『四天王』 仏教界 欲界の六欲天の中、初天に住む仏教における4人の守護神 持国天・増長天・広目天・多聞天
転じて、主君を護って活躍した武将のうち4人をいうことがある。
四天王と言えば、僕的には “立花四天王” 由布源五兵衛・十時摂津・高野大膳・安東紀伊介
なのですが、一般的には “徳川四天王” 酒井左衛門尉・本多平八郎・榊原小平太・井伊兵部大輔 でしょうかね…
DQN四天王なんてあります。 北の伊達左京太夫 東の森勝蔵 西の細川与一郎 南の島津亦七郎
山崎の長水城に入った可能性がある 『神子田半佐衛門』 の “羽柴四天王” は、のちに天下を取った羽柴秀吉の “四天王” にしてはどマイナーなのではないでしょうか…これは延宝元年に山鹿素行が著した 『武家事紀』 で4人が並び称された事に始まるらしいです。そのとき言われたわけではなく百年以上後に言われたのですね。
神子田半左衛門は小牧の役で筑前守の怒りを買い追放、のち九州へ参陣を希望するが、切腹を命じられる。
讃岐丸亀五万石を領した尾藤甚右衛門は、その九州の役でヘマをやらかし、改易、切腹。
消極論を献策したら、ことごとく裏目に出たようです。
宮田喜八は天正六年、播磨三木城攻め時に戦死。逸話があります。天正七年のことといわれています。
秀吉が家臣を集めて酒宴を開いていたとき、「我が家の弓矢の勢(家臣団)、昔と較べて随分盛んになったと思わんか」
と質した。多くの家臣は「三倍になりました」「五倍になりました」と述べ、有頂天の秀吉は「いやいや十倍になった」
と大笑いした。すると秀吉の参謀だった竹中半兵衛は「弓矢、昔に劣れり」と反論した。秀吉が驚いて問い詰めると、
「宮田喜八死して以来甚だ劣れり」と静かに述べた。それを聞いて秀吉もかつての勇者を思い出し、
「半兵衛の申すとおりだ」と言って嘆息を漏らしたという。(名将言行録)
戸田三郎四郎は、「これを超える勇功の士あらず」 といわれ、伊予大洲7万石を領するが朝鮮の陣で陣没。
跡継ぎなく断絶。
果たして 『四天王』 とよぶに相応しいか疑いたくなる末路の方々です。
このあたりが譜代の家臣の充実している徳川と羽柴=豊臣との差なのでしょうかねぇ。