前回からの続き)

 


◆4つの象限、ビッグスリー

●近代の価値領域の差異化(differentiation of the values pheres)
近代は、芸術倫理〔道徳〕、科学という3つの領域が分化し、どの領域も、他の領域によって不当に侵害されることがなくなった。

差異化(differentiation)という近代の素晴らしい成果は行き過ぎてしまい、分離(dissociation)(あるいは断片化、疎外)を生じるに至った。尊厳は悲劇に、成長は癌に。
価値領域が互いに分離し始めると、強大で攻撃的な科学が、他の価値領域の中へと侵入し、支配し始めるようになった。科学的唯物論の見方によれば、大いなる入れ子を構成する物質、身体、心、魂、スピリットはすべて、物質だけからなるシステムへと完全に還元することができる。物質(正確に言えば、物質=エネルギー)こそが、現実のすべてを構成しているのであり、そこに例外は存在しないのである。すべての「私」と「私たち」が、すべての「それ」=科学的観察の対象へと還元されたのである。

近代科学によって、意識という「超越的なもの」とという「物質的なもの」が密接に関係していることが明らかになると、伝統的な大いなる連鎖の見方は途方もない打撃を受け、その損傷から二度と回復することはなかった。もし意識という「あの世的なもの」が身体という「この世的なもの」と結びつているのなら、形而上学的なリアリティというのも、実際にはこの世界の一部なのではないだろうか?と。科学的唯物論および外面だけの全体論がもたらす焼けつくような日差しによって、内面のすべてを干上がらせてしまったのである。

こうしたアプローチにおいては、「すべての内面的な状態には、それに対応する外面的な事柄、客観的で物質的な内容が存在している」という見方が、いとも簡単に、「すべての内面的な状態は、物質的な変化であるに過ぎない」という見方へと変質してしまいがちである。
近代は、不注意にも、すべての内面外面へと折りたたんでしまったのである(これは最大級の悲劇である)。この悪夢を、フラットランドと呼んでいる。フラットランド(flatland)〔平板な世界〕とは、単に、右側象限の世界のみが現実であるという見方のことを指している。

●4つの象限
4つの領域とは、主観的(subjective)ないし志向的な領域〔左上象限〕、客観的(objective)ないし行動的な領域〔右上象限〕、間‐主観的(inter-subjective)ないし文化的な領域〔左下象限〕、そして間‐客観的(inter-objective)ないし社会的な領域〔右下象限〕である。

統合的なアプローチによって、外的な実体内的な状態を、一方を他方に還元することなく描き出すことが可能になる。慈悲は憎しみよりも道徳的に善いものであるが、セロトニンはドーパミンよりも善いものではない。もし意識を神経伝達物質へと還元するならば、私たちは、意味と価値を完全に失うことになる。言い換えれば、フラットランドの世界へと入り込んでしまうのである。左側象限におけるあらゆる意味と重要性は、無価値な事実と無意味な表面へと還元され、「ぼんやりとしていて、音もなく、香りもなく、色もない。ただ物質がせわしなく動き回っているだけであり、終わりもなく、意味もない」世界だけが残されるようになる。
脳波計に記録されるどんな情報も、あるパターンが別のパターンよりも善いことを示してはいない。もし私たちが喜びをセロトニンへと還元し、倫理〔道徳〕をドーパミンへと還元し、意識や気づきを神経のネットワークへと還元するならば、私たちは、このコスモスそのものから、意味価値深さ神性を完全に消し去ることになる。

左側象限における現実(意識発達の諸段階から道徳性の成長まで)はすべて、外的な対象を注意深く観察するだけでは見つけることができず、内的な領域そのものを調べることで初めて発見されるものである。
芸術作品そのものは、客観的で外的な世界の中に客体〔客観、対象〕として存在しており、科学的な方法によって調べることができる。だが、芸術作品の美しさと価値は、その作品を鑑賞している者の中に、どのような内面的で主観的な状態が生じるかという点にある。

●「世界観」(worldview)
それぞれの段階において、世界がどのように見えるか

もし私たちが感覚知覚衝動だけをそなえているならば、世界は古代的なものとして見えるだろう。そこにイメージおよび象徴を用いる能力が加わると、世界は呪術的であるように見え始める。さらに、概念および規則役割を用いる能力が加わると、世界は神話的であるように見えるだろう。形式的‐内省的な能力が出現すると、合理的な世界が視界に入ってくる。ヴィジョン・ロジックが出現すると、実存的な世界が前面に現れてくる。微細な意識が出現すると、世界が神聖なものとなる。元因の意識が出現すると、自己が神聖なものとなる。非二元の意識が出現すると、世界と自己が同じ一つのスピリットに他ならないことが明らかになる。

「世界観」とは、左下象限の内容を指し示している。
世界観の領域は特に重要である。なぜなら、あらゆる個人の主観的意識は、間‐主観的な構造によって生み出された空間の中で生起するからである。この点を認識し損なうことは、さまざまな形の精神的/霊的および超‐個的な心理学が陥っている主要な罠の一つである。特に、変性意識状態や非二元の意識状態だけに焦点を当てている流派においては、こうした罠に陥っている場合が多い。
人は、自分の好きなことを何でも「自由に」考えているわけではない。その思考の在り方の大部分は、そうした間‐主観的な構造によって規定されているのである。

●私たち
私たち」(We)が「」(I)にとって本質的な要素であると言えるのは、「私たち」が客体として抱握されるからではなく、「私たち」が主体の一部分を構成しているからなのである。言い換えれば、「私たち」とは、「私」にとっての単なる対象〔客体〕ではない。「私たち」とはむしろ、「私」の背景にある空間であり、この空間の中で、「私」が生起し、「それ」(すなわち客体)を抱握するのである。それゆえ、「私たち」の領域とは、この面においては、何よりもまず、主体の一要素として「私」の領域に入ってくるのであって、抱握された客体として入ってくるのではない。


●4つの象限すべてを見ること
ある象限において、何らかの病理あるいは病が生じると、その異常4つの象限すべてへと響き渡る。

個人の「病理」とは、実際には巨大な氷山の一角をなしているに過ぎず、自己の諸段階、文化的な世界観社会の構造存在の深みとの精神的/霊的な関わりの有無などのすべてが、その「病理」を形づくっているのである。とはいえ、このことは、個人を対象とする心理療法が重要でないという意味では全くない。ただ、多くの点において、個人の機能不全とは、世界(未だ統合的でない世界)そのものの機能不全の一部分であるに過ぎないということである。

もし自己を周りの文化へと適応させ、その文化の中で統合された存在にすると言っても、もし文化そのものが病んでいたら、一体どんなよいことがあるだろう?例えば、十分に適応したナチス党員になるとは、どういうことだろう? そこでは、本当に心の健康が実現されているのだろうか? あるいは、ナチスの社会のなかでは、不適応な人間こそが、健全な人間なのだろうか?

●4つの象限が4である意味
「4」という数字に呪術的な意味は何もない。4つの象限とは単に、現実の中に見受けられる最も単純な区別のいくつか──内側外側および単数複数──を表現したものである。実際には、他にも数えきれないほど多くの──おそらくは無限の──区別が存在している。多くの人々が四象限の見方を有益であると感じているのはただ、フラットランドの世界においては、こうした単純な区別でさえも尊重されていないからなのである。一次元的人間〔マルクーゼ〕だけからなるフラットランドの見方と比べれば、四象限は、よりよい複雑さをそなえた見方である。


◆現代の思想:ポストモダニズム、システム理論、現象学

●ポストモダニズム
現在、文化進化の最先端に位置しているのは、ポストモダニズムである。
多くの人々が、「ポストモダン」的な文章に出くわすと、嘆きの声を上げる。実際「ポストモダン語」は、極めて複雑で判読困難。だが、そこにはいくつかの重要な論点が存在している。以下の解説は、できるだけ苦痛が少なくなるように書く。

・多様性
近代をそれ以前の時代と異なるものにしている要因は、「ビッグ・スリーの差異化」〔価値領域の差異化〕である。
後‐近代を近代と異なるものにしている要因は、「包括的であろうとする態度」である。こうした包括的な態度は、多くの場合、「多様性」(diversity)である。

しかし、すべてを多元的に抱擁するという態度が、あらゆる質的な区別を無視するという態度に置き換わったとき、構築的ポストモダニズムが約束する明るい未来は、脱構築的ポストモダニズムがもたらす虚無主義的な見方へと姿を変えた。後‐近代は、フラットランドから逃れようと試みるなかで、多くの場合、フラットランドを最も卑俗な形で支持することになった。

・世界とは知覚ではなく解釈である
世界意識によって単に表象されているのではなく、意識によって共‐創造(co-create)されている。言い換えれば、世界とは単なる知覚ではなく、解釈である
ポストモダニズムは、認識論と存在論の両方、すなわち、知ることと在ることの両方において、「解釈」が中心的な役割を担っていることを明らかにした。ポストモダニズムの偉大な目標の一つは、解釈がこの宇宙に内在的にそなわっている性質であることを示すことであった。言語や文学における解釈とは、全体の中のほんの一部分であるに過ぎない。解釈は、コスモスそのものの深みと同じくらいにまで広がっている。

外面は見ることができるが、内面は解釈することが必要なのである。内面の出来事は、外面的ないし客観的な方法によって捉えることはできず、それを捉えるためには、内側を見つめること、そして解釈することが必要である。解釈とは、思考する能力が現れてからコスモスに付け加えられたものではない。そうではなく、解釈とは、内面領域の始まりとともに出現したものなのである。
必要なことは、単に客観的であるだけでなく、主観的および間‐主観的であることである。あるいは別の言い方をすれば、単に独白的であるだけでなく、対話的であることが必要である。私たちは、単に互いを客体〔対象〕として見つめるだけの主体ではない。私たちは主体として、互いに主体を理解しようとする。言い換えれば、私たちは間‐主観的な循環の中で生きているのであり、対話という名のダンスを踊っているのである。


・ポストモダニズムが拒絶しているもの
多くの点において、ポストモダニズムは、フラットランドおよびその悪しき遺産を捨て去ろうと試みる。それゆえ、後‐近代の哲学は多様な見方が複雑に集まったものであるものの、多くの場合、その主張者が何を拒絶しているかということによって、内容のほとんどを定義することができる。
 基礎づけ主義を拒絶し、本質主義を拒絶し、超越主義を拒絶する。
 合理性を拒絶し、真理の対応説を拒絶し、表象としての知識を拒絶する。
 大きな物語を拒絶し、メタナラティブを拒絶し、あらゆる種類の「大きな地図」を拒絶する。
 実在論を拒絶し、「終極の語彙」を拒絶し、権威的な説明を拒絶する。
というように。

・ポストモダニズムの3つの真実
ポストモダンの理論は一貫性を欠いているように感じられる(実際その通り)にもかかわらず、ほとんどのアプローチは、その核心において、3つの重要な前提を共有している。

(1)現実とは単に与えられているものではなく、いくつかの重要な点において、構築されたもの、解釈されたものである(こうした見方は「構成主義」〔構築主義〕(constructivism)と呼ばれることが多い)。
(2)意味文脈に依存しており、文脈は無限に広がっている(こうした見方は「文脈主義」(contextualism)と呼ばれることが多い)
(3)それゆえ、物事を認識するとき、どのような単一の視点も不当に特権化してはならない(こうした見方は「統合的‐非視点的」(integral-aperspectival)と呼ばれている)

極端なポストモダニストたちは、単に解釈が重要であることを主張するだけでなく、現実とは解釈であるに過ぎないと主張する。すべてのホロンには左側象限という重要な側面(解釈的な側面)が存在していることを指摘するだけでなく、右側象限(客観的な側面)の実在性そのものを丸ごと否定しようとするのである。
すべてのホロンには客観的な要素だけでなく解釈的な要素が存在しているからと言って、客観的な要素の存在そのものが否定されることにはならない。そうではなく、ただ、客観的な要素が、文脈の中に位置づけられるようになるだけである。

・言語論的転回
近代から後‐近代へ歴史的に見れば、構成主義〔構築主義〕、文脈主義、そして統合的‐非視点的な認識が前面に現れるようになったのは、哲学の分野において「言語論的転回」(linguisticturn)と呼ばれる変化が起きた頃のことである。
言語とは与えられた世界を単に表象するものではなく、世界を創造し構築することに関わっているものであるという認識に基づく。おおよそ19世紀頃であるが、哲学者たちは、言葉を用いて世界を記述するのをやめて、その代わりに、言葉そのものを見つめることを始めた

突如として、言語はもはや信頼に値する明確な道具ではなくなってしまった形而上学の全体が、言語分析へと置き換えられることになった。なぜなら、言語とはもはや、与えられた世界を素朴に見つめることのできる確かな手段ではないことが明らかになってきたからである。言語とはむしろ、スクリーンへと映像を投影するプロジェクタのようなものであり、私たちが最終的に目にしているのは、そのようにしてスクリーンに映し出されたものなのである。言語は世界を創造することに寄与しているのであり、ヴィトゲンシュタインが述べているように、「私の言語の限界が、私の世界の限界」なのである。

前‐近代および近代の文化においては、言語世界を捉えるための手段として素朴に用いられていた。だが、後‐近代の知性は、くるりと後ろを向いて、言語そのものに目を向けるようになった。こうした驚くべき言語論的転回が起きたことで、哲学者たちが言語を素朴な形で信頼することはもう二度となくなった。むしろ、言語こそが世界を創造しているのであり、こうした創造の中にこそ、力が秘められているのである。
もし現実を理解するための道具として言語を用いるのなら、まずはその道具がどのようなものであるかを注意深く調べたほうがいい。

・ほとんどの道はフェルディナン・ド・ソシュールに通じている
どんな語〔単語〕もそれ自体としては意味をもたない。なぜなら、全く同一の単語であっても、その単語がどのような文脈ないし構造の中に置かれているかによって、全く異なる意味をもつようになるからである。ソシュールによれば、あらゆる語のあいだの関係性こそが、意味を安定させる。それ自体としては意味をもたない要素が、構造全体の中に置かれることによって意味をもつようになる。これが構造主義の始まりであり、ほぼすべての学派が、大なり小なり、ソシュールにその源流をもっている。

あらゆる記号ホロンなのであり、「文脈の中の文脈の中の文脈」という全体のネットワークの中に存在している。個々の語がどんな意味をもつかということに対して、言語全体が関与している

ポストモダニズム(特にハイデガー以降)の見方においては、背景にある文化的な文脈が重要であることが非常に強調される。意味とは、広大な文化的背景のネットワークによってつくり上げられているものであり、私たちが自覚しているのは、そうしたネットワーク中のごく一部だけなのである。私が意味をつくり上げるのではなく、意味が私をつくり上げる。私とは広大な文化的背景の一部なのであり、多くの場合、そうした背景全体がどこからきたのかはわからない。あらゆる主観的な志向性(左上象限)は、間‐主観的あるいは文化的な文脈(左下象限)の中に位置づけられており、こうした間‐主観的な文脈が関与することで、意味はつくり上げられ、解釈されている。

こうした文脈そのものが、原理的には、無限に広がっている
究極的には、意味をとどめるための方法、意味を完全に制御するための方法は存在していない(なぜなら、現在の意味を変えるようなさらに広い文脈を想定することは常に可能だからである)。
ゆえ、脱構築とは、次の2つの原則から成り立っている。
 ・意味は文脈によって決まる
 ・文脈は無限に拡張されうる
文脈が無限に広がっているのは、現実とはどこまでも「ホロンの中のホロン中のホロン」という形で構成されており、そこにはどんな上限も下限も見つけることができないからである。
コスモスがホロンから構成されていると述べることは、コスモスは文脈から構成されていると述べることに等しいのであり、このことは遥か上方から、遥か下方にまで当てはまるのである。

・統合的‐非視点的な見方
意味が文脈に依存していること(ポストモダニズムの2つ目の重要な真実であり、文脈主義とも呼ばれている見方)は、すなわち、現実に対して多数の視点からアプローチすることが必要ということである。たとえどのような視点であろうと、単一の視点だけでは部分的であり、限界を抱えており、そしておそらくは歪んでいる。多様な視点と多様な文脈を尊重することによってのみ、知の探求は有意義な形で進展していく。そしてこの「多様性」こそが、後‐近代における3つ目の重要な真実なのである。

・ヴィジョン・ロジック
非視点的(aperspectival):どのような単一の視点も特権化されないこと。
ヴィジョン・ロジックはどのような視点を特権化することもなく、そこにあらゆる視点を付け加える。
ドイツ観念論において、単に形式的で、表象的で、経験的‐分析的な知性、すなわち「悟性」(Verstand)であり、もう一つは、弁証法的で、対話的で、ネットワーク的な知性、すなわち「理性」である。

技術‐経済的な構造が産業的な様式から情報的な様式へと変化することも大きな要因である。
本物の知とはすべて、コスモスが生み出した活動〔成果、作品〕である。だが、ヴィジョン・ロジックにおいて初めて、このことを自覚的に認識し、明確に表現することが可能になった。

ヴィジョン・ロジックの構造には、空想や情動や規則が伴っていないというわけではない。むしろ、こうした要素は全て、ヴィジョン・ロジックというさらに広大な空間の中で保持されているのであり、そしてそれゆえに、こうした要素のすべては、ヴィジョン・ロジックの構造を通して、その能力をさらに大きく花開かせるようになるのである。
 

・多元主義も文脈に拘束
多元主義において主張されている通り、どんなシステムも文脈に拘束されている。そこで、この見方をさらに押し進めてみよう。相対性や多元性そのものもまた、文脈に拘束されているとみるのである。言い換えれば、相対性や多元性そのものにも、さらに広く深い文脈が数多く存在しているのであり、こうした文脈によって、さまざまな相対性や多元性が互いに結びついて、さらに大きな諸システムが生み出されるのである。

それゆえ、こうした大きなシステムの存在を認めてみよう。そして、あらゆる相対性や多元性を互いに結びつける普遍的で統合的な文脈とはどんなものであるか、その大まかな姿を描いてみよう。
 

・表層のみ
ポストモダニズムは、表層を抱擁し、支持し、称賛するようになったのであり、そこにはただ表層しか存在していなかった。
シニフィアン(言語の表現面)の連鎖が滑走しているだけであり、物質的なテクスト〔物質的な解釈〕の外には何も存在していない。表層の下には何もなく、ただ表層だけが存在している。

ただ、シニフィアンが全ての現実を創造し構築しているだけなのである。だが、もしこのことが真実であれば、このことは真実ではあり得ない
 

シニフィアンの連鎖がどのように滑走し、浮遊するかを定めているのは、力〔権力〕偏見イデオロギー以外にはない。
統合的‐非視点的な意識は、フラットランドが発する強烈な重力によって、単なる「非視点的な狂気」(aperspectival madness)──どんな考えも他の考えよりも優れているわけではないという見方──へと転落してしまったのである。
内面もなければ、深さもない」。これこそ、極端なポストモダニズムに見られる信条を完璧に表現した言葉であろう。
各個人は自らの好きなように生きており、それぞれのやり方で、人生を精力的に歩んでいた。にもかかわらず、先にも述べたように、こうした在り方では、多種多様な声を最終的に解放することはできなかった。実際には、さまざまな声が孤立し、疎外され、断片化された世界の小さな片隅へと急ぎ足で走り去るようになっただけであった。

・発達の否定
ポストモダニズムは、後‐慣習的後‐形式的多元的意識という非常に発達した立場から──すべての人々に対して公平かつ公正に接したいという気高き願いをもって──発達の重要性そのものを否定し、どんな立場も別の立場よりも優れているわけではないと主張するようになった。
しかし、発達を否定するということは、多元主義そのものを否定するということである。

・ホロンの階層
本物の全体論へと到達するためには、ホロン階層を認めることが必要である。後‐近代は、ホロン階層を否定することで、全く効果的に、全体論を否定してしまったのである。こうして、ポストモダンの世界にもたらされたものは、全体論ではなく、寄せ集め論であった。多様性は手に負えないものとなり、多種多様な声をどのようにして結び合わせ、調和させればよいのかが全くわからなくなってしまったのである。

・脱構築的/構築的ポストモダニズム
ポストモダニズムは、フラットランドから脱出しようと試みていたにもかかわらず、全く逆の結果を生み出してしまった。脱構築的ポストモダニズム(deconstructive postmodernism)が、フラットランドを誰よりも声高に支持するようになったのである。他方、構築的ポストモダニズム(constructive postmodernism)は、多元主義によって解放された多種多様な文脈をとりあげながらも、そこからさらに一歩進む。そうした多種多様な文脈を互いに織り合わせ、相互に関係し合ったさまざまな網の目へとまとめ上げるのである。

●システム理論
システム科学において作動していたのは確かにヴィジョン・ロジックであったが、それは欠陥を抱えたヴィジョン・ロジックであった。
システム理論が主張していたのは確かに全体論であったが、それは外面だけの全体論であった。
後‐近代の運動において実現されたのは確かに新しい高次の理性であったが、それはフラットランドの中に捕らえられた理性だったのである。ポストモダニズムは、フラットランド型の全体論、物質的な一元論、あるいは独白的な狂気を少し別の形に書き換えただけであった。ポストモダニズムは、近代の悲劇を克服し、転覆させ、解体すると声高らかに宣言していたのであるが、実際には、近代の悲劇に屈してしまったのである。

システム理論は、原子論的な「それ」の代わりに、全体論的な「それ」を与えてくれるだけであり、この両方を、「」および「私たち」という内面の領域と結び合わせる必要がある。

単にシステム理論、新しい物理学、ガイアについて学ぶ、あるいは、単に物事を全体論的に考えるだけでは、私たちの内面的意識の変容が促されるとは全く限らない。なぜなら、これらはどれも、内面における成長や発達の諸段階を扱っていないからである。どうすれば自分自身および他者の中に、世界中心的で、地球的で、精神的/霊的な意識を真に育んでいくことができるのかが論じられていない。代わりに、そこでは次のように述べられるだけである。「現代の科学および母権的な宗教はすべて、私たちが大いなる生命の織物の一部分であることに合意している」。

システム理論は、あらゆる物事についての統一的な理論であると主張しているものの、実際には、すべての象限を右下象限へと還元することで、世界の「半分」(すなわち左側象限)を置き去りにしてしまっている。「それ」(It)の言語によって記述できる外面的なシステムのみを認識しており、「私」(I)および「私たち」(We)の言語によって記述される内面の諸段階が認識されていないのである。システム理論は、ティールあるいはターコイズ段階の思考に基づく見方であるものの、多くの場合、フラットランドの中に捕らえられてしまっている。システム理論は、自らが治療すると主張している病気の一部分なのである


●仏教でいう無我との違い
ポストモダニズムは、単に個々人の意識をその背景にある文化的文脈の中に位置づけるだけでなく、個人にそなわる主体そのものを完全に消し去ってしまったのである。「人間の死」「作者の死」「主体の死」──これらはすべて、主観の領域(左上象限)を間‐主観的な構造(左下象限)へと還元しようという露骨な試みであった。こうして、「人間」ではなく、「言語」こそが、歴史の主役となった。もはや、「私」という主体が話しているではない。ここあるのはただ、非‐個人的な言語だけであり、さまざまな言語構造が「私」を通して話しているだけなのである。
こうした見方は、仏教における「無我」や「無自己」の概念とは決して同じものではない。なぜなら、そうした仏教の見解においては、「私」が「空性」に置き換えられるのに対して、ここでは、有限な言語構造からなる「私たち」に置き換えられているからである。

●フェミニズム
多くのフェミニストが、こうした統合的アプローチを用いることに抵抗している。なぜなら、フェミニストの多くは、一つの象限だけを認める傾向にある(大抵は左下象限であり、ジェンダーが文化的に構築されたものであるという側面を強調する)からである。そしてその一方で、こうした人々の多くは、他の象限からの影響を否定してしまう(例えば生物学的な要因を否定する。なぜなら、そうした要因を認めてしまえば、「生物学こそがすべてを規定する」という見方を肯定することになりはしないかと疑っているからである。確かに、もし右上象限だけが存在する唯一の象限であれば、そうなるかもしれない。だが、生物学的な要因が具体的にどのような形で表現されるかということは、文化的な価値観、社会制度、個人の意識の在り方などによって、大きく異なるものとなる。それゆえ、いくつかの生物学的な要因を認めることは、性差別主義的なことではなく、現実的な見方なのである)。


●現象学の重要性と限界
現象学の方法論では、直接的な身体的感覚として現れない間‐主観的な構造について理解することができない。それゆえ、現象学では、意識や社会的世界の「発達」という側面を効果的にとり扱うことができない。
直接的な内観という手法は、それ自体として有益であることに変わりはないものの、間‐主観的な構造(こうした主観的な内観そのものが起きている空間)を見つけ出すことができないのである。

 

◆進化について

●進化に関する5つの原則
1. 進歩の弁証法を認識
 意識が発達し、開き出されていくにつれて、それぞれの段階は、前の段階において生じていたいくつかの問題を解決ないし緩和する。だが、今度は新しい段階そのものが、それまでには存在しなかった厄介な問題──以前よりも複雑で困難な問題であることもある──を生み出す。

2. 差異化と分離を区別
 進化の病理として最も典型的なものの一つは、差異化(differentiation)が行き過ぎて分離(dissociation)へと至る。差異化とは、統合への入り口であるのに対して、分離とは、悲劇への入り口なのである。

3. 超越と抑圧を区別
 進化は超越包含〔超えて含む〕のプロセスを通して展開していく。「超えて含む」場合、前の段階は仲間になり、統合され、大切に尊重されることになる。「超えて抑える」場合、前の段階は抑圧され、否定され、遠ざけられる。

4. 自然な階層と病理的な階層の違い
 正常で自然な階層が、病理的な階層──支配型の階層構造──へと転落することがある。
 驚くべき成長や進化のプロセスによって正常な階層が形づくられているということと、皮肉にもそうした成長のために病理的な階層が生じてしまう可能性があることの両方を考慮に入れる必要がある。

5. 高次の構造が低次の衝動に乗っ取られる可能性
 合理性によって生み出された高度な技術が、部族主義およびその自集団中心的な衝動に乗っ取られてしまうと、破滅的な事態が生じうる。

●進化、「文化」の発達に対する抵抗
リベラル派:こうした見方はさまざまな文化を周縁に追いやるものではないかと疑っている。
伝統主義者:近代的な「進化」の概念によって、宗教のほとんどの部分が時代遅れのものであるとみなされてしまうことに納得できない。
ロマン主義者:社会や文化は進化ではなく「退化」していると考えていることが多い。


●ミクロ発生、個体発生、系統発生
ミクロ発生個体発生を繰り返し、個体発生は系統発生を繰り返し、系統発生は宇宙発生を繰り返す。
ミクロ発生とは、ある発達領域が、一瞬一瞬、開き出されていくプロセスのことを表している。
一本の木を見つけて、そのことを私に伝えるとしよう。このとき、次のような一連のミクロ発生的なプロセスが生じている。まず、その木についての感覚が生じ、次に知覚が生じ...
こうしたミクロ発生のプロセスは、その人自身が個体発生においてたどってきた一連の段階(感覚、知覚、衝動、イメージ、象徴など)を反復するものである。例えば、もし私が具体操作的な段階までしか発達しないととすれば、私のミクロ発生のプロセスは具体操作的段階で止まる。他方、もし私が微細段階まで発達しているとすれば、微細段階まで続いていく。その木は、単に遠近法的な空間の中に位置している対象ではなく、スピリットの輝ける顕現であることが、直接に認識される
このように、その人が私のほうを向いて「木があるよ」と述べるとき、その単純な発話の中に、現在に至るまでのコスモスの全歴史が包み込まれている。

●トップダウン型の進行
意識の中で生起しているすべてのプロセスが「ボトムアップ」型〔下位から上位へ〕であるわけではない。実際、多くのプロセスは、「トップダウン」型〔上位から下位へ〕で進行していく。すなわち、意識に生じるプロセスの中には、現在の段階(あるいはそれよりも高次の段階)を起点として、そこから、大いなるホロン階層を下へ降りていくものも多いのである。例えば、私が創造的なヴィジョン(心霊段階)を得たとしよう。私はそのヴィジョンを、ヴィジョン・ロジック段階の言葉へと下降的に翻訳するかもしれない。あるいは、何らかの芸術として表現するかもしれないし、単純なイメージと象徴によって表現するかもしれない。
 

続く