前回からの続き)


●スピリットモジュール

ILPに取り組む主な理由のひとつは、高次の意識を開発すること。ILPは、無数の形態の実践を包含するものであり、多様な目標や意図を実現するために取り組めるが、それは究極的には覚醒するため。そして、人類の歴史をとおして、覚醒するとは、すなわち、日常の中にスピリットを見出すということであった。

今日、多くの人々は、自分は「スピリチュアル」ではあるが、「宗教的」(religious)ではないという立場をとる。こうした人々は、スピリチュアリティの本質を大切にしながら、組織的宗教の諸問題に絡めとられることのないようにしている。

統合的なスピリチュアリティの実践
・すべての宗教の本質にあるものを尊重。しかし、それはある特定の宗教の教義に縛られたものではない
理性と科学を拒絶するものでもなく、そうしたものに還元できるものでもない
身体性や文化的文脈を無視するものではなく、それらを超越・包含するもの
無意識と影の側面の力を無視するものではなく、それらを大きな文脈の中に位置づけるもの

私たちをある特定の実践の形態に従属させるように制限するものではない。
しかし、ある特定の体験や認識や次元にアクセスするためには、そのための活動に従事する必要がある。

それらの実践からただひとつ取り去られるものは、自らの道が神聖なるものに至るための唯一の正しい道であるという信念(こうした信念を否定することは、統合的なスピリチュアリティを実践するために必須)。

それまでの段階(呪術的、神話的、合理的、相対的)においては、互いに衝突をする傾向にあるが、統合的段階は、それぞれの中に共鳴できるものを見出す

瞑想とは何か?

瞑想は、人間存在の自然な機能のひとつ。それは、意図さえすれば、誰にでもできる。ほとんどの人は、5分以内に基本的な瞑想状態に到達する。その状態は、覚醒状態、夢見状態、熟睡状態とは生理学的に異なる状態として識別できる。こうした明晰でありながらリラックスした状態において、人間の酸素消費量は大きく減少し、睡眠時よりも筋肉がゆるむ。

瞑想の伝統
・「集中の実践」(concentration practice)
 対象物に注意を向け続けるために必要な「注意の筋肉」をつくる。

・「意識の実践」(awareness practice)
 サトルおよびコーザルの状態に注意を解放することができるよう、内面に無限のひろがりを培う。

瞑想は、究極的には、あらゆる知的な形態を超えていくが、同時に諸伝統は、瞑想を正しく理解し、解釈するうえで、正しい見方・見解理解を育むために十分な枠組み)がきわめて重要であるということにも合意。

頓悟派と漸悟派
頓悟派:「ただ目覚めよ、今すぐに!」
今この瞬間の意識の無限性に安らぐことは、霊的な実践の究極的な本質と言える。
このシンプルな指示は真実のものであり、完璧なもの。しかし、実際の実践においては、頓悟派の「完璧な実践」だけでは、実践を進歩させていくのは困難。突然に明晰な意識を獲得したとしても、混乱が戻ってくる。意識は揺らぎ始める。明晰な意識は単なる観念に過ぎなくなる。覚醒というものは漸進的に確立されるとする「漸悟派」なしには、頓悟派は覚醒というものを抽象的・観念的なものにする発想に簡単に絡めとられてしまう。


スピリットの三つの顔

一人称の領域
スピリットはI「私」として認識される。実践者は、存在の究極的な神秘であるスピリットと分離できないものとして自己に目醒める。これは、普通、瞑想をとおして行われる。
 代表的な例:ビッグ・マインド、ヴィパッサナー、只管打坐、ゾクチェン、ニルヴィカルパ、サハジサマディ、形象を超越した領域を対象とするすべての瞑想

三人称の領域
私たちはIt「それ」を見る。視覚と知性と感覚を存在の究極的な神秘に開いて、そこにある多様性(詳細や差異)を把握する(例:自然の風土や生物のパターン、エネルギー、色彩、質感、形態)。黙想において、私たちはスピリットと宇宙の完全性に気づく。
 代表的な例:芸術、自然神秘主義、哲学的思索、神秘学的黙想、奉仕貢献、優れた仕事の道

二人称の領域
二人称の祈りと交流においては、私たちは、自己を開いて、存在の究極的な神秘と親密に触れあうことになる。その時、It「それ」として経験されていたものは、Thou「汝」になる。比喩的に表現すれば、私たちは神--最愛の人(Beloved)--と向きあい、その究極的な意識に対して自己のすべてを開示する。
 代表的な例:祈り、神の存在の受容、帰依の歌、礼拝、儀式、奉仕、バクティ・ヨガの道

留意してほしいのは、すべての内的な状態は外的な身体を所有していること。存在の内面と外面の両方に注意を向け、それらを結びつけて変容させていく実践は、こうした洞察に立脚している。

多くの統合的な実践者が、神話的な神との関係性を卒業したあと、自身が、スピリットとの二人称の関係性を完全に放擲し、一人称的なスピリットの目醒めだけを強調してきた。しかし、統合的スピリチュアリティは、スピリットの三つの顔すべてを包含する。あの生き生きとして豊穣なスピリチュアリティの二人称の側面を回復することができれば、あなたの霊的生活にはまったく新しい充実の次元が開けてくる。

スピリットのグロスボディ
 私たちは、スピリットを、周囲のあらゆるところに、自然界とそこにあるすべての中に見ることができる。
 生命の網は、すべてを生み出した本質そのものであるスピリットの性質を映し出し、誇示するもの。

スピリットのサトルボディ
 すべての生き物の中にエネルギーを見る。それは彼らのチャクラと経絡の中に脈動し、流れている。それは彼らの目の中に輝いている。

スピリットのコーザル・ボディ
 動いておらず、壊れてもいない、永遠なるもの。
 「一」なるもの--それは、あなたの恋人や子ども、両親、動物、鏡に写るあなた自身を含めた、すべての恋人(beloved)の光輝く目に息づくもの。

自らの防衛をゆるめて、自己の全存在を聖なるものの全体性との出会いの中に開いてみる。それは、あなたのもっとも深いところに息づく親密な恋人との、今この瞬間における出会い。


スピリチュアルな共同体

共同体に参加することで、温かい相互的な支援と責任の人間関係を得ることが可能となる。こうした共同体は、あなたに自らのコミットメントを守り続けるための支援のみならず、また、あなたが他者に対してそうした支援を提供するための機会を用意してくれる。加えて、共同体の参加者の異なる視点を得る。共同体で共有された体験は、一人で体験されたものよりも、意識に強烈に刻印されるもの。

時として、共同体は不健全なものとなり、悪影響をもたらすことにもなる。たとえば、そうした共同体あるいはリーダーはスピリチュアルな権威を悪用するカルト的なものとなり得る。

ある共同体は、非常に密度が高く、生活のすべてを支配する。また、ある共同体は、それほど密度は高くなく、リラックスしたカジュアルなもの。ある共同体は閉鎖的であり、ある共同体は開放的なものである。

共同体の生活は、個人として瞑想に取り組み、直接的に神秘的覚醒を経験することの代替物ではない。むしろ、共同体の生活は、実践を支援し、枠組みを与え、となるもの。それは個人のスピリチュアルな実践のトレーニングの場となる。

献身に自己を開く

真の献身は、ある「閾値」を超える必要がある。伝統的には、そうした閾値を超えるためには悔悟が必要とされる。すなわち、それは恩寵を受けるための普遍的な必須条件である。
超論理的な文脈においては、「悔悟」とは、洞察(insight)決心(committment)。ふたつの洞察が同時に存在する。

1.自己中心的であることの限界に対する洞察
2.超越的で神聖な慈悲と恩寵を湛えた存在の本質に気づき、目醒めること

自己の外部に神を認識するのは、もっとも豊穣で自然な表現のひとつ。
スピリチュアリティが進化する中で、神話的な創造主としての神に対する信仰を超越する。統合的なスピリチュアリティは、超越的な神を信仰する在り方(有神論)を超越して、汎神論(神聖なものが、この世界に内在するものであるとともにこの世界を超越するものであるという見方)に到達する。究極的には、すべてのカテゴリーを超越し、包含する。真の非二元論の核心に息づく逆説的な叡智は、あらゆる種類の二元的な可能性を許容するための余地を確保する。

帰依の段階
1.無知
2.動揺
3.洞察
4.明け渡し
5.変容
6.理解
7.融合

帰依の実践が神話的な信念を超越する時、それは弱くはならず、むしろ、強くなる。前合理的な帰依と比較すると、超合理的な帰依は非常に自由な意識を体現することになる。

統合的な実践者は、真に根拠がある唯一のものだけに注意を払う。それは、実践

統合的な瞑想の実践

自分を叱責したり、そのために内的な葛藤を経験したりすることが、瞑想のプロセスを妨害する。それは注意が散漫になることよりも大きな障害をもたらす。もし、あなたが実践中に自分を叱責していることに気づいたら、その時には、そうした状況を優しく受容して、再び実践に戻ること、それが最善の対応。
 

◆PRACTICE

基本的な呼吸瞑想
息を吸う・吐くそれぞれで一から十まで数え、また一に戻る。注意が散漫になったら「一」に戻る。一つひとつの無限に生きている「今」の名前として捉えてみる。

 

 

◆GOLD STAR PRACITCE

I AM:誘導瞑想

楽な姿勢で背筋を伸ばして座り、体と心を落ちつけ、「I AM」(「私はここにいる」)というマントラをささやく。この時、言葉の音と意味が一体になるようにする。

あなたがそこにいるという感覚は、常に存在
5年前、500年前には何が存在していたか?常に変わることなく存在するもの--それはこのあなたがそこにいるという感覚だけ。時間が終わる時まですべての世界に存在するのは、この明瞭かつ親密なこの「ここにいる」という感覚だけ。
ただ、今、あなたは、隠れん坊をしていて、自らが生み出した創造物の中で迷子になっている。この「ここにいる」という感覚を知らないふりを、感じないふりをする必要はない。そして、この気づきをもって、あらゆるものが終焉する。
この「ここにいる」という感覚は、スピリットの一人称そのもの。


 

◆GOLD STAR PRACITCE

統合的探求(Integral Inquiry:無形の瞑想)

あらゆる形象を超越した意識へと注意を解放。この実践には複数の段階があるため、あらゆる段階の実践者が取り組むことができる。1分間モジュールもある。

絶対的な側面においては、意識を通過していく思考や経験との自己同一化をゆるめ、その瞬間の純粋な意識に安らぐ。
相対的な側面においては、統合的探求は、純粋な意識からあなたの注意を習慣的に逸らせている条件を解消する。

「私とは誰なのか?」
「私は何をしているのか?」
「私は誰をだまそうとしているのか?」


また、意識のもっとも微細な活動に焦点を当てるために、次のように問う。
「避けている?」
「縮まっている?」


注意の散漫という現象をとおして、そこに何が実際に起きているのかを意識する。
この実践は、「ラベリング」とは異なる。「ラベリング」においては、実践者は自らが体験する現象を、それが起こるたびに特定する。
質問に答えようとするのではなく、質問をとおして自己をいっそう深い理解に導く。自身が逃避や萎縮をしていることの理由をこしらえる必要はない。開かれた意識で今という瞬間を感じて、そこに在るありのままに意識を向け続ける。

 

 

◆GOLD STAR PRACITCE

スピリットの三つの顔(The 3 Faces of Spirit:有形の瞑想)

私たちはスピリットを黙想し(contemplate Spirit)、スピリットと交流し、スピリットとして覚醒する。

短い簡潔な語句を用いて喚起する

一人称のスピリットを喚起する言葉
「I AM」「私自身(Myself)」「ただこれだけ(Just This)」「意識(awareness)」「存在(presence)」「鏡の意識(Mirror Mind)」

二人称のスピリットを喚起する言葉
絶対者に向かいあう時に用いる名前。
「あなた(Thou)」「最愛なる人(Beloved)」「愛しの人(My Love)」「イエス(Jesus)」「アラー(Allah)」「アミタバ(Amitabha)」「マリア(Mary)」等

三人称のスピリットを喚起する言葉
「スピリット(Spirit)」「コスモス(Kosmos)」「現実(Reality)」「在るということ(Is-ness)」「完全無欠なるもの(Perfection)」「ガイア(Gaia)」「進化(Evolution)」等


 

◆GOLD STAR PRACITCE

慈悲の交換(Compassionate Exchange:有形の瞑想)

自己の習慣的な傾向を逆転させて、他者の苦悩を吸い込み、そして、それらを自己の内部で解放の歓びに変換して、吐き出す。こうして、快楽を追求し、苦痛を回避しようとする自動的な傾向を逆転させることで、膨大な量のエネルギーと自由を回復する。一つひとつの呼吸をとおして、無償の心で全世界に自己を捧げる自らの姿を想像。究極的には、自己と他者の境界そのものを非二元の中で溶解する
「私(I)」は、「あなた(you)」「私たち(we)」「彼ら(them)」の順番で他者の視点を共感的に体験し、そして、最終的には、再び「私(me)」に戻ってくる。

最後のステップ:これまでのプロセスをとおして、あなたが心に思い描いた(あなたを含めた)すべての人々、そして、すべての苦悩と自由が、それらを目撃している意識の中に生じていることに気づく。

 

 

●統合的倫理

統合的倫理は、どう生きるべきかについて具体的な指示を与えるものではない。また、それは倫理的な問いに対する具体的な解答を用意するものでもない。むしろ、いかに生きるべきかについて考えるための、そして倫理的に最善の決断をするための枠組みを提供する

慣習的な段階の倫理
慣習的な倫理に価値がないわけではない。とりわけ、それは自己中心的な意識から集団中心的な意識に移行をしていくうえでは重要となる。慣習的な発達段階においては、倫理とは、無秩序にわきあがる自己中心的な衝動を克服して、倫理的な規律に基づいて行動することを意味する。そうした規則が存在することに対して、私たちは感謝しなくてはならない。それらは、「文明」と言われるあらゆるものを可能とする。

統合的な段階の倫理
倫理はもはや恐怖に基づいたものではない。それは、単に非難を浴びないように「善い子」であろうとする単純な自己中心的なものではなくなる。倫理は、親の命令に幼児的に順応しようとするものではなく、むしろ、意識的な自由(conscious freedom)の創造的な発現となる。

統合的な段階に到達した時、私たちは、はじめて世界に存在する多様な視点が、大いなる進化の過程の中で芽生えた正当なものであることを認識し、尊重することができるようになる。

技術的、法律的な諸々の事項

表面的には「倫理的」な行動を喚起するが、それは真の慈愛と関心に基づいたものではなく、潜在的な危険に対する恐怖に基づいたもの。

 


倫理に対する攻撃

ポストモダンの思想家は、倫理というものが文化的に構築されたものであることを強調する。そこでは、倫理というものが前‐慣習的(preconventional)慣習的(conventional)後‐慣習的(postconventional)という発達の歴史をたどるものであることが見逃されることになる。こうした相対主義的発想は、あらゆる倫理を同等のものに矮小化するという過ちを犯す。

「空」という概念の曲解
無形の意識を特徴づけるとされる「価値判断の放棄」だけを強調。そこでは、高次の叡智のもうひとつの重要な側面である、空の意識に基盤を置きながら「必要かつ的確な判断をくだしながら、社会的、文化的な現実の中で機能する」ということが軽視される。

倫理的なジレンマ
倫理的な実践のひとつに、解決の困難な問題について熟考することをとおして、倫理的な感性と判断を鋭敏にするというものがある。例:「救難ボートのジレンマ(誰を鮫に差し出すのか?)」熟考を要するパラドックスに満ちた難しい問いで、ひとつの正しい解答はない。しかし、ある解答は他の解答よりもより正しいと言うことはできる。

統合的な倫理の三つの種類の価値
基礎的価値
 すべてが平等に絶対的なスピリットの顕れであるという事実を示す。
内在的価値
 構造的な深層性を示す。深層性が大きいほど、そこには大きな内在的価値が存在する。
相対的価値
 具体的な文脈の中での有用性を示す。

実際の実践生活において、しばしば特定の状況下において競合する倫理的な要求のバランスをとることが求められる。表面的な礼節が重視され、誰の気持ちも損ねないことが過度に強調される今日の社会においては、それは忌避されるべきもの。しかし、実際のところ、それが今なお重要なもの。したがって、倫理的な判断力は、意識的に発揮され、開発されるべき能力である。


倫理的に生きることの三つの理由

 

1. 善行によって良い気持ちになる
倫理的であるとは、単に与えられた厳格な規則に従うことではないと理解されると、今度は、倫理的であるとは自己中心性を排した利他的な行為をすることであるとみなされてしまう。しかし、それもまた限定的な見方である。それは、自己と他者の根源的な分離を前提とする

2. 高次の段階の意識に向けた変容
倫理的であろうとする意図をもつことで、必然的に他者の視点を考慮する。そのことは、あなたの意識の成長を促す。
統合的倫理は、巨大なパラドックスを抱擁する。(しばしば相互に衝突する)すべての視点が共存できるよう、情熱を注ぐ。

3. 倫理的な生活は覚醒のための器を形成
高次の意識を体験することは、驚異的な自由の感覚をもたらす。しかし、こうした体験は、特に後‐慣習的な倫理的文脈においては、容易に傲慢さにつながり得る。それは「私はカルマの束縛を超越して行動できている」という暗黙の感覚。

カルマに囚われた「夢」の状態から目醒めても、そうした夢が消失するわけではない。高次の段階の成長を確立するほど、すべての存在と人間とのつながりを無視することは難しくなる。
倫理的な生活は、「夢」が悪夢となるのを回避してくれる(あなた自身は、それが夢であることに目醒めているとしても)。

カルマを解消する
真の悔悟において、私たちはもはや自分から隠れようとはしない。その時、たとえ私たちが傷つけた人々に対して、直接、気持ちを伝えることができないとしても、何らかのカルマ的なものが解消された。カルマの解消とは、私たちが、最大限の誠実さと高潔な意志に基づいて人生を生きようとする、その姿勢によって可能となる。

統合的な倫理ではないもの
 

1.慣習的倫理
「倫理的・道徳的であるとは、善悪をめぐる社会の伝統的な慣習や規範を鵜呑みにすること」という思い込み。
倫理的な判断というものが、個人の外面的な行動だけでなく、個人の内面的な意図に基づくものであることにも留意する。

人々は慣習的な倫理の限界を批判しながら、高次の視点に基づいて発想するという大儀の下に無責任に行動してしまうことがある。これは、「前後の混同」(pre/ post confusion)の典型的な事例。

慣習的な法律に縛られているからではく、むしろ、すべての人々が規則を尊重する社会に暮らしたいという想いがあるから、行動を選択する。

2.従順であること、柔和であること
統合的な倫理は、発達の視点に支えられたものであり、それゆえに自己の境界を適切に防衛できることの重要性を認識する。統合的な倫理には、健全な攻撃性(aggression)を適切に上手に発揮するための場所が確保されている。

自己を犠牲にして他者を大切にすることを理想化する必要はない。健全な慈愛とは、自己を大切にすることに始まる。それが、円周状に、家族から友人へ、友人から共同体へ、共同体から世界へと拡張していく私たちは自己と他者を愛するのであり、自己の代わりに他者を愛するのではない

3.罪悪感の残滓と偽りの倫理的葛藤
しばしば、社会の外的な期待と自己の内的な倫理的直感の間に板挟みになる時に経験される矛盾を、倫理的な葛藤であると誤解する。

重要なことは何をしたかではなく、次に何をするかということ。
重要なのは、慈悲に基づいて、自己を遇することだけではない。自己を正確に見つめて、自分自身の最高の理想と可能性を目指すことに対して責任をとることも重要。

男性的慈悲
 「見極め」(discernment)と「規律」(discipline)
女性的慈悲
 規律という車輪の潤滑油。私たちの内面には、互いに衝突して、非生産的な軋みを生み出している複数の要素が存在しているが、こうした要素間の関係を円滑にしてくれる。


意識の覚醒が進行すると、人間はしばしば世界全体に対する深い責任を感じるようになる。これは、肥大化した感覚ではなく、情熱と誠実さに支えられた決心と言えるもの。
それは、自らの欺瞞と対峙する決心であり、それを超克しようとする決心。それは、他者とともに、この進化という冒険に、創造的かつ意識的に、責任感をもって参画するという重い責任の一端を引き受けようとする果敢な意志として現れることになる。

統合的倫理とは、幸福と自由を実現するための機会である。


●生きるとは実践そのもの

実践は、より本質的には、それは日常生活の前線において取り組まれるもの。
生きた実践とは、人生のすべての質感、祝福、試練を「師」として受容すること

仕事と人間関係は、往々にして、実践のもっとも厄介な領域となる。そして、それは言わば個人の成長度を測定するための試金石ともなる。仕事や人間関係は、個人のパターンが明らかになる領域であり、さらには実践の成果が顕在化する領域でもある。

人生を充実したものにするために努力をすること、そして最期の瞬間にすべてを失うことになるという宿命(inevitability)に自己を明け渡すこと--このふたつのあいだには相反するものはない。ILPの実践者は、こうしたパラドックスとともに生きる。

日常生活で統合的フレームワークを活用
賢く利用することができるなら、AQALという地図は、刻々と展開する人生の豊かさと深さを照らし出してくれる。
より多くの視点を考慮することができるほど、より賢明で的確な判断ができる。

 

◆PRACTICE

「アファメーション」(affirmation)

自己の意図・意志に方向を与えるための強力な実践。
自らの積極的な意図や意志を表すひと言、ふた言の言葉を定期的に口にすること。
日々の生活において予期せぬ形で訪れることになる実践の機会に気づくことができるよう、実践者を陰で強力に支えてくれる。くり返して唱えると、それは心の中にメッセージを明滅させる。「忘れてはならない、忘れてはならない、忘れてはならない」--重要な実践の機会が授けられる時、それをつかみとることを

アファメーションの実践で重要になるのは、自らの意図に的確な言葉を与え、それに共感できること。

・現在形
・肯定的
・簡潔で具体的
・一人称
・可能な限り真実に近づけ、現実的

で表現すること。
アファメーションを大切にすることが欠かせない。継続性と粘り強さが必須となる。機会があれば、アファメーションの内容をいつでも実行する。はじめて実践する場合は、急がずに実験的に取り組むところから始める。

 


完全性の実践

私たちは、完全性を実現するために実践をする必要はない。必要なのは、すでにそこにある完全性に目醒めることだけ。その完全性は、私たちが日常的に経験する人間的な苦悩と喪失、生と老いと死とともにあるもの。

実践はパラドックスを内包している。すべてはありのままで常に完璧にOK。それにもかかわらず、私たちは、常にさらなる真・善・美に向けて招き寄せられている

スピリチュアルな完全性を求める大いなる探求は、単に時間の無駄だけでなく、まったくもって不可能なこと。覚醒した自己は、この瞬間の、そして、あらゆる瞬間の目撃者として、常にそこに存在しているから。あなたは、すでにそこに在るものをあらためて生み出すことはできない。つまり、あなたは覚醒するのではない。あなたは、単にある朝、目醒めて、自らが、常に、すでに、目醒めていることを告白する。そして、自らがそれまでに自分自身と隠れん坊をしていたことを告白する

ILPのすべてのモジュールは、永遠の意識という絶対的な文脈の中に成立する相対的な成長の領域にかかわるもの。あなたの本質的な健康とは、この根源的なパラドックスとの関係性。すべての変化は不変という文脈の中に生まれる。すべての変容は静の中に生まれる。すべての実践は完全性の中に生まれる。


実践生活をかじ取りする

1. ILPをデザインする

あなたの個人的な状況に適したものにカスタマイズする
基本的な規則とは、四つのコア・モジュール(「シャドー」「ボディ」「マインド」「スピリット」)のそれぞれに取り組む
もっとも効果的なデザインとは、窮屈過ぎることもなく、ゆる過ぎることもないもの。実践は、すぐに実施することができ、また、楽しいものである必要がある。しかし、それは、あなたに挑戦を与えるものである。
自らの欲求と義務のすべてを考慮する。自らの内部に存在する、相反するさまざまな「声」と「欲求」のすべてを考慮して、そこに妥協点を見出す。

実践を愛せることが重要。意識的・長期的な実践の満足感とは、実践そのものを楽しむことから生まれるもの。それは、将来的に何らかの利益がもたらされるだろうという期待とは別のもの。経験豊かな実践者は、真に重要なことに対する注意を失うことなく、遊びや即興のためのたくさんの余地を確保する。

実践とは進化をするもの。実践を更新し続ける

支援のコミュニティは、変容を促進するだけでなく、一つひとつのステップを下支えする。もしあなたに実践をともにする仲間がいないとしても、そのことに落胆する必要はない。それでも、多大な利益を得ることができる。

師との関係
人類のすべての叡智の伝統は、偉大な覚醒者とその弟子たちにより興された。真に覚醒した教師は、指南と叡智と霊的な伝承の巨大な源泉となり得る。しかし、時として、こうした師弟関係に基づいたシステムは、不必要な荷物を背負い込む。伝統的な権威の下に自らが体現している叡智と効果を従属させてしまう。加えて、一部の伝統は、権威の暴走を抑止するシステムを一切そなえていない。

インテグラル・コーチ:新しい指導者の役割
豊かな経験を持つ先輩として支援の手。権威に従属することは要求されない。その正当性は、霊的な優越性と権威ではなく、その深層性、技術性、専門性、倫理性に依拠する。

核となる価値観、ヴィジョン、人生の目的
 実践の高次の基盤は、それをする理由、すなわち、その意味にある。

 






2. 統合的実践の技術
 

日常生活の中で意識を拡張すること。

実践のコツ
自分に厳しく、自分に優しく

抵抗に対するもっとも典型的な対処法は、「自分のやりかたを貫く」あるいは「その時の感情に付き従う」というふたつ。
中道とは、私たちの内部に存在するすべての相反する傾向と慈悲をもってつきあうこと。
「あれかこれか」的な発想をあれもこれも」的な好奇心に変容させることにより、そこに統合的な選択肢が自然に立ち現れる大らかな意識を醸成することができる。

厳格に「善い」選択肢を実行しようとする時、私たちは、自身を覚醒に向けて無理矢理に引きずっていくことができるのだと思い込んでいる。しかし、それは不可能なこと。私たちには、心を開き、好奇心を抱きながら、自分自身の実践に対する抵抗と向きあうことができる。

より重要なことは、そこに生起するものを感じ抜ける(feel through)こと不快感を耐えることが重要であるという指摘を思い出す。

快楽苦痛の超越を象徴するもっとも過激で極端なイメージとして、アルコールとセックスを用いるタントラの修行者と釘のベッドに横たわる禁欲的な修行者があるが、それらはひとつの硬貨の両面。それらは、「もっとも高度に発達した実践者は、あらゆる体験の只中において自由であることができる」という重要な真実の極端なシンボル

真の実践とは、そこに生きて在ること。意識してそこに在るということ。今そこに何が生起しているのか?実践は、最高の善というものが、悪の反対にあるものではないという認識に基づく。

調子の悪い日
回避することのできない実践生活の構成要素。それは、調子の良い日が必ずやってくるのと同じこと。

もし調子の悪い日においても実践をしようとする自らの意志を尊重するなら、あなたの無意識的なパターンは弱まる。何も起こっていないように思える、平凡な日に実践を継続することは、将来的な跳躍に向けた投資。もっとも困難な時に優れた対応をすることができれば、全体の重心が引きあげられる。実践の放棄は、時間の無駄で、悪い衝動を増長させる。

過去の過ちに対する責任を回避することなく、それらはもはや変えることができないものであることを受け容れる。人生の次の瞬間の中に、最大の叡智と勇気をもって完全に在ることを選択する。いかなる状況も、いかなる過去の過ちも、この可能性を剥奪することはできない。

効率的な実践の本質はシンプルなもの--すなわち、「幸福を阻害する稚拙な自分のパターンに気づいたら、実践をしようとする自らの意図を尊重する」というもの。

優れた実践者は、時間の浪費を最小化することに注意を払う。彼らも、猜疑や恐怖という悪魔に囚われることはある。しかし、彼らは、実践をするという選択肢があることを認識する時、すぐにその選択肢を選びとる。彼らは苦悩を完全に受容し、そして、それを正面から通過することをとおして、苦悩を最小限に留める。一部の修行的伝統においては、この能力こそが、覚醒するために多数の人生を必要とする人間と今生において覚醒する人間を分けるものであるとさえ言われる。
 

怨念を解き放つ

......私には怒りを覚える正当な理由があったのだ。そして、まさにそれこそが、この仕事のすばらしいことだった。
……コーヒーを提供するという、その非常にシンプルで謙虚な行為の只中に。他人にサービスをするということが本質的な意味において充足感をもたらしてくれるのだということを。
すなわち、「自分の気分が好転するのを待つのは、賢明なことではない。真に重要なことは、機会が訪れた時に、自身の不機嫌を行動をとおして切り裂くということなのだ」


愛が扉を開く
愛の態度はあらゆる活動を聖なる香りで満たす。誰を、何を愛すればいいのか?それは誰でも、何でもいい。究極的には、それはすべての物であり、すべての者であり、そして、何でもなく、誰でもない。それは、いかなる「他者」(other)ではなく、存在することの本質(Suchness)そのもの

パラドックス
核となる統合的スキルのひとつは、パラドクッスを受容し、それにより新たな深層性を見出す能力。生涯の実践生活において、私たちは数多くの深淵なパラドクッスに直面することを要求される。そうしたパラドクッスは、私たちが回答しなければならない謎ではなく、むしろ、ともに生きるべき公案と言えるもの。私たちはそれらの問いについて黙想をし、そして、それらが私たちを導くのを赦す。

成果
霊的物質主義」(spiritual materialism)を完全に回避することはほとんど不可能。必然的に、そうした状態に実際に陥ることをとおして、覚醒の体験に執着することがさらなる成長を阻害するものであることを学ぶことになる。

暗夜(ダークナイト)
実践に取り組むことの背後に自己中心的な動機が息づいていることがあまりにも強烈に意識され、実践することそのものに絶望するかもしれない。実践をとおして逃れようとしてきた、恐ろしい孤独と限界の感覚が、今あなたを絡めとることになる。逃れることのできない絶望が襲いかかる。

これは祝福すべきこと。こうした敗北は、真の自由に通じる扉となる。もちろん、死の只中にある当事者にとっては、これは慰めにはならない。しかし、この死のあちら側には再生がある。実践が完全な失敗に終わる時、あなたはそれが成功したことに気づく。

生涯の実践を通じて、私たちは死を何回も経験する(そして、再生も)。しかし、そうした死をとおして、意識だけは生き残り、そして、その過程において実践も蘇生され、変容されることになる。

そして、あなたはあらゆる状況において、常に適切なひとつのことをするようになる。すなわち、日常のあらゆる瞬間において、誠実にリラックスして、無意識的な傾向を超克して、関心と注意を自らの世界と関係性に向ける。あなたは決してそこから滑り落ちることのない土台のうえに着地する。その土台とは、意識と関心と存在に対して責任を発揮できるという自己の根源的な能力--すなわち、実践そのもの

こうした根源的な責任の段階は、それまでのすべての段階を包含するもの。「ハネムーン」「高原状態」「孤独」「成果」「暗夜」のすべてが--決して灰色に均質化されることなく、ともに着実に流れながら--そこに包含される。


●ユニークな自己

高度に覚醒した聖人や賢者は、ありきたりの存在でも、均一的な存在でもない。彼らは、自らの身体と独自性に精通した、非常に独自の精彩を放つ存在。彼らのパーソナリティは、超越的なものとのつながりを表現するための媒体

超越的なものは、個人的なものをとおしてもっとも完全に顕現する。したがって、超越的なものに目醒めるために、私たちは自らの独自性を消去するプロセスを通過する必要はない

私たちの独自性とは、永遠性が私たちとして顕現した時に選択したひとつの姿である。

魂(ソウル)の展開
魂の探求は、スピリット領域の探求と同じものでもない。と言うのは、それが、存在の本質(Suchness)に上昇的に目醒めていくのではなく、個別的、具体的なものに下降的に目醒めていくものであるから。

真のゲームとは、有利なカードを配られることではなく、配られたカードを知性と慈愛と創造性を最大限に発揮して活用することである。

最初のステップは手元に配られたカードを赦すこと。「あなた」として顕現するその人間的な人格--風変わりであり、高貴であり、悲劇的であり、喜劇的であるその人格--に対して心を開く。与えられた人生を生きる意志を喚起する。