半兵衛後継半左衛門 | 根多帖別冊 by おしろまん

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 ツイッターのタイムラインに・・・

 半兵衛公の謎として今も残っているのが、末期に自分の後継として秀吉公に推薦したのが神子田正治だった事。どうして官兵衛どのではなかったのかな?

 こういったツイートが流れてきた。

 いや、実際ぼくも思っていたのですよ、同じことを。『播磨灘物語』 等を読んだひとは皆思うのではないでしょうか。

 先月の兵庫県立考古学資料館での講演会でも 「神子田って誰?」 と山上先生に訊いている方もいましたし。

 後世の、歴史の流れを知っている人からすれば竹中半兵衛のあと黒田官兵衛が羽柴筑前の参謀となったことが当たり前なのです。しかし、実際のリアルタイムに於いて登場する人物は彼等だけではないのです。

 結果的に不遇であったかれら=神子田や尾藤のような連中の功績まで黒田官兵衛ら勝者に持っていかれたことが多いのではないでしょうか。

 このブログでも何度か語ったように、神子田はのちに“羽柴四天王”と呼ばれる秀吉股肱の臣です。 このころすでにある程度地位を持っている神子田に半兵衛が気を遣ったということはあるでしょうね。

 「そなたのあとの軍師は誰がいいか?」という問いに対して半兵衛答えて曰く…という事だと思うのですがその設定が怪しいです。 軍師なんて役職じゃないし、役職だと彼らの思惑以前に主 (總見院) が決める事。

 そのへんの独断を総見院ほど嫌がる主君はいない。織田家の城郭統制を見れば明白です。

 官兵衛が筑前に「姫路城を差し上げましょう」といったということがまことしやかに言われていますが、織田家中の城郭統制は総見院唯独りが握っていたと、城郭研究室の多田さんも言われています。

 有名なのは置塩城など播磨で十の城を廃城にしたとき、居城の東条城がそのリストに入っていた別所孫右衛門が、抗議に姫路ではなく安土まで行ったということがありました。

 総見院があらゆる面で専制君主であったことをしめす好例だといえると思います。

 話を半兵衛臨終のときに戻しましょう。 

 「そなたが居なくては私はどうしていいのかわからない」 といった筑前に、「神子田殿がいるではないですか」 と古参の臣の名前を答えた・・・というのが実情なのではないでしょうか?

 官兵衛にたいしては、言わなくっても彼ならわかるという阿吽の呼吸があったというのはファンタジーすぎるでしょうかね。