根多帖別冊 by えすくおやじ

根多帖別冊 by えすくおやじ

えすく (=esq&絵好く) おやじです。

絵を描いていますので、そちらをメインにしたいのですが、城関係がやたらと多いブログとなっています。
お読みいただければ幸いでございます、そして・・・

ブログ内容に即した、皆様の素敵なコメント募集中でございます~


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今日はこちらに

行ってきました。姫路市史 第二巻発刊記念講演

じつは、ぶっちゃけそんなに行きたかった訳ではないのですよね。
6月の城郭研究室セミナーで申込書があったので、「どーせ抽選でハズレるろ」と思いながら書いたら当選しちまったのです。

ところが7月の大雨で会は中止。延期は無しと聞いていたのですが、要望が多かったということで今日になったということです。ただ、やはり三連休の中日ということで石の半分くらいしか埋まっちょりませんでした。

 

ところが実際に行ってみると、市史編纂の5人の先生はさすがの方々です。おひとり20分の持ち時間がとても短く感じるほどの内容の濃さ。2時間強の講演時間があっという間でした。

 

栄原先生は 「古代播磨の物産」  佐藤先生は書写山の成り立ち 「性空上人と安鎮」

久野先生は平家物語で多くの逸話を持つ 「文覚と福井荘」  馬田先生は知られざる播磨の有名人「坂本奉行所の小河玄助」  小林先生は置塩城の盛衰 「置塩に集う人びと」

 

こんなんまたやってくれんかなぁ…。一人1時間半くらいで。


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今年五回目(たぶん)の不破関越え。 三河国岡崎城に来ています。

此処の天守台の下三箇所でトレンチを入れた調査が行われ、現地説明会があったので行きました。

東照神君大権現生誕の城


本丸埋門北の石垣 10m超の高さ
田中兵部の時代、天正晩期の石垣が思ったより残っていて、丘を断ち切る空堀とのマッチ感がタイヘンよろしいです。

本丸北 清海堀城外側が石垣

 

段丘を絶つ空堀の入れ方が吉田、田原、西尾と似ていると思いました。刈谷だけちょっと違うかな。


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 19日、日曜日

 広島県福山市の備後福山城 で、国重要文化財の伏見櫓とそれに隣接する筋鉄御門の内部が公開するというので行ってきました。

 

 現存建築物の周りの樹木が建造物や景観を損ねる恐れがあるので建造物の現状を調査し、そのタイミングで一般への公開となったようです。

 

 また、広島県内で唯一の現存城郭建築として、慶長期の伏見城の移築建築物として国宝を目指すとか。

伏見櫓は三層三階 二階の梁には 『松の丸東やぐ』 という彫り込があります。

 重箱櫓に望楼、方杖、長押形、柱形・・・これだけ古風であれば慶長五年以前でいいのではないのでしょうか。そう質問すると、「たかだか5年やそこらのことを断言できない。」とのこと。

 庚子騒乱以前で間違いないと思うのだが、伏見城の戦いで松の丸は激戦地で焼けたと思われるから慶長五年以前とは言えないらしい。

 筋鉄御門も柱や梁の臍穴等から、一句であることは間違いないが、材質があまり良くないため伏見城ではないと思われているようだ。神辺城かな?

そして、以前もご紹介した鐘櫓である。「なぜこれだけ扱いが悪い(重文ではない)のか」 とお訊きしたところ、近くにいたおじさんから、

「これは築城時の建物ではないから」 と横槍が入った。そのときはそうですか、と納得したのだが…

 

当日の資料には 「築城時の建物」 と書いてあった。 このオヤジのクビに懸賞賭けてもよかですか?


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ということで、城郭セミナーの開催地 吉田城

 

田原から帰って早めに城址散策。 鉄櫓下の豊川沿い画像下右に兵庫県某町担当者Oさん発見

お話していると城郭研究界の生き神様、M先生が。「金柑丸 (本丸東の曲輪) は見事な馬出だねぇ。二の丸からの横矢も見事」 とお話を伺っているとK大K先生、H市T先生などお歴々各氏が到着。

永正二年に牧野古白が築城したというのが定説。以後豊川と東海道の結節点として機能していたのでしょう。織豊期には東参四郡十五万二千石の主城として、池田三左衛門が入城し改修。主郭部を総石垣とします。鉄櫓下の古い石垣は田原城と同じ頁岩(チャート)が主に使用されています。

↓主郭内部や豊川沿いの石塁は花崗岩が多いようで、刻印も多数みられます。、

本丸とその北の川沿いには三重櫓3、二重櫓2、二の丸にも三重櫓がありましたが、土台の櫓台ごと無くなってます。 ↓鉄櫓にある主郭の模型

何年か前に市役所建設の際に発掘が行われ、埋められた堀も発掘されたようで、何度かの改修を受けたことがわかっているようです。今年話題になった石垣の発掘は鉄櫓西下だったようですが、当時のプレス発表ほどは情報がなく残念でした。

 

で、中城研のMさんも復興櫓を 『入道櫓』 といって指摘を受けていましたが、昔はコレ『入道櫓』でしたよねえ・・・

 


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8月第一週は中世城郭研究会の全国城郭セミナーが開催されます。

 

私も近年は東京を除く隔年、福岡・岐阜と参加しております。今年は三河吉田 (愛知県豊橋市)

金曜日に仕事を終えてその日のうちに移動。土曜の朝いちばんでずっと興味のあった田原へと行ってきました。

田原は豊橋から豊橋電鉄で一時間弱。連日の猛暑により朝から汗だくになりもした。

 

城址には上記説明版があります。この縄張図は観たことがあるのですが、構造が全く判りませんでした。

実際に行ってみると、西から張り出した段丘の先端を利用した城であることがわかります。

ほぼ中世城郭のような連郭式の城です。その丘続きを空堀、そして模擬櫓のある二の丸前面の水堀で断ち切っています。その濠は丘の中腹にあることが現場ではわかります。

 

濠から正面の桜門からはほぼ総石垣になります。石材は頁岩 (チャート)。そこから日出門、四脚門、本丸正門である格子門まで、連続桝形を形造っていたのではないでしょうか。中世的な部分に織豊のパーツを組み入れたのではと考えますが、残念ながら現状では見ることがでけまへん。

 

主郭 (本丸) の北から西には現状高さ2mを越える土塁を巡らしています。南隅にも土塁があり、その下は東腰曲輪から二の丸へ至る空堀道になります。

 

天守があるとすればこの上の土塁なのでしょうか。

 

二の丸から高地続きの出曲輪西端にも土塁が残ります。空堀は埋め立てられたのでしょうか残っていません。またそこから南西には地形の高低を利用した惣門跡があります。

 

早起きして汗だくで見に行った価値のある、とてもいいお城でした。

セミナーの時間があるため、博物館の渡辺崋山作品が見れなかったのが残念でしたが。

 


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イイトシこいてライトノベルからアニメ化した ソードアート・オンライン に弩嵌りしていることは何度か述べた。

 

その3rdシーズンが今秋スタートし、そしてスピンオフ作品である ガンゲイル・インライン が先行してアニメ化されるというので視ていた。

充分視ていて楽しい、いい作品であった。

SAOと違ってリアルとゲーム内 (アバター) が違うので、声優さんが見た目の違う同一キャラを演じ分けるというプロの技を見ることができた。

 

気になったところはある。主人公レンを阻むチームが見通しのいい線路の真ん中に輪になって銃を構えている。『陣立て』 という概念が全く欠如している。ここだけではなく作中ずっと。

 

それとこれは重要なのだが、準メインキャラ・ピトの声、リアルのエルザも同じ声優だったわけだが

そのエルザの唄は別の人であった。 これは同じ人で充ててほしかった。

 

そうはいってもこのエルザの唄う作中歌なかなかヨロシイ。とくに最終話での 『rea(s)on』 死に憧れるピト=エルザが、それを止めたレンに捧げた曲のように思えたのだが…

 

ずっと彼女のことを想っているM(豪志) のためにつくった曲だったらいいな・・・とおもったりします。


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さて、静原城 南 (尾根) 城

 

北城にある説明版には 『二の丸』 と書かれていましたが、これは適切ではないでしょう。

 

俗に、明智氏が、北城を攻撃した際の陣城であるとか、北城を陥としたあとにこの静原の街道を抑えるための城だといわれています。

 

当然比高は北の城程はありませんがそれでも最下部のⅦ郭まで90mの急斜面となります。

 

 

北城から降りてきた尾根が、しばらく平坦になったあと尾根を分断する大きな堀切 h1 が顕れます。

その南、大土塁 d1 と h1 が尾根続きを遮断しています。現状で幅20m、深さ8mを測る巨大な堀切です。 d1とその北の尾根はほぼフラットとみていいでしょうか。

 

d1 より南は段状に降っていきますが、Ⅱ郭の南東虎口は石垣の痕跡がある桝形のように見え、南西は横矢の張り出しに見えます(櫓台か?)。その虎口の下 Ⅳ郭 にはこれも石造りの矩形の窪地 (池であろうか) があり、南には石段を持つ明瞭な桝形虎口、西も桝形のように見えます。

 

更に南下のⅤ郭には南斜面に石垣が14m程残り、その南東のⅥ郭は鎬積みの、ほぼ総石垣であったろう痕跡が見えます。

 

Ⅵ郭北東面 木が石垣を壊している

 

更にⅥ郭から最下部の曲輪Ⅶに至る斜面は西側に 竪堀 h2 と、それに並行する竪土塁があるように見えます。

その斜面の東側も切岸はしっかり立てていて、その下には竪堀があった痕跡もあります。多少不明瞭ながら、丹波周山城の南側、竪土塁を伴う曲輪に似ていると感じます。

 

以上、石垣や桝形の量を考えると、北城よりさらに織豊の技術が導入しているように思えます。伝承のように明智日向が関わっていたのは間違いないでしょう。

 

ただ、周山城に似た部分と、それより古い感じ (大土塁d1) など、最初から最後まで山の上の北城と一体であったように感じています。 

 


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昨年のことになりました。山城国愛宕郡 静原城。 やっと縄張図清書しましたのでアップ。

 

ここは、三好修理太夫によって築かれ、京の北東から叡山背後より近江伊香立~朽木への中継地であったのでしょう。静原集落の北、比高270mの山上が、いわゆる 「北城」

 

 

主郭Ⅰをはじめそれを囲む腰曲輪状のⅡ~Ⅵまでの曲輪は、土塁は無いがしっかり岸を立てた規格性の高い塁線が印象的です。Ⅰ・Ⅱの北東は地形的なものかもしれませんが鬼門除けの欠隅にもみえます。

更に西の高所へと続く曲輪Ⅶは北から西にかけて折れを伴った土塁が尾根筋を守っています。

その西(外)は、空堀と表現するべきかもしれませんが、あまり高低差がないため保留しています。

 

Ⅵ郭から南には更に一段の曲輪を経て高さ50m、距離100mほど南にもピークを削平したⅨがありますが、造成は甘いので図示していません。

 

Ⅴ郭から東へは四段ほどの曲輪を経て、平行に登り土塁を擁す曲輪Ⅷがあります。狭義の城域を示す象徴的な構築物でしょうか。

ここから南東へは南城まで600m程の距離まで明確な遺構は認められません。

 

一般にこの北城 (山の城) の機能は、落城後尾根の城 (南城) へと移った…と語られることが多いですが、Ⅰ・Ⅱ郭の間の石段やⅣ・Ⅶ郭の折れをみるに、織豊の特徴がみられるようにも思います。

 

とくにⅦ郭の土塁 d2 の西、一般に空堀といわれる部分の切岸中部には石列があり、往時は石垣で固め有られていた可能性があります。その空堀といわれる場所を掘れば堀が無かったのか、かなり深かったのか石垣が使われていたのかがわかるはずです。

 

そしてここがこの山の上の城の存続期を推するうえで重要になると考えます。

 

                                                   ~つづく

 

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