黒田時代豊前石高検証 | 根多帖別冊 by おしろまん

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絵を描いていますので、そちらをメインにしたいのですが、お城の論考を書いたりしており、城関係がやたらと多いブログとなっています。
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 再来年の大河ドラマが 『軍師官兵衛』 と決まって、いろいろなところで “官兵衛” の名前をみるようになった。

 先日も、『yahoo知恵袋』 で、こんなことを言っているひとがいた。

 「官兵衛は石高 (領内の米の取れ高) を過少申告して浮いた分を蓄財し、慶長五年
の風雲時に兵を雇うことができた」

 そのかたが言うには、当時黒田領は12万石あるいは18万石であると公称したが、
ほんとは30万石はあったろうというのである。

 黒田氏のあと慶長五年以降に豊前一国を与えられたのは細川三斎忠興、その石高が
39万9千石であったという。

 これには豊後・国東郡が含まれているため、豊前一国では33万石程であったろうか。
慶長五年以前の豊前は企救・田川二郡6万石が毛利壱岐守領、宇佐郡妙見岳・竜王両城
が大友氏系田原氏領であったので、たしかに黒田領は26万石はあったことになる。

 歴史群像シリーズ 戦国九州軍記 (学研) にも、太閤検地で豊前は35万9千石
(蔵入地1万石) とある。

 ただ、別のところでは、太閤検地時の豊前は14万石と書いてある。 が、これは小倉・
毛利領を入れると少なすぎる…

 よく、黒田如水が太閤から得た報酬は、かれの功績からすると少なすぎる。これはかれを警戒したからだ…という話を聴く。

 しかし、如水と同じく太閤を輔けた 蜂須賀彦衛門正勝 (阿波18万石) 
 前野将右衛門長康 (但馬11万石)・ 浅野弥兵衛長吉 (甲斐22万石)
 と比べてもそう変わらない。
 
 これが26万石だと多い部類に入るのではないか。

根多帖別冊 by えすくおやじ-地図
 黄色の範囲が豊臣期の黒田領 が江戸初期の細川領

 はたして、黒田氏 (如水) は、収入を過少申告し “脱税” をしたのであろうか?

 憶測でしかないが、何通りか仮説を挙げる。

 ① 表高26万石で、軍役12~18万石は太閤公認であった
(如水の労に報いる豊臣政権公認の一部軍役免除) 

 ② 公認ではなかったが、太閤が如水の功績を以て黙認していた

 ③ 知らん顔を決め込んで、ばれなかった  
 
 ④ 黒田領時代に新田開発をした

 ⑤ 家譜あたりが 「黒田家は豊臣政権で不遇だった」 を強調するため石高を低く書いた
   (太閤が如水を恐れた とか、東軍についたことの正当化 とかを言いたいが為に)

 黒田氏は慶長五年の国替えの際、細川家と年貢のことで揉めている。 この年は旧領の収穫はせずに新しい領地で収穫するよう定められていたが、黒田氏は豊前の収穫を済ませて新領へ持っていったので、筑豊国境は一触即発であったという。


 こういうことをしているくらいだから、案外 “しれっ” と誤魔化していたのでは…と、ぼくは思ったりする。

 ご存知の方~教えてくだされ~