【タイトル】 インテグラル理論を体感する:統合的成長のためのマインドフルネス論
【著者】 ケン・ウイルバー
【ページ数】 424

 

 


【読むきっかけ】前回のレビューに続いて最近のケンウィルバーの思想・方法論を学ぼうと思い。

【対象】 インテグラル理論や、人間の成長・発達に興味がある人。ケン・ウィルバーの最近の見解を知りたい人。精神的に成長したいと思う人。
【評価:★5段階で】
 難易度:★★★★
 分かりやすさ:★★★★
 ユニークさ:★★★★
 お勧め度:★★★★

【要約・メモ】

 

◆概要

本書は、インテグラル理論の最も深い部分を体感することのできる深遠な実践書で、原著が出版されたのは2016年で、比較的最近のウィルバーの思想を反映している。

1. グローイング・アップ〔成長〕
2. ウエイキング・アップ〔目覚め〕
3. ショーイング・アップ〔体現〕
4. クリーニング・アップ〔浄化〕

の4つの道について説かれている。大半のページは、1と2について費やされ、2種類の成長を、インテグラル理論と結びつけて、マインドフルネスによって行う方法論が説かれる。ラインの発達の部分では、オープニング・アップ〔開放〕という言葉も使っている。

マインドフルネスの実践として以下のものが紹介されている。

・自分が今位置している発達段階へのマインドフルネス
・過去のそれぞれの発達段階に対するマインドフルネス(特に「中毒」と「アレルギー」に気づくこと)
目撃者(と非二元の意識)へのグラウンディング
人間関係におけるマインドフルネス
・主要な8つの発達領域へのマインドフルネス

テーマとしては、
主体を客体にする
全体性を増大させる
多様性の中の統一性を尊重する
・自分自身の存在と認識の一部でありながら今まで意識されていなかった側面に気づきを向ける
ことに焦点を当てている。



〇インテグラル理論
人間が生み出した事実上すべての分野──例えば科学、倫理、文学、経済、スピリチュアリティ──には、何らかの真理が含まれているが部分的であるtrue but partial)。

人間がどのように「解釈」を行うか。そして解釈こそが、人間の条件を核心において規定している極めて重要な真理。科学でさえも、解釈に依存する

私たちが発するべき問いとは、「どのアプローチが正しいのだろう?」ではなく、「こうした全てのアプローチが真実の一部分を与えているこの世界とは、どういうところなのだろう?」。ある程度までは「誰もが正しい」(everybody is right)と考える。インテグラル理論が探求する問いとは、「どれが正しいのだろう?」ではなく、「どうすれば全てをひとつに織り合わせられるのだろう?」。


〇二つのスピリチュアリティ

1. 「神話的‐字義的」な宗教
神話的な物語は字義通りに〔文字通りに〕受けとられ、一字一句まで正しいもの、絶対的に正しいものだとみなされる。

2. 意識を変容させるための心理的技術
 何らかの信念体系ではない。この発見のプロセスは、宗教よりも、遥かに心理学に近い。
 多くの場合、こうした内容は、秘教的な知として内密に(つまり、一般の大衆に広く公開されることなく)伝えられてきた。ほとんどの人が知っているのは、世界の大いなる宗教の「物語バージョン」でしかない。



◆グローイングアップとウエイキングアップ、構造と状態

私たちは、極めて「成長」している(知能が高度に発達)けれど、少しも「目覚め」ていない(悟りを得ていない)という人々をたくさん生み出してきた。

ウェイキング・アップ〔目覚め〕の道
 5万年以上前──最も初期のシャーマンや呪術医が現れた頃
 「大いなる解放」や「目覚め」「究極のアイデンティティ」「悟り」
 近代以前には世界中の至るところにあり、最も広く知れ渡っていた地図である。
 西洋のどんな発達モデルにも含まれていない。
 「スピリチュアルな体験」(Spiritual Experience)〔精神的/霊的な体験〕

グローイング・アップ〔成長〕の道
 およそ100年前近代西洋における発達心理学の研究者が発見
 すべての学派に6つから8つの基本的な段階
 どうすれば成長できるのかを教えてくれても、どうすれば目覚めることができるのかは教えてくれない。
 東洋ないし西洋のどんな瞑想システムにも、グローイング・アップの諸段階は含まれていない
 「スピリチュアルな知性」(Spiritual Intelligence)〔精神的/霊的な知能〕

グローイング・アップの諸段階は、何か特別なことを始める必要はなく、ただ成長を続けていけば、8つの段階が自然と開き出されていく。ただし、自分がその在り方を表現していたとしても、あなたはそのことに気づかない
他方、ウェイキング・アップの諸段階は、各段階に到達すれば、その存在は明らかになる。この道は相当な努力と献身が必要で、結果を得るまでに何年もの時間がかかる。

統合的アプローチ
 この両方の道が初めて結びつく。歴史上初めて、グローイング・アップとウェイキング・アップの道が結びつき、意識構造と意識状態、豊かさと自由、熟練した方便と究極の智慧が結びついた。


〇意識の構造

グローイング・アップの発達モデルで扱うのは「意識の構造」(structure of consciousness)。「構造」とは、私たちが自覚なく従っている隠れた地図のこと。全ての人に百パーセント現前しているが、ほとんどの人が、その存在に気づいていない。誰もがルールに従っているにもかかわらず、誰もそのルールのことを意識していない!
こうした隠れた地図を人類が発見したのは、比較的最近の出来事。


〇意識の状態
意識の構造と対になるのが、「意識の状態」(state of consciousness)。意識の状態は、心の内側を見つめるだけで、見つけることができる。

〇瞑想や宗教ではグローイングアップはできるとは限らない

標準的な瞑想によって「保証」されるのは、意識状態の重心がさらに高次の段階(状態‐段階)へと変化を始めるということであり、あなたの意識構造は、同じ段階にとどまり続けるかもしれない
意識構造という隠れた地図は、世界中の大いなる瞑想的伝統のどこを探しても、全く見出すことができない。

極めて熟達した瞑想の師であっても、未成熟な見解(例えば同性愛嫌悪、権威主義、性差別主義、厳格な階級主義)に呑みこまれてしまうことがある。そうした師たちは、無意識のままに、歪んだ隠れた地図に突き動かされる。東南アジアにおいては、極めて好戦的な仏教運動が起きている。仮に本物の非‐二元の一なる意識を実現していたとしても、その意識構造の発達が自民族中心的な段階にある。Zenat War(『禅と戦争──禅仏教は戦争に協力したか』)では、最も尊敬されている禅の師たちが、純粋に自民族中心的な観点から、軍国主義や権威主義、殺人や戦争、あるいは偏見に満ちた他の見方を推奨していたことが述べられている。こうした禅師たちの悟りは、単にその自民族中心的な偏見を強化しただけだった。

どれほど内省し、瞑想し、心の内側を探求しても、たとえ悟りに到達したとしても、意識構造は依然として「隠れた」まま、無意識のままであり続ける。目撃者は、あなたが位置している段階の地図を通して、世界を見つめ、解釈し続ける。

ある言語がどんな隠れた規則に従っているのかを明らかにするためには、その言語を使用している多数の人間を客観的に調査し、その共通の特徴を調べ、どんな規則が人々の発話を実際に支配しているのかを推定する必要がある。さもなければ全ての単語や文章や文字や段落を目撃するだけであって、どのような文法に従っているのかを明らかにすることはない。

あなたが隠れた地図について具体的に学んでそれを探し出そうとしない限り、隠れた地図についての指摘を受けない限り──そうすることで、隠れた地図を意図的にマインドフルネスの対象にし、隠れた主体を意識された客体にし、それから脱同一化し、それを手放すのでない限り──グローイング・アップの次の段階、次の自己、隠れた地図が現れることはない。



◆グローイングアップの段階

発達研究者は、それぞれの段階は実際に異なる世界に接している、あるいは異なる世界そのものとも主張する。

どの発達段階も「素晴らしい」が、後の段階ほど「素晴らしい」。後の段階ほど、包括的で、全体的で、意識的で、高潔で、気遣いに満ちている。ヘーゲルが述べたように、どの段階も適切だが、高次の段階になるほど「より適切」である。

・2種類の階層
1. 支配型の階層構造
2. 成長型の階層構造

支配型の階層構造は、カースト制度、犯罪組織における階層など抑圧的で威圧的なもの
成長型の階層構造は、全く逆で、高い階層に到達すればするほど、包括的になり、思いやりが深くなり、愛に満ちるようになる。高次の段階は低次の段階を抑圧しているわけではない。高次の段階は、低次の段階を包み込んでいる。



〇マインドフルネスの応用

マインドフルネス
 心と身体に働きかけるトレーニング技法
 ストレスを劇的に減少させられる。静けさや落ち着き、心身が調和しているという感覚が増大し、不安や落ち込みの感情は和らぎ、痛みに伴う不快感は少なくなり、血圧は下がり、学習能力やIQや創造性が高まる。
 意識の高次の状態を目覚めさせる。
 人生全体をフロー状態へと変えてくれる。
 楽な姿勢で座り、心を落ち着かせ、どんなことが生起しても、現在の瞬間に意識を向け続ける。本質的には、行うことはこれだけ。

インテグラル・マインドフルネス
 通常のマインドフルネスの方法に、インテグラル理論が与える革新的な洞察を組み合わせる。
 瞑想的伝統においては全く知られていなかった内容に対して意識を向ける
 隠れた地図を明らかにし、その地図をよりよいものへと更新するために活用する。
 さらに多くの領域において、フロー状態に到達。

・隠れた地図の意識化と脱同一化、新しい段階への同一化

キーガンによれば、発達とは「ある段階の主体が、次の段階の主体にとっての客体になる」こと。
発達とは包み込むことで、より包括的、統合的になっていく。それぞれの段階は、先行する段階を超えて含むことで、次から次へと全体的になっていく。

隠れた地図に一貫して意識を向け続けることで、地図は明るみに出る。無意識の地図が意識化され、意識のもとにさらけ出す。主体ではなく客体となり、意識的にコントロールできるものになる。ある段階の自己は、次の段階にとっての道具になる。古くて一貫性のない地図を取り除き、その代わりに、新しくてもっと正確な地図を用いることによって、人生のほとんどあらゆる領域において、ただちに、重大な変化が生じる。

それぞれの発達段階は、前の段階を超えて含む(transcend-and-include)。新たな発達段階は、前の段階を包み込むと同時に、前の段階には全く存在していなかった新たな内容を付け加えている。次の段階が自己にとっての新たな隠れた地図になり、自己はこの段階を通して世界を見るため、段階そのものを見ることはできない。また超えて含むため、これまでに生み出されてきた全ての意識構造にもアクセスすることができる。

どの発達段階も、たとえその歩みを加速させることはできても、飛ばしたり避けたりすることはできない
大切なことは、各段階に対応するさまざまな「人生の停留所」(stations of life)を用意すること。わずかな例外を除けば、そもそもある文化が根づくためには、あたかも樹木の年輪のように、有機的なプロセスを通して一歩一歩成長することが必要である。

私たちは、自分自身の現在の「重心」よりも少し高次の段階について理解しようと努力することで、そうした高次の段階へと実際に成長し発達することを促される。


〇中毒とアレルギー
超えて含むの「超える」の面に失敗すると、一部分が、前の段階から抜け出せず、その段階に「固着」し続けるために、さまざまな「中毒」が発達する。他方、もし「含む」の面に失敗、つまりその段階を否定し、新たな段階から切り離してしまうと、そうした認めてもらえない、望まれていない側面に対する「アレルギー」が発達する。
中毒を終わらせるには「超える」ことが必要であり、アレルギーを終わらせるには「含む」ことが必要。



〇インテグラル・マインドフルネスの4つの基本的な手順

1.明るみに出す(unearthing)
自分自身の隠れた地図を明るみに出す。そうした地図が実は自分の中に存在しており、自分の行動や生活の多くの部分を突き動かしていたということを、包み隠さずに認識する。

2.注意を向ける(noting)
そのためには、各発達段階にどんな特徴があるのかに注意を向ける。自らの考えや行動とそうした特徴を比較して、自分はどの段階が最も当てはまっているかを判断する。気をつけるべき点は、人生の異なる領域では、異なる段階が活性化されているかもしれないということ。

3.録画する(video taping)
自分が基本的にどの発達段階に位置しているのか──自らの隠れた地図がどこにあるのか──を突き止めることができたら、その地図を意識の中に保持する。それを思い、それを感じ、それを見つめる。その内容にマインドフルネスを適用する。
自分が心の中に隠し続けてきたその地図に、意識を集中させる。自分の人生の大部分を突き動かしてきた根本的な文法規則に、意識を向ける。

感覚を、あらゆる角度から、撮影する。それはどんな? どんな? 身体のどこに位置? (頭、胸、腹、あるいは別の場所、あるいは複数の場所の組み合わせ)どんな気持ちになる? どんな見た目で、どんな匂い? どんな出来事があると、願望が生じるか?

たとえどんな内容、対象に意識を向けるときでも、それに対して何かをする必要はない
ただ、意識を向けるということそれ自体のために、意識を向けている。
この「意識の中にただ保持しておく」という点こそが、本質。ただ現在に気づいているということ、これこそがマインドフルネスの目標なのであって、それ以上でも、それ以下でもない。

やがて、あなたは隠れた主体との同一化を緩め、そこから脱同一化できる。すると、意識の中に、隙間ないし空間が生まれて、そこに次の段階の自己、次の段階の地図が現れる。
意識の中に、隠れた主体をただ保持しておくことによって、主体は客体となる。主体となっている隠れた地図を、意識の対象にする。その地図を、直接に見つめる。その地図を通して自己や世界や人生を見つめるのではなく、その地図を見つめる。

4.手放す(Letting go)
多くの場合、あたかも広大な海のような自由と解放の感覚を感じ始める。

意識の中に生じる「思考なき隙間」。この隙間こそが、あらゆる瞑想体系にとっての究極の目標

・「隠れた地図」と「動かざるもの」へのマインドフルネス
あなたの意識の中には、明瞭で、開かれた空間が生じることになる。そして、この空間の中でこそ、次の発達段階が自発的に現れてくる。

ただ、目撃する意識の中に、安らいでいる。実際、「隠れた地図」へのマインドフルネスと、「動かざるもの」への短時間のマインドフルネスを交互に行うことは、よい考え。そして、この「動かざるもの」とは、どんな限界も境界もない、純粋な意識そのもの。

例えばオレンジ段階の場合、「達成への衝動」に意識を向け続けたら、その後、その意識を脱落させ、純粋な目撃作用そのもの、純粋な無境界の意識へと注意を向け直す(意識されている内容ではなく、意識そのものへと注意を向ける)。あなた自身が今感じている「私は在る」(I AM ness)という偽りなき感覚に、ただ注意を向ける。その純粋な「私は在る」の中に、ただ、安らいでいる。生まれることもなく、死ぬこともなく、限界もなく、境界もない、その感覚の中に、ただ、安らいでいる。

こうした交互の実践を行うことで、真の自己への同一化が強まるだけでなく、同時に、偽りの小さな自己を手放すことも促進される。
1日に1回、20分をかけて──地図へのマインドフルネスを5分、「私は在る」へのマインドフルネスを5分、それを2セット──行いる。ただし、最初に意識を向けるのは「私は在る」のほうにする。



〇各段階の特徴

●段階1:古代的段階(インフラレッド

精神分析における「口唇期」、マズローの欲求階層の「生理的欲求」(食物、暖かさ、水、休める場所などへの欲求)の段階。飢えを満たすより重要なことなど何もない。世界とは食べ物、あなたとは口

もしあなたがこの衝動を十分に「超えて含む」ことができていない、この段階に対する何らかの執着が残っており、口唇期への固着があるならば、この衝動が自分の中に生じたとき、あなたはこの衝動に一時的に「乗っ取られる」。あなたが衝動を所有しているのではなく、衝動があなたを所有している。この衝動が、あなたの意識ないしアイデンティティの中に、「隠れた主体」として残り続ける。あなたの一部が、この段階に同一化し続けている。

脱同一化するだけではなく、そうした欲求や衝動をもつことそのものをやめ、自分から切り離し、抑圧してしまうと、「食物アレルギー」過食症や拒食症として現れる。

 

◆マインドフルネス

「食物への欲求」を扱う。食べ物を食べたいという欲求に、今ここで、触れてみる。もしお腹がすいているのなら、その空腹感に意識を向ける。もしお腹がすいていなければ、空腹のときの感覚を思い出す。ここにあるのは、深い、とても深い渇望であり、極めて原始的な衝動

そうした衝動は今もあなたの主体の一部であり続けているのであり、だからこそ、マインドフルネスによって客体として見つめることで、それを実際に手放し、それと「脱同一化」することができる。それによって世界を見るのではなく、それを見るようになり、それに所有されるのではなく、それを所有する。

感じながら気づくこと──それが「マインドフル」であることの意味──によって、直接に、その衝動を感じる。

そして、気づくこと〔意識すること〕そのものにも、「超えて含む」という性格がある。ある対象に気づくということは、その対象を超えたところに進むが、それと同時に、その対象を含むこと、その対象に実際に「触れる」──ちょうど鏡がそこに映すものすべてに直接触れているように──ことでもある。

もしあなたが「飢えの衝動」を捨て去り、否定してしまっているなら、優しく、注意深く、しかし直接に、この衝動を探し出して、ただそれに、揺らぐことなく気づく。感じながら気づく意識のなかで、ただ、その衝動を保持する。すると、そうした衝動は、あなたの「友達の輪」の中へと戻ってくる。

 

 

●段階2:呪術的段階ないし部族的段階(マジェンタ

衝動的段階」「呪術的段階」「情動的‐性的段階

自分の情動や感情と、他者の情動や感情のあいだに、基本的な区別をつけ始める。どこまでが自分自身で、どこからが自分をとりまく環境なのかを、本当の意味で区別し始める。

この段階では、物事を空想に基づいて考える傾向があり、どんな願望魔法のような力によって実現することができると信じられている。2つ目は、周囲の環境から自分自身を分離させ始めたばかりであるため、まだ少し自己と環境が混ざり合ったまま。自分と外的環境の区別がつかず、外的環境にも人間のような性質があると認識されている。

・アニミズム
問題は、自然の全てに対して、人間的な特質を見出していること。これは人間以外のものを「擬人化」する呪術的な思考にすぎない。現在でも、迷信や呪術的思考に基づく行動として、成人の中に現れている。

最近のスピリチュアルなアプローチ(例えば『ザ・シークレット』や『超次元の成功法則』)にも、呪術的な要素が大量に含まれている。そしてこうした要素は、私たちの中の自己中心的な側面、すなわち、自分の力を拡大したいという欲求に訴えかけてくる。

・本物の超常的能力
こうした幼児期の「ことばの魔法」は、本物の超常的能力(本物の超感覚的知覚(ESP)や予知や念力)とは全く異なる。空想による呪術と、本物の心霊的な能力には大きな違いがある。

・自己中心的な特別性と宇宙中心的な特別性
今ここでとりあげているのは、こうした特別性の幼稚な形態、自己愛的で自分本位で自己中心的な形態にすぎない。この特別性は、他者には同じような特別性はそなわっていない──私だけが特別!──と考えることによって成立している。他方、成熟した形態の特別性においては、あらゆる生命に「大いなる完全性」が内在している。これは自己中心的な特別性ではなく、宇宙中心的な特別性である。

一方、「私は決してそんなことは考えない!」というとき、呪術的な考えは「抑圧」され、無意識の奥底へと追放されて、大抵の場合、他の人々へと「投影」されるようになる──突如として、世の中の多くの人々が、馬鹿げた呪術的見解にとらわれているように思えてくる。そうなると、ありとあらゆるところに、呪術的な見解が現れ始める

 

◆マインドフルネス

あなたには、自分の力を拡大したいという動機がどれほど渦巻いているか?

自分が特別な存在であるという感覚に、じっと意識を向ける。

自分が世界に名を馳せているという感覚、その純粋な感覚を、意識の中に保持する。

 


●段階3:呪術‐神話的段階(レッド

自己防衛的段階」「安全の段階」「安心の段階」「力の段階」「日和見主義的段階

自分という存在がとてもか弱い存在であることを明確に意識するようになる。そして、危険がなく安全であるかどうか、自分を守るにはどうすればよいか心配し始める。それゆえ、この段階の自己は、さまざまな「力への衝動」を発達させる。

この段階の自己はまだ自己中心的で自分本位であるけれど、それと同時に、どうすれば力を確保できるかということで頭が一杯。この段階の在り方が不健全な形で成人まで残り続けると、犯罪行為を犯すことや、道徳的にひどく堕落した行動をとることも少なくない。この段階では、人々の行動は、力への衝動によって支配されている。

この段階の不健全なバージョンの例は、さまざまな犯罪組織、マフィア型の組織、腐敗した政府などに大量に見つけ出すことができる。世界とは適者生存の場所であり、最も大きく最も強い者こそが勝利する

こうした段階ではまだ、文字通り「他者の立場に身を置く」ことができない
私たちのほとんどは、こうした能力を、人間に生まれつきそなわっているものだと考えている。しかし実際には、相手が感じていることを本当に感じる能力や、相手の立場に立って物事を見る能力は、成長や発達を通して新しく出現する〔創発する〕特性である。

子どもは自己中心的であることを自ら選んだのではなく、それ以外に選択肢をもっていないだけ。他者の立場に身を置くという能力は、次の段階であるアンバー段階まで現れてこない。

このレッドの段階ではまだ、自分が全てであり、支配者であり、自分と自分の願望こそが最上位に位置づけられている──「よこせ/渡しなさい」と「俺のものだ/私のものよ」が、その行動原則。

そうした人々の隠れた地図ないし文法では、他者がそこにいるということを本当の意味で認識することができない。

呪術的であるか神話的であるかを決めるのは、主に、奇跡を起こす力の源がどこにあるかという点。呪術的段階においては、奇跡を生じさせる能力は自分自身の中にある。

歴史的に見ると、神話的段階が現れ始める頃までには、人類は、自分たちには本当は呪術を使う能力がないということを理解し始める。呪術を使える〔奇跡を起こせる〕のは、自分たちではなく、超自然的で、超越的で、神話的な存在者たち──神、女神、スピリット〔精神/霊〕。それゆえ、どんな儀式祈りや行動がスピリットを喜ばせることができるかである。

・この段階の中毒とアレルギー
力への中毒」(power addiction)
 自分自身の力をあらゆる形で見せつけることに夢中になる。

力へのアレルギー」(power allergy)
 自分自身の力を抑圧し、他の人々へと投影しているために、無力で意志の弱いママっ子やパパっ子になってしまう。このとき、力と思われるものは何でも、他の誰かに、あるいは他のすべての人に委ねてしまっているために、やがて、世界全体があなたをコントロールしようとしているように感じられてくる
 

◆マインドフルネス

人々に抑制なく力を行使することができるという感覚人々を思いのままに動かすことができるという感覚、自分が全ての主導権を握っているという純粋な感覚に対して、できるだけ直接に、ただ意識を向けてみる。あなたが全てを支配している!

こうした願望を、あらゆる角度から、ありのままに録画する。こうした感情衝動欲求に隅から隅まで親しくなれるまで、録画を続ける。隠れた主体としてあったそうした願望を、意識の客体にし、そのまま、揺らぐことなく、保持し続ける。それを通して世界を見たり感じたりするのではなく、それを対象として見る。

力への衝動が生じるたびに、それを「超えて含む」ようにする。直接に、ただちに、全神経を集中させ、それに意識を向ける。

力への過剰な衝動は、しばしば、私たちの心の中に「内なる批判者」あるいは「内なる支配者」として現れる。

支配者というサブパーソナリティ──に触れるためのひとつの方法は、ボイス・ダイアログと呼ばれる手法を実践すること。あなたの通常の自己と、あなたの中にいる支配者に話をさせ、その「内なる対話」の内容を書き留める

 ...内なる支配者が答える。「人生の全てを思い通りに動かしたいんだ」

こうした内なる批判者ないし支配者は、多かれ少なかれ、ほとんど全ての人の中に存在している。多くの場合、こうした声は、「投影」の逆である「取り入れ」という作用によって、過去に形成されたもの。
取り入れにおいては、本当は他の人々の一部であるもの──例えば他の人々の意見、批判、価値判断など──が自分の中へと取り込まれて、あたかも自分の一部であるかのようにみなされる。
ここではただ、内なる批判者〔批評家〕の存在に意識を向ける。隠れた主体であった内なる批判者を、意識の客体にする。

必要なことはただ、感じながら気づく意識によって、こうした隠れた主体を意識の客体にし、そして、途方もない悪影響を与え続けてきた自分の中のサブパーソナリティと、根本から脱同一化すること。

 


●段階4:神話的段階ないし伝統的段階(アンバー

順応的段階」「神話的‐メンバーシップ的段階」「外交官の段階」「所属の段階

この段階になると、自己は実際に他者の立場に身を置くことができるようになる。そのため、自己のアイデンティティは、自分自身から、自分の所属するさまざまな集団──例えば家族、氏族、部族、民族/国家、宗教、政党など──へと拡大することになる。

「自分中心」の見方から、「自分たち中心」ないし「集団中心」の見方へと切り替わる地点。これは非常に重要な変化。

他者の役割を引き受けることができるが、同時に、そうした役割の中に捕らわれてしまう。こうした見方は、よく「正しかろうと間違っていようと我が祖国」「正しかろうと間違っていようと我が宗教」あるいは「法と秩序」という言葉で表現される。
この段階では、ルール〔規則〕を厳格に順守することは極めて重要であり、歴史的には、かなり野蛮なやり方でルールが強制されることもあった。

集団への所属を特別に重視することは、この段階の特徴的な在り方である。
もしあなたが絶対的な信念、全くもって完全に疑う余地のない考えをもっているならば、この段階の在り方が活性化されている可能性がある。
もしある宗教が原理主義的な宗教であるなら、その宗教は主に、この絶対主義的な段階(神話的‐字義的な段階、アンバーの段階)の論理に基づいて形成されている。
もしある考えが、熱心に、絶対的に信奉されており、たとえ証拠があろうとなかろうと、文字通り正しい絶対的な真実であると思われているならば、そこには原理主義が生じている

もしあなたがこの段階のかなりの部分を隠れた地図として利用しており、人生の多くの領域がそうした隠れた地図によって方向づけられているなら、おそらく、マインドフルネス瞑想を実践する態度そのものの中にも、この段階の特徴が現れる
手順を大切にし、あらかじめ定められた方法を尊重し、その性質や方法を変えることなく、一連のルールに基づいて、安定して、継続的に、決まりきった実践をおこなっていく。「このアプローチこそがスピリチュアリティに対する唯一の正しいアプローチである」とさえ考え始める。実際、かなり高次の段階に位置している多くの人々が、何らかの実践や考え方によって自分の人生に素晴らしい影響がもたらされると、こうした絶対主義的な段階へと「退行」する。本物の「熱狂的信者」になり、そうした実践や考え方に対して、原理主義的な態度をとり始める。マインドフルネス瞑想のトレーニングも、例外ではない。現に、マインドフルネスの師の多くは「マインドフルネス原理主義者」であり、この方法が、そしてこの方法だけが、全ての究極的な問いに対して究極的な答えを与えてくれるものだと確信している。

科学者も、最初のうちは、科学に対して非常に合理的で客観的な見方をもっているが、徐々に、科学が自分にとっての「宗教」になってしまう。実際、典型的な科学者が絶対的に正しいと考えている見解のうち、かなりの見解は単なる神話であり、それを支持する証拠は全く存在していない
例えば「宇宙には創造性もなければ意識もない」「生命とは完全にでたらめなプロセスであり、どんな目的も方向性もありはしない」「現実とは全て、ただの物質である原子(あるいは素粒子)が配置を変えただけのものにすぎない」といったものを挙げることができる。しかし、どの考えについても、それを支持する証拠を全くもっていない。
こうした人々は、科学それ自身に対しても科学的な証拠が必要であるということを忘れてしまっている。

 

◆マインドフルネス

もしあなたの中に、大なり小なり、この順応的な段階の特性──例えば、集団に溶け込み、大きく目立つことも他の人と大きく異なったりすることもなく、周りから好かれたりよく思われたりしたいという願望があるなら、そうした考えを、ただ、意識の中に保持する。対象として見つめる。
そして、そうすると何が起こるかを観察する。
もし、そうした信念が恒久不変の価値に基づくものであれば、そうした信念はあなたの意識の中に残り続ける。しかし、もしそれが単に特定の発達段階への固着に基づくものであるならば、やがてその段階が消失し、次の段階へと置き換わるとき、あなたの価値はもっと広大で包括的なものへ。

自分が絶対主義的ないし原理主義的に物事を考えていると思われる領域に、注意を向ける。自分が正しいのだという感覚、絶対的に正しいのだという感覚に対して、意識を集中させる。
あなたが最近、物事に正しく対処することに成功し、上機嫌になり、「それ見たことか!」「だから言ったでしょう?」と言いたくなったときのことを思い浮かべる。あなたが正しく、そして他の人もみなあなたが正しいことを知っているということの嬉しさに、意識を向ける。

次に、こうした思考や態度に、そして、「私が正しい」という感覚に意識を向ける。マインドフルな気づきを与えながら、それを意識の中に保持する。それをあらゆる角度から見つめる。それはどれくらい大きい? どんな? 身体のどのあたり? (頭、胸、腹)そうした考え方をするとき、どんな感じか? どんなよいことがあるか?

今度は逆に、自分が間違っていると指摘されたときのことを思い浮かべる──特に、何らかの集団の中で、誰もがあなたに目を向け、誰もがあなたが間違っていることを知っているという状況を、思い浮かべてみる。私が正しいという感覚だけでなく、「私が間違っている」という感覚も。

そしてこのとき、「正しくなければならない」ために、自分がどんな行動を始めるのかに、注意を向けてみる。

正しくありたい、間違っていたくはないという隠れた価値システムが存在することに、注意を向けてみる。こうした偽物の文法規則が、あなたの行動を支配していることに、注意を向けてみる。

・この段階の2つ目の主要な特徴
1. 集団に所属しているという感覚
2. 「私たち」を形成しているという感覚

多くの場合、順応的な性格。この段階になると、2人称の視点をとれるようになるため、自己意識は拡大し、自己のアイデンティティは、自己中心的な「私(I)」から、自集団中心的な「私たち(We)」へと変化。この「私たち」という感覚に意識を向けてみる。

何らかの「私たち」の感覚、何らかの「私たち性」(we-ness)を共有している。そして、この「私たち性」こそが、内側から、その集団をまとめている。

自分がその集団と一緒にいると──例えば休みの日(感謝祭やクリスマスなど)に家族と集まっていると──どんなふうに感じるかを、今ここで体感してみる。家族がつくる「私たち」の感覚に、意識を向ける。

もしある集団の「私たち性」に意識を向けることが難しいなら、それは、あなたが内面的にその集団とあまりにも同一化しすぎているためである。それゆえ、その感覚を意識の対象にすることは、ますます重要な課題である。

あなたが自分自身の意思で参加した何らかの集団、何らかの「私たち」を思い浮かべる。そして、自分がなぜその集団に参加したのかということに、注意を向ける。

ほとんどの場合、あなたが重要だと考えている事柄や、強い思い入れを抱いている事柄が、その理由となっている。
それゆえに、いともたやすく、そうした思いや考えに対する絶対主義的原理主義的な態度に陥ってしまう。

この2つの価値をひとまとまりの感覚として感じてみる。要するに、あなたは、絶対的に正しい集団の一員。主体となっているこの強烈な感覚を、意識の対象にする。
 絶対的に正しいという感覚と、集団に所属しているという感覚を、意識の中に保ち続けて、まずは別々に、そして今度は、一緒に感じる。

 

●段階5:合理的段階ないし近代的段階(オレンジ

理性の段階」「合理性の段階」「形式操作の段階」「良心の段階」「達成の段階」「優秀さの段階」「自尊心の段階

私たちのアイデンティティは、ローカルで自集団中心的なものから、グローバルで世界中心的なものへと拡大する。

具体操作」と呼ばれる形態の意識から、「形式操作」(考えることそのものについて考える能力)と呼ばれる形態の意識へと移行。思考はついに思考そのものに気づけるようになり、内省的で良心的で普遍的なアイデンティティ──世界市民としてのアイデンティティ──をもつことが可能になる。

この段階5において初めて、人間としての普遍的な権利というテーマが前面に現れてくる。

自尊心の欲求がこの段階で現れるのは、3人称の視点によって、いわば自分自身から一歩引き下がり、自分を客観的に評価することが可能になるから。できるだけ肯定的な評価を確立したいと思うのは自然なことであり、そこに自尊心への欲求が現れる。
優秀であること、成果を出すこと、実績を挙げること、目標を達成すること、進歩することなどへの衝動も現れるようなる。

こうして、マズローの欲求階層理論で言えば、生理的欲求(インフラレッドおよびマジェンタ)、安全と自己防衛と力の欲求(レッド)、所属と順応の欲求(アンバー)、そして自尊心の欲求(オレンジ)までを見てきたことになる。

確かにこの段階は、アイデンティティが世界中心的なものへと拡大する段階だが、それと同時に、本当の意味での「個人性」が現れる段階でもある。前の段階における順応的‐集団主義的な役割から抜け出して、自由に自己内省を行える。自集団中心的な順応型人間を超えた先にこそ、世界中心的な個人型人間は現れる。

・歴史的な時間の認識
3人称の視点によって、現在という瞬間の外側に立てるようになり、歴史的な時間の流れを意識することができる。

神話的な時間は、具体的であり、自然の変化と結びついており、冬を超えるとまた春が訪れるように、終わることなく、何度も、何度も、何度も周りめぐり、永遠に繰り返されて、どこか別の場所に行くことは決してない。

3人称の視点という驚くべき能力が現れたことで、歴史的な時間そのものが新しく出現し、物事を改善することは可能であるという見方が生まれ、現在の状態がただ永遠に繰り返されるだけではないことが認識されるようになった。
そしてそれにともなって、成果実績進歩優秀さを求める衝動も現れる。

この時代を「理性と革命の時代」と呼ぶ。
まず、理性(「あたかも~のように」(as if)および「もし~だったらどうなるだろう」(what if)という思考を可能にする)によって、現在とは別の現実を心の中に思い描くことが可能になる。

突如として、集団に溶け込んでいたい、他の人と同じでありたいという強力な願望が衰退し始め、代わりに、周りよりも目立った存在でありたい、他の人と異なっていたいという強力な願望が現れ始める──集団への順応を重視する段階から、もっと根本的に個人を重視する段階への変化が起き始める。
 

◆マインドフルネス

合理的近代的達成主義的な心理を多くもっているなら、あなたは、目標を達成したい、優秀でありたいという衝動に強く突き動かされながら、マインドフルネス瞑想を始めるかもしれない。

マジェンタ段階での願望とは、今すぐに衝動を満足させること。レッド段階では、力への願望が生じる。そしてアンバー段階では、何らかの絶対的コミュニティに所属していたいという願望、あるいは、神から愛されていたいという願望。オレンジ段階になると、優秀であることや、何かを達成することそのものに、意識の焦点が当たる。

もっと多くのものを手に入れたい、もっと優れたことを成し遂げたい、もっと遠くまで進みたいという願望そのものに、意識を向けてみる。そうした願望を、できるだけ強烈に、感じる。そして、あなた自身がついに目標を達成したところを、想像してみる。

 

●段階6:多元的段階ないし後─近代的段階(グリーン

多元的段階」「後‐近代的段階」「相対主義的段階」「感受性豊かな段階」「個人主義的段階」「多文化的段階

4人称の視点とは、3人称の視点(例えば科学)そのものを内省の対象にし、批判できる能力のことを意味。そしてこの能力は、多数の異なる見方を、そして多元的な見方を生み出すことができる。

・「脱構築」と呼ばれる思想運動
過去の諸段階そのものを内省の対象とし、批判し、特にその「普遍性」を──根本的な限界や部分性を指摘する
ポストモダニズムはその極端に走り、深刻な自己矛盾を引き起こす。

相対主義」に陥り、世界には多様なアプローチだけが存在し、普遍的なアプローチ、全ての人に当てはまる「大きな地図」などは絶対に存在せず、どんな考えも、特定の地域だけに通用する、文化的に構築されたものにすぎないと考える。

あらゆる知は文脈に縛られており、しかも文脈は無限に広がっているので、知とは、私たちが物事をどう解釈するかによって変わってくる。

問題は、こうした主張そのものが、単に文化的に構築されたものではなく、多元的な解釈のうちの単なるひとつでもなく、全ての、人々、文化、地域、時代において絶対的に当てはまる真実であると考えられていること。要するに、普遍的な真実など存在しないということを、普遍的な真実として主張している

・アンバー、オレンジ、グリーンの価値観の衝突
文化戦争とは、伝統的で宗教的な価値観と、近代的で科学的な価値観と、後‐近代的で多文化的な価値観のあいだの闘争のこと。

宗教的原理主義者たちは、科学的な証拠(例えば進化の証拠)を認めず、聖書に示される神の真実を受け入れる。
科学者たちは、宗教的な真実を認めず、それは子どもじみた神話にすぎないと考える。
ポストモダンの思想家たちは、どちらの真実も認めない。どちらも社会的に構築されたものであり、どちらも同じように虚構であると考えている。

グリーンの多元主義が目指しているのは、こうしたものをすべて作り替えること、正しいものに置き換えること。純粋な平等性と相互協力の精神に基づいており、どのような順位づけも、どのような階層的判断も存在しない社会こそが、目指すべき理想。

さらに、グリーン段階の新たなアプローチは、抽象的な合理性や論理ではなく感情に基づくものであり、頭ではなく心から真っすぐに表現されたもの。心こそが全ての真実の土台であり、どのような真実も体現〔身体化〕されなければならない(思考ではなく感情に根を張らなければならない)。

レッドは、世界を食う者と食われる者に分割し、自分のことだけを助けてくれる相手を好む。ここには、平等性は全くない。
アンバーの原理主義は、世界を救われる者と地獄に落ちる者に分割し、唯一の救世主を受け容れる人々だけを大切にする。異教徒は地獄行きであり、真の信仰者だけが平等。
オレンジは、世界を勝者と敗者に分割し、物事を達成すること、実績を挙げること、優秀であることを何より重視。こうした基準は、どれも平等ではない。
グリーンだけが、全ての人の平等性を何より大切にする。

グリーンの段階は、それ以前の段階よりも遥かに重要なものである。この段階に到達してこそ、本当の意味で平等性を大切にできるのであり、そのためには発達することが必要となる

 

 

◆マインドフルネス

相対主義的な見方がなぜ自己矛盾しているのかという点に意識を向ける必要がある。実際、さまざまな社会哲学者たちが、こうした見方は「遂行的矛盾」(performative contradiction)に陥っていると強く批判してきた。遂行的矛盾とは、自分が不可能ないし不道徳であると主張していることを、自分自身で実際におこなってしまっていること。

判断をしてはいけないという判断をしており、順位づけをしてはならないという順位づけをしており、「自分こそが正しいのだ」とは考えない自分こそが正しいと考えている。

あなたは「その人にとっての真実は、その人にとっての真実。誰かに真実を押しつけるなんて思いもよらないよ」と考えている。けれども、この見方に同意しない人々に対して、あなたは強く反対する

そして、他の人に対して否定的な判断を加えるという自分自身の行為そのものを、意識の中に保持してみる。自分が誰かに否定的な判断を行っている具体的な例を思い浮かべて、その状況を、意識の中にしっかりと保持する。例えば、誰かのことを人種差別主義者だと判断するとき、どんな感覚? さて、このとき、あなたのこの判断普遍的に正しい判断であるかもしれないということに、意識を向ける。

グリーンの段階は、実際にはさまざまな価値判断を(正しい形であれ自己矛盾した形であれ)行っているのであり、私たちはそうした価値判断に気づきを向ける必要がある。こうした価値判断を、意識の主体ではなく、客体にする必要がある。

こうした否定的な判断を行うとき、どんな感覚

自分が実は多くの領域で価値判断を行っていたということに気づいたなら──具体的にどんな事柄に対して、自分が価値判断を行っているのかに注意を向ける。そして、そうした価値判断のなかで、全く適切であり、正当なものであると自分が思っている価値判断はないか、考えてみる。

順位づけとは避けられないものである──自分ではおこなっていないつもりでも、実際にはほとんどの場合におこなっている──ことを認識できたなら、今度は、どのような順位づけが望ましいのかということを、考えてみる。

ここで気づきを向ける必要があるのは、何かを判断するという態度そのもの。

これはあれよりも素晴らしい──そう思うとき、まさにそう感じるとき、どんな感覚か?

 

後編に続く