世の中では、メンタルの重要性がしばしば語られ、メンタルが強いとか弱いとか、どうしたら強くなれるかとか言われる。一般的には、意志を強く持つなどの根性論が多い。

一方、NLPでは表象というものをコントロールする。メンタルが強いと言われている人をモデリングし、その内部表象がどうなっているのかを見る。

一般の人は、コンテンツ(内容)に目を向ける。そして行き詰まりになる。
NLPでは、背景、コンテキスト(文脈)、メタレベルに目を向ける。そこに、魔術の仕組みが隠されている。コンテキストを変えることで、容易にメンタルをコントロールできる。見ている視点が違うのだ。そのコンテキストは、無意識で動いている。

たとえるならば、大きな岩を動かす際に、普通のアプローチでは正面から素手で押して自分が持っている力で何とかしようとする。NLPでは、てこの原理を使って、最小限の力で動かす。


● NLPのワークはすべてリフレーミング

アインシュタイン
The problems that exist in the world today cannot be solved by the level of thinking that created them.

(問題は、その問題をつくったときと同じレベルで解決することはできない。)

NLPでは、視点を変えることを重要視する。観点が切り替わって、思考が解放され、感情が変わる。一般に「気づき」を得る、と言われるが、それを促すのが、リフレーミングだ。問題は同じ視点からでは解決できない。別の視点から眺める。

根底にあるのは、NLPの18の前提の一つ、
地図は領域ではない(Map is not territory)
である。

我々は物事を見る際、内面の地図(世界観、信念、フレーム)に基づいて解釈する。しかし、どんな地図も限界があって、領域そのものではない。別の地図で(別の視点から)見れば、別の解釈になる。フレームとは、状況、文脈、背景を設定するもので、人はフレームを設定することで「意味」を作り出す。逆にフレームがなければ、物事の「意味」は識別できない。ただ物事がそのままあるだけになる。

メタモデルは、内面の地図を暴き出し、我々が現実を直接見ているのではなく、地図を通して現実を見ていることを認識させる。リフレーミングその地図を差し替える

他のNLPの前提も別の観点をもたらすことになる。例えば、「失敗はない。フィードバックがあるだけ」というのがあるが、これは、失敗というフレームから、フィードバックというフレームに切り替えて物事を見るということである。

アソシエイトディソシエイトもリフレーミングであり、サブモダリティの変更もリフレーミングである。NLPはモデリングによって生まれたが、モデリングするにはメタの視点に立つ必要があるのでフレームを変える必要がある。

以下のワークもすべて、フレームを変えることになる。

・ポジションチェンジ
・タイムライン
・モデリング
・ディズニーストラテジー
・リフレーミング
・AS IF
・マッピングアクロス
・メタモデル
・肯定的意図

ミルトン言語も、スライトオブマウスも、視点を一方に向けることでシフトする。
意図に目を向けるのも、行動そのものではなく、意図を見るというリフレームになる。上位目的にシフトすれば、代替案を見つけ、手段を変えることはできる。
サブモダリティの変更も、フレームを変更することになり、無意識的に行っていることを意識化し、印象を容易に変えることができる。
アンカリングも、ステートは固定されたものではなく、偶然あるいは恣意の刺激-反応に過ぎないという観点によるリフレームである。
フィジオロジーを変えるのも、コンテンツに没頭している状態から、体の動作による影響をつかって視点を変えて、ステートを変える。

目からうろこ。「え、こんなことでいいんだ」という感想を持つ。魔法が現れる点でもある。
NLPのワークすべてをリフレームという観点から見ると、より柔軟性が増し、効果を出すことができるようになる。フレームを操作できる者が自由を得る

● コンテキストが盲点

中国の逸話に、次のようなものがある。

あるとき、王が部下を引き連れて、「私を強制的に山に登らせる方法があるか」と問うた。武将たちは、火攻めや水攻めなどを述べた。だが王はいずれの答えにも満足しなかった。そして黙っていた智将に尋ねた。その智将曰く、「無理やり山に登らせる方法はありませんが、山から下りさせる方法はあります」と答え、「ぜひ試してみましょう」と言った。王が同意して、山に登ると、その智将は言った。「たった今、王様が山に登られたことがお分かりでしょうか」

この逸話はこの智将の賢さ以上に、多くのことを示唆してくれる。王は山に登ることがトリックだということに気づかなかった。山から下りる課題にすり替えられても、それが罠だとは思わずに話の前提として受け入れてしまったのだ。相手を無理なく操作するには、相手に気づかれずにコンテキストを操作するということである。ここが盲点であり、相手が真実と受け入れている点に働きかけるのである。巧妙な詐欺師は、相手の弱点を付く。相手は検討する間もなく動く。

相手が警戒していても盲点がある。「私は騙されない」と思っていても、その私が盲点なのだ。手品は、そこを突く。観衆がコンテンツに注目している間に、こっそりとコンテキストを切り替える。


● 問題意識自体が問題

何かが問題だというとき、それそのものが問題なのではなく、それを「問題だ」と思う意識が問題を作っていることが多い。問題がないところに問題があると思い込む。そもそも問題の本質などない。これが心理的な問題の特徴である。

怒りが起きたとき、これを何とかしなければいけないと思う。何とかしようとすればするほど、怒りはどうにもならなくなる。逆に、怒っていてもいいんだと、思えばやがて静まる。我々は問題がないところに問題を作り出す。鬱でもないのに、自分は鬱だ、ちょっとした憂鬱な気分を、これは大問題だ、うつ病だと思えば、本当にうつ病になってしまうだろう。
こういうのは、厳格な倫理や宗教自体が手を貸している。

そもそもの設問の仕方が間違っていたりするのだ。
あたかもそれは、まるで蜃気楼を追い求めているようなもの。初めから存在しないことがわかれば、解決も不要となる。

コンテンツにアクセスしているから問題が解けない。コンテンツを支えているコンテキストに目を向ければ、あっさりと問題が解決する。

● マインドフルネスの問題

マインドフルネスの教科書で、怒りに気づけば、怒りが静まる、などと書かれている。
が、実際にはうまく行くときと行かないとき、半々である。むしろ、「怒り」とラベリングしたところで効果はなく、怒りは収まるどころかどんどん膨れ上がっていくこともある。
すでに怒りが表面化したのでは、当然自分が怒っていることに気づいているのだから、「怒り」とラベリングしたところで、同じ視点から見ているだけなので何の効果もない。精神病も、そういうレッテルを貼ることで深刻化する。

ラベリングが効果があるのは、まだ表面化する前の段階で「気づき」があった場合である。コンテンツとなってしまったらすでに遅いのだ。気づきは重要だが、気づくポイントが間違っている。気づいていないことに気づくことは意味があるが、すでに気づいていることに、新たに気づきを入れても意味はない。それは、すでに自身の欠点に気づいている人に、欠点を指摘するようなもので、その人にとっては「気づき」はなく、怒り・不満・苛立ち・反感を招くだけだ

そんなときには、コンテンツではなく、コンテキストに目を向ける。コンテキストは、コンテンツを裏から支えているものだ。それを直視すれば、コンテンツを支えるものが崩れ、コンテンツは消えていく。

マインドフルネスのポイントは、コンテンツにどっぷり浸かっている状況から、コンテキストに意識を向けることである。

怒りの例で言えば、すでに「怒り」が表面化しているなら、背景にある思い、コンテキストは怒りではなく、「怒り」を何とか収めたい、隠したい、早く消し去りたい、という思いである。こういう焦り、抑圧、執着が「怒り」をかえって燃え上がらせる。逆説的に「怒ってもいいんだ」と思えば、怒りは静まる。怒りやすい人、いつも怒っている人は、その現象とは裏腹に、怒りを何とかしようと思っているのである。
ACT療法で「感情の居場所を作るように」というのは、感情に抵抗せず、そのままにしておくということ。つまり、「感情を何とかしたい」という思い、コンテキストに目を向けることになる。

コンテンツは過去=確定したものであり、コンテキストは現在動いているものだ。だが、人は、コンテンツばかりが見えてしまい、コンテキストは盲点となっている。

● 「見ているもの」に注意


ホールネス・ワークでは、コンテンツから切り離す際、それを「見ている者」「掴んでいる者」に注意を向ける。そこが盲点になっている。「見ている者」には、前提、想定、ビリーフ、地図が隠されている。視点を切り替えるというとき、「誰が見ているのか」を意識する。

● 前提を見つける方法

背景、前提、コンテキストを見つけるには、まず、今起きていることに気づくことである。感覚、思考、体感覚、感情、状態など、特に感情的な感覚を刺激する思考に気づく。
そして、それを見ている自分に気づくことである。ここで、マインドフルネス、ホールネスが役立つが、ビリーフを直接見つけようとするのもありだ。「○○でなければならない」と考えている者、自分をとある方向に持っていこうとする者を見つけること。
見つけたら自然と解放される場合もあるが、されない場合、さらに気づいている自分に気づくこと、見ている自分の連鎖をたどっていく、肯定的意図を探っていくなどがある。

● 人とのコミュニケーション

人とのコミュニケーションにおいても、言葉は表面に現れているのでよく見える。が、意図背景にある考え前提は表には見えない。だから、言葉自体を真に受けて、コミュニケーションが行き詰まることになる。より重要なものは見えないところにある。本当に何を言いたいかは、言葉の中にはない場合もある。むしろ発している言葉の正反対だったりする。

言い争っているコンテンツではなく、背景に感情の問題、本音、尊重されていないこと、などでトラブルが発生している。だからコンテンツを解決しても、解決にならない。責める側は、コンテンツは単に攻撃のための道具に過ぎない。この点は、アドラー心理学の目的論に通じる。
よくあるのが、男女の違いで、男性は問題そのものを解決しようとするが、女性は話を聞いてもらいたいという意図がある。そこで食い違いが起きる。

コンテキストは、前提、無意識にある。無意識は習慣化され、自動的に動く
コンテンツで行き詰ったとき、コンテキストに目を向ける癖をつけよう。本当に重要なものはそこにある。

優れたコミュニケーターは、別の意識を持つ必要があると言われる。これは難易度が高い。コンテンツに注意を払いつつ、コンテキストにも注意を払う。聞くときは、ノンバーバル(非言語)に意識を向け、話すときは、ノンバーバルを使う。

前景よりも背景に、言語よりも非言語に、表現よりも意図に、意識よりも無意識に、実体よりもプロセスに、現象よりも本質を見ていくこと。

構造主義のムーブメントの本質もそこにある。結果よりもプロセスを志向する。

 見かけの世界は虚偽にあふれている。
 単なる投影に過ぎない。
 本質はそこにはない。


●原因側か結果側か
NLPで原因側に立つか結果側に立つか、ということが言われる。原因側に立つというのは、語弊があるが、これまでの議論で言えば、実はコンテキスト重視のことである。結果側に立つというのはコンテンツに囚われていることである。

●原因とコンテキストの違い
ちなみに、もっと言えば、原因コンテキストは異なる。原因は過去に遡って根本原因を突き止めようとする。コンテキストは今起こっているものを探る。


 

これはNLPというよりも、心理学全般にも言えることだが、「無意識」というものがキーになる。

人は、生まれてから、思いを実現するために、コントロールすることを学ぶ。体、頭、物、人、これらを動かし実現しようとする。しかし、コントロールできる範囲は限られる。心は意志の力でコントロール可能と思われたものの、思った以上にコントロールできない。
不安、緊張、怒り、憂鬱、落ち込み、悲しみ、拘り、中毒といった思いはコントロールが難しく、また複数の思いの間で葛藤があったり、自分の本心がわからなかったりする。このコントロールできない「思い」に対処するのが心理学である。

もし意志でコントロールできるなら、心理学は不要で、直ちに行えばいい。他人に対しても、命令で済むなら、コミュニケーション術は不要となる。

目的は、思い・感情をコントロールし、ネガティブな感情(怒り・悲しみ・依存・憂鬱など)をストップし、ポジティブな感情(やる気・愛・喜び・感謝など)を起こすことにある。

問題は無意識にある。意識からは無自覚なところで、自動的に処理が行われていることにある。

これに対処するのには、

・無意識の意識化
 無意識でどのように処理しているかをはっきりさせる。
 また無意識で自分が何を望んでいるかを知ることもできる。

・無意識への信念や行動のインストール
 無意識の反応を修正して、望ましい方向に自動的に思考や行動が行われるようにする。

となる。

● 無意識における学習

一般的に、無意識における自動化された思考や行動は学習を通じて行われる。学習は、記憶・理解・感情・行動に及ぶ。
繰り返し学習し、習慣化することで、自動的に実行されるプログラムが作られる。
プログラムは、あるトリガーをきっかけに始動する。

意識的な行動であれば、一旦立ち止まって、記憶の中から検索・探索を行い、検討の末、決定することになるが、これが毎回行われるのは時間が掛かるし、労力もかかる。これが自動化されている場合は、無意識のうちに行われる。

これは、生きていく上で必須のことで、学校で学ぶ知識スキルを身に着けていく上で重要になる。

語学:文章の一つ一つの単語を意識しなくても注意を向けるだけで理解できる。
数学:問題が与えられたら、解法・公式を当てはめて、自動的に解を導き出す。
スポーツ:こうしよう、と思うだけで、意図する結果になるように体を動かす。
生物:いろんな犬を見ることで、犬を識別できる。

これらすべて学習によって習熟、自動化していないとできない。
利点としては、速い安い上手いといったところだろうか。

学習には、5段階ある。

無意識的無能 知らないし、できない。
意識的無能 知っていてもできない
意識的有能 意識しながらできるようになる
無意識的有能 意識しなくてもできる。
無意識的有能かつ意識的有能 

4の段階が続くと、完全に無意識になってしまい、意識的に何をやっているかわからなくなったり、意識的にしようとすると変にぎこちなくなる。そのため、5の段階で、意識的でありつつ、かつ自然にできるようにする。

一般的なスキルの習得の場合、無意識化することによる利点が多いが、それでも、悪い癖がついてしまったりという問題も起きる。

心理的な問題の場合、繰り返しによる習熟によって無意識化する場合もあるが、往々にして一瞬の出来事で無意識的に学習してしまうケースも多い。

● ビリーフ

思考がパターン化されると、ビリーフ信念)になる。本人の行動が制限されるなど、マイナス面も出てくる。ビリーフがあまりにも固くなると、いわゆる頭の固い人となり、柔軟な発想は失われ、こだわりが強くなる。
ビリーフは意味因果関係で、「XはYである」もしくは「XはYを引き起こす」という形を取る。

空に黒い雲が見える→雨が降る
投資→危険

ビリーフは、自分自身が経験したり、知識として学んだことから形成される。それは科学的に証明されたこともあれば、社会のルールとして設定されたこともあれば、経験から導き出されたものもあれば、誰かに言われたことを信じてしまったものもある。
過去起きたことの解釈、現在起きていることへの判断、未来起こるであろうことへの予測、こういった思考に適用される。
スキルを身につけるのに比べると、1回で無意識に入ってしまう場合がある。刷り込まれたビリーフは無意識で機能し、自分がどのような思考をしたのか意識せずに判断を下す。

例えば、ラーメンを食べてお腹を壊したとしよう。
そうすると、「ラーメン→お腹を壊す」というビリーフができて、もうラーメンは食べないとなる。確かに、この学習、ビリーフによって自分の健康を守ってくれるという利点はある。しかしもし、実際の原因としては、そこに乗っていたトウガラシだったとすると、本来健康を害さずにできる選択肢があるにも関わらず、行動が制限されてしまうことになる。

「外は危険」「頑張っても無駄」「金は悪」、こういったビリーフは、行動の幅が制限され、経験できることが限定されてしまう。

しばしば、ビリーフは、本人でも気づかない無意識にあり、知らないうちに行動が制限されていたりする。また、たとえ気づいたとしても、意識よりも無意識の方が力があって、分かっていてもできない、ということもある。

無意識にあるビリーフを変えるには、アファメーションのように、新しいビリーフを何度も繰り返し唱える方法や、催眠状態に入って暗示を行う方法もある。ただし、既存のビリーフが強く根付いている場合、単にそれを打ち消す、新しいビリーフを注入したところで変わらないケースも多い。

その場合、どのようにビリーフが無意識にコード化されているのかを探る必要がある。

● 無意識に気づく

意識で処理できる情報の量は限られている。
研究によると、秒間11000000ビットの情報が内外の感覚器官を通じて入ってくるという。それだけの情報がすべて意識に上がってきたら、処理しきれずにパンクしてしまう。なので、大半の情報は無意識のうちに処理され、多くの情報はフィルタにかかって削除される。

この無意識的に行っているフィルタにビリーフが関係してくる。本来気づけた方が有益な情報までがフィルタにかかってしまう。

・自分の思考パターン、無意識のうちに適用されているビリーフ
・自分の本当の感情、価値観、望んでいること
・自分の動機づけ情報処理のパターン
・外界の有益な情報、チャンス
・他者とのコミュニケーションの際、相手のノンバーバル(非言語)の情報

自分を制限しているビリーフを解除し、目標達成に対して意図を設定すれば、外界に存在する有益な情報に気づけるようになり、その結果チャンスを掴んで、目標を達成することができるようになる。

無意識からのメッセージは、感情、体の症状として現れる場合もあれば、夢、シンボル、外界のフィールドにあるメッセージなど、メタファー的に現れる場合もある。いずれも、それが何なのか言語化して解釈する必要がある。

NLPでは、無意識にアプローチする多くの方法がある。
一般的に、催眠が知られ、ミルトン・エリクソンの手法が取り入れられたりするが、必ずしも催眠状態に入る必要はない。リチャード・バンドラーは催眠だと時間がかかり過ぎるとして、途中からは催眠を使わないようになった。

表象を用いる方法、タイムラインを用いてビリーフが形成された時点を辿っていく方法など様々ある。

また、自分にとって重要な価値観や自分の特徴、どのように動機づけられ、情報を処理しているか(メタ・プログラム)についても無意識的に行っているが、これらは敢えて修正する必要はなく、むしろその特性を知って生かしていくようにする。

● 意志、意図の必要性


顕在意識意志が不要というわけではない。意志をサポートする方法もある。ただし、意図は絶対に必要である。
意図は、欲求のようなものだが、実際のところ決断に近い。意図は、目標・目的とも違う。それだけでは人は動かない。

●意志と想像力(思うこと、表象)

意志を使う場合、結果よりも一つ一つの行動に働きかける。そのため、ぎこちなくなる。全体の統制が取れている状態ではなく、部分が突出して動作する。想像力は、結果や全体性に目を向ける。なので、統合された状態で動作する。

しかし、意志が不要というわけではない。学習の初段階はどう動かしたらいいかわからない。また習慣的動作を防止するためにも、注意を働かせる必要がある。

意志は、命令を基本としている。命令には抵抗がつきものである。逆方向に想像力が働いている場合、意志の力で無理やり行動しても疲弊してしまう。
なので、意志の力は、注意を向ける、目標に意識を向ける程度にしておいて、あとは結果やプロセスに対して想像力を働かせるのがよい。結果を魅力的なイメージにして動機を作り、そこに向かっている自分をイメージする。そうすれば、自分の体に命令せずとも自動的に動き出す。

想像力>意志」 を体感してもらうのが催眠となる。
イメージやシンボルは顕在意識の言語を通り抜けて、潜在意識に働きやすい。

これを他人に対して適用するときも同じ。命令は、直接的で手っ取り早いが、抵抗を受ける可能性がある。それよりも、ミルトン言語などで、相手の無意識に働きかけて、意識の抵抗を受けないようにした方がよい。

もう一つの要素としてはビリーフがある。想像力があっても、ビリーフが制限を設定している場合、動作しない。その場合、ビリーフの解除が必要となる。


●口に出せば願いが叶う?

成功法などでしばしばそう語られるが、そうとは限らない。無意識、潜在意識がどこに向いているかである。
口でポジティブなことを言っていても、それを信じていなければ意味がない。逆に口でネガティブなことを言っていても、本心では信じていなければ、悪いことにはならない。
ただ口癖のように出てくる言葉というものは、無意識でそう思っている可能性は高い。

では、どうやって変えていくか。
無意識の癖に気づくこと。意識化すればコントロール可能になり、変化を起こせる。
アファメーションの言葉を繰り返せばやがて習慣化され、無意識的にそのように思考が変わる。だが、その言葉を信じていなければ効果はない。
次はイメージ、想像力を使う方法。イメージは、言葉よりも深い部分で直接的に無意識につながる。なので映像化するのがいいとされる。
催眠を使ったり、寝入りばなを使うのは、意識のブロックを外すよい方法である。

●無意識からのメッセージ
 

催眠は表層意識の働きが抑えられるため、無意識からのメッセージを受け取るのに役立つ。人は言語を使う際に意識がその領域を専有しているので、より直接的にメッセージを受け取るには、指の動きなどといった観念運動を使うとよい。


● 無意識の反応を修正する

無意識のうちに学習してしまった反応を修正するには、それがどのような症状なのかを見極めて対策をする。

無意識の反応は、思考・連想という形を取るが、何らかのトリガーをもとに開始される。大きく分けて以下4パターンで動作し、条件反射的に自動的に動く。これを意識化し、自己破壊的な、あるいは制限をかける反応を止め、自分の意志で選択できるようにするのがNLPの目的となる。

1. 感覚刺激-反応(アンカー)
刺激と反応の間に論理的なつながりはなく、習慣的に即反応する。例えば、強い嫌悪感・恐怖症などは、出来事の想起や想像、言葉などがトリガーとなって引き起こされる。そこには理屈はなかったりする。そこで言葉や意志の力によって克服しようとしても無意識レベルで作動しているため、効果はない。
これに対しては、同様の仕組みで、症状を打ち消すような良いステートをアンカリングし、例えば右の上腕を掴まれたら、良いステートが起きるようにリンクさせる。そして左腕を触れながら症状を引き起こすようにして、症状をアンカリングする。その2つのステートを同時に発火することで、症状を打ち消す(コラプシング・アンカー)。
この条件反射の仕組みは、パブロフの犬の実験で知られる。

 ・フィジオロジーを変える
 症状が起きているときに、アイパターン(目の動き)を使って、症状を活性化させている脳の神経組織と、冷静に処理できる脳の神経組織をリンクさせて、症状を解消させるといった方法もある。


2. 表象(サブモダリティ)
認識したものに対して、イメージ・表象が思い浮かぶ。それによって認識した対象への意味付け・判断材料となる。例えば、犬と聞いて、何らかのイメージが浮かぶが、中立的であることは少なく、何らかの好悪の判断があり、様々な感情を引き起こす。
それはどのように表象されるかによる。位置は?明るさは?距離は?
人は、物事を、視覚・聴覚・体感覚として、対象をコード化し、意味付けを行っている。
表象を操作すると、意味付け、印象、感情が変わる。過去の記憶や、未来の想像についても、内面の表象にコード化されている。ビリーフについても、強く確信しているものと、疑問を持っていることで内部表象が異なる。
NLPでは、症状との関連を、内部表象の操作、ディソシエイト、あるいは行動療法で言うところの脱感作といった手法を用いて切り離し、引き金が作動しないようにする。

・ストラテジー
単一の刺激-反応となっている場合もあれば、複数のことが連鎖反応として現れる場合もある。この結びつきを解除する。または望ましい連鎖反応を引き起こすようにする。


3. ビリーフ・思い込み(言語)
一方、それとは別のレベルで、思い込み(=ビリーフ信念)が作動している。この信念は言葉として表現できるが、この思い込みは本人がおかしいと分かっていたとしても簡単には変えられない。強く作用して、行動にブレーキをかけ、生きていくうえでの制限として働く。思い込みには、明確な動機があるため、そこにアプローチし、制限となる信念の力を弱めていく。さらに信念より奥にある価値観に踏み込み、価値観を変えていくことで関連する信念を変えていく。

4. 葛藤
1-3までは単一の思いだが、葛藤は、自分の中にある複数の思いがぶつかり合って、それ自体で消耗し、前に進めなくさせてしまう。対処としては思い込み同様に、それぞれのプラスの動機を探っていく。思い込みの一種と言えなくもない。それぞれの意図を探り、さらなる意図を探り、やがて葛藤は最終的には同じ意図を持っていることがわかり、統合される。

大切なのは上記のどのパターンなのかを正しく見極めることである。
多くの間違いは、すべて言語・ビリーフのパターンだと考え、思考を変えることで、すべて克服できると考えてしまうこと
1は、神経学的に反応が結びついているので、それを言語化して、これは論理的ではないと言い聞かせたとしても効果を上げるには時間がかかる。
瞬間的に、犬に対して恐怖が湧いたとして、この犬は安全である、すべての犬が危険なわけではない、と言い聞かせても成果を上げるのは難しい。それよりも、犬の表象(サブモダリティ)を修正するほうが速い。

● 対策のパターン

先に挙げたのは症状のパターンである。
対策する場合には、使える道具は以下の通り。

1. 言語
2. 表象(サブモダリティ)
3. アンカー
4. フィジオロジー


● 無意識をプラスの方向に向ける

無意識のマイナス面を修正するだけでなく、プラスの方向に向けていくワークも多くある。
目標設定をして、その過程をリハーサルしていくワークなどもある。

● NLPにおいて望ましい状態

1. 本来望む方向に自動化
これまで述べてきたように無意識が学習し、意識的な努力をしなくても、望む通りの人生が開けてくる。

2. 選択可能な状態
1つの選択肢しかなく、しかも望まない状態へ向かう選択肢しかない場合は、自由がなく、現実に流されることになる。NLPでは、選択肢がある状態が望ましい状態となる。無意識的に望まない方向に行ってしまうような心のブロックが取り除かれた場合、選択可能な状態となる。

 

現在におけるプロセスと構造、コンテキストを明らかにすること

NLPは、解決志向だとも言われる。原因Why)よりもHowを重視する。前者が焦点を絞るのは説明であり、原因と結果の理解である。後者が焦点を絞るのは、プロセス及び構造である。
従来の心理学では、精神の病理の原因を究明する。フロイトは性的衝動、アドラーは劣等感、ユングは集合的無意識に根本原因を置いた。トラウマ、自我の弱体化、防衛機制、未発達などを原因に求める。
 

一方、NLPでは、こうした体験がそれぞれどう働いているかをつかむ。
いわば、対症療法的であるが、心の問題については、それで十分なことが多い。原因追求する行為そのものが、問題を作り出してしまう。「鬱」や「神経症」など病名が現れてから、患者が急増した。医者からそのように診断されれば、客観的に自分は病気なのだと思いこむようになり、その結果、期待した症状を現すようになる。

このHowの重視は、表面的な行動の単なる模倣、見掛け倒しとは異なり、内的表象無意識といった深い部分まで扱っている。

●原因よりも対処

一般的な問題は、原因追求対処解決でよい。原因追求に時間がかかるときは、暫定対処原因追求根本対処解決となり、さらに将来的な問題を防ぐための対策・予防措置も取られる。

これが有効なのは、多くの場合、原因を見つけることができる、あるいは明確にできなくても、確率で明らかにできるためである。特に物理的なものは、因果関係があるため、原因を追求することは理にかなっている。原因を追求せずに放置しておけば、将来同じことが繰り返される。

だが、心理的なものは、必ずしも原因がつかめるとは限らない。根本原因と思えるまで探求が続く。本来症状を取り除くはずのものが、原因追及に時間を費やしてしまう。突き止めたところで除去できるかわからない。

物質的なものは再現可能だが、心理的なものは再現が難しい。物質的なものでも、壊して作り直したり、壊れた部分を交換することができずに、現状あるものに対して手を加えて補修することも多い。

正しい」原因をとらえている限り、原因に対処するのは正しい。
もし、原因と考えられているものが、症状を起こす、きっかけにすぎないのであれば、それは原因ではないので、いくらそこを追求したとしても何の意味もない。
A→B→C→D→症状
という連鎖があったとすると、Aを治せば、その後すべて消えるのであれば、Aに対処するのが正しいが、単に時間的順序で並べただけであれば、Dに対処するだけで解決する

骨折した際、骨折した原因を追及することは、将来の骨折を防ぐことにはなるが、現在の骨折を治してはくれない。原因が不注意などであれば、今不注意を改善したとしても骨折は治らない。もしカルシウムが足りなくて、ということであれば、骨折を治す際に、カルシウムを摂取することで治療に役立つかもしれない。
現在の症状を治したいのか、同じ問題を繰り返したくないのか、それによって注意することが異なる。ところが、しばしば人は、いずれの場合にも、原因追求なしに解決なしと思い込んでいることが多い。

しばしば、症状は、偶然、原因と症状が条件反射的に結び付けられる(アンカリング)ケースがある。例えば、ある教室に来ると、反射的にふるえが起こるとする。このとき、原因となっているものは単なるトリガーに過ぎないので、それを解決(=教室をなくす)しても意味がない。というか、トリガーを消せない場合、そこから逃げるしかなくなり、行動範囲が制約されてしまう。それよりもトリガー-反応の結びつきを解除する方がいい。

●責任追及よりも将来の対策を

原因(なぜ、Why)の追及が過去に向かうのに対して、対策(どのように、How)の追求は未来へと向かう。

なぜ」は原因分析であり、原因を解明して将来に生かすために重要なはずだが、人間が使うと、多くの場合、責任追及になってしまう。「お前が悪い」「私が悪い」である。

人と人の間なら、言われた方は、言い訳するか謝るしかない。多くの場合取り返しがつかないことだからだ。なのに、「なぜ」「なぜ」と言って攻撃する。取り返しがつかないと思っている限り、「なぜ」という質問への答えはない。攻撃する方は、原因を教えてほしいのが本音ではない。謝罪責任を求めている。原因を知れば納得すると思っているが、決して納得などしない。取り返しがつかないことだからだ。これからこうしますと言っても、もはや被害側にとっては意味をなさないこともある。
そして、その人に責任を取らせて終わりとしてしまう。心情的には一応解消されるが、未来への解決にはならない。懲罰を加えて見せしめにすれば予防になるという考えも背景にある。
そのため、多くの場合、責任追及となれば、原因よりも、言い訳を引き出しやすいのだ。

一方、「どのように」は将来に向かう言葉である。言葉の力を借りて、将来に向かわせることが可能になる。きちんと対処しようとすると、「どのように」も原因分析を含み、具体的にどうやったら成功するかを考えるようになる。

●必要な原因分析もある

ただ、何が何でもWhyよりもHowが重要と言っているわけではない。ポジティブ人間は得てして、過去を振り返らずに、未来に向かおうとする。過去の原因追求を始めると、「もう終わったことなので、今更掘り下げても仕方がないことだ。それよりも、これからどうするかだ。」と言う。これには責任追及を恐れて、目をそらそうとしている意図がある。これは責任の所在を曖昧にし、悪いことをした者勝ちにしてしまう。未来志向などという言葉は、多くの場合、不都合なものを隠蔽しようという意図がある。

犯罪者が人を殺したとき、その犯罪者に報復して殺したとしても、死んだ人は帰ってこない。だからといって、その犯罪者を無罪放免していいわけではない。
十分な原因追及なしに、将来の再発防止策など作りようがない。無論、原因追及にばかり時間を掛け、再発防止策に時間が取れない場合もあるが。

この種の議論の問題は、原因と対策、どっちを取るという二分法にある。話を単純化しすぎるから、厄介なことになる。
心理的な問題は、原因追求よりも、対策に置いた方がいい。それをすべてに広げる必要はない。

仮に、あなたが肥満だとする。これが起きた問題で、原因は、あなたが食べ過ぎたことだとすれば、対策は、食べ過ぎないようにする。これで終わりだ。この手の原因追及と対策は、裏表の関係なのでセットになる。
だが、原因追及の場合、食べ過ぎた原因、特に「あなた」の人格が攻撃対象になる。意志が弱い、流されやすい、駄目な人間、自己管理のできていない人間、様々な非難に晒される。
これはしばしば無益な結果になる。原因追及するなら、正確かつ客観的に行うことだ。

 


 

NLPについて、外部からの批判としては、似非科学学問ではない(学術論文が少ない、臨床試験によるエビデンスが不足など)、準宗教だ、とかがある。
NLPの創始者の分裂や、各流派に分かれている点も批判の的だ。コミュニケーションや葛藤の解決を説いていながら、自分たちは葛藤を解決していないという皮肉。
あとは、NLPの前提の「失敗はない。フィードバックがあるだけ」を取り上げて批判しているところなど。

● 疑似科学との批判

英語圏では以下のような疑似科学だとの批判もあり、学術界からはほとんど無視されている。

Among the reasons for considering NLP a pseudoscience are that evidence in favor of it is limited to anecdotes and personal testimony, that it is not informed by scientific understanding of neuroscience and linguistics, and that the name "neuro-linguistic programming" uses jargon words to impress readers and obfuscate ideas, whereas NLP itself does not relate any phenomena to neural structures and has nothing in common with linguistics or programming. In fact, in education, NLP has been used as a key example of pseudoscience.
(NLPを疑似科学とみなす理由は、NLPを支持する証拠が神経科学や言語学についての科学的理解によるのではなく、エピソードや個人の証言に限定されている。「神経言語プログラミング」という名前は、専門用語を使って読者を印象付け、その考え方を難読化させている。その一方でNLPは、神経構造とは何の関係もなく、言語学プログラミングとは何の共通点もない。実際、教育の現場では、NLPは疑似科学の主要な例として利用されてきた)

この手のものは大衆化した段階で、短期間のトレーニングを受けた人が講師としてあちこちでセミナーを開くようになり、学術界からは軽視されるようになる。

ただ、これらのNLP批判は、NLP開発者や実践者に何の影響も与えないだろう。というのも、科学的根拠・証明があるかどうかよりも効果があるかどうか、そこが重要なところだからだ。ニセ薬だったらともかく、その場ですぐに効果を実感できるものであれば、批判は大した意味を持たない。

● 誇大広告
NLPの効果をあまりにも大きく宣伝している点。これは、それぞれの主催団体がビジネスでやっている以上致し方ない部分もあるが、高額なセミナーで参加者を募っている以上、批判は避けられないだろう。

● 常に速やかに解決するとは限らない
NLPのセラピストは、短時間で問題を解決しようとする。なんとか結果を出そうとする。簡単に解決しようとしている姿勢そのものが反発を招くことにもなる。しばしば、簡単な解決よりも深い教訓が欲しい場合もある。

一方、精神分析や認知行動療法のセラピストは、分析と称して、クライアントに長話をさせ、問題の核心にたどり着かないこともある。どちらがいいのか一概には言えない。

また、複合的要因が絡む複雑な問題は、要因が一つには特定できないため、一時的に解決できたように見えたとしても、一部のパートは奥底に眠ったままか、抑圧されて気づかないか、妥協しているかになる。常に、長続きする、劇的な改善を期待すると裏切られることになる。

● NLPの不足点

NLPは様々な分野に応用が可能だが、あまりにも多くのテクニック、広範囲にわたる応用範囲からすると、NLPですべてカバーできるように思えてくる。
しかし、他の心理学の研究の成果をいいとこどりしているように見えるが、NLPの性質上、すべてを取り込めない。現状ブリーフセラピーの一種とみなされている。

NLP自体がコミュニケーション研究から出発したのではない。心理療法、セラピーの現場から生まれているので、その要素をセールスに活かすことはできるが、セールスにおけるコミュニケーションのすべてではない。要素としては物足りない部分は否めない。

正常性卓越性の研究としているが、卓越したセラピストの研究から始まっている。また正常な人の研究と言っても、異常者を治すため、異常者との対比が中心である。

モデリングをセールス、教育、スポーツに応用してもよさそうだが、NLPのモデリングを使ってというのはあるが、パールズ、サティア、エリクソン以外のモデリング対象で行ったことは聞かない。有能なセールスマンを研究したのではない。いつも、そういう分野に応用ができると言うところで終わっている。学習の4段階とか、あまりにも抽象化しすぎてしまっている。おそらく、セラピーと違って、汎用化しにくいのだろう。

 

なので、このブログでは、過剰な効果宣伝は行わず、現実的な活用方法を論じ、不足点があれば随時補足していきたい。

 


 

NLP特徴としてあげられるのが、以下の点である。

正常性の研究
理論よりも方法正しさよりも有効性
・理論よりも
速やかに結果を出す
過去よりも現在
クライアントが主体
真理の追求はしない
特定の分野に縛られない

・正常性の研究
NLPは、精神異常者の研究ではない。従来の心理学は、精神病の研究を行い、何がおかしいのか、なぜ精神病に至ったかの原因を追及しようとして理論を組み立てる。バンドラーは従来の心理学を批判して、車の修理を学ぶために、廃車置場を調べているようなものだと言う。
NLPは、正常な人、卓越した人、異常から正常になった人の研究をする。そして、それを適用し、異常な人が正常になるように、普通の人が卓越するように手助けをする。
高所恐怖症がなぜ起きるのか、ではなく、高いところでも平気な人はどういう状態なのか。すぐに仕事に取り掛かれる人の内面はどのようになっているのか、などできる人をモデリングする。

・理論よりも方法
様々な事象を分析して、仮説を組み立て、検証し、理論として確立する。その理論からすると、この方法でうまくいく(はず)。しかし理論に誤りがある、あるいは理論が正しくても現実から乖離しているために、そこから生み出される方法論が効果があるとは限らない。
NLPでは、理論よりも、正常な人がどのようにしているのかの方法を重視する。
正しさよりも効果があるかどうかが重要である。

・理論よりも人
NLPは天才セラピストをモデリングしたが、理論ではなく、人に焦点を当てている。そこには理論には現れてこないノウハウがある。あまりにも前提になっていることは理論には出てこない。しかしそこが重要だったりする。
NLPが効果を出すのは、それが、できている人がやっていることと同じことをやるようにするからである。実際NLPのワークは、できている人なら無意識のうちにやっていることが多く、特段目新しいものではなかったりする。

・速やかに結果を出す
従来の治療法では、カウンセリングに時間をかけ、長期間にわたって治療が続く。
脳は情報が急速に流れ込むことによって学習する。恐怖症も一瞬の記憶で形成される。治療する際も、ゆっくりではできず、急速に学習することで行われる。

・過去よりも現在
クライアントの何年にもわたる体験を即座に知り、微妙なところまで知ることは困難だが、行動の構造についてならすぐに知ることができる。どのように問題の状況に陥ったか理解しなくても、現在どのようにしてその症状を起こしているのかが分かれば良い。
過去は変えられないのだから、過去を変えるのではなく、現在現れている記憶を変える。

・クライアントが主体
NLPは、結果にコミットしているとも言える。理論、手順を適用して、結果が出るまでただ続けるというセラピーではない。理論にクライアントを当てはめるのではなくクライアントを主体にして、柔軟にやり方を変えていく。他の心理療法に比べて、レパートリーは豊富であるし、さらに新しい方法を開発することもできる。
ポイントは、クライアント自身に解決できるリソースがあるという点にある。

・真理の追求はしない
NLP自体は、何が価値があるか、人はどうあるべきかは語らない。通常、宗教や思想や文化によって、人生の目的・意味・価値観は規定されるが、NLPは中立的でノウハウ中心なので、いかなる宗教、思想の持ち主でも活用はできる。いわばコンテンツフリーである。むしろその背景にある構造を描き出すのである。「NLPの前提」というものがあるが、真理ではなく、単に真実だと仮定すると、結果を出すのに役立つ信念というように慎重に述べている。

精神分析や交流分析については、人間のについてのモデルがある。一方NLPでは、理論としてあるのは、コミュニケーション・モデルだが、誰でも、まあYESだと思えるような直感的でシンプルなものでしかない。

エコロジーチェック」というものを重視しているが、この内容も本人にとって、全体的に考えてどうかをチェックするものであって、何がエコロジーなのかは規定しない

NLPはプロセスだけを扱い、コンテンツ(内容)の押し付けをしないモデルであり、考案者の考え方を押し付けるようなものではない。ジョン・グリンダーは特にこの点に厳しく、他のNLPの指導者が開発したワークについてNLPではないと批判する。そこにはあくまでも中立的立場を保とうとするスタンスがある。

そういう意味で「安全」といえば安全かもしれない。とはいっても、人間である。NLP信者は産出される。

・特定の分野に縛られない
3人の天才セラピストを分析することから始まったが、家族療法、ゲシュタルト療法、ミルトン催眠の継承ではないし、心理学を統合する試みでもない。それがかえってつかみどころがない印象を与える。あくまでもセラピストのやっている方法だけを抽出した。
いわばメタ心理学というものである。よって他の心理学とは一線を画す。NLPのテクニックで取り入れられているものの多くは、他の心理療法からの借用で、ある種テクニックの寄せ集め感は否めないものの、結果を出すことに焦点が当たっている点で統一はされている。

適用範囲が広いのも特徴だろう。心理学は、精神障害を治療するだけでなく、学問や仕事、スポーツといったパフォーマンスを向上させる際にも適用できるが、NLPは、どちらかというと後者、精神障害と言っても比較的軽症の人がターゲットになる。なので、ごく普通の人に、セミナーで大々的に教えている。最近はコーチングが盛んだが、コーチングの中でもNLPの手法と共通しているものは多い。

・学問ではない
これらの特徴が、逆にNLPへの批判ともなりうる。理論がない、臨床的な証拠が欠如しているなど。
心理学系の学会からはほぼ無視されている。NLPが引用されることもほとんどない。一方でセラピーの現場では、NLPが取り入れられ、成果を上げている。

逆にNLPではないものは以下の様なものである。
・何が正しく、何が間違っているかを特定、人はどうあるべきか
思想が入っているもの
コンテンツが特定されているもの
方法がないもの
原因志向

(余談)
とはいえ、何がNLPかを決定する権威はいないし、いたら遂行的矛盾を引き起こす。
全米NLP協会、米国NLP協会、...これらが権威だろうか。ある人は、NLPの創始者のリチャード・バンドラーに対して、それはNLPではないと主張してきたそうだ。
バンドラーは謙虚にも、NLPはわからないことだらけ。わかっている人がいたら教えてほしいと述べている。このスタンスこそがNLPだろう。

これがNLPだと断定したら、NLPではない。
その観点からすると、私がここに書いていることはNLPではない!?
こういう点のパラドックスは、ケン・ウィルバーがポストモダニズムの病理として述べていることと共通するが深入りはやめよう。


 

NLPを行う目的としては、

問題解決セラピー
 マイナスを解消する、ブレーキを外す
目標達成コーチング
 プラスに持っていく、アクセルを踏む
コミュニケーション

が挙げられる。

※コーチングにもセラピー的な要素があるため、実際は単純にプラス・マイナスではない。ゴール設定は、セラピーでも重要な要素になるので、コーチングとは限らない。

● 対象分野
対象分野としては、心の問題を解決するだけではなく、能力開発病気の治療、人間関係セールスプレゼンテーション教育など様々な応用範囲がある。

● NLPが対象としないもの

・知識
・具体的なスキル
・何を目標にすべきか

目標を達成する上で、知らないからできないという場合は、単純に知識がないだけなので、NLPの扱う領域ではない。
具体的なスキルについてはあまり言及しないが、NLPでは、うまく行く人のプログラムをモデリングする方法を提供する。
また目標を決める手伝いはするが、目標自体はクライアントが選択する必要がある。そして、目標を決めたあと、いかにモチベーションを維持していくかを手助けする。

● メンタルへのアプローチ
NLPは、基本的にはメンタルにアプローチする。
メンタルと言う場合、感情の制御(EQ)と知能(IQ)があるが、主に感情面が対象である。ただし、知性を向上させる研究も多い。さらには、健康面や、スポーツ等のパフォーマンス向上といった身体面への応用もある。とはいえ、メンタルが中心である。
セールスや教育、人間関係は、コミュニケーションが重要であり、コミュニケーションとは即ち、他者のメンタルに関わる部分である。

● 目標達成をサポート
目標達成をサポートする場合も、モチベーションを高めて行動を促し、達成への確信・自信を生じさせる。心の中の制限、ブレーキを外せば、アイデアも湧いてくる。そして、対象がはっきり分かれば、有益・無益な情報を見分けられ、チャンスに気づけるようになる。

メンタルだけ鍛えても、行動しなければ結果は得られない。仮に棚ぼたがあっても、掴まなければ流れていく。欲しいものを手にいれるには、自分で手に取るか、向こうから来たものを受け取る必要がある。
確かにはある。不確かさもある。未来はどう転ぶかわからない。当てが外れることもある。しかし、有利な選択を続けていけば、達成する可能性は高まるのだ。


 

NLPと聞いて、何のことかわかる人は、一般の人にはほとんどいないだろう。英語で何らかの頭文字の組み合わせだろうということで、それを戻すと、

Neuro-linguistic Programming
神経言語プログラミング

となる。何やら小難しい言葉が並び、さらにプログラミングと来ると、それだけで拒絶反応を示す人もいるかもしれない。
「XXX心理学」とか言うなら、ああ心理学の一種ね、と思うのだが、この命名だと何やらさっぱり見当がつかない。

で、NLPの教科書では、この説明として、それぞれの単語を説明して、

神経
 人間は五感を通じて世界を認識し、情報を出し入れしている。
言語
 五感を通して得られた情報をコード化し、意味を与えている。
プログラミング
 体験や経験によって構築された、人間の中にあるプログラム

となっている。

???

それぞれの言葉はわかる。それを並べて一体何だというのか。わかったようなわからないような。犬・猫・ネズミと言葉を並べているようなものではないか。
大抵の人は、???のままフリーズしてしまう。あえて疑問を投げかけるとすれば、

だから何? それで?

となる。上記の説明だとただ単に状況を描写しただけで、そりゃそうだよね、それでどうしたの、と疑問が湧く。この用語が何のために存在し、何を言いたいがために、この用語が導入されたのかが全く理解できない。

心理学の一種と説明されるときもあるが、一体他の心理学とは何が違うのかが、いまいちつかめない。例えば「ゲシュタルト心理学」というものもあるが、これも分かりづらいが、ゲシュタルト=全体性とすると、それまでの心理学が対象を分割して扱っていたのに対して、全体的にとらえようという、その対比によって立場は明確になる。

創始者のリチャード・バンドラーも命名には困ったようで、ジョン・グリンダーとともに、自分たちが発見してきたこれら全体を何と呼ぶかかなり議論したそうだ。

そこで出てきたのが「神経言語プログラミング」という命名で、バンドラー曰く
特定の領域に縛られないように意図して私が作った言葉です。神経言語プログラミングの意味することのひとつに、人間の記憶・学習の仕組みを研究することがあります。...本質的には、人々に自分の頭脳の使い方を教える方法を開発しようというわけです。」


確かに心理学の一派ではないし、対象も広範囲にわたっているため、何か命名してしまうと、その名前に縛られてしまう。こういう場合、命名に苦労して、創始者の名前を付けるのが常だが、それもある種の制限となりかねないので、結局なんだかよくわからない命名にしたのだろう。

ちなみにNLPは商標登録されておらず、バンドラーとグリンダ―が仲間割れした際に、その権利についてだいぶ争ったのだが、最終的に和解して、NLPの知的財産権について誰も所有しておらず、提供することに何の制限もないことに決着した。この決定は、NLPが特定の領域に縛られないことを象徴しているようで大変よいのだが、その一方、NLPの派閥がいくつも生まれ、それぞれが正しいNLPを主張するという状況にある。この件については後ほど。

● 神経言語とプログラミング

話を本題に戻して、NLPという言葉の意味を探ろう。

端的に言えばNLPという命名からすると、人間の中にあるプログラムを自由に変えていくこと、ということになろう。

英語の
Neuro-linguistic
は、-でつながれているように、神経と言語はバラバラではなく、神経言語という一つの用語となっている。

神経言語とは何だろうか?

マイケル・ホールの『Mind-Lines(NLPフレームチェンジ)』によれば、

神経言語は、言語(言葉、シンボルなど)と神経系(神経系統および脳)間の様々な心身の結びつきをホリスティックに要約している用語。五感からの情報に基づく言語(表象)、メタファー的な言語、数学、音楽、アイコン、その他のシンボル的なシステムも含む。

そうすると、「神経言語でプログラミングする」となる。
プログラミングと言えば、一番良く使われるのは、コンピューターのソフトウエア(アプリケーション)を開発する際に、専用のプログラミング言語を用いる例が挙げられる。C言語やJava言語など。その比喩からすれば、C言語プログラミング、Java言語プログラミングと同じように、神経言語を使ってプログラミングするということになる。(ただし、Neuro-linguistic=「神経言語」として説明している人はごく少数。マイケル・ホールは、神経言語学という学問分野と絡めているが、実際のところNLPとは関係がない)。

では、何をプログラミングするのか?
人間の思考・心・行動、あるいは脳・身体を、である。

では、人間はプログラムに従って動いているのだろうか。
コンピューターに対してプログラミングした場合、プログラミングした通りに動く。NLPでは、人間を一種のロボットとみているのだろうか。NLPが「操作的」と批判されるのは、この点にある。

プログラム=「この条件のとき、これを実行する」というものを自動的に行うことである。判断は人間ではなく、あらかじめ組み込まれたプログラムが行う。プログラムは、プログラミング言語によって書かれている。プログラムが間違った動作をする場合(=バグ)、プログラミング言語を調べて、修正することになる。

とはいえ、人間もプログラム通りに動く部分が多い。自分ではこうしたいのにできないことがしばしばある。

そこにあるキーワードは「無意識」である。

人間の無意識は自動的に動く

その無意識で働いている仕組みを、「プログラム」と呼んでいる。プログラムの中身がわかれば結果は予測可能となり、また制御も可能になる。

実際、心理学自体がこのプログラムを探求していくものだ。心を探るというのは魅力的かもしれないが、心の法則というものを探って、その法則を知ることで、心や行動をコントロールする、これが心理学の狙いである。

では、誰がプログラミングするのか?

それは「自分」である。

もちろん、自分の心をコントロールできるということは、他人の心をコントロールすることもできる。しばしばこれは悪く解釈されがちだが、それを良い方向に活用すればよい。

プログラミング」という言葉は、浅薄な「操作的」の響きを与えるが、実際バンドラーの狙いはそこにあるだろう。人は心というものを深遠で謎めいたものとする。その方が「人間」が機械とは違うことを示せる。しかし、そうすることによって、本来は容易に変えられるものまで変えられなくしてしまう。プログラミングという表現によって、実は、心は簡単に変えられるのだということを教えてくれる。

ただ、プログラミングというけど、実際には数式など出てこない。出てくるのは、感覚・表象といった心理的な要素と行動のみである。

● なぜ「神経」か?
(この節はつまらない内容なのでスキップしてよい)

では、次に、なぜ心理学なのに「神経」なのか。

神経ではなく、感覚言語でいいのではないか?
神経というと物理的なものだ(「身体」と言うのであれば、物理的な側面と心理的な側面と両方ある)。

しばしば、NLPは「人間の主観的体験の追究」とも言われる。

とすると、なおさらおかしい。
主観的な体験の中に、神経自体はなく、ニューロンやシナプス自体を経験することはできない。言葉として、「神経に触る」とかナーバスとかいう言葉があるが、それは単なる感覚的な体験で、やはり神経自体を経験することはできない

違和感を感じるのは、神経という物理的な(=心理的ではない)言葉を使いながら、脳科学の言及が一切ないこと。脳科学について言及している本であれば、前頭前野がどうのこうの、アドレナリンがどうのこうのという話が出てくるが、NLPでは全くと言っていいほど出てこない。20冊以上読んだが、大脳生理学と絡めているのは、リチャード・ボルスタッドの本1冊だけである。一方、心理学者のダニエル・ゴールマンの『EQ こころの知能指数』では、脳神経に関する言及が極めて多く、それと絡めて心理について述べている。

ディルツニューロ・ロジカルレベルも同じ。なぜニューロとついているのだろうか。環境からアイデンティティに至る5段階すべて、脳神経は直接関係してこない。単にNLPと絡めるために、ニューロを持ってきているのだろう。

NLP用語は、そういった誤用が多いので、無駄に分かりづらくしている部分が多い。

単に、文系の人間が、科学の威を借りたくて、Neuro「神経」などという物理的な用語を使っているのではないか、という気がしてならない。

もっとも世の中には、脳自体について語っていないのに、脳○○○...と「」をつけている本が実に多い。心というよりも、脳と言ったほうが科学的・客観的印象を与えられるからだろうか。また「心」(ハート)が感情を想像するのに対して、「脳」は知的な部分を連想させ、そのように使われる。ただし、最近は脳が感情を支配しているとも言われるようになっているので、感情面も含むが。
なので、比喩的な使い方としてはOKなのかもしれない。
 

今回から、しばらくの間、NLPについて私が学んできた内容をまとめたもの、それについての批判的考察を述べたいと思う。


自分の理解をまとめただけで、初心者向けに書いたものではないことはご了承願いたい。初心者向けであれば新出単語は説明してから使うものだがそういうところは端折っている。間違いがあれば随時訂正するので気づいた人がいれば指摘をお願いしたい。
また自分のポジションとしては、NLPで稼いでいるわけでもなく、NLP信者でもなく、単に学んだことを咀嚼して説明しているので、これが唯一絶対の方法だというつもりは毛頭ない。

NLPは、ジョン・グリンダーリチャード・バンドラーによる『魔術の構造』の出版に始まったが、言葉を使いこなすと魔術のように人に変容をもたらす。テクニック偏重と受け取られる向きもあるが、実際のところ、ポストモダンの思想にも通じて奥が深く、既存の心理学コミュニケーションの枠組みをまさに脱構築、解体し、新しい視点を提供してくれる。

NLPが何であるか説明するのは難しい。わかったようなわからないような説明を受け、一通り学んできて、NLPとはこんなものだと理解するケースが多いと思われる。

ある新しい概念を説明するには、辞書的な定義だけでなく、以下の様々な観点から説明すると、理解しやすい。

・言葉の意味、定義
・由来、成立過程
・何の一種か?(抽象化)、具体例
・効能、適用範囲、適用対象外
・似ているもの(類推)、違うもの
・特徴、なぜ必要なのか
・学ぶ方法

ここでは、それぞれの項目について一言のみ説明する。それぞれの一項目だけで、非常に長い説明ができてしまうので、ここではサマリのみで、詳細は別途行う。

対象が、心理学についてあまり知らない人の場合と、心理学についてある程度知っている人の場合とでは、説明の仕方が変わる。後者の場合、既存の心理学とどのように違うのかが重要になると思われる。

【言葉の意味、定義】

NLP
 Nuro 神経
 Linguistic 言語
 Programming プログラミング

・一般的な説明
卓越性の研究。人のどのような思考パターンがどのような行動として現れるのかを説明し、その卓越した行動を再現可能にする。

・他の説明
脳の取扱説明書。


【由来、成立過程】

・創始者
 ジョン・グリンダー(言語学)
 リチャード・バンドラー(心理学)

・どのように
当時天才セラピストとして有名だったフリッツ・パールズバージニア・サティアミルトン・エリクソンの3人を研究し、その言葉の使い方をモデル化して生まれた。

催眠、言語学、システム理論、変形文法、ゲシュタルト療法等から影響を受ける。
グレゴリー・ベイトソン、ノーム・チョムスキー、コージブスキーなど。

【何の一種か? 似ているもの】

心理療法、自己啓発の一種。

【具体例】

様々な実践方法(ワーク、エクササイズとも言う)があり、問題・症状を特定し、内部表象(イメージ)を操作したり、信念(ビリーフ)を発見したり、催眠を用いたりして、解決を行う。
さらなる具体例は後の章で。

【効能、適用範囲】

マイナス面の解消:セラピー
 心理的な問題の治療、精神的健康の回復・維持・増進

プラス面の促進:コーチング
 目標達成、能力開発、コミュニケーション改善

基本的に、精神面・行動面を改善する枠組みを提示する。

【できないこと、適用対象外】

コンテンツ(中身)、つまり何をすべきか、何が正しいか、何が価値あるものか、というものは提示しない。枠組みを提示するだけなので、中身は個人個人に委ねられる。

目標達成のための枠組みを提示するが、具体的に必要になってくる知識やスキルについては言及しない。それをどのように学び、向上させるかという上位レベル(メタレベル)での提示はある。

【違うもの】

NLPは、メタ心理学の立場で、特定の流派に縛られるものではなく、理論よりも実践を重視しているため、学問ではない。

【特徴および、なぜ必要なのか】

精神分析をはじめとする心理療法はこれまで時間のかかるものだった。セラピストは、クライアントから長々と話を聞き、内面を探求していく。そのため治療にはかなりの長期間を要し、それでも解決するとは限らなかった。

様々な流派が生まれたものの、セラピーの効果は、セラピストの力量によるものが多い、つまり属人性が強かった。

NLPの創始者たちは、当時成果を挙げていた天才セラピストをモデリングし、その要素を抽出し、やり方を学べば誰でも天才セラピストのようにできることを実証した。

NLPの特徴は、速やかに効果を出すことが挙げられる。問題の原因を追求する代わりに、現在どのように問題が起きているのかに焦点を絞り、正常な人が対処しているやり方を適用することで速やかに問題を解決した。この短期的治療法はブリーフセラピーと呼ばれ、NLPもその一種として捉えられている。

【学ぶ方法】

NLPについてはすでに多くの入門書が出版されている。基本的な考え方やワークのやり方を学ぶのにはよいが、スポーツなどと同じで実際に行ってみないと身につかないし、正確な意味は把握できない。

NLPの主催団体は数多くあり、そこで開かれているセミナーに参加するのもよい。実際のデモンストレーションや、参加者同士でワークをしたり、また教室外でも知り合った参加者同士で時間を作って自主的にワークをしたりして練習することもできる。現代はZoomなどのリモートのチャットツールを使って、遠方の人とも一緒にワークをすることができる。

ただし、セミナーはそこそこ高額であり、講師によって充実度は異なるため、選択は慎重に。
 

【タイトル】 MISSION ミッション

【著者】 岩田松雄
【ページ数】 283
 

 

【読むきっかけ】ダイレクト出版で宣伝されていて安く手に入れられたため。
【何を得ようと思ったか】ちょうどミッション探究のワークをしていた頃だったのでその参考にしようと思い。

【概要】 何のために働くのか、その問いに答える。
【対象】 ビジョンを持って仕事に取り組みたい人
【評価:★5段階で】
 難易度:★
 分かりやすさ:★★★★★
 ユニークさ:★★
 お勧め度:★★★★

【感想】
元スターバックスコーヒージャパンのCEOを務めた岩田松雄氏の著書。謙虚な人柄で、実体験を元に書かれているので、非常に説得力がある。企業が利益を追求するのは、もっと大きな目的があるから。金のために働くだけではなく、もっと大きなビジョンのために働くことの素晴らしさを教えてくれる。

社員が自主的に働くためには、ミッション、原理原則を徹底して、権限委譲をすること。

【要約】

日産自動車の工場にて
「この工場で価値を生み出しているのは、あの火花が散っている瞬間だけ」
火花が散る瞬間、それは価値を生み出すビジネスの本質そのもの。
スターバックスでは、でき上がった最高のコーヒーを、自身を持って笑顔でお渡しする瞬間。

ミッションの浸透
何のために働くのか? どこに向かってビジネスをしているのか? その持続的な問いかけが、従業員ひとりひとりに深く染み渡り、終わりのない努力を続けているからこそ、他社との「違い」を生み出し、一流に見える。

何のために利益を出さないといけないのか?
それは企業が永続して、自分たちのミッションを達成し続けるため
利益は手段であって、最終目的ではない。
なのに、利益を追いかけることだけがやがて目的化してしまう。

ハワード・ビーハー
「私たちは人々のお腹を満たしているのではない。心を満たしているのだ

お客様は、心を動かされることそのものに対して、喜んで代金を払っている

企業の目的は、株主価値の最大化か?
企業は、世の中をよくするためにある。

ミッションが重要
ミッションさえしっかりしていれば、良いビジョンが描け、強いパッションは自然と湧き上がってくる。

社員を大切にしない企業は、けっしてブランドには成り得ないし、ミッションの実現はできない。
待遇改善をある程度までやることで、社員たちは自分がその会社で成長している実感を持つことができ、結果的に離職率を大きく下げることができる。

スターバックスの原則
Just Say Yes!
「道徳、法律、倫理に反しない限り、お客様が喜んでくださることは、何でもして差し上げる」
「イエスが一番強力な言葉だ。イエスは自由と感動だ。イエスは許しだ。自分と他人に夢見るチャンスを与えることだ。イエスと言えば心が豊かになる」(ハワード・ビーハー)

70時間の新人教育時間
ミッションを徹底教育したあとは、権限委譲(エンパワメント)をして、その実現のための自主性と創造性を発揮してもらうこと。
「何をやりなさい」ではなく、「なぜそれをやるのかを考えなさい」というスタンスを貫く。

与えられたミッションは、自分の中で議論し、咀嚼して、初めて自分のものになる。本社や本部、リーダーは、考えるスタッフを育て、彼らが現場で判断したことを全力でサポートしなければならない。

ミッションの大切さ
1. すべてのケースを事前に想定してマニュアルを作成することは到底不可能。「想定外」のときにむしろ重要なのは、原理原則である。
2. 集まる人は様々な価値観を持っている。みんなを同じ方向に向かわせるには、目印となる明確なゴールが必要。
3. ミッションに共鳴する人たちが入社してくる。
4. 社員のモラルが高まり離職率が減る。

お客様の満足は、決して値引きの絶対的な幅が決定づけるわけではない。
値下げしたのにお客様を繋ぎ止められないとするならば、一体何のために値下げをするのか。誰も幸せにしない無益な戦い。

社会貢献
スターバックスは人々の心を豊かにするために利益を稼ぎ、ザ・ボディショップは社会変革のために利益を稼いでいる。利益を稼いでしまったからいくらかは還元しなければならないという発想とは、根本的に違う。

ミッションを作る7つのヒント
1. 働き方ではなく、働く目的を考える。
2. 自分、ミッション、会社は三位一体で成長する
3. 「私」を無くす
4. 3つの輪は何か考える
 情熱を持って取り組めること→好きなこと
 世界一になれること→得意なこと
 経済的原動力になるもの→何か人のためになること
 この3つが重なる部分
5. ミッション探し、自分探しの旅はずっと続く
6. 自分の存在を肯定する
 一人ひとりに、この世に生まれてきた意味がきっとある。
7. 「自分はまだまだ」の気持ちが成長を加速する

自分のミッションを構築すれば、現在のポジションやポストを、ミッションを実現するためのあくまで手段にすぎないという見方ができるようになる。その逆はダメ。高いポジションやポストにつくこと自体をミッションにしては、その地位にしがみつこうと余力をなくしてしまう。

火花散らすリーダーの8つの習慣
1. リーダーは御用聞きと心得る
2. リーダーにしかできないことをする
3. ラブレターのようにマネジメントレターを書く
4. 背景と意義を必ず説明する
5. 褒めるときはみんなの前で、注意するときは個別に
6. 会議や朝礼では「いい話」から入る
7. 結果ではなく過程を褒める
8. 補欠の気持ちを理解する

面接で人を見抜く方法
「あなたが今までの人生の中で一番光り輝いていたのは、どのようなときですか?」
その人が最もその人らしい火花が散った瞬間。

社員が、宝くじで3億円当たったあとでも働き続けたいと思う会社を作りたい!

時間を有効活用する7つのポイント
1. 時間の記録をつける
2. 切り替え時間を早くする
3. 細切れの時間はインプットにあてる
4. まとまった「考えごと」の時間を作る
5. スケジュールの刻み方をパターン化する
6. どんなに多忙でも、睡眠時間・リズムは常に一定
7. 会議は2時間以内と決める

 

 

【タイトル】 グレース&グリット(下)
【著者】 ケン・ウィルバー

 

上巻の続き)

 

 

【感想】

上巻の感想に書いたが、トレヤが癌の治療をしていく中で、西洋医学の限界から、ヒーラーや心霊治療家に頼るくだりがある。理論派であるウィルバーにとっては懐疑の目を向けるのだが、その背景にある考え方や向き合い方は参考になる。また、病気は、自分の責任、罰だという考え方が古今東西、今でも幅を利かせているが、それは結局、人間のコントロールに対する幻想、そして、恐れから来ていることを指摘する。「自分の現実は自分が作り出している」というニューソート的な思想に対する強烈な批判も述べられている。

人生における矛盾、受容とコントロール、陰と陽の二項対立、病気や死を受け入れることと生に向かって闘うこと、それが本書のタイトルであるグレース(恩寵)とグリット(勇気)として、トレヤの闘病生活から死に至るまでの過程の中で強く表現されている。

 

【引用】

 

浅薄な理論

[ウィルバー]ヒーラとか心霊治療家は、自分が何をしているのか、あるいはそれをどうやって行っているのか、必ずしも正確には理解していないんだ。それでも、その治療はときどき効いたりする。だから彼らは、自分のしていることを説明する物語や理論をこしらえようとする。エネルギーが存在していて、それが時には、とてもうまく作用することも、本当だと思うよ。でもその物語とか理論は信用できないんだ。彼らのしていること、そしてそれについて話す事柄について、信じることができないのさ。そういう話は、得てして非常に奇妙なもので、大抵は物理学から借用した浅薄な理論を後ろ盾にしている。

治療法の採用
もしある特定の治療法に疑いを抱いているなら、相手がその治療法を採用するかどうか迷っている間に、その疑いを表明すべきだ。それが誠実かつ有益な態度だから。でも相手がその治療法をやると決心したなら、懐疑的な態度を棚上げして、それを完全に隠さないといけない。この段階で懐疑心を出すのは致命的で不誠実、そして有害な行為だ。

病気の責任
[トレヤ] 罪の意識のせいで、病気との上手な関係や、健康や生活の質の向上を目指す前向きな気持が損なわれるかもしれない。
「病気の責任」という問題は、慎重に取り扱わなければならないのだ。だからこそ、原因の判定に際しては慎重を期し、病気になったのはあなたの無意識に原因があるなどと言わないようにすることが大切なのだ。そんなことを言われたって、無意識的あるいは潜在意識的な動機を否定するのは難しいのだから。そんなレベルでみんなにわたしの病気をあれこれ理屈づけられると、暴行されているみたいな気持ちになるし、時には全く絶望的な気分になる。

[トレヤ]
私は病気を患う人々に対して、より共感を持つようになり、彼らの心を踏みにじらないよう敬意を払い、彼らに接するときも、より優しくするようになった。そして、自分の考えを述べる際には、より控えめにするようになった。私が病気の原因についてあれこれ仮説を立てるその背後には、明らかに非難の心があること、そして、そのより深いところには、自分ではわからない恐れが潜んでいることを理解し始めた。「あなたのお世話をしましょう。何か私にできることはありますか?」というかわりに、私は本当はこう言っていたのだ。「あなたはどんな悪いことをしたのか? どこで間違えたの? どんなふうにしくじったの?」と。そして、それは必然的に、こう言っていたことになる。「どうやって自分の身を守ろうかしら?」と。
私は自分を突き動かしている恐怖ー無自覚の、隠れた恐怖を理解した。その恐怖のために私は、病気になった原因を納得させてくれ、世界には自分でコントロールできる秩序があることを示してくれるような物語を考え出さずにはいられないのだ。

人を助ける方法として、私が見つけることができたのは、相手の話を聞くということだけだった。彼らが話そうとしていることに耳を傾けているときだけ、私は彼らが何を必要としているのか、現在どんな問題に直面しているのか、今このとき、何が本当に助けになるのか、感じることができた。

わたしが学んだのは、誰か他の人の立場に立ったとき自分がどんな決断をするのかは決して予測できない、ということだった。そう知ったことで、わたしは他人の選択に対して、純粋な手助けができるような気がした。
「私ならあなたとは違う治療法を選んでいたでしょうけど、でも、そんなことはどうでもいいのよ」。彼女は、明らかに私が人生で最大の困難を迎えていたときに、意見の相違で私をあげつらうようなことはしなかった。

自分が自分の現実を作り出すという考え方
「自分が自分の現実を作り出す」というような単純な声明がそのまま真実になるには、生きるということは驚くほど複雑でありすぎる。自分で自分の現実をコントロールしたり作り出している、とする信念は、豊かで、複雑で、神秘的で、支え合っている人生の網目から自分を引き剥がそうとするものに他ならない。それはコントロールの名のもとに、私や私達一人ひとりを日々養ってくれている、関係性という名の網目を否定しようとするものなのだ。
自分で自分の現実を作り出している、つまり病気は自分のせいだという考え方は、人間はより大きな力のなすがままであるとか、病気は外的要因のみによって生ずるという信念を修正するものとして、重要だし、必要でもあるだろう。しかし、それでもこの考え方は行き過ぎだと思う。過度の単純化に基づく過剰反応だ。

私たちは自分の現実に影響を及ぼす、といったほうがより正解だ。

たとえば「あなたはどういう方法で、このがんを役立てようとしていますか?」こう聞かれたなら、私はワクワクしてくる。自分に今何ができるかを見つめる助けになるし、力づけられ、支えられ、肯定的な意味で挑戦されているような気分にさせてくれるからだ。

病気の原因追求
[ウィルバー] いかなる病気においても、それが身体、感情、心、霊のどのレベルからもっぱら生じたのかを突き止めようとすることが極めて重要である(複数のレベルから生じている場合もある)。
主たる治療は、病気と「同じレベル」のものを用いることが肝要である。すなわち身体の病気には物理的な手段で、感情的な障害には感情的セラピーで、霊的な危機には霊的な方法で対処する、等々。病気の原因が複数のレベルにある場合は、該当する諸レベルの療法を共に用いる。
もし病気のレベルを誤って実際より高次のものと判断してしまった場合、罪の意識が生じることになり、また、より低次のものと誤診してしまった場合、絶望感が生じてくるからだ。
視覚化とは心的レベルの技術であり、骨折という身体レベルの問題には効果がない。それに、もしまわりの人たちから「あなたの想念がこの事故を起こしたのだ。だから自分の想念で足を治すことができるはずだ」と言われたりしたら、そのせいであなたは罪悪感を覚え、自分を責め、自分を低く評価してしまうだろう。それは完全にレベルと治療法を間違えた結果なのだ。
どんな病気の治療であっても、一般的には一番下のレベルから上に上がっていくように処置するのがいい。はじめは身体的な原因を探る。このことがなぜそんなに重要なのかというと、現在では身体的あるいは遺伝的原因とみなされているものの、かつてはずっと霊的あるいは心理的な原因があると思われてきた病気が、数多く存在しているからだ。こうした概念は、病に苦しむ犠牲者たちに、じわじわと罪の意識を染み込ませるものだった。

深淵な心の変化を遂げる人もいるだろうが、だからといって、彼らに心の変化がなかったから病気にかかったのだ、ということにはならない。それは、発熱したときアスピリンを服用すれば熱は下がる、だから発熱したのはアスピリンが足りなかったからだ、と言うようなものだ。

ニュー・ソートの流派ーなかでも最も有名なのはクリスチャン・サイエンスーは、「神が万物を創られた」という概念を、「わたしは神と一体である以上、わたしが万物を創った」と曲解しているのだ。
こうした姿勢には二つの間違いがあるとぼくは思う。一つは、を、公正無私なリアリティ、真如、純粋存在としてではなく、世界に対する干渉的な親として捉えている点。そしてもうひとつは、その親のような神と自我が一体であるがゆえに、世界全体に介入し、秩序を作り出すことができるとする点である。ぼくの知る限り、こんな考え方を支持するような意見は、神秘主義の伝統の中には全く見当たらない。

ぼくの念頭にあるのは、ニューエイジ運動の全国的指導者とか、「あなたの想念が現実を作る」といったセミナーを開いている人たちだ。彼らは善意の人であるかもしれないが、にも関わらず危険人物だ。なぜなら、彼らは、必死の働きかけが必要な本当のレベルから、人々の注意をそらしてしまうからだ。
これらの信念ーとりわけ自分が自分の現実を作っているという信念ーはレベル2のものだ。そこには自己愛的人格障害に特有の小児的かつ魔術的な世界観のすべての特徴(誇張、万能感、ナルシシズムなど)が含まれている。思考が現実に影響を与えるだけでなく現実を作り出すという概念は、自我の境界線が完全にできあがっていないことの、直接の結果だとぼくは思う。

そこには確かに、真の神秘主義的、トランスパーソナル的原理に基づいている側面もある。ただ問題なのは、真の超個的な運動は常に、非常に多くの前個的要素を惹きつけるということだ。理由は簡単で、どちらも非個人的だからだ。この「超」と「個」との混乱こそが、ニューエイジ運動における主要な問題点の一つだとぼくは思っている。
自分たちには「高次の」状態の後ろ盾があるのだ、と。だがぼくは残念ながらこう結論付けざるを得ない。彼らのしていることは、自分たちの利己的な態度の正当化なのだ、と。ジャック・イングラーが指摘したように、彼らがトランスパーソナル的な神秘主義に惹きつけられているのは、それが前個的な傾向を正当化する方法だからなのだ。
ニューエイジ運動のおよそ20%はトランスパーソナル的だが、残り80%は前個的である。トランスパーソナル的な集団を探すには、その集団が「ニューエイジ」と呼ばれることを好まないことを目安にすればいい。トランスパーソナルに「新しい」ことなど何もない。トランスパーソナルは永遠のものだから


[トレヤ]
最善を信じるという自然な気持ちが、ポジティブ・シンキング運動の影響を受けてかなり極端なものになってしまっているということだ。この思想運動では、ガンはすっかりなくなったと思いこむことに意識を集中し、完璧な確信とともに「わたしは健康だ」と唱え、入院している自分の将来の姿だとか、どこかにまだガンがひそんでいるかもしれない、といった迷いはすっかり頭の中から締め出さなくてはならない。なぜなら、そういった否定的な想念は、それを現実化する魔術的な力を持っているからだという。
友人や家族たちは、ガン患者の抱く恐怖は非現実的なものではなく、単なる否定的思考でもない、ということを忘れるべきではない。そうした恐怖があっても、それとうまく付き合っていくことは可能だ。というのも、多くの場合、この恐れは肯定的なものとなりうるからだ。恐れは、それに耳を傾け、取り組むべきものであり、単純に否定すべきものではない。

怠け心や、人と同じ生活に戻りたいという欲望は、自分の選択した治療に対する疑問不信から生まれてくるのだ。そうした疑問や不信は、新しい治療を推薦されたり、友人から新しい治療の話を聞いたり、最新の研究成果がわかったりするたびに必然的に沸き起こってくるものだ。

[ウィルバー]
今このときに生きていることが、ぼくにはとても幸福だった。ある意味では、自分の前に果てしなく続く時間を感じていたときーそれによって自分の幸せを薄め、今ここに集中するのではなく、その幸せを人生全体に広げようとしていたときーよりもずっと幸福だった。これは、日々を死とともに生きるトレヤから教わったことだった。
トレヤは現在に生きることによって、未来をあてにして生きるのを拒むことによって、まさに死を自覚して生きるようになったのだ。死とは、実際、未来を持たない状態だ。あたかも自分に未来がないかのように、現在に生きることによって、彼女は死を無視するのではなく、死を生きていたのだ。
といっても、ぼくたちは、あきらめようとしているわけでもなかった。あきらめることもまた、未来を志向した行為であり、現在を志向するものではない。

[トレヤ]
ガンだろうと風邪だろうと・・・その決定的要因が何かを、誰が自信を持って言えるだろう? こうした状況に関して「真実」など知りえない。そのことを常にわきまえていること。これがわたしの基本的スタンスだ。わたしの流儀は治療「理論」を盲目的に信じるのではなく、ゆとりを持って取り組むこと、いつも物事を軽く考え、ある種の説明は別の説明より自分にピッタリ来ることに気づくこと、こうして楽しんだり、時には自分で物語を無理やり作り上げたりしながらも、「真実」は知り得ないということを忘れないでいることなのだ。


人生においてはさまざまな難題が生じ、それらは自分の選択の結果であったり、人生の気まぐれ、偶然、遺伝、あるいは過去世に起因するものであったりする。そのことを認識しつつ、そうした難題に応える(response)能力(ability)があるという意味において、わたしには責任(responsibility)があると思う。

[ウィルバー]
善対悪、快楽対苦痛、健康対病気、生対死の二元論にとらわれているかぎり、われわれは顕現物の全てとの非二元的な至上の一体性から、「同じ一つの味わい」をもつ全宇宙との一体性から締め出されているのだ。ラマナは、自分の苦しみ、病、痛みと仲良くなることによってのみ、生の犠牲者ではなく公平な<観照者>にして源である、<万物><真我>との、より広大でより包括的な同一化を果たすことができる、と述べている。そして、とりわけ死を友とすれば、死が究極の師になる、と。

[トレヤ]
情熱的な無執着
生活のあらゆる側面でも、霊性とのつながりにおいても、完全に情熱的であること。それは自分という存在を、執着の対象にしたり、しがみついたりすることなく、深く愛することだ。

[ウィルバー]
支援グループでは、人々はたくさんの憎悪をぶちまけますが、その理由はただひとつ、その憎悪の下に、たくさんの愛、飢餓状態にある愛が隠れているからなのです。介護者としての困難な状況の中で、いかにして愛し思いやりを持つか、思い出せなくなっているのです。

「正直は最高の方策」と信じていて、夫婦や恋人は二人を悩ませる問題についてどんな些細な事でも話し合うべきだと思いこんでいます。でもこれはまずいやり方です。隠し事をしないということは大切だし、有益なことですが、ただしある程度までです。ときにはそうしたあけすけな態度が武器になり、相手を傷つける意地の悪い手段になります。
こうした感情を相手と「分かち合う」わけにはいかず、相手にぶつけるわけにもいきません。セラピストにお金を払い、感情をぶつける相手になってもらうことです。

有能な介護者となるためにぼくが学んだ最も奇妙なことは、自分の第一の務めは、感情を吸い取るスポンジになることだ、ということです。...相手を優しく抱きかかえ、そうした感情をできるだけ吸い取ってあげることです。相手に何か言ったり、話し合う必要はありません(話して助けになることなど、本当はなにもないのです)。アドバイスする必要もないし(どっちみち役に立たないでしょうから)、何かをする必要もありません。ただ、そばにいて、相手の苦悩や恐怖、痛みを吸い取ればいいのです。

愛する人が恐ろしい知らせを受け取ったとき、介護者はまず最初に相手の気持を楽にしようと反応します。でもこれは、一般的に言えば、間違った反応です。まずは、相手に感情移入することです。肝心なことは、ただその人と一緒にいて、相手の恐れや苦悩、怒りなどを恐れずに、どんな感情も出てくるままにさせてやることです。何よりも、相手を助けようとか、「気分を楽に」してやろうとか、相手の不安を「説き伏せて、鎮めよう」とかして、こうした苦痛に満ちた感情を取り除こうとしてはなりません。こうした「助けよう」とする姿勢は、トレヤや僕自身の感情とあまり関わりたくないときにだけ現れてきました。未知の世界に直面して、無力になった自分を認めたくなかったのです。

気づきを訓練することはできる。というのも、忘れやすさということが存在しているからである。だが、自覚を訓練することはできない。というのも、存在するのは自覚=意識だけだからである。気づきの訓練では、今この瞬間に注意を払う。つまり「今、ここにいる」よう努力する。だが、純粋な自覚は、それについて何か試みようとする前の、今現在の意識状態である。

神秘家はこう言うのです。無選択の自覚をもって生きていく限り、この世で行う行為は自我や利己心のない行為になる、と。もし分離した自己感覚に対して死のう(あるいは超えよう)と思うのなら、自己中心的、利己的な行為に対して死ぬ必要があります。言い換えれば、神秘家の言う「無我の奉仕」をしなければならないのです。自分という思いや、称賛されることを考えずに、他者に奉仕しなければなりません。ただ愛し、奉仕する。
自分の介護者としての仕事を、次第に無我の奉仕の主要な部分とみなすようになり、したがって、それがぼくの霊的成長にとって大切なのだとわかってきました。それは一種の行動を通じた瞑想であり、慈悲でもあります。

魂の免疫系
このヒーラーの言ったことは、真実かもしれません。それはわたしにはわかりませんが、それでも彼女が選択したコミュニケーションの仕方は、相手が洞察力を得る上で助けになるよりは、自分の力と正義の方を大切にしていることを、明確に示しています。

わたしたちに必要なのは、「罪悪感や罪を手放し、非難や自分が過ちを犯したという思いから自由になることだ。訂正されるべき問題を探し回るのをやめ、育むことのできる智慧を見出しなさい・・・・・。他者の中にある恐れと恐れのない状態の両方を認識して、他者が自らの恐れに気づき、恐れのない状態を見つけ出す手伝いをすること。これが慈悲である」と

[トレヤ]
これらが多くの人たちにとって有益な場合もあることは、十分承知しています。ですが、これらのワークショップについての報告や批判もいくつか表面化しています。それらはこんなふうに言っているのです。こうしたワークショップは、慈悲を基盤としたものではなく、時には強圧的な態度をとるため、ある種の人たちにとっては有害である、と。
けれども、こうしたさまざまな可能性が錯綜する迷路の中で、それらの多くが証明されていない状況にあっては、わたしは常に一つのことに戻ってくるのです。つまり、物理的な治療であれ、心理的ワークであれ、何かを選ぶときには、自分自身を信じて決断を下し、他人の好みを強制されたり、過度に影響されたりすることがあってはならない、ということです。わたしはみんなが、「いいえ、それはわたし向きじゃないわ」とか「いいえ、あなたはわたしのセラピストじゃないわよ」などと言えるだけの力を持てるよう手助けをしたいのです。そして、そうした決断のたびに、この決断には自分でもわからない抵抗がひそんでいるんではないかと恐れたりしないように助けたいのです。
とにかく自分自身に耳を傾け、自分自身の最良のアドバイスを手に入れるのです!
 

[ウィルバー]
ぼくは彼女の日記を取り、ペンと一緒に彼女に渡した。彼女は、大きなきれいな字で日記を書き留めた。
「必要なのは、恩寵グレース)とーーそう、勇気グリット)!」
これは彼女の人生全体を要約する言葉だーー恩寵と勇気。「あること」と「すること」。平静さ情熱明け渡し意志。完全なる受容と猛烈な決意。こうした魂の二つの側面、彼女が全人生をかけて闘い取り、そしてついに一つの調和した全体性に統合することができた、この2つの側面ーーこれが、彼女が後に残そうとした最後のメッセージだった。

解放されたのはぼくのほうなのだ。彼女に尽くすという簡単な方法で。
そうなのだ。だからこそ彼女は、あんなに何度も、自分を見つけ出すと約束して、とぼくに頼んだのだ。彼女が見つけ出してもらうことを必要としていたのではない。むしろ、彼女に対するぼくの約束を通して、彼女のほうがぼくを見つけ出し、そしてぼくを助けてくれるのだ。何度でも何度でも、永遠に。ぼくは全部、逆に考えていた。ぼくはその約束が彼女を助けるのだと思っていたが、実のところ、その約束は、彼女がぼくを救うために、ぼくのもとにやってくる方法だったのだ。ぼくが目覚め、認識し、<大いなる霊>を理解するまで、何度でも、永遠に、同じことを繰り返してくれるだろう。彼女はそのことをあれほどはっきりと告げるために、やってきたのだった。
ぼくとトレヤとの約束、彼女が何度も確認した唯一の約束、もう一度彼女を探し出すという約束は、本当はぼくが自分の中の悟った<心>を見つけ出す、という約束なのだ。