根多帖別冊 by えすくおやじ

えすく (=esq&絵好く) おやじです。

絵を描いていますので、そちらをメインにしたいのですが、城関係がやたらと多いブログとなっています。
お読みいただければ幸いでございます、そして・・・

ブログ内容に即した、皆様の素敵なコメント募集中でございます~


テーマ:

繁忙日だげんじょ休みを貰って行ってきました。

姫路市民セミナー『近世甲賀の起点-水口岡山城から水口城へ-』

甲賀郡は、織豊期羽柴孫七郎の支城が水口岡山城に築かれたことで始まり、増田右衛門、長束大藏と奉行衆が城主を務める。

 

その間、主郭の東西に天守相当の櫓があったことや、主要部が現存しているより多くの石垣があったことが発掘調査でわかったとのこと。

15-01-10_001.jpg

慶長五年戦役のあと廃城になる。

そのあと宿場町の西に将軍宿舎としての水口城が築かれ、それに伴い宿場町も変遷していった。

 

ということ。

 

質疑応答では相変わらず

「石田佐吉は水口にいたのではないか」等の伝承を尋ねる方がいて苦笑でした。

 

AD
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
最近の画像つき記事  もっと見る >>

テーマ:

以前こんな記事を書いた

 同じような話が全国に伝わっていることに疑問を抱いたのはぼくだけではなかった。

 

 その一人、高木敏雄氏が大正2年に「城址伝説及び長者伝説」を採録している。

 また偉大な民俗学者である柳田国男氏は、戦国期の山城に精米した (水に見える) 白米が貯蔵されているのか等矛盾点を見出し調査し、大正5年「白米城の話」を発表した。

 

 それらを紹介した、こんな本が出ていることをおききした。兵庫県赤穂郡上郡町の0先生より。

「白米城伝説」『歴史読本特別増刊・辞典シリーズ第16号』 1992 新人物往来社

 

 それによると、これらの話は

 なにかムラに不思議なこと(有力者の病気とか旱魃)があると、その原因や対処を旅の宗教者に訊ねたこと。

 その際、その宗教者は自らの教団に伝わる伝承 (白米伝説、水の手の曝露、竹の皮を敷き詰めた等) を土地の城址 (実地検分などしたのであろうか) や伝わる軍記などを織り交ぜてさも見てきたようにかったったのではないか。

 

たとえばこうだ。

 江戸時代後期、フネヒラ村に旱魃 (ムラオサの子が病気 とかでもいいだろう) がおきた。

隣村あるいは隣国とかでもあるかもしれない、に霊験灼かなお坊さんいるという評判を聞き、わざわざ来てもらう。 ここが偶々通りがかった僧とかだと俄然八百長っぽくなる。

 僧曰く 「この村の裏山にある野乃台城が薩摩軍に攻められたとき、水が尽きてしまい白米で水が潤沢であると偽装した。ところがムラの老婆がそのことをバラし、そのため城は陥ちた。城跡から出てきた焼けた米がその証拠。今回のことはその祟りであろう。祈祷 (雨乞い) するゆえ祈祷料を・・・」

 

全国に同じような伝承が伝わる理由がこれで説明がつく。P1000052~001.jpg

ちなみにフネヒラ村の野乃台城にはそんな話はありませんのであしからず。

 

AD
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

テーマ:

丹波・桑田郡の猪倉城は、比高20mほどの低い丘陵に横堀と土塁が廻る、たいへん見応えのある城です。

 

土塁が角ばった塁線で、さも横矢掛けしたようにみると、織豊の技術導入と思っても仕方ないでしょう。

 

実際に京都府中世城館調査報告書の図にはそのように書かれています。(ただ図面がそうであるだけで、本文では織豊系城郭であるとは書かれていない)

 

しかし、ぼくが図を摂った限りでは、これは自然地形にあわせて横堀、土塁、切岸を造成した結果のように見ました。土塁も厚みがあり均一の幅でないことも気になりました。

 

それが大和に多い横堀の城 (たとえば山辺郡の豊田城) によく似ている気がしたのです。

 

また、この城から呼指の間に、滝ヶ嶺城があります。 左手前が猪倉城・右奥が滝ヶ嶺城

どちらが織豊系かと言えば滝ヶ嶺城のほうでしょうし、この距離で明知の城二城並立は無いのではないかと考えます。

 

是非実際見た方と議論をしたい、おもしろいお城です。

AD
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

テーマ:

この日、どうしようかと迷いつつ、結局丹波へ。

まずは二回目の船井郡八木城へ。

中腹の御対面屋敷で図面を取ろうと準備したが、シャーペンから芯が出ない。

今日の教訓:予備の筆記具は持っておくベシ。

城域西の烏嶽、西北端に堀切があり石垣があるのはきいてましたが、ハツってありますね。

烏嶽の南西端の堀切に面した斜面にも石垣があるのって周知の事実なのでしょうか。

カエスガエスモ図化できずに残念。

そのあと、猪倉城へ。

織豊系カモとのハナシモアリマスが、ぼくには大和の横堀城郭に近いように見えました。

内藤宗勝の兄ってアノひとですよねー。

いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

テーマ:

今日は、行きたかったけど行けなかった城 大和国平群郡 信貴山城 へと行ってきました、

 

河和国境の要地であり、いまは朝護孫子寺の空鉢堂が建っている最高所を中心に山の要所を要塞化しています。

 

特に北に延びる二本の尾根を念入りに加工しています。

案内図に 『石垣』 とあったので見てみると、工夫されたっぽい虎口があったのでここだけ摂図。

 

全体は無理なので、高安山城だけ見ようと思ったのですが、なんかイメージが違う。

 

この横堀こそまさに松永弾正っぽいではないか!慌てて摂図。

 

しかしこの、城址を分断する林道はイケませんなあ…土塁と横堀が北側最高所の、おそらく主郭にどう絡んでいくのかが分からないではないか!ハイカーはほとんどこの削道を通らずに城跡を通っていると いうのに・・・  

 

ばかなの?あたまわるいの?

 

これはアレだな、もともとの城が北側で、弾正の城が土塁囲みのⅡ郭で、その上に最終形態=織田軍の陣城である とか誰か言ってました?

 

いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

テーマ:

四月六日、城の日

 

この日にチョイスしたのは福井県嶺南地方の熊川城 (倭城じゃないよ)

宿場町としては相当なレベルで復元しています。

 

若狭の城郭を考えるうえで、主城の小浜 (後瀬山) と考えた時に、

 

東=越前方面への抑えが佐柿

 

西=丹後方面絵の抑えが高浜 このふたつは酒井期まで存続していたわけです。

 

南=近江方面の備えであるべきここがが同じようになんらかの存続の痕跡がないかなと・・・

ただ、ネットの情報ではそうたいしたことない中世山城であるような情報しかありません。

 

はたして・・・

ぼくが見た評価では、酒井期まではくだらなくても、あるていどの時期までは使われていた可能性を感じました。

そういった考察を抜きにしても、メリハリの効いたとてもイイお城です。ここを普通の連郭式山城と評価するひとは・・・まあ、イイですけど。

 

ただ・・・鹿の死骸は辟易としました・・・

 

いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

テーマ:

城好き高校生 Daina くんと越前福井・足羽山は城郭遺構か? を探る旅に行ってきました。

 

まず、越前小丸城

図面を見る限り、なんか知ってる城郭の範疇を逸脱している気がしたのですが、そんなことはなくて少し安心。

 

つづいて福井城 廊下橋につづいてその内側の門を絶賛復元中

 

それから本命の足羽山

 

そのあと、丸岡城にしようかとも思いましたが、一条山城から一乗谷館へ

一の丸の切岸と横堀 一条山城は 『詰めの城』 というよりは・・・

 

ホンマは泊りでゆっくり行きたかったのですが、ビンボーなので叶わず…詳細後日

いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

テーマ:

当初・・・

 

若狭熊川城に行くつもりでしたが、関西南部&北部の天気予報が芳しくなったため、中間の近江南部=信楽町の小川城に行くことにしました。

 

土塁囲みの礎石があるという情報を得たのは 『図解近畿の城Ⅱ』 でした。

ここには上記遺構の情報のみでなく、近江八幡時代の三好孫七郎の支城として機能したと書かれていたのです。

 

つまり 『織豊系城郭』 ・・・ナノカナ?

 

画像をご覧いただいてお分かりのように土塁内側に石積があります。

 

で、縄張図も摂ったのですが、途中で…雨・・・雨・・・雨・・・ナニモデキナクテボクハワラノイヌ

 

上記書籍では礎石建物の北が主郭とされていましたが、ドウナノカナ~

ぼくはこの画像の撮られた方向・・・礎石遺構の南が主郭ではないかと思っています。

 

もっと注目されていい城址ですね、ここ。

 

 

 

いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

AD

ブログをはじめる

たくさんの芸能人・有名人が
書いているAmebaブログを
無料で簡単にはじめることができます。

公式トップブロガーへ応募

多くの方にご紹介したいブログを
執筆する方を「公式トップブロガー」
として認定しております。

芸能人・有名人ブログを開設

Amebaブログでは、芸能人・有名人ブログを
ご希望される著名人の方/事務所様を
随時募集しております。