世の中では、メンタルの重要性がしばしば語られ、メンタルが強いとか弱いとか、どうしたら強くなれるかとか言われる。一般的には、意志を強く持つなどの根性論が多い。
一方、NLPでは表象というものをコントロールする。メンタルが強いと言われている人をモデリングし、その内部表象がどうなっているのかを見る。
一般の人は、コンテンツ(内容)に目を向ける。そして行き詰まりになる。
NLPでは、背景、コンテキスト(文脈)、メタレベルに目を向ける。そこに、魔術の仕組みが隠されている。コンテキストを変えることで、容易にメンタルをコントロールできる。見ている視点が違うのだ。そのコンテキストは、無意識で動いている。
たとえるならば、大きな岩を動かす際に、普通のアプローチでは正面から素手で押して自分が持っている力で何とかしようとする。NLPでは、てこの原理を使って、最小限の力で動かす。
● NLPのワークはすべてリフレーミング
アインシュタイン
The problems that exist in the world today cannot be solved by the level of thinking that created them.
(問題は、その問題をつくったときと同じレベルで解決することはできない。)
NLPでは、視点を変えることを重要視する。観点が切り替わって、思考が解放され、感情が変わる。一般に「気づき」を得る、と言われるが、それを促すのが、リフレーミングだ。問題は同じ視点からでは解決できない。別の視点から眺める。
根底にあるのは、NLPの18の前提の一つ、
「地図は領域ではない(Map is not territory)」
である。
我々は物事を見る際、内面の地図(世界観、信念、フレーム)に基づいて解釈する。しかし、どんな地図も限界があって、領域そのものではない。別の地図で(別の視点から)見れば、別の解釈になる。フレームとは、状況、文脈、背景を設定するもので、人はフレームを設定することで「意味」を作り出す。逆にフレームがなければ、物事の「意味」は識別できない。ただ物事がそのままあるだけになる。
メタモデルは、内面の地図を暴き出し、我々が現実を直接見ているのではなく、地図を通して現実を見ていることを認識させる。リフレーミングはその地図を差し替える。
他のNLPの前提も別の観点をもたらすことになる。例えば、「失敗はない。フィードバックがあるだけ」というのがあるが、これは、失敗というフレームから、フィードバックというフレームに切り替えて物事を見るということである。
アソシエイト、ディソシエイトもリフレーミングであり、サブモダリティの変更もリフレーミングである。NLPはモデリングによって生まれたが、モデリングするにはメタの視点に立つ必要があるのでフレームを変える必要がある。
以下のワークもすべて、フレームを変えることになる。
・ポジションチェンジ
・タイムライン
・モデリング
・ディズニーストラテジー
・リフレーミング
・AS IF
・マッピングアクロス
・メタモデル
・肯定的意図
ミルトン言語も、スライトオブマウスも、視点を一方に向けることでシフトする。
意図に目を向けるのも、行動そのものではなく、意図を見るというリフレームになる。上位目的にシフトすれば、代替案を見つけ、手段を変えることはできる。
サブモダリティの変更も、フレームを変更することになり、無意識的に行っていることを意識化し、印象を容易に変えることができる。
アンカリングも、ステートは固定されたものではなく、偶然あるいは恣意の刺激-反応に過ぎないという観点によるリフレームである。
フィジオロジーを変えるのも、コンテンツに没頭している状態から、体の動作による影響をつかって視点を変えて、ステートを変える。
目からうろこ。「え、こんなことでいいんだ」という感想を持つ。魔法が現れる点でもある。
NLPのワークすべてをリフレームという観点から見ると、より柔軟性が増し、効果を出すことができるようになる。フレームを操作できる者が自由を得る。
● コンテキストが盲点
中国の逸話に、次のようなものがある。
あるとき、王が部下を引き連れて、「私を強制的に山に登らせる方法があるか」と問うた。武将たちは、火攻めや水攻めなどを述べた。だが王はいずれの答えにも満足しなかった。そして黙っていた智将に尋ねた。その智将曰く、「無理やり山に登らせる方法はありませんが、山から下りさせる方法はあります」と答え、「ぜひ試してみましょう」と言った。王が同意して、山に登ると、その智将は言った。「たった今、王様が山に登られたことがお分かりでしょうか」
この逸話はこの智将の賢さ以上に、多くのことを示唆してくれる。王は山に登ることがトリックだということに気づかなかった。山から下りる課題にすり替えられても、それが罠だとは思わずに話の前提として受け入れてしまったのだ。相手を無理なく操作するには、相手に気づかれずにコンテキストを操作するということである。ここが盲点であり、相手が真実と受け入れている点に働きかけるのである。巧妙な詐欺師は、相手の弱点を付く。相手は検討する間もなく動く。
相手が警戒していても盲点がある。「私は騙されない」と思っていても、その私が盲点なのだ。手品は、そこを突く。観衆がコンテンツに注目している間に、こっそりとコンテキストを切り替える。
● 問題意識自体が問題
何かが問題だというとき、それそのものが問題なのではなく、それを「問題だ」と思う意識が問題を作っていることが多い。問題がないところに問題があると思い込む。そもそも問題の本質などない。これが心理的な問題の特徴である。
怒りが起きたとき、これを何とかしなければいけないと思う。何とかしようとすればするほど、怒りはどうにもならなくなる。逆に、怒っていてもいいんだと、思えばやがて静まる。我々は問題がないところに問題を作り出す。鬱でもないのに、自分は鬱だ、ちょっとした憂鬱な気分を、これは大問題だ、うつ病だと思えば、本当にうつ病になってしまうだろう。
こういうのは、厳格な倫理や宗教自体が手を貸している。
そもそもの設問の仕方が間違っていたりするのだ。
あたかもそれは、まるで蜃気楼を追い求めているようなもの。初めから存在しないことがわかれば、解決も不要となる。
コンテンツにアクセスしているから問題が解けない。コンテンツを支えているコンテキストに目を向ければ、あっさりと問題が解決する。
● マインドフルネスの問題
マインドフルネスの教科書で、怒りに気づけば、怒りが静まる、などと書かれている。
が、実際にはうまく行くときと行かないとき、半々である。むしろ、「怒り」とラベリングしたところで効果はなく、怒りは収まるどころかどんどん膨れ上がっていくこともある。
すでに怒りが表面化したのでは、当然自分が怒っていることに気づいているのだから、「怒り」とラベリングしたところで、同じ視点から見ているだけなので何の効果もない。精神病も、そういうレッテルを貼ることで深刻化する。
ラベリングが効果があるのは、まだ表面化する前の段階で「気づき」があった場合である。コンテンツとなってしまったらすでに遅いのだ。気づきは重要だが、気づくポイントが間違っている。気づいていないことに気づくことは意味があるが、すでに気づいていることに、新たに気づきを入れても意味はない。それは、すでに自身の欠点に気づいている人に、欠点を指摘するようなもので、その人にとっては「気づき」はなく、怒り・不満・苛立ち・反感を招くだけだ。
そんなときには、コンテンツではなく、コンテキストに目を向ける。コンテキストは、コンテンツを裏から支えているものだ。それを直視すれば、コンテンツを支えるものが崩れ、コンテンツは消えていく。
マインドフルネスのポイントは、コンテンツにどっぷり浸かっている状況から、コンテキストに意識を向けることである。
怒りの例で言えば、すでに「怒り」が表面化しているなら、背景にある思い、コンテキストは怒りではなく、「怒り」を何とか収めたい、隠したい、早く消し去りたい、という思いである。こういう焦り、抑圧、執着が「怒り」をかえって燃え上がらせる。逆説的に「怒ってもいいんだ」と思えば、怒りは静まる。怒りやすい人、いつも怒っている人は、その現象とは裏腹に、怒りを何とかしようと思っているのである。
ACT療法で「感情の居場所を作るように」というのは、感情に抵抗せず、そのままにしておくということ。つまり、「感情を何とかしたい」という思い、コンテキストに目を向けることになる。
コンテンツは過去=確定したものであり、コンテキストは現在動いているものだ。だが、人は、コンテンツばかりが見えてしまい、コンテキストは盲点となっている。
● 「見ているもの」に注意
ホールネス・ワークでは、コンテンツから切り離す際、それを「見ている者」「掴んでいる者」に注意を向ける。そこが盲点になっている。「見ている者」には、前提、想定、ビリーフ、地図が隠されている。視点を切り替えるというとき、「誰が見ているのか」を意識する。
● 前提を見つける方法
背景、前提、コンテキストを見つけるには、まず、今起きていることに気づくことである。感覚、思考、体感覚、感情、状態など、特に感情的な感覚を刺激する思考に気づく。
そして、それを見ている自分に気づくことである。ここで、マインドフルネス、ホールネスが役立つが、ビリーフを直接見つけようとするのもありだ。「○○でなければならない」と考えている者、自分をとある方向に持っていこうとする者を見つけること。
見つけたら自然と解放される場合もあるが、されない場合、さらに気づいている自分に気づくこと、見ている自分の連鎖をたどっていく、肯定的意図を探っていくなどがある。
● 人とのコミュニケーション
人とのコミュニケーションにおいても、言葉は表面に現れているのでよく見える。が、意図や背景にある考え、前提は表には見えない。だから、言葉自体を真に受けて、コミュニケーションが行き詰まることになる。より重要なものは見えないところにある。本当に何を言いたいかは、言葉の中にはない場合もある。むしろ発している言葉の正反対だったりする。
言い争っているコンテンツではなく、背景に感情の問題、本音、尊重されていないこと、などでトラブルが発生している。だからコンテンツを解決しても、解決にならない。責める側は、コンテンツは単に攻撃のための道具に過ぎない。この点は、アドラー心理学の目的論に通じる。
よくあるのが、男女の違いで、男性は問題そのものを解決しようとするが、女性は話を聞いてもらいたいという意図がある。そこで食い違いが起きる。
コンテキストは、前提、無意識にある。無意識は習慣化され、自動的に動く。
コンテンツで行き詰ったとき、コンテキストに目を向ける癖をつけよう。本当に重要なものはそこにある。
優れたコミュニケーターは、別の意識を持つ必要があると言われる。これは難易度が高い。コンテンツに注意を払いつつ、コンテキストにも注意を払う。聞くときは、ノンバーバル(非言語)に意識を向け、話すときは、ノンバーバルを使う。
前景よりも背景に、言語よりも非言語に、表現よりも意図に、意識よりも無意識に、実体よりもプロセスに、現象よりも本質を見ていくこと。
構造主義のムーブメントの本質もそこにある。結果よりもプロセスを志向する。
見かけの世界は虚偽にあふれている。
単なる投影に過ぎない。
本質はそこにはない。
●原因側か結果側か
NLPで原因側に立つか結果側に立つか、ということが言われる。原因側に立つというのは、語弊があるが、これまでの議論で言えば、実はコンテキスト重視のことである。結果側に立つというのはコンテンツに囚われていることである。
●原因とコンテキストの違い
ちなみに、もっと言えば、原因とコンテキストは異なる。原因は過去に遡って根本原因を突き止めようとする。コンテキストは今起こっているものを探る。