いつまでも落ち込んでばかりもいられないので、お城の縄張図でも摂りに行くことにしました。
場所は、兵庫県の小野市…ヤミに行ったことがない、のみならず通ったこともないのではないか。
先日書いた記事のなかで、播磨の城郭統制の中で別所孫衛門の東条城が廃城になって云々・・・というのを書いたが、東条城がどこかわからない。
どうも小野市の東、豊地(といち)城のことであるらしい。
孫右衛門重棟が 『廃城にしたくない』 と専制君主に直接掛け合うくらいだから相応の規模であったのだろう。
まあ城については別にレポを上げるとして…
その専制君主に直談判できるということが凄いと思う…ひょっとするととんでもない大物であったのではないか。
別所大蔵大輔就治の三男として生まれ、兄・安治~その子小三郎長治に仕える。
『播磨灘物語』 などでは兄・山城守賀相が織田軍・羽柴筑前に反抗したとき、その対抗意識だけで羽柴方に附いた…ことになっている。
ところが、孫右衛門は別所家の外交の中心であったと考える人もいるようである。『小野市史』 はこの説を採る。
たとえば天正三年に別所氏が北播磨を制圧した際にはかれが大将となって、貝野城・野間山城・市川(谷城か?)や庄山城を制圧している。
この年は別所・小寺・赤松下野家が織田氏へ臣従のため挨拶に行った年なのでその流れで毛利方の置塩赤松氏等への示威行為かもしれんが、家柄だけの大将では広範囲の軍事行動はできないであろう。
この後天正六年までに一度は播磨の諸家が織田家に靡いたのは別所家のかれが織田方に居たことが大きいのではないか。
官兵衛はこのころ身代も小さく、小説であるような活躍ができたかどうか…。
無論天正十年以降の官兵衛の活躍は疑うべきもないが、それまでのことは以前に書いた神子田半左衛門やかれ・孫右衛門の治績を丸ごと自分のものにしたのではないか。
歴史上の勝者である黒田家が家譜をつくるにあたりそうしたのであろう。よくあることである。
居城の東条城が廃城になったあと、孫右衛門は暫く旗本にいたのであろうか。同時期官兵衛も一万石の封地を与えられたが無城格であった。
その後、天正十五年に但馬八木で一万五千石を与えられ養父郡八木城に居す。
同じ時期官兵衛は宍粟郡三万石となり、その後九州豊前で封を得ている。片や孫右衛門はそのままである。
神子田や尾藤とおなじように過去を知る孫右衛門を羽柴筑前は遠ざけ始めたのではないだろうか。
官兵衛はその功に対して得た領地が少なかった、とよく言われるが・・・もっと酷い人がいたわけだ。