根多帖別冊 by えすくおやじ

根多帖別冊 by えすくおやじ

えすく (=esq&絵好く) おやじです。

絵を描いていますので、そちらをメインにしたいのですが、城関係がやたらと多いブログとなっています。
お読みいただければ幸いでございます、そして・・・

ブログ内容に即した、皆様の素敵なコメント募集中でございます~


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書き忘れていましたが…

 

三月に備後木梨の鷲尾山城に行ったとき・・・

別に早起きして朝駆けする必要はなかったのですよ、目的地がここだけなら。

 

帰りに数週間前に行って、縄張図摂れなかった備中鶴首山にも行こうと思っていたのです。

 

ところが、欲をかいてしまいました。福山市西郊の山手銀山城にも行きたくなり、折角なので寄ってしまいました。これが運の尽き。

 

ちょっと前のめりに躓き、手をついたところに鋭角の切株が…左手掌3cm切ってしまいました。

 

結局鶴首城はスルー、姫路に戻り救急外来で麻酔してもらい六針縫いました。

 

イタイ…


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もう日付が変わってしまったが、6月2日は

 

天正10年、惟任日向守が前右大臣家並三位中将父子を弑し奉った、いわゆる 『本能寺の変』 として知られているが…

 

ぼくはこの記念日設定には大いに疑問である。

 

天正十年は当然暦は旧暦、いわゆる太陰太陽暦である。

 

惟任日向は、謀反にあたり、月明かりがないことを佳としたのではないか、もしくは積極的に新月に近いこの日を選んだ・・・

 

またもっと深読みすれば、その反逆の理由が突発的であるなら、この日に月明かりがないことがかれの決断を後押しする結果になったのではないだろうか。

その日が満月やそれに近い月齢であったなら惟任日向は弑逆を決行したであろうか…

 

丹波亀山主郭

惟任日向の居城 丹波亀山城

 

二年前の某国蜂巣教誨 『真駄丸』 で本能寺の変の映像に半月が映っていて、考証の先生が「やっちまったなぁ~」 と頭を抱えたが、それほど重要なことであるとぼくは思う。

 

ということで、『本能寺の変』 記念(?)日を新暦で語るのはぼくはどうも腑に落ちない。

 

今年の総見院の命日は新暦で7月14日でなければならない。

 


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さて、昨日の記事で気になった隍のなかに並べられた石垣の用材らしい石

あとでわかりましたが、ここ↓下画像の石垣が崩れていて修復中のようです。

搦手馬出=本丸北東の角馬出の北東隅、大きく崩れています。

地震?雨? こんなところが崩れたことは知りませんでした。

 

まあ、なんていいますか・・・

天守をコンクリートから木造に作り替えるのもぼくは基本的に賛成ですし、いいことだと思います。

しかしながらこんなに大きく崩壊している場所があるのに、他のことをする必要があるのか甚だ疑問です。

 

それと、二層三階の本丸東南隅櫓

この日ついてからこの現存櫓が公開されていることを知ったのですが、着いてみると長蛇の列・・・

なんでも三階には9人しか登れないのだとか。小一時間待たされました。

 

今のコンクリ天守を取り壊し、木造天守を再建したとして・・・

やっぱこんなに待たされるようになるのでしょうか・・・まあ、無いとは思いますが・・・

 

名古屋の問題だし、地元の方々が納得いく方法でこの史跡をしっかりと維持していけるならそれはいいことだと思うのですが、上記のような問題や、あまつさえ木造天守にエレヴェーターをつけようなどという話が出るようでは全く不安といわざるを得ません。

 


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これまで幾度となく訪れた尾張名古屋ですが、名古屋城に寄ったのは三年前の織豊研小牧のとき。

朝が早かったので、絵を描くだけでした。終了後犬山に行こうか、名古屋に行こうか迷って結局どっちにも行かずに帰ってきたのは記憶に新しいところ。(ケータイとカメラの電池が切れたのであった)

そうこうしているうちにこの名古屋城の天守、建て替えのため来月には入れなくなるとの情報が。

最初で最後、今行くしか ないじゃない 

桜こそ終わっていましたが、天守・新たにできた本丸御殿・限定公開の本丸東南隅櫓と見どころたくさん。

名古屋城の有料部=二の丸より内側に入るのは初めてですが、規模がデカいのは勿論ですが、思っていたのとは違う部分が・・・

たとえば天守北側やここ=大手馬出東の空堀の幅が妙に狭かったりします。

 

画像は天守より本丸御殿と東南隅櫓

気になったのは、天守から北東をみると空堀のなかに石が並んでいます。なんだろう・・・


 


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美濃・関ヶ原  鉄道や自動車では何度も通ったが、駅に降り立つのは初めて。

ただ古戦場巡りをするわけでもなく、向かったのは駅の南西、「天下分け目の合戦を左右した」

という定説のある小早川金吾中納言が陣を布いた 松尾山 へと向かいます。

 

麓から見ると何の変哲もない低い山に見えます。ところが登ると距離もあり、山容も意外と急峻で各曲輪とも切り立った壁としております。またその眺望は

関ヶ原を掌に転がすようです。山の下から見るのとは大違いですな。

「さてどちらか勝つ方に就こうか・・・」 とわかい金吾中納言が考えたのではないかと憶測するに足る地形です。

 

しかしはたしてどうでしょうか。

主郭と思わしき頂上部の、眺望の効いた北の曲輪は土塁が廻らされて、南に大きな櫓台を伴った桝形虎口。

すこし削平があまいが土塁囲みの副郭が続き、さらにあまい曲輪が続きます。

いまは登山道が真ん中を貫いていますが、当時は西の谷筋を迂回させて主郭下の鞍部に入るルートであったと考えます。

主郭の南東と北東にも土塁囲みの細長い曲輪が東に延びています。

主郭の西にもほぼ土塁囲みの曲輪があり、その南にも削平の甘い曲輪が出城状に連なり、主郭群と西曲輪群のあいだの谷地形にも土塁があったりします。

 

慶長五年以前にも城郭が存在したと思われますが、土塁や桝形虎口の存在を考えると今の遺構はこの慶長五年のものと考えていいでしょう。

 

最近はこの慶長五年、いわゆる 『天下分け目の関ヶ原』 に関する俗説がさまざまな史料の存在により変わりつつあります。

 

西軍の当時大垣城主だった伊藤長門守が築き、守備していたところを金吾中納言から逐われたといいます。

長門守の軍はせいぜい五百ほどでしょうか。金吾一万五千には敵すべくもなかったでしょう。軍の規模と城郭の範囲を考えるに、主郭とその南が長門守の築城範囲で、その周辺の広範囲が金吾の陣として使われたのでしょう。

 

前哨戦の伏見城では西軍主力として働いた金吾ですが、徳川軍に応じこの松尾山に籠もったのではないでしょうか。それを陥とそうとした大谷行部他の軍勢に徳川軍が襲い掛かった。所謂『後詰め決戦』。

 

こんなところでしょうか。内府が、寝返らない金吾に業を煮やして鉄砲を撃ちかけたという 『問鉄砲』 が、射程距離でないことは明らかです。

4月1日にこの説明を読むとネタかと思ってしまいますね。

あと、主郭東南の櫓台下には石垣がのこります。いつのだろう…。

暖かかったので蜱はおろかアオダイショウ君まで起きてきていました。もう城季節も終わりかな…。


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今日は朝駆けして備後木梨の鷲尾山城へ行ってきました

予想以上の急峻さ…まあ結構な高さまでクルマで上がれるのですが…

天険を利用しただけかと思いきや…
石垣が結構な量残っております。また、連郭の曲輪をつなぐ土塁や、土塁囲みのトーチカ曲輪など…


とても見応えのあるお城でした。


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ちょっとの時間を無駄にせず、立ち寄った中津のまち。豊前国。

オオイタに帰る往路、中津駅に着く前に見たモノが 「もしかしてぇ~~」 と思ったのです。

 

疑問を解くために、生憎の雨の中線路高架沿いを西に。

そう、私が車窓から見たのは、通称『御かこい山』 中津城の外曲輪・総構の土塁だったのです。

↑ 上図は金谷口の解説版 なぜか南が上

 

特に城の西南隅にあたるこの線路沿い(金谷口西)とそこから直角に北へ延びる自性寺の土塁がもっともよくのこっているようです。

上画像はその自性寺の土塁の北端(広津口)。削った面は後世のもので石垣で補強しています。

高さ4mで、ほぼ総構はこの土塁で囲ってあったようです。

 

他数か所に残っているらしいがわかりませんでした。ただ、赤壁で有名な合元寺の背後は外濠(蛎瀬川)の名残の溝川に面して2m程高くなっています。

ただ、ここから幅12m(自性寺のばあい) の土塁があったとすれば寺の敷地が無くなるかもしれないので、この岸の高さと寺の塀が土塁の代わりをしていたのかもしれません。

 

まあ一部とはいえこういった遺構が残っていることは素晴らしいことであると思います。

 

モンダイは、この 『おかこい山』 の築造年代なのです。

 

もし慶長五年以前の黒田氏築造だとすれば九州はもとより全国的にも総構えの成立時期を考えるうえで貴重になってくるのではないでしょうか。

 

なぜ、慶長五年細川以降と思わないかって? ふふふ、それはヒラメイタことがあるのですよ。内緒だけどね。

 

 


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さて、日田郡永山城

 

一昨年の九州中部地震で崩壊したのですが、修復の目処がたって現地説明会が行われるとのことだったので行ってきました

ぼくは午前の部のみでしたが、午後もあったそうです。懸念していた崩壊後の放置という事態にはならずにひとまず安心いたしました。上画像は大手櫓台

下は伝天守台西側

主にこの二か所で崩壊が起こり、旧状の再現を目指して裏込め等も丁寧に施工して行ったとの担当者さんの説明。

 

裏込め石は、実際この城の石垣に使われていたわけではないが、唐津城や福岡城の技法が使われたとのこと。

 

下画像の手前、伝天守台の西面南も崩壊はしていないものの孕みが大きくなっています。

これも 「余裕があれば修復したいのですが…」 という担当者さんのお声でした。


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日曜日

某著名研究者様にお誘いを受けていた 備中松山城 大池の現地説明会に行ってきました。

備中松山城には新卒で岡山の会社に入社したとき以来です。

 

200人の方々が参加されたようで 「この場所にこんだけの人が集まったのは有史以来ちゃうか」

という声も聴かれました。

石垣造りの溜池の遺構は全国のお城の中でも最大規模だということです。この遺構がいつ造られたのかは今回の調査では解明されなかった模様。

また、谷に面した底部には、排水用の木樋が谷に向かって埋められていたことが判明しています。

前回来た時に絵に描いた小松山 (近世城郭部) 北より二重櫓と天守

 

そのあと、成羽陣屋とその上にある鶴首城に行ったのですが、結構オモシロい遺構が残っていました。 山頂主郭部北西面の石積み↓

ただ、比高が高すぎ!脹脛と足首が痛くなったのは初の経験です。


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播磨国加東郡、東条谷の念仏城に行ってきました。

東西二郭からなるお城ですが、主郭に比定される東郭はほぼ全周に横堀を廻し、北面はそこから五本の竪堀を落とし、東面は横堀が二重になります。

そして南は主郭が横矢状に突出するという特徴的な経始。

 

ここから数キロ西の屋口城も横堀を廻らした、同じ位の比高のほぼ丘城といっていいほどの山城なのですが、同じ横堀でもチョット違って見えます。

 

果たして両城ともこの横堀を、城が生きていた時期のものと考えていいのかどうか…

 

あ、摂図の途中、レーダー距離計が動かなくなり、焦ってしまい写真撮るのを忘れちまいました。

 

念仏を唱えても復活しなかったのに、帰ってきたら治ってました。

 

ナンマンダブナンマンダブ

 

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