうちの単なるひとつでもなく、全ての、人々、文化、地域、時代において絶対的に当てはまる真実であると考えられていること。要するに、普遍的な真実など存在しないということを、普遍的な真実として主張している

・アンバー、オレンジ、グリーンの価値観の衝突
文化戦争とは、伝統的で宗教的な価値観と、近代的で科学的な価値観と、後‐近代的で多文化的な価値観のあいだの闘争のこと。

宗教的原理主義者たちは、科学的な証拠(例えば進化の証拠)を認めず、聖書に示される神の真実を受け入れる。
科学者たちは、宗教的な真実を認めず、それは子どもじみた神話にすぎないと考える。
ポストモダンの思想家たちは、どちらの真実も認めない。どちらも社会的に構築されたものであり、どちらも同じように虚構であると考えている。

グリーンの多元主義が目指しているのは、こうしたものをすべて作り替えること、正しいものに置き換えること。純粋な平等性と相互協力の精神に基づいており、どのような順位づけも、どのような階層的判断も存在しない社会こそが、目指すべき理想。

さらに、グリーン段階の新たなアプローチは、抽象的な合理性や論理ではなく感情に基づくものであり、頭ではなく心から真っすぐに表現されたもの。心こそが全ての真実の土台であり、どのような真実も体現〔身体化〕されなければならない(思考ではなく感情に根を張らなければならない)。

レッドは、世界を食う者と食われる者に分割し、自分のことだけを助けてくれる相手を好む。ここには、平等性は全くない。
アンバーの原理主義は、世界を救われる者と地獄に落ちる者に分割し、唯一の救世主を受け容れる人々だけを大切にする。異教徒は地獄行きであり、真の信仰者だけが平等。
オレンジは、世界を勝者と敗者に分割し、物事を達成すること、実績を挙げること、優秀であることを何より重視。こうした基準は、どれも平等ではない。
グリーンだけが、全ての人の平等性を何より大切にする。

グリーンの段階は、それ以前の段階よりも遥かに重要なものである。この段階に到達してこそ、本当の意味で平等性を大切にできるのであり、そのためには発達することが必要となる

 

 

◆マインドフルネス

相対主義的な見方がなぜ自己矛盾しているのかという点に意識を向ける必要がある。実際、さまざまな社会哲学者たちが、こうした見方は「遂行的矛盾」(performative contradiction)に陥っていると強く批判してきた。遂行的矛盾とは、自分が不可能ないし不道徳であると主張していることを、自分自身で実際におこなってしまっていること。

判断をしてはいけないという判断をしており、順位づけをしてはならないという順位づけをしており、「自分こそが正しいのだ」とは考えない自分こそが正しいと考えている。

あなたは「その人にとっての真実は、その人にとっての真実。誰かに真実を押しつけるなんて思いもよらないよ」と考えている。けれども、この見方に同意しない人々に対して、あなたは強く反対する

そして、他の人に対して否定的な判断を加えるという自分自身の行為そのものを、意識の中に保持してみる。自分が誰かに否定的な判断を行っている具体的な例を思い浮かべて、その状況を、意識の中にしっかりと保持する。例えば、誰かのことを人種差別主義者だと判断するとき、どんな感覚? さて、このとき、あなたのこの判断普遍的に正しい判断であるかもしれないということに、意識を向ける。

グリーンの段階は、実際にはさまざまな価値判断を(正しい形であれ自己矛盾した形であれ)行っているのであり、私たちはそうした価値判断に気づきを向ける必要がある。こうした価値判断を、意識の主体ではなく、客体にする必要がある。

こうした否定的な判断を行うとき、どんな感覚

自分が実は多くの領域で価値判断を行っていたということに気づいたなら──具体的にどんな事柄に対して、自分が価値判断を行っているのかに注意を向ける。そして、そうした価値判断のなかで、全く適切であり、正当なものであると自分が思っている価値判断はないか、考えてみる。

順位づけとは避けられないものである──自分ではおこなっていないつもりでも、実際にはほとんどの場合におこなっている──ことを認識できたなら、今度は、どのような順位づけが望ましいのかということを、考えてみる。

ここで気づきを向ける必要があるのは、何かを判断するという態度そのもの。

これはあれよりも素晴らしい──そう思うとき、まさにそう感じるとき、どんな感覚か?

 

後編に続く

 

前回からの続き)


●スピリットモジュール

ILPに取り組む主な理由のひとつは、高次の意識を開発すること。ILPは、無数の形態の実践を包含するものであり、多様な目標や意図を実現するために取り組めるが、それは究極的には覚醒するため。そして、人類の歴史をとおして、覚醒するとは、すなわち、日常の中にスピリットを見出すということであった。

今日、多くの人々は、自分は「スピリチュアル」ではあるが、「宗教的」(religious)ではないという立場をとる。こうした人々は、スピリチュアリティの本質を大切にしながら、組織的宗教の諸問題に絡めとられることのないようにしている。

統合的なスピリチュアリティの実践
・すべての宗教の本質にあるものを尊重。しかし、それはある特定の宗教の教義に縛られたものではない
理性と科学を拒絶するものでもなく、そうしたものに還元できるものでもない
身体性や文化的文脈を無視するものではなく、それらを超越・包含するもの
無意識と影の側面の力を無視するものではなく、それらを大きな文脈の中に位置づけるもの

私たちをある特定の実践の形態に従属させるように制限するものではない。
しかし、ある特定の体験や認識や次元にアクセスするためには、そのための活動に従事する必要がある。

それらの実践からただひとつ取り去られるものは、自らの道が神聖なるものに至るための唯一の正しい道であるという信念(こうした信念を否定することは、統合的なスピリチュアリティを実践するために必須)。

それまでの段階(呪術的、神話的、合理的、相対的)においては、互いに衝突をする傾向にあるが、統合的段階は、それぞれの中に共鳴できるものを見出す

瞑想とは何か?

瞑想は、人間存在の自然な機能のひとつ。それは、意図さえすれば、誰にでもできる。ほとんどの人は、5分以内に基本的な瞑想状態に到達する。その状態は、覚醒状態、夢見状態、熟睡状態とは生理学的に異なる状態として識別できる。こうした明晰でありながらリラックスした状態において、人間の酸素消費量は大きく減少し、睡眠時よりも筋肉がゆるむ。

瞑想の伝統
・「集中の実践」(concentration practice)
 対象物に注意を向け続けるために必要な「注意の筋肉」をつくる。

・「意識の実践」(awareness practice)
 サトルおよびコーザルの状態に注意を解放することができるよう、内面に無限のひろがりを培う。

瞑想は、究極的には、あらゆる知的な形態を超えていくが、同時に諸伝統は、瞑想を正しく理解し、解釈するうえで、正しい見方・見解理解を育むために十分な枠組み)がきわめて重要であるということにも合意。

頓悟派と漸悟派
頓悟派:「ただ目覚めよ、今すぐに!」
今この瞬間の意識の無限性に安らぐことは、霊的な実践の究極的な本質と言える。
このシンプルな指示は真実のものであり、完璧なもの。しかし、実際の実践においては、頓悟派の「完璧な実践」だけでは、実践を進歩させていくのは困難。突然に明晰な意識を獲得したとしても、混乱が戻ってくる。意識は揺らぎ始める。明晰な意識は単なる観念に過ぎなくなる。覚醒というものは漸進的に確立されるとする「漸悟派」なしには、頓悟派は覚醒というものを抽象的・観念的なものにする発想に簡単に絡めとられてしまう。


スピリットの三つの顔

一人称の領域
スピリットはI「私」として認識される。実践者は、存在の究極的な神秘であるスピリットと分離できないものとして自己に目醒める。これは、普通、瞑想をとおして行われる。
 代表的な例:ビッグ・マインド、ヴィパッサナー、只管打坐、ゾクチェン、ニルヴィカルパ、サハジサマディ、形象を超越した領域を対象とするすべての瞑想

三人称の領域
私たちはIt「それ」を見る。視覚と知性と感覚を存在の究極的な神秘に開いて、そこにある多様性(詳細や差異)を把握する(例:自然の風土や生物のパターン、エネルギー、色彩、質感、形態)。黙想において、私たちはスピリットと宇宙の完全性に気づく。
 代表的な例:芸術、自然神秘主義、哲学的思索、神秘学的黙想、奉仕貢献、優れた仕事の道

二人称の領域
二人称の祈りと交流においては、私たちは、自己を開いて、存在の究極的な神秘と親密に触れあうことになる。その時、It「それ」として経験されていたものは、Thou「汝」になる。比喩的に表現すれば、私たちは神--最愛の人(Beloved)--と向きあい、その究極的な意識に対して自己のすべてを開示する。
 代表的な例:祈り、神の存在の受容、帰依の歌、礼拝、儀式、奉仕、バクティ・ヨガの道

留意してほしいのは、すべての内的な状態は外的な身体を所有していること。存在の内面と外面の両方に注意を向け、それらを結びつけて変容させていく実践は、こうした洞察に立脚している。

多くの統合的な実践者が、神話的な神との関係性を卒業したあと、自身が、スピリットとの二人称の関係性を完全に放擲し、一人称的なスピリットの目醒めだけを強調してきた。しかし、統合的スピリチュアリティは、スピリットの三つの顔すべてを包含する。あの生き生きとして豊穣なスピリチュアリティの二人称の側面を回復することができれば、あなたの霊的生活にはまったく新しい充実の次元が開けてくる。

スピリットのグロスボディ
 私たちは、スピリットを、周囲のあらゆるところに、自然界とそこにあるすべての中に見ることができる。
 生命の網は、すべてを生み出した本質そのものであるスピリットの性質を映し出し、誇示するもの。

スピリットのサトルボディ
 すべての生き物の中にエネルギーを見る。それは彼らのチャクラと経絡の中に脈動し、流れている。それは彼らの目の中に輝いている。

スピリットのコーザル・ボディ
 動いておらず、壊れてもいない、永遠なるもの。
 「一」なるもの--それは、あなたの恋人や子ども、両親、動物、鏡に写るあなた自身を含めた、すべての恋人(beloved)の光輝く目に息づくもの。

自らの防衛をゆるめて、自己の全存在を聖なるものの全体性との出会いの中に開いてみる。それは、あなたのもっとも深いところに息づく親密な恋人との、今この瞬間における出会い。


スピリチュアルな共同体

共同体に参加することで、温かい相互的な支援と責任の人間関係を得ることが可能となる。こうした共同体は、あなたに自らのコミットメントを守り続けるための支援のみならず、また、あなたが他者に対してそうした支援を提供するための機会を用意してくれる。加えて、共同体の参加者の異なる視点を得る。共同体で共有された体験は、一人で体験されたものよりも、意識に強烈に刻印されるもの。

時として、共同体は不健全なものとなり、悪影響をもたらすことにもなる。たとえば、そうした共同体あるいはリーダーはスピリチュアルな権威を悪用するカルト的なものとなり得る。

ある共同体は、非常に密度が高く、生活のすべてを支配する。また、ある共同体は、それほど密度は高くなく、リラックスしたカジュアルなもの。ある共同体は閉鎖的であり、ある共同体は開放的なものである。

共同体の生活は、個人として瞑想に取り組み、直接的に神秘的覚醒を経験することの代替物ではない。むしろ、共同体の生活は、実践を支援し、枠組みを与え、となるもの。それは個人のスピリチュアルな実践のトレーニングの場となる。

献身に自己を開く

真の献身は、ある「閾値」を超える必要がある。伝統的には、そうした閾値を超えるためには悔悟が必要とされる。すなわち、それは恩寵を受けるための普遍的な必須条件である。
超論理的な文脈においては、「悔悟」とは、洞察(insight)決心(committment)。ふたつの洞察が同時に存在する。

1.自己中心的であることの限界に対する洞察
2.超越的で神聖な慈悲と恩寵を湛えた存在の本質に気づき、目醒めること

自己の外部に神を認識するのは、もっとも豊穣で自然な表現のひとつ。
スピリチュアリティが進化する中で、神話的な創造主としての神に対する信仰を超越する。統合的なスピリチュアリティは、超越的な神を信仰する在り方(有神論)を超越して、汎神論(神聖なものが、この世界に内在するものであるとともにこの世界を超越するものであるという見方)に到達する。究極的には、すべてのカテゴリーを超越し、包含する。真の非二元論の核心に息づく逆説的な叡智は、あらゆる種類の二元的な可能性を許容するための余地を確保する。

帰依の段階
1.無知
2.動揺
3.洞察
4.明け渡し
5.変容
6.理解
7.融合

帰依の実践が神話的な信念を超越する時、それは弱くはならず、むしろ、強くなる。前合理的な帰依と比較すると、超合理的な帰依は非常に自由な意識を体現することになる。

統合的な実践者は、真に根拠がある唯一のものだけに注意を払う。それは、実践

統合的な瞑想の実践

自分を叱責したり、そのために内的な葛藤を経験したりすることが、瞑想のプロセスを妨害する。それは注意が散漫になることよりも大きな障害をもたらす。もし、あなたが実践中に自分を叱責していることに気づいたら、その時には、そうした状況を優しく受容して、再び実践に戻ること、それが最善の対応。
 

◆PRACTICE

基本的な呼吸瞑想
息を吸う・吐くそれぞれで一から十まで数え、また一に戻る。注意が散漫になったら「一」に戻る。一つひとつの無限に生きている「今」の名前として捉えてみる。

 

 

◆GOLD STAR PRACITCE

I AM:誘導瞑想

楽な姿勢で背筋を伸ばして座り、体と心を落ちつけ、「I AM」(「私はここにいる」)というマントラをささやく。この時、言葉の音と意味が一体になるようにする。

あなたがそこにいるという感覚は、常に存在
5年前、500年前には何が存在していたか?常に変わることなく存在するもの--それはこのあなたがそこにいるという感覚だけ。時間が終わる時まですべての世界に存在するのは、この明瞭かつ親密なこの「ここにいる」という感覚だけ。
ただ、今、あなたは、隠れん坊をしていて、自らが生み出した創造物の中で迷子になっている。この「ここにいる」という感覚を知らないふりを、感じないふりをする必要はない。そして、この気づきをもって、あらゆるものが終焉する。
この「ここにいる」という感覚は、スピリットの一人称そのもの。


 

◆GOLD STAR PRACITCE

統合的探求(Integral Inquiry:無形の瞑想)

あらゆる形象を超越した意識へと注意を解放。この実践には複数の段階があるため、あらゆる段階の実践者が取り組むことができる。1分間モジュールもある。

絶対的な側面においては、意識を通過していく思考や経験との自己同一化をゆるめ、その瞬間の純粋な意識に安らぐ。
相対的な側面においては、統合的探求は、純粋な意識からあなたの注意を習慣的に逸らせている条件を解消する。

「私とは誰なのか?」
「私は何をしているのか?」
「私は誰をだまそうとしているのか?」


また、意識のもっとも微細な活動に焦点を当てるために、次のように問う。
「避けている?」
「縮まっている?」


注意の散漫という現象をとおして、そこに何が実際に起きているのかを意識する。
この実践は、「ラベリング」とは異なる。「ラベリング」においては、実践者は自らが体験する現象を、それが起こるたびに特定する。
質問に答えようとするのではなく、質問をとおして自己をいっそう深い理解に導く。自身が逃避や萎縮をしていることの理由をこしらえる必要はない。開かれた意識で今という瞬間を感じて、そこに在るありのままに意識を向け続ける。

 

 

◆GOLD STAR PRACITCE

スピリットの三つの顔(The 3 Faces of Spirit:有形の瞑想)

私たちはスピリットを黙想し(contemplate Spirit)、スピリットと交流し、スピリットとして覚醒する。

短い簡潔な語句を用いて喚起する

一人称のスピリットを喚起する言葉
「I AM」「私自身(Myself)」「ただこれだけ(Just This)」「意識(awareness)」「存在(presence)」「鏡の意識(Mirror Mind)」

二人称のスピリットを喚起する言葉
絶対者に向かいあう時に用いる名前。
「あなた(Thou)」「最愛なる人(Beloved)」「愛しの人(My Love)」「イエス(Jesus)」「アラー(Allah)」「アミタバ(Amitabha)」「マリア(Mary)」等

三人称のスピリットを喚起する言葉
「スピリット(Spirit)」「コスモス(Kosmos)」「現実(Reality)」「在るということ(Is-ness)」「完全無欠なるもの(Perfection)」「ガイア(Gaia)」「進化(Evolution)」等


 

◆GOLD STAR PRACITCE

慈悲の交換(Compassionate Exchange:有形の瞑想)

自己の習慣的な傾向を逆転させて、他者の苦悩を吸い込み、そして、それらを自己の内部で解放の歓びに変換して、吐き出す。こうして、快楽を追求し、苦痛を回避しようとする自動的な傾向を逆転させることで、膨大な量のエネルギーと自由を回復する。一つひとつの呼吸をとおして、無償の心で全世界に自己を捧げる自らの姿を想像。究極的には、自己と他者の境界そのものを非二元の中で溶解する
「私(I)」は、「あなた(you)」「私たち(we)」「彼ら(them)」の順番で他者の視点を共感的に体験し、そして、最終的には、再び「私(me)」に戻ってくる。

最後のステップ:これまでのプロセスをとおして、あなたが心に思い描いた(あなたを含めた)すべての人々、そして、すべての苦悩と自由が、それらを目撃している意識の中に生じていることに気づく。

 

 

●統合的倫理

統合的倫理は、どう生きるべきかについて具体的な指示を与えるものではない。また、それは倫理的な問いに対する具体的な解答を用意するものでもない。むしろ、いかに生きるべきかについて考えるための、そして倫理的に最善の決断をするための枠組みを提供する

慣習的な段階の倫理
慣習的な倫理に価値がないわけではない。とりわけ、それは自己中心的な意識から集団中心的な意識に移行をしていくうえでは重要となる。慣習的な発達段階においては、倫理とは、無秩序にわきあがる自己中心的な衝動を克服して、倫理的な規律に基づいて行動することを意味する。そうした規則が存在することに対して、私たちは感謝しなくてはならない。それらは、「文明」と言われるあらゆるものを可能とする。

統合的な段階の倫理
倫理はもはや恐怖に基づいたものではない。それは、単に非難を浴びないように「善い子」であろうとする単純な自己中心的なものではなくなる。倫理は、親の命令に幼児的に順応しようとするものではなく、むしろ、意識的な自由(conscious freedom)の創造的な発現となる。

統合的な段階に到達した時、私たちは、はじめて世界に存在する多様な視点が、大いなる進化の過程の中で芽生えた正当なものであることを認識し、尊重することができるようになる。

技術的、法律的な諸々の事項

表面的には「倫理的」な行動を喚起するが、それは真の慈愛と関心に基づいたものではなく、潜在的な危険に対する恐怖に基づいたもの。

 


倫理に対する攻撃

ポストモダンの思想家は、倫理というものが文化的に構築されたものであることを強調する。そこでは、倫理というものが前‐慣習的(preconventional)慣習的(conventional)後‐慣習的(postconventional)という発達の歴史をたどるものであることが見逃されることになる。こうした相対主義的発想は、あらゆる倫理を同等のものに矮小化するという過ちを犯す。

「空」という概念の曲解
無形の意識を特徴づけるとされる「価値判断の放棄」だけを強調。そこでは、高次の叡智のもうひとつの重要な側面である、空の意識に基盤を置きながら「必要かつ的確な判断をくだしながら、社会的、文化的な現実の中で機能する」ということが軽視される。

倫理的なジレンマ
倫理的な実践のひとつに、解決の困難な問題について熟考することをとおして、倫理的な感性と判断を鋭敏にするというものがある。例:「救難ボートのジレンマ(誰を鮫に差し出すのか?)」熟考を要するパラドックスに満ちた難しい問いで、ひとつの正しい解答はない。しかし、ある解答は他の解答よりもより正しいと言うことはできる。

統合的な倫理の三つの種類の価値
基礎的価値
 すべてが平等に絶対的なスピリットの顕れであるという事実を示す。
内在的価値
 構造的な深層性を示す。深層性が大きいほど、そこには大きな内在的価値が存在する。
相対的価値
 具体的な文脈の中での有用性を示す。

実際の実践生活において、しばしば特定の状況下において競合する倫理的な要求のバランスをとることが求められる。表面的な礼節が重視され、誰の気持ちも損ねないことが過度に強調される今日の社会においては、それは忌避されるべきもの。しかし、実際のところ、それが今なお重要なもの。したがって、倫理的な判断力は、意識的に発揮され、開発されるべき能力である。


倫理的に生きることの三つの理由

 

1. 善行によって良い気持ちになる
倫理的であるとは、単に与えられた厳格な規則に従うことではないと理解されると、今度は、倫理的であるとは自己中心性を排した利他的な行為をすることであるとみなされてしまう。しかし、それもまた限定的な見方である。それは、自己と他者の根源的な分離を前提とする

2. 高次の段階の意識に向けた変容
倫理的であろうとする意図をもつことで、必然的に他者の視点を考慮する。そのことは、あなたの意識の成長を促す。
統合的倫理は、巨大なパラドックスを抱擁する。(しばしば相互に衝突する)すべての視点が共存できるよう、情熱を注ぐ。

3. 倫理的な生活は覚醒のための器を形成
高次の意識を体験することは、驚異的な自由の感覚をもたらす。しかし、こうした体験は、特に後‐慣習的な倫理的文脈においては、容易に傲慢さにつながり得る。それは「私はカルマの束縛を超越して行動できている」という暗黙の感覚。

カルマに囚われた「夢」の状態から目醒めても、そうした夢が消失するわけではない。高次の段階の成長を確立するほど、すべての存在と人間とのつながりを無視することは難しくなる。
倫理的な生活は、「夢」が悪夢となるのを回避してくれる(あなた自身は、それが夢であることに目醒めているとしても)。

カルマを解消する
真の悔悟において、私たちはもはや自分から隠れようとはしない。その時、たとえ私たちが傷つけた人々に対して、直接、気持ちを伝えることができないとしても、何らかのカルマ的なものが解消された。カルマの解消とは、私たちが、最大限の誠実さと高潔な意志に基づいて人生を生きようとする、その姿勢によって可能となる。

統合的な倫理ではないもの
 

1.慣習的倫理
「倫理的・道徳的であるとは、善悪をめぐる社会の伝統的な慣習や規範を鵜呑みにすること」という思い込み。
倫理的な判断というものが、個人の外面的な行動だけでなく、個人の内面的な意図に基づくものであることにも留意する。

人々は慣習的な倫理の限界を批判しながら、高次の視点に基づいて発想するという大儀の下に無責任に行動してしまうことがある。これは、「前後の混同」(pre/ post confusion)の典型的な事例。

慣習的な法律に縛られているからではく、むしろ、すべての人々が規則を尊重する社会に暮らしたいという想いがあるから、行動を選択する。

2.従順であること、柔和であること
統合的な倫理は、発達の視点に支えられたものであり、それゆえに自己の境界を適切に防衛できることの重要性を認識する。統合的な倫理には、健全な攻撃性(aggression)を適切に上手に発揮するための場所が確保されている。

自己を犠牲にして他者を大切にすることを理想化する必要はない。健全な慈愛とは、自己を大切にすることに始まる。それが、円周状に、家族から友人へ、友人から共同体へ、共同体から世界へと拡張していく私たちは自己と他者を愛するのであり、自己の代わりに他者を愛するのではない

3.罪悪感の残滓と偽りの倫理的葛藤
しばしば、社会の外的な期待と自己の内的な倫理的直感の間に板挟みになる時に経験される矛盾を、倫理的な葛藤であると誤解する。

重要なことは何をしたかではなく、次に何をするかということ。
重要なのは、慈悲に基づいて、自己を遇することだけではない。自己を正確に見つめて、自分自身の最高の理想と可能性を目指すことに対して責任をとることも重要。

男性的慈悲
 「見極め」(discernment)と「規律」(discipline)
女性的慈悲
 規律という車輪の潤滑油。私たちの内面には、互いに衝突して、非生産的な軋みを生み出している複数の要素が存在しているが、こうした要素間の関係を円滑にしてくれる。


意識の覚醒が進行すると、人間はしばしば世界全体に対する深い責任を感じるようになる。これは、肥大化した感覚ではなく、情熱と誠実さに支えられた決心と言えるもの。
それは、自らの欺瞞と対峙する決心であり、それを超克しようとする決心。それは、他者とともに、この進化という冒険に、創造的かつ意識的に、責任感をもって参画するという重い責任の一端を引き受けようとする果敢な意志として現れることになる。

統合的倫理とは、幸福と自由を実現するための機会である。


●生きるとは実践そのもの

実践は、より本質的には、それは日常生活の前線において取り組まれるもの。
生きた実践とは、人生のすべての質感、祝福、試練を「師」として受容すること

仕事と人間関係は、往々にして、実践のもっとも厄介な領域となる。そして、それは言わば個人の成長度を測定するための試金石ともなる。仕事や人間関係は、個人のパターンが明らかになる領域であり、さらには実践の成果が顕在化する領域でもある。

人生を充実したものにするために努力をすること、そして最期の瞬間にすべてを失うことになるという宿命(inevitability)に自己を明け渡すこと--このふたつのあいだには相反するものはない。ILPの実践者は、こうしたパラドックスとともに生きる。

日常生活で統合的フレームワークを活用
賢く利用することができるなら、AQALという地図は、刻々と展開する人生の豊かさと深さを照らし出してくれる。
より多くの視点を考慮することができるほど、より賢明で的確な判断ができる。

 

◆PRACTICE

「アファメーション」(affirmation)

自己の意図・意志に方向を与えるための強力な実践。
自らの積極的な意図や意志を表すひと言、ふた言の言葉を定期的に口にすること。
日々の生活において予期せぬ形で訪れることになる実践の機会に気づくことができるよう、実践者を陰で強力に支えてくれる。くり返して唱えると、それは心の中にメッセージを明滅させる。「忘れてはならない、忘れてはならない、忘れてはならない」--重要な実践の機会が授けられる時、それをつかみとることを

アファメーションの実践で重要になるのは、自らの意図に的確な言葉を与え、それに共感できること。

・現在形
・肯定的
・簡潔で具体的
・一人称
・可能な限り真実に近づけ、現実的

で表現すること。
アファメーションを大切にすることが欠かせない。継続性と粘り強さが必須となる。機会があれば、アファメーションの内容をいつでも実行する。はじめて実践する場合は、急がずに実験的に取り組むところから始める。

 


完全性の実践

私たちは、完全性を実現するために実践をする必要はない。必要なのは、すでにそこにある完全性に目醒めることだけ。その完全性は、私たちが日常的に経験する人間的な苦悩と喪失、生と老いと死とともにあるもの。

実践はパラドックスを内包している。すべてはありのままで常に完璧にOK。それにもかかわらず、私たちは、常にさらなる真・善・美に向けて招き寄せられている

スピリチュアルな完全性を求める大いなる探求は、単に時間の無駄だけでなく、まったくもって不可能なこと。覚醒した自己は、この瞬間の、そして、あらゆる瞬間の目撃者として、常にそこに存在しているから。あなたは、すでにそこに在るものをあらためて生み出すことはできない。つまり、あなたは覚醒するのではない。あなたは、単にある朝、目醒めて、自らが、常に、すでに、目醒めていることを告白する。そして、自らがそれまでに自分自身と隠れん坊をしていたことを告白する

ILPのすべてのモジュールは、永遠の意識という絶対的な文脈の中に成立する相対的な成長の領域にかかわるもの。あなたの本質的な健康とは、この根源的なパラドックスとの関係性。すべての変化は不変という文脈の中に生まれる。すべての変容は静の中に生まれる。すべての実践は完全性の中に生まれる。


実践生活をかじ取りする

1. ILPをデザインする

あなたの個人的な状況に適したものにカスタマイズする
基本的な規則とは、四つのコア・モジュール(「シャドー」「ボディ」「マインド」「スピリット」)のそれぞれに取り組む
もっとも効果的なデザインとは、窮屈過ぎることもなく、ゆる過ぎることもないもの。実践は、すぐに実施することができ、また、楽しいものである必要がある。しかし、それは、あなたに挑戦を与えるものである。
自らの欲求と義務のすべてを考慮する。自らの内部に存在する、相反するさまざまな「声」と「欲求」のすべてを考慮して、そこに妥協点を見出す。

実践を愛せることが重要。意識的・長期的な実践の満足感とは、実践そのものを楽しむことから生まれるもの。それは、将来的に何らかの利益がもたらされるだろうという期待とは別のもの。経験豊かな実践者は、真に重要なことに対する注意を失うことなく、遊びや即興のためのたくさんの余地を確保する。

実践とは進化をするもの。実践を更新し続ける

支援のコミュニティは、変容を促進するだけでなく、一つひとつのステップを下支えする。もしあなたに実践をともにする仲間がいないとしても、そのことに落胆する必要はない。それでも、多大な利益を得ることができる。

師との関係
人類のすべての叡智の伝統は、偉大な覚醒者とその弟子たちにより興された。真に覚醒した教師は、指南と叡智と霊的な伝承の巨大な源泉となり得る。しかし、時として、こうした師弟関係に基づいたシステムは、不必要な荷物を背負い込む。伝統的な権威の下に自らが体現している叡智と効果を従属させてしまう。加えて、一部の伝統は、権威の暴走を抑止するシステムを一切そなえていない。

インテグラル・コーチ:新しい指導者の役割
豊かな経験を持つ先輩として支援の手。権威に従属することは要求されない。その正当性は、霊的な優越性と権威ではなく、その深層性、技術性、専門性、倫理性に依拠する。

核となる価値観、ヴィジョン、人生の目的
 実践の高次の基盤は、それをする理由、すなわち、その意味にある。

 






2. 統合的実践の技術
 

日常生活の中で意識を拡張すること。

実践のコツ
自分に厳しく、自分に優しく

抵抗に対するもっとも典型的な対処法は、「自分のやりかたを貫く」あるいは「その時の感情に付き従う」というふたつ。
中道とは、私たちの内部に存在するすべての相反する傾向と慈悲をもってつきあうこと。
「あれかこれか」的な発想をあれもこれも」的な好奇心に変容させることにより、そこに統合的な選択肢が自然に立ち現れる大らかな意識を醸成することができる。

厳格に「善い」選択肢を実行しようとする時、私たちは、自身を覚醒に向けて無理矢理に引きずっていくことができるのだと思い込んでいる。しかし、それは不可能なこと。私たちには、心を開き、好奇心を抱きながら、自分自身の実践に対する抵抗と向きあうことができる。

より重要なことは、そこに生起するものを感じ抜ける(feel through)こと不快感を耐えることが重要であるという指摘を思い出す。

快楽苦痛の超越を象徴するもっとも過激で極端なイメージとして、アルコールとセックスを用いるタントラの修行者と釘のベッドに横たわる禁欲的な修行者があるが、それらはひとつの硬貨の両面。それらは、「もっとも高度に発達した実践者は、あらゆる体験の只中において自由であることができる」という重要な真実の極端なシンボル

真の実践とは、そこに生きて在ること。意識してそこに在るということ。今そこに何が生起しているのか?実践は、最高の善というものが、悪の反対にあるものではないという認識に基づく。

調子の悪い日
回避することのできない実践生活の構成要素。それは、調子の良い日が必ずやってくるのと同じこと。

もし調子の悪い日においても実践をしようとする自らの意志を尊重するなら、あなたの無意識的なパターンは弱まる。何も起こっていないように思える、平凡な日に実践を継続することは、将来的な跳躍に向けた投資。もっとも困難な時に優れた対応をすることができれば、全体の重心が引きあげられる。実践の放棄は、時間の無駄で、悪い衝動を増長させる。

過去の過ちに対する責任を回避することなく、それらはもはや変えることができないものであることを受け容れる。人生の次の瞬間の中に、最大の叡智と勇気をもって完全に在ることを選択する。いかなる状況も、いかなる過去の過ちも、この可能性を剥奪することはできない。

効率的な実践の本質はシンプルなもの--すなわち、「幸福を阻害する稚拙な自分のパターンに気づいたら、実践をしようとする自らの意図を尊重する」というもの。

優れた実践者は、時間の浪費を最小化することに注意を払う。彼らも、猜疑や恐怖という悪魔に囚われることはある。しかし、彼らは、実践をするという選択肢があることを認識する時、すぐにその選択肢を選びとる。彼らは苦悩を完全に受容し、そして、それを正面から通過することをとおして、苦悩を最小限に留める。一部の修行的伝統においては、この能力こそが、覚醒するために多数の人生を必要とする人間と今生において覚醒する人間を分けるものであるとさえ言われる。
 

怨念を解き放つ

......私には怒りを覚える正当な理由があったのだ。そして、まさにそれこそが、この仕事のすばらしいことだった。
……コーヒーを提供するという、その非常にシンプルで謙虚な行為の只中に。他人にサービスをするということが本質的な意味において充足感をもたらしてくれるのだということを。
すなわち、「自分の気分が好転するのを待つのは、賢明なことではない。真に重要なことは、機会が訪れた時に、自身の不機嫌を行動をとおして切り裂くということなのだ」


愛が扉を開く
愛の態度はあらゆる活動を聖なる香りで満たす。誰を、何を愛すればいいのか?それは誰でも、何でもいい。究極的には、それはすべての物であり、すべての者であり、そして、何でもなく、誰でもない。それは、いかなる「他者」(other)ではなく、存在することの本質(Suchness)そのもの

パラドックス
核となる統合的スキルのひとつは、パラドクッスを受容し、それにより新たな深層性を見出す能力。生涯の実践生活において、私たちは数多くの深淵なパラドクッスに直面することを要求される。そうしたパラドクッスは、私たちが回答しなければならない謎ではなく、むしろ、ともに生きるべき公案と言えるもの。私たちはそれらの問いについて黙想をし、そして、それらが私たちを導くのを赦す。

成果
霊的物質主義」(spiritual materialism)を完全に回避することはほとんど不可能。必然的に、そうした状態に実際に陥ることをとおして、覚醒の体験に執着することがさらなる成長を阻害するものであることを学ぶことになる。

暗夜(ダークナイト)
実践に取り組むことの背後に自己中心的な動機が息づいていることがあまりにも強烈に意識され、実践することそのものに絶望するかもしれない。実践をとおして逃れようとしてきた、恐ろしい孤独と限界の感覚が、今あなたを絡めとることになる。逃れることのできない絶望が襲いかかる。

これは祝福すべきこと。こうした敗北は、真の自由に通じる扉となる。もちろん、死の只中にある当事者にとっては、これは慰めにはならない。しかし、この死のあちら側には再生がある。実践が完全な失敗に終わる時、あなたはそれが成功したことに気づく。

生涯の実践を通じて、私たちは死を何回も経験する(そして、再生も)。しかし、そうした死をとおして、意識だけは生き残り、そして、その過程において実践も蘇生され、変容されることになる。

そして、あなたはあらゆる状況において、常に適切なひとつのことをするようになる。すなわち、日常のあらゆる瞬間において、誠実にリラックスして、無意識的な傾向を超克して、関心と注意を自らの世界と関係性に向ける。あなたは決してそこから滑り落ちることのない土台のうえに着地する。その土台とは、意識と関心と存在に対して責任を発揮できるという自己の根源的な能力--すなわち、実践そのもの

こうした根源的な責任の段階は、それまでのすべての段階を包含するもの。「ハネムーン」「高原状態」「孤独」「成果」「暗夜」のすべてが--決して灰色に均質化されることなく、ともに着実に流れながら--そこに包含される。


●ユニークな自己

高度に覚醒した聖人や賢者は、ありきたりの存在でも、均一的な存在でもない。彼らは、自らの身体と独自性に精通した、非常に独自の精彩を放つ存在。彼らのパーソナリティは、超越的なものとのつながりを表現するための媒体

超越的なものは、個人的なものをとおしてもっとも完全に顕現する。したがって、超越的なものに目醒めるために、私たちは自らの独自性を消去するプロセスを通過する必要はない

私たちの独自性とは、永遠性が私たちとして顕現した時に選択したひとつの姿である。

魂(ソウル)の展開
魂の探求は、スピリット領域の探求と同じものでもない。と言うのは、それが、存在の本質(Suchness)に上昇的に目醒めていくのではなく、個別的、具体的なものに下降的に目醒めていくものであるから。

真のゲームとは、有利なカードを配られることではなく、配られたカードを知性と慈愛と創造性を最大限に発揮して活用することである。

最初のステップは手元に配られたカードを赦すこと。「あなた」として顕現するその人間的な人格--風変わりであり、高貴であり、悲劇的であり、喜劇的であるその人格--に対して心を開く。与えられた人生を生きる意志を喚起する。

 

 

 

【タイトル】 INTEGRAL LIFE PRACTICE ~私たちの可能性を最大限に引き出す自己成長のメタ・モデル~
【者著】 ケン・ウィルバー/テリー・パッテン/アダム・レナード/マーコ・モレリ、鈴木規夫/訳
【ページ数】 776

 

 


【何を得ようと思ったか】心理療法やスピリチュアリティのみならず、人生全般に関してインテグラルな方法としてどのようなものを提供しているのかを知る。


【対象】 ケン・ウィルバーのインテグラル理論を実践に移す際に何をするのか、について興味がある人。
【評価:★5段階で】
 難易度:★★★★
 分かりやすさ:★★★★
 ユニークさ:★★★
 お勧め度:★★★★

【きっかけ・所感】

私自身は、2,30年前はケン・ウィルバーにかなり熱中したものだったが、その後はトーンダウンして最近はあまり追っかけていなかった。『進化の構造』でケン・ウィルバーの思想的な側面はほぼ完了したと言っていい感じで、その後はその理論の補正的なもので、よりその理論を「実践」という方向にウィルバーの関心は移っている。NLPやNVC、ACTについて学んだあと、再び全体像を把握したいと思ったとき、『万物の歴史』や『存在することのシンプルな感覚』以降読んでいないことに気づき、その後の著作を読んでみたいと思った。

この本には、著者としてケン・ウィルバーが含まれるが、彼自身は直接執筆せず、執筆と校正の過程には全面的に参加したということで、彼の思想が色濃く反映されている。インテグラル理論はもはやケン・ウィルバーの手を離れて、それぞれの研究者がそれに基づいて独自の発展を遂げているともいえる。


ケン・ウィルバーは、トランスパーソナル心理学の論客として名を上げたが、その後はそこから脱同一化し、「インテグラル」という全領域をカバーする方向に向かった。なので、書店には、『無境界』はまだあるものの、古典である『意識のスペクトル』『アートマンプロジェクト』は絶版となっていて、インテグラル理論などは山積みされている。以前であれば、トランスパーソナルという領域、スピリチュアリティ、ニューエイジ(ケン・ウィルバーは嫌がるが)などに分類され、そういった人でないと興味がなかったものの、最近では「ティール組織」についての注目もあって、インテグラル理論は以前に比べると広く認知されているようだ。NVCでも、四象限の考え方が導入されていたのは興味深い。

 

とはいっても、すでにケン・ウィルバーの著作を読んでいる人やスピリチュアリティにある程度理解がないと読むのは難しいと思う。そういったことがなく、この本から入った人に感想を聞いてみたい。

【要約・メモ】

 

●概要

インテグラル・ライフ・プラクティス(ILP)とは?
21世紀の生活において最適化されたフレームワークを活用し、世紀を超えて伝承されてきた多数の実践を体系化したもの。
ILPは、成長したいという願い、自らの可能性を最大限に実現したいという願いとともに始まる。この世界における最高の自由と最大の充足に至ることを可能にする。

インテグラル理論では、理論と実践は不可分で、ウィルバーは一連の書籍の中で、くり返し実践の重要性と必要性を訴えている。

「すべての視点は正しい──ただし、それらはいずれも部分的・限定的である。」
特定の限定的な文脈の重要性を否定するものではなく、そうした文脈に身を置くことで治癒や成長を実現できる。同時に、具体的な実践は、より普遍的な文脈の中に位置づけられる必要がある。

前近代の実践
 世界中の叡智の伝統とそれらを支える瞑想の実践
近代の実践
 人間の成長とそれを促す方法に関する科学的な研究。
後近代の実践
 人間という領域を把握するための多元的・多文化的な地図に加えて、すべての重要な側面(自己・文化・自然の中にある肉体的・感情的・理知的・霊的な側面)を包含するための方法

ありきたりの形而上学(metaphysics)
 現実とは、認識者の文脈、行動、認知に影響されることなく、ただ意識に与えられる。

ポスト形而上学的なインテグラル・アプローチ
 統合的な現実を体験するためには、統合的な実践を強調。実際に実践を行い、誰かが「真実」と呼んでいるものが、本当に真実であるのかを自分で判断する

クロス・トレーニング
複数の異なる領域で同時並行的に実践に取り組む
スキルを他の領域の実践に意識的に持ち込むことで相乗効果を生み出す。

ゴールド・スター・プラクティス
多忙な現代人が限られた時間の中で効果的にエッセンスを押さえる方法
1分間モジュール:非常に濃縮された形態。いつでも無理なく実践をすることができるよう考案されたもの。
伝統的な実践を蒸留し、宗教的・文化的な夾雑物を取り除いたもの


●人間の発達の諸モデル

人間の発達とは自己中心性が減少していくプロセス。誕生時には生理的な欲求に従属しているが、徐々にそうした欲求を他者との関係性(意思疎通)の中で満たすようになっていく。

第一層:早期の段階
 世界を部分的・断片的に認識

第二層:高次の段階
 世界を統合的・包括的に認識。真に全体的になる。

世界は全体として意味をもち始め、そこに存在する多様な要素は相互につながりのあるものとして認識される。世界(universe)は、さまざまな哲学や思想の統合をとおして把握されるだけでなく、成長と発達のためのさまざまな実践をとおして探求される「ひとつの世界」(uni-verse)として認識され始める。
 

◆1-MINUTE MODULE

あなたのもっとも深い動機は?
あなたをもっとも深いところで衝き動かしているものに感覚を集中させ、それを意識。最後に、「目撃者(Witness)」を意識する。

 


●統合的なフレームワーク
 目の前に存在する多くの選択肢を整理する助け。
 与えられるトレーニングを受動的に消費するのではなく、主体的に自らの実践を設計していく。
 最大限の柔軟性を許容
  自らの状況に適した独自の実践を構築するための道具を提供する。
  それぞれの実践者の興味や情熱や欲求に基づいてカスタマイズ
 量的な調整が可能な実践体系
  いかに多忙であろうとも、誰もがILPを実践できる

統合的
「総合的」「調和のとれた」「包括的」を意味。全体性、あるいは完全性の感覚が伴われる。重要なことを無視していない、という感覚。

モジュール
あなたという存在の具体的な領域、(Body)・(Mind/Heart)・スピリット(Spirit)・シャドー(Shadow)という4つに紐づいた実践のカテゴリー

付属モジュール
・統合的倫理(Integral Ethics)
・統合的な性的ヨーガ(Integral Sexual Yoga)
・ILPとしての仕事(Work)
・感情の変容(Transmuting Emotions)
・統合的子育て(Integral Parenting)
・統合的人間関係(Integral Relationships)
・統合的コミュニケーション(Integral Communication)


 

◆1-MINUTE MODULE

今すぐ統合的な意識に目醒めよう!
1. 速やかに意識を拡張する「である」という感覚を意識。あなたの内部にある、あなたをあなたたらしめているものすべてを感じる。
2. 次に「私たち」―-他者との人間関係--の感覚を意識。
3. 次に「それ」の感覚を意識。「それ」とは、複雑性をそなえたあなたの肉体であり、また、この世界におけるあなたの存在をとりまく諸々のエネルギー。
4. 最後に「それら」の感覚を意識。「それら」を意識するとは、あなたの人生が埋め込まれているさまざまなシステムを意識することであり、また、このようなシステムに自らが参加しているのを意識すること。これらの諸領域に意識がひろがっていくのを感じる。

自らの純粋な意識を感じる。この意識には小さな「私」(「エゴ」)が立ちあがり、また、そこには「私たち」「それ」「それら」という視点をともに味わうことができる。この開かれた、歓びに満ちた意識を感じつつ、一日を生きる。



●シャドーモジュール

シャドー抑圧された無意識
こうした抑圧を解除して、シャドーを統合する。
自らの内部でシャドー・ボクシングをするために浪費されていたエネルギーを解放すること。

心理療法とシャドー・ワークは、近代西洋が実践にもたらしたもっとも重要な貢献のひとつ。伝統的な修行は、スピリチュアルな成長に関しては深淵な理解を誇るが、心理力学的なシャドーは、十分に扱うことができない。実際、スピリチュアリティの伝統が犯す大きな間違いのひとつは、瞑想等の実践が個人のすべてを変容することができると思い込むこと

フロイトの洞察
「受け容れがたい衝動や感情は意識から排除されるが、それは見えない形で個人の人生に影響を与えることになる」

3‐2‐1シャドー・プロセス

抑圧と投影の過程の三段階

1. 私は怒りを覚えている。
2. でもそれは許されない。怒りを抑圧する。怒りを何らかの内的なイメージに投影するかもしれない(「あなた」「彼ら」)。怒っているのは私ではないのだから、怒っているのは私以外の誰かに違いない。突然、世界は怒りに満ちた人々のあふれる場所に見えるようになる!
3. 怒りを完全に抑圧すると、もはや怒りを認識することもできなくなる。怒りは私とは何の関係もないものとなる。私は恐怖と悲しみを感じるようになる。私の実際の感情は、今や二次的な形でしか経験されなくなる。それは「怒り」という真実の姿ではなく、「恐怖と悲しみと落胆」という虚偽の感情として経験されることになる。

当事者は、こうした二次的な感情を非常に強烈に誠実に経験している。しかし、それはあくまでも根本にあるものではなく、それを対象に治療をしても、成果をあげることはできない。

一人称の認識
    排除された自己は、一度は「私」(I・Me)として認知されていたもの。
二人称の認識
 自己のある側面が受け容れがたいものとなる時、私たちはそれを意識から追い出して、二人称に仕立てあげる。
三人称の認識
 最終的に、そうした感情や状況の脅威があまりにも巨大なものとなる時には、完全な拒絶が必要となる。私たちは、それを自身のものとして所有する段階から(一人称)、他者に帰属するものとして経験する段階に移り(二人称)、最終的には、自分とはまったく関係のない「それ」として完全に放棄する(三人称)。



治療
そうしたプロセスを3(三人称)2(二人称)1(一人称)という方向で逆転する。
それと向きあうこと」「それに話しかけること」「それに成ること


 

◆GOLD STAR PRACITCE

3‐2‐1シャドー・プロセス

 

1. 三人称のワーク:それと向きあうこと。
あなたを動揺させる対象(人物、状況、イメージ、感覚)を子細に観察し、日記に書き込む(エンプティ・チェアの技法を用いてもいい)。

2. 二人称のワーク:それに話しかけること
「あなた」「君」「おまえ」等の二人称の代名詞を用いて、対象との対話。
「あなたは誰なのですか?」
「あなたは何なのですか?」
「あなたはどこから来たのですか?」
「あなたは私に何を求めているのですか?」
「あなたは私に何を言おうとしているのですか?」
「あなたはどんな贈り物を私にくれようとしているのですか?」

こうして問いかけると、対象が答えてくれるようになる。

3. 一人称のワーク:それに成ること
ここでは、「私」「僕」「俺」等の一人称の代名詞を用いて、これまで探求してきた対象(人物、状況、イメージ、感覚)になり、意識に生まれる言葉を書き留めていく。

「私は~である」「~は私である」という形にする。

 

シャドーを自らのものとして完全に統合するために、あなたを動揺させていた対象の視点から直ちに世界を眺めるのではなく、これまでに排除してきた感情や衝動を、明確に自らの存在として共振できるまで実感する。そうすることで、排除してきた感情や衝動を自分のものとして統合することが可能になる。

シャドーが形成されるメカニズム(123)とそれを逆転させるセラピー的プロセス(321)を活用することができないと、瞑想は日常的な「自己」の虚偽性(inauthenticity)を強化する(超越的な自己に触れることは可能にしてくれるかもしれないが)。瞑想を実践するだけでは、断片化され、他者に投影された自己がますます固められることになる。

 

◆1-MINUTE MODULE

朝一番に、昨晩の夢を振り返り、自分を感情的に揺さぶった人やものを特定。その人や物を念頭に置いて、向きあう。次にその人や物に語りかける(あるいは、その対象と向きあうことを想像して、それがどのような感じがするかを味わう)。最後に、その人や物の視点をとり、その人や物に成る
夜寝る前、その日に自分を悩ませた人、あるいは自分を惹きつけた人を一人選ぶ。心の中で、その対象と向きあい、語りかけ、それに成ってみる。

 

「黄金のシャドー」(golden shadow)
私たちがまだ自らのものとして認識し、包容できていない潜在的な能力のシャドーで、高次の部分から投げかけられたシャドー。高次の領域から降りてきて、それを生きることを求める。



真に根源的な感情の変容
シャドー・ワークは重要だが、それは自らの感情を明確化するための最初のステップ。より生産的なアプローチとは、それらの感情を純粋な本質的なエネルギーに変容して表現・解放すること。

1.あなたが感じているものに気づく。
2.それを断定、抑圧しようとする自らの傾向、あるいは、それに反応しようとする自らの傾向を和らげる。
3.あなたの感情が人や物に対するものである時には、その対象に対する関係をゆるめる。
4.感情のエネルギーを実感する。
5.感情が刹那的なものであることを認識することができるまで注意を払う。感情の生のエネルギーは、沸騰した水が蒸気に変容していくように、囚われを克服して、自由な、肯定的な表現として自らを解放していく。

感情の持続的な変容を成功させるには、執念深い実践が欠かせない。
感情が、否定的な経験に反射的に反応するものだと気づく。実践を積むことで、反射的な反応までもが自然と自己解放する

ジークムント・フロイト「"それ"ありしところに、"私"をあらしめよ」
同様にシャドー・ワークと感情の変容は、・「それ」(it)だったものを「私」(I)に・「私」(I)だったものを「私のもの」(mine)にする。
そして、自己の本質である純粋な意識(I AM)がこのプロセスを目撃するし、エネルギーが回復され、解放される。
虚偽の二次的な感情は、真実の一次的な感情に変容されたあと、さらに覚醒した超越的なエネルギーに変容する

上級の瞑想実践者であっても、シャドー・ワークを無視してきた実践者と、シャドー・ワークを実践してきた実践者とのあいだには大きな差が生まれる。多数の高名なスピリチュアルな人物の名声は、無意識のシャドーの衝動によりもたらされた醜聞により汚されている(多くは性、権力、金をめぐるもの)。
シャドー・ワークは必要なもので、終わりのないもの。どれほど意識を開拓しても、心を完璧なものにできる終着点はない。


●マインド・モジュール

成長とは、世界に対していっそう開かれた視点を確立することをとおして達成される。それまでに囚われていた限定的な視点、限定的な真実を超越し、より包括的な視野を確立する。最終的に私たちは、「視点というものをとおして世界を認識する行為」そのものを対象化する視点を獲得する。意識の進化とはそのようにして展開する。より多くの視点を把握しようとする素朴な意図こそが、マインド・モジュールの基本的な実践。

ILPは理性知性を含むもので、置き去りにするものではない。明晰な思考は、倫理的な判断力、意識的な選択と共感のためにも必要。そもそも、他者の視点に立てなければ、他者に共感することはできない。それは知的な行為である。

AQAL
 「地図の地図」、あるいは、数百の理論の本質的な真実を統合するメタ理論
 すべてのものに居場所を与えること。
全象限、全段階、全ライン、全状態、全タイプ」(all quadrants, all levels, all lines, all states, all types)
 インテグラル理論はしばしば「あれもこれも」(both/and)思考と形容される。

AQALは、ふたつのカテゴリーを用いて、あらゆる物事が存在するための場所を用意。
1.「内面」(interior:思考、感情、意味、瞑想体験)と「外面」(exterior:原子、脳、身体、行動)
2.「個」(individual:自己の独自の形態と経験をもつ)と「集合」(collective:文化的な集団およびシステムとして相互に関係をもつ)


統合的な枠組みの基礎──四象限
 多くの衝突や誤解は、これらの領域のうちのどれかを無視することに起因。
 四つすべてを同時に意識すること。

あなたの存在の四つの領域のこと
・個人的な内面(例:あなたの思考、感情、意図、心理)
・集合的な内面(例:あなたの関係性、文化、共有された価値観)
・個人的な外面(例:あなたの物理的な身体、行動)
・集合的な外面(例:あなたの環境、社会的な構造と機構)

それぞれの領域を認識する時の四つの視点
・個人的な内面:「私(I)」
・集合的な内面:「私たち(We)」
・個人的な外面:「それ(It)」
・集合的な外面:「それら(Its)」

私たち(We):あなたと私が互いを理解する時、互いを愛する時、互いを嫌悪する時、つまり、他者の存在を自らの存在の一部として感じる時に形成される。

左上象限と右上象限の両方が真実であり、また、還元不可能なものであることを認めることができる時、意識と脳のどちらが「本当に実在する」のかという無意味な議論に終止符を打つことが可能となる。


 

・意識の段階(levels)

進化とは四象限のすべてにおいて発生する。

発達段階には「悪い」(bad)段階も「誤った」(wrong)段階もない。あらゆる段階は自然の摂理が生み出したプロセスの一部分であり、存在する権利がある。それぞれの段階は、限定的に正しい。ただし、高次のレベルは(定義上)低次の段階を超越し、包含するため、より真実の段階である。絶対的にもっとも高い段階というものは存在しない。今、高次の段階として存在するものを超えるさらに高い段階が創発する可能性は常にある。

高次の階層が低次の階層を超越し包含する時、そこには質的な創発が起こる。つまり、それまでに存在していなかった新しい何かがそこに生まれる。この新しい何かの存在こそが、高次の発達段階が生まれたことを物語る。
人類は炭素原子を超越する存在であるだけでなく、炭素原子を自己の肉体の構成要素として包含する存在である炭素原子が経験することのできない実に無数の行動や体験をすることができる。

自己中心的=私
集団中心的=私達
世界中心的=われわれのすべて
宇宙中心的=生命を宿し創発し続ける宇宙そのもの

個人は決してひとつのレベルにあるわけではない。むしろ、個人はひとつのレベルを中心として上下運動をしている

・発達のライン(lines)
発達の領域が複数あることを想定したうえで、各領域内の成長はある程度自律的に展開している。

・認知(cognition)
・欲求(needs)
・自己認識(self-identity)
・価値観(values)
・感情(emotions)
・美意識(aesthetic)
・倫理(morals)
・人間関係(inter personal relating)
・身体能力(kinesthetic)
・スピリチュアリティ(spirituality)

ILPは、あらゆる能力領域において傑出したレベルの発達を実現することを要求したり、推奨したりするものではない。

能力領域(line)は、人生がくり返し突きつける「問い」(question)として捉えることができる。

・私が意識しているのは何か?(認知)
・私が必要としているものは何か?(欲求)
・私は誰なのか?(自己認識)
・私にとって大切なものは何か?(価値)

水平的成長
私たちは「水平的」(horizontally)にも、「垂直的」(vertically)にも成長する。
一段一段と高度があがることによって、世界観は真実性を増し、限定性を減らしていく。
私たちは「重心」(a center of gravity)となる世界観をもっており、ほとんどの場合、そこから行動をする。

世界観のスペクトル

インフラレッド 原始的世界観
 「生存」こそが原始的な世界観を衝き動かす使命であり、目的。

マジェンタ 呪術的世界観
 主体(認識する主体)と客体(認識される対象)は部分的に重なりあうため、岩や川をはじめとする「非生命体」を生きているものとして感じられたり、魂をもつものとして感じられたりする。

レッド 力の世界観
 部族と峻別された存在としての「自己」(ego)の発生を促す--ただし、この「自己」はしばしば自らが帰属する集団のために衝動的に行動する。自己を世界の中心としてみなして(自己中心的)、レッド段階の自己は自らの欲求と欲望をただちに表現し、充足する。レッドにとって、他者を恐喝、支配することこそが、物事を達成するための方法。

アンバー 神話的な世界観
 自集団中心的。神話的世界観の神や神々の支配は、地上の人間の営みに直接的に関与する「力」(power)として経験される。
 二極対立的、黒と白、集団中心的な発想が支配的となる。規則は人生に明確で絶対的な意味と方向性と目的を与える。尊重されなければならない高い価値や法則がある。

オレンジ 合理的な世界観
 特定の集団に対する忠誠心を断ち切り、普遍的な方法と法則をすべての人類に適用。その意味では、最初の世界中心的な世界観である。

グリーン 相対主義的な世界観
 オレンジの世界観の単一的なシステムの外に立つ。グリーンは、まだ垂直性・深層性に関する判断をすることができないため、相対主義と平等主義が代表的な行動パターンとなる。あらゆるものが広大な生命の網の相互関係の中に平等に位置づけられる。

ティール インテグラル・システムの世界観
 意識はある非常に重要なことに気づく。それは、「すべての視点は、現実のある重要な側面を非常によく捉えることができるということ」、そして「すべての視点は、現実のある側面を軽視、抑圧するということ」。それぞれの視点が正しいものであり、また、限定的なものであるということ。また、他の視点と比べて、ある視点はより正しいと言えること。すべての視点は平等ではなく、深層性というものが存在することに気づく。
 ティール段階において、「欠乏欲求」(deficiency needs)は「存在欲求」(being needs)にとって代わられる。

ターコイズ 統合的・包括的な世界観
 すべてのアイデアが構築物であることを認識する。私たち自身の「自己」の感覚さえも。こうした意識が目醒めると、人々はあらゆる概念的なプロセスの本質的な限界を認識する。そして、彼らは、徐々に「視点」にではなく、「視点」というものが立ちあがる空間に自然と共感をする。
 一人の個人としての「自己」ではなく、そうしたシステムそのものと自己を一致させる。

インディゴ、そしてその後 超統合的な世界観
 真の意味で「個を超えた」(transpersonal)世界観。その自己感覚は「個」というものを超えてひろがる。
 ターコイズは、ヴィジョン(ヴィジョン・ロジック)をとおして思考するが、インディゴは、多様な要素を織りあわせることなく、ただ全体を認識する


・「タイプ」(types)
あらゆる発達段階に存在する水平的な差異(例:男性性と女性性)
統合的な意識が開発されてくると、私たちは自己の存在のすべての側面を受容できる
タイプは、個人を区分けするための固定的な箱ではなく、ダイナミックで流動的な個性に対する豊かな洞察をもたらしてくれるもの。
コミュニケーションと成長を促進するために、自己と他者の中に働いているパターンを認識するための手助けとなる。
 

◆1-MINUTE MODULE

意識状態(概観)

五感を利用して、物理的な次元に触れる。
より微細な意識状態に移り、感情に関連する感覚に注意を向ける。
さらに微細な領域に入り、意識を知性の領域に向ける。
これまでに一つひとつ経験してきたすべてのものを目撃しているあなたの存在そのものに向ける。


 

◆1-MINUTE MODULE

四象限スキャン

自分の思考と感情(I)、他者の視点(We)、問題をとりまく周囲の状況(Its)、そして、自分がとり得る行動(It)について大まかに把握する。
I・We・It・Itsの象限に15秒ずつ触れて、そこに何が現れてくるかを見る。


あなたが立脚している視点は?
AQALを習得することは、多様な視点を共感的に理解するための能力を強化する。
あなたの見解に同意しない人は、能力領域において、あなたとは異なる意識の段階にいるのかもしれない。

多くの議論は、客観的な事実と証拠を並べることでは決することはできない。意見の不一致は、それらの事実に関する異なる解釈に起因している(それらの解釈は異なる主観的な意識のレベルに基づく)。

すべての人がある視点に立脚して世界を認識している。視点とは本質的に限定的、部分的なもの
真の課題とは、すべての人のための居場所をつくること。すべての人々が、安全にひとつの人生の停泊所から次の停泊所に--自己中心的、集団中心的、世界中心的、宇宙中心的という停泊所に--歩みを進めることができるための空間をつくること。可能な限り、あらゆるものに居場所を確保することによって、誤解--自らの限定性を認めるのを拒絶する部分的な真実--を認識するのを容易にする。

意識状態

状態と構造の混同(The State/Structure Fallacy)
意識状態と意識構造が同じものであるという間違い。
意識状態は、移ろいやすい体験として一時的なひらめきの中に生まれては、消えていく。私たちは、どの瞬間においても感情的な状態、知的な状態、精神的な状態を経験することができる。また、誰もが一日のうちに覚醒状態-夢見状態-熟睡状態という周期を経験する。一方、意識構造とは、長期的かつ安定的なもので、普通は数年のあいだは持続する。

高次のサトルやコーザルの意識状態といえども、基本的にあらゆる意識段階においてすべて人に体験可能なものとしてある。
解釈は体験と同等に重要で、意識構造が、その体験にどのような意味を付与するかに影響を与える。AQALとは、インテグラル段階の意識構造に基づいて、人間が体験する数多くの意識状態(そして、意識構造、身体、シャドー)を解釈するための枠組みである。


●ボディ・モジュール

三つの主要な意識状態(覚醒状態、夢見状態、熟睡状態)と三つの体は相互に依存し、関連しあう。すべての主観的な意識状態はそれと関係する客観的なエネルギー、あるいは、身体をもっている。

1.物質的、肉体的な「グロス・ボディ」

2.サトル・ボディ(subtle body)
 様々なエネルギー(「気」や「プラーナ」)や他の精妙なシステム(エネルギーの中心、チャクラ、指圧の経絡)により構成される。
 サトル・ボディの中でももっとも濃密なエネルギーは、肉体的な体とより緊密に関連。指圧の経絡として、生命力の脈動の身体的な感覚として経験する。より精妙なエネルギーは性と感情と、さらに精妙なエネルギーは知性や洞察と、そしてもっとも精妙なものは超合理的、法悦的、直感的な知性と関連する。

3.コーザル・ボディ(causalbody)
 無限の静謐さを湛えた体のことで、瞑想等の実践をとおして確かめられる。この体は言葉で説明することも概念的に整理することもできない。それは常にそこに在る目撃者の意識がエネルギー的に実体化したもの。それは、すべての経験が生まれることになる空間。


三つの体の鍛錬

筋力トレーニングをする時にも、ランニングをする時にも、愛する時にも、息をする時にも、三つの体のすべてを同時に意識的に鍛錬することができる。

1.意識・瞑想の実践をとおして、自らをコーザル・ボディに根づかせる
2.サトル・エネルギー領域の実践をとおして、サトル・ボディを活性化させる
3.肉体的な実践をとおして、グロス・ボディを強化する
4.ストレッチ運動とクーリング・ダウン運動をとおして、意識をグロス・ボディからサトル・ボディに移行する
5.座った状態での瞑想をとおして、コーザル・ボディに安息する

その時の感覚をじっくりと感じ、感覚そのものになる。目撃者としての意識の中にそれが立ちあがり、溶けていくのを観察する。
 

◆1-MINUTE MODULE

3ボディ・ワークアウト

「この瞬間のありのままに気づくこと。この瞬間、そして、あらゆる瞬間のありのままに気づくこと。私は世界のありのままであり、また、あらゆるものが生じる空そのものである」
「私は無限の中に解き放つ」
「私は生命の豊かさに向けて息を吸い込む」
「息を吐き出し、私は光に帰る」
「円を閉じることで、私は自由になり、満たされる」
「無限の自由と豊かさが、このかけがえのない人間の体として顕現する」
「地面に触れることで、私はあらゆる存在とつながる」

 

インテグラル・デディケーション
終わりに、実践の成果をすべての生きとし生けるものに捧げる。
 「私の意識(個人の内面、左上象限)と/私の行為(個人の外面、右上象限)が/あらゆる世界において(集団の外面、右下象限)/すべての存在のためになりますように(集団の内面、左下象限)」
「すべてを解き放つ」
「この瞬間、そして、あらゆる瞬間の」
「あるがままの中に……」

 

筋力強化
筋力強化の他には、全体的な健康にこれほどに驚異的な効果をもたらすエクササイズはない。筋肉の量が増えることで、新陳代謝が変化し、体重の減少と健康の維持が容易になる。
 

◆GOLD STAR PRACITCE

フォーカス・インテンシティ・トレーニング(FIT)

FITでは、グロス・ボディ(肉体)は、ウエイト・リフティングをとおして鍛える。サトル・ボディは、意識を集中し、エネルギーを体中に循環させることをとおして鍛える。コーザル・ボディは、各ワークアウトに取り組む中で、すべての感覚、光景、音声、感情に気づいている「永遠の目撃者」(the ever-present Witness)とのつながりを維持することをとおして鍛える。

 

1.グラウンド(Ground)
2.上昇(Elevate)交感神経を活性化させるために、短く、激しい胸呼吸を3-5回行う。
3.集中(Focus)意識を集中してエクササイズを始める。
4.回復(Recover)

その日のエクササイズを振り返り、記録する。感情、感覚、注意等の自身の主観的な状態について簡単に書き留めておく。
トレーニングの終了後、しばしのあいだ瞑想する。始める前に設定した意図やデディケーションを思い起こし、それらを完結させる。


トレーニングの前に、ワークアウトに関する意識の枠組みを設定する。明晰な意識を維持しつつトレーニング会場に運転していき、意識的な呼吸を心がけながら着替えるという、一連の意識づけの儀式をとおして行う。具体的に何に取り組むのかを明確化し、高次の意識を維持しつつ、トレーニングに励んでいる自らの姿をイメージする。実践に関する自らの意図(intention)デディケーション(dedication)を設定する際には、数分間、簡単な瞑想をして、自らの意図を再確認する。実践を自己を超えた誰か、何かに奉げてもいい。

 

◆1-MINUTE MODULE

筋力トレーニング

この1分間モジュールは、非常に短時間のあいだに、極度の負荷を体にかける。

1.FITのコア・サイクルを--グラウンド-上昇-集中-回復というサイクル--を始める
2.筋群が完全に疲れ果てるまでエクササイズをくり返す
3.「完全に疲れ果てるまで」とは、どんなにやりたくても、もうくり返しができない状態に到達する

 

 

◆1-MINUTE MODULE

エアロビック・ワークアウト

この1分間モジュールは、HIIT(high-intensity-interval-training)の短時間版。
最大限に集中して、高強度運動を行う。十分に力を発揮する。無理をし過ぎない。実施時間は1-3分間に留める。


ILPの栄養哲学
すべての人に当てはまる栄養摂取法というものはない。食事とは、個人的なものであり、自己理解と自己責任を要求するも、具体的にその人がどのような食生活を送るかは、非常に個人的な条件による

左上象限(意図):意識して食べる
 意識を鋭敏にすると、食事をしている中で、味覚の状態が徐々に鈍化していく(「味覚満腹感」)。意識的な食生活においては、少ない量を食べることが満足につながる。
左下象限(文化):意味ある食事
右上象限(行動):最善の食事をする
右下象限(システム):持続可能な食生活
 食料製品を購入し消費する時、それを意識せずに、その商品の隠れた歴史と来歴を支持していることになる。

小周天の基本的なガイダンス

エネルギーの下降方向の流入と生命力の充実の感覚は、息を吸い込む時に、それが体の前面を下降方向に下りていくのを実感することで意識的に深める。生命のサトル・エネルギーは、会陰(性器と肛門の間に位置する胴体の基底)で方向を変えて、背骨に沿って上昇することになる。そして、このエネルギーは、頭頂部の上のあたりに到達すると、自由と光としてより精妙な形で経験される。

不安感や倦怠感を感じている時、私たちは喋り過ぎたり、イライラしたり、間食をし過ぎたりする。そして、これらはすべて内部に充満しつつある生命エネルギーを放出する行為である。しかし、呼吸を利用して、日常のあらゆる体験を統御することをとおして--特に強烈でじっとしていることが難しい体験--こうしたサトルなストレスを耐える鍛錬をすることによって、より多様なエネルギー状態を楽しむことができるようになる。
緊張に反応するのではなく、それをじっくりと感じるという実践に取り組むこと。そうした感覚が単なるエネルギーと緊張に過ぎないことに気づく

3ボディ・セックス

性的な興奮が喚起する高度に衝動的なエネルギーを、ひろがりの感覚と深淵な愉悦の中に結びつける。そうした取り組みをとおして、体のサトル・エネルギーの回路を開き、強化できる。また、性的な実践は生命に満ちあふれている感覚をじっくりと味わい、それを、性器だけではなく、全身をとおして統御するための学びの機会を与えてくれる。

あなたの愛する人は、スピリットを内在させるスピリットの体現者となる。あなたが得ることよりも与えることを意図して、奉仕の気持ちに基づいてそれを実践するのであるならば……。

グロスのレベルでは、ホルモンの衝動に基いて、あなたとパートナーの体は触れあい、交じりあう。
サトルのレベルでは、二人は、深い感情的な交流をする。
コーザルのレベルでは、あなたは、性行為のあいだ、完璧に静寂で、途切れることのない意識の中に安らぐことになる。

あなたのすべての体の非二元の融合において、あの静寂・静謐な目撃者の意識が、無限の輝く愛そのものとして姿を現す。そして、すべてに浸透する愛そのものが、ふたりの裸の人間による愛の行為をとおして、芸術を創造する。この芸術において、あなたは無限の前に歓びとともに自己を明け渡し、恋人を神の腕の中に抱き留め、自己のアイデンティティをとおして、このような法悦を可能とする宇宙の神秘を感じる。

サトル呼吸の実践

「頭」「胸」「腹」という身体の三つの中心に注目する方法

統合医療の治療者は、しばしば、意識的な呼吸こそが健康を維持するための最高の実践であると言う。霊的修行の指導者は、意識的な呼吸が最高の霊的な実践であると言う。注意を内面に向けても、外面に向けても、私たちはそれから逃れることはできない。どのように呼吸するかは、健康と意識と幸福感に大きな影響を与える

思考と感情

仏教の実践のひとつである「マインドフルネス」(mindfulness)は、「感情的意識」(feeling-awareness)と呼ばれるべき。また、「観想者」(Witness)の意識とは、より正確には、「感情的な目撃者の意識」(feeling witness consciousness)と呼ばれるべき。円滑に流れる感情とは、透徹した知性に息づく自然な側面。それは、一般的に考えられているものとは異なり、思考の対極にあるものではない。明晰な思考とは豊かな感情そのもの

コーザルボディに安息する

「何もないということ」(no-thing-ness)こそがコーザル・ボディの本質。それは、瞑想中の意識状態や深い睡眠状態を特徴づける「静止」と「静寂」と「空」と言うこともできる。

根源的な意識が、覚醒状態-夢見状態-熟睡状態をとおして維持される。不変の純粋な意識が自己認識し、安定化する。

スピリットと融合する高次の状態は、この途切れることのない意識の流れに自己を明け渡すことを伴う。そして、それは覚醒状態、夢見状態、熟睡状態という状態の変化をとおして、そこに流れ続けるものに寄り添い続ける。

(長いので、続く

 

 

【レビュー】ホールネス・ワークの続き

 

【要約・メモ】

 

●反応
ホールネス・ワークでは常に、体験に手順を合わせる。手順に体験を合わせるのではない。

ワークが円滑に進まないのであれば、気づいて取り込む必要があるものが他にもあるということ。そのような時は「反応が起きていないか」と確認する。反応が起きているのであれば、常にそれを優先する。なぜならそれが、この瞬間に起きていることだから。

「何が変化してくれないのか」ではなく、「他に何が存在しているのか」に注意を向ける。
簡単にいかないことをどこから捉えているのか、そう捉えている『私』を見つける。

すぐに統合しないと、失望やいら立ちを感じるかもしれない。これこそが「反応」で、反応が起きた場合、ただ別の『私』が出てきているだけ。がっかりしている『私』、いら立っている『私』も、混乱している『私』も、単純に他の『私』であるに過ぎない。「知覚している『私』」ではなく「反応している『私』」。ただ、それに気づき、プロセスに加えるだけ。

こうして反応している『私』に気づき、その存在を認め、大きさと形と感覚の質を特定した後は、すべての『気づき』との統合を受け入れたいかと尋ねる。受け入れたくないのであれば、「受け入れたくないという感覚に気づいている『私』はどこですか?」と聞く。

このプロセスは、あなたのありのままの体験を違う体験に変えようとするものではない。この手順で使う言葉は、今のその瞬間の実際の状態を感じられるように、最もできる限り受け入れやすい言葉を使う。

ホールネス・ワークはすべてを受け入れるとは、まさにこのこと。体験に現れるどのようなものにも気づき、しっかりとプロセスに取り込んで統合する手段がある。

反応が連鎖する時、その瞬間に起きていることの流れに乗ってしまうのが最もうまくいく方法。反応が現れる度にその一つひとつに気づき、別の反応が現れたらそれに意識を向ける。

サーフィンの練習と似ている。すでに過ぎていった波に乗ろうとして注意を向けていると、サーフィンができるようにはならない。この瞬間に来ている波に気づけたら、それに乗れるチャンスが出る。
ホールネス・ワークでもこの瞬間に来ている波に気づき続ければいい。初めのうちはたくさんの波が通り過ぎるのが速すぎて、乗れないかもしれない。波はどんどんやってくるし、大事なのは『今』起きている波。

反応は、大抵の場合、すぐに統合することができる。反応している『私』というのは、『気づき』との統合を受け入れやすい。ただシンプルに、反応している『私』の感覚を豊かな『気づき』の中に、そして豊かな『気づき』として溶けて混ざり合うように招く。


ワーク中に起こる反応とは、ワークの進捗を遅らせるものではなく、それこそが実際に必要なワークなのだと認識することが大切。なぜならホールネス・ワークで現れる反応とは、実生活の中でも繰り返し起きている習慣的なパターンになってる可能性が非常に高いから。反応が現れたなら、とても人間的で根本的な反応の癖を統合するチャンスなのだと思う。

どの反応も、どの『私』も、もともとは意識という全体の一部ということを覚えておく。反応している『私』にはどれも、私たちのために成し遂げようとしているポジティブな目的や使命があるからこそ反応しているのであり、どの目的や使命も私たちにとって大切なものばかり。

しかし私たちの一側面である『私』が自動運転モードに入り、習慣的な定着した方法で反応してしまうと、そうしたポジティブな目的や使命が十分に達成されなくなってしまう。定着してしまった反応のパターンが全体へ溶け込んでいくと、ポジティブな目的や使命は、私たちの存在すべてで使えるようになる。

人は皆、普段の生活の中で自分が示している反応に慣れ過ぎてしまい、それが当然だと感じる。そこにあるのが当たり前過ぎて、困惑やイライラ、あるいは物事を無理に特定の方向に進ませようとすることが当たり前になり過ぎて、それが反応だと認識できなくなる。その場で起きている反応を見逃しやすい。ホールネス・ワークの実践を通してこうしたものに気づき、統合していくことは私たちにとって非常に役に立つ。


●心地よい体験は、長く続く必要がない
精神的に「良い」状態に入ってそれにしがみついたり、維持させたりしようとするのが、このワークの目的ではない。良い体験を長続きさせようとしたり、続かないことを心配したりすることは、完璧な良質の体験に冷や水をかけて台無しにするようなもの。永遠に続くものなんて、初めから存在しない。それが現実。

一度手に入れたリラックスを長く維持するのではなく、その瞬間ごとの新鮮なリラックスを手に入れる。昨日のリラックスを、翌日まで頑張って維持する必要はない。

リラックスが持続しないもう一つの理由は、収縮した他の何かが、自分にも気づいて欲しい、統合へと招いて欲しいと願って姿を現しているから。

「昨日に戻っても意味がないわ、昨日の私は今の私とは別人だもの」──ルイス・キャロル『不思議の国のアリス』


●ラマナ・マハルシの教え 「私は誰?」という自問自答

このワークは、最も偉大な二〇世紀の賢人の一人、ラマナ・マハルシの教えから、インスピレーションを得て開発された。ラマナの教えの中心は「私は誰?」と自問自答させること。人とは、個々に分離した小さな自己の集合体なのではなく、一つの広大な「自己」なのだということを気づかせる。しかし、弟子たちが「私は誰?」と自問自答してみても、どこにも行き着くことができなかった。おそらく、あまりにも内部対話が多かったのだと思われる。最終的に人々は、ラマナの教えには万全な〝準備〟が必要なのだろうと結論付けた。多くの人々は、広大な真我ではなく、限定的な「自己」という認識しかなかった。

それならば、人々が持っている認識から始めた方が効果的。

1.分離した制限的な自己として自分を体験しているのであれば、分離した制限的な自己とは何か?
2.どのようにしてそれを見つけ、解消できるか?

「私は何者か?」と自問して広大な「真我」という荘厳な体験に至ることをただ願う代わりに、「私はどこなのか?」と問う。主観的にどこで『私』を体験しているのか?『私』の場所はどこなのか?
このように出発点を変える。すべての実体験には、それぞれの場所がある。
・『私』の場所はどこか?と尋ねられると、どの『私』から無意識に日常を過ごしているか発見できる。
・場所を見つけていくため、抽象的な概念に行き着くことを防ぎ、ダイレクトな体験で進められる。

広大な全体として体験するには、「受容と融合の瞑想」と呼ばれるシンプルな瞑想法の手順を使う。その結果、小さな『私』は瞬時に溶けていき、リラックスと、自分は存在しているのだという感覚を感じることができた。

【ホールネス・ワーク基本プロセス】

1 探求したい体験を選ぶ
2 感情の反応にアクセスする
3 『私』を見つける
4 二つ目と三つ目の『私』(『私』の連鎖)を見つける
5 『気づき』にアクセスする
6 最後の『私』が『気づき』との統合を受け入れるかどうかを感じる。
 「いいえ」の場合、他の『私』を見つける
7 はいの場合、それぞれの『私』が『気づき』と統合するよう招く
8 最初の感情の反応を『気づき』との統合へと招く
9 最初に扱った状況を今、どう感じるのかを確認する

【ホールネス・ワーク瞑想フォーマット】

始める前に:『気づき』を体験する


1 始まりを見つける(探求していく感覚を見つける)
2 『私』を見つける
3 『私』が『気づき』との統合を受け入れるかを感じ取る
 「いいえ」の場合、他の『私」を見つける
4 「はい」の場合、『私』を『気づき』との統合へと招く
5 最初の感覚を『気づき』との統合へと招く
6 『気づき』の中で、『気づき』としてくつろぐ


【感想】

コニリーはあくなき探求心、正直さの持ち主だ。自身を「最も難しいクライアント」と認め、「あらゆるメソッドを試してみたものの、助けになるものを見つけられなかった人々にも役に立つ、一連のメソッドを開発する結果につながった」と述べる。
コア・トランスフォーメーションでも十分な成果ともいえるし、指導者となった場合、悟ったフリをする人間が多いのに対して、コニリーはあくまでも謙虚に、自己欺瞞に陥らずに、足りないものは足りないと言ってのけることができる。

スピリチュアルのマスターに多く会いに行き、セミナーにも参加したようだが、実際どの方面に行ったのかは興味がある。

コンテンツではなく、コンテキストに意識を向ける。これはNLPを初めとするメソッドに共通しているが、『私』の「場所」やその「感覚(の質)」というのは、コニリーの独自性といっていいだろう。

とはいえ、自分の開発したメソッドをあまりにも自画自賛しすぎるところがある。
無理ないように、力を加えない、というのがホールネスの中心的な方針だが、あくまでもホールネス・ワーク内であって、すべてにおいて自然に、というわけではない。時にはや意志の力でのコントロールは必要になる。そもそもそれができなければ、食事も買い物も行けなくなる。問題はコントロールすべきでないものを、無理してコントロールしてしまうところにある。日常生活含め、すべて無努力で自然に行えるのが理想的ではあるが。

【批判点(訳)】

気づき:原語はアウェアネス(Awareness)だが、日本語に相当する言葉はない。あえて言うなら「意識」だが、日本語の意識は多義語であるため、それも語弊を招く。「気づき」というのは、「気づく」という動詞の名詞化だが、意識的な気づきや「注意」の意味になってしまう。それは、英語であれば、ConciousやMindfulで別の言葉になっている。なので、無理に「気づき」とはせず、「アウェアネス」のままの方がいい。

気づきのように
原語が、as awarenessなので、asの意味として、訳語は「のように」ではなく、「として」であるべきだと思う。「のように」は比喩になってしまい、同一ではないことを示唆するが、「として」であれば同一であることを意味する。Awarenessと一つに統合していくのだから、「同一」である必要がある。

統合のプロセスの中で、
「『私』の感覚が、豊かな『気づき』のように、そしてその中に開いてリラックスするよう招かれる」
とあるが、
原語は、
invited to open and relax in and as the fullness of Awareness
なので、inで『気づき』の中へ入り、そしてasで『気づき』として招かれるということ。

「『私』の感覚が開いて、豊かな『気づき』の中に、そして『気づき』として、リラックスするよう招かれる」
open and relaxというのは訳しにくい。英語の語順を日本語に直そうとするとかなり苦労する。

 

二番目の統合の方向も同様に
「『気づき』は開いて、『私』の場所にある感覚の中に、そして感覚として、リラックスすることもできます」
三番目の統合の方向では、「感覚として」とasを正しく訳している。


【コア・トランスフォーメーション他との比較】
フェルトセンスを重要にするのは、フォーカシングや、コア・トランスフォーメーションと共通している。ただし、それらが、その意味や目的を見出していく、つまり言語化が必要であるのに対して、ホールネス・プロセスでは、言語化は不要で、感覚にのみ注意を向ける。

そのため、感覚にしっかりとアソシエイトしていないと、単なるイメージで遊んでいるだけになって、若干リラックスした程度の、表面的な結果しか得られない。どれだけしっかりと感覚の質を感じられるかが決め手だと思う。

それからプロセスの意味はしっかり理解しておく必要がある。症状や感覚の意味を理解する必要はないが、プロセスの意義を理解していないと、やはり表面的なもので終わってしまい、言語化されないがゆえに、変容されたという感じは得られない。

コア・トランスフォーメーションでは、「パート」という言葉が使われていたが、ホールネス・プロセスでは、「反応」もしくは(小さな)『私』として表現されている。「パート」としてしまうと、擬人化したような感じなので、意図を探索する方向に向かうが、「反応」として扱えば、その感覚の質を意識することになるからだろう。


アイデンティティを中心に置くのは「ニューロロジカル・レベル」などでも同様に言及される。行動を変容させるよりも、ビリーフやセルフ・イメージを変えた方がいいとしている。ホールネスの場合もアイデンティティにアプローチするが、その意味は言語化せず、感覚でとらえるところが異なる。症状を「見ている私」という角度からとらえる点も異なる。また、アイデンティティを特定の「〇〇ができる私」と変えていくのではなく、独自の人格から解放された、無形の、アウェアネスとする点が根本的に異なる。

【マインドフルネスとの共通点】

マインドフルネスではしばしば「ラベリング」のテクニックが使われる。
ただし、感情に気づき、ラベリングしても、感情が静まらないことがある。かえって掴んでしまう。

ポイントは、その「気づき」が、どこに向かうかである。
そんなときは、思考や感情について、「自分が気づいている点」に気づくようにする。その瞬間、距離が置かれる。掴んでいる主体に対して気づきを入れることは、その掴みをゆるめることになる。しかし掴まれている方に対して気づきを入れても、緩まらず、かえって掴みを強固にする可能性がある。

コニリーは、マインドフルネスと異なっている、と述べているが、「見ている私」からさらにそれを見ている私を探すのは、ディタッチメント(分離)を行うことになり、この点マインドフルネスと同一である

「私」というのは常に盲点になるその盲点には、掴むことや思い込み・前提などが隠されている。『私』の連鎖をさかのぼるのは、その盲点を暴き出す役割を持つ。

見ている自分に意識を向けるのは重要なポイントといえる。分離した私の連鎖をたどっていき、十分に緩んだ地点まで遡っていくのは、有効な気づきを得るポイントでもある。掴んでいる自己を緩ませるというが、実際遡っていくとすでに緩んでいる。

論理的には無限連鎖もあるが、きちんと進めていけば、段々と希薄化されていき、やがて周囲を包むような感じになり、最後は位置が特定できなくなり、アウェアネス(気づき)そのものになる。アウェアネスには特定の位置もなければ、厚みもない。単なる空間というか、実際には空間というのも不適切だが。

分離した自己や最初の症状が緩む理由だが、意図的にリラックスしている部分も大きいと思うが、アウェアネスそのものがリラックスしており、そこに意識を移すと、リラックス状態になる。そうすると、最初の症状もすでに緩んでしまう。
あとは逆の連鎖をたどって、リラックス状態に招き入れるというか、確認していくような感じだろうと思う。

とはいえ、コリニーが指摘しているように、マインドフルネスで目撃者(Witness)を重視しすぎると、二元性が強化される場合があり、見ている私を辿った後、すべてアウェアネスに統合していくプロセスは重要だろう。

また感覚とアウェアネスは直接体験に属しており、意味や解釈といった思考とは別次元にある。そのため、感覚の質をじっくり感じて、思考に陥らないようにしている。
マインドフルネスも、思考が入り込む前の状態の気づきを重視する。

【ノン・デュアリティとの比較】

いずれも、アウェアネスにアプローチするものの、そのやり方は異なる。
伝統的なノン・デュアリティの系統では、Inquiry(探索)を行う。

Who am I?

探索を行った結果、『私』は見つからない、という結論になる。
『私』が存在しない」という認識は、このホールネス・プロセスにおける、単に「私」をアウェアネスと統合していくのとは異なる。
いずれも、結果的に、分離した自己は存在しないという認識に導き、自己の本質は、全体性、アウェアネスそのものであるという認識に導く

「ラマナの弟子が、たどり着かなかった」というコニリーの主張には、クエスチョンマークが付く。ラマナの影響は大きいので、確かに全く結果の出せなかった弟子たちの一派もいるだろう。

一方、現在のノン・デュアリティの流派は元をたどれば、ラマナに発している。

はっきりと「無我」を自覚しない限りは、やはり「分離した自己」への幻想は断ち切れない。

一方、仏教やヒンドゥー教のような東洋の教えでは、「私」は、あくまでも認識対象であって、具体的なイメージや感覚、そして場所に落とし込むことはない。せいぜい、それらは「ネーティ、ネーティ」とやって、それらは「イメージ」や「感覚」であって、「自己」ではないとするぐらいだ。なので、場所を特定して、その感覚の質を感じ、それを溶かしこんでいく、というのはコニリーが生み出した傑作だと思う。

私の連鎖を利用して、さかのぼってくというのも非常に特徴的なので、ホールネス・ワークの価値は大きい。

「私」や感覚が、統合される第三の方向は非常に示唆に飛んでいる。
最終的に、主体と客体の未分離ワンテイストに至る。我々は何かを経験するとき、経験する主体と、経験の対象に分けて考えるが、実際の経験ではそのような分離はなく、一撃、1つのテイストしかない。ここまで含んでいるホールネス・プロセスは非常に奥が深い。

3つの方向性は、『般若心経』で言う、「色即是空」「空即是色」「空不異色」に対応しているようにも思える。

ノン・デュアリティのもう一つの重要な点は、最初からすでに完成しているのだから、そこに到達するために何かをする必要は一切ない、というもの。この観点では、Who am I?の探索にしろ、ホールネス・ワークにしろすべて却下される。それでも本書の最後の方に、最後の半分ジョークのような、エデンの園についての神と蛇の対話で、「では、人生の目的とは?」というところで

 本当は、一瞬たりともエデンの園の外には出ていない事実に気づくことだ。

という点は、ノン・デュアリティの主張そのもので興味深い。
 

【タイトル】 ホールネス・ワーク
【著者】  コニレイ・アンドレアス
【ページ数】 480

 

 


【読むきっかけ】 3年前に『コア・トランスフォーメーション』の続編を探しているときに知って、洋書を入手して読んだのがきっかけ。
【何を得ようと思ったか】コニレイが、 変容(トランスフォーメーション)から、ノン・デュアリティへの移行した点に興味を持ち、どのような手法なのか知りたいと思い。

【対象】  シンプルで無理のない方法で、感情に取り組みリラックスしたい人。瞑想やスピリチュアリティ(特にノン・デュアリティ系)に興味のある人。


【評価:★5段階で】
 難易度:★★★
 分かりやすさ:★★★★
 ユニークさ:★★★★★
 お勧め度:★★★★★

【要約・メモ】


●ホールネスの目的
ホールネス:「全体性」や「全体感」を意味する言葉。

ホールネスは健康問題から人間関係、自己コントロールなど様々な領域を扱うことができ、本書では、①問題に取り組むために使う方法、②瞑想として使う方法の二種類を紹介している。

1.自分に対して制限や限界を課してしまう無意識の基本的構造を知る
2.その基本的構造を溶かして統合し、今までとは異なる方法で自由に体験できる

行動を変えることで変化が起きる場合もあるが、行動の変化だけに集中すると、古い行動を作り出していた内部構造は残されたままとなる。まるで壁の塗装にペンキを上塗りするようなもので、部屋の見た目は変わっても修繕の下に隠された古い塗装やもろくなった支柱は、前と何も変わらないのと同じである。

この根本的な変化は、外側から押し付けられたものではなく、自己の存在の最も深い部分で「ホールネス(全体性)に至る」体験をしたことで、自然に起きること。

●ホールネスの誕生
ミルトン・エリクソン氏からの「奇跡」「恩寵」とも言われるような得難い体験がどのように起こるのか注目した。
長年セラピーに通い続けながらも、完全に癒やされたと感じることができない人が大勢いる事実から、セラピーのモデルには何かが欠けている。

一方のスピリチュアリティの世界では「覚醒」、突然の劇的な好転変化が起きたという報告もある。しかしその先生たちは、『そこへ到達する』ためにできることは何もない、それを理解することは不可能、神の恩寵にかかわるもので予期せずに起こると言う。「もしも手順が編み出せるとしたら、それは本物の覚醒ではない」と。手順を求めると急に説明が漠然とし、呼吸法、キャンドルの炎に集中など、繰り返し同じ手法へと引き戻そうとする。

しかし、具体的な手順は存在している。
私(コニリー)の背景にある精神的変容という分野は、成功した人々をモデリングして彼らの無意識の構造を紐解き、同じ結果を他者が出せる手順を作り出す。
注意散漫で分断されたマインドに対処するために非常に効果的なメソッドが存在する。核心へと降りていき、それを歓迎し、融合し、溶けるように招く。「小さな自分」から解放されて、覚醒の体験が確実にもたらされる手順である。

とはいえ、本書のプロセスで、瞬時に完全な覚醒に至ることはほとんど起こらない。でも、多く一致した方向に即座の変化を常に出し続けることは事実。

●東洋のスピリチュアリティに共通した考え方
苦痛は、分離によって引き起こされるというもの。悟りや覚醒は、自分が再び「生きとし生けるものと一つになる」体験を伴う。
私たちが体験する最も重大な分離とは、自分と外の世界との分離ではなく、自分の内面における分離である。分離された『私』が形成される時、一人ひとりの内面で小さな『私』、もしくは「小さな自分」が、意識全体から切り離される。

『私』を発見して溶かすシンプルなエクササイズは、全体性の体験、すなわち分離していない状態に直に戻ることができる方法である。このプロセスを「統合」と呼ぶことができる。分離していたものが再び一つになり、全体へと戻る

多くのセラピー的な手法は、身体で感じる緊張感だけでなく、気持ちや感情にも直接働きかけることで変化させようと試みるが、結局は、それが一番難しいやり方。その代わりに、その感覚を知覚している『私』を見つけ、その『私』を溶かすことで苦しみや不快感などの最初の感覚が苦もなく自然に消える。

●自我とは『私』
「自我を溶かす」と言うと、何かを失うように聞こえるが、そうではない。優しくて穏やかなもので、大切なものはすべて残る

外の世界のあらゆるものには「場所」がある。私たちの内面の世界でも、人が思考するすべてに特定の位置や場所がある。想像する、体験するすべての気持ちに場所がある。『私』を見つけようとする時も、自分の内的世界における特定の場所に気づくことができる。
『私』には、コーヒーカップやホワイトボードのような実体がない。『私』がすぐに見つからない人は、外の世界のものと同じように実体のある何かを探そうとする。どちらかと言えば、単なる感覚のようなもの。ほとんどの場合、特定の場所で「ここだ」という感覚を感じるだけ。わからない時はただ推測する。それでもうまくいく。

●気づき
境界線という感覚はない。「この線の向こう側で音がしても、私には聞こえない」という、空間の線引きがない。体験として、ただ『気づき』があり、そこに制限という感覚はない。
大切なのは、私の身体全体に、そして周囲の空間のいたるところにすでに存在している、簡単で、努力を必要としない、境界線のない『気づき』に気づくことができるということ。


●赤ちゃん
人は赤ちゃんの時、分離した自己の感覚を持っていない。体験とは、「ただ起きていること」。どこまでが自分の身体でどこからが椅子なのか、またはどこからが他の人の身体なのかを区別できない。すべてが体験。

成長するにつれて自我が発達し、分離の意識が育っていく。さらに自我が発達すると、自分の中でも分離が起きるようになる。例えば、「○○しなければと考える自分がいる。でも同時に△△したい自分もいる」など、葛藤と呼ばれる状態はその一例。ホールネス・ワークは、内面で作られてしまったネガティブな影響をもたらす分離を、再び、境界線のない全体性や一体性へと戻す。

●『気づき』のフィールドよりも小さな『私』
『私』の場所を探求した時、全員が空間の小さな場所を見つける。どれもが、意識全体よりずっと小さく、気づきの豊かなフィールドよりずっと小さいものである。

しかし、自分の意識全体が私であり、いついかなる時でもつながることができる『気づき』の豊かなフィールドが私であることは明白な事実。私とは、それ以下の存在ではないことも確か。「私とは空間の小さな場所」よりも、「私とは『気づき』の豊かなフィールド」と答えたほうが、より真実に近い。

「私は問題を解決する」と人が思う度に、解決しようとしている『私』は、『気づき』のフィールド全体よりはるかに小さな『私』である。本当の自分よりも小さな存在として問題を解決しようとしている。収縮した場所で生きることは、制限的な生き方になる。

意識のすべてを使うことなく、完全な創造力や知恵をどのように活用できるだろうか。『気づき』の完全なフィールドとは、神経系全体で何かを体験すること

●ビリーフ
現実への歪曲や制限になるビリーフ(思い込み)は、小さな『私』によって固定されている。『私』を溶かすと、制限になるビリーフも溶けてしまう。
小さな『私』そのものが真実や現実の歪曲なので、小さな『私』は現実を歪曲するビリーフを持っている。実際の意識の豊かさに比べ小さくて制限されているため、自分は何者で、どのような能力を持っているのかに対して限られたビリーフを持っている。

ホールネス・ワークでは、ビリーフを溶かして変容させる上で、その詳細を知る必要はない。

●小さな『私』の存在目的
『私』がリラックスして統合した時、『私』の存在目的がどのようなものであっても、存在のすべてでその目的を果たせるようになる。たとえそれが何かはわからなくても、果たそうとしていたポジティブな目的は、私たちのシステム全体が引き受けてくれるようになる。

例えば、『私』が不安や緊張を感じる時、私たちを守ることがその目的であることが多い。しかしその小さな『私』は、空間の中で縮こまっており、限られた小さな場所からこの目的を果たそうとしているため、リソースが限られている。硬直して縮こまった『私』は限られた視点しか持っていないから、逆に私たちの安全を脅かしているかもしれない。

こうした『私』の一つが『気づき』のように溶ける時、安全という目的は守られつつ、現実に起きていることにもっと気づける。『気づき』として存在していれば、危険を察知でき、対処できる。状況が安全で、今は何もしなくて大丈夫と気づけるようになり、にエネルギーを蓄えておくことができる。


●『私』の形成
1.成長する過程で親や保護者をモデリング
小さな『私』を持っている親や保護者の行動をコピーし、親の姿勢、動き方、目の焦点の合わせ方などをモデリングする。親と似たような小さく収縮した『私』の形成も避けられない。

2. 
相手が、限られた小さな場所を指して私のことを言っていると気づいたとき、無意識は「指された小さな場所が私だ」と思ってしまう。これが学習の瞬間となる。

●拳を握るメタファ
小さな『私』とは、意識が収縮したものであり、手で拳を握るのと似ている。拳を握っていたことを忘れ、無意識である限り、疲労の原因や、何が起きているのかを自分で認識することができない。自分自身が原因を作っていることに気づくことができない

握られて収縮したこの手に意識が戻ってきた時、何が起きるのか? 手は、どうしたいのかをちゃんと知っている。筋肉もちゃんと知っている。それがただ、起こり始める。まるで手が、「ああ、よかった! やっと気づいてくれたのね。もう、うんざりしていたのよ!」と言っているかのように。
手をリラックスさせた時でも何も失わない。それどころか、手が解放されたことで、手を使ってできることの範囲がさらに広がる。

同じことが収縮した『私』にも起こる。再び『気づき』がそこに戻ると、自然と開き、リラックスして溶けるということが、ただ自然に起こる。
しかし『気づき』がそこに戻るまで、その場所への知覚が戻るまで、そうした現象は起こることがない。なぜなら無意識の習慣だから。

変化とはひとりでに起きる。意識的に何かをする必要はない。リラックスした状態へと『私』を招き入れる時、「無理に何かを起こそう」と頑張るより、自然と起こるがままにさせてあげる方が簡単。

『私』を無理にリラックスさせようとすることは、左手で、右の拳を力ずくで開かせようとするようなもの。結局はさらに身体に力を加え、緊張を増やすだけ。

もしも、リラックスし、溶けるというのがどのように起こるべきなのかを知っていると私が考えていたなら、その私はやはり分離した立場から考えている私であり、うまくはいかない。拳が簡単にリラックスできる方法は、この場所の筋肉が知っている。感覚と『気づき』が出会ったとき、「知る」ということが起こる。「知る」はもともとそこあるものなので、他の場所ではなくその場所で起こる。

一部のセラピー的アプローチには、無理やり変化を起こそうとするが、一層の緊張を与えている。変化を強制することで、特定の作用を生み出す。一時的に問題が解決する場合でも、同時に新たな問題や緊張も生み出す。力を加えることでは根本的な統合や変容は絶対に生み出されない

●無理強いしない
ホールネス・ワークの真髄は、「力を加えないこと」。無理に統合させようと意識で考えてしまったり、ワークを成功させなければなどと思ってしまったりすることは、自らの精神に「力を加える」ことにつながる。『私』が統合したいと願い、自然と統合が起きてしまうのであれば、「そうさせてあげる」という意味で「招く」という表現を使っている。

何らかの決まった形で起こるべきものでもないし、必ずしも何かが起きない場合だってある。唯一起こるべきことがあるとすれば、今のあなたに実際に起きたことが、起こるべきことだったということ。プロセスのどの手順でも、常にそれが一人ひとりに起こるべきこと。
すべての体験を、愛情を込めてプロセスに入れていく。自然に溶けても溶けなくてもどちらも同じように素晴らしいこと。
唯一大切なことは、強引に突き進もうとしないこと、そして無理強いしないこと。


●ホールネスのプロセス

1. 扱う問題を選ぶ。

2. 感情の反応にアクセスする
 ・その問題や状況が今ここで起きていると想像する
 ・それが起きると、自分の感情がどのように反応しているかに気づく

3. カギとなる三つの質問
「その感情の反応はどこにありますか?」
「それはどのような大きさ、形ですか?」
「どのような感覚の質ですか?」

それが占めている場所の表面だけでなく、内部まで入り込む。それはスカスカしていて空気みたいなのか、逆に密度が濃いのか、温かいか、冷たいか、軽いか、重いか、明るいか、暗いか、静止しているか、動いているかなどと確認する。

4. 私の連鎖

『私』はどこにありますか?」と尋ねる。
代わりに「その知覚はどこから起きていますか?」と尋ねることもできる。

「きりがない。別の『私』はいくつでも見つけられる!」と思うかもしれない。うまく進めていくためには、通常、三つから五つの『私』が見つかれば十分。三つ目の『私』の密度が比較的濃い場合は四つ目以降の『私』も聞いていき、より実体のない『私』が見つかるまで探し続ける。

5. 統合
統合とは、二つだったものが一つになること。始める段階では『私』は『気づき』という体験から分離している。この二つに分かれたものが一つになるように招く時、空間の中の小さな特定の場所にあったものが、『気づき』のフィールド全体へとリラックスして溶け込んでいく。

このプロセスの全体を通して、身体と心のシステムが望むものが何であれ、それを見つけ出し、その通りにしてあげること。システムが受け入れたくない何かを押し付けることは絶対にしない。

時には、前の『私』が完全になくなっていることもある。これは、統合が自発的に起きたことを示す。もし何かが残っていたら、それがなんであれ、統合へと招く。

大きな変化を体験した人は、あなたというシステムの中にこの統合が定着し続けるように、プロセスが終わった後に少し時間を取る。頑張ることを必要としない、穏やかな気持ちになれることをする。五分や一〇分でも効果はある。例えば、

 ・自分のための静かな時間を過ごす
 ・散歩に行く
 ・自然の中で過ごす
 ・温かいお風呂に入る


ただ座ってくつろぐのとは違う、さらに深い次元でのリラクゼーションが起きる。単に筋肉を緩めるのではなく、精神や心の緊張を和らげることだから。
意識がわずかに収縮することから小さな複数の『私』が形成されていき、「思考の緊張」と呼ばれる状態を作っていく。このような緊張が存在する時、筋肉にも必ず緊張が生み出される。したがって、精神がリラックスしている状態の時は、同様に筋肉もリラックスしている。

●私の層
多くの場合、『私』の層は二つだけではない。たくさんの層が重なっている。最初に見つけた『私』だけでなく、さらなる『私』の層を見つけていくことで、結果に大きな違いが生まれる。
層を成している『私』は、マトリョーシカ人形と同じで、一番内側の人形を取り出したければ、まずは外側から外していく。
外側の『私』の存在に気づかずに内側の『私』を統合へと招くことから始めてしまうと、大抵の場合、外側の『私』が内側の『私』の十分な統合を妨害してくる

本来、エゴは一つしかないと言われてきたが、実際に入れ子や層のような形状となっている。エゴを溶かし、解消することが苦しみから解放される真の方法であるならば、エゴ、『私』の構造を知ることは、永続的で意味のある変化を起こすために非常に重要。


●『私』の場所を推測する
推測は、無意識の体験に意識的に気づく許可を自分に与えているのと同じ。推測したものが探していたものだということもあるし、そうでなくても、認識して統合する価値のある内的体験の一つの側面に気づかせてくれる。
自分の推測を信頼して、推測で得た答えをワークに使っていくことで、無意識の体験に気づきやすくなり、推測もさらに正確になっていく。
もしもわかるとしたら、それはどこにありますか?」「もしも『私』があるとしたら、その場所はどこですか?」と仮定的に尋ねる。

●部分的な統合
連鎖の後半で、密度の濃い『私』でさえ、少なくとも部分的には統合を受け入れることがある。
『私』が一度に完全に溶けることが「自然」ではないこともある。今、その瞬間の自分のシステムに合う方法でリラックスするように招く。「五〇%だけリラックスしたらどうなるのか?」を実験したいと望んでもよい。

●身体感覚と宇宙

人によって統合の体験はそれぞれ異なる。『気づき』のフィールドのすべてに溶け込むように感じたり、身体中に流れるように感じたりする。
感覚としての「全体」は、主に身体感覚として感じられることが多く、身体の特定部分で強く感じることが多い。

全宇宙との壮大な統合などではなく、身体の内側だけで、エネルギーが身体中に流れるように広がっていくことがある。そのような時は無理に壮大な統合へと広げようとはせず、身体の内側全体にだけ広がらせてあげる。それが自然に起こることなのであれば、それでよい。それがその感覚独自のホールネスである。

普遍的に言えることは、何かが完全に統合された時には、境界線や限定的な領域は感じない。それがどれだけの空間を占めているか、いないかは関係ない。

ただ自然に任せるだけ。起きていることをリラックスして受け入れることができるなら、それこそがシステムの知恵を本当の意味で信頼できていることになる。

●『気づき』のメタファー
東洋のスピリチュアリティでは、『気づき』とはのようだと教える。鏡はあらゆるものを映すことができるが、鏡自体は中立的で損傷を受けることはない。『気づき』のフィールドも同じで、どのようなものがそこに含まれていても無傷なまま。難しい体験に取り組んでいる時は、このことに気づくと安心する。

しかし、鏡のメタファーは、『気づき』がどのように統合し、癒やしてくれるのか教えてくれない。
コンポスト(生ゴミを堆肥に変える容器)」も『気づき』のためのメタファー。コンポストは、人が食べ残したものや、腐っていたり、カビが生えたりしたものでさえも受け入れる。そうした食物が基本元素へと自然に分解されて肥沃な土へと戻り、植物を育てるための媒体に変容していく。同じように、『気づき』のフィールドも、私たちが体験することすべてを受け入れてくれる。自分のどのような一面だったとしても、『気づき』のフィールドへと差し出されると、溶け込み、溶け合って『気づき』のフィールドを豊かにする
良い体験も悪い体験もすべて、自分の好きな一面も嫌いな一面も、『気づき』のフィールドによって変容させてあげられれば、すべてが私たちを豊かにしてくれる材料となる。

自然界から引き出される描写には、言葉にならないものを言語化する以上の恩恵がある。

液体→気体(蒸発)
太陽の光が届くと、霧は自然と消えていく。

固体→液体(溶解)
結晶が周囲の液体に溶け込んでいく。

●人間関係における一般的な四つの改善
人間関係における「感情のスイッチ」にワークを使う時、驚くような変化が起こる。

1.自分自身の反応が変わる、そして気持ちが穏やかになる
感情のスイッチは押されるけれども、重大な危害などは被らない物事に対して起こりうる反応。相手が同じ行動を起こし続けたとしても気にならなくなる。

「癒された」「統合された」時、自分を悩ませていたものが、実は大した問題ではないことに気づく。そのことに対して感情が動かなくなったり、ただ穏やかな気持ちしか感じなくなったりする。自分の感情を抑圧したり、実際に感じていることを無視して「良い人」になろうとしたりするのとはまったく逆のこと。

2.自分を自由に表現し、本心を語ることができる
反応として現れる感情をすべて含めることで、そうした反応の中に封じ込められていた知恵は一つも消えることなくそこに残り、より良い形で表現できるようになる
はっきりと何かを言わなければならない場合でも、言いたいことが自分の中で明確に整理されて、簡単に言えるようになっていく。

3.問題が消える
自分の感情のスイッチが押されるような他者の行動に対してホールネス・ワークを行うと、不思議なことに、その相手が「スイッチを押すようなこと」をしなくなる場合がある。

内面で深い穏やかさを感じている人に対して、苛立ちを感じることが難しい。感情の反応を変容させて内面の統合された感覚を高めれば高めるほど、他の誰かの感情のスイッチをうっかり押してしまう可能性も低くなる。

しかし、相手を変えようと思いながら行なっても、うまくいかない可能性が高い。相手を変えようとしていることは相手にも伝わるし、何かを強制しようとすることで、逆に相手の態度をかたくなにしてしまう。人は誰しも相手に変わって欲しいと感じることがある。それは自分の一面であり、愛を持って、ホールネス・ワークに含めていく。「相手に変わって欲しいと思っている『私』はどこだろう?」と聞けばいい。

4.時には、関係を終わらせる必要もある
相手との関係を解消することが、自分の境界線を尊重する上で、自分の望みやニーズを表現するための最善の方法であると気づく場合がある。
誰かとの人間関係によって触発される感情や反応を統合していくと、私たちはますます全体性という在り方から行動できる。そうした在り方においては、決断が、より大きな英知からもたらされる。


●直接体験
ホールネス・ワークが変容をもたらす理由の一つは、自分の体験に与えた意味や解釈から、違うレベルの現実へと移行できるから。
このレベルを直接体験と呼ぶ。感覚の質を体験するときに気づいているもの。このレベルの現実に移行すると深い変容が可能になるだけでなく、簡単になる。直接体験とは、意味や解釈を加える前の体験。赤ちゃんが世界を体験するのと似ている。

例えば、「私は悲しい」と言った時、多くの人が、自分は体験を共有していると思っている。しかし、実際には直接体験を共有しているのではなく、相手が共感できる形で自分の体験を表現している。

直接体験であれば、例えば「胸のあたりがなんとなく重く感じます、大きさはだいたい両手を合わせたくらいです」となる。しかし、そう伝えたとしても、相手はどう反応していいかわからない。そこで人は、自分の体験を解釈、分類し、「悲しい」や「緊張する」など名前を付けて表現することで、同じ分類の体験をしている相手は理解する。便利で効果的だが、体験を符号化したり、名前を付けたりすることで、さらに固定された体験を作り出してしまう。こうしたレベルの体験に注意を向け続ける限り、変容は起こせない。

自分の体験に意味付けをすることは、直接体験の上に層を重ねていくようなもので、上に重ねられた層に注意を向けてしまうと、実際の体験を変えることが難しくなる。

感覚の質の代わりに、意味や解釈で答える例で最も多いもの

1.感情 (どう感じるか)
2.動機や意図 (何をやろうとしているのか)
3.機能 (実際に何をしているのか)
4.原因 (『私』が形成された理由)
5.結果 (そのために何が起きるのか)
6.比喩

「痛み」は、感覚の質のようだが、実は体験の解釈で、感覚そのものからは少し離れる。鈍い痛み、ズキズキする痛み、刺すような痛みなど。
言い表す言葉がなかったとしても、体験そのものに気づくためには、ひと呼吸置くことが役に立つ。

感情も含め、自分自身を受け入れる大切さについて多く語られてきた。しかし、受け入れているのが「解釈」であるならば、プロセスは不完全になる。問題が固定され、型にはまってしまう
ホールネス・ワークでは、解釈レベルで受け入れるよりももっと本質的な受け入れができるようになる。

直接体験や感覚の質に注意が向いていると、自分の体験が溶けたり、『気づき』のフィールドと融合しやすくなったりする。その理由は、『気づき』そのものが、直接体験のレベルだから。意味が『気づき』と統合することは不可能だが、感覚が『気づき』と統合することはできる。意味と『気づき』は異なるレベルの体験

●ストーリー
「ストーリー」とは、事実に基づく説明ではなく、出来事に対する意味付けや、抱いてきた感情の物語を指す。

そのようなストーリーを書き換えたり、修正したり、新しいものに置き換えようとする。しかし、そのようなレベルで完全に解決はできない。

時折、スピリチュアリティの先生やセラピスト、ライフ・コーチは、ストーリーを手放すように指導する。しかし、大抵の人は「ストーリーをただ手放す」ことはできないと知る。

ホールネス・ワークは、ストーリーがまだ作られていないレベルの体験にアクセスする。そして、この「直接的な体験」のレベルで変容が起こることで、その体験に関するストーリーも変容する。ストーリーが存在しない現実、まだ何も傷ついていなかった現実に戻り、その状態で生き始めるということが起きる。

例えば、「だから私は悲しかった」というストーリーなら、「それに気づいている『私』はどこにありますか?」と尋ねる。この「気づいている『私』」こそがストーリーを作り出しているのであり、この『私』が溶けていくとともに、ストーリーも溶けていく。

だからと言って、人生で起きたことを忘れるという意味でも、人生のエピソードを他の人たちと共有して楽しむこともできないという意味でもない。もう映画を観なくなるという意味でもない。多くのストーリーが間違っているという意味でもない。

内なる分離を見つけ、統合へと招く、それがすべて。

ホールネス・ワークによって溶けるのは、事実に上塗りするように重ねてきた「被せもの」。
事実を覆っていた「被せもの」を溶かすと、私たちはただそこに存在し、自分のすべての能力を発揮して人生のあらゆる状況に対処することができる。なぜなら、物事の実際の在り方を受け入れ、状況に応じて自身の最大限の創造力や知性、共感力をこれまで以上に呼び起こすことができるようになるから。


●ホールネス・ワークに独自性や、普遍的な効果をもたらす「九つの鍵」
これらの鍵を理解することで、ワークをより深く体験できるようになる人もいる。

1.『私』を見つける(気づいている自分)
『私』を見つけるやり方は、セラピーの世界においては他に類を見ない。

大半のチェンジワーク(自己変容を促す)が、感情をどのように変化させ、管理するかに焦点を当てる。実はこれは、非常に難しいやり方である。
その代わりにホールネス・ワークでは、『気づき』の外にあるもの、それに気づいている『私』に焦点を当てる。これに意識的に『気づく』ことで、状況がガラッと変わる。なぜなら小さな『私』には、感情の反応をある程度まで作り出すビリーフや前提が含まれているため。感情を直接変えようとしても、それを作り出した小さな『私』が残ったままでは、同じ感情の反応がまた作り出される。
スピリチュアリティの世界では、「偽りの自己という感覚」について言及している東洋の教えがたくさんある。そこでは「小さな私など本当は存在しない」と教えている。「分離した自己の感覚などは幻想である。自分が本当は何者なのかに、ただ、気づくことが重要。唯一存在するのは、万物を、そして自己のすべてを包含する大きな自分だけである」
このフレームワークに欠けているのは、「小さな私」が人の内部体験に実際に存在しており、特定の居場所もあるという認識。日常の中で私たちが頻繁に口にする『私』は、内面の世界において認識され、直接働きかける必要がある。
つまり、スピリチュアルな教えが「小さな私など幻想であり、ありのままの広大な自己にただ気づきなさい」と語る時、必要不可欠なステップを飛ばしてしまう

ありのままの広大な自己を体験するだけのアプローチでは、小さく収縮した『私』は変わらずそこに残り続ける。そして、身体の委縮や緊張を伴う収縮した精神として、気づかれないままそこに残る傾向にある。

2.『私』を一つだけ見つけるのではなく、『私』の連鎖を見つけていく
こうした『私』の層が見つけられると、ワークはさらに簡単に、そして深遠なものになっていく。私たちがアクセスし、変容させているものは、無意識の深いところに埋もれていた何かで、一般化をする上でより広範に渡って私たちに影響を与えてきた何か。

3.『気づき』が意味するものが明解である
深い変容を実際に起こすためには、『気づき』が何を意味するのか参考にできるような体験が必要。
「気づき」は、スピリチュアリティの世界では頻繁に使われる言葉である。
多くの受講生たちが、内面と外側のあらゆるところに存在する、すべてを包み込む広がりの感覚を体験するのではなく、周囲の空間に限定された体験をしていた。限定的な気づきの体験をしている場合、プロセスはうまくいかない

高名な先生の話を聞いたクライアントは、『気づき』を「すべての内なる思考や対話、反応への気づき」と説明したが、「内なる思考や反応のすべてに気づいている場所はどこですか?」と聞かれると、彼女は頭の上の後ろのほうにある小さな点を指した。つまり、それは小さな『私』の一つ、連鎖の中の『私』であり、『気づき』の豊かなフィールドではない。
『気づき』の参照体験を提供することで、境界線や「縁」のない広大な存在としての『気づき』を簡単に、すぐに体験することができる。

『気づき』は「単なる空間」として体験されることが多いのに、『私』を『気づき』へ統合すると『気づき』は豊かさを増す。プロセスを行えば行うほど、『気づき』はますます境界線のない、静けさと穏やかさを持つ広大な感覚となる。『気づき』はさらに深遠で、豊かな、満たされたものになる。『私』の中に閉じ込められていたエネルギーが、『気づき』のフィールドの中に、そしてその隅々にまで、溶け込んで存在するようになる。

4.取り組んでいる体験の正確な場所に気づく
自分の感情や気持ち、思考に気づいても、それを体験している具体的な場所を認識することはあまりない。内部体験の場所に気づくことで一つひとつの感覚を区別し、変容を招き、何かが変化したかどうか、あるいはどのように変化したのかを確かめる助けとなる。

5.意味や解釈から感覚の質に移行する
多くの人が、人生を直接的に体験するのではなく、物事に与える意味や解釈を通して体験することを学ぶ。悲しみ、苦しみ、怒り、幸福のように、感情に名前を付けることさえもその直接体験に意味を与え、体験をカテゴリー別に分類していることになる。意味に意識を向けたままだと、その悲しみや怒りに紐付くストーリーに私たちをつなげてしまう。

こうしたストーリーや因果関係の描写は、これまでと同じ反応を私たちの脳にも身体にも起こさせ、名前やストーリーから解放された変容のレベルにアクセスできなくなるこの深層レベルでこそ、意識や無意識の想定によってプロセスが干渉されることなく、システムが自由に自然に自らを再編成できる
私たちのシステムには、自然な修正反応がある。感覚の質を『気づき』の中に、そして『気づき』そのものとして招くと、感覚の質が自発的に変容していくのを目の当たりにする。自分の最も深く、最も繊細な知性のレベルに私たちを繋げてくれる。


6.問題に取り組む前に「知覚している自分」を溶かす
それぞれの小さな『私』は、人生に緊張やストレスを生み出しがちなビリーフや前提を持ち続ける。こうしたビリーフや前提が、私たちの感情の反応を作り出す。

7.取り組んでいる問題に自分を戻し、再体験するのではなく、『気づき』として体験する。
従来のように、不快な感情を感じた体験に自分を戻したとしても、その体験をただ再体験するだけで、マイナスの感情の習慣を増大させ、強化させる結果となる
例えば友人が自分に共感してくれた時など、私たちは、気づかないうちに何かを再体験していることもある。このような方法で感情を再体験すると、意味や解釈、「すべき」「すべきでない」に満ち溢れた、分離した小さな『私』からそれを体験することになる。

ホールネスでは、感情そのものではなく、感情の場所にある感覚を『気づき』として体験できる。『気づき』に境界線はないので、分離のない全体として体験するということ。扱っていたものがどんなに頑なだったとしても、自らが分解し、再び全体の中へと溶けて戻っていく

8.強制するのではなく、許可して招く
変化のための手法では、何かを起こさせようと働きかける。わずかではあっても、意志の力も加わっている。意志の力で成果を得ることはできても、存在レベルでの完全な統合にはうまく作用しないあらゆる力は本質的に分離を伴う。何かを「する」人と「される」人、つまり行為の主体となる人と行為を受ける人がいる。『私』が自らを強制し、加える力が強ければ強いほど、分離は大きくなる。力が一体性を生み出すことは決してない。
ホールネス・ワークでは、内面で起きている頑張りに気づき、自然にリラックスできるようにそれを招く。

9.現れるものをすべて包み込む
ホールネス・ワークでは、すべてを歓迎するプロセスの邪魔になり得るものは何もないし、邪魔に見えるものを手放す必要もない。体験に現れるすべてを取り込むための方法は必ずあるし、常に手順通りにワークを進める必要もない。手順から外れないように頑張ってしまうと、自分の癒しや進化のために重要な何かを失ってしまう結果となる場合もある。


●統合の三つの方向
統合への招きがうまくいかない時、提案された方向と違う方向での統合を望んでいる場合がある。三つの方向をすべて知った上でそれぞれの『私』に提示していくと、『私』はしっくりくるものを自然と感じ、それを使う。

方向①『私』が『気づき』の中に『気づき』として溶け込む
「『私』の感覚が、豊かな『気づき』のフィールドの中へ、『気づき』のフィールドとして、開いてリラックスするよう招かれた時、何が起こるのかに気づきましょう」

方向②『気づき』が『私』の中に、そして『私』として開いてリラックスする
二つ目は一つ目と逆の方向ですが、同じ結果をもたらす。
「すべての『気づき』が『私』の感覚として、『私』の中に流れ込むことができます」

『私』を感じている感覚があり、その感覚が吸収されていくと、感じているものと感じられているものが同じになる。感じているものと感じられているものの識別感が崩壊する。これを「身を委ねる」と表現することもできる。

『気づき』が『私』の感覚として開いてリラックスする体験なので、『私』の領域にあるどのような境界線でも自然に溶け出していく。小さな空間に詰め込まれたような感覚ではなく、広大な、少なくとも境界線のない状態として体験できるようになる。

方向③ すでに存在していた『気づき』が目覚める
「『私』の場所にすでに存在していた『気づき』が目覚める時、何が起こるのかに気づいてください」
「この場所にすでに存在していた『気づき』が、それ自身を『私』の感覚として体験します」
「『私』の中に、そしてそのいたるところにすでに存在していた『気づき』を体験するかもしれません。そしてそれは、いたるところに広がる『気づき』と同じものです」

非常に大きな変化が起きるが、何かが動くという感覚はない。他の何かに向けられていた注意がそれ自身に向けられ、自らを体験する。自らに目覚める。つまり、注意を向けるものと注意が向けられる対象という区別がなくなり、もしくは泡のように消えていき、「存在」という感覚そのものを純粋に体験する。知覚するものとされるものとの体験が最も完全な形で融合される方向である。

東洋の精神世界では、主体と客体の融合あるいは区別がなくなる瞑想状態を「サマーディ」という。三つの統合の方向はどれも、主体と客体の融合を招く。体験をしているものと、体験されているものとの区別がなくなり、ただ、その体験が起きているだけとなる。

始めたばかりの人は大抵、①が起きてほしいと望んでいる方向。次に②が選択肢に入り、主体と客体の区別の崩壊がさらに完全に起こり、最後に③でこの区別が完全になくなる。


●瞑想フォーマット
瞑想フォーマットは、問題を扱う時に使うフォーマットとほぼ同じ手順。しかし、いくつかの重要な異なる点もある。

1.「問題」から始めない
問題を扱う代わりに心身をスキャンして、そこに何があるのかに気づき、そこにあるがままのものでプロセスを始める。プロセスを楽に行うことができる。「問題」である必要はない。

2.最初に見つけた『私』で統合へと招く
『私』の連鎖は見つけず、最初の『私』が統合を受け入れるかどうかを確認する。プロセスを簡素化し、溶けて統合する段階で訪れる回復を可能とするようなリラックスした状態を素早く体験できる。最初の『私』が統合を受け入れない場合は、他の『私』を見つける。

3.新たな選択肢:統合の三つの方向
4.プロセスの最後に状況のチェックをしない
5.『気づき』として存在すること

『私』を統合に招いたなら、好きなだけ「『気づき』として休息」する。急いでそこから出てくる必要はない。この状態を楽しんでいられるなら、楽しんでいる限りこの状態でくつろいでいてよい。

●自動的なプロセス
定期的に実践していく中で、『気づき』という体験をするだけで、リラックスしていく。そうすると『気づき』や「意識としての私」が、代わりにすべてを行なってくれる。まるでプロセスそのものが勝手に進んでしまうようだ。この自動的なプロセスが止まってしまい、もう少し続けたいと思うときは手順を使う。

●雑念
多くの人は瞑想のとき、雑念は次から次へと浮かんでくるものだから、意識を戻すことは難しいと感じている。
ホールネス瞑想には、どのような雑念でも取り込める方法があり、こうした悪戦苦闘を手放すことができる。ただ、考えごとをしている『私』の場所に気づき、感覚の質に気づき、統合へと招き、プロセスの中に組み込んでいけばいい。瞑想を妨げていたすべてのものを、逆に瞑想の味方にできる
例えば、瞑想中にある人の顔が浮かんできたら、「この映像の場所はどこだろうか?」と尋ね、その場所の中やその隅々まで感じてみる。感情の反応がある場合は、その感情の場所にただ気づき、それをホールネス・ワークの出発点としてもよい。気を散らすように思えた体験の一つひとつが、新しいサイクルの素晴らしい出発点となる。

●「スピリチュアル・バイパス」について
スピリチュアルな考えや実践法を用いることで、本来直面している未解決の感情的問題や心理的な傷、未完了の成長課題から逃避したり、見ないふりをしたりする傾向のこと。瞑想中にポジティブな状態に到達できても、日常生活では様々なことが引き金となり、あらゆる感情が溢れてしまう

小さな『私』を無視することで受ける影響は、感情を無視することよりもはるかに強く、結果としてさらに重大なスピリチュアル・バイパスとなり、すべてを含む広大な「自己」を体験するための試みは、事実上、不完全に終わる。

逆に、小さな『私』が統合されれば、自然と感情も変化していく。
ホールネス瞑想では、今の自分の体験を含め、他の何かとの分離によって心の平穏がもたらされるとは考えない。心が平穏な状態は、すべてを受け入れて統合することでもたらされる。

理論上は、もしもすべての分離した『私』、つまり、人なら誰もが無意識に行なっている「他の視点からの知覚」を取らなくなり、すべてが統合できたとしたら、少なくともこのフォーマットのホールネス・ワークは不要になる。しかし実際には、(スピリチュアリティの先生を含む)ほとんどの人が、まだ十分に統合されていない一面を、自分の中に常に持ち続ける

●目撃者のポジション
マインドフルネスの実践やスピリチュアリティの教えの中では、「目撃者のポジション」や「デタッチメント(自分から距離を置くこと)」を学ぶように言う。

煩わしい思考を「ただ流れていく雲」として捉えて自分から切り離すのは、その思考に対して感情的に反応しないようにするための一つの方法ではある。しかし、これを実践すると分離が生まれる。問題となるような思考は、自分と切り離しておくといいという思い込みを作り出し、『私』をこうした思考から切り離してさえおけば安全だと思い込んでしまう

ホールネス・ワークでは、雲のように思考を観察する代わりに、「観察している『私』」を見つけて、全体の中へと溶け込むように招く。たとえその視点が身体の内側にあったとしても、気づいて統合へと招くことができる視点が、基本的に必ず存在することを認識しておくことが大切。

小さな『私』が見ている状態から、『気づき』として体験する状態へと自然に移行していく。そして次に、思考そのものを全体へと溶かすように招く。単にその思考から距離を置くのではなく、思考を利用し、取り込んでいく。思考も「観察している『私』」も、全体を豊かにする。最終的には、その瞬間に起きていることが体験できるような、『気づき』そのものとして存在できる

●よくある誤った九つの通説

通説① 私たちは意図して覚醒することはできない。覚醒への手順など存在しない。

通説② 小さな『私』など幻想である。そのようなものは存在しないので、「大きな自己」にだけ意識を向けよう。
小さな自己、または小さな『私』は、私たちの体験の中に実際に存在するため、これは誤解である。

通説③ 覚醒とは、自分自身を「広大さ」として体験することである。よって、広大であればあるほど良い。

通説④ 『気づき』は至高の体験である。
『気づき』とは至高の体験であるべきとか、何らかの具体的な特徴があるはずだと考えていると、そのような体験になるように頑張ってしまう自分が出てきてしまう。頑張ることなく、ありのままの体験をただ感じることが、プロセスから多くを得るための最善の方法。

このプロセスの重要な二つの原則は、
 1.頑張りを手放す
 2.すべてを包含する

 この二つさえ覚えておけば、うまくいかないはずがない。

通説⑤ 覚醒は一度きりの出来事であり、ドラマチックな体験であればあるほど良い。
時には強烈でドラマチックな体験をすることもあるが、ほとんどの場合は段階的で、意識のわずかな変化しか感じない。一方で、「ランダムに起きる覚醒」は一時的な意識の変性状態に入る可能性が高く、日常の中にうまく落とし込めない場合もある。『気づき』と一体化している覚醒の状態に一時的に入ることも可能だが、自らが『気づき』そのものであるという意識がない場合、小さな『私』が溶けたとしても、その時の状態は長続きしない

通説⑥ マインドをだまさなくてはいけない。
マインドをだますという考え方は、思考を司る知的なマインドに現れる、内なる雑念に対処する方法として使われてきた。しかし、それは私たち自身とマインドとの間に対立関係を作り出すことになってしまう。
ホールネス・ワークではマインドをだます必要はない。それどころか、湧き起こる雑念を積極的に受け入れ、「そうした考えを抱いている『私』」を包含していく。人のマインドにどのような性質があろうとも、それらをすべて統合する手段を持つのがホールネス・ワークであり、そこに閉じ込められていたエネルギーが全体へと解放されることで『気づき』のフィールドがさらに豊かに養われていく。

通説⑦ 覚醒とは、今この瞬間に集中して存在することである。
過去や未来に対する考えが浮かぶ場合であっても、まさにそれが「今」この瞬間に実際にやっていることだから、「今、口に入れたものを味わう」ことや「今、踏み出している一歩」と同じように楽しんだり、関心を向けてあげたりすればよい。無理してそれを拒絶したり、無視したりするのではなく、「今、考えていること」もまた、この瞬間の体験として捉えることができる。
そうした考えが浮かんでくるのであれば、「そのように考えている『私』」を受け入れ、統合して溶かしていく。これを「永遠の現在」にいる状態と呼ぶ。私たちは現在に存在しているが、その体験には時間を超越した感覚がある。

通説⑧ 覚醒を体験したければ、外側の世界から内面の世界へと、意識を「方向転換」する必要がある。
意識を方向転換すると、結果的には内面の世界だけに意識を向けようとする小さな『私』を作り出してしまい、かえって統合から遠ざかってしまう。つまり、一体感が増すどころか、内なる分離をさらに作り出す結果となってしまう。

通説⑨ 覚醒するには、スピリチュアリティの先生など、他者の助けが必要である。
スピリチュアリティの先生に師事している人もいれば、そうでない人もいる。実際にどうするかは、個人が自由に決めてよい。
覚醒とはどのようなことなのかを理解していれば、必ずしもスピリチュアリティの先生が必要ということはない。構造を理解し、成功できる手順を持っていれば、自身の進化の道を自らの力で前進しているという感覚を得ることができる。そうなった時に初めて、「特定の先生に師事したり、そうしたコミュニティに参加することで、自分が進化するためのサポートが得られたり、さらに豊かな体験を得られるだろうか?」と自分自身に問いかけてみる。


Q&A

●『私』のうちの一つが、開いてリラックスしたい一方、そうなることを怖がっている
実験的に開いてリラックスすることもできるし、気に入らなければ、元の状態に戻ることができると『私』に教えてあげることも役に立つ。

「感情」ではなく、内なる声や、内的イメージがある場合は?
同じことをする。内なる声に気づいたら「それはどこにありますか?」と尋ねる。その大きさと形、そして感覚の質に気づいていく。
何かのイメージ(映像)に気づいた場合、質問は「このイメージはどこにありますか?」

表面的な特質VS「中やその隅々まで感じる」こと
感覚の質を見つけるためには、一度、外見に意識を向けることを手放して、それが占める空間の「中やその隅々まで」知覚する。内面やその隅々までを感じるということが、統合のための基盤となる。溶けて統合していくのは、その空間の領域の中に存在していた「生きた感覚。これをダイレクトに知覚できた時、ワークの下準備が整う。

平らな、または二次元の何かのように見えたとしても実際には厚みがあると気づくことが重要。この世界ではすべてが三次元。一枚の紙は非常に薄いが、確かに厚みが存在する。内面の世界のあらゆるものにも、厚みがある。これを認識することで、表面の質から「内面やその隅々まで」の感覚の質へと意識を移しやすくなる。

瞑想フォーマットでなぜ最初の『私』だけを統合に招くのか?
私というシステム全体がさらに簡単にプロセスの流れに乗ることができる。その瞬間に、自分というシステムが何を求めているのかを見つけることに心を開く。

記憶が出現する場合
その記憶を流れるがままにさせる。その記憶を統合させたければ、そのように招いてもよい。記憶そのもの(その記憶がよみがえってきた領域の感覚の質)が『気づき』の中に溶けていくよう招くこともできるし、あるいは『気づき』そのものであるあなたを、記憶の感覚の中に、そして記憶の感覚としてリラックスしていくよう招くこともできる。

知覚的な言葉を使うことについて
「『私』が占めている領域の中と隅々までを感じる」というが、隅々まで「見る」と言っても大丈夫か?
特定の知覚にできるだけ縛られないような表現を使っている。内面やその隅々まで感じるという体験は、「感じる」という表現を使っていたとしても、特定の五感のどれかに簡単に分類することができないもの。

コア・トランスフォーメーションとの比較
全く異なる手法だが、最終的に行き着く心理状態は、ホールネス・ワークと非常に似ている。この相補的な手法を持っていることで、ホールネス・ワークが持つ力がさらに深められ、さらに豊かな体験が可能となる。なぜならコア・トランスフォーメーションとは、人の内なるストーリーを入り口として、存在そのものの中核的な体験に辿り着き、人生における体験を優しく、しかし力強く癒して、かなり大きな変化を短時間で起こすことができる。たとえ自分が好きになれないような自分の一面にも、実は大きな価値があることを教えてくれるような体験ができる。

(長すぎて制限に引っかかったため次に続く)