【タイトル】 インテグラル心理学――心の複雑さと可能性を読み解く意識発達モデル
【著者】 ケン・ウィルバー
【ページ数】 720

 


【読むきっかけ】最近のケン・ウィルバーの思想について理解を深めようと思って。

【対象】 インテグラル理論・統合心理学に興味のある人。心理学を包括的な視点で、学術的な側面から深く知りたい人


【評価:★5段階で】
 難易度:★★★★★
 分かりやすさ:★★★
 ユニークさ:★★★★
 お勧め度:★★★★

 

【概要】 
 

「精神性/霊性なき心理学は、十分に包括的なものではあり得ない」
 

心理学の歴史に始まり、ポストモダンの思想や心脳(心身)問題も含めて、かなり広く扱う包括的なアプローチをとっている。
まず最初に、心理学を科学的なものにしようとした先駆者であるフェヒナーを取り上げている。フェヒナーは心を測定可能な経験的対象へと還元したと言われている一方、『死後の生』という書を著した。その中で、眠りから永遠の目覚めへの道が説かれている点にウィルバーは注目した。近代心理学の根幹にはスピリチュアルな伝統があり、統合的なアプローチがある。

とはいえ、様々な心理学を俯瞰して見るわけではなく、ほとんどが発達心理学とその周辺のものである。そのため、心理学の全体像というとかなり語弊がある。また全体の地図を提供しているだけなので、それぞれのメソッドの詳細は別途学ぶ必要がある。

本書は学術的な色彩が強く、様々な文献を根拠に論を展開している。そのため、文献の紹介の側面も大きい。インテグラル理論は、ケン・ウィルバーの、独自の視点はあるものの、これまでの多くの研究の上に立脚している。認知、自己、道徳性の発達のラインは、それぞれの専門の研究者による発達段階を整理したものである。

初めてインテグラル理論を学ぶ人にとってはかなり難解だと思われる。すでにケン・ウィルバーの他の本を読んだことがある人でないと難しい。『インテグラル理論を体感する』や『INTEGRAL LIFE PRACTICE』などの入門的な本から入るのがいいかもしれない。すでに学んでいる人にとっては、永遠の哲学やケン・ウィルバーのアプローチに対する、様々な疑問へ回答となっているため、非常に興味深く、理解を補填するためには必須ともいえる。私自身も、他の著書を読んでそれはないだろうと思った誤解がかなり解消された。大著ではあるが、『インテグラル理論を体感する』のような冗長さはないところもありがたい。

 

ポストモダンの解説は、哲学者が書いた入門書のようなものよりもずっと分かりやすく、本質をダイレクトに示している。哲学者はより広い地図を持っておらず、あくまでも日常の世界観から解説するのでどこに何のために向かっているのかが示されないのに対して、ウィルバーの解説では、それが明確に示されている。構造主義ポスト構造主義について、まとめの記事を書きたいと思っていたが、ウィルバーがきれいにまとめてくれるため、その必要はなさそうである。

本記事の「要約・メモ」、では、『インテグラル理論を体感する』『INTEGRAL LIFE PRACTICE』でまとめた内容は省いている。というのも、内容的にかなり重複しているため。

ただ、本書はひとつ前の、ウィルバーⅣ世代とも言うべきで、後‐後慣習的な領域に心霊、微細、元因、非二元の段階を置いており、最新の著作にあるような、意識構造意識状態を明確に分離していないのが注意点だろう。心霊、微細、元因、非二元などの主要な意識状態は、呪術、神話、合理、多元、統合などの意識構造に対して、「完全に同じ軸ではないけれど完全に別の軸とも言えない」ようだ。意識状態は内化(involution)によって、意識構造は進化(evolution)によって生み出されたものである。

・他の心理学との違い

通常の心理学では、異常正常の二段階しかない。異常な状態(疾患のある状態)を治療して、正常(健康)な状態にする。ウィルバーのような発達段階、レベル分けはしない。正常な状態となったら、自己のスキルを向上させる方向に利用するが、これはウィルバーが水平方向の成長と言っているもので、ウィルバーはあまりこの点は大きく扱うことはない。

発達心理学も、主に子供の成長が対象だが、最近は一生涯を通じた成長モデルが提示され、ウィルバーの理論は、その成長モデルに沿っていると言える。

【要約・メモ】

●統合心理学とは?
統合心理学とは、最も簡潔な形で述べるなら、段階領域状態自我スピリットからなる心理学である。
心理学の各学派は、意識の一つの側面だけをとりあげて、意識が驚くほど豊かで多面的な現象であることを見過ごしてきた。もしこれらすべての説明が、物語全体を構成する重要な一部分であるとしたらどうか? 人間の意識のさまざまな側面を、それが正当なものであればすべて尊重し、包含しようと努めること──これこそが、統合的心理学(integral psychology)の目標なのである。古今東西にわたるおよそ200名の理論家たちの議論を踏まえ、統合的な見方をつくる。本書の主たる目的は、議論を始めるのを手助けすることである。

●大きな地図
人間は、意味を求め、大きな地図をつくり出すよう運命づけられている。「反‐大きな地図」を主張する思想家たちでさえも、なぜ大きな地図はよくないのか極めて大きな地図で説明してきた。その内的な矛盾のために不愉快な事態へと陥ることになった。それゆえ、大きな地図は慎重に選んだほうがよい


◆発達段階

●発達段階
発達段階論のほぼすべてが、膨大な量の調査とデータに基づいて作成されたもの。
ただ、モデルの一つを見れば物語の全体がわかるということではないし、大半がわかるとさえ言えない。人生という大河の一部分を切り取ったスナップ写真に過ぎない。

●ピアジェの研究
ピアジェは、発達のそれぞれの段階において、異なる世界観、知覚、時間と空間の様式、道徳的動機づけが現れることを実証した。さらに、現実とは単に与えられているものではなく、多くの重要な点で構築〔構成〕されているものだということ(ある種の構造主義で、ここからポスト構造主義が生まれる)。
ピアジェの理論体系の主要な欠点は、認知的な発達(論理‐数学的な能力)だけが主要な発達のラインであるとみなしていること。

●後‐形式的(post-formal)な諸段階
抽象的で普遍的な形式主義(formalism)の段階を超えると、意識は初めて、動的な相対性および多元主義(pluralism)の観点を認識し始めるようになる(前期ヴィジョン・ロジックの段階)。さらにこの段階を超えると、意識は、統一性全体論や動的な弁証法、すなわち、普遍的な統合主義(integralism)の観点を認識し始めるようになる(中期および後期ヴィジョン・ロジックの段階)。それまでの段階よりも遥かに多くの視点が考慮されるようになる。
少なからぬ西洋の心理学者たちが、大規模な経験的および現象論的なデータに基づいて、後‐形式的(post-formal)な諸段階合理性を超えた認知的発達の段階)を見つけ出してきた。
他方、超‐心的な領域(心霊、微細、元因、非二元の領域、すなわち、超‐合理的超‐個的な領域)にまで調査を進めた研究者はほとんどいない。もっとも、ますます多くの研究者が、こうした高次の段階の存在を認めるようになってきている。
外的対象を心的ないし概念的に知るという意味で「認知」という言葉を用いているなら、こうした高次の精神的/霊的な諸段階は、認知的な段階ではない。なぜなら、こうした段階は、多くの場合、超‐心的、超‐概念的であって、外的な対象に関わるものではないからである。

※ヴィジョン・ロジック(訳者あとがきから)
矛盾をそのまま心にとどめることも、対立を総合することもできる。それは弁証法的であり、非線形的であり、ネットワーク的であり、一見したところ両立しがたい観念を、それぞれの部分性を否定しながら、積極的に寄与できる点を保存することで、新しい高位のホロンの中に位置づけ、織り合わせる。差異の中に同一性を見出すこと、多様性の中に統一性を見出すこと、木を見ると同時に森を見ること、文脈を自覚しながら思考すること。


●意識の構造と状態
構造」とは、何らかの段階、あるいは何らかの領域に見受けられるあらゆる安定的なパターンのこと。
状態」はすべて、一時的な現象、過ぎ去っていく現象である。すなわち、どの状態も、やってきて、少しの間とどまり、そして去っていく。たとえ循環的に繰り返し生じる状態であっても、そのことは変わらない。他方、意識の構造は、もっと永続的なものである。構造とは、意識や行動に関する極めて永続的なパターンなのである。発達の段階と領域のほとんどは、意識の構造から構成されている。すなわち、明確に判別しうる規範や体制や自律性をそなえた全体論的で自己組織的なパターンから構成されている。

●状況に応じて活性化
それぞれの段階は、私たちの生存環境に応じて活性化され得るものである。例えば、緊急事態においては、私たちはレッドの「力への衝動」を活性化させるかもしれない。大きな混乱が起きている状況では、アンバーの秩序を活性化させることが必要かもしれないし、新しい仕事を探すためには、オレンジの「達成への衝動」を活性化させることが必要かもしれない。あるいは、配偶者や友人との関係においては、グリーンの親密な絆を大切にするかもしれない。

●どの段階も利用可能
どんな人であっても、潜在的にはすべての段階を利用できる。自己は、退行して、存在と認識のホロン階層を下方に進んでいくこともあれば、螺旋を描き、再統合して、元の段階に戻ってくることもある。
自己の「重心」(center of gravity)と呼びうるものは、特定の時点において、ある一つの意識段階の周辺をさまよう傾向にある。

自由とは、意識のスペクトラムを構成するすべての段階へと接触できる自由である。すべての段階を利用できるようになるためには、成長や発達を進めていく以外に方法はない。

●発達のライン[領域]
20種類を超える発達のラインが展開していく。このとき、各ラインは、相対的に独立して発達していく
全体としての発達(すべてのラインの総和)は、少しも直線的なものでもなければ、順序立ったものでもない(この点こそが、ピアジェの見方がやがて否定されるようになった理由である)。

さまざまな「自己関連ライン」は、相対的に独立した形で発達していくということである。例えば、研究によって示され続けているように、認知〔気づき〕の発達は対人的能力の発達にとって必要であるが十分ではなく、対人的能力〔役割取得能力〕の発達は道徳性〔倫理性〕の発達にとって必要であるが十分ではなく、道徳性の発達は善の観念の発達にとって必要であるが十分ではない。


●発達段階と病理・対処法
〇第一層
・支点1:古代的段階(インフラレッド)
精神病・境界の欠如・自閉症:原始的なもので治療は難しい。投薬、退行療法

・支点2:呪術的段階ないし部族的段階(マジェンタ)
境界性障害:境界を構築し自我を強化

・支点3:呪術‐神話的段階(レッド)
神経症:暴露療法、シャドーの統合、インナーチャイルド

・支点4:神話的段階ないし伝統的段階(アンバー)
脚本病理:認知療法、スクリプトを修正

・支点5:合理的段階ないし近代的段階(オレンジ)
アイデンティティ危機(identity vs role confusion)

・支点6:多元的段階ないし後─近代的段階(グリーン)
実存的問題

〇第二層
・支点7:統合的段階(ターコイズ)
トランスパーソナルな領域の高次の病理

〇第三層
超-統合的段階

●防衛機制
自己の発達におけるそれぞれの段階では、異なる種類の防衛機制が見受けられる。自己は、そうしたどの段階においても、痛みや混乱から、そして究極的には死から、自らを守ろうとするのである。そしてそのとき、自己は、その段階において利用できるあらゆる道具を用いて、自らを守ろうとする。例えば、概念を用いることができれば、概念を用いて自らを守ろうとする。規則を用いることができれば、規則を用いて自らを守ろうとする。ヴィジョン・ロジックを用いることができれば、ヴィジョン・ロジックを用いて自らを守ろうとする。

●それぞれの発達段階における治療法
それぞれの段階は、質的に異なる立体構造をそなえており、それゆえ、自己の性質も、自己が陥りうる病理も、治療法も、段階によって質的に異なる。
ところが、あまりにも多くの場合に、特定の心理療法的なアプローチ(例:精神分析、ゲシュタルト療法、神経言語プログラミング〔NLP〕、ホロトロピック・ブレスワーク、交流分析、生物学的精神医学、ヨーガ)が、すべての種類の精神病理〔心の病〕に対して適用されている。そしてその結果は、多くの場合、不幸なものである
ほとんどの心理療法は、1つか2つの段階に焦点を当てており、そのため、そこから離れた段階であればあるほど、その心理療法を用いることの効果は減少していく。
認知療法が4の発達段階に焦点を当てていると言っても、認知療法が他の段階では効果をもたらさないという意味ではない。実際、認知療法は、他の段階においても明らかに効果をもたらす。

支点1および支点2における発達は、大部分において前‐言語的かつ前‐概念的であるため、考え方見方を修正するという方法では、この段階に対して直接に働きかけることはできない。他方、支点6よりも後の発達も、大部分において超‐心的かつ超‐合理的であるため、心的な領域を構築しなおすという方法は、それ自体としては、その効果に限界がある。

ある段階に焦点を当てている心理療法は、それよりも低次の段階を扱っている心理療法についてはその意義を認め、さらには活用することも多い一方で、それよりも高次の段階については、その意義を認めることがめったにない(実際、多くの場合、そうした高次の段階の存在を認めることは「病理」であるとみなされる)。古典的な精神分析では、本能や情動の働きが重要であることは認識されているものの、私たちがどのような認知的な脚本をもっているかということは、重要なことであると考えられていない。

クライアントは十分に発達しているので、9個か10個のどの支点において問題を抱えている可能性も考慮したほうがよい。

・共通の治療法
こうしたすべての治療法(精神分析、認知療法、人間性心理学、トランスパーソナル心理学など)に共通している事柄はあるのだろうか?
気づくこと(awareness)は、それ自体として、治療効果がある。
それまで遠ざけられていた側面、変質させられていた側面、歪められていた側面、無視されていた側面を、意識によって体験する(あるいは再体験する)ことを目指す。このような意識化の作業によって治療効果が生じるのは、そうした側面を完全に体験することで、意識はそれらの要素の存在を深く認められるようになり、そうした要素を手放せるようになるからなのである。そうした要素を対象〔客体〕として見つめることで、自らを差異化させ、埋め込まれた状態から脱し超えることが可能になるのである。
心理療法とは、隠れた主体を意識された対象に変化させる営みなのである。

もしセラピストが、単なる変性意識状態を奨励する一方で、クライアントの前面自己の発達にうまく目を向け促進することができないでいると、クライアントが高次と低次の領域を結び合わせ、全スペクトラム型の意識を永続的な形で実現することを困難にしてしまうかもしれない。それゆえ、たとえ粗大、微細、元因の認知および自己が、多くの点において互いに並行して存在しうるものであるとしても、それでもなお、意識の重心は、発達が進んでいくにつれて、究極の〈自己〉を構成するより深い層(自我から魂、そしてスピリット)へと向かってホロン階層的に移行していく。そして、そうした深い段階を中心にして、意識が組織化されるようになるのである。

ここが多くの理論家を混乱させる点なのであるが──個々の領域そのものは独立して発達していくものであるため、人は、ある領域については極めて高次の「スピリチュアル」な段階(後‐後慣習的)に到達していながらも、同時に、他の領域については極めて低次の個的ないし「心理学的」な段階(前‐慣習的、慣習的)にとどまっていることもあり得るのである。

さまざまな種類のスピリチュアルな発達は、さまざまな種類の心理学的な発達よりも前に起こることもあれば、並行して起こることもあれば、後に起こることもある


●次の段階の出現
特定の発達ラインにおいて、次の段階が安定的な形で出現するためには、そのラインにおける現在の段階の内容をどの程度まで達成することが必要か?
基本的な諸能力は、次の段階への安定的な発達が起きるために必要である
特殊化した能力は、次の段階への発達が起きるために必要ではない
それぞれの段階はその後の発達においても残り続け、それぞれの段階としてどこまでも無限に訓練し成熟させることができる。

●合理段階があれば、身心統合・ケンタウロス段階は不要では?
単一の「身体」と単一の「」が存在するわけではない。両者を統合するかしないかという二択問題ではない。こうした批判者たちが「身体」と呼んでいるものは、実際には5個かそれ以上の段階(例:感覚、知覚、外念、衝動、情動)から構成されており、「心」と呼んでいるものも、5個を超える段階(例:イメージ、象徴、概念、規則、形式、ヴィジョン・ロジック)から構成されている。
どの発達段階も、それ自身の限界の中で、かなりの程度まで「統合」を果たしている

各発達段階は「超えて含む」の原則に従う。例えば、形式的‐合理的な段階(この段階に「統合」の能力は存在しないのではと批判者たちは疑っている)は、さまざまな具体的操作、多数の異なる視点、さまざまな役割、可逆的操作、相互性などをすべて「超えて含んで」(つまり統合して)いる。驚くほど統合的な構造である。こうした形式的‐合理的な構造も統合的ではあるものの、さまざまな研究によって示されているのは、後‐形式的な認知(ヴィジョン・ロジック)は、それよりもさらに統合的なものだ。
もし発達論的な段階として「身体」「心」「身体と心の統合」だけを考えていると、こうしたすべての段階を見落としてしまう。
それぞれの段階は、前の段階よりも相対的に大きな統合の能力を示す。

●感じる意識
意識は「考える意識」というよりは「感じる意識」と呼べるもの。意識の諸段階とは、「感じる意識」の諸段階、あるいは生き生きとした体験の諸段階なのであり、これこそが、大いなる入れ子の中を進んでいくものなのである。

多くの人々が、後‐慣習的な意識における心の温かさ広がりを、単に感覚的な身体主観的に感じることと混同している。こうした「前‐後の混同」(pre/post fallacy)に捕らわれているために、高次の情動や感情を拡大する実践をおこなうことなく、ただ、〔感覚領域の〕身体的実践だけを推奨するのである。

●複数段階間の議論
複数の段階をまたぐ論争は、めったに解決しない。大抵の場合、すべての陣営が、自分たちの主張を聞いてもらえない、自分たちの主張を正しく理解してもらえないと感じる。それゆえ、第二層の思考をおこなう人々は、どうすればこうした発達の螺旋を展開させることができるかを探し出すことが必要となる。それは、優しく誘いかけることであるかもしれないし、意図的に不協和を引き起こすことであるかもしれない。

スパイラル・ダイナミクスおよび発達論的研究一般によって示されているのは次の点である。多くの議論の根底にあるのは、どちらのほうが優れた客観的証拠を提示できるかということではなく、議論をおこなっている人々の主観がどの段階にあるかということなのである。

●「深さ」「高さ」「上昇」「下降」などの比喩表現について
こうした比喩表現のすべてが有用なものである。どの表現も、意識の異なる側面を照らし出しているからであり、意識そのものは、どのような概念によっても捉えきることができない


◆自己、パーソナリティ

●自己とは?

全体としての自己は
近接自己(proximate I):「私」「観察する自己
遠隔自己(distal I):「私の一部」「観察される自己」(自分が見たり知ったりすることのできる客観的な事柄。
究極の目撃者:「私‐私
の複合体である。

全体としての自己には多くのサブパーソナリティが含まれているため、全体としての自己は、一連の順序に従って段階的に発達するわけではない。だが、近接自己は、かなりの程度まで、一連の順序に従って、段階的に発達していく。
近くにある「私」が遠くにある「私」へと変わるとき、分離(あるいは抑圧)が生じていると言える。他方、近くにある「私」が遠くにある「私の一部」(distal me)へと変わるとき、超越が生じていると言える。

●サブパーソナリティ
サブパーソナリティは、ほとんどどの支点においても形成されうるものである。
・古代的なサブパーソナリティ(支点0および支点1)
・呪術的なサブパーソナリティ(支点2および支点3)
・神話的なサブパーソナリティ(支点3および支点4)
・合理的なサブパーソナリティ(支点5および支点6)
・魂のサブパーソナリティ(支点7および支点8)

こうしたさまざまなサブパーソナリティもまた、相対的に独立した形で発達していく。
こうした状態はその人の人格の中へと入り込み、数分間あるいは数時間のあいだ、その人の人格を乗っ取る。しかしその後、その状態は、やってきたのと同じくらいの速さで消え去っていく。こうして、その人は、普段の平均的な自己(かなり高次の段階の自己であるかもしれない)へと戻っていく。

人は10個以上のサブパーソナリティを抱えており、極めて多種多様な種類と段階の欲求防衛機制病理(境界例的なものから、神経症的なもの、実存的なもの、精神的/霊的なものまで)を示しうる。そしてそれゆえに、私たちは、さまざまな種類の心理療法から、何らかの効果を得ることができるのである。

サブパーソナリティとは、その健全な形態においては単に、さまざまな種類の機能的な自己が表現されたものであるに過ぎない。こうした機能的な自己(例:父という仮面、本能的な自己、達成主義的な自己)は、特定の心理社会的な状況をうまく乗り切るために用いられる。サブパーソナリティが問題になるのは、近接自己からの分離の程度が大きいときだけである。

意識の奥底に沈められたさまざまな仮面たちが──そしてそれらと一緒に切り離されたさまざまな道徳欲求世界観などが──地下でこっそりと活動するようになり、さらなる成長や発達を妨害してしまう。そのとき、こうした要素は、意識を構成する「隠れた主体」であり続ける。自己がこうした要素から脱同一化できなくなってしまうのである。そうなれば、こうしたサブパーソナリティは、痛ましい症状という形で、自らの存在を象徴的に伝え続けるのみとなる。ここでもまた、治癒を促進する触媒となるのは、こうしたサブパーソナリティに気づきを向け、それらを意識の対象にするということである。

それぞれのサブパーソナリティは、意識に対して、異なった仕方で影響を与える。前‐言語的なサブパーソナリティは、多くの場合、さまざまな衝動や、言葉にできないけれど何かに駆り立てられる感覚として現れる。言語的なサブパーソナリティは、声に出して述べるのであれ、心の中で思うだけであれ、さまざまな物語として現れる。超‐言語的なサブパーソナリティは、輝き高次の認識超越的な感情(無上の喜びから宇宙的な苦悶まで)などとして現れる。

たとえサブパーソナリティがどれほどたくさん存在していたとしても、そうしたすべての声を、何らかの形で一つにまとめて、そこに調和をもたらすことこそが、近接自己が果たすべき仕事である。

全スペクトラム型の心理療法家であれば、身体、影、仮面、自我、実存的自己、魂、スピリットのすべてをとりあげ、そのすべてに気づきを向けようと試みることが必要となる。

●自我は消えるか、保持されるか
自我が、個的な領域の自己と排他的に同一化することを表すのなら、高次の発達において自我は失われる。他方、自我が、慣習的な世界と関わるための機能的な自己を表すのであれば、疑いなく自我は保持される(多くの場合さらに強力なものとなる)。
自我の重要な働きの一つを、現実を客観的に見つめる能力にあると考えるならば、疑いなく、そうした意味での自我は保持される。
もし自我とは、心にそなわる統合の能力であると考えるならば、自我は保持される(そして強化される)。

●基本構造に関わる欲求と自己に関わる欲求
自己に関わる欲求のほとんどは移行的なもの、一時的なものであり、自己が特定の意識段階に位置するときにのみ働き続ける。
自己は、衝動的な欲求から、安全の欲求、順応への欲求、そしてやがては自律への欲求の段階へと移行していくが、以前の段階における欲求は、次の段階における欲求によって置き換えられる傾向にある
それゆえ、全体として見れば、ある人の「全体としての動機」を構成するのは、それまでに出現した基本構造に関わる欲求(例:食物への欲求、性への欲求、記号によるコミュニケーションへの欲求、神との交わりへの欲求)のすべてに、現在の段階における自己に関わる欲求(例:安全への欲求、所属への欲求、自尊心の欲求、自己超越の欲求)を加えたものである。後者は、近接自己が、基本となる特定の意識構造ないし意識段階と排他的に同一化することによって生じる。

●欲求・動因・動機づけと病理
さまざまな欲求必要〕が生じるのは、次のような理由による。
あらゆる構造は、同じような段階にある他の存在との間で、ある種の「関係的交換のシステム」を形成している。それぞれの段階に対応する「食べ物」が存在することになる。言い換えれば、食物についてのホロン階層──物質的な食物、情動的な食物、心的な食物、魂の食物──が存在するのである。物質的な欲求には、私たちがこの物質的宇宙とどのように関係し、どのように交換やりとり〕をおこなっているかが映し出されている。情動的な欲求には、私たちが他の情動的存在とどのように関係しているかが映し出されれている。
欲求には多種多様な種類や段階が存在するのは確かである。だが、あらゆる本物の欲求はすべて、ホロン(何らかの段階に位置する)が自らを存続させるために、他の存在との間にどんな相互関係を築く必要があるかを示している。

物質的な欲求には、食物・水・休める場所への欲求などが含まれる。
情動的な欲求には、私たちが他の情動的存在とどのように関係しているかが映し出されている。そこでは、情動的な温かさ、性的な親密性、気遣いなどを互いに交換することなどが重要となる。
心的な欲求には、私たちが他の心的存在とどのように関係しているかが映し出されている。私たちは、言葉によるコミュニケーションを通して、さまざまな記号を交換し合っているのである(例えば、独身の誓いと沈黙の誓いの両方を立てた修道僧たちが伝えているのは、他者と話をすることができないことのほうが、性交できないことよりも遥かに辛いということである。心的な欲求もまた、本物の欲求ないし動因であり、他者との関係的交換に基礎を置くものなのである)。
精神的/霊的な欲求には、私たちが究極の源ないし基底とどのように関係しているかが映し出されている。こうした究極の源ないし基底こそが、私たちの「分離した自己」に対して、意味や赦しや救いを与えてくれる(このような精神的/霊的な欲求が満たされないことは、ある種の「地獄」にいることに等しい)。

こうした欲求動機づけが押さえ込まれたり抑圧されたりすると、他者との関係的交換の在り方が歪められ、さまざまな病理──物質的な病理、情動的な病理、心的な病理、精神的/霊的な病理──が生じる。


◆スピリチュアリティ

●注意=無知が苦しみの根本原因
二元論的な収縮のプロセスこそが、何かに注意(attention)を向けるという働きを可能にする。あるものに注意を向けて、あるものを無視(ignore)することができるようになる。伝統によれば、この無知(ignorance)──すなわち、非二元の基底を忘却した注意の働き──こそが、あらゆる苦しみの根本的な原因なのである。

この注意の根本的な原因は元因の領域にあり、究極のハートの周りで自己収縮の作用をもたらし、究極の目撃者として、対象世界から切り離された純粋な究極的主体として出現することになる。

こうした「堕落」を反転させるためには、個人はまず目撃する能力を確立しなおさければならない。すなわち、注意を向ける能力平静でいる能力執着しない態度を強化するということであり、別の言い方をすれば、意識のあらゆる対象──身体、自我、魂のすべてを含む──と脱同一化するということである。そして次に、元因の目撃者そのものを──そして注意という働きの根本的な原因を──溶解させ、純粋な非二元の「一つの味」と合一することが必要なのである。


●スピリチュアリティの実践
本物のスピリチュアリティには何らかの実践が含まれている。
本物の精神的/霊的な実践であるならば、どんなものでも構わない。ただし、適切な資格をもった師で、かつ、自分に合っていると感じる人物を見つけることは必須である。
単に信念や考えを変えることだけを勧めている精神的/霊的な道に対しては、常に警戒しておこう。本物の精神性/霊性とは、単に今までとは異なる仕方で世界を変換〔翻訳〕するだけのものではなく、自分自身の意識そのものを変容させるものだからである。

・伝統的な「存在の大いなる連鎖」の4つの欠陥
1. 4つの象限が十分な規模で差異化〔区別〕されていない。
 意識とは、身体と関係のない単なる超越的な実体ではなく、客観的な事実文化的な背景社会の構造などに深く埋め込まれたものである
 必要なことは、大いなる連鎖を構成する垂直的な段階のそれぞれを、少なくとも4つの水平的な領域(志向的、行動的、文化的、社会的)へと差異化〔区別〕するということである。

2. 心の領域そのものを細分化する必要があるということであり、具体的に言えば、初期の発達を捉えなおすことが必要である。
 多くの場合、こうした前‐形式的な諸段階後‐形式的な諸段階(心霊段階や微細段階)が混同されていた。この「前‐後の混同」(pre/post fallacy)〔前‐超の虚偽〕という事態は、永遠の哲学のほとんどにおいて見受けられる。そのために、永遠の哲学には、真に目覚めた知恵だけでなく、かなりの量の迷信が含まれている

3. 人間発達における初期の前‐合理的な諸段階への十分な理解をもっていなかったために、精神病理〔心の病〕にはどのような種類のものが存在しているのかを認識できていなかった。

4. 進化(evolution)についての理解が欠けている。これもまた、ほぼ近代西洋によってのみ明らかにされた内容である。
 永遠の哲学において、永久に変わることのない元型〔原型〕であるとみなされてきたものは、むしろ、進化のプロセスを通して形成されてきた「習慣」として理解するほうがよい。それは「コスモスの記憶」(Kosmic memory)なのである。

●真に発達したシャーマンなら
たとえ呪術的な文化であっても、真に発達したシャーマンであれば、さまざまな後‐慣習的な能力を身につけ、超‐個的な領域を本物の形で体験し(大抵の場合は心霊の領域であったと思われるが、時には微細、もしかすると元因の領域も体験していたかもしれない)、自己愛的ではない後‐慣習的な構造によってそうした体験を解釈することは可能であった。
ほとんどの場合、文化における平均的な意識段階と最も発達した意識段階の両方が、進化のプロセスを通して次第に深くなっていく。
真に発達したシャーマンであれば、言葉のどのような意味においても「本物」のスピリチュアリティを実現することができたと思われる。
現在入手できる証拠によれば、典型的ないし一般的なシャーマンの旅は、呪術的な構造に基づいて、心霊領域を至高体験していた。

●体験は発達段階によって解釈が異なる
至高体験は、大抵の場合、その人が位置している発達段階に基づいて解釈される。超‐個的な領域そのものに含まれている内容は、低位の構造が抱えている限界によって、ろ過され、希釈され、時には歪められた形で受け取られる。
呪術的な段階に位置する人(他者の立場に身を置くことが困難)も、微細な段階の至高体験(例:光り輝く神と融合する体験)をすることがあり得るが、この場合、その人は、自分自身にだけ当てはまるものとして、その人の自我は大きく肥大化することになり、精神病的にさえなる。
他方、神話的な段階に位置する人も、微細な神と融合する体験をすることがあり得る。その人は原理主義者として、世界全体を自分たちの神へと改宗させようとするかもしれない。
人は、心霊段階への永続的な発達を遂げることによってのみ、心霊領域を歪められていない形で体験できる。ある領域を基本的な構造として確立することによってのみ、その領域を本物の形で体験することが可能になるのである。

●合一体験
ある「合一体験」がどの領域との合一によるものなのか──粗大領域なのか(自然神秘主義)、微細領域なのか(神性神秘主義)、元因領域なのか(無形神秘主義)、あるいは本物の非二元の意識なのか(あらゆる領域の形態と純粋な空性が結合する)──を見分ける最も容易な方法の一つは、その意識が、夢を見ている状態および夢のない深い眠りの状態においてどのような性質を示すものであるかに着目することである。
もし目覚めている状態での「一なる意識」についてのみ著者が語っているなら、それは大抵の場合、粗大領域における自然神秘主義に対応するものである。
もしその「一なる意識」が夢を見ている状態においても持続するものであるなら──すなわち、著者が明晰夢について語っていたり、外面における粗大な自然だけでなく内なる輝きとも合一することを強調していたりしたら──それは大抵の場合、微細領域における神性神秘主義に対応するものである。
もしその「一なる意識」が夢のない深い眠りの状態においても持続するものであるなら──すなわち、目覚めと夢見と深い眠りの3つの状態すべてにおいて完璧に現前している究極の〈自己〉の存在を著者が認識しているなら──それは大抵の場合、元因領域における無形神秘主義(トゥリーヤ)に対応するものである。
もしそこからさらに、究極の形なき〈自己〉があらゆる領域(粗大領域、微細領域、元因領域)の形態と一つであることを見出しているなら、それは純粋な非二元の意識(トゥリヤティタ)である。

自然神秘主義者、エコサイコロジーの支持者、新異教主義の見方をとる人々の多くが、粗大領域のみに目を向け、目覚めている状態における自然との合一こそが、私たちが実現しうる最も高次の合一であると考えている。だが、自然との合一とは、基本的には、主要な四種類の神秘的合一体験のうちの一つ目である。

それゆえ、例えば、エコサイコロジーにおいて重視されている「深い自己」(deep self)を、禅における真の自己、ゾクチェンにおけるアティ、ヴェーダンタ学派におけるブラフマン‐アートマンなどと同一視することはできない

●意識の発達において、微細領域を完全に迂回することは可能か?
微細領域詳細に探求することはある程度省略しうるということであり、微細領域そのものを回避できるということではない。例えば一般的に言って、微細領域には、夢を見ている状態が含まれる。そして、完全に悟りを開いた人物でさえ夢を見ることに変わりはないが、そうした人々は、気づきを保ちながら夢を見ることが知られている(明晰夢や透明夢)。こうした人物においては、微細領域が意識にとっての永続的な現実として確立されている。

元因および非二元の領域を強調する流派において──実際に起きているのは、微細領域の詳細な探求にはほとんど関わることなく、元因の認知のラインおよび非二元の認知のラインを強調するということである。もちろん、そうした場合であっても、微細領域は現前している

●ボディワーク
フェルト・ミーニング」(ユージン・ジェンドリン)、「エンドセプト」(endocept;内念。シルヴァーノ・アリエティ)など。
身体的な感覚と心的な考えの間にあって、両者を結びつけているものであり、自らの情動的な影を探求するための入り口となる。ジェンドリンの「フェルト・ミーニング」は、しばしば、ケンタウロス的な意識と混同されている。だが、それは基本的には、テュポーン〔身体自我〕の段階に対応する(心身の差異化以前のものであり、差異化以後のものではない)。こうした混同が起きるのは、ヴィジョン・ロジックによってもたらされる俯瞰的〔パノラマ的〕な意識のうち、その認知的な要素を過小評価していることによる。内念の段階に対応する意識も、当然ながら、ケンタウロス的な意識の一部分であるが、両者は同じものではない

1960年代および70年代、ボディセラピー(例えばロルフィング)が向かっているのは、ケンタウロス段階であるように思われたが、ボディセラピー〔身体的療法〕の大部分は、前‐形式的な段階に対応する物理的および情動的な身体を扱っている。

さまざまな種類の身体的な療法──例えばウエイトリフティング、栄養療法、ロルフィング〔構造的身体統合〕、ソマティック療法、身体的実践など──はすべて、(支点1の物理的身体および支点2の情動的身体を直接に扱っているという側面においては)土台として極めて重要なものである。だが、ケンタウロス段階における後‐形式的な統合を果たす(例:レヴィンジャーの自律的段階ないし統合的段階へと到達する)ためには、こうした土台だけでなく、ヴィジョン・ロジックをとり扱い、その働きを強化しなければならない。

同様に、「心と身体」を扱うセラピーであると述べている流派のほとんど──例えばバイオエナジェティックスやフォーカシングー──において扱われているのは、大部分、心身の差異化以前の状態であり、心身の差異化以後の状態、すなわち、真に統合的な段階に対応するものではない。

●ユング派の心理療法、元型
神話的な元型のほとんどは、具体操作的な段階におけるさまざまな役割ないし仮面である。こうした元型は前‐形式的なものであって、後‐形式的なものではないのである。本質的に言って、ここに超‐個的な発達段階に対応するものは存在していない。だからこそ、多くの意見とは裏腹に、こうした神話的な役割を意識化することは、大抵の場合、支点4の心理療法なのである。
もっとも、支点4の段階で生じうるさまざまな病理を取り除くことで、(他のあらゆる優れた心理療法と同じく)高次の超‐個的な発達は起こりやすくなる。

このような種類のユング派の心理療法においても、時々、超‐個的な気づきがもたらされることがある。しかしその理由は単に、こうしたさまざまな神話的役割を対象化するというプロセスが、多くの場合、目撃者の視点を活性化させるからであると思われる。

共通」であることや「集合的」であることは、「超‐個的」であることを必ずしも意味しない。

そうしたを最も適切な形で解釈するために必要なのは、後ろを向いて、抑圧された幼児期の記憶を探ることではなく(それは「自伝への還元」である)、外を向いて、その夢と類似した神話的な諸形式(神話学によって詳しく研究されている)を探るということである。そのことによって、人は、[人間の集合的な条件という]鏡のなかで、自らを脱‐個人化して捉えるようになり得るのである。

意識は、さまざまな神話的元型と親しくなる〔含む〕とともに、そうした神話的元型による支配から自由になる〔超える〕ことで、無意識からの不可解な力によって妨げられることなく、その旅を続けられるようになる。

 

続く