与三左 | 根多帖別冊 by おしろまん

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絵を描いていますので、そちらをメインにしたいのですが、お城の論考を書いたりしており、城関係がやたらと多いブログとなっています。
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さて昨日行った水生城&宵田城 ここで水生合戦 或いは 宵田表の合戦があったとされます。

そもそもの興味のきっかけは昨年10月の若桜鬼ヶ城でのシンポで語られたお話⇔リンク

 

ひょうごの城紀行 では、水生合戦は観応・永禄・天正と三度にわたって行われたとあります。

図解近畿の城郭Ⅱ宵田城の項では、天正5年の織田方羽柴小一郎による竹田城のあとの天正6年の第二次但馬侵略を指すようです。

このとき、守る毛利方は垣屋豊続(本貫は城崎郡竹野)・古志玄蕃助重信・宇山久信(毛利よりの援軍・旧尼子家)で、攻める垣屋光成・伊藤与三佐衛門尉を打ち破り、伊藤は戦死したといいます。

(山名四天王の垣屋氏が両勢力にいることもこの戦、象徴的ですね。)

 

この伊藤与三左衛門尉はイミナも出自も伝わっておらず。ただこのころ「宵田城督」であったといいます。

「城督」ということばは大友氏の分国支配(ex立花城督=戸次道雪)においてきかれる言葉で、毛利氏も使っていたようです。普通に考えれば「城代」ということでありましょうが、「督」ということばは「最高司令」といった感があります。「城代」よりは更に大きな決定権があるのではないでしょうか。

 

この伊藤クンの「宵田城督」がはたして大友・毛利の顕す「最高司令」であったのかは怪しいですね。織田氏関連では聞かず、毛利氏発給の垣屋文書で使われています。

つまり当事者である伊藤与三左衛門尉が自陣営からこう呼ばれていたことはないのではないかと…。

 

織田軍の但馬侵攻は羽柴筑前が司令官で、小一郎が実務トップ、その下に宮部善祥坊、藤堂与右衛門らがいるわけで、伊藤与三左衛門尉がそれらより上だったのか同格だったのか、あるいはもっと下だったのかは不明。

(追記:但馬国ネットで風土記 によれば 宮部善祥房の家来の伊藤与左右衛門父子=原文ママ

となっております。しかしながらこのなかで戦いは天正八年となっていることから内容を鵜吞みにはできないかと。)

 

小一郎以下羽柴軍が転戦する中、現地に駐留する守備部隊のトップという位置であったのでしょう。その下に垣屋ら在地国衆を置いたのでしょうね。軍法などの違いから配下に加わったばかりの垣屋を「城代」にするわけにもいかなかったのでしょう。また垣屋ら国衆に織田家の軍法を伝授する役割もあったのかもしれません。

上・宵田城のこの食違い虎口土塁も伊藤クンがつくらせたのだろうか

 

ここからは筆者の想像なのですが、藤姓は尾張・美濃あたりに多く羽柴小一郎を主将とした但馬侵攻軍は上記のように近江出身者が多いです。

伊藤与三左衛門尉は、総見院から遣わされた織田家直属の将だったのではないでしょうか。

総見院は各地の城郭統制について結構細かに指示を出していますので、最前線に自らの意図を理解している人物を配置することは大いにあり得ると考えます。

「城督」という、権限が大きい(とおもわれる)ことばが敵側であれ使われたのはそのせいなのではないかと。

 

いずれにせよ、此処を凌いでいれば与三左衛門尉は織田~羽柴氏が天下殿へと駆け上がっていく勢いに乗ってこれから出世する上昇気流に乗れたのでしょうがそうはならず、その矢先に最前線で敗死してしまう。織田軍の幸運と背中合わせの苛烈さを顕現しているといえます。

 

こういった事例は原田備中「羽柴四天王」「別所孫右衛門」でもわかるように数多あったのでしょうなぁ。